「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および今回の熊本大地震で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
マスメディアを志望する若手のために「平成マスコミ塾」を主宰してきましたが、自身の仕事が忙しくなってしまったため、現在は休止状態です。 今後も若手のマスコミ志望者のためにお手伝いをしたい、との気持は変わりないものの、これまでよりは小規模に読者との交流や勉強会をめざしていこうと考えました。 ここでは、自分のメディア論を含めて意見を述べるとともに、勉強会の早期開催を目指します。

募るイライラ

なぜ、こうもダメなのか?

 自分に対して腹を立てることが多くなった。

 何のことはない、すべての動作、思考、決断その他が緩慢になっているからだと思う。先にも何回も言及したように、根底には“老人性症候群”があるのだと思います。つまめない、剥がせない、開けられないは言うに及ばず、この頃で頭に来るのは以前なら簡単に考えられたことや行動できたことが、すぐには出来ずに大変な時間と決心がいることだ。

 実のところ、この書くという作業についても本当にそのもので、少しはまともの事・皆さんのためになるような事を書きたいと思って材料を思案するのはしょっちゅうでアル。今回もある作家に関わる本について「書けないかな?」と2、3日前から考えたりもしたものの、未だ冒頭の2、3ページしか読んでいない。中身に関しては全く不明。そんなんで何が出来る訳もない。

 ことごとくそうした部類が多いのですな。以前なら即断即決もすべてではないが行動様式の一部にはあったような気がするし、映画にしても買い物にしてもすぐに腰を上げることもやっていたような気はするのだがなぁ〜。それが出来ていないし、一番に気になるのは比較的好きな事、以前なら何をおいてもすぐに行動が出来たような好きな対象に関しても動作が緩慢になっていること(仕事は全くこの限りではアリマセン)。

肉体、精神の衰えにどう向かうのか

 まあ、何というのか当たり前といえば当たり前で、老化は自分の精神と肉体に決定的なダメージを与え続けることはそれはそれとして理解はしている。しかし、それならそれで何処かその“状況”に対応した気分というのか、居直りや心の柔軟化も必要だという気がしますがコレも出来ないのですな。細かな気にし過ぎや心配性は相変わらずだし、周囲に気兼ねをする性癖は全くもって変わっていないので、それで異様に疲れるのではないだらうか。

 このところは正にそんな感じですな。嫁さんの一挙手一投足にビクビクしたり、子どもが余り挨拶もしなくなったことに以前ならイライラして怒ったりもしたと思うが、この頃はすべてに諦めの境地というのか……。良くないことだとも思うものの、自分自身に対してもある種喪失感が強いものだから、それも反応の緩慢さに繋がってしまっている。

 老人というのは、こういうものだらうかね。動作のノロさといったものも、以前なら他人を見てその遅さにイライラもしたが最近は「自分も何時かああなるな」としごく物分かりがいい。

 一方では物理的な動きが緩慢になることは我慢が出来るにしても、精神に高潔さと若さがなくなることには耐えがたい“何か”を感じてしまいます。ただ、それくらいの気持ちを持てているうちが華かな。すべてを諦めてしまえば、そうした志向さえ失くすだろう。さしずめ、遊びにしても酒飲みにしても徐々に興味を失っていくハズである。今のところ自分はそうなっていない。それで自分を慰めるか(?)。ただこれとても、何処か詭弁の趣と老人性のこじつけがアリマスなぁ〜。ホントに。

日曜大工(DIY)という目標

雑談の中の示唆

 「大工仕事は苦手だなぁ〜」というのが実感。実際、小さな頃からいわゆる学校でやるような大工(工作)作業は苦手だった。プラモ作りはよくやったものながら、これは作る対象に大変な興味を持っていたからだらう。図画工作で図画は割り方得意だった気はするものの、工作はできませんでしたな(その対極にあったのが実兄。ホントに器用だった)。

 これまた何故、急にそんな事を言い出すかというと、朝の仕事の合間のコンビニで何時も言及するUさんと話していたときに、そんな関連の話題が出たからだった。何時ものように私が週末、また東京での飲み会を計画していることを告げると、すかさず「よくお金が続きますね。交通費だけでもこちらで居酒屋に2軒ぐらい行けるんじゃないですか」とさも、無趣味で酒の話題ばかり振る私を憐れむように話題を向けてくれたことが発端。

 U氏曰く、「空いた時間に何かを作って部屋を飾ったり、簡単な調度品を自分で作ってみてもいいのでは。けっこう面白いものですよ」とのこと。自身も今は技術系の仕事をしていることもあり、大層には出来ないが、家でのDIYにはずっと興味を持ち続けているというのでアル。

 さらに言えば、自分にまた定年後の時間ができて孫でも生まれればそうした“セルフ工作”が結構な情操教育にもなるのではないか、とも言うのでありますな。

 言われると「それは確かにそうだな」と思ったところ。Uさんは元々野外派のようだし、家族の役にも立ちたいとの希求が強いようで、盛んにそうした話を向けてくれるのでありますな。「モノを作るというのは大変面白いもの。私もセールスばかりやっていた時には分からなかったが、機械の組み立てに関わるようになってから、そうした面白さに目覚めた」ともおっしゃるのですな。

先ずは片付けと家屋環境の整備から

 別に私に対する憐れみだけからでもないだろうが、何時も酒の話ばかりに終始して生産性がない人間にも見えただろうし、本当に高年になってからの趣味のある生活の面白さを述べたものではあるのでしょう。聴きながら感心をすることが頻りだった。さらに、自分の生活を振り返っても他人の役に立つようなかつ、自分の大きな愉しみも付随するような生産的趣味を持っていないことに気づくのである。

 そんな事を考えていると、最近は家族との会話が減ったり、どうも冷たい視線を感じたりするのもそうした周縁との関係があるのかもしれない。

 ホントにそれらしいことは何にもやっていないですものね。仕事で疲れたと言っては昼間でも寝てばかりいたし、ちょっとだけ資格試験への挑戦のような事もやったが、どうにも中途半端な部分もあるようだ。それならば、自分の足元を見つめて出来る範囲で、部屋の片付けやらちょっとした装飾、工作などを考えてもいいのかもしれない。

 でもなぁ、その気はあっても前述のように私は手先は不器用だしなぁ。かと言って、高価なものを買ってきて部屋を飾るようなことも出来そうにないので、そこは出来る工夫をするしかないと言うことだらうかね。何でもいいので、少し考えてみることにしませうか。

 今日は大切な助言というか、啓示を与えてもらった気もするところ。親しくなるというのは、踏み込んだ議論もときに可能にしてくれるようだ。それだけ、朝の休憩タバコ仲間には警戒心がなくなったというところか。明日以降もどうなるかは分かりませんが、朝の“愉しみ”だけはますます充実をしそうでアリマス。

さりげなく、押し付けず

考えるとホントにそうだ

 きのうはまた、予想に反して朝の仕事がありずっとNHKラジオの「すっぴん!」を聴いていました。これは何時もの通り。金曜パーソナリティー・作家の高橋源一郎氏は大変に好きな人なので、多くはないが聞くときには「何が語られるか?」と多少とも期待感が横溢する気がする。きのうも大変に良かったですな。

 運転をしながらなので全部の会話を聴いているものではないのだが、恒例の「源ちゃんの現代国語」ではたしか絵本作家の佐野洋子さんが取り上げられていた。ご本人への知識も乏しいのでうろ覚えの事しか言えないものの、この方が有名な絵本作家だけでなくエッセイストとしても一流であることをその作品『神も仏もありませぬ』から説き起こしたような感じだったですな。自分の良く知るご近所の家庭をさりげなく描いただけの描写なのだが、どうにも身につまされるというのか失われつつある家族の肖像がそこにあるというのか……。

 それだけ言っても何のことか全く分からないと思いますが、あまり仲の良くなかった父親をその最期まで看病・介護をする息子の話だったと確か思う。このお父さんも調子を聞かれるたびに「苦労じゃぁ〜」とか細い声を発するところが何とも言えない味わいがあるし、たまに「八郎の次じゃぁ〜」とも答えるらしい。つまり九郎(苦労)だという訳である。最後には亡くなる様もあるけど、それもごく淡々とした始末になったことが詳しく描かれている。昔はこんな家族も多かったし、そうした情景をあまり感情も交えずにさりげなく書く様は、本当に見事なところだと思った紹介作品だった。ほぼ、名人芸のようなものだらう。

 直接、この昭和13年生まれというベストセラー作家のことを言及するほどの知識はありません。ただ、先に亡くなったさくらももこさんもそうだったけれど、一芸に秀でている人が文章も巧みに書く様は、源一郎さんの紹介を通して今回も深く染み入った次第だった。そして、こうした作家や芸術家の方々が例外なく押しつけがましい描写をしていないところは、本当にこれもまた源一郎さんの言う通りだと思ったところです。

昭和の名エッセイストはみんな女流?

 そんな風に考え併せ、これまでのこの番組の紹介でもあったが、先日亡くなった樹木希林さんにしてもその生き方は見事と言うしかなかったし、娘さんの両親に向けた愛情もホントその文章力とともに泣かせるものだったですな。何とも巧みな葬儀挨拶であったと思う。

 先に述べたような「さりげなさ」と「他人に押し付けない」との意味でも、自分の持つ自立心と他者への優しい眼差しを体現した女流の人の何と多いことよ。(昭和の生き方名人は皆、女か?)

 エッセイひとつ取っても、青木玉さんから始まって映画界の沢村貞子さんも上手かったし高峰秀子さんは完璧にクロートはだしだった。塩野七生さんはその啓蒙力で群を抜いていると思うし、須賀敦子さんの情感も素晴らしい。とりわけの最高峰は個人的にも好きな向田邦子さんですかな。何とも見事な生き方をして来た人の多いことに、いまさら驚かされるのでアリマス。

 なぜ、皆さんが、これは男ではなく女性の方がこうもさりげなく、さらに他人の生き方を決して否定しないままに生活と人生を巧みに切り取ることが出来るのだらう。男ではこうはいかないだろう。自分の事を考えてみても分かるが、男はすぐに理屈を付けるし他人を批判したり“押し付ける”ことも大変に得意である。自分もそうした癖はあるので、良く分かるのですなこれが。

 以前とは違って、最近は凛とした女性の生き方が好きだし感心する機会ばかりが増える。一方の男は、誰がどうとは言わないが醜い生き方を晒して、恥じない人間が本当に多いですな。現在の閉塞状況の元凶はみな、「男のせい」でアルのかな。反省しきり、そして前述のような女性たちの才能に何処かあやかりたいとも希求しきりであります。

もんじゃ談義

余り良く知らないのだよネ

 皆さんは「もんじゃ焼き」と聞いて、どのような事を思い浮かべるだらうか。「イヤー、好きでね。あの食べ方も何とも言えない」とか何とか、蘊蓄を語れる人というのは東京でもそうは多くないだろうと独断的に思う。実にもんじゃというのは、東京の全く下町のおやつではないか。私は東京の西の生まれで育っているので、もんじゃの事を知りそれを食べたというのもかなり後年になってからでアリマス。

 なぜ、急にそんな事を言い出すのかというと、きのうの夕食の食卓で娘が「明日、絶対食べる!」と言ってこのもんじゃの話題を切り出したからである。そんな思いとともに、今朝の台所のガス台のすぐそばには、このもんじゃの具材セットの「月島もんじゃ焼きの素」とか何とかの袋が鎮座ましましておりました。やはり、今日の夕食は鉄板を使ったもんじゃ焼きになるようだ。

 子どもは大学生活で東京の郊外にいっときいたため、近くの吉祥寺にこのもんじゃの有名店があってそこにけっこう友人と伴ったらしい。大好きなのだという。その味が急に懐かしくなったということのようでアリマス。

 一方、前記の会話のときには私はすかさず「そんなに美味いもんでもないだろう」ぐらいのことを言った。良く知るものではないものの、拙い経験から慣れていないと食べにくいことと割り方淡泊な味に格別の感動がなかったためである。しかし、娘はそうでもなかったようだ。「美味しい。あなたは、東京の人間でしょう?」ぐらいのことを私に向ける。しかし、私はシティボーイである。「もんじゃなぞ知るものか!」といったところで虚しい反論を繰り広げたのでした。

東京といっても広いのだ

 実際、もんじゃ焼きが喧伝をされるようになって来たのはそんな昔のことではないだらう。テレビで東京下町の味として紹介されるようになり、一気に広まった感じもする。私はそうしたテレビで拝見するまで、その名前も味も知らなかったことは先に述べた通りだ。

 同じような経験と言えるのかどうか、東京の人間であれば浅草であっても上野であっても池袋の街だって良く知っているように思われてしまうが、決してそんなことはありません。物理的にというより、感覚的に東京は「広い」……。だから、私は経験的に下町を歩いたことは殆どなかったし文学作品に惹かれてちょっとだけ足を延ばすようになったのは、40歳を過ぎてからぐらいである。当然にそうした知識も無かったのだ。

 同様と言えるのかどうかも分からないが、新聞記者の現役の時にも「記者なら何でも知っているのでしょうね」とタクシーの運ちゃんであったり、飲み屋での酔客の人であったりと随分と色々のことを聞かれたし、また議論を吹っ掛けられたりもしました。これも、自分の専門でやっている分野ならともかく、いきなり国際情勢に意見を求められてもにわかには反応は出来ないですなぁ。

 話をあまり拡大させてもイケナイものだが、決め付けや思い込みは時にしてちんぷんかんぶんの議論を呼ぶのである。相手がそうした場所にいるなら、当然に知っているとの思い込みがあっても、何等かの事情で当該の事実に関して知識が乏しいこともあるのですな。コレが。皆さんはそうした経験はないですかな。さしずめ、今日は私の知らないもんじゃの魅力とその“美味しさ”に関して娘の講釈を聴いてみることにいたしませう。この今私のいるS市に関しても、嫁さんに聞くと全く提供するお店が皆無だったという事ではなく、あのサッカーで有名なM選手の実家も昔からこのもんじゃを提供する駄菓子屋さんのようなところであったらしい。珍しさもあったのだろうが、地元の人はどんな食べ方と利用の仕方をしていたのか、知ってみたい気もしたところだ。

タイ・サラダの味

少しビックリした良い体験

 この頃は休みが多いですな。今日は「体育の日」になるのかしら。連休が続いて日銭暮らしの当方としては余り嬉しくもなく、ピンとこない日常だ。そんな中、皆さんはどのようにお過ごしだらうか。

 私はいたって普通。この頃の忙しさから体調は万全ではなく、いくら寝ても眠たいのできのうも昼間に2時間ほど横になったくらいである。一方、ちょっとだけ準備をしないといけないこともあり、この頃は殊勝にも休みの度に図書館に行っているような気がする。きのうも正にそうだった。

 それにしても暑かった。ご当地は全国でも一番に暑かったようでアリマス。ピンポイントで此処ではないものの、お隣り街の清水では34・3度とかで日本一。自分のいる場所でも33・7度だかあったらしい。何ということか。これでは真夏ではないか。久しぶりにえっさかさと歩いて図書館に着いたところ、この時期で冷房が入っている訳もなく、暫くの間体中から吹き出す汗と格闘することに相成った次第だった。

 さて、話題は自分の勉強の事でも何でもなく、眠気の厳しさから2時間ほどで切り上げた図書館からの帰途のこと。家の近くまで来て、きょうは「長政まつり」とやらを裏の商店街でやっていることに気がついた。「山田長政」はご存知ですか? 遠くタイの国で王様に気に入られて今でいう県知事クラスの高官となり、王族の延命に尽力をしたかとかで有名になった人だ。この長政さんの生誕地が、私のいる場所のすぐ裏手だと言われておるのです。

 もう何年になるのか、商店街の振興策の一つだと思いますが「長政まつり」なるものが行われるようになり、私も当初は珍しがってその余興を眺めていたりしたものだ。最近は嫁さんとか子どもの友だちがかこつけて我が家を訪れることも多く、料理を作って宴会などもしていたものなのだが、今年はどうも中止になったようで嫁さんともども家で過ごす格好になった。個人的には、あまり興味も湧かなくなったという展開ですかな。

昼間のビールに絶妙のアテ

 さて、今年も素通りをしようかとも考えたのだが、ちょうどお昼時で仕事もないのでビールでも飲むのにイイ頃かと思ったところ。家のすぐ裏手でも屋台はいくつも出ていたので、そこでつまみでも買おうと立ち寄ったのです。マンションのすぐ真裏に店を構えていたのは、いかにもタイの人、そして恐らく旦那は日本人かと思われる二人がやっている個人食堂のようなところだった。小さな屋台の屋根部分に何とかライスとかグリーンカレーとか、タイの郷土料理が6品ほど並べてありそこから確かそれぞれ500円の品物を選ぶような形になっておりました。

 私は多少腹持ちがするものとも考えたものの、カレーやいかにものライス物は重たいように感じた。そこで見栄えのする一番手前のサラダ風の食べ物を注文したのだった。野菜ばかりに見えたが、春雨ぐらいは含まれるのではないかとも思ったからだ。しかし、これがあとで確認をすると純粋のタイ・サラダだったのですな。名前は「ソムタム」とか何とか……。しかも、他の食品はカレーにしても何とかライスにしても予め作り置きの具があったのだが、これは注文を聞いてからその場で作ってくれたのでした。そこで逆に不安になったのでありんす。

 何か臼のようなところで、香辛料だか野菜のくずのようなものを潰す。そして、散らばっていたレモン片や野菜の束を無造作に刻んで中に放り込む。さらにはビネガーや砂糖、塩といったものも本当に無造作にチョッ、チョッと振りかけるだけであります。最後の方にピーナッツを放り込んでいましたな。それだけで5分程度。

 一緒にタイ風の焼き鳥も2本だけ買って帰って都合800円也のつまみをビールと共に食しました。「果たしてどんなものか?」ぐらいに思ったのだが、これが実に美味しかったのだ。酸味と甘みが絶妙のバランスを作っていて、本当に感心をしたところだった。ビールにも良く合った。たまたま、娘がピザパイを注文したりしていたので、それも一片だけもらって一緒に食べた。いやぁ〜、実に美味でしたな。タイ風のサラダというのは、こんなにも美味いものだったのか。何度も言いますが、感心がしきりでした(ピーナッツは多少とも湿気ていたが、それが却って味を助長した。これも発見)。

 実に上手くいった休みの昼間。日中からの缶ビールと共にあった、私の「長政まつり」でした。たまには、こんな体験も目先が変わっててイイなぁ〜。また、下らない日常譚で失礼しました。

生きて“在る”こと

ちょっとだけ考えた

 10月6日、土曜。ほぼ1週間ぶりの散歩でアル。何時も嘆くように、ここのところ早朝の仕事は毎日あるので嘗ては折々に出来た散歩ができないでいた。ただ、それだけの話ながら、気分は爽快ともいかない。体のだるさは抜けた訳ではないし、天気は相変わらずでどんよりと曇り空。時折、陽が差したりもしたものの、すぐにいまにも泣きそうな空となります。

 散歩の途次に(金木犀の香りを嗅ぎながら)考えたことは、まあどうでもイイようなことだが自分の「生きていること」の実感について。世の中の不透明感は相変わらずだし、人類の先行きに自信が持てないのは私とて同じである。くたびれた体をさすりながら、自分の「これまで」と「今現在」、さらに「これから」などについてツラツラと沈思をしたりしたところだった。

 結局、大袈裟でも何でもないのだが、人が生きていることの意味というのはその“存在”に関して自信が持てるかどうかなのではないですかね。若い頃はもとよりそんな事は微塵も意識はしないだらうけれど、長く生きてくると「果たして、私は今ココにいていいのか?」とたまには考えたりする。皆さんのことは分からないが、少なくとも私はそうである。せいぜいにクタビレて、生活や生命そのものに関して自信が持てなくなって来ているからでせうかね。

 思うに、よく言われる生きていることの意味というのは、言葉を変えれば生きて“いる”ではなくて、生きて“在る”ことの追求なのかと考えてみたりする。つまりは、自分の存在感を探す旅が、長い人生そのものなのではないかということ。

 別に難しいことを言っている訳ではありません。「そうではないか」と思い当たる人もどっかそこら辺に沢山いそうな気がしています。

家庭に自分が“在る”のかどうか

 話が抽象的になってしまい申し訳ないのですが、映画でもテレビのドラマでもかつてそんな場面も観たと思い出すのは、中高年になって会社も定年で辞めようかというお父さんが途端に家に居場所を失くす光景。落ち穂族なんて言葉が流布したこともあったりなんかして、実際に会社を引き払ってからの人生に不安を感じる人も多いに違いない。かく言う私なんぞにしても、どうも最近は嫁さんとの会話はギクシャクしているし、その存在もほぼ“無きもの”にされているような気もしますな(大袈裟ではなくて正直な感想です)。

 一体、人間がその“在ること”、つまりは存在感を発揮できるのはどんな条件があった場合なのか。ツラツラ考えるのは、ごくごく単純なこと。有体に言えば、お金持ちは先ず絶対に存在意義と価値がある。「何を下らないことを」とも言われてしまいそうだが、だってお金持ちは絶対に皆さんが無視をしないし周囲に人が黙っていても集まることは必定である。これは当たり前の話。

 また、同じように俗の話になるが「地位や名誉」を携えている人に関しても、これもほぼ存在感を認めてもらえるのは間違いないだらう。同じように、周囲に必ずその本人ではないにしても彼の持っている地位や名誉を“利用”しようとする人が現れるハズだからである。政治家の権力関係や、コミュニティと呼ばれる場所での、ピラミッド構造などを考えてみると合点がいくところもあるのではないでしょうかね。人間はやはり権力には弱いし、上部構造や下部構造といったものは、現代でもしぶとく生き延びていることは間違いがなさそうだ。

 そんなことばかりを言うと、身も蓋もなくなりそうな気もしますが、もう少しご本人の人間性に照準を合わせた条件といったものを考えましょうか。あとは、その人に特殊でかつまめな技能があるかもけっこうな“存在感”に繋がるのかもしれない。つまり、いろいろな場面での能力発揮や他人のためを思う努力などによって、その存在が認められる人々である。社会貢献度の高い技術者やボランティアの方々なども、この範疇に入れられるのかな(芸術家と呼ばれる人、さらにエンターテインメントを発揮する有名人も多分ここに入るのでしょう)。

 最後にちょっと気障になるかもしれませんが、究極には“愛情”を持っている人。それを、他人に惜しげもなく与えることの出来る方も、間違いなくその存在を認めてもらえるのでせう。これは、具体的に言わなくとも納得をされる人が多いのではないでしょうかナ。じゃ、どうにもそれらの範疇には入りそうもない、私のような人間はどうなるというのか。

 「そんな事は、知ったことか。自分で考えろ!」というのが、結論ですかな?

日々是困憊

なぜ、こんなに疲れるのかなぁ〜

 前回言及をしたように、この頃考えている少し高尚なことに触れたいとも計画をしていたが、とてもそんな心境になれないでイマス。失せ物は全く出てこないし、仕事も立て込んでしまい、疲労感がずっと抜けないでいるからだ。

 ともかく、以前ならば週に1、2回は必ずあった完オフといえる日が全くない。ここのところ火曜日は朝の仕事は必ず出ているし、以前は先ずなかった金曜に関しても今日を考えれば分かるように普段行っているところではないにしても、必ず配車の人が充てがってくれる。有り難い話ではあるものの、それだけの仕事でなく昼間もけっこう働いた実感があったため、「明日、休みならイイなぁ〜」などと考えていても、夢は儚く潰えるのでありまする。

 だいたい、人間なんていうのは勝手なものだ。サラリーマンの時は放っておいても向こうから仕事が攻めてくるのでそれを適当にかわす方にたまには神経を遣っていた気がする。フリーランスになってからも、私は自分で仕事を探したとか営業をしたとかいう経験がほぼない。常に目の前にあるマストをやりながら凌いで来た気がするものですが、それにしてもよく何とかなったものだ。

 一方、この頃はそれこそ求めてでも仕事をしないと生活にも困る有り様ながら、一度楽に慣れてしまえばそっちの方がイイなどと勝手で怠惰なことばかりを考えてしまう。おとついも久しぶりにトラック助手の仕事が急に舞い込んで来、腰の持病もあるものだからかなり戦々恐々としながらも、モノ自体は軽いものだったので助かった。しかし、数はそれこそ5、600の単位ではあったのでそれを荷下ろしするのに疲労は困憊になったのでした。

明日は休みなのでイイか?

 愚痴を言えるような話では全くないものの、この“疲労感”だけは何とかならないものかと思う。涼しくなったので良く寝れることもある半面、いくら寝ても疲れが取れないのだ。朝は相変わらずにどんな遅くまで起きていても、午前3時過ぎぐらいには目を覚ましてしまう。場合によっては寝不足になるので、昼間はホントに眠たいですな。空いた時間にソファーに腰かけるとまず例外なく2、30分の単位で寝ている。

 また単なる疲労感と言えるかどうかも分からず、体全体がだるいと感じることも一再ではありませんので、ちょっとだけ心配にもなりますな。

 嫁さんは一昨日、きのうと2日続けて知り合いの葬式に出かけていた。きのう出た方などというのは未だ61歳なのだそうだ。例の悪性の病魔のせいだとの事だが、それにしても若過ぎる感じはします。会社を定年になって、やっとこれから「自分の好きなことができる」と考えた矢先だったらうにと私自身は全く知らない方ながら、無念さを感ずるのでアル。

 彼女が長く働いていた職場の事などを考え合わせると、ストレスが一番に原因するのでせうな。私自身が長く医学問題を扱って来た経験からしても、他の喫煙だとか運動不足などといったものを総合して考え併せても、ストレスが一番にマズイような気がします。古い体質の残る職場環境というのは何処にでもありそうな気がするが、警察や金融・商社の現場などというのは代表的なところではないでしょうかな。前記の人たちは皆、警察に勤めていた刑事さん達であります。

 大したことは全くやっていないくせに、自分の場合も少しでも疲れが残ると体はいささか心配になる。ストレスを溜めている自覚はないが(実態は全く逆だらう)、これからもせいぜい働いて得た給金によって憂さを晴らせるような“悪事”を考えてみたいと思っているところ。当面は年末も忙しくなるので、年が明けたら地方に住んでいる知り合いのところを訪ねてみたい。中学時代の友人が一人と、いま九州にいるのは仕事を始めてからの後輩だ。そんな連中とも、たまに会って酒を酌み交わしたいと本当に真剣に考えるようになりました。私もそろそろ、自分を労わらないとイケナイ時分に差し掛かっているやうだ――。

失せモノ

本当に良く失くすのだ

 本来であれば、ちょっとだけ高尚な事を考えて披露しようかとも思っていたものの、とてもそんな気分になれなくなってしまった。気落ちをしているのでアリマス。

 一番の直接の原因は、少し前まで持っていたと思っていたある思い出の品物の姿が見えなくなってしまったからだ。具体的に言うと笑われるのに決まっているので、多少ともボカシて話を進めてしまうが、この頃は周辺で失くし物をすることが本当に多い。あまりクドクド言うと何時ものように呆れられてしまうのでごく便宜的に述べておくと、物を部屋の何処かに置いてもすぐに「何処にいったんだ?」と探し回る。直前記憶を失くして、自分がやらうとしていることを失念するのも全く何時もの通りである。今朝方も、仕事に出ようとして腕時計が見つからず、アチコチに動き回り便所の中まで探したうえでどうにも姿を見つけられず。半分あきらめかけて、再びトイレに入り、きっちり既にはめていることに気がついた。笑えましたナ。こんな事ばかりでアル。

 さて、その探し物、失せ物の話題――。

 もう丸々3日間近くその姿を見なくなってしまった思い出での品は、決して高価なものではない。ないからといって特に生活に困るようなものでもありません。ただ、ちょっとばかり寂しさと無いと困るなといった強迫観念のようなものが付いて回るもの。そして、そのことでかなり元気が無くなってしまったのでアル。いいや、もう少しすれば時間が解決をしてくれるとも考えるが、どうにも“気持ち”が悪いのですな。普段あるものが、そこにないとやはり気分が乗らなくなる。

老化は失くし物で日々が明ける

 また、何やら抽象的で思いの届かない話になってしまいました。話をまとめる訳ではないが、どうにも老化というのはこの“失せ物”と共に過ぎていくことは実感として切実だ。

 先ず、髪の毛が無くなる。もっと言えば肌のハリもとっくに失くしているし、先述のように記憶であったり気力であったり、はてまた堪え性もこれまた信じられないくらいに失くしております。すぐに怒り、イライラして自分がいやになるのですな。

 ついちょっと前の話題のNHKの番組であの5歳の女の子が「歳をとって時間が早く感じるのはトキメキがなくなって、立ち止まって考えることがなくなるからだ」とか何とか解説をしておりました。本当にそうなのでせうな。同じように、歳をとって毎日に張りや勢いがなくなるのは、先述してくどくど申し述べたように失くし物が多くなって、気が滅入ることが多い日常になるからなのではないかとも考える。ホント、嫌になる。

 また、愚痴に終始して申し訳ありません。ただでも前向き思考が無くなるので、意識して注入をしていかないとイケナイのでしょう。ともかく、これから2、3日どのような思いで過ごし仕事に向かえるかも分かりませんが、なるたけ明るく過ごし、失せ物も部屋の何処かにあるのはほぼ間違いはないので、気長に探そうとも思っております。また、下らない日常譚でご寛恕を願うところ。拝

金木犀も咲く頃に成り



もうそんな時節かな

 「日々是好日」とでも言いたいところながら、どうもそんな気分にはなれない。天候も相変わらずで、今朝も朝からシトシトと雨交じりであります。台風の動きもともかく、秋らしいと言えばそうも言えるか……とだけ考えるところ。

 きのう今日は別にニュースに絡んで何を考えている訳でもありませんが、東証の株価が2万4000円越えとか米国についても好景気に沸いているなどと聞いて、この「先行き不透明、ある種お先真っ暗」の世の中で何がどうなっているのかと「???」の思いでアリマス。本当にどうなっているのでせうかね。トランプ氏の横暴、ゴリ押しは相変わらずだし、中間選挙のためだったら何でもヤルの心性も顕著の極み。周辺もかまびすしいが、人気は衰えないのである。世界の7不思議の超絶版だらう。

 そんな中で、けさの朝刊でコラム的な短信ながら、かの米国の歌姫・バーバラ・ストライサンドさん(76)がトランプ批判の歌を作ってお披露目に至ったとのニュースは痛快だった。日本ならさしずめ、美空ひばりさんにも該当をするこの方の新曲は「ドント・ライ・トゥー・ミー(私に嘘をつかないで)」というのだから泣かせる。まさにそうでアル。人間としての品性と知性の欠片もないこの男には、もっと厳しい鉄槌が必要ではないでせうかね。

 前置きが長くなりましたが、今朝の散歩の折に金木犀の香りをそこかしこで強烈に感じて驚いた。もうそんな時節になってきました。何時も言う通り、個人的にはあの強烈の“かぐわしさ”は苦手ながら、愛好者がいることに難癖を付ける気は毛頭ありません。世の中の多様性や、それぞれの個性や民情を認めることから民主主義は生まれるのだ。また、意味不明の短文になったが、仕事が忙しくいささか疲れた身体に関しては、きのうは良く眠れて疲れもとれたところ。幸いでアル。

浴後亦(また)木犀の香を浴びにけり 相生垣瓜人

ハレの気分は悪いことなのか?

調子の悪さは天気ばかりでなく

 ここのところ、職場の親しいHさんであったり遠い彼方の大学時代の友であったりと、ごくごく気分のイイ時間を過ごしてきたせいで、ここに来て不調を囲っているようだ。別に何が理由かとも分からないのだが、仕事が相変わらず立て込んでいることや、天気が大変に不順で晴れ間が見えないところが作用をしているのかもしれない。ともかくも、余り気分が良くなく、少しだけ落ち込んでいる。

 やはり、古い友人であったりと酒を飲むというのは、ハレの場と考えることが出来るのだらう。ケである毎日とは一線を画している。昔はお祭りぐらいしかハレと考えて騒ぎが出来る所在というのは無かったのだろうが、今はそうでもないですな。その気になれば、毎日でも酒を飲んで過ごすことが出来るし友人との付き合いでも、何かと都合をつける御仁もたくさんいるに違いない。

 しかし、一般にはそうではないハズですな。よほどお金が余っている人は別にして、それでも普通に暮らしていればそれは、何処かハレとケは峻別をされているはずであります。かくいう私も願望とは別にハレの舞台は少ないものなのだが、やはり歳を取ればとるほどにそうした発散やイライラの解消は求められているような気がします。

 そんな折に、地方紙の夕刊コラムを何気に眺めていたら、「50歳過ぎたら同窓会に出席してはいけない」とかいうコラムがあり読んだ事を、その当のコラム子が伝えていた。つまりは、病気や死、懐古主義に花が咲くだけで得るものがなくムダだというのである。果たしてそうであるのだらうか。その夕刊子も書いていたが、決してそんなことはないと信じているが……。

アンチばかりで有名になりたい人々

 クラス会や同窓会の効能に関しては、私は何時も書いているし、気分が良くなって若返りの効果があることに共感をしてくれる人も多いに違いない。懐古趣味の弊害がどうのこうのといっても、そんなことはどうでもイイことだ。人間は前を向いて生きることも必要だが、折に触れて昔を振り返ることで勉強できることだってたくさんあるのではないか。それは、前記のコラム子が書いている通りである。

 だいたい、世の中にはごく普通に流通している“常識”とやらに難癖をつけることで生きて行こうとするインテリと言われる連中が必ずいる。昔は良くあった、「日本ではこれが常識だが、欧米では違う。世界の常識からかけ離れている」などと大声を挙げて騒いでいる連中と同種のものだ。

 ごく普通に考えられていることに文句をつけることが、“高尚”なことだとも考えているのですかな。そこから自分の発想や生き方を見つけることに難癖を付けるつもりは毛頭ないが、他人への押しつけは御免である。同窓会やクラス会に出て、何がどう悪いというのか。コラム子も書いていたが、自分の考えの押しつけが他人を傷つけることもある。また、だいたいがクラス会に勇んで出席をできる誰彼なんていうのは、人生の成功者が大半だらう。とくに女子の場合には顕著だが、今の生活をひけらかしたいがために出るなんていう人もいるに違いない。それは行き過ぎだとは思うものの、充実した生活をしているのなら、それを他人と分かち合っても何の罪があるとも全く思わない。

 逆に、必ずしも上手くいかない人生に対して、会いたい連中がどんな生活をしているのか、何とか再会をする術はないのかと、そうした人生に思いを致せばいいのではないか。それはそれで、大事な思いやりであり勉強ではないかと思う。表現手段が発達したせいで、とにかく目立ちたいという人は多いのだ。そうした人が、ラジオであったりしても手を変え品を変え、番組の主題に沿った“面白い”話題を提供してくださる。何処かウソ臭いのだよなぁ〜。でも、本当に巧妙にそのテーマに合わせてくるので、アンカーも使わざるを得ない。そんな人がどのくらいいるのだらうか。とにかく、四六時中ラジオの番組を聞いて、そこに巧妙に取り入っているとしか考えようがない。同窓会への文句言いも同じ類だらう。

 機を見るに敏はいいのだろうが、人の生き方に難癖を付けるのは余程の覚悟が必要だ。私はそんなことをする気は毛頭ありません。とにかく、酒を飲みエロな生活を夢見、できれば海外旅行でもしてみたいと俗な興味しかない自分でアルのです。それでもイイと思えるように、自分を律していきたいところだ。
Archives
Profile

しゅん

QRコード
QRコード
livedoor 天気
  • ライブドアブログ