京都市中京区の職人の住む一画で生まれた片桐康晴の父は西陣織の糊置き職人をしていた。口よりも先に手が出るような厳しい人物であったようだが、康晴は父親を尊敬していた。康晴は高校卒業後、父の弟子となった。しかし呉服産業の不況により、35歳の時に職人をやめてホテルの警備員や電気製品の製造工、システムキッチンの組み立てなどに仕事を変えた。結婚はしていない。
父親は1995年に80歳で亡くなり、この頃から母親に認知症の症状があらわれはじめる。事件から11年前のことである。
2001年頃、母子は伏見区のアパートに引っ越した。親類の好意で、家賃6万円のところを半額にしてもらった4畳半と6畳間の部屋だった。
母親の認知症は2005年4月頃から症状が悪化し、おにぎりの包み紙を食べたり、「キツネがいる」と言って天井を叩いたりした。真夜中に外出しようとしたり、康晴が仕事に行っているあいだに徘徊して警察に保護されたりしたことも2度あった。昼夜逆転の生活になっているため、母親は真夜中の15分おきに起き出し、康晴も疲れ始めていた。
そんなことがあってか、夏ごろには介護保険を申請し、アパートの近くの施設でデイケアサービスを受け始めたが、昼夜逆転の生活は戻らなかった。康晴は献身に介護し、7月頃には仕事を休職している。
9月頃、工場勤めをしながらの介護に限界を感じた康晴は仕事を辞め、自宅で介護しながらできる仕事を探したが見つからなかった。12月には失業保険の給付もストップしている。区役所にもすでに3度相談していた康晴だったが、良いアドバイスは得られなかった。「生活が持ち直せるしばらくの間だけでも生活保護を受給できないか」と相談したこともあったが、「あなたはまだ働けるから」と断られている。(事件後、康晴は唯一この社会福祉事務所の担当者にだけは恨み事を述べた)
同じ頃、カードローンの借入も25万の限度額になった。生活費に窮するようになった康晴は、自分の食事を2日に1回にし、母親の食事を優先した。
こういった苦しい状態になると、人は普通親類なり友人なりに頼るものである。しかし康晴はそうはしなかった。康晴の心にはいつまでも父親が生前言っていた言葉が去来していたからだ。
「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」
「他人に迷惑をかけたらあかん」
「返せるあてのない金は借りたらあかん」
2006年1月31日、この日までに払わなくてはならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金はわずか7000円ほど。康晴は親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。
康晴は自宅アパートをきれいに掃除をして、親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。その間、康晴は何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけている。
最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。電気のブレーカを落とすと、康晴はリュックサックに死ぬためのロープ、出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、車いすの母と2人アパートを出た。
2人が向かったのは、三条の繁華街だった。康晴がどこに行きたいかと尋ねて、母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」と答えたからだった。1人300円の運賃を払って淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。
駅を出ると鴨川が流れている。2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。この通りの入口にそば屋がある。康晴がまだ子どもの頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。しかし手持ちの金が多くないため、食事はしなかった。
夜、母子は伏見にいた。もう戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷。次にどこへ行きたいかと聞かれて、母親が「家の近くがええな」と言ったからである。午後10時のことだった。
2月1日。厳しい冷え込み。康晴は車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。
「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」
康晴は泣きながら目を覚ましたばかりの母に語りかけた。母親は「すまんな」「ごめんよ」と泣きじゃくる息子の頭を撫で、「泣かなくていい」と言った。
「そうか、もうアカンか、康晴。一緒やで。お前と一緒やで」
「こっち来い。こっち来い」
母に呼ばれた康晴が近づいたところ、額がぶつかった。
「康晴はわしの子や。わしの子やで。(お前が死ねないのなら)わしがやったる」
その母の言葉に康晴は「自分がやらなければ・・・・」と思った。
そして意を決し、車いすのうしろにまわってタオルで母親の首を絞めた。絞め続けた後、苦しませたくないために首をナイフで切った。
康晴は遺体に毛布をかけた後、包丁と折りたたみナイフで自分の首、腕、腹を切りつけ、近くにあったクスノキの枝にロープをかけ首を吊ろうとしたが失敗した。「土に帰りたい」と走り書きしたノートの入ったリュックサックを抱いて、冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいた。
通行人によって2人が発見されるのは午前8時ごろのことである。
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、
2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
その後の記事
2016/01/05(火) 13:33:05.11
2006年に京都市伏見区で起きた認知症の母殺害事件。承諾殺人罪に問われ、有罪判決を受けた長男(62)が14年8月、大津市の琵琶湖で命を落とした。親族によると、自殺とみられる。
確定判決によると、長男は06年2月、伏見区の桂川河川敷で車いすに座る認知症の母親(当時86歳)の首を絞めて殺害した。自らも刃物で首を切り自殺を図ったが、助かった。
長男は母親の介護のために会社を辞めて収入が途絶え、生活苦に陥ったとされた。デイケアなどの介護費や約3万円のアパートの家賃も払えなくなった。役所に生活保護の相談もしたが、「まだ働ける」と断られていた。
「もう生きられへん、ここで終わりや」と言う長男に「そうか、あかんか。一緒やで」と答える母親。長男の裁判で、検察側は犯行直前の2人のやり取りを詳しく明らかにした。被告の心情に寄り添うような検察側の姿勢もあり、事件は大きく報道された。
京都地裁は06年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑・懲役3年)を言い渡した。裁判官は「裁かれているのは日本の介護制度や行政だ」と長男に同情した。長男も法廷で「母の分まで生きたい」と約束した。
それから約8年。長男はどう生活していたのか。親族らによると、長男は裁判の後、滋賀県草津市の家賃約2万2000円のアパートで1人暮らしを始め、木材会社で働いた。
部屋には母親と事件前に病死した父親の位牌(いはい)を安置する仏壇を置いたが、事件のことを口にすることはなかった。勤務先の同僚は「真面目に黙々と仕事をこなした」。近所の男性は「誰かが訪れるのを見たことがない。孤独だったのでは」と話した。
13年2月、「会社をクビになった」と親族に伝えたのを最後に、連絡が取れなくなった。自宅にも帰らず、行方が分からなくなった。親族が警察に行方不明者届を出したが、14年8月1日に遺体で見つかった。その日の朝、長男とみられる男性が琵琶湖大橋から湖に飛び降りるのを目撃した人がいたという。
父親は1995年に80歳で亡くなり、この頃から母親に認知症の症状があらわれはじめる。事件から11年前のことである。
2001年頃、母子は伏見区のアパートに引っ越した。親類の好意で、家賃6万円のところを半額にしてもらった4畳半と6畳間の部屋だった。
母親の認知症は2005年4月頃から症状が悪化し、おにぎりの包み紙を食べたり、「キツネがいる」と言って天井を叩いたりした。真夜中に外出しようとしたり、康晴が仕事に行っているあいだに徘徊して警察に保護されたりしたことも2度あった。昼夜逆転の生活になっているため、母親は真夜中の15分おきに起き出し、康晴も疲れ始めていた。
そんなことがあってか、夏ごろには介護保険を申請し、アパートの近くの施設でデイケアサービスを受け始めたが、昼夜逆転の生活は戻らなかった。康晴は献身に介護し、7月頃には仕事を休職している。
9月頃、工場勤めをしながらの介護に限界を感じた康晴は仕事を辞め、自宅で介護しながらできる仕事を探したが見つからなかった。12月には失業保険の給付もストップしている。区役所にもすでに3度相談していた康晴だったが、良いアドバイスは得られなかった。「生活が持ち直せるしばらくの間だけでも生活保護を受給できないか」と相談したこともあったが、「あなたはまだ働けるから」と断られている。(事件後、康晴は唯一この社会福祉事務所の担当者にだけは恨み事を述べた)
同じ頃、カードローンの借入も25万の限度額になった。生活費に窮するようになった康晴は、自分の食事を2日に1回にし、母親の食事を優先した。
こういった苦しい状態になると、人は普通親類なり友人なりに頼るものである。しかし康晴はそうはしなかった。康晴の心にはいつまでも父親が生前言っていた言葉が去来していたからだ。
「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」
「他人に迷惑をかけたらあかん」
「返せるあてのない金は借りたらあかん」
2006年1月31日、この日までに払わなくてはならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金はわずか7000円ほど。康晴は親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。
康晴は自宅アパートをきれいに掃除をして、親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。その間、康晴は何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけている。
最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。電気のブレーカを落とすと、康晴はリュックサックに死ぬためのロープ、出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、車いすの母と2人アパートを出た。
2人が向かったのは、三条の繁華街だった。康晴がどこに行きたいかと尋ねて、母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」と答えたからだった。1人300円の運賃を払って淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。
駅を出ると鴨川が流れている。2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。この通りの入口にそば屋がある。康晴がまだ子どもの頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。しかし手持ちの金が多くないため、食事はしなかった。
夜、母子は伏見にいた。もう戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷。次にどこへ行きたいかと聞かれて、母親が「家の近くがええな」と言ったからである。午後10時のことだった。
2月1日。厳しい冷え込み。康晴は車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。
「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」
康晴は泣きながら目を覚ましたばかりの母に語りかけた。母親は「すまんな」「ごめんよ」と泣きじゃくる息子の頭を撫で、「泣かなくていい」と言った。
「そうか、もうアカンか、康晴。一緒やで。お前と一緒やで」
「こっち来い。こっち来い」
母に呼ばれた康晴が近づいたところ、額がぶつかった。
「康晴はわしの子や。わしの子やで。(お前が死ねないのなら)わしがやったる」
その母の言葉に康晴は「自分がやらなければ・・・・」と思った。
そして意を決し、車いすのうしろにまわってタオルで母親の首を絞めた。絞め続けた後、苦しませたくないために首をナイフで切った。
康晴は遺体に毛布をかけた後、包丁と折りたたみナイフで自分の首、腕、腹を切りつけ、近くにあったクスノキの枝にロープをかけ首を吊ろうとしたが失敗した。「土に帰りたい」と走り書きしたノートの入ったリュックサックを抱いて、冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいた。
通行人によって2人が発見されるのは午前8時ごろのことである。
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、
2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
その後の記事
2016/01/05(火) 13:33:05.11
2006年に京都市伏見区で起きた認知症の母殺害事件。承諾殺人罪に問われ、有罪判決を受けた長男(62)が14年8月、大津市の琵琶湖で命を落とした。親族によると、自殺とみられる。
確定判決によると、長男は06年2月、伏見区の桂川河川敷で車いすに座る認知症の母親(当時86歳)の首を絞めて殺害した。自らも刃物で首を切り自殺を図ったが、助かった。
長男は母親の介護のために会社を辞めて収入が途絶え、生活苦に陥ったとされた。デイケアなどの介護費や約3万円のアパートの家賃も払えなくなった。役所に生活保護の相談もしたが、「まだ働ける」と断られていた。
「もう生きられへん、ここで終わりや」と言う長男に「そうか、あかんか。一緒やで」と答える母親。長男の裁判で、検察側は犯行直前の2人のやり取りを詳しく明らかにした。被告の心情に寄り添うような検察側の姿勢もあり、事件は大きく報道された。
京都地裁は06年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑・懲役3年)を言い渡した。裁判官は「裁かれているのは日本の介護制度や行政だ」と長男に同情した。長男も法廷で「母の分まで生きたい」と約束した。
それから約8年。長男はどう生活していたのか。親族らによると、長男は裁判の後、滋賀県草津市の家賃約2万2000円のアパートで1人暮らしを始め、木材会社で働いた。
部屋には母親と事件前に病死した父親の位牌(いはい)を安置する仏壇を置いたが、事件のことを口にすることはなかった。勤務先の同僚は「真面目に黙々と仕事をこなした」。近所の男性は「誰かが訪れるのを見たことがない。孤独だったのでは」と話した。
13年2月、「会社をクビになった」と親族に伝えたのを最後に、連絡が取れなくなった。自宅にも帰らず、行方が分からなくなった。親族が警察に行方不明者届を出したが、14年8月1日に遺体で見つかった。その日の朝、長男とみられる男性が琵琶湖大橋から湖に飛び降りるのを目撃した人がいたという。


