ルネサンスも宗教改革も現れ方はずいぶん異なっていますが、個人の自由を追求したという点では共通しています。そして、個人の自由を追求することは、当然ながら政治的自由の追求につながっていくことになります。歴史は、教皇や国王ではなくふつうの人びとが主人公となる世の中へと向かって進んでいきます。いわゆる近代市民社会への道です。
 
中世の封建制社会から絶対王権の国家が成立して行くときまでは、王権は神によって授けられたという理由で絶対でした(王権神授説ですが)。その後、自由を求める市民階級が政治の主役になろうとする動きの中で、王の権威はそれまでの力を失っていくことになります。

もちろんこのことの背後には神の権威がそれまでの力を保てなくなったという事情があるわけです。

この動きの中で、市民革命発祥の地イギリスでは17世紀に王権を制限することから始まり、1688年の名誉革命で一連の市民革命に片が付きます。

イギリスはこの市民革命によってローマ教会の支配下から完全に脱し、国家的エゴイズムを十分に発揮できる国民国家の体制を、世界に先駆けて達成することができました。

その結果、イギリスは世界中に植民地を設け、その果実を享受することができるようになりました。そして、そのイギリスを密かに羨望のまなざしで見ていたのが、ドーバー海峡を挟んだ対岸にあるフランスです。

フランスは当時太陽王ルイ14世の絶対王政期で、人口の2%程度にすぎない聖職者と貴族が様々な特権と富を独占していました。そのためフランスでは市民革命が起こるのも1789年と、イギリスに後れをとること100年、それもきわめて膨大な犠牲を払わなければならなりませんでした。

このフランス革命の実態はまず何よりも同国人同士の凄惨な殺し合いです。死者は1789年の革命当時で60万人、その後1814年の王政復古までの間に200万人に上るとも言われています。

さらにその混乱の中からほどなくナポレオンという「皇帝」が出て来てヨーロッパを荒らし回ることになりますが、そのナポレオン戦争(1803-1815)でも膨大な数のフランス人が命を落とすことになります。この1789年から1815年までの期間のフランス人の死者は通算で490万人に上るという説もあります。

というわけですから、フランス革命では王と王妃を断頭台にかけたにもかかわらず、その後およそ民主主義とは程遠い皇帝が登場するという予想外の事態に至ったようにも見えます。

しかし、フランス革命には、実はそれまでの市民革命とは異なる決定的に新しい政治思想があります。それが民族と言語と国家が一つになった国民国家モデルです。

ちなみに、フランス革命当時の標語として「自由」「平等」「博愛」というものがよく知られていますが、実はこの中の「博愛」がかなりのくせものです。これはぼんやりと広い人類愛のことのように思われるかもしれませんが、実はフランス国民限定の同胞愛というか、排他的な仲間意識のようなものなのです。そしてそこではフランス国民とは、フランス語を話す、それも美しいフランス語を話す民族でなければならないのです。

さて、こうしてフランス市民革命によりはじめて一民族=一国民=一国家という国民国家の範型が、それを統合するための共通言語=国民言語とともに世界に示されました。フランス革命当時のフランス全土で「人権宣言」を理解できたのは人口の3分の1程度にすぎなかったと言われています。それがフランス学士院を中心にした言語政策=言語改革運動により、共通語としての「美しいフランス語」が確立されていくことになるわけです。

実際、フランス人というのはパリ特有の洒落た言い回ししか正統フランス語と認めないところがあり、同じフランス語圏のスイスやベルギー、カナダの微妙に癖のあるフランス語はおもいっきり差別し、物笑いの種にします。他方で、外国人でも流暢なフランス語を話したとたんに人品知性共に8割増しくらいに高い評価を与えるところもあります。フランス人自身がフランス語(と知性や教養)についてはかなり屈折した感情をもっているように見えます。

それはさておき、この国民国家の思想はフランス以東の四大軍事帝国オーストリア、プロイセン、ロシアそしてオスマン・トルコに波及します。この地域は19世紀に入っても市民革命どころの話ではない軍事帝国で、市民革命の露払いをしたフランス啓蒙思想なども専制君主自らが近代化を押し進めようとする中で「上から」もたらされたくらいでした。

したがって、この地域において圧政下で民族独立の運動を、民族形成のそれとともに進めていた諸民族の中には、ナポレオンによる民族解放闘争への呼びかけを歓迎したところも少なからずありました。

もうかれこれ30年ほど前のことになりますが、セルビアの首都ベオグラードを訪れたとき、街の中心の広場に馬に乗ったナポレオンの銅像があるのを見て、「こんなところにナポレオンが?」と、不思議な気がしたものでしたが、当時のセルビア人たちにとって、ナポレオンは民族独立の頼もしい助っ人だったわけです。

1848年革命が中・東欧全土で勃発したのも、こうした思想の影響下での出来事でした。この革命自体は失敗に終わりましたが、今日の中・東欧諸国の歴史上極めて重要な位置づけがなされています。もっとも、実際にこれらの諸民族が独立したのは1920年のトリアノン条約以後ということになります。

20世紀に入ると、ロマン主義や啓蒙主義から発した市民革命の思想は、マルクスからレーニンを経て社会主義国家の成立という形で実現します。このときまで常に西から発していたイデオロギーの流れは、ソビエト連邦の成立と共産主義者による世界同時革命思想の登場により、ここで一転して東から西へと流れるようになります。第二次世界大戦後、中・東欧諸国の多くがソ連の衛星国として社会主義陣営に組み入れられることになります。 

しかし、フランス革命のときに生まれた民族と国民国家の思想は今日もなお健在であり、民族差別や民族紛争をもたらす要因の一つになっています。



【参考文献】
拙著『人と人びと―規範の社会学』(2003年いしずえ)pp.150.
拙著『人と人びと』(2012年ふくろう出版)pp.59.