被爆当日の朝、吉島の広島刑務所では、収容者千人余りが午前7時40分から所内の工場で作業に当たっていました。そのうち、14人が即死、約500人が負傷。無事だった収容者の一部は、遺体の収容作業に動員されました。
広島原爆戦災誌からの引用です。『昭和20年8月9日から11日まで、職員6人(うち教誨師1人)と収容者20人が、元安川に浮流している死体収容作業に従事した。木材で急造した筏に乗り、死体を川岸に引寄せて、担架で陸上に揚げ、警察官が検死をおこない、20体くらい積み重ねては石油をかけて荼毘にふした。死体処理は、火葬の際、教誨師が読経してそのつど供養をしたので、一般市民から感謝された。死体引揚げ総数は200体ぐらいであった。また、倒壊建物の整理、道路の障害物を除却する啓開作業にも就労したのであった。』
救護、死体処理等
被災者の傷にわいたうじ虫はとった方がよいのか?
被爆体験記には、被災者の傷口にわいたうじ虫を箸でつまんで捨てたとの記述が多く出てきます。うじ虫が傷口をかじるので、被災者が痛がったそうです。しかし、日赤病院の看護婦研修生だった女性は、医者からうじ虫が膿を取るガーゼの役を果たしているので取ってはいけないと言われたと話しています。 また、肥田舜太郎医師も次のように書いています。「・・・もちろん蛆が大量に湧いた。猛暑の八月、倒れている患者の傷口に蠅が群がり蛆が湧き、もくもくとうごめいている。しかし、劣悪な環境下で消毒もままならないところで処置をしたにも関わらず、化膿性の炎症が意外にもほとんど起こらなかったのは蛆のおかげだった。蛆がきれいに膿を食べてくれているので、気味が悪くても蛆は取らないようにという指示が出された。」 |
原爆投下時の救護所 の様子は?
死体処理はどのように行われたか?
8月10日以後、死体の焼却が続いた。100~200mおきほどに死体を並べ火葬した。昼夜にわたり市内の至る所で火葬の煙が立ちこめ、未処理死体の腐臭と混ざり、全市は当分の間臭気で満たされた。焼け跡や川に散乱していた死体は、殆ど軍隊、郡部の警察関係、警防団によって火葬された。 8月15日、終戦となり軍隊は解散された後、市内の崩れ落ちた壁や煉瓦の下、防空壕や井戸の中に数多くの死体が残されていた。この死体処理は保健課が担当した。保健課には戦時中百数十人の人夫がいたが被爆後は殆ど出てこないため、作業員を募集した。当初皆無だった応募者もやがて増え、数班に分かれ市内を歩き回り、死体を引き上げては学校の校庭などで火葬した。腐乱した死体の処理は困難を極め、11月頃まで続いた。(広島市HP) 8月9日に遺体処理にあたった兵隊の手記 「・・・焼却は案外早く終わった。金網の上は、まさに白骨の山だ。トタンを箱のように叩きまげて穴の隅に置く。交代しながらエンピで骨をすくい入れる。折しも通りかかった一人のお婆さんが、「兵隊さん、その骨を少し分けてくれませんか」と言った。お婆さんは純白の布でつつんだ箱を首に吊っている。「あげるのはいいけれど、誰の骨だか分かりませんよ」と言うと、「この辺に、子供の勤めていた会社があったのですが、いくら探しても死体が見つかりません。かまいませんから分けて下さい。子供と亡くなられた方々の冥福をお祈りしましょう」。重ねての懇願に一握りの骨を分けてやると、何回もお礼を述べて立ち去る。」(「広島原爆戦災誌第五巻」) 市内のいたるところに散乱している遺体を、水の流れを使って効率的に収集するため、遺体を川に投げ込んだこともありました。この行為に触れた被爆体験証言もたくさんあります。 以下の証言は「原爆の絵」の説明文です ●8月8日。市内の道路という道路で、兵隊が死体を引きずって並べていた街中、死臭が漂っていた。(田邊俊三郎) ●8月8日。西練兵場では、すべての遺体が水ぶくれとなり、灰色になっていた。兵隊の遺体で足の踏み場もない。腐敗のため、腕や足を持ち上げるとちぎれてしまう。(辻口清吉) ●遺体を鳶口で集め、山のようにしてあちこちで焼いた。誰が誰だか分かりようもない。(坪中愛子) ●川に浮かんだ死体を引っ張り上げて、俵積みにして焼いた。体は燃えるが、頭は燃え残りころころと落ちてくる。それをスコップですくっては、火の中へ放り込んでいた。(牧野俊介) ●線路の枕木を組み、その上に犠牲者をのせ、重油をかけて火葬する。(清水善朗) ●8月7日。兵隊さんが死体を処理している。体全体がやけどのため皮膚がズルーとむける。そのため、両手に二人、両足に二人、首に一人が手をいれてトラックへ投げ入れる。(原広司) ●8月7日。横川駅前の河岸に出てみると、水を飲んだ被爆死者は腹を太鼓のように膨らませてプカプカを浮いている。それを警察官と囚人がとび口を使って死者を引き寄せ、河岸に引き寄せ、河岸に並べて再び流れないように縄でつないでいる。(向井健二郎) ●8月10日。死体処理の兵隊さんの「引いーけ ヨイショ 引いーけ ヨイショ」の掛け声が、むなしく耳の底に残っています。建物取り壊し作業の時、家屋をロープで引き倒す時の掛け声であったのですが、死体を引きずることになったのです。(岡崎秀彦) ●8月7日。橋のたもとで亡くなった方を、兵隊さんだと思いますが、焼いていました。そして瓦の上に性別・年齢などを書いて、遺骨をのせてありました。(匿名) ●8月8日。トラックが運動場に入ってきた。黒こげた荷物を積んでいた。近くになり、よく見ると、それは人間の死体である。消防団の人たちがとび口で降ろし、運動場の砂場に積み上げ、薪とわらで囲み、コールタールをかけ、焼き尽くしていた。 次の2つの句は正田氏篠枝さんの歌集「さんげ」からのものです。 筏(いかだ)木の如く死骸を竿に鈎(かぎ)をつけブスッとさしぬ 一日中死骸をあつめ火に焼きて処理せし男酒酒とうめく ▲(菅原寛さんの証言)元安川の近くに行くと、船舶兵が大発艇に乗って死体の引き上げ作業をしているのが見えた。被爆者達が火災と火傷の熱さに耐え兼ねて、川の中に飛び込んで水死したのであろうか、大変な数の死体が水面に浮かんでいた。先ず屍を海の方へ流さない様に一人、一人を縄で縛って橋の処の電柱や、欄干に繋いで置き、次に水に浸かって膨れ上がった死体を陸上に揚げる作業をして居た。此れは大変な仕事で、船の上から手鈎で死体を引き寄せては一体ずつ抱き上げて居たのであろう。水に浸かった死体は大変な重量であったであろう。 死体は昼も夜も焼いて処理して居たのであるが、特に夜の場合は凄まじく、地獄の様相であった。
焼跡から家屋の焼け残りの木を集めて来て、此れを二階ぐらいの高さに積み上げて井桁に組み、その間に死体を挟んで、上から重油をかけて火を付けるのである。火勢は夜空にぱっと燃え上がり。“パチ、パチ”と音をたてて、其処だけが明るく照らし出された。やがて火が廻ると櫓の間の死体が動き出す。反り返る者あり、二つに折れる者、膨れ上がる者、正に人間バーベキューであった。恰も生きて居る人間が苦し紛れにのたうち廻る如くに見えた。 全文は広島・長崎の記憶(朝日新聞) http://www.asahi.com/hibakusha/hiroshima/h02-00012j.html |
被爆者の応急治療
被爆者の応急治療にあたった呉の歯科医師の体験記です。 「暁部隊が似の島から小屋浦海水浴場へ患者を多数収容していました。敗戦後復員する為、県へ引継を文書連絡してきましたが、混乱の為遅れて三、四日患者は放置されていました。当方は軍の事だから薬品、交換材料が留置してあると思い、手ぶらで小生一人、看護婦十名程連れて行きましたが、それこそ全然何もなく、患者には両手を合わせて拝まれるが全くお手上げで、全員窓から患者の目から隠れて逃げ帰りました。翌日、全員出動しガーゼ交換だけで、朝から三時過ぎまでかかりました。当時、原爆とは知らず、まして症状の事は何もわからず、対症療法をしているだけでした。」 (広島県歯科医師会編「閃光の証言」1985.12) 暁部隊の活動 似島は、広島港より南に約3km、フェリーで海上20分という近距離にある島。 富士山に似ているので「似島」、または「安芸小富士」と呼ばれています。 |