2018年12月15日

メリハリ

変化ともまた違うのかな?

 日常何気なく使う言葉でも、その原義や成り立ちをさほど考えもなく使っている日本語というのはあるものだ。今、何がどうだとは言わないものの、昨今のクイズブームなどもあって私も「ハテ?」と考えてしまう日常語が時折出てくる。

 「メリハリ」などもそうなのではないでせうかな。似たような言葉の流行りの通販サイトもあるようだが、ごく当たり前に使っていてこのPCでもすぐに漢字変換語が出てくる訳でもない。辞書を引くと「減り張り」というのが原義になるようだ。要は、減ったり増えたりといった凹凸のある現状ということになる。言われれば、「なるほど」とすぐに納得できます。

 なぜ、こんな日本語を殊更俎上に載せるかというと、歳をとるとこのメリハリをきちんとつけた日常が難しくなるのではないか、と考えることから。最近でこそ年末行事の名古屋行で、疲れるのは大変に疲れるのだが嫁さんからも「メリハリがあっていいじゃない?」とからかわれたことはいっぺん触れました。「そんなぁ〜」と文句を言うほどの甲斐性も持ち合わせるものではない。確かにメリハリはあるのです。カッコ付きだし期間も限定品ではあるのですが……。

 言いたいのは、もっと本質的なことで、青壮年期の仕事を離れたり老人が家を中心にしてあまり外に出なくなると、向こうから変化の元が飛び込んでくる訳では決してないこと。何気なく過ごしている(何もしない)と、これが大変に変化の乏しい日常になるのですな。

さて、これからどのようにメリハリを

 仕事の充実している人なら、放っておいても生活はメリハリの効いたものになる。忙しさが高じていれば、メリハリがどうのとも考える暇もないだらう。しかし、一般的に老人は違うでせうな。私なぞも何もやっていない訳では決してないものの、以前に比べれば日常の変化は実に乏しい。友人との触れ合いもめっきり減ってしまったし、他人と会話をすること自体がかなりの程度減じている気がする。酒で日常を紛らわしたり、気分が高じて興奮する機会も(ある時は他人には迷惑でしょうが)普段はほとんどない。

 だからというか、どんな場所でも他人とは話題を見つけて話すようにしておりますし、酒を飲める機会といったものも殊更に大事に取り込もうとする性情なのであります。コンビニのたばこ仲間の人もそうだし、今の物流職場での仲間作りもそうなのでアル。実にこれはそうですな。あとは、たまにいく日帰り温泉の憩いで気分の転換、これ努めることぐらいでしょうか。

 以前はパチンコ(ほぼ1円のそれ)も、自分勝手に言い訳をすれば自分で作ったメリハリということになるのかもしれないが、これは手元不如意となるに連れて段々と遠ざかってしまっているのだ(これも実に残念だ。その分の時間は有効活用をせねば)。

 話は変わるものの、今日は東京で飲み会がある。もう3年間続けてやっているその3年前に急逝した友人Hの追悼会だ。段々と出席者も減ってくるし、大がかりの奴はこれで最後にしようとも考えているのだが……。そんなものでも、これが実に愉しみなのですな。長く会っていなかった友だちに会えるし、先ほどの伝ではないが、今の自分の思いといったものも何とか言葉にして相手に伝えられるイイ機会になるからだ。

 実に単純ながら、実にそれが年寄りの生きがいであり、「メリハリ」といったものではないのでしょうかね。また、その場を楽しんで皆に言葉を弄してきたい。


mitsutomi8866 at 08:11|PermalinkComments(0)日常雑感でひと言 

2018年12月12日

煤払い

伝統は伝統か

 急に柄にもないことを言い出すのは、今日、車の運転をしている時聴いたラジオでさるお寺の「煤払い」の事をニュースにしていたからだ。以前の自分ならさほどの興味を持つこともなかったのですが、これも最近聴いたにわか知識でこの伝統行事は江戸時代から庶民を含んで盛んに行われていた由来を知った。そこで、ちょっと触れてみたくなった訳です。

 今は年末に行われる似た儀式である大掃除は大概が29日や30日なのでしょうが、江戸時代は12月13日と決まっていたそうな。つまり、明日という訳ですな。この日は「正月事始め」の日であり、縁起の面でも意味があったらしい。新年に年神様を迎えるに当たって、神棚や家の中をきれいに清めておくことは大事な儀式であったのでせう。

 煤払いという言葉も、昔は竈で煮炊きをしたので当然に煤は出るわけでありまして、それを竹ぼうきを使ってせっせとお掃除をしたというところか。かつてはお城も庶民もいっせいにやっていたこともこれまでは全く知らずだった。歴史を勉強する過程の中で、新たに身に付けた行事の由来という訳だ。

 愈々、昔風にいってもお正月を迎える準備をする時候になりました。近年はそうした気分にも多少とも変化が見られるが、年末に入り込んで来ていることだけは確かだろう。私の仕事もだいたい27日ぐらいが最後になりそうだ。今年はイイ年だったので、そのままの気分で迎えたいところ。

竃の火歳暮の使ひあたり行く 喜谷 六花

mitsutomi8866 at 18:11|PermalinkComments(0)歳時記 

2018年12月10日

安物買いの銭失い

ホントに格言ですな

 前回、仕事で活躍をしていたスニーカーを履きつぶしたことを書いた。そして、筋金入りの安物の代替品を買ったことも記したのだが、どうやら心配は現実になりそうだ。一昨日ぐらいからチョコチョコ履いているものの、初めは「何とかなりそうだ」ぐらいに感じていたものが、どうにもしっくりこない。果ては今日ぐらいになると、どうもつま先や指の付け根の辺りに違和感を感じる。要するにフィットをしないのですな。

 「やはり安物はダメかぁ〜」とため息の出るような思い。表題の「安物買いの銭失い」はまさに至言ではないかと思えて来た。実際、定価が二千数百円でその安売りで1800円かそこらとなると、期待をする方が無理ですよな。何とかなると思い込んだ私がバカだったのだ。

 この展開は前回のてん末と全く同じ。やはり2、3年前に今回とは違った雑貨の量販店で、同じようにセールの履物としてえらく安いスニーカーを買い込んだ。これは今回とも違って、全くお話にならなかったのだ。すぐに豆が出来そうになったから。買った直後ぐらいに履くことは諦めた。箱はきれいに残していたので、それからかなり経ってから嫁さんが蚤の市で売ってくれ、確か500円で売れたはずだ。

 そんな私を憐れんで彼女が買ってくれたのが、今回履きつぶした当該のスニーカーだったという訳なのでアル。さすがにメーカー品だし、履き心地は快適でした。言うことはなかった。やはり、品物というのは値段相応というのはあるのだとツクヅク思います。

思い起こすさまざまの事

 前記、「安物買いの銭失い」の格言を思い起こしていると、個人的にも様々な感慨が浮かぶ。自分史としても、そうした行為は随分とあったようだ。着るものなどは典型かもしれないが、洋服はやはり値段相応の代表的な品物でしょうな。安いシャツはすぐに着られなくなるし、繊維の強度も殊の外弱い気がする。セーター物などでもすぐに縮んでしまうし、毛糸の弱さも際立っているのではないか。こちらはさすがに、自分でもそれなりの経験則があるので、ある時期から安物は絶対に買わなくなった。

 以前は裕福な時もあったため、今でも洋服ダンスに残る私の衣服は結構な値段がしたものが殆どである。さすがに年月が経つと、流行もあったりして着られなくなったものも多いが、コート類などは風合いが出たり、へたれも少ないのでTPOさえ間違えなければ今でも着られるものも多いのだ。

 100円ショップもそうだし、安いとついつい目に付くものをアレコレ買い求めてみたりする。下手をすると食べ物の類でも珍しかったり、見た目がいいだけの理由で求めたりするが結局は全く手をつけないで捨ててしまうものも多いもの。皆さんもそんな経験はありませんか?

 自分だけではなくて、私の母親も安いものが本当に好きな人だった。格言のような失敗は余り告白することはなかったが、けっこうやっていたのではないでしょうかね。一方では金を惜しまず高級品を買うことも多かったものの(自分の身に着けるものが殆ど)、子ども相手には「安かったから買ってきてあげたよ」と遊具の類でも食べ物でもしょっちゅう持って帰ることが多かったが、私らが気に入らないと「それならもう買わない」と何時も立腹をしていたものだ。一度、小学校低学年のときに当時の高級遊具だった自転車を、ピカピカの新品ではなかったものの近所の自転車屋さんで買ってもらった覚えがある(その後に買ってもらったスポーツタイプではなく、普及品タイプ)。当時のお金で8000円したものなので、今の感覚で言えば2、3万は優にしたものなのだろう(当時は自転車はぜいたく品でアル)。しかし、値切ることも大変に長けていた私の母親は、知り合いのその自転車屋さんにさんざんに言葉を弄してとうとう、5000円にまけさせてしまったのだ。これは恥ずかしかったですな。当時の光景は良く覚えている。恥ずかしいから止めてよと言ったら、エラク怒られた(そのくらい生活感のある人だった)。

 それは余談ですが、冒頭に述べたように人にとって履物は大変に大事なもの。足に合わない靴は健康にも関わってくる。私も取材した医学記事ではさんざんにそんな事も書いたものだが、自分がこんなことをしでかしていては、洒落にもなりませんな。来週になれば多少の金員は手にすることは出来ると思うので、今のスニーカーは恐らく前回のてん末と同じ運命でしょう。ちゃんと買い替えますよ。本当にそうします――。

mitsutomi8866 at 12:13|PermalinkComments(0)日常雑感でひと言 

2018年12月08日

履きつぶす

靴が壊れたゾ

 以前は背広を着る社会人として、履くのはもっぱら革靴だった。それが、肉体仕事の常としてスニーカーばかりになってからもう大分になる。そのスニーカーが壊れた。

 ちょっと前から小さな穴が複数空いているのが目につき、気になってはいたのだが思いのほか早く履きつぶしてしまったなぁ。この履物はたしか、2年ほど前に嫁さんから誕生日のプレゼントで買ってもらったものと覚えているので(3年前かもしれない)、以前の感覚からするとけっこう早めにダメになったかとも思う。それだけ、毎日・毎日動き回る作業をしていると言うことだらうね。

 よくテレビの刑事ものなどでも出てくるが、外回りのサラリーマンとかそれこそ刑事さんなどはごく短期間で複数の短靴を履きつぶすという。まさか、自分がそんな身の上になるとも考えておりませんでしたですね。感慨とまでは思わないものの、動き回ることは確かにある種の思いを投げかけてくる。

 また取り止めのない話です。先日は一方で、たまにしか履かない革靴の方で大変恥ずかしい思いもしたところ。小学校の同期会に出たときに5、6年前にスーパーで買ったごく安い革の短靴を履いて出かけたところ、行きの途中でかなり革がへたれ破れかけていることに気づいたのだ。手入れをしていなかったことと、もともと素材がへたれなので一気に変質したのだろう。全く底が抜けるほどの惨状ではなかったのでそのままにしたものの、ちょっとしたハプニングで友人の家に泊めてもらうことになったので「家人には目ざとく見つけられるだろうなぁ」などと、一人気をもんでいた。

革靴は重たいねぇ〜

 実際、前記のときには途中で新しい靴を買おうかとも考えたのだ。懐はさみしいが靴を買えないほどではない。それこそ、履いている途中で壊れでもしたら大変だ。結局はそのまま、最後まで履き続け、家に戻ってからすぐに捨ててしまったのだが……。

 一体に、私たちはどちらかといえば履物には無頓着なのではないだろうか。そうじゃないという方も確かに多いのだろうが、私なども取材の現場に出ていた時などはそれなりに高い靴(リーガルが殆ど)を履いていたものの、それほどのこだわりは無かった者だ。だから、きのうもたまたま、普段はその窮屈さに全くやっていない病院の治験薬を運ぶ仕事で、大変にその数が多いために手伝いで駆り出された(これは研修や資格試験があり、誰でも出来る訳ではない)場面のてん末。背広にネクタイ着用という面倒臭さで、当然の如くそのリーガルの古い革靴を履こうとしたら、カビが生えていたことにも参った、参った。

 そんなものなのですな。ネクタイの窮屈さにも辟易したし、感じたのは革靴というのも重たく窮屈なものだ。こんなものでしょっちゅう出歩いていたのかと思うと、「もうそんな生活に戻ることもないのだろうなぁ」と別の無常観を感じたりする。

 日常は朝の仕事のないときは散歩が慣例となっているし、スニーカーは便利な履物だと思います。きのう、さっそく仕事の合間にこれまたスーパーでえらく安いそれを購入してきた。ちょっと心配にもなるものの、以前も同じ場所で買った格安のものが思いのほか長期に使えたので、今回もそれを期待してといったところ。本当はお金が無かっただけなのだが。

 履物の大切さを改めて思い返したりした、またどうということのない日常譚でアリマス。

mitsutomi8866 at 05:11|PermalinkComments(0)日常雑感でひと言 

2018年12月06日

つぶやく人々

なぜ、ブツブツが多いのかな?

 確かに昔からそうした人たちは居たように思う。街中を歩いていても、身なりもそんなにはぼやけていない普通の感じの人が、何か「ブツブツ……」とつぶやいている。中にはお酒でも飲んでいるかのように、「そうじゃないんだよ。とんでもないんだ。俺の言うことをキチンと聞きなさい……」とか何とか不満や不安をぶち上げているような方もちらほら。

 幾分かは精神疾患も絡んでいるのだらうから、近寄ることもないし、その佇まいを気にするようなこともない。そうだなぁ。普通に暮らしている自分のようなものでも、何かを叫んでみたいと思うようなことはある。そんな風に意識をするだけ。でも、最近で言うと以前よりもっと“つぶやいて”いる人が多いような気がどうしてもしてしまう。

 きのう、こんな事があった。名古屋への荷物はあったので相変わらずの悪戦苦闘で何とか途中のハプニングを乗り越えて隣接の市の貨物センターに帰ってきた。疲れてはいたけれど幸いにきのうは食事当番ではなかったので、帰りに日帰り温泉でにでも寄って疲れを癒そうと考えた。平日の夕刻、しかも何時も通っているそこは照明が故障とかで点いている明かりが少なく薄暗いので、お客さんはごく少なかった。

 何時も最初に入浴する硫黄泉の中に入ると、暫しお客さんは私と少し離れた横にいる二人だけになった。そして、この未だ40歳ぐらいにしか見えない若い人が何かを懸命につぶやいているのです。ブツブツ……、ブツブツと何を言っているかは分からないのだが、場所が場所だし辺りは薄暗いだけだし何とも不気味ですよね。会社を早引けして、何かの不平不満を囁いているのかしら……。

 ただ、それだけの事ながら、思いつくのは皆さん何処かに不安や不満があって何かを叫びたいと考えているのかなということ。

私の日常もつぶやきとの闘いか

 そう言えば、私の日常の中でも塾には例の自閉症スペクトラムの天才児がいるので、彼も思いつくままに何時も何かをつぶやいております。恐らく自分を鼓舞しているのだと思うが、時に大変に大きな奇声を上げるのでビックリすることもある。でも、この頃は全く慣れてしまっているのだが。

 以前も今も活躍している「つぶやき〇郎―」とか言う人の事を挙げるまでもなく、最近はこのつぶやきが大流行である。ツイッターで意味もない評価をして、それがテレビ画面で紹介されるなんてこともごく当たり前になった。私は未だにアレにどのような意味付けをしていいのか、分からないでいる。

 無責任な“つぶやき”は大流行であります。一体に、私は人の言葉というものにはオノズと責任が伴うものだと考えておりますが、そんな意識はもう流行らないのかもしれない。

 一番の異常は、今は世界の政治や外交がこの「つぶやき」によって振り回されていることだらう。かの国の大統領氏のつぶやきが瞬時のうちに全世界を席捲する。しかも、小学生しか使わないような言葉や表現であり、幼児性丸出しの感情表現の嵐である。私のような英語ネイティブではない人間には分かりやすくていいのだが、その事の異常性を誰かがキチンと非難をすることはないのでしょうかねぇ〜。

 殊更になってはしまいますが、つぶやきで人々を振り回すのは無責任であり知性の欠片もない行為であるような気がする。それが一般化し、匿名性の中で他人を傷つけたりヘイトの言葉を浴びせかけるような社会は、決して健全のそれとは言えないだろう。

 誰がどうだとは中々言えないものの、少なくも社会的に地位のある人、言葉の重要性を自覚できるような方々はもう一度、自分の所作を点検して無責任なつぶやきは回避してくれることを望んでみたりする。短い言葉の中で、ブツブツ言われてすぐに理解、共感できるほど私は頭のイイ人間ではないのだ――。

mitsutomi8866 at 04:17|PermalinkComments(0)日常雑感でひと言 

2018年12月04日

ホッと束の間・抄

ああ師走

 遅ればせになってしまうが、もう今年最後の月・12月に入ってしまった。最近は殊の外暖かなのであまり季節感やその実感はないのだらうが、それにしても1年は早い。「今年も何も為しえなかったな」などと思っても詮無い話である。

 日常は相変わらずの眠気と疲労との闘いというと語弊があるのかな。こんなもので働いているなどと広言するのもおこがましいところですが、それでも寄る年波で疲れが抜けないのは確かなところ。その日の朝に、自分の調子がいいのか悪いのかハッキリと自覚が出来るのも、これまた通例になってしまったところでアリマス。

 そんな折に、今日火曜からまた長距離の運転があると悩ましさと抱えていたところ、きょうの行程に関しては朝の病院行があるのできのう「また、中継をお願いできますか?」と親会社の社長に連絡を取ったところ、どうも人繰りが上手くないようで「明日はこちらで対処するので、休んでください」と言われてしまった。一人、ほくそ笑む。

 いや〜、何のかのと長距離ドライブが無いだけでこんなにもホッとするのかと思ったところ。気分はウキウキ。塾講師から帰ってからのきのうの夕食でも明日の仕事があるにも拘わらず、普段より余計に缶ビールを飲んでしまった。ちょうど、毎月の翻訳原稿が年末進行での締め切りのため週中までに送稿をしなければならず、時間がないので頭を抱えているところでした。これで恐らくは何とかなるだろう。

 今日は、十分時間を使ってその原稿を仕上げ(何とか定量近くまで書けることを期待)、夕方からは買い物と一緒に夕食作りも出来るだらうと一人で悦に入っている。こんなにも気分が違うとは……。何のかの、何時も言うことだが人間というのは“気分”の動物だ。

 ただそれだけの個人的告白だけであります。どうでもいいような事ながら、老いというのはこんなにも人の行動範囲と動的意欲といったものを殺ぐ部分があるのかと、今更ながらに思っています。とりあえずは、きょうは楽しく過ごしませう――。

mitsutomi8866 at 05:04|PermalinkComments(0)日常雑感でひと言 

2018年12月01日

「保守と大東亜戦争」



保守派のイメージと実際

 暫く間が空いてしまったが、前回に続いて読後感想文ということになる。恐らく、この欄でも読書の周縁を2回続けて語ることはほぼ無かったと思いますので、今回は自分でも意外の展開となる。何時も、不勉強と怠惰を嘆いてばかりいる自分だが、こうなると私も「決して遊んでばかりいるのではなく、たまには自分を磨くこともするのだ」と居直りたくなりますな。

 さて、表題の若手保守リベラルの学者さんが書いた本・『保守と大東亜戦争』(中島岳志・集英社新書)に関しては、これも本屋で偶然に手に取ったもので積極的にそうした勉強をしようと思った訳ではなかった。しかし、これはいい意味での偶然というのか、大変に刺激的で抜群の面白さを感じる本であった。求めた訳でもないのにこんな感激があったのは、エラク久しぶりのことではないでせうか。

 簡単にこの新書本の内容に触れておくと、ごくかいつまんで言うのなら戦中派の保守派重鎮(おそらく名前だけは良く知られた方々が殆どだらう)の発言と、その論説の真意を取り上げた本ということになる。出てくるのは、戦中派の東大教授で『ビルマの竪琴』の作者として有名な竹山道雄、ギリシャ哲学者として著名だった田中美知太郎、防衛大の学長などもやった猪木正道、評論家・福田恆存、元文藝春秋社長・池島信平、イザヤ・ベンダサンでごく有名だった山本七平、歴史学と保守派の論客として高名だった会田雄次、元東大学長・林健太郎の諸氏ということでアリマス。

 「保守」と「革新」という単純な思い入れと構図でいうなら、先の戦争や日本的伝統に対する積極的評価をしようとする保守と、ごく否定的に見ようとする革新という分類も成り立つだろう。どうしても保守というと、変化を好まない守旧派であり時に伝統主義や国家主義に近づこうとする危険で嫌悪の対象という感じを持ったりする。革新は単純には言えないが、この逆ということになるのだ。

 でも、そうした感じとは別にこの本で取り上げられたように、先に挙げていった高名な戦中派保守といった方々はむしろ戦前の超国家主義と対峙し、戦後も一貫して軍国主義や共産党的全体主義に鋭く批判を加えていたことを知ると、自分の無知を今更に思い起こしたりする。猪木正道とか山本七平といった名前を聞くと、私もその著作に触れたこともあるものの、いわゆる産経「正論」派の評論家としてちょっとばかり怪しいイメージもないこともない、と無責任な思い出が蘇ってくるのだ。

戦中派保守の気概と良識

 でも、実際にはそうした意識や決め付けが大きな誤解を修正していないということになるのでしょうな。本当の意味の“保守”とはどういう意味なのか。著者は、急進的であらかじめ“理想”を設定してそれに向かおうとする革新とは異なり、保守の立場というのは懐疑的で漸進的であり、常に現実を批判的に見つめる姿勢と表現しています。曰く「そのため、保守は個別的な理性を超えた存在の中に英知を見出します。それは伝統、慣習、良識などであり、歴史の風雪に耐えてきた社会的経験知です」(本文29P)とハッキリ述べている。これが、まさに本当の意味の保守ということなのでしょう。

 そしてその伝で言えば、先の大東亜戦争を引き起こした張本人がこの理性の無謬を予め信じて理想に突き進むという“革新”勢力ということになるのだ。戦前の超国家主義や軍国主義的全体主義を鋭く批判して生理的嫌悪を常に説き続けていた戦中保守の本質は、まさにこの点を鋭く追及・攻撃をしてきた。日本を戦争に導いていったのが革新派の軍人であり、それは本質的に共産主義的全体主義と同根であると言い続けてきた先述の各氏。その言論活動は、むしろ戦後の左翼礼賛やマルクス主義かぶれにすぐに懐疑を抱き、その本質・内実が戦前の全体主義と全く変わらないことに一貫していた、とこの著書では実証的にまとめられています。

 本当にそうであると思いますな。竹山道雄、山本七平、会田雄次といった各氏もその戦争体験から軍部の持っていた矛盾や押し付け、独善的体質に批判を隠さなかった。いやむしろ、それを生命を賭けて攻撃したといってもいいのでしょう。この本で取り上げられた戦後の重鎮は、その本質的保守の姿勢は変わらず、時流に乗ろうとする論壇や知識人を常に嫌悪し続けて来たというのが、この新書で表現された検証と各氏のプロフィールということになるのではないか。

 いや、本当にその名前と実績を知らないものでもなかったが、ここまでの本質的保守の言論活動というのは意識をしておりませんでした。その意味で、何時も同じことばかりを言っているがまたこの若手の学者さんに蒙を啓かれたのであります。自分も本来、保守的で右翼チックなところのある人間だとは思っているが、さすがに日本が先の戦争でアジア各国を独立・解放をさせたとするいわゆる「正論」的歴史史観には非常な違和感を感じる。先述の林健太郎氏が、そうした学者と一貫して対決をしてきたとする論証も、歴史を見つめる目として大事なものであると感じるところです。

 細かい内容点検までは至らなかったものの、その実証性と「保守思想の見直し」とその本質追求との意味で、著者やこうした本の功績には大きなものを感得する。もし、興味を持たれたらすぐにでも読んでみることをススメます。本当に面白い、ワクワクする本ですゾ。

mitsutomi8866 at 04:52|PermalinkComments(0)読書や趣味の話題 

2018年11月27日

「シーア派とスンニ派」




少しは刺激を

 人間というのは愚かなもので、歳をとってから健康の心配とか筋肉の衰えへの恐怖などもあって、体を動かすことには腐心をする自分は確かに居る。しかし、じゃお前の頭の方はどうなっているのかと問われると、グーの音も出ない。本当に勉強をしなくなりますな。歴史が大事と去年から努めて本を読むようにはなったものの、それも最近は仕事が忙しくけっこうおざなりになっていたりもします。

 そんな中、少し前に何気に買い求めたこれも啓蒙本・『シーア派とスンニ派』(池内恵・新潮選書)をやっと読み終えた。割合に時間をかけてしまったため、中身をキチンと理解したかとなると覚束ないところです。それでも、初学者にとっても中東問題の入門書としても好著であるのは間違いがないところだらう。

 また、本の中身ではなく総論めいてしまうのだが、一体に私たちは中東問題に関して生活上でも一番といえるくらいに疎いのではないでせうかな。米国やヨーロッパのことはある程度は分かっても、中東になるとサッパリだ。しかも我々宗教観や実質の宗教意識といったものに手持ちがないものだから、「イスラム教」などといってもきちんと説明できる人は少ないのではないだろうか。

 私もその一人だろう。表題になっている「シーア派とスンニ派」。もちろん、以前からこの二つの宗派が代表的なものであるくらいは知っていたが、同じイスラムで同根とは言いながら、イランに代表されるシーア派はわずか10数%と圧倒的な少数派であることは全く知らなかった。そうした細かな事情を本で読むようになったのも、ごく最近のことでアル。

 それで、地理的条件を含め中東のことなぞ分かる訳もない。

 この本はそうした宗派の構成から歴史的経緯、最近の中東での「アラブの春」に代表される出来事、宗派の対立軸になっているサウジとイランやイラク、シリアやレバノンといった諸国のこと、さらにイスラエルとの関係も含めて詳しく解説をしてくれて余すところがない。もうちょっと難しいことが書いてあるのかとも思ったが、文章は分かりやすく私のような初学者でも興味を持って勉強ができるといったところだろう。

中東はこれからの世界地図に大きな位置を占める

 何しろ、にわか勉強でそれこそその地理を含めて中東の現勢を理解している訳ではないので、また取って付けたような総論になってしまう。その不見識はお許しを頂きたい。

 言いたいのは、前述もしたように私たちは余りにイスラムや中東のことに無知なのではないかということ。これまでの歴史や生活の中で石油以外にほぼ関心事がなかったこともあるだろうが、これだけ世界が狭くなり、最近の出来事であるサウジ皇太子による著名なジャーナリスト・カショギー氏暗殺事件一つをとってみても、この中東における勢力地図とか米国との関係、まさに宗派間の対立といったものを理解していなけれは、背景はさっぱり分からないのではないかということなのだ。

 その意味からしても、中東の歴史を知ること、また欧米帝国主義によって如何に諸国が作られ壟断をされてきたかを書籍ででも知っておくことは、大変に大事ではないのかと感じる。一回、言及をしたことがあるようにいろいろ観方はあっても、「サイクス・ピコ協定」などは本当に今ある紛争や問題の根源であることは容易に理解が及ぶのではないでせうかな。

 今回、この少壮の中東専門家による著書によって蒙を啓かれるところは本当に大きなものでした。著者が最後の章になるのか、長年にわたって心に浮かべていた問いについて言い及んだところが大変に強く印象に残った。曰く「中東・イスラーム世界は、近代に普遍とされてきた自由主義や民主主義へと収斂していくだろうか? それともイスラーム教の固有の規範とそれに基づく文明が、西洋近代の軛(くびき)を離れ、独自の体制を築いていくのだろうか?(本文126P〜127P)」ということだ。アラブの春を経ても一気に自由化に進むことは決してなかった中東の諸国。著者の問いへの答えは未だ、出されていない。一方では今でも西洋、とくにアメリカの介入によって新たな混乱が生じている現実もある。現状ではオバマ政権の一種の弱腰や逃げによって、混乱と被害を極大化してしまったシリアの例などもあることは忘れてはいけないでしょう(トランプ政権になって現状が好転することは益々ないだろう)。

 私たちは、少なくとも中東の歴史と現状をもっと知る必要はあるのではないでしょうかね。これは、自分自身に向けられた命題でもあるし、広く日本の政治や外交にもある種の宿題として課せられている目標でもあるのではないか、と感じる。久しぶりの勉強・読書感想文でした。

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2018年11月25日

爽やかな小春



まあまあの気分かな

 「小春」というのは、この時期の春を思わせる気候ということのようだが、今日がそこまでのポカポカになるかどうかは分からない。この頃は朝方はけっこう冷えますからな。しかし、遅い時間に散歩に出て、見上げると雲一つない爽やかな青空には少し驚かされた。寒さは苦手ながら、ここまでの快晴になると何とも気持ちのイイものですな。きのうもそうだったが、この頃の青空は有り難いものだ。

 自分の家からでも遠く眺める富士山に関しては、今年は総じて雪はまだまだ少なく目立たないようだ。冠雪はしているものの、例年のような広がりはないように感じます。それでも、澄んだ空気とともに、この時期の“有り難さ”の一つにこの富士山の眺望があるのかもしれない。

 日常は平凡。週中の疲れは長い睡眠や日帰り温泉と共に、だいぶんに取れたのは取れたようだ。今朝も二度寝をしてしまい、都合にすると8時間以上は床の中だったのではないか。一方、平日は月曜と金曜しかエクストラの仕事は出来ないので、この頃は土日にも弁当運び攻勢が続いていて一種の緊張感が伴う。なぁ〜に、そんな大袈裟なものではないが、先週も1日2件があったりきのうも遠い場所まで恐らくは運動会用のお弁当を運んで来た。

 今日もそうなのですな。今日は近場にはなるがさる高校への高級弁当運びでアル。先生方もたまにはこうした豪勢な弁当が食べたくなるのかしら。決して非難をしようなどと言うものではありませんぞ。何処から予算が出るのか知らないが、余裕があるのなら食事の喜びを存分に味わえばいいのだと思う。つい先日、余りモノのお弁当(今日と同じ業者)をおすそ分けしてもらって戯れに食べたが、その余りの美味しさにはビックリしたものだ。

 本来、食欲を満たす(特に昼食は)のが必要最低限のお弁当ながら、観ているだけでも楽しいような高級なそれは、別の意味で活力を生んでくれるに違いない。また、取って付けたようなことばかりの能書きでしたが、きょうは一日爽やかに過ごせそうな予感はシテオリマス。

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2018年11月23日

小雪

やっと冬の実感が

 語るべき思念を失くす、考えが及ばないとすぐ季節感に逃げるのは何時ものこと。きのうは、二十四節季にいう「小雪」(しょうせつ・こゆきではありません)。確か去年も同じ題材で季節の話題を書いた気がしているので、本当に1年は早いと感じる。

 また取って付けたように言う訳ではないが、未だ本格に雪が舞うような時期ではない(今年は本当に雪が遅かったようだ。北海道は観測以来の遅い日に並んだとか)し、今年は暖かい日が多かったので実感としては雪の情景には遠いだらう。しかし、その中でも朝方の冷え込みは、本格的になってきたのかとは感じるところです。

 今朝がた、今季初めて小さな暖房器のスイッチを入れた。

 今一つは、年賀状なりクリスマスの匂いなり、街のそこかしこに12月を思わせるような飾りや売り物が並ぶことがこの時期なのかな、とも思うところだ。スーパーでお正月用品が並んでいるのを見るとこちらはドキッとしてしまうところでアル。また、そんな季節になって来たのだなぁとも。ここで取って付けたついでに、女優の小雪さんの事に簡単に触れておく。最初に「ラスト・サムライ」か何かで見かけたときには「江戸や幕末の時期にこんな大女がいるわけネェ〜だろう」と一人で毒づいていたものだが、その後に「always 三丁目の夕日」を映画で観てから認識を変えた。大変な大女優だと思ったものだ。今は子育てに忙しくテレビ画面でも余りお見掛けはしないものの、大ファンであります。

 まあ、季節感とは全く関係ないが「小雪」ついでということで……。

二の酉やいよいよ枯るる雑司ヶ谷 石田 波郷

mitsutomi8866 at 18:19|PermalinkComments(0)歳時記