みときちの割とメンドクサイ思考回路

みときちの頭の中を文章で表してみるとこんなカンジです。 ツッコミどころありまくりかもですが、まぁテキトーに。

【その3】「認識したとき世界が変わる」

先日、アニメーター・アニメ監督の芦田豊雄さんが亡くなったとき。

「えー、信じられないなぁ。」

と思いました。
いっぱい絵を描くきっかけになった人です。

そしてそのまま、いまだにピンと来てないのね。
「もうこの世にいない」と知ってはいるけど、実感はしていない。

思ったのは

「認識して初めて『亡くなった』ということになるのかな」

ということ。

「亡くなった」というのは客観的な事実なんだろうけども、
自分に「亡くなった」という認識がなければ、
少なくとも自分の世界では「亡くなっていない」のかなー、みたいな。

「世界」というのはひとつなんだけど、ひとつじゃない。
当たり前だけど、「ココロの数だけ世界がある」。

「ココロに映し出される世界」ってのはひとりひとり別のもので、
同じ世界に生きてはいるけど、
まったくの別ものの世界が何十億と存在するんだと思う。

だとしたら、他の人の「世界」ではもう亡くなった人でも、
自分の「世界」ではまだ死んではいないんだなー、というか。

これってあらゆることに当てはまって、
「なくした」と思った瞬間に「なくした」という事実が始まるし、
目の前が「青い」と感じた瞬間に「青」が広がるし、
自分が「幸せだ」と認識しない限りその世界は幸せじゃないし…

なんか漠然としてよくわかんないですけども。

そんなことを思ったりしたのでした。
(…と、思った瞬間にみときちの世界はそういう世界に変わりました(笑))

【その2】「思っちゃうのは仕方ない」

「こんなこと考えちゃう自分がイヤー」

とか思わない自分は、割と幸せな思考回路なのかも、
なんて思わなくもないのですが。

だって、「思っちゃうのは仕方ない」もの。
その後それを行動に移すかどうかが問題なのであって、
ココロの中はいつだってフリーダムだと思うのですよ。

「こいつぶん殴りたい」って思うのも
「相手がいる相手を好きになっちゃう」
ってのも別に悪いことじゃないし。
行動に移した時点で道徳的な部分が初めて問われるわけで。

この「最初っから自分を否定する気がない感」ってのを探ってみると、
「ココロは自分のものじゃない」って考えからスタートしてる気がする。

「感情って、本当に自分が生み出してるものなのか?」
って言われると、すごく疑問。
どっかからふっと降りてくるというか、湧き出てくるというか、
自然発生的に生まれるもので、能動的に作ってるものじゃないと思う。

「感謝しなきゃダメなんだ」とか。
「他人を思いやらなきゃダメなんだ」とか。
「人を悪く思っちゃうのはダメなんだ」とか。

感謝しなくても優しくできなくても悪く思っても
気持ちなんて自分のものじゃないんだから仕方ない。
ダメなのは自分じゃない。かといって相手でもない。
だから「こんなことを思っちゃう自分は直さなきゃ」
なんて思う必要もない。…というか直せない。

ムリして取り繕ったところで、
それって自分に嘘ついてるってことで、
結局自分に負担がかかっちゃう。

自分にかかった負担は知らないうちに
相手への圧力にもなっていく。

憎しみや嫉妬が勝手に生まれてくるように、
感謝も思いやりも勝手に生まれてくるものだと思う。
だから、そうなるまで待つしかないんじゃないかなあと。
というよりも、「気がつけばそうなってる」気がする。
憎むのに疲れたら憎まなくなる、それだけのことなんだと思う。

すべての気持ちはオートマチック。
感情なんて「自分の意思とは関係ない何か」が操ってるから
自分のせいでも他人のせいでもない、都合の悪いことは
「自分と他人のあいだにある何か」のせい、ということで。

いや、別にオカルトとか信じるタイプじゃないんだけど(笑)

【その1】「簡単に変わっちゃうきもち」

「こんなことでなくなっちゃう愛情なんて、それはホンモノじゃなかったんだ!」

なんて話をよく耳にします。

「簡単に変わっちゃうような気持ちなんていらない」
「こんなことで壊れるような儚いものなんて、初めからいらないんだ」
…みたいな。

コレに関しては、「むむむ」とちょっと考えさせられるところがあって。

愛情でも友情でも、人の気持ちって基本的に
「簡単に変わっちゃうようなもの」だと思うんです。
ささいだと思ってたことでも、相手にとってはすごくショックな話だったり、
もちろんその逆もあって、意外とすぐ嫌ったり嫌われちゃったりします。

優しさや思いやりって、
結構「臆病」からできてるんじゃないかな、なんて思うんです。

「嫌われるのが怖い」
「傷つけるのが怖い」
「失うのが怖い」
「後からウワァァァァンとなるのが怖い」

から、相手が喜ぶことをする。

「そんなの偽善じゃん」「そんなの優しさとは言わない」「自分のことばっかり」
と言われようがなんだろうが、「優しさ」って案外そういうものだと思ってます。
あらゆる感情は「エゴ」を超えることができないんじゃないかな。

そんな感じで、「臆病さ」と「優しさ」というのは、
すごく密接なカンケイにあるのではないかと。

「本当の愛ならこんなことでは傷つかない!」
「本当に友達ならこんなことでいなくなったりしない!」
の「こんなこと」って、たぶん相手にかなりハードな状況を押し付けてるわけで。

それって「失う怖さ」を放棄しちゃってると思うんです。
精いっぱい傷つけても構わない、こんなことではいなくならないから。
壊れてしまうくらいならそれはホンモノではなく、
そんなものは自分には必要ないものだったんだと。

でも、それって「傷つける」ということを完全に肯定しちゃってるわけで、
「傷つけたくない」という相手を思う気持ちはないがしろにされちゃってる。

だから、怖くていいんだと思います。怖いから優しい。
誰かに優しくできるなら、それがエゴだろうとなんだろうといいではないかと。

「こんなことしたら傷つけちゃうかな」
「こんなこと言ったら嫌われちゃうかな」
こそが愛情や友情の核になる部分なのではないかなぁと。

「臆病」という「優しさ」があって、
それをひとつずつ、時間をかけて積み重ねていくことによって、
「簡単に壊れない気持ち」というのが紡がれていく。「ホンモノ」に近づいていく。
それを失ってしまったのなら、
それは「ホンモノじゃなかった」のではなく、「『まだ』ホンモノじゃなかった」だけ。
この世に「ホンモノ」なんてなく、すべては「ホンモノへの道の途中」なのかなと。

…そんなことを思ったりするのでありました。
livedoor プロフィール
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ