「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および熊本大地震、さらに数々の豪雨で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
 爾来、10数年の時が経ち現在は何とも退嬰的な日常になっていますが、マスメディアにいた人間として権力には対峙すべきとの姿勢や、世の出来事を注意深く観察する視点は変わらずにいるつもり。特に、2020年からは新型の伝染病という未曽有の災厄で世界観さえも変わりつつあります。人間の愚かさを見つめながらも、その聡明さと活力に期待をしてソロソロと進んで行きたいと思います。

何とまあ、気分のイイ…

 2月26日。そうか、と思い出すのは、この日が例の「2.26事件」の日であるということ。もちろん、朝方聴いていたNHKラジオでも「今日は何の日?」でやっていたし、今日は衆院の予算委員会の放送もあったのだが、冒頭の自民の石破茂氏の質問では、その前置きとしてこの事件の事を長々と説明をしておられた。まあ、イイのですが、やはり中には「そこまでやるか?余り聴きたくもない」という御仁もいるのでせうな。私はこの事件には多大の興味と関心があるため、その要領を得た解説には思わず聞き入ってしまった。何だか、厳粛の気持ちにさせられますネ。

 防衛大臣も務め、昔からごく知られた軍事オタクである氏の面目躍如といったところだが、単に歴史の一事実であるのではなく、その前からあった日本の軍国化と官僚主義の方向を決定付けたのが、この反乱もしくは内乱といったところだろう。我が国が戦争に突き進む契機になったのは間違いない。しかし、一方、その動機や背景といったものには、当の軍部の反応を含めて未だに謎に包まれた部分が少なくないのでは? 個人としては今現在も、大いなる興味と勉強意欲をソソラレルところです。

 それはさておき、今日は本当に仕事に出ても気持ちが良かったですねぇ〜。長雨の後なので気分は爽快だし、さらに気温も10数度でちょうどいいのではないだろうか。暑くはないし、決してこれまでのような寒さを感じるでもナイ。ホンに丁度いいし、その気分の爽やかな事は比類がなかった。

 そこで、この「気分」とやらを少し考えてみたいところ。一口に言っても、二口でも三口でもその実態となると分からないコトも多いのではないかしら。大脳生理などでいう「快感中枢」とやらが関係しているのかもしれないが、気分というのはこのように天気でも健康状態でも、仕事の出来不出来、交友関係や家庭の安定、さらに経済状況、恋愛――と際限がなくそのドライビングフォースといったものがある。

 私はたまたま、ここ2、3日余り気分が良く無かったため、この青空と爽やかな風といったものに突き動かされたといった気分だった。こんなにも気持ちが良いと感じたのは、ここ数年無かったのではないか。大袈裟でなく、それくらいの今日になりました。

気分良く生きるために

 日記を書く時などでもそうなのだけれど、日常で何時も当たり前に感ずるものが「気分」。朝から調子のイイ時もあるし、「どうも乗らない。調子が出ない」という時もある。しかし、その根底にある原因や因子といったものが、どうにも分からない時もあるのでアル。まさに、その時次第、気分によってしまうという説明にもならない説明になる。

 最近は精神病の話なども数多く話題に上るのだが、病質とか気質といったものが絡むのはもちろんながら、同根なのかもしれませんけれど、この“気分”というのも重大に影響をするのではないでせうかね。

 そう言えば、私の好きな絵画の世界でも作家の気分といったものが、その作品に色濃く投影をされているのではと思える絵の色調といったものはありますね。急な話だが、エゴン・シーレの絵などを感得していると、この絵描きの気質といったものがこちらにも伝わって来る気がする。決して、明るくはない、陰鬱のソレであります。誰でも感じますよね。

 また、あの天才画家であるドイツのデューラーの有名な版画には「メランコリア」という奴があって、いかにも憂鬱そうな有翼の女性を描いている。つまりは、この気分というのに人間が左右をされるのは、程度の違いはあっても太古の昔からそうなのだろうと思います。日本の社会だって、江戸時代からうつ病になって人生を誤る人も何人も居たハズである。

 そのくらいに一般的な気質と気持ち具合を人間は持つものでありながら、じゃぁその実態はとなると、なかなか分かりにくいのではないでせうかね。イヤ、むしろ端的には分からないといった方が良いのかもしれない。

 そんな詮無い話をしていても、今日の気分ではないけれど何時も「良い心持ち」でいたいものです。今日話したN通運の仲の良いIさんは「気分は全て金で決まるナ」と断言をしておりました。まあ、確かにそんな局面もあるかなとも思う。でも、お金はないけれど、何とか気分良く生きて行きたいのも本音。やはり、その基盤になるのは、今日のような太陽の明るい陽光かもしれません(何となく、分かるような分からないような……)。

その匂いまでは意識せず

 昨日、やっと雨は遠のいたかとも思ったが、また朝から細かな雨粒が降り注いでいる。「春雨」というと、歌舞伎のセリフを思い出すくらいだが、俳句の世界でいうとこの言葉にはもっと匂い立つ季節感といったものが含まれるらしい。こちらは無粋のもので、そこまで意識する事も少ない。

 いわゆる春雨というのは、もう春の匂いを運んで来る暖かい雨の事のようだ。一方、「春の雨」という季語もあるが、こちらは総称というのか初期の冷たい雨から、その終期の暖かい雨も含むとのコト。

 何にしても、そのくらいの粋な心持ちがあればもっとこの細かな長雨も愉しめるのだろうけど、生憎とそんな余裕もないといったところかしら。曰く言い難い焦りや不安もあるため、連休最後の休日も期待ほどには愉しめそうにない。せいぜい、昼間酒と行ければ日帰り温泉くらいか。先日来、取ってあるNHKのスペシャル番組はほぼ観られていないので、その辺に焦点を定めようかなと考えております。

 何にしても、一時は雨を愉しめる余裕もあったものが、今の商売を始めたり身辺が慌ただしい日々が続いたりすると、以前述べたように何より恵みになるのは陽の光といったところ。また、言う事に事欠いてしまったので、下らない日常譚に付き合わせました。皆さまのご多幸をお祈りするところデス。

春雨や小磯の小貝ぬるるほど 与謝 蕪村

また、淡々の日々

 何時も言うように、別に文句を付けるとの意味ではないものの、今月はまた3連休を迎える事になった。「またかね?」といった思いも正直、ありますネ。その日暮らしの日常と共に、収入は日々の労働が生んでいるので、休みが多いと干上がるのかと不安ももたげて来る。

 そうは言いながらも、連休の日常は平穏。きのうは雨で鬱陶しかったけれども、それでも日帰り温泉にも行けたし慰みに1円パチンコにも短時間ながら行って来た(また、負けてしまった)……。

 殆ど意識はしていなかったのだが、きのうは天皇誕生日であったのですな。何時もの年寄り談義で、天皇誕生日は4月29日でなければならないし、当時のチビ天の誕生日もやっと覚えたと思えたところで、今度はナルちゃんが天皇様になってしまわれたので忙しいコトが夥しい。いずれにしても、国民の象徴としての地位を全うして欲しいものだ。

 余り関係もないところながら、2月23日は単なる語呂合わせなのだが、「富士山の日」という事になる。私の県ではそう古くもないこの記念日の折に、これまでは県立の学校は休みになっていた。ところが、何年か前に天皇陛下が即位をされると当然の如くに休日に。それで、県立高校の生徒などは「損した」とブーブーと言っているとの事。まあ、余り取り上げるような事でもないかも知れませんが……。

 今日は快晴とまでは行きませんものの、時折は晴れ間も覗いていい日和になった。多少とも寒さは感ずるとは言え、例年であれば普通の温度という事なのだろう。

 また、関係ナイお話ついでにもう一題。自分たちが薄型テレビを夜中に観る際などに使用をしていたヘッドフォンが急に聞こえなくなった。何の事はない、飼いネコが齧ってしまったために使用不能になったものだ。それで、私はきのう少し郊外の大型店に買いに走ったのですが、たまたまかも分からないものの、今はコードの付いたヘッドフォンというのは余り見かけないようですな。高級感のあるワイヤレスのそればかりなので、かなりにウロウロした。店員さんに訊いてみると、「この店では扱っていない」との思し召し。

 それで、今日は同じ系列のお店で街中にある場所に行ったら、「ありました。ありました」。嫁さんからは、「また齧るから、ワイヤレスのを買って来て!」と言われてその気で行ったものが、同じ名前の別店舗にあったような高級品はほぼ無く、ワイヤレスとは書いてあるがもっと安いものが主流だった。さらに、裏の説明文を読んでもどれも「オーディオ用」と、テレビ用などとは全く書かれておらず、何やら難しい説明も付記してある。

 それでまた、不安になって今回は取り敢えずと思い、コード付きの奴を求めたもの。エライ安いのでこれまた、ビックリだ。時代は確実に変化をしておる。ツイテいけない者として、何とも言えない羞恥と違和感といったものも感じてしまいます。何とか、このテンポだけはもう少し緩めてもいいのではないかしら、などと年寄りの戯れ言。

沈丁の一夜雪降りかつにほふ 篠田悌二郎



何だか身につまされる

 広く人口に膾炙している漫画家と言えるつげ義春氏に関しては、ちょっと前に少し触れた際があった。確か、尊敬する川本三郎さんのマンガ論の紹介の中で川本さんがひときわ力の入った叙述をしていたので、「よほど好きなんだなぁ」と少しばかりの共鳴があったため。一方で、自分にとっても一時は、この人に結構耽溺した時期があったのだ。

 ただ、この方のマンガに関しては、大変に広範なファンがいるためにこれまで、多くの作品や作家に関して、それこそ高名な評論家の方から芸術分野の人、タレントやスポーツ選手に至るまで多くの人が感想や評論めいた事を書いている。おそらく、一マンガ書きとしてはここまでに熱心のファンを抱えている人も少ないのではないか、とも思う。

 この間、この人の作品を読み直していると書いたけれど、決して全部という訳ではなくて、その主要な作品に関してデス。有名どころでは『ねじ式』や『紅い花』、『ほんやら洞のべんさん』『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』『沼』『李さん一家』などなどといった作品が浮かぶ。挙げていけばキリがないだろう。そして、表題の『ゲンセンカン主人』も恐らくはそうした主要作品に含まれるハズ。

 私も全ての作品に精通するものでもないので、作品論といったものを書く資格はないと思います。改めて、この人のマンガは好きだったなぁ〜と懐旧と共に思い出すので、ごくごく上辺の感想めいた事を書いてみたいと思うだけでアル。何度も言うように、お揃いではないにしても、私はこの方の全集を揃えようとしたことがあるのだ(自慢にはなるまいが)。

 本当に簡素な感想と賛辞になってしまいます。

決して世捨て人ではない真面目人間か?

 今回、この人のマンガを幾つか読み直してみて感ずるのは、何度か言い及んだような妙な“懐かしさ”である。戦後日本の原風景と思えるような、街並みが出てくるし田舎――特に温泉場のような鄙びた場所には、独特の匂いとみすぼらしさがあるような気がする。決して、悪い意味ではない。つげ氏が好んだ温泉や鉱泉といったものには、日常にはない匂いと生活があるような気がするし、彼自身もそれを大変に嗜好したのではなかったのかしら。

 いい意味で、日本人が持っている自然感、生活探求の意欲といったものをつげ氏は原点としては持っていたのではないかと思います。しかし、それが現実と理想の狭間で機能しない場面が余りにも多く、そこからの忌避・逃避といった思いも殊更に強くなったような気がしますナ。

 作品論にいきなり飛ぶ訳ではないが、出発が貸本マンガであった事から初期の作品を読むといかにも安易なストーリー作りや書き飛ばしといった匂いも漂うのである。結局、生活のためにはそうせざるを得なかったのでせうな。そして、その後の本来の己れらしさ、自分の作品と言えるものを求めた作業が、妙にうらぶれた生活風景だったり温泉場、性の匂いのする場所への志向といったものを当然のように引き付けたといった気もする。

 だから、何度も言うように外観から想起出来るような「世捨て人」ではない思う。逆に食える生活には執着をしたが、それが本来の自分らしさと相容れなかったための苦悩といったものがあったのではないかとも……。作品の通底に潜むのは、愛情への飢餓かな。母親とか家庭といったものの愛には恵まれなかった生活のようにも見えるので、恐らく何かの穴埋めでのストーリー作りや、一部にある哲学的思考が出て来たといった気もするのです。

 また、エラそうに言いました。決して、評論めいた事を書ける訳ではないのだが、冒頭に述べたような、その絵の妙な懐かしさとセリフの哲学といったものには驚嘆もするし、憧れめいたものも生まれます。全集の解説などを読むと、この方は作家としてプロットや吹き出しといったものには大変なこだわりがあったようで、作品の構成には何十通りもの案を用意したとか。何とも、実際に出来た作品とつげ氏の外貌からは、ちょっとそこまでの想像が出来かねるような気もしますネ。

 おっとと、また長くなって饒舌だけになるような気がするところ。最後に、数多にいるファンとその解説諸氏を代表して、あのストリッパーの一条さゆりさんを登場させたいと思う。私も少し驚いたのだが、この方の全集の第8巻ではこの一条さゆりさんが一ファンとして巻末の解説を書いている。そして、その文章のタイトルは「食べさせてあげたい人」とあるのです――文意の解釈は省きますけど、何となく分かりますよね。

 一条さん自身も惚れやすく、男の生活を面倒看るために結構な苦労があったようですが、その一条さんをして本気で面倒みたいと思わせる御仁……これがつげ氏なのでせう。作品やその醸し出すムードもほぼ120%肯定をしているような気がしますねぇ〜。

 簡単な感想だけになりました。未だ、再読をしていない何篇かもあるので、さらにこの方の本質といったものも考えたいところ。意味の取りにくいセリフや「ねじ式」などの画ずらを見ても、その真意を判断しにくいところもあるのですが、決してキライだと思わせないところが、このつじ義春氏の真骨頂なのではないか、とも堅く信じて疑わないところです。

 徒に長くなりそうなのでこの辺で。

またぞろ、イヤな毎日にか?

 「冷戦」などという言葉は、すっかり古びてしまい、今の若い人には馴染みもその実質も遠く理解が及ばないものかもしれない。第二次大戦後の民主主義対共産主義、アメリカ対ソ連との対比と対立によって醸し出された世情、国際関係といったものだ。それで今からは想像も出来ないが、実際、その対立は凄まじかったし、核戦争の危機だってあったのでアリマス。

 余り例えは良くないのかも知れない(実際、そうだろう)ものの、私ぐらいの年代になると言葉や実戦にまで至らなくとも、冷たい対立が続く様はどうしてもそんな言葉で形容をしたくなる。「またかぁ?」とも言われてしまいそうながら、自分のごくごく私的(プライベート)生活でもそんな匂いが再びに巡って来ました。個人の話を引っ張るのは気が引けるけど、他人の痛みや覗き趣味も適当な面白さはあるでせうので、ここでまた簡単に報告をしておきます。イヤ、申し訳ないが……。

 それはきのうの事。私が夕食の支度を一所懸命にし、それをマージャン教室から帰って来た嫁さんが食べる段になって、ちょっとした不合理(変な言い方ながら)があった。大した事ではないと言えばそうだろう。しかし、自分にとっては大切な意味を含み、また心情的には多少とも傷付く場面があった。

 私は途端に機嫌が悪くなり、口にこそ出さなかったけれど、席を立って自室に籠りそれ以降、食事を取るのも拒否をしました。これだけ聞いても、何が何だか分かりませんよね。恥ずかしいので、詳細は避けますが、大分以前に嫁さんと大ゲンカをした時のような重大な因子があったという訳でもなく、まあその際にもあった「会話の少なさ」「日常の付き合いに於ける明るくないムード」といったものが、恐らくそのバネ(背景)にはなっていたのだと思う。

 一度その癇癪持ちという私の性情に関して、大きな反省もしているので今回も声を荒げたり怒ったりするものではない。ひたすら、「何でこうなるのか?」情けなさが先に立つだけなのですな。

 ここまで言っても、所詮は個人の話。また、他人から見れば下らない経緯でアリマス。

男には譲れない意地がある

 ただ、未だ何が言いたい、何がしたいのか分からない真情もありますものの、今回も多少の波風は仕方がないとある決意はしているのです。恐らく、彼女は私の怒りは分かっているとは思うものの、恐らく反省の言葉もないと思いますので、これからその対立を具体化するある“行為”というのも実行はするつもり。

 まあ、確実に空気は悪くなるだろうし、逆に嫁さんが怒るかもしれない。

 しかし、それでもイイのですよ。何でもそうだけれど、年寄りだから何でも我慢をせいというのもイケナイと思う。自分の真情やプライドといったものが痛く傷付いたのであれば、それは態度として表しても赦されるのではないかとも思います。

 ここまで言っても、読む人には何が何やら分からないと思いますものの、要はこれから我が家でも恐らくは昭和の時代にあった「冷戦」と呼べるものが復活をするということ。そんなに重大とも言えずとも、やはり一度は家庭を壊し掛けたとも覚えているので、大変に苦労をする毎日に再びに突入か――と別の意味の心配や気苦労が生まれると信じている。

 なかなか上手くは行きませんネ。今日も職場で親しい若手とN通運の方と話したのだが、やはり男と女は決定的に違う。ほぼ理解不能の真情や態度といったものもあるハズだとも思います。それに簡単に乗ってしまうところには自分の未熟さ・幼稚さも感じますが、やはりそれが本来の自分なのだと信じています。

 また、大変ですね。令和の冷戦は、冗談ではなくて複雑かつ鬱陶しいものだと想念をしております。



また暦通りかな?

 ラジオ視聴の受け売りになってしまうが、今日は二十四節気の「雨水」。あまり馴染みはないかも知れないものの、その意するところは文字だけで分かってしまうモノ。極寒の置き土産の雪が融けて、雨になりやがて大地に還るとの意であります。

 ただ、それだけの事だが、前回の暦である立春の際、昨年から妙にこの節気と実際の陽気が重なる事を書いて来たが、前回だけはかなりに寒い日であったと憶えているので、「今回はハズレ」などと書いたような気がする。

 しかし、今回は一転、その暦と季節感がまた一致するコトに驚くのでありますな。列島全体的に雨。さらに妙に生暖かい感触が、この暦のために用意されたのかなどと思ってしまう。

 やはり列島というより、地球全体に暖かくなってしまっているのでせう。「雨水」などと語る中国暦も、本来は日本の気候と1週も2週もズレるはずのものが、段々に重なって来ているように感ずるのも、この温暖化のせいなのかな、と思い付くまま。

 とまれ、今日もそのラジオの放送でお天気お姉さんが、視聴者からの蕗の薹を見かけた便りなどを紹介しておりました。季節はすっかり春というところかナ。暖かくなるのは有難いながら、未だ幾分なりとも寒波襲来がありそうデス。実際、2月の終わりまでは未だ1週間以上があり、本当の季節感と桜の便りなどを愛でるのは、恐らく3月半ばぐらいでせう。

こみあぐる土のあくびや蕗の薹 和田 祥子

どうと言う事もない凡庸

 先日の伝で言うならば、「休みは余り嬉しくない」とも書いたが、なぁ〜にその効用についても自覚はするものではアル。何も考えなくてイイのが一番になるし、嬉しい。普段から緊張を強いられている訳でも、頭を遣っている訳でもないものの、それなりに行動意識はある。休みになれば、空いた時間を何に遣おうが自由なので、それこそノンビリ、まったり出来るという訳だ。

 今週末も、ちょうどそんな感じでしたかな。

 きのうはホント何もせずに、午前中に短時間普段は行っていなかったパチンコ屋をのぞく。普段行っている場所が余りに出ない(入賞をしない)ので業を煮やして、このところご無沙汰だったこの場所に出向いた訳だ。逆にと言うか、この場所は有名店なのでそれなりに入賞、つまり台は回るのだけれど、全く当たりはしなかった。ここのところ負けてばかりだったが、此処でも4000円ばかりを費消してすぐに諦めて家路を急ぐ。

 家ではここのところ、ケーブルを観ても貯めていたNHKのドキュメントは観ていなかったのだが、宇宙モノ1本と例の『72時間』のドキュメントを1本観た。ごく愉しかったですね。誉めそやしている72時間に関しては、テーマはタイ焼き屋でありました。四谷にある人気店で、自分もその名前くらいは知っていたのですが、1日2000個以上が売れると聴いてこれも慄いた。

 相変わらずにドラマのある方を探すものだと思う。時刻表を作っている出版社の元女性編集者が出ていたが、営業に回されて「何で?」と落ち込んだような事を言っておられましたナ。その気持ちはかつての同業者としてよ〜く分かる。今は張り切っておられるようながら、そうした人生模様とタイ焼きが妙にクロスして、これも大変に良いコメント取りと思ったところ。

今日もまた、まったりを目指して

 今日は日曜。ここのところは日曜出勤も無くなったので、寝るのも自由だし頭も遣わずに解放感だけはアル。一方で時間を充実とまではなかなか行かず、今日は嫁さんが東京のクラシックコンサートに行くとか言うので、例の「鬼の居ぬ間」の何とかで午前中は遊びに行くか、日帰り温泉に充てて、午後からはまた貯めているNHKのアーカイブに挑戦をしようと思っております。ビデオ撮りをしていた時もそうだったのですが、録画は溜まるばかりでなかなか鑑賞はしていない。

 ずらっと並んだそのタイトルを見ると、どうもこれと決められずに結局はケーブルの流しっぱなしにしてしまったりする。いくら老人で、これというマストが無いにしても以前にあったような学習意欲といったものがないと、人間もつまらない存在になってしまうモノだなと思う。

 あとはきのうの夕食当番と、今日のそれは嫁さんの東京行で代わったので、何かを作らないとイケナイ仕事もある事になる。こちらの方は何となく腹案はあって、それも時間を取らずに済ませるものである。

 そんなこんな、つまらない平凡の日常と言えばそうだが、何より頭と意識を解放してノンビリ出来る身上と、この頃は頭を悩ます懸案が無い事を喜びとするものでアリマス。

 また、下らない日常譚になりました。さあ、と力を注いで「まったり」するぞ!

下らない、実に下らない世事

 また、週末金曜日が巡ってきた。老人にとって、時間は決して早く過ぎるものでもないと一度書いた。しかし、一方で無情にも何もせぬうちにその時間は過ぎて行く。

 特に何をと考える訳ではないけれど、この頃は実にみすぼらしい世相と政治を見せ付けられている気がする。自民党の裏金疑惑(もはや疑惑ではないか?)とその解明を巡る自民党による調査。――これはもはや調査に値する訳でもなく、児戯に等しいお遊戯といったところ。小学生の学芸会でももうちょっとマシな演技をするのではないでせうかね。

 国民は全くバカにされているといったところだろう。野党の体たらくもあって、このまま行っても恐らく自民が選挙で大敗を期す事はないと思う。でも、ここまで政治や政治家が劣化した事実を見ると、開いた口が塞がらなくなる。ええっ、政治倫理審査会の開催を巡って、大金を裏金化していた安倍派の幹部の証言を求めたところで、その中の一人は「出席しなければならない合理的な理由が見つからない」とか何とかモゴモゴ応えたとか。――これこそが、今の政治家の劣化を如実に表す言辞・所作ではないでせうかね。合理もくそもあるものか。政治家には説明責任がその存在そのものにアルのである。証言をする事自体が、その合理的理由ではないのか。ここまで馬鹿にされると、国民をやっているのが嫌になると思える。この国の政治は、一体どうなって何処に至って来てしまったのだろうかネ。

 余り、クドクドと述べてもいけないけれど、全て選挙制度のせいでせうね。小選挙区制に改悪をしたのがいけなかった。誰も派閥の長や党の幹事長、選対委員長に逆らえなくなってしまった。小物ばかりの二世議員が跋扈した。昔のように、志のある人が戦えなくなった。

 今は福山大学の先生になっている、元経企庁長官・田中秀征さんはもともと地盤も看板もお金ももちろん、持っていなかった。選挙に出られたのは一重に中選挙区制のせいだった。自民党からでも複数の人間が出馬出来たので、何とかその活力と雄弁の力で当選を果たせた、と聞いている。

 それがもう、出来なくなったのですナ。この国の活力と知性といったものは、ほぼ風前の灯でせう。有能の士が国会の場に出て来なければ、日本の将来は危ういと思います。

まさに異能の人、つげ義春氏

 また、大上段に構えてしまった。でも、言わずにはいられなかったからなのでアリマス。

 そのくらいに危機意識が強い。あれだけ活気とお金を持っていたハズの日本も、GDP世界第4位という事だ。そのコトだけをどうこう言っても仕方がないけれど、やはり総合的に観て生産性にしろ、その将来性にしろ余り期待の持てるものでは無くなっているのは、多くの人が感じるところと気分を一にするものでありますネ。

 また、取り留めのない話になってしまったが、週末の所作として朝方、この間からまた再読をしているつげ義春氏の全集を読み直しております。私は1巻を除いて、この方の全集を持っているのだ。

 部屋の据え付け本棚の最上段に仕舞っておいたので、取るのに大変な苦労をした。学習机に脚をかけ、さらに手と体を延ばしてそこまで上腕を届かそうとしたが、片足を積んでた書籍にかけたらそれが崩れた。危うく体を落としそうになったところ。

 それもともかく、手に取った全集の第4巻。「李さん一家/海辺の叙景」の巻で、つらつらと読み進めたら、やはりこの「李さん一家」は傑作であるとの再確認。さらに、全体を通して、つげさんという人が大変な学識・教養を持っていることを認知して慄いた。たしか、中学校卒だと思ったけれど、ここまで本を読んでいる人だったとは……。

 全集の第8巻の「近所の景色/無能の人」などを読むと、まさに今の偽善に満ちた社会や政治状況を批判する的確言辞が並んでいたりする。その哲学的な物言いといい、深い洞察といい「ここまでか?」と思うようなコメントにかなり驚かされた。今、その本が見当たらないのでそのまま載せる事が叶いませんが、世の中を斜に構えて見ているような氏の外形からすると、実際には社会というものを正面から見据えていたのでは、とも思えて来てしまいます。

 また、話がアチコチになってしまいました。日帰り温泉とマンガ本に傾斜する老人のたわ言ですが、この頃は大変に若い人の将来や基礎科学の缺欠に危ういものを感ずる個人がいたりする。ただの心配だけならイイのだが……今の国会のドタバタを見ていると、どうもそうとばかりは言えない気もして来るこの頃です。

実につまらない人生かな?

 老人の日常などはこんなモノだろうと思うが、実に淡々と毎日が過ぎて行く気がする。何かの書き物をするためには、何処かに“面白さ”がないと困るとも思っておりますので、周囲を探すのだが余りない。実にこの書き物もつまらなくなっているのは、全くそのせいでせう。

 ただ、言っておきたいのは実人生では多くの人はその面白くない日常を送っているハズ。一方では、生来なのだと思いますけど、世の中にはその活力と挑戦を面白さに賭けている人もいるように思える。今日もたまたま日テレの「笑ってコラえて」(所さんのそれ)を観ていたのだが、この番組は本当に良くその面白い人を探し出すものだなと思いますネ。

 今日も新潟の海で、SUSだかSUPだか、スダンドアップ・サーフィンなるものを1年中やっている高齢の男性が出ていた。波のない海でも出来るサーフィンだそうで、そのまま釣りも出来るものだとか……。なかなかの鍛え上げた肉体と共に、その言辞もエラク面白かった。こういう方も居るのでせうな。詳しくは言及しないけれど、世の中には趣味を含めて主体的な面白さを追求する御仁は確実に居ると、こんなテレビ画面を観ていても思ってしまう。

 ただここでも、そのテレビにちょっとだけアンチを入れたいけれど、バラエティー番組とか最近はそのMC絡みでも主役になっている漫才師にしても、本当の面白みがあるかとなると、どうにも疑問符も感じますな。楽屋落ちのばらし話が大半だし、本来のユーモアを感じさせる話術を持つ人は殆どいないと言っていいだろう。要するに、キャラクターの好感度だけで番組を進行させているに過ぎないと感じます。

 能がないのだな……。

もう少し人生を感じてみたい

 自分が能があるなどと言っているのではアリマセンよ。むしろ、その能(脳?)の無さから行き詰まりや焦りといったものを感じる生活。個人的には満足感もあるけれど、他人を笑わす事が出来ないと今の世の中はなかなか認めてもらえません。

 殆どの方は自分の生活と生きる事に精一杯でせうから、ここで世の中とか政治が云々と敢えて言う心持ちも現在は持ち合わせていない。

 ただただ、老人の愉しみとしてテレビ視聴もその一角にあるのだから、せめてエンターテインメントの世界では気の利いた一言なり、いわゆる蘊蓄といったものも聴かせて欲しいものだ。全てが即物的だし、笑うという行為がいわゆるドタバタとか、他人への蔑みに昇華しないような努力もして欲しいものだと思う。

 何時も言うように、民放の番組には啓発や未来への洞察といったものが決定的に欠けている気がする。頭のイイ人ばかりが採用をされているハズの放送界でも、やはり儲け主義や視聴率至上といったものは席巻をしているような気がしますネ(恐らく事実だろう)。

 やはり、昼間は何時も観ているようにケーブルがイイですな。最近はディズニーチャンネルを観ないようになってしまったので、もっぱらヒストリーかナショジオという事になる。何がどうとはココでは述べませんけれど、また「alone」も始まるようだし、大変に愉しみでアリマス。

 また中途半端の物言いになるけれど、NHKならは今は『72時間』が圧倒的に面白いなぁ。ホントウの面白さというのは、この番組でのコメントとディレクターの視点、引き出し方ではないかしら。そんな風に感じている面白みのない男の感想です。

イヤ、それは焦るコト

 今日の仕事は飛んでしまった。車のバッテリーを上げてしまい、ギリギリのタイミングだったのだがすぐに社長に電話をして「動かすにしても時間がかかるので、今朝の仕事は無理です」と申し向ける。何とか、社長が代わってくれるというのでどうにかはなった。一方で、「9時までのチャーター便がある」とも言われましたので、「それまでには何とかなると思うので、車が動けば必ず行きます」とも答えたところ。

 さて、ここからが大変。朝の5時20分くらいだったため、外は暗い。作業もなかなか出来ないと思っていたところで、バッテリー上がりは良くあるので以前、その際に求めておいたクイックチャージャーの事がすぐに浮かぶ。それでも、充電は恐らくされていないハズなので、そのための時間もかかる。明るくなれば何とかなるか、ぐらいの気持ちで部屋に戻ってそのチャージャーの充電作業を行う事としました。

 しかし、委細を述べれば長くなるものの、このPCからケーブルを繋いで行った充電も結構な時間がかかりそうな趣である。それで、明るくなって家の自家用車を動かせば、先ず確実に始動は出来ると考えたところでした。と、言って、ここからも結構に大変だった。午前7時前にかなりに明るくなったので、1階に停めてある自家用車(ハイブリッド車)を2階にある商用車のスペースまで運び、いざ作業を始めようとした時、ボンネットを開けようとしてもこれが先ず分からない。

 跳ね上げるのはすぐに出来るのだけれど、例の下から押し上げる突起の場所が分からないのですナ。つまりは、これまでボンネットを開けた事などないのがすぐバレる。若い頃は自分で随分、クルマをいじってプラグなぞも良く交換をしていたものだが、今の車は先ず構造自体が良く分からない。ついでに言えば、さあ「バッテリーは?」と思ってもこれまた見当たらないのだ。

 まずにそれらしき赤と黒の突起やビニールカバーが見つからない。結構小さな箱型のケースで、上に「FUSE」とか何とか書いてあるのがあったので、恐らくこれが電気系統と思い開けようとするが、全くに歯が立たない。いくら押しても引いても開かないのでアル。

 結論を言うと、私は自家用車から直接繋ぐ事は諦めてしまったのでしたが、後段で述べようと思っていたのは「車は普段からその機械部分は見ておきべき」とのコト。何処に何があるのか、さっぱり分からないのです。

 情けないの極みですナ。

不注意と失敗は必ずアル、だから意識しておかないと

 今回の想定外から覚えた教訓というのは、実に当たり前、下らない教えという事になる。結論から言うと、先述のクイックチャージャーを遣って、注意書きにあったような「フル充電」での作業には出来なかった(7割ぐらいの充電だった)のですが、何とかエンジンを始動させる事は出来たのです。

 それから何とか時間に間に合うように、アイドリングをかましてその間に部屋に戻った。別に戻らなくても良かったのだが、自家用車の鍵を戻したりトイレについでに入ったりしながら、車に戻るとちょうどチャーターに間に合うくらいの時間でありました。ただ、社長に電話をすると「こちらで何とか手配はしたので、大丈夫ですよ」との事でありました。大分、時間が空いてしまったので不安を与えて手配をさせてしまったのかもしれません。

 さて再びに教訓。読者の方で車に乗る人ならば、バッテリー上がりの経験のない人なぞまず居ないだろう。私も二十歳前からクルマには乗っているので、思い出せないくらいにその経験はあります。だから、どんな車種に乗る時にもブースターケーブルの携行を忘れた事はないのだ。

 でも、やはりそのTPOによって困るコト、途方に暮れるコトもあるのですな。何より、助けてくれる他の車を見つけない事には元に戻らないからだ。何度、そのお助けに感謝をした機会があったかも計り知れない。

 今回も古くなったバッテリーは交換をしたばかりだったので、何処かにスキがあったのかもしれません。金曜に仕事をした後、暗い場所で伝票を見るために室内灯を点灯させ、そのスイッチを戻す事をすっかり忘れていたのだ。しかも、連休で3日間全く車は動かしていない。普段の1日程度なら何とかはなったと思うのですが……。

 体の機能が衰え、しかも記憶力その他の減退に悩まされている一方で、こうしたポカやウッカリといった事も相対的に増えて来るのかもしれませんナ。今回は実害までは至らなかった(今日は美味しい仕事でしたが)ので安心もするところ。でも、バッテリーの不調なんていうのもごく当たり前に起こる(起こり得る)事なので、心しないとイケナイと再びに自戒をしたところ――。

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