MITCHELLのプライベート・タイム

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京都認知症母殺害心中未遂事件を読む。

京都市中京区の職人の住む一画で生まれた片桐康晴の父は西陣織の糊置き職人をしていた。口よりも先に手が出るような厳しい人物であったようだが、康晴は父親を尊敬していた。康晴は高校卒業後、父の弟子となった。しかし呉服産業の不況により、35歳の時に職人をやめてホテルの警備員や電気製品の製造工、システムキッチンの組み立てなどに仕事を変えた。結婚はしていない。

 父親は1995年に80歳で亡くなり、この頃から母親に認知症の症状があらわれはじめる。事件から11年前のことである。

 2001年頃、母子は伏見区のアパートに引っ越した。親類の好意で、家賃6万円のところを半額にしてもらった4畳半と6畳間の部屋だった。

 母親の認知症は2005年4月頃から症状が悪化し、おにぎりの包み紙を食べたり、「キツネがいる」と言って天井を叩いたりした。真夜中に外出しようとしたり、康晴が仕事に行っているあいだに徘徊して警察に保護されたりしたことも2度あった。昼夜逆転の生活になっているため、母親は真夜中の15分おきに起き出し、康晴も疲れ始めていた。
 そんなことがあってか、夏ごろには介護保険を申請し、アパートの近くの施設でデイケアサービスを受け始めたが、昼夜逆転の生活は戻らなかった。康晴は献身に介護し、7月頃には仕事を休職している。

 9月頃、工場勤めをしながらの介護に限界を感じた康晴は仕事を辞め、自宅で介護しながらできる仕事を探したが見つからなかった。12月には失業保険の給付もストップしている。区役所にもすでに3度相談していた康晴だったが、良いアドバイスは得られなかった。「生活が持ち直せるしばらくの間だけでも生活保護を受給できないか」と相談したこともあったが、「あなたはまだ働けるから」と断られている。(事件後、康晴は唯一この社会福祉事務所の担当者にだけは恨み事を述べた)

 同じ頃、カードローンの借入も25万の限度額になった。生活費に窮するようになった康晴は、自分の食事を2日に1回にし、母親の食事を優先した。

 こういった苦しい状態になると、人は普通親類なり友人なりに頼るものである。しかし康晴はそうはしなかった。康晴の心にはいつまでも父親が生前言っていた言葉が去来していたからだ。

「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」

「他人に迷惑をかけたらあかん」

「返せるあてのない金は借りたらあかん」

2006年1月31日、この日までに払わなくてはならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金はわずか7000円ほど。康晴は親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。

 康晴は自宅アパートをきれいに掃除をして、親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。その間、康晴は何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけている。
 最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。電気のブレーカを落とすと、康晴はリュックサックに死ぬためのロープ、出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、車いすの母と2人アパートを出た。

 2人が向かったのは、三条の繁華街だった。康晴がどこに行きたいかと尋ねて、母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」と答えたからだった。1人300円の運賃を払って淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。

 駅を出ると鴨川が流れている。2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。この通りの入口にそば屋がある。康晴がまだ子どもの頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。しかし手持ちの金が多くないため、食事はしなかった。

夜、母子は伏見にいた。もう戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷。次にどこへ行きたいかと聞かれて、母親が「家の近くがええな」と言ったからである。午後10時のことだった。
 
 2月1日。厳しい冷え込み。康晴は車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。

「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」
 
 康晴は泣きながら目を覚ましたばかりの母に語りかけた。母親は「すまんな」「ごめんよ」と泣きじゃくる息子の頭を撫で、「泣かなくていい」と言った。

「そうか、もうアカンか、康晴。一緒やで。お前と一緒やで」 

「こっち来い。こっち来い」

 母に呼ばれた康晴が近づいたところ、額がぶつかった。

「康晴はわしの子や。わしの子やで。(お前が死ねないのなら)わしがやったる」

 その母の言葉に康晴は「自分がやらなければ・・・・」と思った。
 そして意を決し、車いすのうしろにまわってタオルで母親の首を絞めた。絞め続けた後、苦しませたくないために首をナイフで切った。

 康晴は遺体に毛布をかけた後、包丁と折りたたみナイフで自分の首、腕、腹を切りつけ、近くにあったクスノキの枝にロープをかけ首を吊ろうとしたが失敗した。「土に帰りたい」と走り書きしたノートの入ったリュックサックを抱いて、冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいた。

 通行人によって2人が発見されるのは午前8時ごろのことである。

06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、
2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

その後の記事

2016/01/05(火) 13:33:05.11

2006年に京都市伏見区で起きた認知症の母殺害事件。承諾殺人罪に問われ、有罪判決を受けた長男(62)が14年8月、大津市の琵琶湖で命を落とした。親族によると、自殺とみられる。

確定判決によると、長男は06年2月、伏見区の桂川河川敷で車いすに座る認知症の母親(当時86歳)の首を絞めて殺害した。自らも刃物で首を切り自殺を図ったが、助かった。

長男は母親の介護のために会社を辞めて収入が途絶え、生活苦に陥ったとされた。デイケアなどの介護費や約3万円のアパートの家賃も払えなくなった。役所に生活保護の相談もしたが、「まだ働ける」と断られていた。

「もう生きられへん、ここで終わりや」と言う長男に「そうか、あかんか。一緒やで」と答える母親。長男の裁判で、検察側は犯行直前の2人のやり取りを詳しく明らかにした。被告の心情に寄り添うような検察側の姿勢もあり、事件は大きく報道された。

京都地裁は06年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑・懲役3年)を言い渡した。裁判官は「裁かれているのは日本の介護制度や行政だ」と長男に同情した。長男も法廷で「母の分まで生きたい」と約束した。

それから約8年。長男はどう生活していたのか。親族らによると、長男は裁判の後、滋賀県草津市の家賃約2万2000円のアパートで1人暮らしを始め、木材会社で働いた。

部屋には母親と事件前に病死した父親の位牌(いはい)を安置する仏壇を置いたが、事件のことを口にすることはなかった。勤務先の同僚は「真面目に黙々と仕事をこなした」。近所の男性は「誰かが訪れるのを見たことがない。孤独だったのでは」と話した。

13年2月、「会社をクビになった」と親族に伝えたのを最後に、連絡が取れなくなった。自宅にも帰らず、行方が分からなくなった。親族が警察に行方不明者届を出したが、14年8月1日に遺体で見つかった。その日の朝、長男とみられる男性が琵琶湖大橋から湖に飛び降りるのを目撃した人がいたという。

我が子の臓器を提供した両親の手紙(全文)

Aちゃんが体調を崩してからお父さんとお母さん辛(つら)くてね。

 毎日毎日神様にお願いしました。目に見える物全てに、お山に行ってお願いして、川が見えればお願いして、海に向かっても……いろいろ神社なんかも夜中に行ってお願いしました。最後には落ちている石ころさんたちにもお願いしたんだよ。

 でもね、どうしてもAちゃんとお父さんを入れ替えることはできないんだって。もう目を覚ますことはできないんだって。もう長くは一緒にいられないんだって。

 お父さんとお母さんは辛くて辛くて、寂しくて寂しくて泣いてばかりいたけれど、そんな時に先生からの説明でAちゃんが今のお父さんやお母さんみたいに涙にくれて生きる希望を失っている人の、臓器提供を受けなければ生きていけない人の希望になれることを知りました。

 どうだろう?Aちゃんはどう思う?いやかな?

 お父さんやお母さんは悩んだ末、Aちゃんの臓器を困っている人に提供することを決めました。もしいやだったらゴメンね。

 お父さんもお母さんも臓器を必要としている人がたくさんいて、その人を見守る人たちがどんなにか辛く苦しい思いをしているか知っています。もしその人たちにAちゃんが役に立てるなら、それは素晴らしいことだと思ったんだよ。

 一人でも人の命を救う。心を救う。ってすごく難しいことでお父さんもできるかわからない。だけど、とても素晴らしく、尊いことなんだよ。

 もしAちゃんが人を救うことができたり、その周りの皆さんの希望になれるとしたら、そんなにも素晴らしいことはないと思ったの。こんなにも誇らしいことはないと思ったの。Aちゃんが生きた証(あかし)じゃないかって思ったの。今のお父さん、お母さんみたいに苦しんでいる人が一人でも笑顔になってくれればどんなに素晴らしいだろうと思ったの。

 そして、その笑顔はお父さんやお母さんの生きる勇気にもなるんだよ。

 いつも周りのみんなを笑顔にしてくれたAちゃんだから、きっとまた世界の笑顔を増やしてくれるよね?

 命は繫(つな)ぐもの。お父さんとお母さんがAちゃんに繫いだようにAちゃんも困っている人に命をつないでくれるかな?

 願わくば、お父さんとお母さんがAちゃんにそうしたように、AちゃんもAちゃんが繫いだその命にありったけの愛を天国から注いでくれると嬉(うれ)しいな。

      お父さんより

     ◇

お母さんを

もう一度

抱きしめて

そして

笑顔を見せて

      お母さんより

一番かわいい娘と一緒に逝こう asahi webより

6月15日、東京地裁の718号法廷。濃紺のワンピースに身を包んだ被告(37)は、目を潤ませながら法廷に立った。罪名は、当時3歳だった長女への殺人未遂罪。

 裁判長「起訴状の内容に間違いはありませんか」

 被告「ありません」

 法廷で、事件までの経緯が明らかになった。

 被告は趣味のスノーボードを通じて夫と知り合い、2009年に結婚。11年に長女が生まれた。まもなく、東京都大田区に新築のマンションを購入した。

 ただ、夫は九州への転勤が決まり、12年1月、マンションの新居へは母娘の2人で入ることになった。

 生活は順調だった。4月には育児休暇が明けて仕事にも復帰した。娘は耳鼻科に通うことはあったが、同年代の子と比べてもよく成長していた、と被告は振り返る。

 しかし、13年6月ごろから、被告の体調に変化が生じる。

 被告「ピリピリとのどが痛み、全身にしびれがありました」

 専門のクリニックへ行くと、化学物質過敏症などと診断された。化学物質が原因で、頭痛やめまいなどが起こる症状のことだ。ただ、厚生労働省によると、専門家の間でも見解が割れていて、病気としてはっきりしない面が多いという。

 弁護人「クリニックでは何と?」

 被告「『娘も将来、同じ病気になるか』と尋ねたら、その可能性はあると言われました」

 以来、オーガニックの食材を選ぶなど、被告は娘の食事に細心の注意を払うようになった。同時に、被告は症状の原因は家にあると考え、マンションから近い実家に戻ったり、夫と相談して別の賃貸アパートに引っ越したりした。しかし、症状は改善せず、夫が東京に戻ってくるのに合わせて、昨年4月、マンションに戻った。

 弁護人「そのころ、体調は」

 被告「悪化して、吐き気がしたり、ご飯が食べられなかったりしました」

 弁護人「家事は」

 被告「掃除は母に手伝ってもらいましたが、ごはんは自分で作っていました」

 弁護人「外食はしなかったのですか」

 被告「娘の健康を考えると、添加物のあるものを与えたくなかったので」

 このころ、被告は周囲のすすめで精神科にも通い始めていた。抑うつ剤や睡眠薬を処方されたが、体重は1カ月で20キロ増え、夜中に徘徊(はいかい)するようになった。体調は悪くなる一方だった。

 夫との仲も険悪になっていく。被告はマンションの買い替えを懇願したが、マンション以外で暮らしても症状が改善しなかったことから、夫は買い替えに反対した。また、被告が規則正しい時間に娘に食事をとらせようとするあまり、食欲を示さない娘の口に機械的にスプーンを入れていたことに、夫は不快感を抱いていた。

 そして事件前日の8月9日。夫側の両親と、被告の両親がそろい、6人で今後について話し合った。

 被告「その場で私が『死にたい』と言うと、夫は『そんなこというと、病院か警察行きだよ』と。私は本当にもうやってけないかも、と思いました」

 夫と双方の両親は、週明けに被告を精神科の病院に入院させようと話し、解散した。

 そして、翌日。

 日曜日で仕事が休みだった夫は娘を連れ、午前中、近くの羽田空港に飛行機を見に行った。昼前に2人が帰宅。娘の食事が始まった。いつものように、機械的に食事を娘の口元に運ぶ被告。一方、夫の食事はなかった。夫は怒った。

 「もう何もしなくていい。俺のごはんも、娘のごはんも、もう作らなくていい」。そう言って、夫は昼食を食べに外出した。家には被告と娘が残された。

 被告「好きで結婚したはずなのに、夫は何も信じてくれない。私はもういらないんだと思いました」

 一番かわいい娘と一緒に逝こう――。被告はキッチンから包丁を持ち出し、リビングで寝ていた娘のもとへ向かった。仰向けで寝ている娘の横に座り、包丁を振り下ろした。娘の顔は見られなかった。

 「チック、いや」。娘の泣き声が聞こえた。娘は日ごろ、注射などの際に同じ言葉を口にしていた。

 小さな両手で包丁を押さえようとしているのもわかった。何回か胸や背中を刺したが、泣き声はやまない。枕に敷いてあったタオルを、娘の首に回した。締め付けると、次第に娘はぐったりした。「死んじゃった」と思った。

 今度は被告自身の腹を刺した。しかし、10回ほど刺しても死ねない。首をつろうと携帯電話のコードやベルトを使うが、途中で切れてしまう。そうしているうちに夫が帰宅。すぐに110番と119番をし、被告も娘も命を取り留めた。

 被告「大変身勝手だったと思います。娘には、本当に、本当に、申し訳ないと思っています」

 娘の傷は浅く、全治2週間だった。ただ、3歳の心にも傷が残った。事件後、娘は「ママ」という言葉を発しなくなったという。

 「信じていた母親に裏切られたからかもしれない」。夫は法廷でそう語った。そして、被告と離婚協議中であることを明かし、「私と娘の人生には、今後一切関わってほしくない」。親権は自身が持つ、と述べた。

 弁護人「ご主人から離婚や親権のことを言われ、どう思いましたか」

 被告「当然のことだと思います」

 弁護人「今後は、娘のためにどうすべきだと思いますか」

 被告「娘が早く幸せになって毎日を過ごせるよう、遠くから見守ることが一番だと思います」

 被告は娘が望まない限り面会を求めないという。ただ、数カ月おきに、娘の写真を送ってもらうことを離婚の条件であげている。

 一方で、体調不良の原因については、今もマンションが原因だと思っている、と明かした。

 検察側は「長女に殺される理由はなく、動機は身勝手だ」として懲役5年を求刑。弁護側は「体調不良で精神的にも不安定だった。反省もしている」と執行猶予付きの判決を求めた。

 そして、最終意見陳述。

 被告「娘に与えた心の傷が、心配で心配でなりません。娘には、世界で一番幸せになってほしいと思います」

 そしてこう続けた。

 被告「私と娘の命を救ってくれた主人に、ありがとうと言いたいです」

 6月19日。前田巌裁判長は、被告に懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡した。「動機は身勝手」と断じつつ、「精神的に弱り、家族の中で孤立感を募らせていた」と指摘した。一方で、被告の体調不良の原因については、明言を避けた。

 しかし、なぜ娘の傷は浅かったのか。「実の娘を殺害することについてのためらいが生じ、無意識のうちに手加減を加えたものと考えられる」。前田裁判長は、そう付け加えた。(塩入彩)

「大好きだよ」 19歳が誓った言葉

宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことば
asahi web より

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

 あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 そんな体験から今日で4年。

 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。

 しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

 震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

 最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。

正月の過ごし方

皆さんは正月いかがお過ごしですか?私は毎年、年末年始は
ひとり映画館。今回は
オール・ユー・ニード・イズ・キル
トランセンディス
イントゥ・ザ・ストーム
ローン・サバイバー
Her/世界でひとつの彼女
渇き
チョコレートドーナツ
グランド・ブダペスト・ホテル
くじけないで
ペコロスの母に会いに行く
トランスフォーマー/ロストエイジ
円卓 
 他に旧作
人生劇場 飛車角と吉良常(鶴田浩二・高倉健)
兄貴の恋人(加山雄三・内藤洋子)
俺たちの荒野(黒沢年男・酒井和歌子)
 を鑑賞
ペコロスと昨年末の上映会のかぐや姫の物語が双璧でした。
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子供を殺害した父への判決  asahi web より

 就寝中の息子の胸を刃物で刺し、命を奪った父に告げられたのは、執行猶予付きの判決だった。東京地裁立川支部で先月下旬にあった裁判員裁判。裁判長は「相当やむを得ない事情があった」と述べた。ともにプラモデル作りが好きで、二人三脚で大学受験に臨むほど仲が良かった父子に、何があったのか。

 三男(当時28)への殺人罪に問われたのは、東京都八王子市の父親(65)。黒のスーツに青紫のネクタイを締め、法廷に現れた。事件までは、監査法人の会社員。同僚からは「まじめ」「誠実」と思われていた。

 事件の経緯を、検察の冒頭陳述や父親の証言からたどる。

 約10年前、三男は都立高2年のとき、精神の障害と診断された。通信制高校に移るなどしたが、浪人生活を経て大学にも進学。充実した学生生活を送った。卒業後はガス会社に就職した。

 しかし、次第に変化が生じる。仕事がうまくいかず、職を転々とした。「自分をコントロールできない」と本人も悩んでいた。昨年夏ごろから家族への言動が荒くなり、次第に暴力も始まった。

 今年5月下旬、母親が三男に蹴られ、肋骨(ろっこつ)を骨折。「これから外に行って人にけがさせることもできる」。三男はそんな言葉も口にした。

 父親は、警察や病院、保健所にも相談を重ねた。

 警察からの助言は「入院治療について、主治医と話し合って。危害を加えるようでしたら110番して下さい」。保健所でもやはり、「入院について主治医と話して下さい」。

 一方、主治医の助言は、「入院してもよくなるとは言えない。本人の同意なく入院させれば、退院後に家族に報復するかもしれない」。ただ、「警察主導の措置入院なら」と勧められたという。

 措置入院とは、患者が自身や他の人を傷つける恐れがある場合、専門の精神科医2人が必要と認めれば、本人や保護者の同意がなくても強制的に入院できる制度だ。

 主治医は法廷で、「家族の同意によって入院させた場合、三男は入院についてネガティブに考えると思った。警察主導の措置入院なら、本人の認識を変えるきっかけになると思った」と証言した。

 ただ、警察は措置入院に前向きではなかった。被告が相談に行っても、「措置入院には該当しないのでは」との返答。三男は暴れても、警察が駆けつければ落ち着いたし、警備業のアルバイトを続けられていたことなどが理由だった。

 いったい、どうすればいいのか――。父親は追い詰められていった。

 6月6日、事件は起きた。

 この日、父親は1人で病院に行き、主治医に三男の入院を相談。ソーシャルワーカーを紹介されたが、入院については、あくまでも警察主導の措置入院を勧められた。

 午後8時半。妻からメールが入る。妻が誤って三男のアルバイト先の仕事道具を洗濯してしまい、三男が「殴る蹴る以上のことをしてやる」と怒鳴っている――。そんな内容だった。

 父親は急いで帰宅した。暴れる三男を目にして、110番通報した。

 駆けつけた警察官に、父親は再度、措置入院を懇願した。三男はこの日、両親の顔を殴るなど、いつも以上に暴力を振るっていた。しかし、三男は警察官が来てからは落ちついた。「措置入院にするのは難しい」。警察官は言った。

 警察官が帰ると、三男は就寝し、父親は風呂に入った。

 弁護人「風呂では、何を考えた?」

 父親「主治医や警察に入院をお願いしたが、最終的には措置入院もできなかった。今の精神医療の社会的仕組みでは、私たち家族は救えないのではないか。そう思いました」

 弁護人「今後ますます暴力は激しくなると」

 父親「はい。三男は『今度は刃物を使うから覚悟しろよ』と言っていた。今度は刃物を振り回すと思った。私は逃げられても、妻はひざが悪いので逃げられない」

 一家は当時、両親と三男、三男の妹である長女の4人暮らし。ただ、母親も長女も三男の暴力におびえ、追い詰められていた。

 弁護人「家族で逃げることは考えなかったのですか」

 父親「家を出ても、三男は私の勤務先を知っている。職場に怒鳴り込んでくると感じました」

 弁護人「警察に被害届を出すことは」

 父親「警察に突き出すことは、三男を犯罪者にしてしまうこと。その後の報復を考えると、それは出来ませんでした」

 父親は法廷で、「三男は自分が犯罪者になることを恐れていた。家族がそうさせることはできなかった」とも話した。

 7日午前3時前。父親は風呂を出ると、2階にあった出刃包丁を持ち出し、三男の部屋に向かった。寝ている三男の横に中腰で座り、左胸を1回、思い切り突き刺した。

 父親「わたしは、妻と娘を守る義務がある。警察や病院で対応できることには限度があるが、暴力を受ける側は悠長なことは言っていられない。私は夫として、父として、こうするしか思いつきませんでした」

 刃物を胸に突き刺すと、血が流れ出る音がした。しばらくして、手を三男の鼻にかざした。息は止まっていた。

 父親はそのまま、三男に寄り添って寝た。

 弁護人「何のために添い寝を」

 父親「三男とは、もとは仲が良かった。三男のことを考えたかった」

 父親は法廷で、何度か三男との思い出を口にした。

 ともにプラモデルが好きで、かつて三男は鉄人28号の模型を自分のために作ってくれた。大学受験の時には一緒に勉強し、合格通知を受け取った三男は「お父さん、ありがとう」と言った。大学の入学式、スーツ姿でさっそうと歩く三男をみて、とてもうれしかった――と。

 弁護人「あなたにとって、三男はどのような存在でしたか」

 父親「友達のような存在でした」「三男にとっても、私が一番の話し相手だったと思います」

 朝になり、父親は家族に事件のことを話さぬまま、警視庁南大沢署に自首した。

 家を出る前、「主治医に相談に行かない?」と尋ねた妻に、「行くから。休んでて」とだけ告げたという。

 母親「主人は子どもに向き合い、とにかく一生懸命でした」

 証人として法廷に立った母親は、涙ながらに語った。

 母親「私は三男と心中しようと思ったが、できませんでした。警察などに何回も入院をお願いしても、できなかった。どうすれば良かったか、私にはわかりません」

 一方で父親は、事件から半年を経て、いまの思いをこう語った。

 父親「今から思えば、三男を家族への暴力行為で訴え、世の中の仕組みの中で更生の道を歩ませるべきでした。三男の報復が怖くても、三男のことを思えば、そのように考えるべきでした」

 地裁立川支部は11月21日、父親に懲役3年執行猶予5年を言い渡した。検察側の求刑は懲役6年だった。

 裁判長「被害者の人生を断ったことは正当化されないが、相当やむを得ない部分があったと言わざるを得ない。被告は、被害者の人生の岐路で、父親として懸命に関わってきた」

 ただ、こうも続けた。

 裁判長「家族を守ろうとしていたあなたが、最終的には家族に最も迷惑をかけることをした。これからは、もっと家族に相談するよう、自分の考えを変えるようにして下さい」

 父親は直立し、裁判長の言葉を聞いた。

 法廷には、母親のすすり泣く声が響いていた。

宮崎駿監督アカデミー名誉賞受賞時の会見より要旨 (毎日webより)

 −−名誉賞受賞の感想を。

 一番驚いたのは、(同じく名誉賞を受賞した女優)94歳のモーリン・オハラさんに会えたこと。これが今日一番すごいことだ。

 −−功績をアカデミー賞から認められたことについて。

 (米映像制作会社「ピクサー」創作責任者で友人の)ジョン・ラセターさんの陰謀ではないか。相当運動したに違いないと思っているが、分かりません。

 −−これまで授賞式に参加されなかったが、今回出席した理由は。

 ラセターの脅迫です。怖いんです。これは行くしかないという感じだった。本当に友情が厚いんです。なんでこんなに友情が厚いんだろうという男です。だから、仕方ない。

 −−監督にとって、アカデミー賞とは。

 本当のこと言っていいなら「関係ない」。アカデミー賞はモーリン・オハラとかそういう人たちのものであって、アニメーションをやろうと思った時、アカデミー賞は目標でもないし、視界に入ってもいなかった。

 −−今後の制作活動は。

 大きなものは無理だが、小さいものでチャンスがある時はやっていこうと思っている。もう、無理してもダメなんで。できる範囲でやっていこうと。(宮崎監督が館長を務める)「三鷹の森ジブリ美術館」があるので、お金に関係なしに公開できる。(短編映画は)もう9本できている。訪問客はみんな見てくれるので、結構お客さんの多い映画になる。売れなくていいわけですから、こんないいチャンスはない。ジブリ美術館の短編は作れる限り作っていく。

 −−自身は「現役」だと思いますか。

 現役ではないでしょう。現役ならもう少し仕事をやる。あまり自分を叱咤(しった)激励しようとしても無駄だから、できる範囲でということでいいと思う。今日、(名誉賞受賞者4人の中で最年少で)73歳なんて小僧だなと思った。引退とかあまり声を出さず、やれることはやっていこうと思う。

 −−授賞式そのものの感想は。

 横にラセターが座っていて、握手したり、ハグしたり、いろんなことされて。あまり得意じゃないんですよ。でも、できるだけにこやかにやったつもり。「氷の微笑」みたいに(と眉を上げる)。

 賞ってね、もらえないと頭にくる。もらえると幸せになるかというと、ならないんですよ。何も関係ない。仕事が突然良くなるとか、そういうことはない。もうとっくに終わった仕事ですから。

 結果を一番よく知っているのは自分だ。あそこがダメだったとか、失敗したとか、だれも気がつかないけれど、あそこが傷だとか。そういうものを山ほど抱えて終わる。お客さんが喜んでくれたと言っても、その客は本当のことを分かっていないだろうとか、そのぐらいの邪推をするような人間なんです。だから、自分で映画を終わらせなきゃいけない。賞をもらうとうれしいだろうと思うけど、賞によって決着はつかない。むしろ、それなりにほんろうされるから、ドキドキするだけ不愉快。僕、審査員には絶対ならないつもり。順番は絶対につけない。

 −−高齢の名誉賞受賞者と交流して、もう一回長編に挑む気持ちには?

 そういう上手な結論には行きません。その部分は変わらない。自分に何ができるか、何がやるに値するか、面白いか、ということが一致しないといけない。制作現場を作っていく条件がある。金だけでなく人材の条件を満たすことができるかどうか、考えながらやらないといけない。

 美術館の短編は10分だが、世界を作るという意味では(映画)1本分のエネルギーがいる。自分のやりたいことが、同時にスタッフにとっても「一度はやって意味がある」という仕事でなければいけない。なんとなくワーッと手伝って、終わってはいけない。

 −−日本人の名誉賞受賞は黒澤明監督以来2人目という点について、感想を。

 黒澤さんも、もらいたくなかったんじゃないかな。今までのことを功労しますなんていう賞はもらってもしょうがない。映画を作るって、もっと生々しいものだと思う。ご苦労さん賞でしょ、重いけど。賞で何も変わらないんですよ。ラセターたちの友情は感動的で、本当に忠実な友に出会えたのが幸い。

 −−ラセター氏は表彰式で、ウォルト・ディズニーと並べて業績を評価したが。

 ひいきの引き倒しだと思う。昨日訪れた、ディズニーの(アドベンチャーパークの中にある「カーセイ・サークル」という)クラブで、若いアニメーターたちの古い写真を引き伸ばして飾ってあった。時代を切り開こう、自分たちの時代を作ろうと思っている人間たちが集まっている、という感じが写真にある。新しい、意味のあることをしようという思いで仕事をしていた。それには本当に敬意を感じる。写真を見ると、いい連中だなと。そういう意味では、僕らも共通する瞬間を何度か持っている。

 −−名誉賞に価値は感じないのですか。

 あらゆる賞に対してそうなので、何もこれだからではない。賞は相手にされないと悔しいし、もらって幸せかというと、それも幸せではない。なければ一番いい。

 −−(宮崎監督の授賞式スピーチを引用して)「50年間、戦争がなかったことが幸せだった」と……。

 違います。戦争でもうけたりはしたけど、とにかく戦争はしていなかったと言った。(鈴木敏夫)プロデューサーが飛行機で来る途中、そんな話をしたんで、付け足さなければと思った。正確に言うと70年間近く(戦争を)していない。

 戦前にアニメーションをやりたいと思った人たちは、苦労した。戦時中に企画が立てられてた「桃太郎の海鷲」(1943年公開)は力作だが、できた時は負けにひんし、(終戦直前に封切られた続編は)すぐにお蔵入り。この人たちは戦争が終わっても仕事がなくてアニメーションを続けられなかった。

 私の直接の師匠、大塚康生(やすお)さんは、10歳年上で、厚生省の麻薬Gメン(取締官)を二十何歳までやって、どうしてもアニメーションがやりたくて、(56年に)東映動画に入った。彼は(戦争で制作期間の)何年間かを失っている。その後、「ルパン三世 カリオストロの城」(79年公開)を一緒にやったが、戦争は、戦時中でなくてもいろんなところに影を残している。

 僕は「鉄腕アトム」が始まった63年に(東映動画に入社し)アニメーターになった。64年に(東京)オリンピック、そして高度成長が始まっている時だ。いろいろあってもアニメーションの仕事を続けてこれたのは、日本が70年近く戦争をしなかったことがものすごく大きい。特にこのごろ、ヒタヒタと感じます。

 もちろん朝鮮戦争の特需でもうけて経済を再建したが、戦争をしなかったのは、日本の女たちが戦争をしたくないという気持ちを持って強く生きていたからだ。原爆の体験を子供たちまで伝えてきた。(54年に)ゴジラ映画が出てきた時に、怪獣モノを見に行く気楽さはなかった。水爆実験の結果、ゴジラがやってくるという、ただ事ではないインパクトを感じていた。戦争と原爆がつながる記憶をもっていたから、戦争をしてはいけないという思いがあり、それが国の中心に定まっていたと思う。70年すぎるとだいぶ怪しくなってきた。やっぱり自分が50年この仕事を続けてこられたのは、いろいろあっても日本が経済的に安定していた。安定していたのは、戦争しなかったからだと思う。

 −−アカデミー賞の審査員資格のある新規会員に選ばれていますが、受諾しますか。

 あれは黙って静かにしていれば、立ち消えになる。だって(審査員になったら)いっぱい映画見ないといけないじゃないですか。嫌ですよ、そんなの。

 −−若い日本のアニメーターにエールを。

 貧乏する覚悟でやれば、なんとかなりますよ。僕らはアニメーターになった時、漫画映画と言っても仕事自体、認知されていなかった。目の前に広々した道などあるはずがない。アニメの仕事は何もないところを歩くことになるから、その覚悟で一生懸命やるしかない。大丈夫ですよ、今はどの仕事も安定しないからみんな同じだ。

 −−(鈴木プロデューサーが質問)受賞、うれしくないんですか。もうこれが最後ですよ。米国でアカデミー賞名誉賞を頂くともう他の賞は出ませんよ。

 いいよ、それで。長編を作って、お金かけてたなら、死にもの狂いで回収しなければと思うが、もうそうじゃない。

 −−オスカー像はどこに飾りますか。

 飾らないです。家族には1回見せますけど。鈴木さんの部屋? アトリエ? ジブリ美術館に寄付するという手もあるね。

 −−できる範囲で仕事を続けるというが、生涯やっていくのか。

 そうです。絵を描くことをやめましたということにはらない。紙と鉛筆(に関わる仕事)は、絵の具も絵筆もペンもインクも含めてずっとやっていく。できなくても、滔々(とうとう)とやろうとするだろう。そういうふうに生きようと決めている。それは仕事になるか、ただの道楽になるか、判断つかない。美術館の仕事で半年ぐらいバタバタしたが、「仕事か」と言われると「仕事でこんなことできるか」と思う。「道楽か」と言われると、「仕事です」と。よく分からない領域にいる。

ノーベル平和賞受賞のマララ・ユスフザイさん(17)受賞決定スピーチ全訳

ノーベル平和賞の受賞者に選ばれて光栄です。この貴い賞をいただけて光栄です。パキスタン人として初めて、初の若い女性、初の若者の受賞者となれたことを誇りに思います。

 インドのカイラシュ・サティアルティさんと受賞することは本当に幸せです。子供の権利のため、児童労働に反対する彼の素晴らしい活動は私の刺激となります。多くの人々が子供の権利のために働き、私は孤独ではないことを幸せに思います。彼は本当に賞にふさわしい人で、彼とともに受賞できることは名誉です。

 私たち2人のノーベル賞受賞者は、1人がパキスタン、1人がインド出身です。1人がヒンズー教を信じ、もう1人はイスラム教をあつく信仰しています。これは、パキスタンとインド、異なる宗教の人々に愛のメッセージとして届きます。私たちは互いに支え合っています。

 肌の色、言語、信仰する宗教は問題ではありません。互いに人間として尊重し、尊敬し合うべきです。私たちは子供の権利、女性の権利、あらゆる人権のために闘うべきです。

 まず始めに、家族、親愛なる父母の愛情と支援に感謝します。父がいつも言うように、父は私に特別なものを与えてくれたわけではありません。ただ、父は私の翼を切り落としませんでした。

 父が私の翼を切り落とさず、羽ばたかせて夢を達成させてくれたことに感謝しています。女の子は奴隷になることが当然ではなく、人生を前に進める力があることを世界に示してくれたことについてもです。女性はただの母親、姉や妹、妻であるだけでなく主体性を持ち、認められるべきです。女の子は男の子と同じ権利を持つのです。たとえ私の弟たちが、私が良く扱われているのに彼らはそうでないと思ったとしても、構わないのです。

 受賞を知った経緯について話します。私は化学の授業で電気分解を学んでいました。10時15分頃だったと思いますが、既に賞の発表は終わっていたし、受賞するとも思っていませんでした。10時15分になった時、受賞できなかったと確信しました。でもその時、突然女性の先生が教室に入ってきて私を呼び、「大事なことを話します」と言いました。そして、「おめでとう。ノーベル平和賞の受賞が決まったよ。しかも、子供の権利のために闘っている素晴らしい人と一緒にね」と言われ、とても驚きました。

 感じたことを表現することは時々難しいのですが、私は本当に光栄に感じ、より力強く、勇気を得た気がしました。なぜならこの賞は、身につけたり部屋に飾ったりするための単なる金属やメダルではないからです。私が前に進むため、私自身を信じるため、人々が私の運動を支援してくださっていることを知るための、励みとなるのです。私たちは団結しているのです。私たちは皆、全ての子供が良い教育を受けられることを確実にしたい。だから、この賞は私にとって本当に素晴らしいものなのです。

 でも受賞したことを知った時、学校にこのままいようと決めました。むしろ、学校の時間を最後まで過ごそうと、物理の授業、英語の授業に出席しました。いつも通りに過ごしました。先生や友達の反応はとてもうれしかったです。みんな私のことを誇りに思うと言ってくれました。私は学校、先生、友達の愛や支援に本当に感謝しています。みんなが私を勇気づけ、支援してくれます。私は本当に幸せです。

 ノーベル賞が試験に役立つわけではなく、私の努力次第なのですが、それでも、みんなに支えられていることは幸せなのです。

 私はこの賞を受賞しますが、これで終わりではありません。これは私が始めた活動の終わりではなく、まさに始まりなのです。私は全ての子供たちが学校に行くのを見たいです。いまだに5700万人もの子供たちが教育を受けられず、小学校にすら通えていません。私は全ての子供たちが学校に行き、教育を受けるのを見たいのです。

 なぜなら、私自身がスワート渓谷(パキスタン)にいた時に同じ境遇に苦しんでいたからです。ご存じの通り、スワートはタリバン(パキスタンの反政府武装勢力「パキスタン・タリバン運動」=TTP=)の支配下にあり、学校に行くことは誰にも許されていなかったのです。私は、自分の権利のために立ち上がりました。そして声を上げると言いました。ほかの誰か(が何かをしてくれるの)を待ったのではないのです。

 私には二つの選択肢しかありませんでした。一つは、声を上げずに殺されること。もう一つは、声を上げて殺されること。

 私は後者を選びました。当時はテロがあり、女性は家の外に出ることが許されず、女子教育は完全に禁止され、人々は殺されていました。当時、私は学校に戻りたかったので声を上げる必要がありました。私も教育を受けられなかった女の子の一人でした。私は学びたかった。私は学び、将来の夢をかなえたかった。

 私にも普通の子供のように夢がありました。当時私は医者になりたかったのですが、いま私は政治家になりたいのです。それも、良い政治家に。

 私が学校に行けないと聞いた時、私は医者になれないだろうと思いました。私はなりたいものに決してなれないと思った。私の人生は13歳か14歳で結婚するだけで、学校にも行けず、なりたいものにもなれないと。だから、声を上げようと決めたのです。

 私は、私の経験を通じて、世界中の子供たちに権利のために立ち上がらなければならないと伝えたいのです。ほかのだれかを待つべきではないのです。彼らの声はより力強いのです。彼らは弱く見えるかもしれないけれど、誰も声を上げない時に声を上げれば、その声はとても大きく、誰もが耳を傾けざるを得なくなるのです。これは世界中の子供たちへの私からのメッセージです。権利のために立ち上がらなければならない。

 受賞の決まったノーベル平和賞についてですが、ノーベル賞委員会は私だけに与えたのではないと思っています。この賞は声なき声を持つ全ての子供たちのためにあるのです。そしてその声に耳を傾けなくてはならない。私は彼らのために語り、彼らとともに立ち上がり、彼らの声が届くよう彼らの運動に加わります。彼らの声を聞かなくてはならない。彼らには権利があります。彼らには良い教育を受け、児童労働や人身売買に苦しめられない権利があるのです。彼らには幸せな人生を送る権利があります。だから私はこれら全ての子供たちとともに立ち上がります。この賞はまさに彼らのためにあり、彼らを勇気づけるのです。

 最後に、私が尊敬するカイラシュさんと電話で話したことについてお伝えします。名字を正しく発音できず、すみません。失礼ですが(名前の)カイラシュさんと呼ばせていただきます。

 彼とちょうど電話をしたばかりで、全ての子供が学校へ行き、良い教育を受けることの大切さについて話しました。苦しみながらもいまだ知られていない子供たちがいるという問題が、どれほどあるかについてもです。私たちは、全ての子供が良い教育を受け、悩むことのないよう協力して活動することを決めました。

 また、彼がインド出身で、私がパキスタン出身ということもあり、私たちが両国の強い関係を築こうと決めました。最近、国境が緊張し、状況は望ましいものではなくなりつつあります。私たちはパキスタンとインドが良い関係であることを望みます。緊張状態にあることはとても残念で、私は本当に悲しいです。なぜなら、両国が対話し、平和について語り合い、前へ進むことや開発について考えることを望んでいるからです。戦いよりも教育や開発、前進について注目することが重要です。それが、両国にとって良いことなのです。

 だから私たちは2人で決めました。カイラシュさんには、尊敬するインドのモディ首相に12月のノーベル平和賞授賞式への参加をお願いしていただくよう頼みました。私も尊敬するパキスタンのシャリフ首相に出席をお願いすると約束しました。

 私からも、両首相に出席をお願いします。私は心から平和、寛容、忍耐の正しさを信じています。両国の発展には、平和で、良好な関係がとても重要なのです。それを成功させ、前進させていくことが重要なのです。耳を傾けていただけますよう、謹んでお願い申し上げます。

 最後に、皆様からの支援をいただき、心から幸せと申し上げたいです。私はかつて、ノーベル平和賞には値しないと言ってきました。今もそう考えています。しかし、これは私がこれまでしてきたことに対する賞というだけでなく、活動を進め、継続する勇気と希望を与えてくれるための激励なのだと考えています。自分自身を信じるため、そして、私は1人ではなく、何百人、何千人、何百万人の人たちに支えられているのだと知るためのものなのです。

 改めて、みなさんに感謝いたします。
2014年10月12日 23時22分

製氷機 譲ります。

星崎製です。
取りに来られる方には、無料で譲ります。
予備用に、八朔の時等に使っておりました。
勿論、使えます。
(50type)
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アナ雪ロングランの陰で…市民向け上映会が中止 神戸新聞web

アニメ映画「アナと雪の女王」の異例のロングラン上映が思わぬ余波を生んでいる。配給元が著作権上の問題もあるとして、公共施設などでの市民向け上映会を中止するように求め、兵庫県篠山市で23日の上映が急きょ取りやめとなった。しかし県内では上映会を開いたところもあり、関係者は困惑している。(安福直剛)

 映画は、2人のプリンセスが登場する物語。3月に全国で封切られ約2千万人が観賞した。現在も劇場公開が続いている。

 配給元のウォルト・ディズニー・ジャパン(東京)によると、映画館での上映が終わった作品については、自治体などに業務用DVDを貸与し、一般向けDVD発売と同時に、非営利に限り上映会開催を許可してきた。

 しかし、今回は7月16日にDVDを発売したものの、公開は続行。「上映中に発売するのは初めて」(同社)という想定外の事態となった。

 上映会は無料か低額の協力金制のケースが多い。そのため、映画館で見る場合と不公平が生じ、著作権上の問題もあるとして、同社が把握した上映会について一部で禁止とした。篠山市(協力金500円)には、今月13日に日本国際映画著作権協会から上映しないように求める連絡があり、上映会をとりやめた。
 一方で、伊丹市や宍粟市、兵庫県佐用町などでは既に公共施設で上映。中止した自治体との違いについて、ある配給会社は「すべての上映会を把握することは困難。ケース・バイ・ケースとなった」と説明する。

 ウォルト・ディズニー・ジャパンによると、千葉県などでも上映禁止になった。同社は「新たなガイドラインを設け、今後は混乱が起きないようにしたい」と話している。

※しかしこれは、ちょっと不思議な文章ではあります。
著作権上の問題もあるとして  これは興行権だろうと思います。
ある配給会社は  ここはなんでぼかすのか意味不明です。
すべての上映会を MMCに聞けばすべて分かると思われます。         
         
         
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