ここで、前回の補足を西洋思想史を題材にしながら、少々お話しておきます。

自分と世界の外側に絶対者を立て、そこから世界と自分を照らしだすようにして得られるのが合理主義的な世界観です。これにかぎらず、人はどうやらものごとを客観的にとらえるためには、知性と言語を用いて観念的な回り道をせざるをえないように生まれついているようです。

かつてマルクスはこれを逆立ちした論理だと批判しましたが、人間にとって論理というもののありかたは最初から逆立ちしているのかもしれません。そういうマルクスもその逆立ちしたヘーゲルの論理と自然科学的方法を十分活用していたわけですから。

ちなみに、こうした合理主義的世界観は、キリスト教信仰の論理に内在するものとしてすでに中世から(ギリシア哲学の助けを借りながら)準備されていましたが、17世紀のデカルトの合理主義に近代科学の成果がともなうにつれて、世界中に圧倒的な影響を及ぼすことになりました。

実は近代科学も近代哲学も、その意図としては、ほとんど神を賛美するために、つまり、神の法則の存在を確認するつもりで、自然界の法則を見出そうとしていました。そして、ひとたびこの視点に身を置いてみると、確かに世界は立体的で、奥行きのある整然とした構造をしているように見えてきます。

もちろん彼らはそのように見ようとしてそうしたのですが、神様はあると信じるならありますし、ものごとはそう見たいと思ったらそのように見えてきまうのが。そして、近代科学技術の目覚ましい発展がこれを裏打ちしてくれるようになってきたのですから、ものごととそれを取り巻く環境(社会)を自分たちの思うとおりに変えていけばいいという思想が定着します。

本来限りある命を授けられてこの世に現れた相対的な人間は、絶対者の存在を仮定することによって、この世を(あの世と対比させて)客観的にとらえることができるようになり、自らの手でこの世の中を設計し、少しでも多くの人が安全かつ快適に暮らすことができるように、地上の楽圏を築こうとします。

近代合理主義と近代科学を、そしてついでに言えば近代市民社会も、それを支える思想は非合理的で実証できない啓示宗教の信仰に基づくものでした。このように、西洋の哲学者や科学者による独特の「神への賛美」はその後もまだまだ200年ほど続きます。

人間が自分で意識していること、思考していることと、その行動との間には先にも述べたように宿命的なズレがあるわけですが、近代に入って思想や言葉が人を動かすことが顕著になると、そのズレはもはや200年〜300年に及びます。

その後、ニーチェが「神は死んだ」と言ったりする中で、神様なしで科学によって十分明るい未来が開けると思った楽観的な19世紀を経て20世紀に入ると、いっそうの期待が膨らむかと思いきや、結局人類は2度の世界大戦を経験し、もはや神も仏もない状態に入ります。

原始爆弾まで作った上に実際に二度も投下してしまうと、相変わらず人間は愚かだということに加えて、近代科学に対しても以前のような明るい未来を託すような期待は持てなくなってきています。

今日ではもはや宗教にも科学にも人類の夢を託せそうにはないということだけはわかってきました。

暗いですね。今後どうなっていくのでしょう。日本にかぎらず西洋諸国が少子化問題を抱えて久しい理由もわかる気がします。

しかし、そういう今日でもノーベル賞を受賞する優れた科学者に、たとえキリスト教とは限らなくても何らかの宗教の信者が圧倒的に多いことはよく知られています。これは善し悪しの問題ではなく、れっきとした事実ですから、頭の片隅にしっかりと入れておいてください。

最後に、近代の哲学者たちにおける信仰はどうだったのかということも傍証を兼ねて、少し見ておきます。

たとえば、デカルトの議論は神の存在を前提にした上で、アウグスティヌスの言葉をもじったような「われ思う、ゆえにわれ在り」を強調しています。

実はこの言葉と同時にデカルトは「考えるためには存在しなければならない」と言ってもいます。これはほかでもないモーゼの「われありという神」の存在を含意しています。

これについては時間が許せば後に詳しく触れますが、新刊拙著『間違いの効用』(ふくろう出版2015年)でも論じていますので、よろしかったらお読みください。

カントは信仰告白のような「満天の星空とわが心のうちの道徳律」という言葉を残し、神に由来する世界の秩序と人間の現存する道徳意識が通じる瞬間を表現しています。

ヘーゲルも熱心なクリスチャンです。ヘーゲルの論理の核心には、人間が概念を持ち、それを理念に高めていく中で、言葉の創造的可能性をとことんまで突き詰めていくという姿勢があります。

「理念とは、概念によって規定された実在性である。あらゆる現実的なものは概念である」(『哲学入門』武市健人訳岩波文庫158頁)

これは聖書のヨハネによる福音書の「はじめに言葉ありき」というときの「言葉」の持つ力を思い起こさせます。

さて、啓示宗教についてはいいとして、わが「無宗教」的日本人はどうなのかという話については、このあと日本思想史の話題の中で触れることにします。

日本からも近代以降、世界的な科学的発見やイノベーションが出てきているわけですが、その一方で、多くの日本人は絶対という観念を少なくとも啓示宗教のそれようには理解していないということは確かですから、これはあらためて論じなければなりません。