「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および今回の熊本大地震で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
マスメディアを志望する若手のために「平成マスコミ塾」を主宰してきましたが、自身の仕事が忙しくなってしまったため、現在は休止状態です。 今後も若手のマスコミ志望者のためにお手伝いをしたい、との気持は変わりないものの、これまでよりは小規模に読者との交流や勉強会をめざしていこうと考えました。 ここでは、自分のメディア論を含めて意見を述べるとともに、勉強会の早期開催を目指します。

選挙(抄)

いやはや、こんな事なら初めから…

 気がついてみればもう土曜日ですな。明日は愈々、第48回の衆議院選挙ということになる訳だ。解散当初から余り興味はなく、ワイドショーも極力見ないようにしてきたが、ここに来て大勢は分かっているといったところだらうか。いきなり結論めくけど、一体何のために選挙をやるのか(決してメディアでいうような大義がないとの意味ではアリマセン)、現状と同じ結果になるのだったら何で数十億、百億円単位でお金のかかるこんな作業をやるのでせうな。私には理解できない。

 簡単に、ごく簡単に経緯を振り返ってみる。

 9月25日に安倍首相が突然の解散声明。それから未だ1月も経っていない訳だが、その後の推移はまさに波乱と活劇の連続といった感じでしたな。小池東京都知事は待ってましたとばかりに、直前に国政政党(希望の党)を立ち上げ事実上の党首に。その後の迷走ぶりもともかくながら、実質この人が大半のシナリオを描いてきたことは間違いがないでしょう。でも、今回ばかりは思惑通りには行かなかった(?)。

 一番に驚いたのは民進党の希望の党への合流でアル。事実上の併合といってもいいのではないのですかな。当初は息巻いていた議員連中も議員総会を開けば、「満場割れんばかりの拍手」となれば、「この人たちは一体、何を考えているのか?」と思うのが普通だろう。いくらこれまでにも新党ブームはあったからと言え、未だ候補者はおろか政策もその実体すらも野のものとも山のものともつかない場所に嬉々として行こうとする政治家の姿に“唖然”とするしかなかった。

 政治家、いやあるいは人間としても一番汚いものを見せられたという感じでアリマス。

 ここから後はゴチャゴチャとは言いません。戦後の選挙の中でもこんなにもドタバタの中でその行方に面白さを感ずるものはないだろう。しかし、一面でこんなにも意味のない下らない選挙も前代未聞といったところではないだらうか。ただ、私の言うのは大義がないとかメディアが言うようなそんなことではありませんヨ。大義なんていうのはあとから付いてくるもの。政権政党は勝てるから選挙をやるのである。麻生さんあたりも大分安倍さんに呟いたようだし、一義的には今井秘書官が進言をして急遽やることになった訳だ。民進の希望への移動は予想外だったかもしれないが、国民もそこまでバカではないし、碌な人間集団とも思えない希望の急拵え候補者と節操のかけらもない民進党からの移籍者には希望はなく、“絶望”が待つのみだろう。

何が自民に幸いをしたのか

 長くなってはイケナイので、最後に各候補者と政党の現状に関して。

 そうそう、公示前の「週刊文春」では何時ものように当落予測が載っていたが、ここで自民が80議席近くを減らし、希望は100議席以上を取るとあって首をかしげた。何時も思うけれど、文春の予想というのは本当に当たらないし、実状とかけ離れていますな。今週号(10月26日号)で修正をして自民は39減の250ちょっと。公明と合わせて281とある。でも、実際にはもうちょっと行くのではないかなぁ〜。

 希望の悲惨に関してはあえて触れない。自業自得でアル。立憲民主党に関しては、枝野さんの声明のあと「これは受け皿にはなるだろうな」と考えて個人的にはそこそこの感触を感じていたものの、ここまでのブームになるとは全く考えておりませんでした。40議席台とはいわず、下手をすると60近く行くのではないでしょうかね。共産党が全きにワリを食ったわけだ。

 個々の候補者も挙げていくとキリがないのですが、無所属で出た小沢一郎(岩手3区)とか前法相の金田勝年(自民前・秋田2区)、個人的には好きな大臣経験者・松原仁(希望前・東京3区)、これは落ちても仕方がないと思う元首相の菅直人(立民・東京18区)あたりに興味がありますナ。

 あとは騒ぎの大本である希望の党の看板になっていた若狭勝氏(東京10区)。小池さんに附いていったところまではいいが、政治のド素人が少しばかりはしゃぎ過ぎたのではないかしら。かなり危ないと聞いているし、一説では希望は東京で全滅との予測もある(そこまでは行かないかもしれないが)。その後は話すだけでも気分も悪くなるが、不倫とか秘書に罵声で勇名を馳せた方などですかな。敢えて、個々の名前は挙げないでいくようにします。これもけっこうな数の方が不倫や疑惑に関わっていたのではと、改めて「政治家って何なのかな」と思ったりするところ。

 言っておくけれど、安倍政権にも幾多の欠点はありますぞ。今回の選挙も自民が勝っても、現政権に信認を与えたとまでは言えないのだろう。でも、対抗馬が悪過ぎるし、言葉ばかりで実質がない。安倍さんは驕りや行き過ぎがあったとしても、信念や一貫性、そして何より国を思う心はあるように思うのです。ここは大きいのですナ。国防に気概のない政治家は、本来政治家になるべきではないのだ(心情右翼としての譲れない一点でアリマス)。

浮世の写し絵





美術展はいささか?

 先日、今週の火曜日に上京した折に出かけたのは千葉市の千葉市美術館で行われていた「ボストン美術館名品展 鈴木春信」(〜10月23日まで)を観るためだった。以前、一度言及したように美人画の大本にいるとも考えられるこの人の作品を観たかったからだ。

 しかし、結論から言ってしまうと、ちょっとした齟齬もあって余り感興をそそられるようなものにはならなかったのですな。一つには展示作品の数が150数点と多過ぎてジックリみるには時間が足りなかったこと。それと、以前観た同じボストン収蔵浮世絵の大規模展示(江戸東京博物館でのそれ)の印象が強烈過ぎて、どうも作品の多さの割りには「これは」と思うようなものには出くわさなかったためかもしれない。もちろん、中には『鷺娘』(1766〜67頃)といった大変に美しさを感じる作品もあったのはあったものの、その他時間が足りなかったこともあり、急いで回ってしまったので1時間15分ほどの時間は有効活用ができなかった。

 鈴木春信のことはまた、稿を改めて別の機会にでも触れることにしませう。美人画の元祖のような人であり、それまでの比較的単調な紅刷り絵から多色の錦絵を生み出す中心的な役割を担った版画家で、江戸時代には大変な人気作家だったという。私たちが良く知っている喜多川歌麿(今回も何点かは出品されていた)にも大きな影響を与えた人である。

 一方では今回も良く分かったのだが、庶民の暮らしや子どもと母親の姿、男女の恋愛模様といった身近な題材もたくさん扱っていて、親しみの深い浮世絵画家といえるだらう。古典や万葉集に題材をとった作品もかなり多く、そのことは私は良く知らなかった。

 でも、ちょっと残念は残念だったですな。公営の小さな美術館のことなので仕方がないのかもしれないが、展示が単調で並べてあるといった感じだけだったので、何処に重点を置いて観ればいいのかも分からなかった。浮世絵や作品に詳しい人にはいいのかもしれません。ただ、私のように初学者でかつ詳しいことは何も知らない人間には少し不親切であったのかもと思うところ。

 まあ、それは自分の勝手な言いぐさともいったものだが、散髪の用事があったりととにかく千葉というのは東京からでも遠いので時間を勘案しながらのケッコウ忙しい旅だったのです。

Nとの会話は盛り上がりの極み

 一方ではこれも友人であるK君のお店(代々木にある)で頭を当たってもらってからの東京駅での親友Nとの飲み会は、これはこれは実に愉しかったのですな。

 行き当たりばったりで呼び込みのお姉ちゃんがいた八重洲北口の焼き鳥屋風のところに入ったのだが、料理やお酒といったものはともかく、近時の選挙の話を始めとしてNの大好きな鉄道だったり軍事オタクを体現した自衛隊話であったりが本当に面白かった。

 彼は大変にプラグマティックかつ現実的な側面しか重視しない男だと考えていたものの、本人が恥ずかしそうに述べた「最近は絵も観るんだ」という話にはのけぞった。私が浮世絵を観た帰りであることを告白してすぐの話題だったが、それからはモナ・リザであったりフランスやヨーロッパ各地の伝統や美術であったりに話が飛んで、それこそ縦横無尽(彼はツアー・コンダクターとして世界中に行った経験がある。ただ、以前は客に見せる美術展は素通りしていたとか)。今度、娘さんのいるニューヨークへ行くそうで、そこでメット(メトロポリタン美術館のこと)にも行くと話していましたな。たしか、メットには好きなフェルメールがあったのだ。僕の分も観てきてくれよと頼んだところ。いいなぁー―。

 そこからも、鉄ちゃんである彼の国内旅行の話、そして面目が躍如となる世界の軍事情勢と自衛隊の士気や装備の話。とにかくも趣味があるのはイイことだろう。私なぞは各地で行われる自衛隊の市民交流イベント等に必ず出かける彼が羨ましい部分もあります。何にしろ、「好きなことがあるのはいいことだ」と……。

 老人の繰り言もないことはないのだったが、お互いに何とか生き延びたことを慶賀としてその後はオマケだとばかりに言いたい放題だった。アッと言う間の4時間少しの饗宴でしたな。とにかく、お酒が好きなことを幸いにしてこうした時間が持てるのは幸せの極みとツクヅク思う。美術展の方は私の責任もあって十分とは言えなかったが、いろんな意味で充実利用のできた一日であったと思いました。それこそ私も浮世の中でたゆたうだけなのだが、昔もいたであろう放蕩親父が何人かいてもいいのでは。お互いに再会を約してでの、東京駅駆け足駅飲みのてん末であったところデス。

野暮用

どんな一日になるのやら?

 もう10月も半ば過ぎということになり、南方で発生した台風の不気味な動きと共に列島でも荒天が続いている。今週は恐らくは陽の光を余り見ることなく終わりそうだというのは天気予報子の診断。何ともユーウツの事だ。

 そんな中で気晴らしという訳でもないのだが、先月の東京行で友人と愉しい時間を過ごしてから1月ちょっと経っていることもあり、これまた別に特段の用事はないものの今日はまた都に出てみることにした。頭の毛が大分伸びてしまったのと、観たい美術展があるためでアル。これまた、夜は小学校時代の親友N(先月も会ったのだが)と待ち合わせ、日帰りなので駅飲み(八重洲口)ということで戯れを試みることにしてみた。

 最近はどうも、懐旧の日々ですな(自分にとっての昭和を書いた矢先)。生産的なこととてないし、選挙の方ももう大勢は決したようなものだらう(安倍さんはまた、トランプさんに生き残りの術を伝授できることになるかもしれない)。また奇矯なことを言うようだが、政治家としては某米国大統領より安倍さんの方が数段上でアル。

 普段の遊びならば行きは高速バスを使ったりするが、今回は前述のようにちょっと遠出をして美術館に赴くため朝方からの新幹線だ。手元不如意は大分緩和したので、今回はちょっとした余裕もあるように考えております。ちょうど、先週から忙しい日々が続いていた配達の仕事もひと休止ということになった。ある程度、その辺も見越しての日帰り旅行であるのですナ。とくに代わり映えもしない日常が続いてオリマス。そんな折に多少は快活を得られればと、一面では大変に楽しみだ。(微笑)

勤めより夜の務めへ秋時雨 林 翔

昭和繁盛記(番外・歌姫)



やはり心に残る歌を

 一昨日からの勢いもあって、「昭和」という時代やその印象・残り火といったものを考えてみる。ココに至るとキリのない部分もあるのだが、一応最後ということでその当時の歌謡や女性歌手のビッグネームを思い起こしてみませうか。

 さて、「昭和の歌姫」といったところで多くの年代・その人それぞれに思い出や譲れない部分があるのかもしれません。ただ、ごく一部の例外を除けば恐らく多くの人に異論がないのは美空ひばりという昭和の大御所というところではないか。これは私も全くの同様の意見だ。

 思うに、この方は完璧な“天才”だったのでせうな。その歌唱力もともかくだが、歌の情感を掴むことの上手さ、そしてその稀れな表現力というものは尋常ではない。私がこの人の歌の上手さで印象深いのは、一度ならずアメリカのジャズナンバーを歌ったこともあるのだが、その上手さと共に英語の発音の素晴らしさだった。ネイティブが聴いても日本人の歌だとは分からなかったらしい。一方で、この美空さんという人は英語は喋れなかったハズである。――つまり、すべて「音」で拾ってしまうのですナ。歌全体のサウンドをその場で聴いて覚えてしまうのである。言ってみれば、驚異的な耳の良さを持っていたことは疑いがない。

 さて、トップは揺るぎがないにしても、その後に誰が続くか。年代によっても違うだらうし、それぞれの好悪といったものがある。そこで何時ものように、あくまで私の好きな人、好きな歌ということで独断と偏見に満ちた昭和の歌謡シーンを振り返ってみましょう。話を分かりやすくするために、こうした話は既にアンケートによって「昭和の歌姫は誰か?」という質問への順番といったものがいくつかウィキペディアには示されております。それを参考(あくまで参考です)にして、自分なりの候補者を考えてみる。

 さるアンケートでは1位・山口百恵、2位松田聖子、3位中森明菜――といった結果が示されていた。美空さんの名前がないのはご愛嬌だが、恐らくはかなり私たちより下の年代の方を対象に募ったものなのだろう。明菜ちゃんの後に続くのが4位・中島みゆきであり5位・松任谷由実といったところ。この辺までくると、多くの納得が得られるのかもしれません。

美空さんの後はちあきなおみか百恵ちゃんか?

 一方で別の個人的なそれで挙げられていたのは、2番目にちあきなおみさん、3番目は岩崎宏美さん。私もちあきなおみさんの「喝采、黄昏のビギン」辺りを筆頭曲としてこの方に票を入れたいところ。でも、総合的に考えると山口百恵さんの「いい日旅立ち」という国民歌が昭和歌謡としてもオールマイティーの部分があるかもしれませんな。

 順番は強いて挙げないが、多くの人を納得させようと思えば百恵さんのあとに松田聖子さん、中森明菜さんといったところを入れないといけないのかもしれない。でも、この辺は個人的にはバツ。全くの独断で判断し、かつ顔をほころばす対象は、2位はちあきなおみさん、3位に中島みゆきさん(「時代」)といったところでせうか。

 ちょっとだけ強調をしておきたいところは、昭和の歌手には「歌の上手い人」が大変に多かったということだ。おそらく、岩崎宏美さんはその筆頭。「聖母たちのララバイ」は今聞いても大変に痺れます。そして、そこに続く人たちとして渡辺真知子(「迷い道」)、竹内まりや(「不思議なピーチパイ」)、太田裕美(「木綿のハンカチーフ」)といった人たちがいる。さらに、自分の年代として特に印象深いのはザ・ピーナツだろう。この方たちも大変に歌は上手だったという気がする。

 そしてそして、何時ものように考え始めるとキリはないものの、後は「番外編」として幾人かの“印象派”の女性歌手の方々を挙げておきませう。歌手名も曲目も順不同である。

 八神純子(「パープルタウン」)、久保田早紀(「異邦人」)、テレサテン(「空港」)……そうそう、忘れてはイケナイのは派手にレコード大賞を取ったジュディ・オングさんの「魅せられて」やジャズの熱唱ではピカ一だった江利チエミさんの「テネシーワルツ」。演歌部門では筆頭に石川さゆりさんの「天城越え」が来て、その後にちょろちょろといろんな女性の姿が浮かんで来、やはりこの人と最後に膝を打つのは藤圭子さん(「夢は夜ひらく」「新宿の女」)といったところになるのでしょうか。いや、私が大ファンでカラオケでも何時も歌っていたような気がする島倉千代子さん(「東京だよおっかさん」「この世の花」)も決して忘れてはイケナイのだ。個人的には誰よりも好きな女性歌手であったところデス。

 そうやって挙げていくと「こんなもんだったのかな?」と、ちょっと拍子抜けもするところもありますネ。でも、分かりやすくていいのでは。私にとっての「昭和の歌姫」のご紹介でした。お粗末。

昭和繁盛記(その4・風俗)



身近で流行ったものについて

 「風俗」って何だろう――と少し考えてみたりする。私らぐらいの年代になると、すぐに若い頃に行ったキャバレーだったり余り馴染みはないのだがキャバクラだったりを思い出したりする。でも、これは風俗というよりフーゾクの方でしたな。一般ににはその時代の衣食住に関わるすべての流行やしきたりのようなものを指すのだらう。

 となると、「昭和の風俗」といったところで、それはとてつもない範囲の事物と現象を指してしまうことになる。とても一人の手に負えるようなものではありません。そこで、これもごくごく個人的な昭和の体験を振り返るということで、お話しを濁さしてもらいませう。個人的に考えた自分にとっての“ショーワ”でアル。

 冒頭にちょっとした駄菓子の写真を掲げさせてもらった通り、私たちの年代にとっての子ども時代は駄菓子屋と共にあった。小遣いの10円であったり、20円であったりを握りしめて近所の駄菓子屋に直行した。もちろん、その他のお菓子屋さんにも行きましたけれど……。梅ジャムであったり、銀玉鉄砲であったりはそのまま子どもの生活。そして、2B弾やかんしゃく玉とともに火薬も比較的容易に手に入れることができたことを思い出すと、この辺もまた随分とノンビリと寛容の時代であったのだと感慨が深い。

 そして、数限りなくある時代の風俗を振り返るとき、一々は挙げておられないのでココは「流行りもの」という意味で条件を絞っていくつかの思い出を取り上げてみたいと思います。年代によっても違うので不満も出てしまうやにも知れないが、あくまでちょっとだけ当時を振り返るとの意味で昔日を共有願えればと思うところ。

 先ず、子ども時代(昭和30年代の中ごろから終わりくらいまで)のクライマックスは「だっこちゃん」ということになるのですかな。とにかく流行った。ものの解説によると発売は昭和35年だそうだ。同じような時期に同じく子どもの日常を席巻したおもちゃに「フラフープ」があるのだが、こちらは比較的早くに収束したような覚えがある。一方でこのだっこちゃんの方はその流行り方の期間はともかくどこの誰もが持っていたとの印象。まがいものが作り易かったのと、大人にとっても子ども目線でも“キュート”なものだったことがその理由だろう(何しろ安手のビニール製でしたからな)。



 世は高度成長をこれから進もうかという時代。池田首相のダミ声も良く覚えております。おかあさん方は皆割烹着で、前掛け(エプロン)を着用していたことが記憶に固い。ここから数年先に東京オリンピックを迎えることになる。

けっこう激動の時代だったのでした

 生活風俗との意味では、私らが小学校高学年の時分で3種の神器と呼ばれた「冷蔵庫、洗濯機、テレビ」のことも見落としてはいけないのでしょう。クルマやクーラーはもっとずっと先だが、テレビや冷蔵庫に関してはほぼ出揃いつつあったのかしら。日常の話題はテレビのアニメであったり活劇であったりしたし、「バス通り裏」「ジェスチャー」「夢であいましょう」といったNHKの人気番組も良く観ましたな。

 その後をざっと辿ると、昭和41年にはビートルズが来日、武道館で公演。43年には先日言及した3億円事件が起きた。一番スゴイのは昭和45年ですかな。大阪万博の年だが、三島事件と一緒によど号ハイジャック事件が起こっていることを思い出してビックリしたりします。その後は学生運動も激化するし、テルアビブ空港事件やこれも一度言及したあさま山荘事件なども次々に起こった。今よりよほど騒然とした世の中でしたよね。私も深く「これからの日本はどうなっていくのか。自分は何をすべきなのか?」と悩んでいたことを思い出すところ。

 さて風俗の方に戻ると、この辺りの白眉(またちょっと遣い方は間違いだが)はミニスカートということになるのでせう。とにかく、これも流行った。欧米から来た流行ということのようだが、今と比べてもとにかくスカート丈は短かかったのです。ひざ上20センチなんていうのもごく当たり前だった。当然、男の方は喜ぶわけだが、これもまた見えそうで見えないのは不思議なところでしたデスね。たまに僥倖に出くわすと、その日一日が良いことがあるように心が浮き立ったものだ(単純の極みか?)。

 これも個人史の一端になってしまうが、私が働き始めた昭和54年に爆発的に流行っていたのはインベーダーゲームだ。これもとにかく、何処に行っても見かけたという感じでアル。喫茶店で何度も時間をつぶした経験を持っている人は多いのではないだろうか。これまた、時代を席巻した風俗の一部と言えるのかもしれない。

 この他でも、政治や経済状況までに話を広げれば「ああ、アレ」という現象や流行りものはたくさんあるのでしょうが、ここではキリがないので止めておきます。ごく単純に切り取って、昭和という時代は貧乏からの立ち直り、そして驚異的な経済成長、オリンピックや万博があって国としての誇りを持ち直した時期とでも呼べるのですかな。そうした面にも思い出は多いが、先述のように随分と激動の時代であったのも事実で、改めてその当時の気分を思い起こしたりする。

 その中で私たちは、だっこちゃんのささやかな歓びから始まり、最先端の電化製品を次々に手中にし、いまは決してそうではないが、テレビでも女性の裸が平気で観られるような狂乱と豊穣をぞくぞくと日常化していったということでしょうかな。個人的にはイイ時代であったと思います。

 しかしねぇ〜。浮かれてばかりで、たくさんあったアンチテーゼに対しては何処か頬被りをしてきてしまったようなところがあるのではとも……。三島事件にしても学生運動にしても、はてまたオウム真理教による大変な犯罪事案に対しても、きちんとした総括をしていないように思えるのは個人的感慨でしかないのだろうか。平成の一日に、自分にとっての昭和を再び振り返ってみたところです――のお粗末。

昭和繁盛記(その3・大事件)

今も残る記憶と残像と

 私は一時、事件記者と呼べるような活動もしていたので、昭和の出来事の中でもとりわけ大事件・事故と呼ばれるものには関心は深い方だと思う。何時の世でも大袈裟でも何でもなく、そうした事件は起こり得るものである。ただ、世の中のテンポが早くなってしまったせいか、ついこの間の“衝撃的”な出来事もすぐに記憶の底から消えていくような思いに捕らわれるのは私だけの感想だらうか。

 皆さんもそうではないでせうかね。ここで、「昭和という時代」に限って自分の印象に残っている事件を取り上げてみたいと考えているものの、その選択はかなりの難しさが伴う。起こった当時に衝撃的だった話というのは、前述のように数限りなくあるのでしょう。さらには、その印象の大小もかなりの個人差があるように思える。別に重大事件を衝撃度だけで計りたいと考えている訳でもないので、ここは限りなく個人的な事件史といったものを考えてみたい。あくまで自分の心象に記された話として、個人的重大事件に関して時系列でその意味合いを考えてみようと思いますデス。

 箇条書きにすると味気ないので、小さい頃からの私にとっての事件を挙げておきませう。先ず、その先頭を切ってかつ重大度でも一番ではないかと思えるのは、小学生の折に起こった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」だ。発生は昭和38年(1963年)の3月。改めて思ってみると、東京オリンピックの前の年に起こっているのですナ。

 これは本当に日本中が上に下にと大騒ぎだったのではないでしょうか。実際には吉展ちゃんは発生直後に殺されていたのだが、解決までに2年以上の年月がかかってしまったこともあり、その間の騒動というのは尋常ではなかった。これは、子ども心にもハッキリ覚えております。この前にも後にも誘拐事件というのは起こっていて、実際に殺された子どもや婦女子などはいるものの、その衝撃度と事件性においてこの話に勝るものはないように思える。犯人として、警視庁の平塚八兵衛刑事に落とされた小原保(こはら・たもつ)などという名前も犯人としてここまで人口に膾炙したものは、その他の2、3例を除いて余り聞かないのではないでせうかね(あとは強いて挙げるとすれば、大久保清と宮崎勤ぐらいですかな)。

 小学校のときの事件が吉展ちゃんであるのなら、中学のときの一番は何といっても「3億円事件」(昭和43年12月)だ。これはあまりその外観を語ることも控えるが、その犯行の手際の良さといい当時としては余りに高額のお金がいとも簡単に(?)に盗まれてしまったことに衝撃を覚えた。遺留品もたくさん残されていたのだが、その後の展開は皆さんご存知の通りでアル。

 その後、高校と高校卒業間際ということになると、この辺は皆さんともその判定を共有するかもしれない。一つは、ちょうど万博の年の11月(昭和45年)に東京・市ヶ谷で発生した「三島事件」ですな。これも詳細は未だ、私ら以上の年代の人ぐらいだったら頭の中に残っているのではないかと考える。世界的な文豪があれだけの事件を起こしたことも衝撃だったが、切断された生首が写真として出回ったことも前代未聞の出来事と思える。三島由紀夫という大作家はあの事件がなければ、確実にノーベル賞を取っていたと思うし、これは反論もないだらう。その後、あまり間を置かずに暗く・騒がしい世相の中で起きたのが連合赤軍事件であり、象徴ともいえる「あさま山荘事件」(昭和47年2月)であります。

 これは高校卒業を控えて受験勉強をしている時だった。朝から晩までテレビにかじりついていたので、勉強がなかなかはかどらなくて困りましたな。たしか、テレビの視聴率は90%を超えていたのではないかと覚えております。

記者として関わった3つの事件と1つの事故

 大学生当時もいろいろと大事件はあったような気がするが、それは措いておきましょう。私が通信社に入って記者として働き始めたのは昭和54年。ちょうど、「三菱銀行人質事件」が起こった年だ。私は早採りでその年の2月からもう大阪で働き始めていたので、ちょうど赴任直後にこの事件報道に出くわした(事件はその直前に発生)ことには度肝を抜かれた。実際に取材に関わった訳ではないものの、先輩のスクープ合戦を目の当たりにして少なからずその後の困難に心が震えたものだ。犯人の梅川昭美(うめかわ・あきよし)の名前は一生忘れない。そして、あのサングラス姿もそのまま墓場まで持っていきそうでアル。

 ここからは全くの個人史のようになってしまうが、あくまでそれが前提とお許しいただきたい。実際に事件記者として多少とも関わった大事件はあと二つである。ひとつは金地金を債権として売るという商売で巨額の金を集めた「豊田商事事件」。当時、私は静岡支局で働いていたのだが応援ということで、この事案のスクープ合戦の渦中に置かれた。2週間の間ホテルに缶詰となり、あれヤレこれヤレととにかくもあちこちに取材に行ったことを覚えている。たしか、その後だったと思うが今度は会長刺殺という大事件(昭和60年6月)まで起こってしまって、話が逆に真相から遠のいてしまったのは残念なことだった。当然、わが社のカメラマンもあのマンションの部屋の前にいた訳だが、その後は罪の意識からかなりナーバスになってしまったことを先輩から聞いた覚えもあります。とにかく、衝撃度は最大級だった。

 また真っ先に取り上げるべく、私にとっても最大級の事件であったと断言できるのは紛れもなく「グリコ・森永事件」だろう(昭和59年および同60年)。直接にその発生を知っている訳ではないものの、その後の取材合戦というのは本当に凄いものがあったのです。私は昭和61年から京都支局の一員になったため、この事件にも重大な関わりのある支局として毎日、夜回りに行かされることになった。多少はスクープなどもものにして、大阪のデスクからは一目を置かれるようにもなったのです(自慢気だが、ウソではない)。

 でも、とにかくすさまじかったですな。警察の捜査とその労力、日本警察を挙げての総力体制といったものは凄かったが、これはマスコミも同じだったのだ。各社は事件後の数年間、下手をすると時効が成立した2000年ぐらいまで追い回されたのではないでしょうかナ。私もその間に、こうした取材の一端に関わった身として感慨が深いものがアリマス。間違いなく、昭和の“大事件”だろう。

 そして、最後にもう一つだけ。これは私が静岡にいたときに起こった、事件ではないものの、天下の大事故である。「日航機123便墜落事故」であります。発生のときに本社から「日航機と連絡が取れない」「何処かに墜落したらしい」との報に接して、記者クラブで他社と共にそれこそ上へ下への大騒ぎになった。結局、場所が完全に特定されるのは翌日になるのだが、墜落の日の夜は「長野だ」いや「群馬だ」と大変な騒ぎだった。その後は、応援に行く話もあったものの、支局は完璧に夏休み態勢だったために諦めざるを得なかった経緯がありました。今にして思うと、誰かに命令されて無理をしてでも行っておけば、との思いも残る。それにしても、自分の中での衝撃度はこれも他の事件と並ぶぐらいの第一番目であるのです。私は航空機事故を扱ったアメリカのテレビドキュメント「メーデー」が大変に好きなのだが、未だにこの日航機の回だけは観ることができないでいる。いまでも、単独事故としては世界で一番の犠牲者を出した航空機事故ということになるのではないでせうか。昭和60年8月12日夜の出来事である――。

 まとまりも何もあったものではないが、私にとっての昭和の事件史だ。

公示日

選挙に関する私的一コマ

 実のところ、きのうからインターネットが全く使えずお手上げの状態だった。普段は余り意識もしないが、今は仕事もネットで原稿を送っているのでコレが使えないと大変に困る。きょうは一つ大事な原稿の締め切りがあり、きのうの夜から少しばかり頭を抱えた。原稿を携えてネットカフェに行こうかとも考えておりました。

 自分の分だけではなくてシステム障害でマンション全体のPCが使えなかったようだ。今朝方、プロバイダーの会社に電話をすると「午前中には何とか復旧ができると思います」と言う。そして、その通りになった。

 前置きが長くなってしまいましたが、今日は皆さんも意識している通り第48回衆議院選挙の公示日。この選挙に関しては実にアレコレと言いたいこともあるものの、本当のところは面白いと思うだけで実質的な意味合いは薄そうだ。政党が一個つぶれ、2個ほども出来たことで終わってしまうのではないだらうか。先はまるで見えず、私たちに判断する材料は実に乏しい。ここまでのメチャクチャ選挙はかつてなかったでせうな。

 そんな選挙とは直接の関係がある訳でもないのだが、きのうは少しだけ面白い体験をしたので、簡単に報告をしておこうかとも思っている。な〜に、これもごく個人的日常譚であります。

 きのうはまた、例のトラック助手の仕事を持ちかけられた。つい先日、先週の水曜日ぐらいだと覚えている。前回のキツイだけの苦い体験があるので、余程「気乗りがしない」とでも言おうかとも考えたのだが、半面で仕事を頂いている身でもあるのでとにかくも「やりますヨ」と答えるしかなかった。

 ところが、これが事前の内容伝票を受け取ってみると、一応選挙関連であるのですな。某政権政党の県西部の事務所を回り、選挙用のパンフやポスターを大量に届けるというものだった。今日が公示日だったので、その直前に届ける必要があったのだろう。その意味で、私にはちょっとだけ魅力的に映った。以前、仕事で政治記事を書いていたときに、これらの候補者に接触をしたことが多少ともあったためである。どんな場所で事務所を開いているかにもほんの少しだけ興味があった。

イイ運転手さんで美味しい仕事に

 そんな個人的興味もともかくにして、仕事のてん末について一通りなぞってみませうか。

 始動は朝9時とけっこう早かったため、家はもう7時前には出てバイパスで一路西部のH市へ。休日だったためスイスイと行けて目的地には8時半過ぎぐらいには着いていた。しかし、「未だ時間はあるでしょう」ぐらいに考えて近くのコンビニでタバコを吸ったりして時間をつぶしてしまったのですな。それが10分前ぐらいにまた行ってみると、4トントラックはもう着いていて、運転手さんも忙しく動いている。それで慌てて駆けつけてみると、もう荷物を一人で降ろして搬入してくれたというではないか。これには大変に恐縮をしてしまった。

 前回と全く違いますデスな。前回は、運転手さんは積極的には手伝ってくれなかった。今回は多少とも若く、人も良さそうだった。とにかく、これはマズイと次の搬入地へ。

 2カ所目はJR・H駅の真ん前だった。知る人ぞ知る某政党の選挙対策委員長の事務所である。ここでは女の人に冷たいお茶までもらってしまってまた恐縮。だいたい、選挙事務所は一階にしかないし、導線もごく短いのが普通なのでここでも搬入は楽だった。搬送用のパレットに一山で重さは2、300キロもありそうかという感じながら、前回の本を何千冊というのに比べれば楽なものである。ここも15分程度で簡単に作業を終えた。

 行ったのはあと2カ所でいずれも政権政党の地区支部と思しき場所である。それが、選挙のときには候補者の事務所になる訳だ。しかし、一カ所苦労して行った場所が、前日に引っ越したと書かれていたのにもちょっとばかり驚いた。トラックの人も苦労して辿り着いたものだったのだが、事務所はもぬけのカラだった。急ぎ、駅近くのプレハブ新事務所へ向かったところ。

 総じて、仕事は普段のそれに比べると大変にスムーズ、楽であったのですな。ペイも悪くはないので、こんな仕事ならいつでもとも思ってしまったりする。しかし、こんな仕事はそれこそ3、4年に一度しか物理的にない訳だ。それに、運転手さんが非常にイイ人で大変に助かったのも僥倖。仕事も積極的に半分は請け負ってくれた感じデス。何も言わずに黙々と手伝ってくれるドライバーの人も少ないとは思うのだが……。

 私はお昼過ぎには自宅にもさほど遠くない場所で仕事を終えられたのだが、ドライバーのOさんは「これからまた名古屋に帰って別便の荷積みと配送なんだ」と泣きそうな顔で嘆いていましたな。それに、荷積みの時間も指定をされているのだとか。何のかのと大変ですよね。私みたいにアレコレ勝手なことを言って禄に働きもしない輩と違って、本格の人は一日中転がさないとイケナイ訳なのである。キツイ仕事なので人手不足になろうともいうものだ。もっと待遇を良くしてあげないとね……。

T君のこと

懐かしいし愉しいネ

 T君が来てくれた。

 いきなりそんな事を言っても誰も理解をしてくれまいが、未だ若い頃に一緒に出版社で仕事をしたことのある仲間である。その彼から急にメールで連絡が来たのが、2週間ちょっと前のことになりますかな。「Tです。今度、取材でそちらの方に出かけるので時間があれば飲みませんか?」という内容。彼とはやはり、一緒に仕事をしていた先輩のS氏が難病との闘病と共に亡くなって、そのお別れ会が開かれたのが確か4年ほども前。そのときに本当に久しぶりに顔を合わせて以来だった。

 懐かしかったし、わざわざ連絡をくれたことの心根が嬉しかった。断る理由とてなかったのだが、生憎ときのうは塾講師の担当日である。それで、彼には悪いとも思ったものの「午後9時には仕事が終わるけれど、その後で良ければ駆け付けるよ」と返事を出し、彼も快諾をしてくれてわざわざ取材地である同じ県内のH市から私のいるS市まで遠出をしてくれたてん末だった。

 それだけの個人的な一コマなのだが、これがけっこうに楽しかったのですナ。話の前にお互いの素性の概略を説明しておかないと分かりにくいかもしれないので、ごく簡単に記しておきます。

 私が10年を少し超えるぐらい勤めていた通信社を諸般の事情で辞めたあと、同じ記者として働いていた毎日の方が重役を務める新興の医療出版社に移ったのがたしか、未だ35、6のときだった。そこに前後して入って来たのが前記のT君というわけである。当時は私よりだいぶ若いような気もしていたが、きのう聞いたら自分より2つ下なだけという。勤務時は同じ部署で仕事をしたのはほぼ無かった気がするものの、小さな会社(たしか当時は30人程度しか社員はいなかった。今はかなり大きくなっております)、それだけの所帯だったので皆ごく仲が良かった。よく飲みにもいったし、会社を辞めてからもその幾人かの人たちとは一緒に仕事をしたり、たまに会ったりするようなネットワークが出来ていたのだ。

 その彼との、4年ぶりぐらいになる再会。駅の南方に宿を取ってくれたとのコトだったので、私は仕事を終えて車で急いで家に戻り、大雨の中をすぐにタクシーで駆けつけた。

再会はごくイイものだ

 わざわざ来てくれたことも大変に嬉しかったのだけれど、自分の中にあるT君のイメージとも違って彼がすっかり大人になっていることにも驚いた。一軒目の目当ての居酒屋さんはもう満席で入れず(きのうは大変に人が多かった)、その近くに当てもなく入って3時間弱ほどを過ごしたと思うのだが、酒のピッチも早かったし彼がつまみを取り分けてくれるなど、「こいつは本当にそんなことが出来る男なのか?」とオヨヨといった雰囲気であったのデス。

 彼には大変に失礼なのだが、一緒にいたときには何処か遠慮がちで軽めの同調派といった感じの自分の信念を持たない奴、ぐらいの意識で見ていたのだ。それが全く違うことに大変に驚いたのですな。

 話の内容はそれこそ一緒に仕事をした男女のメンバーの消息から、今混乱真っ最中の政治の話までさまざま。彼は今でも当時のメンバーとそれなりの親交があるらしくて、詳しく状況を聴けたことが先ず嬉しかった。おまけに一緒に仕事をしていて、その会社を辞めたあとに他の連中ともつるんで編集プロを始めたS君にわざわざ居酒屋から電話をしてくれた。このS氏は、今はその会社の社長になってしまっているのだという(私も初期の頃に仕事を手伝った経験がアル)。

 イヤァ〜、これまた大変に懐かしかったですな。そしてエラクなってしまった彼が電話口ながら全く変わっていない風であることにも嬉しさがこみ上げた。

 そんなこんな、T君自体も独立して今は医療コンサルや編集の仕事をしていて、いくつかの大病院の企画参与のような立場でもあるらしい。まったく、私などよりよほど立派になってしまっているのでアル。他の仲間もそれぞれにライターなどとして活躍をしているとのこと。その辺は私も聞き及んでいるのだが……。

 何度も言うが、初めは話の「テンポが合うかな?」ぐらいの不安もあったものの、酒が回るとお互いの言葉のキャッチボールが実に愉しかった。こっちが聞きもしないのに下ネタもいくつか連発をしてくれて、推測でしかないのですが、彼も楽しくて安心をしたのではないでせうかな。

 最後は恐れていた仕事の話も出て、「出来たら手伝ってくれませんか?」との主旨の話もあったのだが、これは現場を離れていることもあるし、そのうちに相談をして対処することで一件落着。最後はホテルまで送り、握手をして別れたところである。京都在住の彼が余り馴染みもないご当地に足を運んでくれたことに先ず感謝。そして、殊の外愉しい時間を過ごさせてくれた事にも大感謝をしたいところ――と週末・愉快なひと時の独白。

昭和繁盛記(その2・クルマ)





クルマと共にあった青春

 昭和を象徴する風物といえば、その中の一角に非常に大きな位置を占めるのは“クルマ”だらう。これには、多くの方が異存はないと思える。ちょうど、私たちの年代でいうと、中高生ぐらいになったときにはもうクルマは普通の存在になっていた。もう少し上の世代なら高嶺の花との言葉が想起されるが、高度成長を経て給料も一気に跳ね上がっていたため、大学生ぐらいでも金持ちのおぼっちゃんならちょっとした車を持てるのが私らだった。

 一方で、もっと後になってそれこそ先日紹介の『昭和40年男』ぐらいの年代になってくると、その青春の象徴はこれまた圧倒的にスーパーカーということになるのでせうな。私は全く詳しく知るものでも何でもないのだが、『サーキットの狼』の絶大な人気と共に時代を席巻したことだけは良く覚えている。写真で示したランボルギーニ・カウンタック、同じくミウラ、ロータス・ヨーロッパ、フェラーリ・ディーノ、マセラティ・ボーラといったところですかな。ただ、スーパーカーはあくまで憧れの象徴であったことに対し(おいそれと買えるわけもない)、私たちの昭和と共にあったクルマは、どちらかと言えば実用とステイタスの実現の狭間にあったような存在だった。

 少し分かりにくいかもしれないのですが、つまりはお父さんの世代にとっては「車を持てる」こと自体が地位の象徴という辺りにあったのに対して、僕らは普通に安いクルマなら買えたりもするが、自慢をするためににはそれなりの高級車に乗れないといけなかった訳だ。

 そうした世代の時代を象徴する車はこれまたおなじみのカローラということになる。以前、この欄でもそのサワリのようなことを個人的体験とともに記したことがあるが、その時は大変に好評だったことを覚えております。

 トヨタ・カローラが生まれたのは確か昭和30年代の中ごろと覚えているが、一緒に覇を競っていたのが日産のサニー。ただ、カローラの存在感は未だに少しはある気がするが、サニーは全く視界から消えてしまったと言ってもいいだろう(未だ、造っているのかしら?)。欧米での評判も最悪である。ところが、このカローラという奴は大衆車としての誰も乗れて誰でも楽に運転ができる顔と、一方では軽い車体に大きなエンジンを載せたレビンやトレノというスポーツタイプを持っていて、その存在感を示していた。当時は憧れたものでしたな。今でもある「86」などというクルマは、このカローラの系譜を引いている訳だ。

 実は私も一時期、このカローラの少しだけのスポーツタイプに乗っていたことがある(今も乗っているのはカローラの亜種であるランクスだ)。まあ、可もなく不可もないクルマだったが、やはりそのクルマ造りの思想には端倪すべからざる部分がある訳でありますな。

男はクルマが好きなのでアル



 また議論がいささか分かりにくくなったかもしれません。要は、男にとってクルマの持っている意味合いは決して小さくはないが、やはりその年代によって大きく価値観が異なってくるだろうということ。もともとは手段として生まれた機械だった訳であるけれど、やはりそこにはステイタスの意味合いがくっついて来たのだろうし、私たち以上に上の世代はそのカッコ良さに憧れたところがあったかもしれない。

 まあ、私らにとっても憧れ半分、実用半分といったところですかな。具体的な名前を記しておかないと怒られてしまうかもしれないが、自分にとってはやはりトヨタ2000GTであったり、ギャランGTOであったりはたまたフェアレディZといったところが一番の憧れであったのかもしれません。一方ではその実用性や大衆性の部分でトヨタのコロナや日産のブルーバードといった車を高く評価していたのも事実である。大衆化とともにあったのが車であった訳で、乗れるクルマと乗りたいクルマがほぼ峻別されていたのが、私らの世代といったことではなかったろうか。

 そして、これが10年ちょっと下の世代になってくると涙がチョチョギレルくらいの対象がスーパーカーといったことになるのですかな。私は個人的にはその真情は全くと言えるくらいに分かりません。

 さて、今回も余り具体的なところでの紹介にはならなかったかもしれないが、どこかで落としどころを探さないとイケナイのが辛いところだ。今でもクルマは好きだし、実際にその車を使用した小遣い稼ぎまでしている訳ながら、やはり小さい頃に持っていたクルマの意味合いや実用性といったものからはその趣きを変えてしまっているというのが、私の結論かもしれません。

 性能も格段に向上したし(特に軽自動車はスゴイね)、実際にいいクルマも多い。でも、何処かが違うのだよねぇ〜。運転のマナーも本当に落ちてしまったし、昔なら考えられなかったようなクルマに考えられなかったような人が乗っている。地位の象徴であるところは大きく変わっていないのかもしれないが、やはりこれだけベンツやアウディを街中で見かけると、そのステイタスにも翳りが見えようというものだ。

 昭和と共にあったのが前記のカローラやスーパーカーであったのなら、その辺の奥さんがアウディの高級車を平気で乗り回しているのが平成の世ということなのかもしれない。私は決して称揚している訳ではありませんよぉ〜。(微苦笑)

昭和繁盛記(その1)

今は昔…

 少し前に「昭和という時代について何か語ってみたい」と戯れを述べたことがあった。たまたま、コンビニで昭和のスーパーカーや風俗について詳述してある雑誌を見つけたからだった。ただ、これは“昭和”について特集した本ではなくて、『昭和40年男』というその年に生まれた人たちの俗の興味を集大成したような本だったようだ(未だ、きちんとは読んでいない)。

 まあ、きっかけは何でもイイけど、自分にとってもこの時代は本当に一時代という感じなので、個人史の側面でもツラツラと述べてみるのも面白いかと思っている。さしずめ、今回はそのさわりでアリマス。どんな時代だったのか、個人的に何を感じていたのかを序章として簡潔におさらいをしたい。

 私は昭和20年代の終わり、ちょうどテレビが日本の世に生まれた年に生を享けている。団塊世代のちょうど直後世代ぐらいに当たるかと思う。この辺は微妙な時期で、昭和の繁栄はまさに享受をしているが、まだまだ“貧乏”というものが彼方此方に残っていた時代。生きていくことの大きな困難は収まっていたのかもしれないものの、それでも働く人の苦労は色濃く残っていた時代ではなかったろうか。

 ちょうど映画『always 三丁目の夕日』を地でいっていた世代とでも言えばいいのですかな。小さい頃は冬でも短パンで鼻水をたらしながら遊びまわっていた世代である。少しだけあとに生まれている泉麻人さんなども同様の時期に東京にいたといってもいいのではないでせうか。思いつくままに当時の風俗を挙げてみれば、その映画のタイトルにも出てきた東京タワーがあり皇太子(現天皇)のご成婚があり、立教の長嶋は予定通り巨人に入った。また、小学校5年生のときには東京オリンピックがあった(これは本当に興奮をしました)。少し遅れてビートルズが来日し、たしか中学校に入って間もなく例の3億円事件があったと思う。当時の貨幣価値にしてその余りの巨額に心底驚いたものだ。

 その後の70年安保に関しては、少しばかり複雑の思いがあります。後述もするが、私らの世代はその前の安保世代とは少しばかり価値観が違うようであるのですナ。政治や安全保障の矛盾に関して、「その通り」だとは思ってもどうしても前の世代の人たちの行動様式にはついていけなかった。日本ではどう考えても、暴力革命が起こせるとは思っていなかったのだ。だから、ノンポリではなかったがノンセクト・ラジカルには心情的にだけ共感をしたといったところ(もちろん、運動に参加した連中は知人でもいる)。

豊かさを実感もしたが精神の荒廃も加速?

 そうそう言い忘れたけれど、ちょうどその70年安保の年になるのか昭和45年に三島由紀夫の割腹事件が起こるのですかな。この衝撃も忘れ難いのですが、やはり変わると思った世の中が変わることは無かった。国の安全保障がどうこうというより、皆さんにとっては目の前の繁栄が魅力だったのでせう。

 私もどうのこうの言いながら、大学に入って遊びまわっていたし、身近に考えることといったら女の子の事しかなかった気がする。やがて、その怠惰な生活にも終止符を打って就職……。

 就職そのものは大変は大変だったのでしたが、勤め始めてから暫くしてから例のバブリーな時期と享楽が始まっていた。決して自分がその申し子だったなどと申しませんぞ。私は、どこかそこから外れていたといってもいいのではないかな。それでも、十分に飲み歩いたり夜中まで騒いでしたりはしましたが……。

 細かく具体的なことは今回ではなくて次回以降に任せるとして、果たして自分は「一体、どんな時代に生まれ育ってきたのか?」と考えてみたりします。復興、建築ラッシュ、オリンピック、高度成長、夢と未来(付属物としての万博)……そして、少しばかりのロマンも体現していた時代だったと言えるのでしょうかな。

 自分自身は大変にいい時期に生まれ育って来たと感じているが、やはり少し前の年代とその後の全くの繁栄謳歌の世代と比べると、ちょっと複雑な体験と真情を湛えているのかもしれない。少し前のアグレッシブは持ち合わせていないし、少し後の享楽満喫派ともかなり違うようにも思える。何時も、飢餓感と満足感を同時に体現しようとしていた年代とでも言えばいいのですかな(全くの論理矛盾だが)。思うのは、ここに来て若い人たちに自分らと同じような精神的満足や未来への足掛かりといったものを残せていないのでは、と忸怩たる想念もあるのです。大したことをしている訳でもないのに言葉だけだと大変におこがましいところ。でも、現在の混乱は確実に昭和の持っていた“夢と希望”とは異なるものだろう。

 少しばかり真面目にもなりながら、また何時になるか次回からはクルマや事件、昭和の風俗といった具体的な事象や出来事について考えてみませう。乞うご期待。
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