歴史学概論講義の実況中継

大学教養科目「歴史学」講義。いわゆる歴史学概論の内容です。
講義でお話する内容に従って、余談も含めて書き留めていきます。
できるだけライブ感が出せるようにやってみます。

日本の宗教的心性は、ひろさちやが「やまと教」として論じているような、縄文時代からの民衆神道という説明がかなり当てはまる気がします。

これに基づく独特の社会的行動としては、それが「タテ社会」(中根千枝)や「空気」(山本七平)あるいは「古層」(丸山真男)いった形で擬似家族集団の存続のみを目的とするようなパターンが生まれてきます。

仲間同士でも集団的な同調圧力を掛け合いながら、昔ながらの慣習をひたすら踏襲するという行動パターンが見られます。

そのことによって組織が維持できるうちはいいのですが、場合によっては組織の存続すら合理的な目的とならない場合が起こってきます。

一旦対米開戦やむなしという「空気」がつくられたら、マスコミからこれにいち早く同調しては、世間に圧力をかけ始め、気がついたら一億玉砕なんてことになってしまいます。

社会心理学の実験では、少数の意見が次第に数を増やし、40%を超えるとドミノのように全体を支配できることが知られていますから、日本だけの問題ではありません。

ナチをバカにしていたはずのドイツ人が、気がついたら親衛隊に入って反対者に暴力を振るっていたという話もあります(拙著『権力の社会学』)。

日本の場合の特殊性は、建国神話に由来する擬似家族集団の宗教的心性を人口が1億を超えた近代国家になっても密かに持ち続けているというところにあります。

ただ、その人びとの大多数は、自らのことを「無宗教」と呼び、宗教的に中立だと信じています。そして、その無宗教にもかかわらず、ずいぶんと宗教由来の年中行事の多い毎日を送っているところが、これまた不思議なところです。

日本人の生活習慣の中にふんだんに宗教的要素が含まれているため、あえてこれといった宗教を信仰しなくてもすんでいるという味方も可能かもしれません(島田裕巳『神も仏も大好きな日本人』)

ただ、その結果として、ユダヤ・キリスト教およびイスラム教についての無知と無関心が日本的「無宗教」の特徴にもなっているため、しばしば異文化や異文明の深いところには理解が及ばないことがあるのは実にもったいない点だと思います。

旧約・新約聖書とコーランについては、その基本的なところを知っておいて損がないどころか、むしろ国際政治・経済を理解する上での必須の知識であることもまた確かだからです。

そのあたりについててはまた折にふれてお話するとして、来週の課題を出しておきます。

来週の課題は、進化論について調べてくることです。進化論とは何なのか。また、ダーウィン以外の進化論、ウォーレスやラマルク、丘浅次郎、今西錦司なんかも調べると面白いですよ。 
   

日本の古来からの宗教的心性や多神教的世界観を知ることは、今日の様々な問題につながる多くの興味深い視点を提供してくれますが、この講義ではこれ以上立ち入るわけにも行きません。

教務サイドからクレームが付かないうちに歴史学概論の話に立ち戻らなければなりませんので、この点に関心のある人には、ひろさちや『やまと教』(新潮選書)を読むことをおすすめしておきます。

さて、わが国では今日に至ってもこの多神教的世界観が様々な形で人びとの間に生き続けているだけでなく、神話の王の末裔が象徴天皇制という形でこれまた今日まで断頭台にかけられたりすることなく、様々な宮中の神事を執り行ってきているという極めて珍しいタイプの近代国家となっています。

今では確かに例外的なパターンではありますが、多神教的世界観は以前にも述べたように、キリスト教が支配的となるまでは、世界標準の世界観でした。

キリスト教に先立つユダヤ教は、エジプト文明とメソポタミア文明の狭間の小国として、国際政治の荒波に飲まれそうになりながら、唯一絶対の創造神を信仰するという文字どおりユニークな宗教を立てることになりました。

クリストファー・ドーソン(1889-1970)は『進歩と宗教』という著作の中で、ユダヤ教では、世界の始原(創世記)と終末が示されていることで、時間に始まりと終りがあることが強く意識されるようになり、それまでの多神教的世界観にあった循環的時間の観念に対して、「直線的時間」という観念をこの世にもたらすことになったと言います。

さらに、ドーソンは、キリスト教によって、この直線的時間に、キリストに倣い、キリストに近づくという日々の目的が与えられ、徐々に神に近づくという進歩の観念がもたらされたとも言っています。

つまり、ユダヤ・キリスト教という啓示宗教により、絶対的な価値観と直線的時間の観念、そして、昨日よりも今日、今日よりも明日が少しでも良くなるという進歩の観念がもたらされ、近代社会の基礎が形成されたというわけです。

なお、私の歴史観の基本はこのドーソンに多くを負っています。このあたりはまたあらためて聖書のテクストも参照しながら検証したいところですが、拙著『人びとのかたち』にはある程度出ていますので、よろしかったら読んでみてください。後期科目で「現代文化論」を履修する人にはこのテーマで必ずお話ししますので、楽しみにしている人がいるかどうかはともかくとして、予告だけはしておきます。

今や世界はこの時間とともに良くなる思想が隅々にまで行き渡り、この極東の島国の若者たちにもすでに幕末の頃から進歩の観念は国中の若者に行き渡り、明治維新という形で(テロリズムの一種ですが)時代を動かしてきました。

太平の眠りから覚めるのもまた早かったようで、その寝覚めの良さは世界史の中でも特筆すべきものとなりました。

われわれの祖先たちは実に物分かりがよく、頭の切り替えが上手だったので、このようなかなり異質なキリスト教文明の世界観をさしたる抵抗もなく受け容れてしまいました。

日本人はキリスト教の真の意味はわかっていないとか、いろいろ注文はつけられますが、その結果として出てきた歴史観、価値観はかなり早くから当然のように受け入れてしまって今日に至っています。

それが証拠に、直線的時間や進歩の観念は昔からつゆほども疑わずに受け入れてきたでしょう?「こんなの当たり前じゃん」と思っている人が大半ではないでしょうか。

また、その結果として生まれてきた近代科学の成果は十分すぎるほど享受してきていますし、近代市民社会の政治システムも曲がりなりにも受け入れてきたでしょう?(続く)

自然現象のそれぞれに神々の存在と意志を認めていわゆる神頼みをするだけでなく、その独自の力をわがものとしようとする場合もあります。

自らが神の末裔だと考えるのがそれで、自分の先祖を特定の動物と信じるトーテミズムもその一つと考えることができます。トーテムポールで有名なネイティブ・アメリカンだけでなく、ヨーロッパでも王家の紋章に鷲やオオカミがあったりするのも原始心性の名残でしょう。

さらには具体的な動物ではない霊魂を自然とつなげるアニミズムも世界の原始的な宗教的心性の一つでしょう。

日本では犬神信仰、あるいは、より根本的には山の守り神のオオカミ信仰は、トーテミズムというよりは背景の山岳信仰の現れのように思われます。

宮﨑駿のアニメ『もののけ姫』の世界は、もはや山岳信仰そのものでしょう。今でもわれわれにはなじみやすい世界ではありませんか。アニメーションって、もともとアニミズムと親和性が高いのです。

ちなみに、現代日本にも残っている「オイヌさま」と山岳信仰のルポルタージュとしては小倉美惠子『オオカミの護符』(新潮文庫)をお読みいただくといいと思います。

それにしても、今もひそかにオオカミが自然と人びとの守り神として信仰されているところが印象的でした。

山岳信仰といえば、かれこれ20年以上前に宮崎県は高千穂の天岩戸神社を訪れたとき、その神社の宮司さんが、そこの天の岩戸には誰も入ったことがないという話から始まって、「これは要するに山岳信仰の一種なんですよ」と宗教学者みたいなことまで解説してくれたことを思い出します。

ずいぶん罰当たりな宮司さんではないかとも思ったりしましたが、そのときついでにいろいろな話をしてくれました。

その高千穂の天の岩戸神社には、しばしば皇族の方々が来ては植樹をされたりするだけでなく、2・26事件の青年将校たちや三島由紀夫と当時の楯の会の面々なども事を起こす前にお参りに来たということです。

いわゆる「一揆」の前に文字どおり心を一つにする場所として、この由緒ある神社が使われたというのは、日本の宗教的心性の一面を表しています。

鎌倉時代以来、日本人が一揆を起こすときは、それに先立って神社に参集し、一味同心として鐘を打ち鳴らし、飲食を共にする、あるいは水杯を回し飲みしたりしてきました。

このあたりのことは勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書)をご参照ください。これは日本人の集団的意志決定の歴史といってもいいかもしれません。

さすがに天の岩戸くらい由緒ある神社になると、ひょっとしたら今後のテロ対策として公安警察を配備させておいたほうがいいかもしれません。

いや、そんな呑気なことを言っている場合ではなくて、実はあの宮司さんも裏で公安関係者と通じていたのかもしれません。

というのは冗談にしても、日本の山岳信仰は実は奥が深いです。それが一揆まで含む信仰体系なのかどうかはわかりませんが、仮にそうだったとしても驚かないくらいの心の準備はしています。

話がかなり飛びました。このあと一神教的世界観に触れることにします。

古事記と日本書紀を読む限り、少なくとも日本が一神教的でないことはよくわかります。

実際、日本に限らず、ユダヤ教からキリスト教が生まれ、さらにイスラム教が生まれて世界的になっていく前は、この多神教的世界観のほうが世界標準でした。

キリスト教が入る前のヨーロッパも、ギリシア・ローマ神話を見てわかるように神々の世界でした。紀元前1000年以上をさかのぼるかもしれないゾロアスター教も善悪二神論ということで、唯一の神ではありません。

また、その後キリスト教が出てくるまでローマで広く信仰されたミトラ教も一神教かといわれると、後のキリスト教のような抽象的で超越的な性格のものではなかったように思われます。

この点ではギリシア神話の世界は日本のそれとかなり相性が良いように感じられます。読んでいても古事記とどことなく似ている気もして、あまり違和感を感じません。

インドのヒンズー教の神々も大黒天や毘沙門天、弁才天のように七福神のメンバーとして祀られるようになり、ほとんど日本の神様のようになっています。

身体のあちらこちらを悪くしては、それぞれの箇所を治してくれる神様にお願いするというのはヒンズー教に由来するというよりは、わが国にも同様の信仰が古くからあったんではないかと思われます。

苦しい時の神頼みとは言いますが、カトリックの巡礼でも奇跡を待ち望み、実際に病が奇跡的に治ったという証言をする人が常に出てきますから、さしあたり病を治してくれそうな神様にお願いするというのは、これもまた世界標準の心性ではあると思います。

たくさんの神々をかなり打算的に信仰しながら、こまごまと定められた宗教儀礼の中で信仰生活を送るという人びとの生き方は、人類の祖先が病や事故によって苦しみ、あるいは不慮の死を遂げたりするその対策として発達してきたように思われます。

フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1951)は『道徳と宗教の二源泉』において、宗教をこのように定義しています。

「宗教は、知性による、死の不可避性の表象に対する自然の防御的反作用である」(中村雄二郎釈、白水社156頁)

ちょっと意味の取りにくい文章ですが、群れの仲間の理不尽な死に対して何らかの合理的説明を見出し、感情の処理をしようとする人類の祖先の姿が目に浮かぶような気がします。

20万年ほど前に現れたネアンデルタール人はわれわれの直接の祖先ではないとされますが(最近実はDNAを受け継いでいる可能性があるとの説が提起されました)、そのネアンデルタール人が仲間の遺体に大量の花を手向けていたことは知られています。

彼らが一種の「埋葬」をするようになったころには、他のホモサピエンスたちも、おそらくはあの世のことを考えるようになっていたのでしょう。

人類はどうやらかなり昔から困ったときには神頼みをし、それも霊験が衝突しかねない複数の神々に気を使いながら、かなり複雑な儀礼を定め、これを踏襲しながらその日その日を送ってきたようです。

と考えてみると、今の日本人も実はあまり変わってないかもしれません。

今日は古事記(712年)の冒頭のところを読んでくるという課題でしたが、ざっと見せてもらった限りでは、なかなかの力作が揃ったようです。


相変わらずユニークなイラスト付きのものもあって、見るのが楽しいです。デザイン学科がある大学は違いますね、と思ったら建築学科の学生だったりすることもありますが、いずれにしても、気の利いたイラストには高得点を差し上げます。


それはともかくとして、古事記をあらためてじっくりと読んでみると、正直な感想として「実に変わった話だなあ」と思わずにはいられないですよね。いろんな不思議な話がたくさん詰まっています。皆さんの感想にもそういうものが多く見られました。


テキストとしては『古事記』全3巻 全訳注 次田真幸(講談社学術文庫)が全訳と注が充実していておすすめです。特に注がルーツと思われる国外の神話・伝承にも言及があって参考になります。


値段を考えると、岩波文庫なら1冊にまとまってお得感がありますが、古文が得意な人ばかりではないでしょうから、やはり現代日本語訳があったほうがいいと思います。


さて、まずはイザナギノミコトとイザナミノミコトによる国の始まりからして印象的です。なにせ、「あなたの身体の足りないところと、私の身体の余ったところを合わせて国土を生みましょう」「それはいいですね」というやりとりがあったりするのは、基本的に性に対しておおらかな国柄が現れていて、いろいろと考えさせられます。


それで、この結果国土がどんどん産み落とされ、いわゆる大八島となります。


そうして14島を生み終えると、次に神々を生み出し、その数は35神に上ります。神様の数はその後も増え続け、ああ、これが八百万の神々の始まりなのかと感慨深いものがあります。


ところで、古事記には偽書説が唱えられたりもしていて、それだけを読むと有力な説のようにも見えてきますが、文献考証的には必ずしも決定的でもなさそうです。


それでは日本書紀(720年)では国生みはどう書かれているかと見てみると、「雄のはじまり」とか「雌のはじまり」という言い方ですが、ほぼ同じようなやりとりがなされ、「陰陽が始めて交合して夫婦となった」(『全現代語訳日本書紀』宇治谷孟、講談社学術文庫18−19頁)とあります。


日本書紀はそれ以前の書物を引き合いに出したりしていて、歴史書としての体裁をそなえていますが、陰陽の思想がはっきりと打ち出されているところも、古事記とは異なっています。


それでもなお、性に対するオープンさには通じるところがあるので、そこのところを面白がるのは、それはそれで問題なさそうです。


国を生み、神を生むあたりは重なっていますので、古事記でも日本書紀でも同様に昔の日本人の創造性の一端に触れることはできます。


こうして神々が賑やかに登場する神話的世界というのは、実は世界的にはおそらくほとんどの地域で見られるものだと思われます。


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