如水は豊前(ぶぜん)、今の福岡県と大分県北部から、長政の功績で筑前(ちくぜん)、今の福岡県北部一帯の52万石の大大名となっています。

肥後に戻った清正は、第一に民(たみ)百姓のために国づくりを模索します。肥後は河川が多く、氾濫(はんらん)が多発していたので治水工事を優先しました。技術的・財政的にかなりの難事業ですが、領民が豊かになれば、領主も豊かになることを知っていたのです。

また、清正がただの荒武者でないのは、治水や築城につき、朝鮮での技術を具(つぶさ)に視察しただけではなく石工(いしく)や瓦工(かわらこう)、陶工(とうこう)などの職人に、「一緒に日本に参らぬか、士分(しぶん)として待遇する」と誘って連れてきたのでした。


この辺、やはり、清正は立派な領主になる人です。士分とは武士として、ということです。このスカウト、多くの職人が来ました。なぜならば朝鮮は明(みん)の属国なので、がちがちの儒教国です。

この儒教では肉体労働者、職人は商人と共に地位が低い、というより下賎(げせん)の者とされ、蔑視(べっし)されていたのです。今も韓国では商人・技術者・職人の地位が低く、ノーベル賞受賞者は、平和賞の金大中(キムデジュン)だけです。

アメリカ在住の韓国人子弟の学業成績や韓国国内のTOEICの結果を見ても、頭が悪い民族ではありません。それなのにこの結果は、技術者・工学系に対する世間の評価が低いからです。日本では韓国の人が「焼き肉屋をやってます」と堂々と言えますが、韓国では、そんな商売をしてるのか、と思われるのです。

清正は朝鮮での築城やインフラを見て、日本より優れている部分は公正に認め、参考にするだけではなく、職人の生活が貧しいことも知り、自分の領地で良い暮らしをさせてやろう、技術を活かして領民に益するようにしようと考えたのでした。

生まれた地の中村で、村民のために秀吉を立ち寄らせたのもそうですが、清正は偉くなっても、他者を見る目、態度はフラット、フェアであり、明朗なのです。

私のオヤジを見ているようでした。威張らず、偉ぶらず、それでいて剛毅で強い、というのは漢(おとこ)の鑑(かがみ)でもあります!

清正は領地整備に着手しますが、その間の1600(慶長5)年、大老の上杉景勝(かげかつ)と家康の争いが起こりました。清正は如水と連絡を取ります。この争いは、いずれ家康と三成の争いになる、自分たちの出番はそれから、ということで一致したのです。

清正にとって唯一の懸念は幼い秀頼(ひでより)のことでした。清正は客観的に見て、徳川の隆盛(りゅうせい)は避けられない、ならばせめて豊臣(とよとみ)家が大大名として生き残る道を選ぶべきでは、と模索します。

それを如水に打ち明けたところ、おぬしは北政所(きたのまんどころ)さま(ねね、のこと)に仕え、信頼も厚いので、秀頼君(ぎみ)を表面に立たせないようにしてもらうのだ、と助言しました。やはり、正室が強い、ならば側室の淀殿(よどどの)(信長の姪っ子)は勝手なこともできないだろうという考えでした。

それから間もなく、三成が大老の毛利輝元(てるもと)を総大将にして関ヶ原(せきがはら)の戦いとなります。この年、9月15日のことでした。清正たち先の七人は三成憎しで、家康に味方します。ただし、秀頼については特に配慮してもらう前提です。

清正自身は、もう一人、小西行長(ゆきなが)もやっつけてやる肚(はら)でした。肥後の半分は行長の領地です。始めるとなれば負けるはずがありません。この時、九州は豊後(ぶんご)、今の大分県も反三成派の細川忠興(ただおき)です。

美人のガラシャ夫人の夫としても有名でしたが、この人、おっそろしく短気でやきもち焼で、庭師がちらりと夫人を見ただけで怒り狂って斬り捨てた他、家臣、腰元の斬殺が度々あったほどです。

ガラシャ夫人、大坂で人質になっていましたが、夫が心おきなく戦えるように自害しています。この時、追い込んだのは三成でした。

行長は西軍、三成側に参戦し、負けて処刑となりました。清正、その間に難なく行長領を制圧し、次は薩摩の島津を制圧しようとしたのです。

しかし、このまま九州を清正と如水に制覇されるのはまずい、と家康は冬に入ることを口実に「待った!」をかけました。さすが、慧眼(けいがん)の家康です!

天下分け目の戦いとなった関ヶ原ですが、もし三成に人望があり、清正ら武闘派の武将たちと結束していれば、一も二もなく勝ち、豊臣の天下となっていました。

後年、ドイツと日本の軍人が両軍の布陣を見て、即座に、三成たちの勝ちとしましたが、現実は小早川秀秋(こばやかわひであき)、他の裏切りがあって負けています。

三成は文官として優秀な人でした。ただ、人を見下(くだ)す、己の優秀さを鼻にかける他、狷介(けんかい)な性分で、他者と打ち解けず、俺様気質だったのです。

親友で人格者で、やはり秀吉からの信頼が厚い武将の大谷吉継(よしつぐ)が何度もそれではいかんと助言していますが、聞き入れることなく、豊臣家の家臣団の分断を招きました。

「才あれど徳なし」の見本でした。清正たちにしてみれば、朝鮮で懸命に戦っているのに、三成は秀吉の傍(かたわら)で清正たちの活躍、貢献を報告せず、虚言まで用いて貶(おとし)めようとするのは赦せることではありません。

この三成の器量が大きく、平生から清正たち武闘派と上手に付き合っていれば、「豊臣家、亡き太閤様のために!」と一致団結し、豊臣家は安泰でした。

武闘派の参謀は如水、清正、現地の指揮官は清正、正則でうまく回るはずなのです。三成たち文官は、兵糧、弾薬をはじめ、財政面、兵站(ロジスティック)を担当すれば最高の軍団になったでしょう。

三成は対人スキルこそ低いものの、頭脳は明晰でした。それなのに、関ヶ原の直前、当日も三成の判断と応対の拙(まず)さで、精強な島津を味方にし損(そこ)ねるなど、大きなミスをしています。

清正たちとの良い関係さえあったならば、清正、如水(じょすい)、正則ら猛将が家康の軍を打ち破るであろうことは明白でした。文官派と武闘派の間の溝を、人たらしの秀吉ともあろう人が改善しなかったというのも、秀吉の油断、傲(おご)りです。

それにしても家康は老獪(ろうかい)でした。この人にとって、豊臣家の家臣団の分断は笑いが止まらなかったでしょう。頭脳戦、心理戦に勝ったというわけです。

これから九州を制覇しようという矢先、家康に制止され、清正も如水も、致し方なし、というので領国の経営に専念することにしたのです。

清正は家康より肥後一国の52万石、実質78万石の領主となりました。そうして、それまでの隈本城(くまもとじょう)から離れた茶臼山(ちゃうすやま)という丘に城を作ることにしたのです。

1601(慶長6)年4月から始まりました。本丸、二ノ丸、三ノ丸、二つの天守閣、櫓(やぐら)は49、櫓門は18、諸門29の壮大な城で、天下の名城と称された壮大な城です。また、これを機に隈本を熊本に改称しています。

この城、1877(明治10)年の西南戦争の折り、その真価を発揮し、石垣は西郷軍を阻止したのです。石垣を組んだのは朝鮮から連れてきた石工たちでしたが、上に行くほど反り返って、空も見えなくなる構造でした。完成したのは1607(慶長12)年のことで、7年もかかっています。

熊本城は巨大な城でしたが、清正は隣の島津と共に、朝鮮から明(みん)軍が来ても、びくともしないように作ったのです。さらに、大坂の豊臣家が危なくなれば、秀頼をこの城に迎え、天下を敵に回しても戦えるように、という構想もあったとされています。

家康は1603(慶長8)年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、秀頼は内大臣、清正は従四位下(じゅしいのげ)、肥後守(ひごのかみ)に任ぜられました。従四位下は、朝廷の清涼殿(せいりょうでん)、天皇のいる場に昇殿できる位階(いかい)です。

この後、家康は諸将を江戸城拡張工事に駆り出しています。清正をはじめ、黒田、細川、正則、前田、加藤嘉明など、徳川家からすれば外様(とざま)にあたる大名、20家に割り当てられ、江戸城の外郭(がいかく)の石垣を築いたのでした。

この時、現場を指揮したのは、あの力士こと森本儀太夫(ぎだゆう)です。清正の側近中の側近、重役でした。20家は江戸在住のため、屋敷も作ることになりますが、清正はその奉行には、あの才八(さいはち)こと飯田角兵衛(いいだかくべえ)で、こちらも側近中の側近、重役になっています。

清正は金に糸目をつけるな、豪勢な屋敷を作れと命じました。覚兵衛が国元の城の工事もあるし、治水、堤防作りもあり、財政が大変と訴えても、清正はそれでよし、加藤家は、有り金を全て吐き出したと世間で評判になることが大事なのだ、と人間通のところを見せています。清正、本当に賢い名君になりました!

外様たちが石垣作りを命じられた地は、湿地帯だったので地盤が良くありません。清正と儀太夫は、武蔵野(むさしの)のカヤを大量に刈り取らせ、沼地に入れて均(なら)します。次にこの空き地を子どもたちに開放して遊び場にする他、いろいろな名目で空地に屋台を出して盆踊りもやらせたのです。

他家の工事は着々と進んでいるのに、清正のところは手つかずでした。夏の終わりにやっと着手し、かなり遅れて完成させています。ところが間もなく暴風雨に襲われました。豪雨のため、他家の築いた石垣は土台から崩れ落ちる中、清正のところだけは、びくともしませんでした。

子どもたちの遊び場に開放したり、盆踊りや屋台を出させたりしたのは、そうして地盤を踏み固めるためで、清正、儀太夫、ただものではありません!

この後、清正たち外様は尾張の名古屋城の石垣作りも命じられます。家康の目的は、とにかく金を遣わせ、軍事力を弱らせることでした。清正は手を抜くことなく、費用は惜しみません。


<清正、最後のご奉公>

1605(慶長10)年4月、家康は将軍を秀忠(ひでただ)に譲り、「大御所(おおごしょ)」と称して隠退宣言をします。これには、秀頼に将軍を譲ると思っていた豊臣家は大きな衝撃を受けました。

家康は、孫の千姫(せんひめ)を秀頼に嫁入りさせて、豊臣家を安心させていますが、そうではなさそうだ、となったのです。

大御所となった家康は、13歳の秀頼を右大臣にすべく朝廷工作をして成功しますが、淀君が必要ないと言い張り、礼の挨拶にも行かず、その後の家康からの会見の誘いにも応じることなく、両家の間に冷たい空気が流れます。

このままではまずいと清正、正則は、強情で近視眼的、つまり大局を見ることができない淀殿を説得し、家康と秀頼の会見を実現させました。両人と浅野幸長(よしなが)の3人が、命に変えても守ると約束した上で会見させます。

清正は会見後に家康と話をし、くれぐれも秀頼君のことをよろしく頼みます、と念を押しました。家康が感激するほどの忠臣ぶりです。

今や飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢を誇る家康に対し、あくまで豊臣家の安泰を願う忠義を見せることは勇気のいることでした。

秀頼と家康の対面の折り、何か不穏の事態があれば家康と刺し違えるつもりで、清正は懐(ふところ)に短刀を忍ばせていました。

万一、家康に害を与えたなら、お家は取り潰しですが、そんなことはどうでもいいという覚悟でした。本物の「もののふ」とは、自身のことなど顧(かえり)みないことです。口舌の徒ではありません。家康は清正の忠誠心を賞賛しつつも、将来、完全に豊臣家を潰すとなると、清正が障害になると見抜いたのです。

清正は秀頼の会見の護衛の大役を果たした後、船で肥後に帰る途中、急に体調不良となり、城に戻った翌年、1611(慶長16)年6月24日、誕生日の日に死出の旅に出ました。享年50歳、法名は「浄池院殿永運日乗(じょうちいんでんえいうんにちじょう)大居士」でした。

清正の後を追って殉死した中に、朝鮮から連れてきて200石取りの近習にした者もいました。一説には家康が別れ際に体に良いからと渡した薬を飲み続けて毒殺されたとも言われていますが、定かではありません。

豊臣家は、清正没後、4年を経た1615(慶長20)年に家康の巧妙な策によって取り潰されています。この時も淀殿の思慮の浅さ、我の強さが災いし、彼女は悪女として名を残しました。

余談ですが、淀殿は信長の家系なのか、この時代になんと167センチの大女でした。女性の平均身長が140センチ台の頃です。そのせいで秀頼も成人後は196センチの巨人になっています。秀吉は特に小さく140センチ台なのにです。


<清正の経済力>

家康からの築城の命令に対し、費用を惜しみなく投じた清正でしたが、豪壮な熊本城の築城、数々の治水工事、おまけにその前には朝鮮への出兵という出来事があり、相当な資金が必要でした。

52万石と言っても3分の2は家臣たちの扶持(ふち)です。では、どうやって、やり繰りしていたのか?

実は清正、海外との貿易によって資金を捻出し、その運用を長崎の貿易商人の原田喜右衛門尉(きええもんのじょう)に委ねていたのでした。

さらに、熊本は温暖の地なので小麦も作らせていました。その小麦はマニラやマカオのポルトガル人、スペイン人、商人に高値で売っています。清正がパンを焼いていた説も、その小麦の質を確かめるためと言われているのです。

清正は小麦を売って、鉄砲の弾丸に使う鉛を買っています。輸入ルートを持たない他の大名らにも売っていました。

その他、日本にはない、火薬原料の硝石(しょうせき)、鉄砲の砲身内側に使う軟鋼(なんこう)、引き金に使う真鍮(しんちゅう)も輸入でしか得られず、清正は他の大名の窓口のような役割を果たし、利益をあげていたのです。

うーん、清正、やるなあ。そのへんの文官官僚など足元にも及ばないほど賢い人物でした。そうして、秀吉にひたすら忠義を尽くしたのです。出世など目先のことはどうでもよく、一途に仕え、戦場で活躍してきました。

その武名が天下に轟いても威張ることなく、人望もあります。民、百姓には優しく、身分の低い者にも蔑視することなく、人として接する人でした。

清正も正則も真っ直ぐな気性と、弱者に優しいところは、おそらく母親の愛情に加え、奉公してからの、ねねと秀吉からの愛情を注がれた賜物(たまもの)のように感じます。

清正も正則もやんちゃ坊主ですが、一本気で素直(すなお)な子でしたから、秀吉、ねねにとっても可愛かったのでは、と想像できます。おそらく、二人共、苦労人で人たらしの秀吉の言動から常に学んでいたことも窺えました。

特に清正は武勇だけではなく、さまざまな能力を持つに至っています。朝鮮で職人たちを好条件でスカウトするという思考には、賢さのみならず、慈愛もありました。

戦いの場では剛直でも、人間そのものは柔軟で開放的な人柄が見えます。虎のように強く、清く正しく、まさに名前の通りでした。

家康は自分の代では潰さず、清正の没後20年で加藤家を改易(かいえき)、取り潰しています。やはり徳川では恐れていたことを物語っていました。清正、あの世で、さぞ無念でしょう。

清正は人間の機微(きび)も知り、情愛と義理に厚かった人なので、武将以外の道でも成功できたはずです。剛毅果断、熱い情熱と理知的頭脳の持ち主であり、侠気(おとこぎ)を十二分に備えた、いい漢(おとこ)でした!



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