2012年02月09日
週刊誌評(抄?)
本当は可哀相な人かも?別の意味で面白い今週号
1週間は本当に早いですね。きのうの夜、たまたま出かけた近所のコンビニで今週の『週刊新潮』(2月16日号)を買い求めた。目玉の特集は「『大増税』時代の節税指南」と題するもの。お金持ちにとっては大変な世の中になっていくだろうから、これからの節税というのは確かに大きなテーマである。しかし、私には関係ない。よって興味も湧かなかった。
ただ巻頭のいくつかの記事は大変に面白かったですな。一番目の天皇陛下の心臓のご病状はセンセーショナルには書いてあるが、もうお歳なのだからそりゃ血管も細くなるだろう。加齢に伴う狭窄だと思うので、とくに内容的にはどうということはない。ただ、国民はご病状を詳しく知るところではないと思うので、その意味のちょっとしたお知らせ的な意味合いはあるのかもしれない。要するに、今月の検査の結果によってステントその他の術法が使えなければ、バイパスの手術が必要になるかもとの主旨であります。それだけのことだ。
一方、次に書かれていた「『田中直紀』防衛相のサンドバック人生論」(26P〜29P・写真)は本当に出色に面白かった。これぞ、田中防衛相の人生と悲哀を言い得て妙という奴だ。内容は読んでみられるとイイと思うのだが、岳父田中角栄に見初められてじゃじゃ馬・真紀子嬢と結婚が相成ったことや、その父親でさえ15分と一緒にいることが我慢ならなかった彼女に、一生添い遂げようというその人生が描写されていて余すところがない。関係者の証言も面白いものばかりである。
そのエピソードをいくつか挙げておきましょうか。田中直紀先生はよく知られるように、初めの選挙は福島から出ていた。衆院議員として4選を経験していたのだが、1996年に落選をしてその後福島に見切りをつけてオヤジや真紀子さんの関係で新潟に移って、参院議員になった経歴を持っている。その最後の衆院選のときも、傍若無人の真紀子さんの応援はかえって迷惑と拒んでいたものが、最後は本人が勝手に乗り込み、後援者を前に「パパと落としたら承知しないわよぉ〜」と何とか彼女が毒づいたことから、支持者が一気に離反してしまったのだそうだ。このときにも、真紀子氏が来なければ「確実に当選をしていた」と関係者の弁。
その後も、奥さんのいいなりであるのは、よ〜く知られるところである。秘書を恫喝し、いっしょに直紀氏も怒られることはほんとうにショッチュウらしいのだが、秘書は辞めてもこの直紀氏は必至に耐えている。元秘書は、98年の参院選で地元・新潟へ選挙のための大切な話し合いに出かけたとき、新幹線の車中に電話があり突如真紀子氏から「帰ってこい!」との命令。初めは「大事な会合だから」と抵抗していた直紀氏も、最後は抵抗できずに新潟駅からそのままとって返した直紀氏の姿を伝えている。このほど左様で、直紀氏が奥さんのあやつり人形のようなものであるのは関係者の間では周知のことだ。
それにしてもというか、奥さんのわがままと勝手放題のために長年いた自民党までオン出ることになった直紀氏。待望の大臣になったのはいいが、その発言や知識はお粗末そのものである。この記事によれば、関係者からは「無能大臣」ではなくて「無脳大臣」と呼ばれているそうな。
なぜ、こんな時期にこんな人が…
それにしても国民は可哀相である(それは田中大臣の比ではない)。民主党という政党のご都合だけで、本来なってはいけない人を(一番不適格であったかもしれない)、この大事な時期に防衛大臣にしてしまった。野党ではなくても総理に「任命責任があるでしょう!」と言いたいところだ。
考え始めると、議員報酬の問題にしても国会議員削減の問題にしても、腹が立ってくるので考えるのもイヤになります。おそらく、これから1年経っても、事態はほぼ進んでいないでしょう。それとペアになっている消費税の問題も、本来はそんな類の話ではないハズだ。税金は税金としてその本質を考えないといけないのである。その意味で、今週の藤原正彦先生の「管見妄語」(「デフレ不況と日銀」)も出色の出来と印象づけられた。いまの日本の財政状況、消費税増税がどのような影響を与えるのか、総括的に考えていきたい人には多くの示唆を与えてくれる内容と思う。私も、議論はあると思うけれど、先生の意見にほぼ賛成ですな。これも興味のある人は読むことをおススメする。
それと、記事は巻頭の特集ぐらいでエッセイの類もほぼ読んでいないのだが、今週のワイド特集「揺り籠から墓場までの物語」(142P〜152P)はエラク面白いですぜ。捕まったロック歌手内田裕也氏と奥さん・樹木希林さんの近況、あのオレンジ共済事件の友部達夫・元参院議員が死んでいた話、辻元清美代議士(民主党)が次の選挙で危ない話、そして気になっていたあの中森明菜さんの近況とか……興味が尽きることがありません。今週号の新潮は、どこか普段のスキャンダルとはちょっと違う趣の記事が多いようにも見えていたが、正統派のスキャンダラスさも健在といったところか。
雑駁な感想になって申し訳ないが、普段の口調を借りるなら今週の新潮はおススメ。読みでがあるようだし、週刊誌的興味がそそられることは請け合いであります。自分のふがいなさに比べて、そんな興味で満足してはいけないことは分かっているが、他人のアラを探し、矮小で束の間のカタルシスを得るのは人間の本性かもしれない……。

2012年02月07日
レイン、レイン…
生かされている日常
朝からの強風。強い雨……久しぶりの荒天で、一気に世の中の雰囲気が変わったようにさえ感じる。それに、この暖気は何だろう――。
大したことはやっていない日常ながら、疲れが多少あったのかどうか、きのうはソファでひとしきりウトウトしたあと12時前ぐらいに就寝。それが午前5時半ぐらいまでぐっすりと寝てしまった。大変に珍しい。普段は1、2回はその前に必ず目を覚ましているのだが。その後も多少の眠気があったため二度寝。散歩に関しては、雨が降っていることが分かっていたので、いっそ止めようかとも思った。そこはそれで、近所のS神社だけでも参ろうと思い、決行をしました。
商店街のアーケードを抜けていくため、基本的にそんなに雨に打たれることはない。それでも、風とともに雨は横殴りなので傘を手に持ったまま、時折ななめに持ち替えて風雨を防ぐ。トボトボ……。
また新たな発見は、神社の手前でいわゆる“霊気”といったものを感じたことだ。こんなことは、以前には全くなかった。また、歳を取ったのかなぁ〜。普段と違って人はまったくいないので、ひっそりと薄暗い闇の向こうにご本体が見えるといった感じ(実際には戸は閉められていたが、灯明の明かりは見えた)。普段にも増して、厳かな気持ちが自分を包んだ。
何なのですかね。霊気といって悪ければ、辺りを包む森の精気と神の宿る“場”としての発露のようなものでしょうか。これはまったく、「犬夜叉」の世界ですな。結界さえ何処かにありそうな、そんな気分にもさせられたのである。あまり、雨の中を出歩きたくはなかったものの、普段より強い生気と爽やかさを強雨の中で感じられたことが面白かった。私たちは、確実に生かされているのですな……。
木々冬芽凍(いて)の緩みに濃紫 前田普羅
朝からの強風。強い雨……久しぶりの荒天で、一気に世の中の雰囲気が変わったようにさえ感じる。それに、この暖気は何だろう――。
大したことはやっていない日常ながら、疲れが多少あったのかどうか、きのうはソファでひとしきりウトウトしたあと12時前ぐらいに就寝。それが午前5時半ぐらいまでぐっすりと寝てしまった。大変に珍しい。普段は1、2回はその前に必ず目を覚ましているのだが。その後も多少の眠気があったため二度寝。散歩に関しては、雨が降っていることが分かっていたので、いっそ止めようかとも思った。そこはそれで、近所のS神社だけでも参ろうと思い、決行をしました。
商店街のアーケードを抜けていくため、基本的にそんなに雨に打たれることはない。それでも、風とともに雨は横殴りなので傘を手に持ったまま、時折ななめに持ち替えて風雨を防ぐ。トボトボ……。
また新たな発見は、神社の手前でいわゆる“霊気”といったものを感じたことだ。こんなことは、以前には全くなかった。また、歳を取ったのかなぁ〜。普段と違って人はまったくいないので、ひっそりと薄暗い闇の向こうにご本体が見えるといった感じ(実際には戸は閉められていたが、灯明の明かりは見えた)。普段にも増して、厳かな気持ちが自分を包んだ。
何なのですかね。霊気といって悪ければ、辺りを包む森の精気と神の宿る“場”としての発露のようなものでしょうか。これはまったく、「犬夜叉」の世界ですな。結界さえ何処かにありそうな、そんな気分にもさせられたのである。あまり、雨の中を出歩きたくはなかったものの、普段より強い生気と爽やかさを強雨の中で感じられたことが面白かった。私たちは、確実に生かされているのですな……。
木々冬芽凍(いて)の緩みに濃紫 前田普羅
2012年02月06日
私たちは変われるのか?
自分を空しくしないとダメか?
たしか今朝方の夢の中で考えたような気もするし、もしかしてきのうからそんなことを意識してきたのかもとも思っている。つまり、「もう日本は確実に変わってきた…」との感慨である。むつかしい事を考えているわけではありません。先日にも触れたように、「モノづくり日本」は着実に衰退している。あの大松下(パナソニック)は7800億だかの赤字、日本を代表したモノづくり企業のソニーも2200億円、シャープは2900億円だそうだ。これに、クルマのメーカーなども数えていけば、日本の製造業は壊滅的なところに追い込まれているとしか思えない。
ただ、一方では歴史的な円高とかタイでの洪水、昨年の震災の影響も消費その他であるだろうから皆がメーカーだけの責任といえないことは分かる。その技術にしたところで、ある部分ではいまだに世界から高い評価は受けているのである。しかし、それでも……と言ったところだろうか。
一つ思えるのは、どうも私たちは戦略的思考に乏しいということ。目の前がバラ色に見えてしまったりすると、どうも5年後、10年後というのは後回しになってしまうようだ。かく言う私も、今が楽しければ明日のことは考えない典型的なイージーゴーイングである(多少は反省をしている)。
ここでも詳しく触れないが、例えば韓国とかは国内市場が乏しいので早くから世界戦略のことを考えて行動をしてきたと聞いている。ここには、国も積極的に関わり、さまざまな優遇措置を取ってきたことはよく知られるところだ。それがどうも、自動車であったり家電でいうなら液晶テレビの次にくるといわれる有機ELでの先進技術に結びついたようである。これは、中国も同じ事情。いくら物まねと言われようと確実に日本の技術を盗み、これに追いついてきているのは、認めざるを得ない状況ではありませんかね。
自分らの文明や文化についても今一度見直すこと
またイキナリ抹香臭くなって申し訳ないのですが、日本人の性癖とか日常の生活観の根底にあるものは戦後もほとんど変化をしていないように思います。お上への崇拝とか、長いものに巻かれろ、責任の所在を必ずウヤムヤにしてきたところなど、まるで戦前・戦中と変わっていないのだ。それが、今の状況をある種招いているとも言えないでしょうか。
今回の原発の問題一つとったところで、国難であるのは間違いはないわけだし、それを皆が認めていながら、また何時もののように何処か忘れ始めてきている。そうじゃなければ、真っ先に東北支援キャンペーンに動いたあのテレビが、以前にも増した俗悪大はしゃぎバラエティーを繰り広げていることが理解をできない。
何時も言われてしまうように、マスコミにも大いなる責任はあると思うのですが、ここに来て自分らの生活観とか文明観を変えていかないと世の中は持たなくなっているのではないか。日本人のパワー(とくに男のパワーかな?)は確実に衰えているような気もしてしまうのである。
自動ドアやひねればすぐにお湯が出る蛇口を取ってみても、それが「当たり前」と考える方が私なぞはオカシイと完璧に思いますがね。電力を節約しようといったところで、原子力に群がってその甘い蜜を吸ってきた御仁がたくさんいるのだから、今回の事態に対してはキチンとその責任を明確にした方がいい。
それが、まったくできないのが日本の社会の限界のような気がします。私もそうなのだが、また何時ものように電気にしたところ、お金にしたところで普通の感覚で消費に走ってしまっている。もっと、根深い問題も確かにあるのだが、単純に考えればふつうの生活をして皆何処か痛みを分かち合うようにしないと、ますます社会的不平等と意識格差は広がっていくような気がしています。
極論と言われるかもしれないが、電気が必ずしも必要な場面ばかりではないのに、なぜ「電気、電気…」と言うのだろう。原発には反対してきたものの立場として、ランプ生活だって悪くないような気もしているが(必ず反論は浴びると思うけれど)。これまで玉条にしていた、便利さとか速さは少し見直した方がいい。昔から言われてきたことではあるのだが、本当にホンモノでそんな場面に立ち至っているような気がします。私を筆頭に、人は存外に保守的なものだが、守るべきものは別にして浮かれた文明とその果実にはいったん見切りを意識してもいいような気がしているのだ――。自信はないけれど、やはり努力すべきでせう。v( ̄∇ ̄)v
たしか今朝方の夢の中で考えたような気もするし、もしかしてきのうからそんなことを意識してきたのかもとも思っている。つまり、「もう日本は確実に変わってきた…」との感慨である。むつかしい事を考えているわけではありません。先日にも触れたように、「モノづくり日本」は着実に衰退している。あの大松下(パナソニック)は7800億だかの赤字、日本を代表したモノづくり企業のソニーも2200億円、シャープは2900億円だそうだ。これに、クルマのメーカーなども数えていけば、日本の製造業は壊滅的なところに追い込まれているとしか思えない。
ただ、一方では歴史的な円高とかタイでの洪水、昨年の震災の影響も消費その他であるだろうから皆がメーカーだけの責任といえないことは分かる。その技術にしたところで、ある部分ではいまだに世界から高い評価は受けているのである。しかし、それでも……と言ったところだろうか。
一つ思えるのは、どうも私たちは戦略的思考に乏しいということ。目の前がバラ色に見えてしまったりすると、どうも5年後、10年後というのは後回しになってしまうようだ。かく言う私も、今が楽しければ明日のことは考えない典型的なイージーゴーイングである(多少は反省をしている)。
ここでも詳しく触れないが、例えば韓国とかは国内市場が乏しいので早くから世界戦略のことを考えて行動をしてきたと聞いている。ここには、国も積極的に関わり、さまざまな優遇措置を取ってきたことはよく知られるところだ。それがどうも、自動車であったり家電でいうなら液晶テレビの次にくるといわれる有機ELでの先進技術に結びついたようである。これは、中国も同じ事情。いくら物まねと言われようと確実に日本の技術を盗み、これに追いついてきているのは、認めざるを得ない状況ではありませんかね。
自分らの文明や文化についても今一度見直すこと
またイキナリ抹香臭くなって申し訳ないのですが、日本人の性癖とか日常の生活観の根底にあるものは戦後もほとんど変化をしていないように思います。お上への崇拝とか、長いものに巻かれろ、責任の所在を必ずウヤムヤにしてきたところなど、まるで戦前・戦中と変わっていないのだ。それが、今の状況をある種招いているとも言えないでしょうか。
今回の原発の問題一つとったところで、国難であるのは間違いはないわけだし、それを皆が認めていながら、また何時もののように何処か忘れ始めてきている。そうじゃなければ、真っ先に東北支援キャンペーンに動いたあのテレビが、以前にも増した俗悪大はしゃぎバラエティーを繰り広げていることが理解をできない。
何時も言われてしまうように、マスコミにも大いなる責任はあると思うのですが、ここに来て自分らの生活観とか文明観を変えていかないと世の中は持たなくなっているのではないか。日本人のパワー(とくに男のパワーかな?)は確実に衰えているような気もしてしまうのである。
自動ドアやひねればすぐにお湯が出る蛇口を取ってみても、それが「当たり前」と考える方が私なぞはオカシイと完璧に思いますがね。電力を節約しようといったところで、原子力に群がってその甘い蜜を吸ってきた御仁がたくさんいるのだから、今回の事態に対してはキチンとその責任を明確にした方がいい。
それが、まったくできないのが日本の社会の限界のような気がします。私もそうなのだが、また何時ものように電気にしたところ、お金にしたところで普通の感覚で消費に走ってしまっている。もっと、根深い問題も確かにあるのだが、単純に考えればふつうの生活をして皆何処か痛みを分かち合うようにしないと、ますます社会的不平等と意識格差は広がっていくような気がしています。
極論と言われるかもしれないが、電気が必ずしも必要な場面ばかりではないのに、なぜ「電気、電気…」と言うのだろう。原発には反対してきたものの立場として、ランプ生活だって悪くないような気もしているが(必ず反論は浴びると思うけれど)。これまで玉条にしていた、便利さとか速さは少し見直した方がいい。昔から言われてきたことではあるのだが、本当にホンモノでそんな場面に立ち至っているような気がします。私を筆頭に、人は存外に保守的なものだが、守るべきものは別にして浮かれた文明とその果実にはいったん見切りを意識してもいいような気がしているのだ――。自信はないけれど、やはり努力すべきでせう。v( ̄∇ ̄)v
2012年02月04日
清武騒動の行方
一種感動した魚住氏のコラムの載った「週刊現代」なぜ、本当のところが語られないのか
少し遅ればせになるが、いわゆる清武問題で元巨人軍GMだった清武英利氏関連のナベツネ告発騒動に関して、氏本人と読売本社双方の訴訟の第一回口頭弁論が2日に東京地裁で開かれている。新聞各紙でもそれなりに扱われているハズだ。
私は個人的に、近年これほどの胸のすく快挙はないぐらいに考えていたが、存外反響が少なくマスコミの扱いも心なしか冷たいように感じるのは私だけの感想だろうか。どうも、皆さん腰が引けているのである。今回、たまたま見た朝日の記事は大きくて関心を呼ぶ類いのものだったが、ほかの紙面はどうだったのだろうか。見ていないので何とも言えないものの、そっけない感じだったのではないでしょうかねぇ〜。
なぜ、急にそんな感想を持ち出したかというと、これもたまたま読んだ『週刊現代』(2月11日号・写真)で共同の先輩である魚住昭さん(直接、言葉を交わしたことはない)が「清武氏はなぜ“ナベツネ体制”に一人は刃向かったのか」と題して、そのコラムで清武氏に大いなるエールを送っていたからだ。ある種感動もしたし、その内容に嘘はないように思った。
魚住さんは共同の社会部記者だったときの思い出を枕にして、この清武氏が大変な社会部記者で特ダネを抜きまくったこと、それに追い駆けられたことなどをさりげなく持ち出す。そして、なぜ今回の事態が起こったかについても、「私も社会部出身の記者だったから分かる。それは、人の痛みに対して放っておくことができない性分からだ」とその心情を忖度して、強く清武氏の今回の行動を弁護していた。つまり、社会部の記者は自分の書いた記事によって人を傷つけることがある。その一つの償いとして自分に課すのは、「相手の地位にかかわらず、批判すべき行為は遠慮なく批判して誰も特別扱いせぬことだ」(70ページ)という心情だというのである。この辺は、痛く分かりますな。魚住さんではなくても、「誰もがナベツネ体制に屈服していく中でこんな気骨のある記者が残っていたのだ。それを目の当たりにして救われたような気がした」(結語)と、正直思うのではないだろうか。少なくとも、私は「その通りだ」と思うのである。
なぜ、マスコミが権力を誇示するのか
一体、こうした横暴や権力とは一番無縁なところにいなければならないハズの大マスコミが、恥もせずにこうした行為を繰り返してきたこと自体がオカシイのである。国民もその老害と横暴さを実感し、本来なら清武氏の行為に喝采を送っているはずなのに、どうもそこまでいかない。何処か皆さん、「虎の尾を踏んだ」と感じているのではないだろうか。渡辺氏(ナベツネ)のことを論評すればキリがなくなってしまうが、もともとの左翼が権力を持つと手がつけられない典型のようなケースだろう。しかも、政治部の記者として時の権力とほどよく結託してきたときている。
だいたい、今の日本の政治とマスコミをダメにしてきた源流は、私はこの人と中曽根康弘の盟友関係にあると思っています。日本の“報政共同体”構造(こんな言葉があるのかどうか知らないが)が読売によって推し進められ、それが政治・経済だけでなく巨人軍という本来一番にクリーンであるべきスポーツの世界で権力構造を体現してきたということが本質ではないのかしら。皆さん、それは知っているハズだと思うのだが……。
裁判自体に関しては、法律論でいって清武さんに分があるわけでもないだろう。しかし、コトは法律云々の話ではないはずである。この国の構造的な問題にまで及んでしまう話ではないかと思います。これから、ナベツネ本人にも証人申請が出るはずだろうし、この人がまたどんな鉄面皮を述べるのかにも興味がある。繰り返しになるけれど、みんながオカシイと思っていることを「それはオカシイ!」と言えない世の中はマズイですぜ。
ちなみに、清武氏のあとを襲った巨人軍代表(GM)である原沢敦氏はもともと一緒に仕事をしていた仲間で、いまでも年賀状のやり取りをするくらいの友人である。彼も仕事はできた男だったなぁ〜。清武騒動で名前が喧伝されたのは一面で嬉しいことではあったけれど、コトの本質は清武氏の男気にあるのではないだろうか。私は彼が巨人軍を愛していることを信じているし、そのことが確かに騒動の起爆剤になったと思っている。もっともっと、「よくやった!」と言われてもいい話だと思うのですが……。

2012年02月03日
モノを書くということ
これでもそれなりに気は遣っている?
ホントに寒いですな。私の住む街ではあまり雪には縁はないのだが、きのうは県西部で一時大雪が降りけっこうな話題になっていた。まして日本海側の豪雪は、甚大な被害が出ていることもあり言葉もない。まことに困りものの自然現象ながら、こればかりは文句の持って行き場がないといったところだろうか。
そのきのうの一日が休みだったこともあり、何か話題はないものかと一日考えていた部分がある。これでも物書きの端くれなので、ブログに対しても「少しは気のきいたことを書かねば」との強迫観念は常にあるのです。ただ、逆にそれが、「日常雑感ばかりではなぁ〜…」と結局の“自爆”をもたらしているところがあるかもしれない。その辺は神経質なのです。
こんな自分ではあっても、新聞記者の時代から原稿はわりかた早い方だとは思っていた。何しろ短時間でまとめないといけない機会が多いものだから、雑誌の仕事とは違ってその日やその場でのウムを言わせずの仕事である。政治部のときには、クルマでの移動中に原稿を書くなんてこともけっこうあった。もちろん、短い原稿ではあるのだけれど、その気の遣いようとストレスは大変なものなのである。
ただ、どうだろう。それでも取材に時間がかかってそれなりの分量になる原稿の場合は、その構成や書き出しとオチ(私たちの場合は結語ということ)を考えて一週間苦闘するなんてこともある。この欄にしたところで、初期の頃は下書きをしたうえでまとめていて、それを知った友人からビックリされたこともある(いまは、もちろん勢いで書いております)。
つまり、私のような者の場合でも、「書く」という行為にはそれなりの準備と努力がいるということ――。私の場合は極めていい加減だと思っているが、作家と呼ばれている方々の苦悶というのも相当のものだと理解をしている。これは本当の気持ちである。
どちらがどうということもないのだろう
一方で、私の場合は後年になってから肉体労働の端くれみたいなことにも手を染めている。これはこれで感慨があるが、やはり結論的には本質の部分がまったく違うのではないかということ。やはり、こう言っては何だけど、どんな複雑な仕事をやっていても、肉体のそれはごくパターン化している。あとは、その日常性との闘いといった側面がその大部分を占めていくと思う。これに対して、頭脳労働はその多くが、毎日違う場面で違うことをしなければいけないという、ある種やっかいな面を持っているのであります。
いっとき、そのあまりの非効率性に今の仕事を断念しようとしたことがあった。何しろ、必要な経費を考えたりすると時給は最低賃金法をはるかに下回ってしまうのだ。もちろん、ずっと体を動かしている訳ではないのだが、それでも何か時間のムダのように思えたところがあったからである。
今では、その効率性とやりがいの部分は飛躍的に向上はしたものの、それでも私が少ない物書き仕事をこなす中で、一度取材をしてまとまった原稿を提出すれば最低でも7、8万円の対価にはなる。前後の時間はあるにしても、実際に原稿をまとめる時間は2、3時間程度のものである。比べることもオカシイのかもしれないが、まるでその効率性が違う現実。
しかし、結局はその中身と本質が違うということなのでしょうな。両方を経験すると、世の中の仕組みや働くことの意味するものがよく分かったような気がした。日本の社会は、小学校のときに習った二重構造が延々と続いている社会なのである。だから、皆さん上昇志向が強くなるわけなのですな。
ただ、そうした上昇志向とエリート育成がある種のゆがみを生んだのも周知のところ。間違ったエリート観が結局、こんな情けない世の中を作ってしまったのも本当の現実である。
今更ではないけれど、職業としての政治がどのようなものであるべきか(本質的にはボランティアのそれであるべきだろう)、世の中の方々とともにシッカリと考えたいところです。私も何とか、書くということの意味合いを探っていこうと思っております。節分会の寒さの中で考えたこと。
柊を挿す手燭かも家めぐり 白岩三郎
ホントに寒いですな。私の住む街ではあまり雪には縁はないのだが、きのうは県西部で一時大雪が降りけっこうな話題になっていた。まして日本海側の豪雪は、甚大な被害が出ていることもあり言葉もない。まことに困りものの自然現象ながら、こればかりは文句の持って行き場がないといったところだろうか。
そのきのうの一日が休みだったこともあり、何か話題はないものかと一日考えていた部分がある。これでも物書きの端くれなので、ブログに対しても「少しは気のきいたことを書かねば」との強迫観念は常にあるのです。ただ、逆にそれが、「日常雑感ばかりではなぁ〜…」と結局の“自爆”をもたらしているところがあるかもしれない。その辺は神経質なのです。
こんな自分ではあっても、新聞記者の時代から原稿はわりかた早い方だとは思っていた。何しろ短時間でまとめないといけない機会が多いものだから、雑誌の仕事とは違ってその日やその場でのウムを言わせずの仕事である。政治部のときには、クルマでの移動中に原稿を書くなんてこともけっこうあった。もちろん、短い原稿ではあるのだけれど、その気の遣いようとストレスは大変なものなのである。
ただ、どうだろう。それでも取材に時間がかかってそれなりの分量になる原稿の場合は、その構成や書き出しとオチ(私たちの場合は結語ということ)を考えて一週間苦闘するなんてこともある。この欄にしたところで、初期の頃は下書きをしたうえでまとめていて、それを知った友人からビックリされたこともある(いまは、もちろん勢いで書いております)。
つまり、私のような者の場合でも、「書く」という行為にはそれなりの準備と努力がいるということ――。私の場合は極めていい加減だと思っているが、作家と呼ばれている方々の苦悶というのも相当のものだと理解をしている。これは本当の気持ちである。
どちらがどうということもないのだろう
一方で、私の場合は後年になってから肉体労働の端くれみたいなことにも手を染めている。これはこれで感慨があるが、やはり結論的には本質の部分がまったく違うのではないかということ。やはり、こう言っては何だけど、どんな複雑な仕事をやっていても、肉体のそれはごくパターン化している。あとは、その日常性との闘いといった側面がその大部分を占めていくと思う。これに対して、頭脳労働はその多くが、毎日違う場面で違うことをしなければいけないという、ある種やっかいな面を持っているのであります。
いっとき、そのあまりの非効率性に今の仕事を断念しようとしたことがあった。何しろ、必要な経費を考えたりすると時給は最低賃金法をはるかに下回ってしまうのだ。もちろん、ずっと体を動かしている訳ではないのだが、それでも何か時間のムダのように思えたところがあったからである。
今では、その効率性とやりがいの部分は飛躍的に向上はしたものの、それでも私が少ない物書き仕事をこなす中で、一度取材をしてまとまった原稿を提出すれば最低でも7、8万円の対価にはなる。前後の時間はあるにしても、実際に原稿をまとめる時間は2、3時間程度のものである。比べることもオカシイのかもしれないが、まるでその効率性が違う現実。
しかし、結局はその中身と本質が違うということなのでしょうな。両方を経験すると、世の中の仕組みや働くことの意味するものがよく分かったような気がした。日本の社会は、小学校のときに習った二重構造が延々と続いている社会なのである。だから、皆さん上昇志向が強くなるわけなのですな。
ただ、そうした上昇志向とエリート育成がある種のゆがみを生んだのも周知のところ。間違ったエリート観が結局、こんな情けない世の中を作ってしまったのも本当の現実である。
今更ではないけれど、職業としての政治がどのようなものであるべきか(本質的にはボランティアのそれであるべきだろう)、世の中の方々とともにシッカリと考えたいところです。私も何とか、書くということの意味合いを探っていこうと思っております。節分会の寒さの中で考えたこと。
柊を挿す手燭かも家めぐり 白岩三郎
2012年02月01日
田中防衛相で内閣はつぶれる
この人が疫病神(?)・ウィキペディアからまあ、前代未聞とはこの人のための言葉
田中直紀――民主党参議院議員(71歳)、もともと影の薄い人だが、岳父はかの田中角栄元首相。嫁さんが田中真紀子民主党衆議院議員といった方が通りがいいだろう。この人が待望の大臣になった。それも、内閣の中でも要職と考えられる防衛大臣。おそらくは輿石幹事長や小沢一郎氏のラインを忖度してのいわゆる論功行賞人事だろうが、これは完全なミステークであり“甚大な”結果をもたらすのではないだろうか。
舞い上がってしまったのかどうか、就任早々からNHKの討論番組で武器使用基準と武器輸出三原則を混同したり、沖縄に対する心無い発言などが問題になった。しょせんは防衛問題に関してもシロート同然、何の見識も政治観も持たない御仁なのである。
それを確信したのはついきのうのことだ。仕事は車で行っているため、国会が始まってからは国会中継をずぅっと聞いている(もちろん、聞いていない場面も多い)。その参院予算委員会で、自民党のたしか山谷えり子さんの質問だったと思う。いま自衛隊は南スーダンに平和維持活動の軍隊を展開しているが、ご存じのように自衛隊員は小火器しか使えないし自ら発砲することもできない。そのために、共同行動をしているバングラデシュの軍隊に守られているのは周知のことである(こんなことは新聞を読んでいれば分かる)。
それを何ということだろう。質問者の「どこの軍隊に援護されているのか?」との問いに対し、この大臣さまはその事実を知らなかったのだ。慌てた副大臣が答弁をしていたが、その後に言い繕っても後の祭りだろう。沖縄の基地移転に関しても、「なぜ、海兵隊を日本本土に展開してはいけないのか?」との質問にも、「モゴモゴ…」とまったく答えられず。あらゆる質問に的外れの回答しかできていなかった。
もぉ〜、完全に呆れましたね。どこの国の大臣がこんな基礎的なことを、しかも防衛機密でも何でもないことを部下に教えられないと知らないなんてことがあるのかどうか。いや、あり得ないだろう。事前の質問趣意の中でも触れられていなかったのかもしれないが、それにしてもと完全にぶっ飛んだ。
大臣不適格・解散の火種か?
ここまでヒドイかということは、私も不明にして知らなかったですな。きょうの新聞によれば、その予算委員会を20分も中座してその間に食堂にいたとかいうし、自分が2年前に沖縄に視察に行ったときに現地の小学校長と交わした会話等についても、まともに覚えていないようなあり様だった。これは、周囲に有能な官僚がいたところで、お手上げの状態に陥ってしまうのではないだろうか。
「ありえねぇ〜」というのは、まさにこういうことを言うのでしょうね。奥さんもはしゃげるだけはしゃいでいたが、これではあまりに国民がカワイソウという話である。先の山谷えり子さんは、旧知のある国の大使から「日本ではシロートの人でも防衛大臣になれるのでしょうか?」と質問をされたと話しておられた。本当に、皆さんがそう思うだろうし、国際社会からもエライ反発を食らうのではないでしょうかねえ。
この田中大臣は岡田副総理を含めて内閣の疫病神と呼ばれているそうだが、このまま行くと疫病神どころか大変な時限爆弾になってしまうと思う。国会の審議ひとつ取っても、この方ではとても持たないだろう。きのうは音声しか聞こえていなかったが、追及をするとかいうより質問者も呆れてしまって、二の句が継げないといった状態でありました。分かるなぁ〜。こんなのは政治とか国会とかの、まるで“以前”の話ですぜ。
野田内閣は持たない。このまま、今国会は混乱を極め、何とか予算を通したあとの解散・総選挙でしょう。その方が国民のためになると思えるし、そうでなければこの国はいよいよ維持できないと思います。ここまで人材が払底している党だとも思っていなかった。見かけ倒れは雑魚議員にとどめておいて欲しかった。大看板まではこうした状態なら、もともと2大政党制など何の意味も持ち得ないのだ。

2012年01月30日
春は来るのか?
確かにヒントがいろいろと…絶望、絶望でいいとは思わないが
寒いですな。当地でも朝はマイナスの予想だったが、たしかに朝の冷え込みは一番だった気がする。全般的に今季で一番の寒さといっていいのではないか。「寒い、寒い…」と言って、それが懐だけでないことも、一方で大変に気になるのである。いまの世相と政治の行方。経済の不透明性に至っては、それこそ恐慌が起こるのではないかと思えるほど世界、そして日本の状況は悪いと呼んでいいのではないだろうか。
本当は寒さにかこつけて例のように歳時記めいた記述でお茶の濁そうとも考えたのだが、それではとも思い、少しばかり気になっていた今週の『週刊現代』(2月11日号)をさっそく買ってみた。まだ、巻頭の特集しか読んでおりまっしぇ〜ん。一番に気になったのは、その巻頭の「これからの日本を考えるヒント」(36P〜42P・巻頭写真)。堂々と7ページにわたる立派な啓発記事であります。
内容もおそらく大方の想像がつくようにも思う。昨週、日本の貿易収支が31年ぶりにマイナスになったことを枕にして、その経済の衰退ぶりを象徴的なところで列記していくのが、書き出しとその後の数ページである。モノづくりの日本などと呼ばれてきたので、トヨタがダメ、ソニーがダメ、松下も韓国に完全に先を越されたなどと縷々述べると、それだけで日本の惨状が想像がつくようなものだろう。決して悲観的な見方だけに傾いてもいけないのかもしれないが、確かに数字や新製品の現状は家電一つとっても韓国に負けているらしい。液晶テレビの次に期待をされているのが、有機ELと呼ばれる製品らしいがこれを先んじてサムスンやLGが韓国内では発売するらしい。松下その他は、完全に後塵を拝したのである。
そんなこんな、私は知らなかったのだがトヨタが自動車販売台数で4年ぶりにGMに抜かれたらしいですな。ついでにフォルクスワーゲンにも負けてしまったらしい。何とも象徴的な話である。
次に書いてあるのが財政基盤の悪化の問題であります。これも詳しくは触れないが、消費税をいくら10%に上げたところでまるで追いつかないのは、多少財政の知識のある人ならみんな知っている。政治家を始め、大きな声では言わないだけである。いまの民主党はとくにそうだろう。でも、このままでは済まない問題で、この時期に税金を上げることがどのような事態を招くかをそれこそきちんとシミュレーションをしないといけないのだろう。
この国をつぶさないために
以前から、この欄でも「このままでは日本の将来はない」と繰り返し書いて、ある読者からは「救いがないとばかり書くな」とお叱りを受けた。そのときは「確かに…」と反省もしたが、ここまで来ると本当に未来も将来もないような気になる。これは、多くの人がそう感じていらっしゃるのではないか。
今回の週刊現代の記事では、さすがに突き放すようなことはせずに、ちゃんと「どうすれば立ち直れるのか」という部分にも言及をしている。結論としては、「教養のある人間を育てろ!」ということである。外語大にいた中嶋嶺雄さんが学長をやられているという秋田の国際教養大学は就職率100%。さらにその進路も米大手証券を含む一流会社ぞろいなのだという。何が原因かというと、そこでのきちんと社会人・人間としての教養を学んでいるからとのことだ。聞けば、新渡戸稲造の『武士道』や茂吉の『万葉秀歌』なども必須になっているらしい。
さらに、付け焼刃の英語教育なども決して行っていないとのこと。こうして教養を身に付けていけば、必ず英米人にも尊敬をされる英語コミュニケーションが可能になるというのであります。これは、本当に大賛成ですね。「明治の時期からの先人が英語を必死で学んだのは外国の教養を吸収したかったから。手段と目的をはき違えていくら努力をしても、決して世界で通用する人間にはならない(大意)」との中嶋学長の言葉もまさにその通りと思えます。わが意を得たりといったところだ。
「決して悲観だけする必要はない」と、この週刊誌でも何とか私たちの絶望を食い止めようとしてくれていはる(急に関西弁になったが)。ただ、これはむしろ販売戦略かもしれない。ここまでの国情のまとめができる記者であれば、とっくに日本を見限っているような気もするが……。とまれ、この後に続く外国人トレーダーによる「『世界恐慌』私の読み方」との記事(43P〜45P)も読んだが、今週の現代はなかなか興味深い話ばかりであります。
以前から何回か、現代にもいい記事が多いし、とくにエッセイの部分で伊集院静氏を始めとして読み応えのあるものが多いと書いた。これは今も変わっていない感想だ。先輩である魚住昭氏のコラムもいろいろ啓発をされるところが多いのであります。
季節の話題は何処かに飛んでしまったが、夜になってますます冷えてきたことに変わりはない。本当に結論部分はこれからなのだが、日本の沈没過程を考えていると「本当にこの国に春は来るのだろうか?」とも思えてしまうのです。もう1月とちょっとすれば、あの震災からでも1年が経ってしまう。すべてが遅いのだ。めぐり来る季節のうつろいを意識しながらでも、生活と生活者の心を考えてしまう。もう少し被災地に日が当たらなければ、本当の春は来ないのではないか……と。
馬を拭きはづむ少女の息白し 福田甲子雄
2012年01月28日
オー・ミステーク!(今週の「週刊新潮」から)
読むのもイヤになる?今週の週刊新潮私たちはなぜ、間違ったのか
先週号の「週刊新潮」には見るべき・読むべき記事が見受けられないと書いた。しかし、今週号(2月2日号・写真)は全く別の意味で、非常に見応えのある記事(半分皮肉である)が書かれていると言って間違いないだろう。それは、巻頭の特集になっている「ネットオークション三昧の“バカ首相補佐官”」との4ページ(22P〜25P)である。
簡単に内容を告げておくと、首相補佐官なる肩書きを持つ東京5区選出の手塚仁雄代議士がその公務もものかわ、ヤフーオークションで鞄やもらい物と思われるお酒、マニアアイテム等を売りまくっているというのである。その数、200点以上(異常だろう)とか。本人もその事実を否定していないし、秘書が代理で物の取引(つまり送ったりすること)を行ったことさえ完全否定はしていない。さらに、新潮から「マズイのではないか?」と問われると、「どこがいけないのか!」と完全に居直っているとの趣旨である。こうなると、この記事の内容もほぼ間違いないことがよ〜く分かる。
中には議員会館で撮影されたものと思われる、写真なども多数出てくるというから、普通の感覚の人間ならその所業に多少の躊躇があるものと思われるが、この方はそうでもないらしい。もうここまでくると、何時も言うように完全にマンガの世界という気がする。話すことさえ嫌になる、唾棄したくなるような事実であります。
私たちは何処でどう間違ったのかどうか。民主党の公約違反も取り返しのつかない愚行の限りと思えるが、ここに来て本当にこういう方々が絶対に国会議員になってはいけなかったのだ、と思える人物がゾロゾロと現れている。ちなみに、先の手塚なる人物は補佐官の中でもマスコミ対応担当の目立ちたがり屋だそうだが、その手塚氏が引っ張ってきた人物がかの蓮舫議員や横峯良郎参議院議員両氏なのだという。これまた、むべなるかなである。
もう終焉に向かいつつあるこの国の議会主義
本来ならもう少し、今週の週刊誌記事に関する論評も加えないといけないのだろうが、全部読んでいるわけでもないし、この特集記事を読んだだけで感情が沸点に達してしまった気さえした。われわれは、本当にこの政党を第一党にしてしまったことを、ここに来て悔いているのではないかと想像したりする。いや、絶対にそうでしょう。あの、民主党政権になったときの熱気は、いったい「何だったのか?」という気がするのである。
首相も歴代、間違った。ここに来ても、雄弁で鳴らした現首相は中身のない空論を繰り返すだけ。史上最大の災害を史上最悪の総理のときに迎えてしまった私たちも不幸とは思うが、そうした先見のない行動に反省のカケラもない前総理にも呆れるばかりであります。もう、後がないのでは? 今の政権は即刻、全取っかえしないと持たないと思えますな。
あと、先週号の「新潮」に熱気と冴えが感じられなかったせいか、今週号はワイド特集も芸大教授の(後任への)愛人採用疑惑、民社党の女の戦い、超有名プロデューサーの借金地獄と、私たちのスキャンダル好きを満足させてくれるような記事が全体に、多かったような気がする。その功労多としておきませう。
それにしてもと、先ほどの話に戻ってしまう。本当に今の民主党の代議士はヒドイですぜ。きのうの国会中継ではついに例の「新党きづな(絆)」とかいう政党の答弁を聞いてしまったが、ここの旧民主党代議士はほとんど比例の選出ではないのか。なぜ、政党に囲われて当選した人間が簡単に政党をオン出ることができるのか。これは、選挙民をバカにした話としか考えられない。とにもかくにも、政党助成金が欲しかったというだけの話。それも、自分らが次の選挙で勝てないことも見越しての話である。……(言葉を失う)。国民はもっと怒らないと、本当にこの国は沈没をしてしまうと思いますよ。居直りではないが、私はもうどうなっても悔いはないけれど、青少年には未来を残さないとイケナイのだ、これホント!
2012年01月27日
富士は燃えているか?
けさの富士山。あまりハッキリとは見えなかったが…信仰するなら大事にしなければ
すっかり寒さが定着したことで、富士山も雪をしっかりと戴冠をするようになってきた。きのうの富士はキレイだったのだが、けさはそうでもないようである(写真)。ナショナルのニュースに至っているかどうか知らないが、この霊峰富士はいよいよ政府による世界遺産登録への正式推薦が決まった。2月1日までに、静岡・山梨両県ほか文化庁などが作成した推薦書がユネスコ(本部・パリ)に提出をされることになっている。
結論めいたことを言えば、私は以前にも書いたとおり、富士山の世界遺産登録にはどこか懐疑的である。ただ、この富士については“自然遺産”としての登録が1994年に挫折し、その後その文化的価値を認めて欲しいと世界文化遺産での登録に切り替えた経緯がある。たしかに、自然としての価値についてより、昔からの宗教的拠り所としてのその歴史、いくたの絵画にも描かれたその姿や外国への浸透度といったものが通りがいいということはあるだろう。その文化的価値についてはあまり、文句をさしはさむ余地はないのかもしれない。
しかし、「それでも」とも思う。今回はこれまでにも例がないように周辺の富士五湖、本宮の浅間大社、静岡県側に美保の松原、山梨の忍野八海といった約7万ヘクタールにも及ぶ広大な大地や構成資産が対象になっている。目に見えない文化ばかりでなく、目に見える景観も当然対象になっていると言えるだろう。
そう思ったときに、「どうなのかな?」と思うのである。
県民・国民がこぞって応援をするようでないと
今後は現地調査や関係機関による審査が待ち受けており、かなり詳しくその存在価値とアピール度が問われることになるだろう。先ほど述べたように、富士山の価値についてアレコレ言う人は少ないかもしれないが、やはりその御姿にはどこか改善の余地があるように思えるのであります。地元紙が「富士山は遠景は美しいかもしれないが、心配なのはその近景である」と書いていた。その通りではないだろうか。
周囲の自然とともに、環境と観光の調和を図らないといけない。今のような野放しの状態で、周辺がゴミだらけといった惨状についてはすぐにでも改善をしないといけないのである。その山頂のことではないにしても、山麓のいくつかの場所については昔から産業廃棄物等の不法投棄場としても有名だった。取り締まりは行われているが、これもいたちごっこの部分があるハズ。本当に富士が大事に思われていれば、ここまでの所業はあり得ないのではないかとも思ってしまう。
私のいる静岡については、現K知事が非常に熱心なことがあり、「富士山の日」を独自に作ったりとそれは積極的である。しかし、これも県民がこぞってそれに乗っかっているかとなるとそうでもない。どこか、醒めたところも感じられますな。他の観光資源もそうだが、自分の身近にあるとかえってその価値は分からないものである。
聞けば、その富士山の日(2月23日)に「富士山世界文化遺産両県県民会議」が発足し、登録の実現とその価値の世代を越えた継承をめざす運動も本格化するとのことです。それはそれで非常にいいことだと思えるのだが、景観と周囲の環境を含めた価値の継承をめざすのであれば、早急に入山制限をするとか、静岡・山梨両県の行政・NPO等が一緒になって横断的な審議機関を作るなどの対策がすぐにでもできる態勢が求められているような気がする。
文句を言うばかりでは始まらないことは分かる。 しかし、富士を愛する気持ちがあるからこそ、今のままでは世界遺産も覚束ないと思えるのだ。放っておいていいわけはないですな。富士は日本人全体の財産であることを、これを機会に考えてみてもいいのでは。この冬場に見るその絶景を愛でながら、早朝散歩のついでに考えたこと。
2012年01月25日
シバレルね(早朝にて)
写真はイメージ信仰の力を信じ出してきた
寒い! 殊勝にも朝の散歩はよほどのことがない限り続けているが、今朝の寒さは今季で一番と感じた。手袋をしていても、手が痛くなるのである。少し考えたのは冬山のこと。北国や厳冬地でのそれはこんなものではないだろう。わざわざ寒さに向かう心境が分からないのだ。冬に弱い私にとっては、雪山での感動などは無縁また無縁の話である。
それはともかく、こうした寒さの中でも、近くの神社の神殿に参り、いつものように拝礼のなかで敬虔な気持ちに浸っていると、信仰の力といったものを深く意識するようになってきた。以前から、「日本人は仏教であれ神道であれ、もっと宗教的心を思い出すべきだ」などとほざいてきたが、じゃ自分がどうなのかと言えばさほどの信仰心を持ち合わせていたわけでもない気がしていた。それが、この頃は違ってきたのだ。
何か深いもの、得たいの知れない力を感じながら、信ずることの素晴らしさとそのエンパワーメントのようなものを感得することができるようになった。これも、朝の神社や散歩の功徳かもしれない。
話は全然関係ないのだが、最近は新聞や雑誌でさる新興宗教のえらく有名な教祖さまの本の宣伝が目立つようになってきた。ハハーンと思う人も多いに違いない(あの国会に議席まで持っている団体ではなく、その勢力を伸ばそう伸ばそうあがいているところ)。ただ、この団体についてもその信者は大変なものだし出版物が売れに売れまくっていていることからも、その浸透力といったものを侮れないことが分かります。つまり、宗教の力というのはそれほどまでに強いのだ。
ちょっと前に触れたように、オウムにしたところで、「信ずる」というところに対して生真面目で人間性も持っている若者たちが救いを求めていったものではないのか。決して、単なるカルトと一刀両断にはできないものがそこにあり、日本の社会に不足しているものの反作用といったものが読み取れる気がしてしまう(キリスト教だって始めはカルトである)。
やはり、信仰を今一度見直そう
宗教、宗教などと言うとそれだけを誤解を受けそうだが、そうではなくて人間の原初的な弱さや救いを求める心情に対する一つの拠り所として、こうした敬虔な気持ちや実行は必要ではないかと思えること。私たちはだんだんとそれを失いつつあることに危機感も感じたりします。今でも、神社に参ると深く頭を数分間にわたって垂れる人を見たりして、自分が恥ずかしくなることもあるのである。
しかし、これだけの歴史と生活の中の宗教的習慣を持つ日本人なら、もっと“宗教心”は前面に出ていてもオカシクない気がしている。あれもこれも、欧米の詮索による自己破壊の結果なのかしら。日本人よ――再び、信仰の力を信じよう。
これまた、全然関係ないけれどダルビッシュ投手の記者会見……良かったですな。本物の男気とか勝負師の姿を見たような気がした。こうした男が少なくなったのです。私も他人のことは言えないが、久しぶりに漢(おとこ)を見たような気がします。どこかの国の政治家にこれまた、爪の垢でも煎じて飲んで欲しいところだ。
