ヒロシマの視線

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青島幸男(タレント)当時13歳・東京日本橋 父親が旅館を開業 中学1年

  私の家はもともと弁当屋をやっていたが、強制疎開で壊されたので終戦後1ヶ月、近くの病院を改装して旅館をつくった。父が旅館業をすれば少なくとも一家が食うに困らないという計算をしたらしい。父は木場で材木を、ブリキを闇市で買って、自分で旅館にした。

 

 でも旅館なんかやったことはない。宿泊付きの弁当屋だと思えば間違いないだろうと考えたらしい。そんないい加減な人たちばかりでやっていけるかと思ったが、他に旅館はあまりなかったので、寝床なんかなくてもとにかく泊めてくれという人で満杯。7、8部屋しかなかった旅館に40人以上泊めた。

 

 とにかく日本橋界隈にいなくては商売にならないと、旅館でお互いに持ち寄った品物をその場で売り買いして、そのまま帰る人もいた。

 

 中にはなんだかよくわからない刺青の先生なんていうのも住んだりしていた。これが面白かった。

「メチルアルコール中毒」なんていうのが盛んに出た頃だった。その先生が、ある日突然メチルアルコール中毒で死んで、大騒ぎになった。あれこれといろんなことがあったが、女房子供を養って、女中たちと一緒に営業を繁盛に導いていったんだから、親父、おふくろは苦労したと思う。(抜粋)

1945年、最初の復員船「高砂丸」が中部太平洋メレヨン島から別府港に入港。1628人が復員。  

8月15日に終戦を迎えて間もない9月1日、「高砂丸」は東京港を出港してメレヨン島に急行する。餓死寸前に陥っていた同島の陸軍独立混成第五〇旅団を収容し、9月26日に別府に帰着した。その後は第二復員省の復員輸送艦に指定され、上海方面からの引揚輸送に任じる。1949年(昭和24年)からは、ナホトカからのシベリア抑留兵士輸送に転じ、ナホトカと舞鶴との間を往復した
1946年12月に始まり1年余で中断していたシベリア抑留邦人の引き揚げが再開され、
その第1船、高砂丸が元陸軍軍人、軍属1953人、元海軍同28人、一般邦人19人の計
2000人を乗せて舞鶴港に帰ってきた。引き揚げは50年4月末までにほぼ完了した。

抑留者は推定57万5000人にのぼり、そのうち約1割が死亡したとみられているが、
旧ソ連から渡された抑留中死亡者名簿搭載者数は4万25人となっている

あなたの運命がつくられるのは、あなたの瞬間ごとの決意によるものである。

どれほど信じがたい偉業を成し遂げた人も、第一歩はみな同じだ。すなわち、目標の設定である。

ほとんどの人は今持っているものを守ることに必死で、ほんとうに夢見ているものを手に入れるためのリスクを避けている。

人生の質は、コミュニケーションの質である。

「口先だけの多数派」に対して、求めるものを明確にし、犠牲をいとわない人を「行動する少数派」と呼ぶ。

自分を評価するときは周囲の人を基準にするのではなく、目標までの距離で評価せよ。


Anthony Robbins アメリカ人で主な活動は著書やセミナーを通して自己啓発活動を行う 

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