「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および今回の熊本大地震で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
マスメディアを志望する若手のために「平成マスコミ塾」を主宰してきましたが、自身の仕事が忙しくなってしまったため、現在は休止状態です。 今後も若手のマスコミ志望者のためにお手伝いをしたい、との気持は変わりないものの、これまでよりは小規模に読者との交流や勉強会をめざしていこうと考えました。 ここでは、自分のメディア論を含めて意見を述べるとともに、勉強会の早期開催を目指します。

出来事の闇(性や家族に関わって)

shukanbunshun180524今週号は真っ先に買ったが…


伺いしれない夫婦の間

 毎週木曜日(きのう)は新潮、文春の発行日であり何時もどちらか一冊を求めることを習いにしてきた。また、この頃はそうでもないのだが、以前は何とかこのブログ用にネタを探せないかなどとも思っていたものだ。最近はそうしていないので、今回は特別ながら、2誌を見比べて最初は新潟の女の子の無慈悲な殺人事件に関わって幼児性愛の事などでも自分の拙い経験(自分に興味があるなどと言っているのではありませんぞ。全くその逆だ)から、その世の中への蔓延の度合いなどについて触れてみようかなどとも考えていた。

 しかし、これはテーマとして重過ぎるのですな。今回の悲惨な事件については言葉もないし、とにかくもその異常性と伺い知れない闇の部分が際立っている。小林容疑者は周囲の評判は悪い人間ではないようながら、それがこうした事件の一番に不透明な闇に関わる部分だらう。恐らく調べが進んでも、分からないところが多く出てくるハズ。幼児性愛はその愛好者の立場に立ったとしても、説明できないリピドーが多いだろうからだ。人間精神の一番に弱い部分に、巣食っているように見える衝動ではないだらうか。

 そんな訳で、今回は面白いなと思って一気に読んだ「文春」の方のトップ記事・「夫ゴーンは私の首を絞めた――リタ前夫人激白4時間」(22p〜29P)の方について触れてみたい。

 見出しもそうだが、内容的にも十分にセンセーショナルな記事でアル。何しろ、相手はあの世界のビッグネームであるカルロス・ゴーン氏でありますからな。ゴーンさんの経歴に関しては皆さんが多く知るところだろうから、ここでは多く説明をすることもない。現在は日産の会長・仏ルノーCEOであり、不振に喘いでいた日産の業績をV字回復させた功労者として、その名前を轟かせた人であります。現在でも、業界全体果ては政界や財界分野でも影響力のある人といっていいのではないだろうか。

家庭や家族も闇に包まれている

 ただ「夫から殺されかけたこともある」との主旨の一種過激な口撃(当て字)を長時間したとされるリタ前夫人にしたところで、これはあくまで夫婦間の私的な空間で生まれた私闘であること(詳しくは触れないので、その主張は週刊文春で読んでください)は前提にしないとダメだろう。

 そのうえで読んでいけば、やはり俗人の俗の興味は満足をさせてくれるし、あんなに仲が良い夫婦ではないかと喧伝もされていたお二人も、一度躓くとアッサリと離婚に至るのだなという気はする(ちなみに、渡辺謙さんと南果歩さんの離婚は今日、報じられたようだ)。

 自らの経験も踏まえたうえで今回の記事の感想を記してみれば、これはやはりどっちがどうだとは言えないのではないでせうかねぇ〜。恐らくはその伏線になったところは旦那さんの浮気、ないしは不倫であるのだろうし、そこから一気に仲違いをしたというのは容易に分かる。しかし、記事を読めば多分に、前夫人がその主張を自らの意識の際に引き寄せるままに一方的に主張をしている部分も、多く見受けられるのである。多分に、被害妄想にまみれているところもありそうでアリマスな(ある意味、当然なのだが)。

 だから、あくまで一般論ながら、夫婦間の仲違いを他人や第三者が公平に鑑定してその客観的な評価を下すなぞということは不可能なのでありますナ。言った言わないもそうだし(今回はテープには取ってあるようだが)、虐待があったといってもそれを客観的に証明できる資料を携えられる人は少数であると思いますネ。

 個人的には面白い記事とは思ったところで、その評価という点になると一方的に前夫人(私は離婚やゴーン氏の再婚の事実も知らなかったが)に加勢をするという訳にも行かないだろう。一方、このリタさんが言うようにゴーン氏が大変に頭が良く、その影響力をあらゆる分野に駆使できる権力者であることもまた確かなことだろう。その意味で、リタ前夫人の形勢は非常に良くないようにも感じますな。文春にしたところで、この後の展開の中でそうした権力の怖さを体験するところもあるのではないでせうかな。私も記者上がりなので、すぐに怯んで真実を報じないなどというのは言語道断なのだろうが、それにしても少しだけ前夫人に一方的に肩入れをする姿勢の危うさのようなものを、感じるところでアル。徒然までで……。

誕生日を巡る私的出来事

まあ、恥ずかしい話ながら

 それこそ超私的の話であり内容なので、発言を憚るというか厚顔に自分で呆れたりもするのだが、まあ言うことに事欠いての戯れと勘弁をしてもらいたい。きのうは、私の誕生日であったのです。もう晴れて公的に高齢者の仲間入りということになってしまった。だから幾つなのと言われても返答に困るのだが、昭和28年生まれなので数えてください。

 いつも喋っているような気がするのは、他の人とも違ってなぜ「誕生日がそんなに愛でたいか?」と斜に構えた思いは何時も持っているものの、全く意識をしないわけでもありません。きのうも、殊更にそうか今日だったかと思ったのは朝の仕事を終えて帰ってきて、実兄からのお祝いのメッセージが早朝に届いていたことと、やっているFB(Facebook)のお友達からの何通ものお祝いメールが並んでいたため。FBの方のことは後述をするとして、何より意識をさせられたのは兄貴が「もう二人とも両親の歳はとうに超えてしまっているので、親不孝ということはないだろう」と書いていたからだった。

 そうですな。確かに私たちは両親が亡くなった歳を遥かに超える年齢に至ってしまった。これも私的な事でしかないのですが、私の母親は40代、父親は50代で本当に早くに亡くなってしまっている。だからどうだとか、苦労をしたとかいった言うのでは全くなく、むしろどの程度その親に近づくほどの器量を持てているのかとか、「親孝行したい時には親はなし」を本当に実感として感じる思いを反芻したりしたことがその際の率直の心情だった。

 そして、もう一つ。「家族からお祝いはしてもらえるのかな?」とも書いてあった。ビクっとした訳でも何でもないが、確かにここのところは嫁さんや子どもともキチンとしたお祝いのセレモニーは画策はしていなかったような気がする。もちろん、きのうもプレゼントはもらったし食事の時によせばいいのに「一言言わせてくれ」と唐突に自分の感慨を披瀝して、先ほどの実兄からのお祝いの内容に触れたりした。子どもに少しだけ、親がいることの有り難味を知ってもらいたかったからだ。

本当の節目になるか、きれいに老いているのかどうか

 だからどうだと、特別の感慨がある訳でもありませんな。淡々と時間が過ぎ、歳をとっていくだけ。むしろ、老いることの怖さの方が先に立つ。“老人シンドローム”は着々と進行中であります。

 先述したFBのことにも少しだけ触れておこう。何度も書いているように、私はたまたま会員登録をしてしまっただけで、いつも積極的に見ている訳でもないし投稿もごくたまにである。それでも、友人連中が頻繁に更新をするので、興味があれば近況をのぞいてみたり長く会っていない人にはたまにメッセージを送る程度。逆に、これは「自己満足の極致、リア充を他人にひけらかしたいだけではないか?」との、またちょっと僻みっぽい感想をもったりもしますな。

 それでも、誕生日のお祝いのメッセージをもらうというのは決して嬉しくないことではアリマセン。これは正直に認めたいところ。きのうも、12通だか13通のメールが届いていた。私はたかだか4、50人のフレンドしかいない身なので割合としては多いのかもしれない。何処かで気にとめてくださる御仁がいることは、孤独な老人の慰みになったりするのはする訳だ(随分、きょうも自嘲的でありますナ)。

 また、戯れ言をあれこれと言ってしまい、申し訳ありません。繰り返しになるが、きのう一昨日と今日が特別に違う訳でもない。晴れて老人になったからと行政からの特典がある訳でも、恐らくはないでせう。でも、何処かでこれを節目として意識なり行動の変化を考えなければいけないのかもしれないと考えたりもする。

 ムダに生きてしまうのは、皆さんにも申し訳ないことだろう。そうそう、先ほどのメールの中には長く会っていないグアム島からの日系二世の女の子のものも含まれていた。本当に懐かしかったなぁ。「お互いに65になったの、信じられないね」と書いてあったけれど(本文は英語、念のため)、本当にそうだ。その信じられない未来にこれから入っていく訳だ。心せねば――。

世事に疎いの身

こんな人間ではなかったが…

 別に興味を持って聴いていたという訳ではなかったが、今日は仕事の合間に聴いているNHKラジオの朝番組「スッピン」が何と30分間でチョン。その後に続いた国会中継を、前言のように聴くとはなしに聴いていて、気になる言葉が何度も出てきていた。アールセップ――皆さんの多くは聞き慣れている言葉なのかも分からないが、私はどうにもこの言葉を耳にしたのはごく最近になってからでアル。辞書にように解説するものでもないものの、RCEP(アールセップ)というのは東アジア地域包括的経済連携というものらしい。要はこれまで個別にやっていた経済協力協定(FTA)をアセアン諸国全体でやりませうという呼びかけのようなもののようだ。TPPにも通じるものがあるが、最近はごく一般的になっている言葉と了解する。その意味で、国会の質問の中でも頻繁に聞かれたものであった訳だ。

 今回はそうした経済用語についてどうこうとの意味で、ここで急に取り上げた訳ではありません。以前であれば、誰よりも先にそうした言葉や理念には敏感であったハズの身ながら、今はほぼ世事に疎くなってしまった自分を振り返る意味で感慨が深かったもの。

 そう、新聞を読まなくなってしまったのですな。放っておくと、朝夕刊に全く目を通さない(少し大袈裟なのだが)日があったりしたことも皆無とは言わない。別に時間がない訳でも興味がない訳でもありません。ただ、何となくそうした日常になってしまっている現状なのだ。

 何なのですかね。さすがにテレビのニュースに関しては、気づく限りは見るようにはしているつもりだが、本来の商売道具であった新聞に向かわないでいる時間が長いことに愕然とする。最近の調子の悪さもともかく、社会的な存在でなくなった自分とどうでもイイような興味や不健全な嗜好に流されている現況が、呆れるような不甲斐なさに繋がっているのかもしれない。

なぜ、自分を高めることを考えない?

 そうやって考えてくると、ゾクゾクと頭を遣わない日常が浮かんで来ますな。以前にも記したことがあるように、読書に関しても確実に読まなくなった(ごく最近、歴史書は読んでおります)。外出(そとで)と呼べばいいのか、仕事の際は別にしても以前のように街中に出てブラブラする時間も着実に減ってしまっているような気がする。人と会って話をするのも、配達仕事のときに仲の良い人と戯れ言を話すことはあるが、中身のある会話とは決して言えないだろう。塾のときにも前回書いたように塾長と世間話をする機会はほぼ無くなった。その代わりに子どもと話をしているかとなると、「休みはどうだった?」とか「今度、試験は何時なんだ?」なんてどうでもいいような短い会話はあっても、これも決して主題や長さがある訳ではない。

 歳を取ればみなそうだ、とも言えるのでせう。ましてや、日常的に外の仕事をしている訳でもなければ他人とコミュニケーションをとる機会もグンと減ってしまうのも、ある意味の必然かもしれない。

 しかし、それにしてもというか、自らの行動力・向上心の無さの故で頭がカスカスになるような日常を繰り広げているとすると、これは悲しい。

 やはり、最近の自分の自嘲の囁きや気分の落ち込みの限りといった部分にも大いなる関係がありそうでアリマスな。心しないといけない。もともと国会で議員の質問を聞く仕事をやっていたものが、遣っている用語の意味も分からないではシャレにもなりません。

 野党の質問は相変わらずの加計学園、セクハラ問題が主流で舌鋒にも疑問が残るような展開。世界の変動と覇権主義の勃興の中でのかじ取りにはいささかの疑問がもたげるような気がするが、それでも多くの国民が政治の行方に関心を持たねば、国の行く末にも暗雲は湧き上がってくるハズだ。自らを反省しながら、私ももう少し政治・外交問題に意を用いねばと考えた次第デス。ブツブツ……。

エナジー(energy)

束の間の会話から

 講師として通っている塾のI塾長に久しぶりに会った。きのう出かけた折に、建物の前で塾長がちょうど(もう道路の反対側に渡ってはいたが)帰るところを、彼女の方から認められたからだった。

 以前は夕刻から2時間近く重なる時間があったので、常に顔を合わせていたといえる。私は小学生も教えていたので、生徒の多かった頃は文字通り大童(わらわ)。近時はさほどの忙しさはなかったので、何時もワイドショーの話題などで二人で盛り上がっていたのを覚えている。

 I先生はほんの挨拶のつもりで軽く声を掛けたつもりであったようだ。一方、私の方は最近とみに行き詰まりを感じてしまっていたため、戯れに「どうにも行き詰っています」と道の反対側に声を掛けたら、心配になったらしく「ここの塾のこと?」とか返事をくださった。もちろん、そんな事ではなくてごく個人的な心情であったのだが、そのうちに話が止まらなくなり私が道を渡って暫し会話をしたところだった。もちろん、5分ほどのことだったので仔細のことや大きなテーマなどは皆目ない。先日の休みに先生が大分にいる息子さんのところに遊びに行ったてん末や、日常の話も織り交ぜながらのひと時。

 自分の心情に関しては、「どうも最近、自分がつまらない人間になって来たようで……」とか何とか言ったのだが、先生は「前に進まなければ。立ち止まってはダメよ。挑戦、挑戦!」と何時ものように語気は荒く快活だった。本当にそのエネルギーには頭が下がるのである。

 何時も気にしていて、彼女の事もこの欄で簡単に紹介をしようと考えていたものの、未だ出来てはいないようですな。戯れの丁度いい機会なので、その人となりについて短めに点描をしておきたい。

いつも勉強の素晴らしい方

 I先生は国立大学の恐らく教育関係を出て、間は分からないのだが今とは別の場所で長く塾を経営していた。始めは大手の教育機関のフランチャイズのような形でやっていたようだ。きっかけは詳しく聞いた訳でもないが、生徒の中にいつの日からか発達障害児が混ざるようになり、その原因や対処の仕方を考えたり、向学の一念で脳神経のメカニズムを独学で勉強しながら今日に至っているよう。障害児教育に関して本も書いており、評判を聞きつけて多くの幼児や小学生が通っていることは何回か触れたことがありますな。

 とにかく情熱的で何にでも真剣に取り組んでいるところが素晴らしいし、尊敬もしている。一度、詳しく書こうとも思っていたのだが、私が4年前にこの塾に採用された時にちょうど治療(療育?)の真っ最中だったNちゃんという就学前の女の子がいた。頭の障害(かなり重かったようだ)のため、その当時は「アー、ウー…」といったような意味不明の言葉が多かったし、情動の激しさも尋常ではなかった。確かに上手くしゃべることも出来なかったのだ。

 ところが、先生の考案した手を遣う体操の効果や、容赦ない体罰まで織り交ぜての指導(親御さんの前でも平気で叩く。これには本当に驚いた)が功を奏したのか、暫くして上手にしゃべれるようになり甘えるような気質と言葉遣いは独特だった(幼児のそれと思えば良い)ものの、その後はズンズン計算も言葉遊びも出来るようになった。

 そして何と、2年ほどして彼女は小学校の普通学級にそれこそ普通にはいれてしまったのだ。これには心底ビックリしましたな。そして、痛く感動もしたのだ。こうした例は他にもあるようでアリマス。個人的にはその情熱や指導には敬意を表したいと何時も思っているところ。

これからもその姿を手本に

 一方、今はお歳は私よりいくらか上とお見受けするが、若い頃はかなりの美人だったであろうことが想像できる方(今も若々しいのは確かです)。大分、恋愛事件なども起こしたことがあったようで、そんな話も包み隠さず私ごときに話してくれることも魅力だった。お互いに空いた時間によもやま話をすることが多かったのです。先生の家庭のことも、よその人よりは詳しく知っているところかもしれない。

 話は元に戻らないとイケナイのだが、お互いの短い会話の中で「とにかく、今は生徒も少なくなって大変なんですが、何とか乗り切りましょう。先生には苦労をかけますが、期待をこれからもしていますので」と言われたことは嬉しかった。働きは良くないので、この頃は疎まれているのかとも考えていたところですが、存在はどうも認めてもらっているようであります。

 先述しタイトルにも取ったエネルギーという言葉。本当にI塾長はエネルギーの塊のような人なのである。常に前向きで、今は身体の状態も万全ではないようながら一所懸命に体を動かそうと常に腐心をしているところも間違いなく尊敬の対象である。一方で、私は細かい事を気に病むし、自分を絶対視して自信を持つことが少ない人間だ。真逆の性格の中で「目標を持ちましょう」と言われるとその気にもなるといったところですかな。日本語では「エネルギッシュ」などと言うが、I女史は英語でいうところのエナジェティック(energetic)の典型のような人。久しぶりに短い逢瀬を愉しんだところデス。

TOKIO始末・懺悔完

ひたすら反省するのみ

 自分が多少とも肩入れをしているグループであったため、ものの見方に大きな曇りとご都合主義の部分があったようだ。これまでの一連の元TOKIO山口氏騒動の中で、それこそ「大したことでもないのに。何でこんな騒ぎに…」といったような一方的な書き方をしてしまった。事件の報道の経緯やその表層的な理解の中では、自分にはそうした見方しか出来なかったとも言えるものの、どうにも「らしくもない」との謗りを免れそうもない。単純に過ぎたようでアリマス。

 きょう、早めに発行をされた新潮、文春の二誌。新潮の方しか買ってはいないのだが、事件の真相を取材したてん末を読むと、どうにも汗が出てきそうになる。詳細は中身を読んでもらうしかない一方で、もしここに書かれている事件の経緯やその後の推移、捜査関係者の話が真実ということになると、私は「どうもすいませんでした」と懺悔し、謝るしかなくなるのだ。

 どうも、コトが大変に悪質なものであったらしいですな。単純に酔ってキスを強要したといったものではなく、明らかにコトに及ぼうとする事前の犯意と準強姦といえるような振る舞いがあったようだ。恐らくは、書かれていることの方が事実により近いものなのでせう。

 決して言い訳ではないものの、どうも始めからオカシイという気はしていた。天下のアイドルグループであるし、そのビッグネームに照らしてみても、何で話が明るみになったのか、何故事前に抑えることができなかったのかというのは、心底理解が及ばないところがありました。

 要は単純に、“悪質過ぎた”ということなのですな。

戒めにして、今後に及ぶように

 コトここに至ると、言い訳や言い逃れをする気は全くない。私は文字通り、深層(真相?)に迫る材料を持っていなかっただけでなく、その表面的な発表とメンバーの言葉や対処の仕方といったものだけで判断に及んだ。もう少し、裏読み(もともとこれが求められていたのかも)をすれば良かったし安易な判断をすべきではなかったのかもしれない。

 しかし、本当に言い訳でも何でもないのですが、現実にはこうした現象や芸能人の驕りといったものは何処にでも存在し、見られるものだと思いますよ。TOKIOはジャニーズ系にしたとしても好漢が多いグループだと思っていたし、もうけっこうな歳なのでそうした自覚・責任感といったものも当然に持ち合わせていると勝手に思い込んでいた。それは、そうでもなかったという事ですかな。

 また繰り返すこともありませんが、やはり番組で知り合ったというこの被害者の女子高生は心底、恐かったのだらうし身の危険も感じていたのだろうと。友人と一緒に出掛けたことは正解で、コトの後の恐怖心から親御さんと共に警察に駆け込んだというのが、より真実に近いのだと今になれば良く分かります。

 さらに誤魔化しでも何でもないのですが、その地位を利用して抵抗できない相手に性的な嫌がらせ、身体的暴力をふるうなんてことは決して赦されるべきことではない。山口氏より財務省の某幹部方がよっぽど“悪質”だと書いたりしたが、ここでも前言は撤回をしておきます。山口氏の挙措も大変に悪質ではあったということ。だから、ここまでの事になってしまったということですかナ。

 自分の浅いモノの見方を心から反省をすると共に、これまでの言動から私は保守反動の権化でかつ女性蔑視の反動と見られてしまうものやもしれませんが、決してそうではありませんぞ。私はあくまで女性に味方をしますし、セクハラは「今も昔も赦されることではない」とのこの週刊新潮の主旨にも全面的に賛意を示すところ。やはり、悪事は徹底して剔抉をしていかなければならないのだ。「本当の悪事と情状があるものも、分けて考えるべきでは」とも書いてしまったと覚えているが、その辺の真情には変化はありません。起こっていながら隠された悪事は、これからも究明すべきなのはマスメディア、や今回のような報道にも求められていることと強調をしておきます。

 お詫びと共に、また個人的怒りは臆することなく言ってみるつもりでアルことにご理解を頼みます。拝

TOKIO始末

やれやれとも思うし…

 すったもんだの挙句、きのうTOKIOの山口達也さん(46)の契約解除とメンバーからの退団が明らかにされ、ここで一応の方向性が見えてきたということに相成った。けっこう長かったですな。確か、もう2週間に迫るぐらいに芸能マスコミの好餌になり続けたということだらう。

 細かな議論は措いておいても、きのうそのニュースに触れた時には、また「何かを言わねば」などとも一瞬考えたりした。しかし、すぐに思い直して「止めておこう。何を言っても詮無いだけだし、誤解もされるだろう」とも決めてその後の時間が過ぎていった。でも、でもというところですかな。やはり、個人的意見ではあっても暴論と言われても、一言は述べておきたいと思ったところです。

 騒ぎの結果として出てきたのは、彼が司会を務めていたNHKEテレの帯番組は打ち切り、日テレやフジに多い出演番組に関しては未定分もあるが、本人を除いた形で継続するというものが多いようだ(鉄腕DASHは続くようデス。良かった)。一方では、内堀福島県知事が会見をしていたように残った4人を同県の復興支援の応援者として「引き続き協力をして頂きたい」とする動きもあった。東京オリンピックのアンバサダーについては未だ未定ではあるのですが、これも残った4人でやっていくことになるのではないですかね。それで構わないのではないか、という気がする。

 まあ、落ち着く形に落ち着いたといったところだらうか。周辺の事情を良く知るものでもないので、実際のところは無責任にしか言えないが、TOKIOの1ファンとしても活動を極端に狭めてしまうのは何とも残念という気がする。彼らが一心同体ではあったとしても、実行行為はあくまで残りの4人には関係のないことだ。

ホンネと建て前が違い過ぎるのではないか

 とココまで分かったような事を言っても、また「ハタ?」と考え込んでしまう。山口氏本人の自覚だとか、アルコール依存の実態と治療に向き合わないといけないとか言ってはいても、やはりそんなにも「大層なことなのか?」というのが本音であります。

 やはり、これは被害者の方には酷なことではあっても、山口氏と他のメンバー、そして私たちの意識とも現状認識に大きなズレがあった(個人的見解ながら)ということではないでせうかな。

 敢えて言えば、無理やりにキスをしたとか言っても、そんなことは酒を飲んだ喧騒の中ではいくらでも起こり得ること、そして実際に起こっていることではないでしょうかな。ココからの議論は恐らく非難も受けるようなものだと思うが、アイドルと言われる人たちにはそれが犯罪性を帯びるなどと意識している人は少ないハズ。それを遥かに凌駕する準犯罪行為が、彼らの世界では頻繁に行われていると思えるからでアル。

 ここまでのワイドショーなどで「それって犯罪なの?」ぐらいの事を言うタレント・コメンテーターがいるかとも思ったが、さすがにそれはいなかった。自分の首を絞めることを、皆さん良く分かっているでしょうからね。しかし、TOKIOのメンバーの憔悴ぶりにも一種の驚きがあったし、ここまでの謝罪と対応しないといけない現状はむしろ、それこそのホンネと建て前の乖離を殊更に感じるものであったのも事実です。

 また、具体的に何が言いたいのか分からず、暴論として一刀両断されるものかも分かりませんが、もともと建て前・ホンネを使い分ける日本社会の中で、これは他の局面にも言えることながら「本当に悪質なことと、何処かに情状があることを峻別して判断する」ことは大切なことと思える。じゃ、なぜこんなにも大騒ぎになるのだとも言われそうながら、それこそ建て前で物事を処理してすすり抜けることや、忖度の中で「大きなものに巻かれる」ことを厭わない人が多過ぎるからだ。

 だからどうとこれ以上は言いません。しかし、公になったからといって寄ってたかって指弾をされなければならないことと、陰に隠れて行われる“悪事”の差が大き過ぎる。その差は縮めるように、私たちは普段から公正ではありながらも、もっと弾力に満ちた見方・考え方をすべきなのではないでしょうかねぇ〜。暴論と言われても、それは構わないと思った真情のところデス。

子どもたちの未来

とにかくの幸せを

 何時ものように気の抜けた暦のようになってしまうが、きのうは子どもの日。そして、いよいよ連休も最終日ということになってしまった。取り立てて変わったことがあった訳ではありません。一昨日の金曜に親戚のうちに一同が集まってバーベキューパーティーをやったのだが、そこにも中学校や小学校、未だ生まれて2年ほどしか経っていない親戚の子どもたちがいて、嬌声を聞き動き回る姿を眺めていたらある種の感慨を催したというだけだ。

 人の営みというのはこういう風に成り立っているのだなぁという感慨である。人は皆老いるし、世代交代が必ずアルということ。これから若い人たちの時代になり、その成長と世の中から何を受け取って何を考えながら生きていってくれるのかには興味がある。そして、何より「倖せになって欲しい」とも心底願います。

 まあ、他人様の家庭の事にどうこうという詮索も干渉もできませんが、幸いに皆さんそれぞれに愉しそうに振る舞っておられることが良かった。歓声も絶えなかったし、主宰をしてくれた義理のお兄さんに関してもその気の入れよう、用いようは大変なもの。ご本人も「この日のために1年間の準備をして来たものです」と半分真顔で挨拶をしていた程のところは、少なからず実感としてあったような気がする。

 ただ、若い人が一所懸命に焼いてくれた魚や肉をほぼ食べることもなく、ひらすらに飲みまくっていた私は昼前から夕刻までエネルギーを使っていただけに拘らず、家に戻ってから調子の悪さは尋常ではなかった。お腹が空いていたのですぐに焼きそばを食べたあとは、そのまま午後8時ぐらいには就寝。途中何度も起きたのは起きたが、何度寝直しても眠たく、都合でいうと12時間以上は寝ていたのではないかしら。それでも、調子が戻ったのはきのうの夕刻になってから。本当に、体力の無さには呆れるばかりだ。人間は年老いていくだけなのですな。

私たちは宇宙人の操りものか

 ここでまた、突拍子もないことを言うようだが、今日の夜中に週末集中放送をしているヒストリーの「古代の宇宙人」を観ていたら、例の壮大な仮説のところで「現在の人類も宇宙人の実験動物で、進化を続けているのではないか?」との言説が気になり、面白かった。常識からするとトンデモナイことなのだろうが、この番組を観ているとそうでもないような気になってくるので不思議だ。確かに、類人猿と呼ばれる多種多用の前人類から我々ホモサピエンスの類への進化というのは、確実に“飛躍”が過ぎるのではないだらうか。地球上の各種生物を見ても、その数が余りに多いことや、生存には不向きと見られる特質のある動物が多過ぎることなど、この番組で語られる地球外生命体による遺伝子操作というのも案外「当たっていそうな気もするな」と思えてしまうのでアル(ダーウィンの進化論への否定的見方もけっこう出て来る)。今日もやっていたRHマイナスとRHプラスという血液分類の話もそう。地球上のわずか15%ほどの人しかマイナスの人はいないのだという。しかも、スペインのバスク地方に固まって。さらに、何処にもその起源は見つけられないのだそうだ。

 この宇宙人の壮大な“実験”によって、人類も未だに成長をしているので、今の子どもは昔の私たちよりは頭もいいし、成長が早いとのコメントもありましたな。確かにそうかもしれない。ただ、地球外生命体がわれわれをいい方向に導いてくれるのならイイが、反対ならとても困る。歴史的にも人類は悲惨を何度も舐めて来ているからだ。何処かの見えざる手(存在)によって、私たちが操られているのはちょっとついていけない議論かもしれませんが、一方最終的に地球の繁栄が人類の倖せに結びついてくれないと、これはまたちょっと困ることになるのデス。

 何より、私たちは子どもの将来を考えないとイケナイのだろう。大人が争い事や負の遺産を押し付けるばかりでは、とても責任のある存在とは言えないハズ。子どもの日だけでなく、常に模範になれるような存在でなければならないと、遅ればせながら考えたきのう今日でアリマス。

丈夫なる泣き声たてて初端午 阿部みどり女

憲法についての断章

現実的議論のできる環境は遠のく?

 ゴールデンウィークと言いながら、昔のような時節感はない。以前は始めに必ず天皇誕生日があったので、例えば今日3日はどう、子どもの日は5日と意識をしていたような気がしますが、今年なぞは新聞を見て初めて今日が「憲法記念日」と意識したくらいでアリマス。

 さて、その憲法のこと。新聞やテレビ、ラジオでは私は多く観ていたりもしないのだが、この憲法を巡る論議に関しては特集が組まれたりしているのでせう。ニュースでも必ず、護憲派と改憲派の集会が取り上げられるハズである。しかし、いま一つ盛り上がりに欠けるのは何故だらう。

 新聞の論調にもあるように、安倍首相が目指している改憲の論議と発議に関してやはり、国内の政情不安定と行政不祥事等によって実現が遠のいている様相があるからでしょうな。これまでは憲法改正に関しても、少しずつ国民の間で合意形成が作られつつあったような気もするが、ここに来てやはり慎重派が大半を占めるようになって来たようでアル。時勢を見ると、どうしてもそうなってしまうのが、一方では納得できたりする。

 ただ、一言だけ言っておきたいのは、やはり戦後73年も経って日本も世界も確実に変わっている中で、「世界に冠たる平和憲法」とか「戦争放棄、軍隊の不保持」は誇るべき内実で日本憲法の素晴らしさとする議論には少しついていけないものも感じる。実態や実際に合わせて、法律を変えることは何処でもやられていること。憲法だけが不磨の大典であっていいものではないのではないか。

 ハッキリ言えば、自衛隊が軍隊でないと考えている人はいないでせう。個別的自衛権があるのなら、集団的自衛権も付随することはある意味世界の常識である。そうした議論を全くせずに、日本は平和憲法によってこれまでやってきたとか、ココまでやって来たのだから変える必然性はないと言うのは乱暴な議論という気がします。

 戦争のない世界に関して、今日もその理想を歌い上げる議論が学者さんや評論家諸氏によってなされていたように思う。ただし、世界の現実は感傷で動いているものではない。現実は暴力と戦闘状態が恒常化しているのが、今のむき出しの世界状況ではないのでしょうかね。放っておくと、もう早晩尖閣諸島も中国に取られてしまうような気がする。冗談ではなく、このまま日米安保にたよりきっていて日本の安全が守れるとするのは、一種の妄想ではないでしょうかな。もう少し、現実感覚を持って周囲を見渡すベキでは。自国を自分たちの手で守ることは、それこそ“世界の常識”でアリマス。

 と、小さな真情吐露をしたいと思った憲法記念日――。

憲法記念日何はあれけふうららなり 林 翔

連休の合間に

可もなく不可もなく

 きのうからもう5月である。本来であればこの月の1日は「メーデー」ということになるので、それなりの話題や催しがあったりもするものと思うが、今は4月中にやってしまう労組もあるし何時の頃からか話題は少ないような気がする。それはそうでしょうな。いわゆる労働運動というのも嘗ての勢いはないし、労組の組織率も私らの頃からみれば目を覆うような状況でアル。

 最近話題のセクハラにしても、かつてのマスコミ業界なら会社というより新聞労連が大々的にキャンペーンを張って攻撃しているところでせう。日本の左翼運動の中でも労連は一つの雄であった。それも、かつての勢いはないのでしょうね。

 そんなこんな、黄金週間の真っただ中にありながら何処に出かける訳でもないしきのう、今日と朝の仕事はキチンとある。早朝のコンビニで懇意の人たちと連休中のしぐさについて報告し合い、笑い転げるぐらいでどうという感慨はない。かろうじて4日の日に毎年恒例の隣接のF市にいる親戚の家でのバーベキューパーティーがあり、大変に愉しみにしているものながら、場合によっては泊めてもらってもとでも考えていたら嫁さんから「迷惑になる」と釘を刺されてしまった。

 もうこの歳になると、酒を飲めばだらしない限りだし緊張感もほぼない。疲れてしまって電車に乗って帰る気力もなくなることは目に見えているので、少しばかり意気阻喪であります。心せねば。

 世界は北朝鮮の問題を軸にして大きく揺れ動いているという気がします。歴史的評価やその帰趨に関しては予想だに出来ない身ながら、世の中が動いているくらいは分かる。その一方でのこの個人的生活、ちっぽけな日常譚でありますな。決して意味のないことだとは言わないが、そのささやかさには比類がないといったところか。せいぜいに英気を養って、この頃始めた歴史の勉強に精を出してみたい。

 連休の谷間の中で、市井の片隅で考えた――。

棕櫚の花どかと黄金週に入る 渡辺千枝子

歴史に向き合う(『歴史の愉しみ方』を読んで)



面白い歴史・面白い本

 歴史が苦手である。と言うより勉強をしてこなかった。高校2年のときに同じクラスになったS君という同級生が本当に日本史に詳しく、かなり驚いたことがある。しかし、その当時には興味があったのは音楽と女の子ぐらいのもので、いわゆるオタク風でもあった彼のことを気にとめることもなかった。ただ、今になってみると「あれくらいに勉強をしていれば」との思いと共に、尊敬の気持ちも湧いてくるのである。

 歳をとってくると、人の世の営みというものが人類の歴史と通底をしていることが良く分かるようになるのですな。また、そこに生きる知恵が内在し、それに教えられることが多いことも良く分かる。だからというだけではないものの、歴史を知ることが「現在を知る事」また「未来に備える」ことでもアルことが、大変良く理解をできるようになって来たのだ。

 そこで、最近とみに興味と好奇心をそそられている磯田道史氏のこと。かなり前からテレビでもよく見かけた氏のことはもちろん承知は承知だった。しかし、どれ程の興味を持っていたかとなるとさほどでもなく、確か初めて彼の著作である『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版)を読んだのは去年の夏ごろではなかったか。そこでも「自分の意見と独自の視点を持つ、気鋭の歴史学者」との認識を再確認するぐらい。それが、一度この欄でも紹介をした『日本史の内幕』(中公新書)を読んで俄然、その博識と独自の歴史点描に魅せられるようになり、先日言い及んだ『武士の家計簿』(新潮新書)で決定的となったものでアリマス。

 あとは一気呵成かしら。今回、簡単に紹介したい『歴史の愉しみ方』(中公新書)も大変に面白い。ただ、ここでも断っておかないとイケナイのは、この本もエッセイ集であるということである。雑誌や新聞に発表した短文をまとめたもの。ただ今回は、だからどうと難癖をつける気はない。その表題に沿うように忍者の歴史に思いを馳せ、誰でも興味のある坂本龍馬暗殺の黒幕を探って見せる。さらに、震災を機にした災害と歴史解明への使命感と奔走、さまざまに散りばめられた歴史エピソードはどれを取ってみても第一級品で面白いのだ。

その人徳に尊敬を抱く

 なぜ、そうなのですかね。『日本史の内幕』でも紹介をしたが、氏はもともと武士の家系に生まれかなり変わった少年だったらしいが、中学時代ごろからもう古文書辞典を遣って歴史古文書の解読に取り組んでいたりしていたそうだ。そこでこの方ならではの、精緻な古文書解読による歴史検証、実証的歴史研究の大切さを思い全国にその足跡を記す果敢な行動力、広範な人的ネットワークによる一次資料の取材といったその真骨頂が垣間見えてくる。

 常に一次資料の大切さを説いておられて、そこからの話が著作でも枕になっているのだから面白くない訳はないですよね。

 ただ、今回『歴史の愉しみ方』を読んでいて一番に感じたことは、歴史学者としての面目というものでもなく、自らの子育てを書いた「子どもと歴史の感動」(P56~p59)という小編の含意が持つ素晴らしさだった。これを読んでいる時に、涙を流しそうになって困った。

 磯田氏は初めての子、女の子を授かったときにどのように育てていくかを考えた。そして、自らの子ども時代を振り返って、その子の“持ち味”を観るしかないと考えたそうだ。氏は言う。「子どもの心はきらめくような感動の瞬間の積み重ねで育っていく。その瞬間は、子どもが自然物とふれあって格闘して実感で得られるもので、なかなか、人工的にはお膳立てできないものだと思う。……」つまり、自分がそうであったように興味を持ったことをやらせていきたいと言うのだ。先人の言葉をひいて「子どもにはするどい発見のよろこび」が大切だとも記している。

 そこでの結語・「生まれてきた娘にこれといって教えるものはないが、感動を知った人にはなってほしい。そして、欲をいえば、なんでもいいからまわりにもその感動をわけてあげられるような人にはなってほしいと思っている」との言であります。文字通り、随分と感動をしました。子ども向けの雑誌に書いた一文らしいのだが。

 それもこれも、今回は磯田氏のその歴史探索の痛快さ、本当らしさ、筆致の素晴らしさといったものを詳しく述べることはできませんでしたが、子育ての構えだけを援用してもその豊かな人間性と歴史認識の確かさといったものは伝わってくるハズ。とにかく、その腰の軽さ、他者への思いやり、歴史への愛情に溢れる情意・探求といった全てに感心をする。やはり、この人も只者ではないのだ。

 続けてその著作を読んでいきたいと感じたところデス。次は是非に、『無私の日本人』(文藝春秋)を読んでみたい。
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