「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および今回の熊本大地震で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
マスメディアを志望する若手のために「平成マスコミ塾」を主宰してきましたが、自身の仕事が忙しくなってしまったため、現在は休止状態です。 今後も若手のマスコミ志望者のためにお手伝いをしたい、との気持は変わりないものの、これまでよりは小規模に読者との交流や勉強会をめざしていこうと考えました。 ここでは、自分のメディア論を含めて意見を述べるとともに、勉強会の早期開催を目指します。

仕事なんだか遊びなんだか…

緊張感のないことは夥しい

 きのうは久しぶりに書く方の仕事として、定期的に送っているスポーツ紙のコラムを書いた。大分遅れ気味だったので、本来ならばもっと緊張感を持って真剣に取り組むべきなのだが、この頃はお情けで掲載させてもらっているような趣もあり、どこか気が入っていない自分を嘆いてみたりもする。

 だいたい、お目当てのサイトを検索して外国の医学文献を漁ってみたり関連の医学誌の原稿をつまみ読みして書いていることが主だ。専門用語はよほど難しい言葉も多いため、基本的にはあちらの雑誌記事なり新聞を翻訳してまとめてしまうようなことが殆どなのが常ですな。日本語の記事を書くときとも同様で、必ずしも細かいところまで理解が及ばずとも体裁だけは整えられるため、この頃はどうもそうした“ズル”をしてしまうことも多い。どうもイカンなぁ〜。

 ここのところ、本来の仕事であるハズの書き物についてはズルをしていることもあるし、熱意がだいぶんに無くなってきてしまっているので自分でも反省や振り返りをすることが多い。以前はもう少し熱心に取り組んでいたはずだが、仕事そのものが減じてしまっているのがあるし経済的な面でも若いときのような必要性を感じなくなっているからだらう。お金を稼ぐのはいくら稼いでも損はないのだろうが、とにかくも何とか生活ができればいいよとなってしまっているので、不要不急の請け合いはしないような最近の格好だ。

 何はともあれ、以前のように「〇〇さんでなければ、この仕事は受けてもらえない」とか「とにかく、急いでいるのであなたしかたのめないのデス」といったような仕事はまず、来なくなった。それだけ自分も一線を遠ざかってしまっているので、先方の視線にも入っていないことを十分に自覚している。それとツラレルように、自分の取り組みも甘くなってしまったということでせう。

今週は仕事で東京?

 明後日もまた、久しぶりに東京で製薬会社の記者発表に出てみる予定にしている。しかし、半分は遊び。いやぁ、殆どが遊びといっても過言ではないのでしょう。先ず考えたことは、「この日に東京に行けば、誰彼と会えるかなぁ〜?」ということ。幸いに今回も親友のNが「時間はある」ということだったのでスンナリと決まった。おまけと言っていいのかどうか、外国にいる小学校クラスメートの女の子も帰京中とのことでその彼女ら2人の女性も交えてということになった。

 この女性は私も去年の春先に小学校卒業以来という劇的な対面を果たしたのだが、さる高名な作曲家の娘さんだ。いまはアメリカのカリフォルニアに住んで、向こうでの生活が長きにわたるらしい。詳しくは知らないのだが、向こうに行ったのもどうも男性がらみのようだったと聞いた。以前はそんなにも情熱的な女性とは見えなかったのだが(どうも失礼!)。

 また世情がうるさく交錯している向こうの様子なども聞いてみることにしよう。

 それにしても、そんな風の締りのない日常になってしまっている。生活に緊張感のないことは嘆かわしい限りなのだが、一方ではそうした日常が愉しく送れるようになってきたことを感謝したいとも思う。別に言い訳でも居直りでもないのですが、世間の期待値と自分の能力・経済力が近似値で重なるようになってきただけでしょう。

 友人と酒を飲めるのが人生の至福――何よりこれだけは、間違いがない。

マンションの役員として

けっこう大変だなぁ

 また戯れでどうでもいいような事を書いてしまう。きのう、住んでいるマンションの臨時の総会があった。議案は、現在進行している大規模修繕工事の予備費の増額(要は、お金が足りなくなったわけだ)。さらに、もう一題はただでさえ遅れている工期の3週間ほどの延長であった。

 話せば長くなってしまうものの、要は言いたいのは私が現在このマンションの理事会役員をやっていて、濃密ではないのだがこうした懸案に関わってきたこと。さらに、問題の多い期に役員をやるとけっこうやることや考えることが「あるなぁ〜。大変だなぁ〜」ということですな。きのうは無事に二つの議案を了承してもらい終わったのですが、今後を含めて集合住宅に住むことの長短も分かってなかなか意義深い。

 そもそも、マンション管理組合の役員というのは何処とでもそうだと思うが持ち回りでアル。私も、もう一回監事というのを仰せつかったことがあるので、今回は2回目だ。当初は「理事長になってください」といった声もあるやなしやに聞いたが「とんでもない」ということであみだくじに。無事(?)に役員の中でも役職には外れて、平の理事ということになった(もちろん、担当はあります)。

 普段は別にコレといってやることがある訳ではないものの、今回のように大規模修繕にぶつかったり以前は出入りの管理会社を「変えよう」といった議案が上がったこともあり、ガタガタするのは一再ではない。とりわけ、今回のようにお金が絡む問題になるとその行方と説明には腐心をするという訳でアリマスな。

一種、理想のようなマンションか?

 結論的に言うと、きのうは予想(?)をされたように意見交換のところで強硬な反対論があるにはあった。細かいことを説明しておくと、増額になった予備費の原因は施行会社・管理会社の見通しの甘さや予備調査の不備にあった。もっと言うと、全面的な不具合の調査ではなくて一部をオミットして経験値による予測を立てたがそれが大幅に外れたという訳である。もちろん、調査が非常に難しい箇所であったことや調査費の大きさなどからのことであったのはあるようながら、住人としては「はい、そうですか」と右から左に納得ができるような話ではないだらう(何しろ、増額も400万円をかなり超える額である)。

 「オタクらのミスによってこうなった。何で、きちんと調査をしなかったのか。全然納得できない」という訳でありますな。これももっともなことであるのですが、きちんと調査をしていれば事前に分かったことは分かったことであり、そのための増額も当然にあっただろうし一方では調査費用の加算も考えられた。だから、結局結果論だけから言えば、「かかる費用は同じだし、手抜きをさせる訳にはいかないのだから仕方がないのではないか」といった現実論の助け舟もあって、最後は何とか収まるところに収まったということデスな。

 それにしてもというか、自分の住んでいるマンションの方々の民度の高さには何時も感心をすることがけっこうにアル。今回も、そうした強硬な反対論に対して修繕委員会のリーダー的な存在であるIさんが、理詰めで皆さんが納得ができるような丁寧な説明をなさっていた。役員席から皆さんを観ていたら、多くの方が頷いておられましたな。最後に大規模修繕委員会の方々や役員の面々で、施工業者からの最終的な説明とアドバイス要求にも立ち会ったのだが、本当に和気あいあいで気持ちがいい。さらに「反対論が出るのは当然で、それがむしろ健全ですよ」と複数の修繕委員会のメンバーの声もあり、本当にインテリの多い集合住宅らしい雰囲気だなぁ〜と、これにも感心することしきり。

 多くの人が一緒に住んで、共通の利害のあることをスンナリと決めることは一筋縄ではいかないが、今いるところは本当に“大人”の方が多い場所で「良かったなぁ」と本気で思えるのでアリマス。

 今年も去年と同様に、無事に修理が終わり夏の声を身近に聞くようになったなら、また懇親会でも企画をするかぁ〜。去年も大変に盛況ではあったのでしたが、今年はさらに多くの人が参加してくれそうな気がしている。

穀雨

恵みの雨と伴に夏へ

 「穀雨」というのは、二十四節季の6番目。これは文字を見て分かるように、五穀豊穣をもたらす穀類を育ててくれる雨の降る時期との意である。前回少しだけ触れた「清明」というのは、私には馴染みのないものであったのでしたが、こちらの方はあります。また、その意味することにもしごく納得をする。

 きのう夕方に天気予報を聞くとはなく聞いていたら、この節季のことをやっていた。たしか、今日が穀雨のようなことを言っていたので取り上げようと思ったものの、きのうだったのですな。何時ものとおり、少しだけ間の抜けた感じ。

 季節の実感としては、確かにこの時期から完璧に冬物衣料や春の風物詩からは離れていくことで、黄金週間を境に来る夏の息吹を感ずることになる。もうその頃から「暑い」という感覚が身近になってくるようですな。

 今年は少しばかり陽気に乱れがあり、おかしかった。東北や北海道でもつい直前までドカ雪が降っていたりしたことがあったし、一方の西の地方では大変な暑さに見舞われたりした。南北に長い列島なので当然の部分もあるのだらうが、これまでに感じていた季節感からすると本当に不思議でしたな。大変に遅くなった(統計開始以来という)ご当地の桜も、先日の強風と雨ですっかり散ってしまった。というよりは、この時季に未だ桜が望めたこと自体がオカシイのであります。

 季節感は季節感でしかないが、暖かさと共に希望や穏やかな性情を運んできてくれることを望むのみ。きょうは珍しく、金曜日なのに早朝の仕事があるようだ。決して嘆いている訳ではありませんゾ。体を動かせることの喜びは、若い頃には全く感じなかったものだ。慶賀。

ひた急ぐ犬と会ひけり木の芽道 中村草田男

一進一退

多少は光明もあるのかな?

 “日常”に立ち戻る、埋没するというのはまさにこんなコトなのだらうが、東京から戻ってからは昼間の遅い時間が流れている。朝は相変わらずに早く、仕事のある日は3時ごろには起きてしまうのが当たり前になった。今日もそうだった。でも、その分夜はごく早めに眠くなってしまう。体と相談をしながら、何とかやるしかないですな。

 それでも、というのか先行きにポツンと明かりの見えないこともなく、多少は光明もあるかもしれないとか思うようなこの頃。一つには、ここ最近全くご無沙汰になってしまっていたH総合病院への仕事が復活をしたことだ。きのうもそうだったのだが、きょうも珍しく連続をして仕事が入っている。普段行くY病院より手間は変わらずとも、ペイは倍ほどもいいので何となくウキウキもしたりする。やはり、費用対効果というのはこの歳になると大事だ(この間も言ったが、それだけケチになったのかな?)。

 ここのところ思い出すように、そちらの仕事が入っているので来月の報酬は今月ほど悲惨ではないでせう。何にしても、ギリギリの稼ぎの中でやっているような状態なので多少とも収入が多いことが生活に直結する。社会保険費も払っていないのが、大分にあるような気がするが、どうかなぁ〜。本当はそちらの方にすぐに充当をしないとイケナイのだらうが……。

閑居して不善をなすよりは

 もう一つは、未だ具体化はしていないのだが、新しい仕事を依頼をされて先日承諾の返事だけはしてあること。やはり、今仕事をもらっている大手運送会社N社の主要な業務の一部を手伝うということらしい。国際郵便を扱うので、「ローマ字が読めないと困るんだ!」と所属先の社長からは言われたが、「ローマ字ぐらいなら何とか読めますがねぇ〜」というのが、当方の返事。「難しくはない。簡単だ」とは言われても、現在の仕事でもコンピュータ端末にえらく悩まされた覚えがあるので、果たしてすぐに馴染めるのだらうか。

 現在の仕事と同じように研修の期間も短いながらあるらしい。大きな会社らしく、運行管理とか安全チェックというのは恐ろしいほどの徹底ぶりだ。半分、呆れてしまうようなところもアリマスな。まあ、そのくらいやらないと事故や誤配は減らないのかもしれないが。

 それでも、仕事が多少とも増えるというのはいいことだろう。心底、そう思う。あまり生活にも社会にも貢献はしていないので、空いた時間を活用するとの意味でも丸々一日仕事をするのは、自分のためにもなるのかもしれない。おそらく、連休明けぐらいから本格に始動をするのではないでしょうか。

 その他、もろもろ。何か本格的な勉強を始めたいとの意欲も未だ持っているつもり(子どもと一緒に勉強しようとも思ったが、彼女は自分よりも勉強嫌いかもしれない。驚異だ)だし、幸いに健康の面では血圧以外の難点はいまのところないようだ。

 日常的には極めて順調に体も動いている気がします。何時もの通り、「慶賀の至り」と自分を鼓舞しておきましょう。人生は「一進一退」だ――。

至福の刻(とき)

今回は余韻が…

 報告が遅れてしまったが、先週末土曜日に友人と二人だけで本当に久しぶりの飲み会をやったのはど真ん中の新宿。いつも2次会で行っているショットバーの「E」というところで、いきなり待ち合わせをした。よせばいいのに、好きなシーバスの水割りをがぶ飲みするなどしたため、会計は予想を遥かに超えるものに。それでも、会話は十分に愉しめたところだった。

 続きは赤坂のカラオケスナックで親友のOが気を遣ってくれたようだった。以前に一度だけ行ったことのあるところだったものの、私は場所はきれいに忘れていた。これも、Oのおかげで無事に辿り着く。ここも、費用対効果との面では久しぶりに散財をして、「どうだったのか?」と思うような一面はありましたな。以前も通ったことがあるように、本当に赤坂は高い。それでも、一緒になった九州のお医者さんらが私らとも同年代で、カラオケの選曲は全くにダブルような感じだった。私がチューリップの歌を歌ったら、エラク興奮をして喜んでくれました。

 今回言いたいのは、その飲み会の方のコトではなくて、その後の余韻のことである。何時も、飲み過ぎや年寄り独特の疲れがあって反省もするのだが、今回はフト気が付いたのがこの頃は泊まり込んで飲んだあとの行動パターンがほぼ決まっていることだった。

 つまり、だいたいが新幹線で逃げるように地元に帰ってから、駅かまたは周辺のラーメン屋さんに行って特定の品物をたのみビールを飲むこと。これはもう、4、5回は続けているパターンとなる。今回も同じだった。

もう愉しみはこんなところにしか…

 だいたいが、人生においてそうした大袈裟な「至福」なんていうのを感じる時というのは、そうは多くはないだらう。

 若い頃で言えば、入学試験に受かった時とか彼女が出来たとき。また、身近な家族関係でいったら好きなものを買ってもらった時とか、待望の場所に旅行に連れて行ってもらう時とかですかな。

 歳をとって仕事も忙しくなると、今度はそうはないのではないかしら。そうした懸案(仕事)が解決した時とか大きな“成果”があったときには幸福感はあるかもしれないものの、至福とまではいかないだろう。それが、歳を取ると人生に達観し些細なところに幸福があることを十分に自覚するということなのかもしれない。

 酒を飲んで飲み過ぎを反省しながら、私は飲み始めは別にして時間が経つとほぼ食わなくまってしまうものだから、翌日は大変にお腹が空くのでアル。それでも朝方はさほども食欲がないことが多く、一方多くの場合で軽めに朝食を取ったとしても電車で地元に帰るお昼前後になると、十分にまた空いていることが多い。それで、ラーメン、餃子にビールとなるのですな。新幹線の駅には割り方有名な博多ラーメンのお店があって何時も混んでいることが多い。外に出るのが面倒くさいので、ここで並んで入るのを常としている。メニューはごく少ないのだが、ここのラーメンは評判通りに美味しい。それで小振りの餃子も頼んだりして、冷えたビールを飲むのが恥ずかしながら、“至福”の刻(とき)である。「生きていて良かった」と本気で思う。

 今回は事情があって、JRの駅から近くの私鉄の駅まで足を延ばし、そこのすぐ近くにあるやはりとんこつ醤油のラーメン店に入って、全くの同じパターン。味玉何とかのラーメンと野菜多めのギョーザ。それにビールの食券を買って暫し待つ。アツアツのスープをすすりながらもそうだし、初めに乾いた喉をうるおすようにビールを飲み込んだときの幸福感といったらないですな。今回もまさに至福と感じた。ちょっとスケールが小さい気もしてしまいますが……。

 でも、そんなものなのかも。大きな目標を広げられるほどの器量はないし、今は飲んでも大言壮語するほどまでに酔わないことも多い。そんなときに自分の小物感を十分感じつつ、空いたお腹に入れるラーメンの美味さよ――と言ったところ。ちなみに、私は普段はこうした時以外にラーメンを食べに一人でお店に入ることはまずない。それくらい、二日酔いには「ラーメンが合う」といったところか。また、下らないことを言ってしまった――。

日常と非日常

ハレとケの割合を考える

 今更ながら「日常」がどうのこうのと考える間もないくらいに、毎日が変化に富んだ生活を以前は送っていたような気もする。仕事は常に“変化”をするものだったし、好きで通っていたスナックや飲み屋で知り合いに会ったところで、話の内容が前の日と同じということは決してないのだ。

 それがどうですかね、もうご当地に引っ込んでから10年ぐらいにはなると思うが、現在の生活は極めて「日常的」といえばそうである。変わったことをしている訳ではないし、普段の作業はルーティーンと言っていい程のものだ(ほぼパターン化している)。以前は毎日のように日替わりだった知り合いとの邂逅も、こちらにいれば前日と違う人に会うのが珍しいくらい。ちょっとばかりダラリとした、無為徒食が続いていると言っていいのでせう。

 追い詰められて物事をしなくていいというのは、それは大変な解放感のあるもの。予定も立て易い(実際にはやらないが)し、好きなことをやろうと思って何も阻害をするものがナイというのも、以前には考えられなかった幸福なのかもしれないですナ。しかし、半面でいうと刺激がない訳だし、酒を飲んでオダを上げるというのも限られた機会でしかない。それくらいしか別の意味の能力を私は持ち合わせないので、何ともいえない寂しさや不足感をたまに感じることも事実である。

 つまり、日常的で安心感があっていいとか非日常のダイナミズムがいいとかの単純さではなくて、人間というのは一面で非日常的な事やモノに憧れるのではないかと思えるのでアリマス。

“変化”は自分を変えるのか?

 以前にも記したことがあるように、日本語にある“ハレ”と“ケ”という言葉を考えてみてもいいかもしれない。今の私ら現代人の日常は毎日がハレのようなものだが、以前は騒いだり誰彼となく親しくできる無礼講の機会はさほど多くはなかったのだらう。だから、旅や祭りには大きな意味があった。

 現代ではそこまでの貴重さはないにしても、それでもこのタビやマツリといったものの目指すものは同様のものがあるのではないか。人間の欲望は強く、また限りないものでもある。私なぞも、金こそはないものの、日常の精神性には満足をしているし大事だと思える家族にも恵まれた気がする。これ以上はないと思えるような優しい人々に囲まれて「何を求めるのか?」と言えるほどなのだが、やはり何処かに未知であったり自分を奮い立たせる非日常を求めたりする。

 友人にも以前にはなかったような憧れを感じることもありますぜ。親しい友人の世界一人旅の話を聴いたり、現在は独身である親友の華やかな周辺に羨ましさを感じることがない訳でもない。でも、しょせんは自分は自分であるのだから、独自のものを求めないとイケナイのでせうな。

 きょうから、東京にフラと出かけそうした友人の一人と酒飲み会をやります。まあ、いわば精神の解放でしょうな。都合のいいことばかり考え言っているが、要はその人間の持つ欲望や華麗さを体現したいと思っているだけだ。全く意義深いことでも何でもないのだが、それも自分を形作ってくれる一コマといったところ。以前もこの欄で言及したことのある「孤独のサバイバー」のセカンドシーズンの最終話をごく最近観たりしたが、優勝者が「人と話し触れ合うことである人付き合いが、人生においていかに大切であるかが良く分かった」との主旨のことを言っていたのが印象的。やはり、人は一人では生きていけないのですな。その極限の生き残り劇のコトに関しても、近く触れてみたいと思う。さあ、飲みますゾ。

我が良き友よ

この頃思うこと

 唐突ながら、テーマにした「我が良き友よ」を大ヒットさせたかまやつひろしさんが亡くなったのは今年の3月1日。私らの世代にとっては往時のスパイダースとともに懐かしい面立ちながら、私はどちらかというと好感度の高い人ではなかった。でも、この曲に関しては文句なしに「素晴らしい!」と思ったのだったでした。

 たしか、大学に入ってすぐくらいだと思った曲の流行。思い出したようにというか、時代の雰囲気もあって吉田拓郎を急に聴くようになっていたりもした。そんなときに、意外な人がというか、拓郎の歌をひっさげて颯爽と歌う様が格好良かったですな。それまではどちらかというと、モダンで新しモノ好きといった風情の人かと思っていたら、こうしたバンカラの歌詞をシャウトするのが時代にきれいにフィットしたのではと感じたのは当時の思いでアル。

 で、そのかまやつさんに関してどうのと述べたい訳ではないのです。自分の最近の心境を考えていたら、なぜかこの歌のことが思い出されたというだけ。それだけのことデス。

 最近、自分の友人とかその交友についてしきりに考えるようになってきた。愈々、死期が近いのかもしれない。実際、生きていることの意味の幾分かの部分は友人との交友とその密度に関しての清算や心入れに基づくのかもしれないですな。若い頃はことさらに意識もしないのだらうが、社会生活が限られたものになってくると、肩書とか利害に関係しない従来の“友だち”といったものの存在を愛おしく思うようになってくる。

 もちろん、以前から大事にしているつもりではいても、それが一層に貴重に思えてくるというところでせうかな。

果たして、今後も維持できる、できない?

 ところが、たくさんいると思っていた友人やその交友関係の広がりに関しても、ちょっとばかり気持ちが片減りするような心境がときにもたげる。以前はなかったことだが、やはり一昨年末に急逝した大親友のHのことが関係をしているのではないかと、確信と共に思うのだ。

 それまでの、交友関係に大きな変化をもたらしたのは間違いないし、それはそれは大きな穴が空いてしまったことも事実だろう。かといって立ち止まることも簡単には許されないので、何とか前を向いてやっていこうと思っても、やはり何かにつけ思い起こしてしまうのですな。

 個人的なことなので、これ以上アレコレとは言いません。しかし、ちょっとした思い出とともに友人の気持ちを“忖度”することが、いかに難しいことであるかを今更に思ったりします。Hに関しては、自分としては個人的なことも洗いざらい話していたつもりでいたが、彼からしたら自分がそうした対象であったのかどうか。考え始めるとキリがないですな。

 友だちと気兼ねなく話せるときが至福のときであるし、先述のように思ったことを隠さずに言えることが何よりの絆になっている気がする。しかし、自分がそう思っていても、相手が本当にそう思ってくれているのかどうか、下手をすると「ン?」と考えてしまうのですナ。

 これもまた、歳をとった証拠かしら。幸福な時間を持てるからこそ、大事にしたいと思うからこそ、その繊細さと難しさを思ったりも。そんなことで、最近はグタグタと思い悩む“ふり”をすることも多いのです。

 今週末はまた、親友の一人と東京で会うつもり。心置きなくホンネを語れるか、それとも相手の心境をどこまでも忖度をした振り付けが加わるのか、自分自身にも判然としないところがあるのです。軽く心機一転を図りたいところだ(笑)。

H総合病院



こんな日常の中の医療

 毎日のように病院に通っている。もちろん、自分の持病治療のためという訳ではなく、仕事で医薬品を運んでいるのでアル。早朝のこの仕事を始めてもう1年を遥かに超えることになった。毎日必ずという訳でもないのだが、平日に少しばかり遠くの医療機関に足を運ぶのも、相手が近代的建物であるだけに(一般のお宅ではないとの意)気を遣わなくて気は楽というところだらう。

 きょうもその仕事で、県内でも西の方にかなり足を延ばしたH総合病院に行った(写真)。普段はもっと近くの隣り町の市立病院に行くことが多く特に最近はそちらが殆どであった。それが、先週久しぶりにこの遠隔地に足を延ばしたかと思ったら、同じ火曜にまた行くことになった。半分遠足気分のようなところもあって、こっちの仕事の方が愉しみになってしまっていたりする。

 この仕事を始めたときには、どうも私は遠い場所にあるこのH総合病院の要員として「雇われたのでは?」と思えるほどに毎日のように通っていた。しかし、病院で患者さんの需要があるときに運ぶ特殊の医薬品または用具なので、毎日仕事があるわけでもない。ましてや臨時雇いのような自分の身分としては、週のうちせいぜい3、4日の仕事であった。それが、久しぶりに本当に思い入れの多いコノ病院に続けていったため、それなりの感慨があるとまた下らないことを言っている訳だ。

最近の病院は非常に立派デス

 全く新しい仕事をしながら、以前雑誌の編集をやっていた時と同じように病院に足を運ぶというのは一種変な気分のときもある。これも、何かの運命のようなものの力で別の形で医療に関わっているのかと考えても、やはりそれは言い過ぎとも思うのだが……。

 それにしても、最近の病院というのは大変に立派ですな。先述のH総合病院もかなり前だと思うが、周辺の自治体が共同でそれまでの公営病院を統合するような形で作った場所と理解をしている。だから、本当にその威容は大したものだ。「こんな辺地になぜ?」というような大ビルディングであります。

 一方、実際に病院を何時もすすり抜けている身としてはいつも行っている朝なら40分ほどで行けるY市立病院の方が、従業員の人は愛想がいいようだ(H総合病院は朝でも1時間を優に超える時間がかかる)。看護婦さんにしても警備員の人にしても、朝顔を合わせる人はほぼ例外なく「おはようございます」と丁寧に挨拶をしてくれる。何のかのと気持ちがいい。

 じゃ、H総合病院の方はどうかというと何時も駐車場で雑用をやってくれている用務員の人とは仲良くなったのですが、総じて挨拶は徹底しているとはいえないようですな。以前、朝方に新人教育なのかどうか10数人のコ・メディカルの人たちが「おはようございます」と強制的に挨拶をさせられているところは何回か出くわした。強制ではイカンのでせう。何とも、自然にできるような雰囲気づくりが大事ということではないかしら。

 もう一つ、下らないことながら、以前も記したようにTSUTAYAで借りた『永遠のゼロ』をDVDで観ていたら、主人公が出入りする病院の玄関あたりがどうも「見覚えがあるなぁ〜?」としきりに気になって仕方がなかった。何のことはない、最後のタイトルバックを見ていたら、ちゃんと「H総合病院」と出ているではないか。そのときにも記したように、何でこんな田舎の病院でロケをしたのですかな。監督の知り合いが勤めていたからに違いない。そんな意味でも、親しみのある医療機関なのでアリマス。

 仕事も、距離も時間もかかるのだが、その分ギャラもいいのでこっちの病院宛ての荷物が増えてくれることを願うのが最近の心境の一端だ――また、下らない感慨で終わってしまった……。

サクラサク



春雨の中で

 まさかとは思ってみたものの、今日も朝からシトシトと雨の止む気配はない。朝の散歩の気力も一気に殺がれてしまったのだが、短い距離ながら歩いてみたらそうでもない。近所の桜がきれいに開花をしていたからだ。面白いもので、きのうは半分ほどしか咲いていなかったものが、生暖かさに引かれてかきょうはもう8分咲きぐらいまでは進んでいる風。このままいけば今日中ぐらいにでも満開に至るのではと思える程だ。やはり、イイですな。

 その桜(サクラ)の咲きように引っ掛けた訳でもないのですが、4月に入って新しい職場や学校でスタートを切っている人たちも多いのでは。直前の試験に受かっていたりすれば、まさに「サクラサイタ」という訳である。

 昨日も言及をしたことながら、自宅の裏の商店街からまっすぐ行くと近くのS大社の神様のひとつであるO神社がある。いつも本殿に参ってその脇をすすり抜け、別の神社に気の向くまま参ったりするのだが、きのう絵馬に書かれた文言のことに触れた。

 気になったので、きょうは一瞥をするだけでなく、目に付くままにその文言を読んでみたりした(裏返っていないと分からないのだが)。きのうの「とにかくもっとアニメが見たい!」というのは正確に言うと「もっとアニメが見たい!(切望)」でしたな。別に我慢をしている訳でもなさそうだ。耽溺しているアニメにもっと精通をしたいの意か?

 別の奴でも切実であり、かつ面白いものが縷々あった。

 「学校に入りたい」とか「〇〇試験に受かって何になりたい」というのは定番なのだらうが、それぞれにバリエーションがあることも面白い。介護士の試験に受かって福祉の仕事がしたいというのもあったし、うちの子どもじゃないが公務員試験に受かりたいという真面目そうな女文字の絵馬もあり、自分の熱意を書ききれないほどに書き連ねていた。小さな子どもの「バスケットの先(ママ)しゅになりたい」というのは字が違うことはご愛嬌としよう。「たいようになりたい」というのもあったので、これは幼稚園か保育園の子どものものか。「たいよう」というのは、実物ではなくてクラスのことかもしれないですな。

 「受注して、実績を上げ仕事ができるようになりたい」という笑えない切実のものもある。中には、「失敗を恐れずに……」とか「自分をきちんと見つめてできる限りやりたい」とか「目標に向かい、精一杯やって悔いのないように……」云々とかいう哲学的だったり自らを鼓舞するようなものももちろんに、アル。身につまされますな。

 みんな一所懸命なのだと思う。改めて、自分の不甲斐なさを思うような心境だ。

努力したことは裏切らないだろう

 何にしてもというのかな。老いて努力を怠る身になった者として、こうした文字や切実の心境に思いをすることは刺激になっていいものです。まあ、自分にだってこうした時期はあったとだけ言っておきませう。

 ただ一方、「神頼み」だけで終わってしまっていいということはもちろん、決してないだろう。努力をしていけば、どんなものであってもそれはその人を裏切ることはない。例え、試験であろうが恋愛であろうが失敗をしたとしても自分を作ってくれるものでアル(そう、信じている)。

 自分もそうだったし、世の中やテレビばかりにかまけていると、成功をした人を羨むしかなくなるが、現実はもっと複雑で重層化をしたものだと思う。震災ではないが、明日はどうなるかも誰にも分からないのであります。

 自身別に多くを望もうという気もとうに失せているものの、本を読んだりテレビで歴史上の偉人の話などを聞いていると、皆さんが“大志”があったり自らに“物語づくり”を課していることが分かる。そう、人生なぞというのは一篇の小さな物語にしか過ぎないのではないですかな。脚本・演出は自分自身。また、監督もそうなのでしょうが、頭が足りなかったりすぐに欲にかまけてずっこけるので、何とも曲折が多かったり落ちをきれいに作れなくなってしまう。私の今の心境の中でも、多分にそうである。

 他人(ひと)との比較ではなしにしても、何とか自分なりの“落ち”が欲しいものだ。カッコよさを求めると、それは大変なこととなるだろうけど……。でも、目指すしかナイですな。一方で、先述の絵馬のように大志があったり夢を抱く人の人生に対して、「幸いあれかし」と思うしかない。

 雨は降っているけれど、春の暖かさと浮かれ気分はすぐそこ。皆さまにも向けてこの言を捧ぐ。きっと「いいことがアルさ!」――。

霧雨

春爛漫か彩りか

 春雨とくると、シトシトと長く降り続くことが相場で、一方で本来の暖かさを運ぶことでも知られる。この頃の陽気は、まさにその「春の雨」を体現するように今日も続く――。

 きのうの天気予報を聞いていたら、きょうのお天気についで関東近辺ではご当地だけが朝から雨模様になるようなことを言っていた。確かにそうだ。朝から外の気配は完璧のそれ。いったん、散歩のために外気を伺ったとしても、地面を濡らす水の暗色とピタピタとした跳ね返りの気配だけが耳につく。

 きのうも天皇陛下がせっかく参られたというご当地の神社は、生憎の雨模様でもあったし桜も完璧に開花するまでにはほど遠かった。何か、この時季の陽気とは別の寂寥が襲ってくる。それにしても、きのうの朝はSPや警官の人たちがうろついていて物々しかったが、けさはひっそりとしてその分は気分が良かった。面白かったのは、何時も初めに訪れるO神社の本殿の脇に奉納した絵馬を掛ける掲示板風のものがあるのだが、見るとはなしに脇をすすり抜けたときに目に留まった一枚の文字。普通なら「〇〇高校絶対合格!」ぐらいが定番であると思うものの、そこに書かれていたのは「とにかく自由にアニメが見たい(切望)!」の大きな太文字だった。一体、誰が書いたのでせうな。

 よほど厳しい親なのかどうか、あるいは自ら合格までの欲望断ちをしているのかどうか。やりたいと思ったことはすべて自由にやってきた身としては、今ごろの若者の苦境を思ったりも……。

 雨が気になったため、何時ものコースより短めにはなったが帰途に気がついたのは、けさの本当に霧雨と呼べる春の風情だった。細かな雨なので、これなら濡れてもさほどは気にならないだらう。陽気もすっかり春先のそれとなり、生暖かい感覚はこれから益々募っていくことを予想させる。仕事の日なら唾棄すべき天気ながら、休みとあれば気になることもないですな。何気ない日常の中で、またぞろ下らない所感で明ける朝なのでアリマシタ。

春雨や小磯の小貝ぬるるほど 与謝 蕪村
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