「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および熊本大地震、さらに数々の豪雨で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
 爾来、10数年の時が経ち現在は何とも退嬰的な日常になっていますが、マスメディアにいた人間として権力には対峙すべきとの姿勢や、世の出来事を注意深く観察する視点は変わらずにいるつもり。特に、2020年からは新型の伝染病という未曽有の災厄で世界観さえも変わりつつあります。人間の愚かさを見つめながらも、その聡明さと活力に期待をしてソロソロと進んで行きたいと思います。

2011年07月

IMG_1749(Seesaa1)花火のイメージ


無事に終え、たくさん食べてもらった

 朝から天候は心配していたのだが、活発な前線の影響なのかどうか新潟の大雨被害には目を覆った。一方で不安定なのは当地も同じだったのだ。きのうの夕刻から、かなりの雨の予想。

 愉しみにしていた花火大会の当日なので、「何とか持って」との思いは強かった。そこで神様が味方をしてくれたのかしら。ちょうど開始の1時間ほど前からかなりの雨になったものの、合間をぬうようにほぼ予定どおり花火は打ち上がりました。ましてや、風が大変に強い涼しい夜だったため、これまでに一番と思えるほどのきれいな遠景が楽しめて大きな歓声の上がることがしきりだった。

 まずは愛でたし、愛でたしといったところでしょうかね。

 皆さんが気になるのかどうかは分からないが、私が一番気を遣ったのは料理をおいしく食べてもらえるかどうかだった。これが、ところがギッチョンチョンなのですな。大人数(大人は9人、子どもは2人)が押し寄せてきたため、当初料理を5品定めてそれなりの量を作ったのだが、午後5時過ぎに開宴(花火は7時ごろから)してアッという間にこれがなくなった。私の家庭料理以外にもお寿司やピザを親類の人たちが用意をして持ってきてくれていたものの、これまたすぐに無くなってしまったのだ。

 私が急きょ、得意のジャーマンポテトを作ったりおつまみで誤魔化したりと、それは気を遣う部分も多かったですな。

話し、食べるのが何よりの娯楽

 「反応は」って? 聞いてくださいよ。完食をしてもらったのが何よりの証しと思えるが、若い人が物足りなさそうなので急いで作った前記ジャーマンポテトに対して、甥っ子の反応が「何? まじでヤバイよ、これ」というのも。これまたアッという間に無くなったのでした。

 義兄連中ともけっこう実のある話ができたし、きれいな花火は例年になく楽しめたりと、言うことがありません。きのうも内輪では話したことながら、いっとき義母と一緒に住んでいたときは義母を仲介にして親類の付き合いが活発だったことは、よく理解をしていた。しかし、亡くなってからは「付き合いも疎遠になるだろうな」と考えていたのに、そうでもないことに驚いているのである。

 つい先日も一緒に旅行をしたばかりだし、お墓参りに一緒に行ったり、こうして機会を見つけて談笑をしたりとこれまた言うことなし。自分はどこか家庭の味とか雰囲気に乏しい若年期を送ったので、この歳になって「家族」「家庭」の本来の姿をここまで意識するとは考えていなかった。

 やはり、人間にとって一番に大事なのは家族の融和や愛情ではないでしょうかねぇ〜。そうしたものに、親戚やごく親しい友人たちの話題がかぶさってくると、それがまさに“スパイス”になって料理の味(家族の紐帯)が引き締まってくるのだ。きのうは、夜空に炸裂する光のページェントを見ながらそんなことを考えていた(酔って寝込むこともなかったですな)。

朝顔 007朝方、見かけたお花

自分をどう評価するかというやっかいな課題

 メジャーリーグのヤンキースにもいた伊良部秀輝さんの自殺のニュースには、いささかのショックを受けた。まだ42歳の若さという。一方で、「この人なら」と思わせる部分もあるのである。有体にいえば、“自信”の部分だ。

 題名に掲げたONE・AND・ONLYについては、私の考えに間違いがなければ「かけがえのない」とでも訳せる言葉だと思う。「貴方はあなたしかいない」ということ。誰にとっても、親にとっても友人にとってもさらには奥さんや子どもにとっても、あなたは“大事な人”といった含意もある。

 それがどうなのだろう。人間社会というのはまっことやっかいなもので、類した言葉という訳でもないが、英語で彼らがよく使う「ベスト・アンド・ブライテスト」という言葉もあるのだ。この言葉の含意もよく知るものではないものの、「栄光」とか「晴れがましい」とでも訳せるのだろうか。要するに、精神も肉体も兼ね備えた、人生の成功者を称える言葉であるような気がする。

 ここが問題なのではないでしょうかねぇ〜。人間は小さな満足感の中で、地道に生きられる人もいれば伊良部さんのように絶対的な自信と栄光の中で、自分が高く評価されないことに心底悩む人もいる。プライドとはやっかいなもので、華やかさを知ってしまった人はそれがなかなか忘れられないのである。

 自分もそうだ、などと言うと大笑いをされてしまうでしょうが、案外プライドは高かったのでありますぞ。それが、この体たらくである。何もやらずに、大した努力もせずに「こんなハズでは…」など焦ってみても、それは誰からも同情をされないお笑いぐさでしかないだろう。しかし、テレビの画面で見かける方やプロのスポーツ選手のようにいっときの栄光と華やかさの中にいた人には、耐えられない部分もあるのではないでしょうかね。

喜びは些事にもあるのである

 ことさらに他人のことを言える立場でもないが、自分の場合は一時の落ち込みもカバーできる喜びを感じられるところがありますな。それは家族の愛情であり、友人とのきずな、何気ない日常の会話等々である。そう、きょうなぞも待望の休みではあるのだが、かえって普段より早く起きてしまったりして……。

 何だか、小学校のときの遠足や、一方の普段の緊張感については新入社員の頃を思い出しっぱなしである。実に面白い。

 自信やプライドといったもは否定するものではない。そうじゃないと、人類の進歩もないでしょう。しかし、余りに拘泥をするとそれは墓穴を掘ってしまうような気もするのだ。生活は日々変わる。そして、人間の心や体も日々進化を遂げているのである。ことさら非難する訳ではなくて、過去の栄光をひきずっていても、それはそれだけで終わってしまう出来事でしかないのだろう。

 非常に唐突な話になるけれど、仕事にかまけて外の公園で入ったトイレにたわむれに置かれていたキリスト教の伝道とおぼしきパンフレット。まあ、「お金や地位、名誉や栄光が人間を幸せにするわけではない」とか何とか当たり前のことが書いてあったのですが、最後の逸話は秀逸だなと思った。

 それもある公共の場所に張られていたポスターの一文だったらしいのだが、ゴミ捨てを戒めた言葉を引用していたのだ。「ポイ捨てを普段からするような彼氏(彼女)を持った貴方へ。あなたもそのように確実に捨てられる運命にあります……」とな。妙に納得をして笑ってしまった。直接の絡みではないのだが、幸せや生きている実感というのは、案外小さな出来事の積み重ねだ。ベスト・アンド・ブライテストの精神は、存外、些事に宿っていたりして。少なくとも、私は久しぶりに親類と酒が飲めることに興奮をして、朝4時起きの習慣が3時ちょっと過ぎ起きになってしまったのだ。嗚呼……。

250px-2005_Nagaoka_Festival_001写真はイメージ


今年も愉しく過ごしたい

 東日本大震災の影響で、夏の花火大会を中心した場所は多い。その後に復活したところもあるようだが、ジリジリと決定を先延ばしにして行えず仕舞いのところも多いのではないだろうか。当地のA川花火については、いったんの中止のあとほどなくして復活実施を決定した。英断だったのではないでしょうかね。

 もとより、花火を打ち上げることには、エンターテインメントのそれだけではなくどこか古い時代に思いを馳せる“死者の鎮魂”といった意味合いがあるからだ。これは事実なので、いちはやく中止を決めてそのままになってしまったところは、どこかで後悔がついて回っているようにも思う。

 とそこまでの能書きは別にして、ことしの当地の花火大会が明日に迫っている。去年もたしか書いたものながら、私の住むマンションの上階(角部屋なので)からはこれが非常によく見え、友人や親類が見に来てくれたことも一再ではない。今年も親類連中が大挙して押し寄せることになっている。

 死者への慰霊との意味あいだけでなく、今年は自分にとってもこのイベントが特別な意味を持ったような気がしているところです。

 新しいチャレンジのなかで疲労困憊し、家族や家庭の有難みを心底から実感する中で、明日は私が皆さんに料理を大盤振る舞いすることになっているからだ。酒も飲むだろうから、明後日も休みをとった。態勢は万全であります。

 疲れた体と心を癒し、美しい姿を愛でることができる。さらには、いままで以上に大切に思える家族や親類との談笑がかなうなら、これに勝る幸せはないという気がしますな。そんな背景のなかで、私の気持ちも興奮をしがちなのである。明日は頑張るぞ。料理は計5品。皆が食べられるように、量も多くしないといけない。味はって? そんなことは言わずとも分かるでしょう。天候は微妙ながら、前記の期待が叶うように願っております……。

蘊蓄でも何でもないが

 いささか疲れてしまって、早く寝る日が多くなった。それもともかく、個人的話題ばかりだったので、きょうは少し文化の香りのするそれをと。とは言いながらも、まったくの受け売りなのだが……。

 自分も大変に好きなお茶。皆さんはこのお茶という字のルーツをご存じだろうか。ものの本によると、茶という漢字は喫茶の風習が広まった唐代(7〜10世紀)に生まれたという。では、それまでも喫茶の習慣がなかったかというとそうではない。古くから植物の葉を利用したこうした飲み物の習慣は広く伝わっていたのである。

 その一つに、荼(と)という植物があったとのこと。荼はキク科の植物であるノゲシのことで、味が苦いことから「苦葉」とも呼ばれた。実際にどの程度のものだったかは別にして、古代の中国人はこれを飲料として利用していたようだ。

 さて、その荼にある「余」という字は読んで字の如しで、スコップのような道具で土を平らにする場面を設定した漢字で、「伸ばしてゆったりさせる」ことを意味する。余裕とか余韻の余であります。ここまでくると、もう分かる人も出てくると思う。つまり、それを飲むと心身の緊張が解けてゆったりと落ち着ける飲み物として、お茶が登場してきたわけで、そこにこの古来からあった「荼」の字を当てはめたわけである。

 従来のノゲシとは違うもので作られたわけだから、漢字の形も少し変えて使用したもののようだ。荼から一画を減らして「茶」としたものである。と分かったようにはいっても、再びまったくの受け売りなので念のため。

 私どももお茶は家族そろって大好き。とくに娘はお茶とともに育ったようなもので、今でも2リットルのペットボトルを私と一緒に2日で飲み干す。嫁さんは「たまらず」と、最近は普通の茶葉を水で煮出して飲むボトルも用意をしているようだ。それでも、食事や普段にお茶、お茶というのは変わらない図だ。

 放射能騒ぎで、当地の茶農家も大打撃だが、あまり神経質にならずに、とにかくもお茶の健康効果が飛びぬけているのは、私も保証するので多くの方に飲んで欲しい。

 何といっても、疲れたときにはお茶を飲むと「ホッと」安堵の息が出るのが日本人ではないだろうか。この言葉も由来も分かろうというものだ。県内のお茶業者を代表しまして、ご愛顧を賜りたいものでありますな。

朝 002写真はイメージ


暑い夏なのか温いお湯なのか

 人間というのはまっこと勝手なもので、自分を中心にしてしか思考をすることができない。以前から何回も言うように、若ければ若さを賛美するだろうし、歳をとれば年寄りを擁護するのである。

 普段の考え方も同じ。「自分は決して間違っていない」「自分の考えといったものが標準のハズ」と思い込んでいる。決して、そんなことはナイはずなのだが……。

 そんな訳で私も自分の悲喜劇をさも世界の中心で体現しているように、誤解している。そのことを自覚したうえでの日常点描である。

 朝から不安定な空気のせいで、雨が降ったり止んだり……。まっことに肉体労働の経過の中ではやっかいなものである。運んでいる荷物を濡らさないように少し大きなビニール袋を持参したりはしているのだが、実際には好都合に使えるということもない。要は、大雨の中を動かないのが一番なのだ。

 きょうは本当に初めてと言っていいくらいに、持ち出しの荷物が少なく、成績は良くなかったのだが、午後からの時間指定現物がなかったせいで、お昼の休みがたっぷりと取れた。おかげで、残っていた原稿の整理がきちっとできたところ。上手くいったとほくそえんでいたら、今週は原稿は使わないとのこと。少しだけガックリであります。

 仕事に伴う失敗をまたしてしまった。かなり慣れて、「ここまでくれば」ぐらいに思っていたのだが、やはり新しいことに挑戦するのは大変なことなのだ。大人のプライドなど吹っ飛びますな。怒られ、諫められ、顔を赤くしながらの精進であります。

 それにしてもと思うのは、私らのような配送風情にも、温かい声をかけてくれる方(とくに御婦人)の多いこと。雨の日などは余計なのである。言葉や挨拶の大切さを思う。私の担当区域に絵で描いたように、某大手自動車会社のディーラーや工場が立ち並ぶ一角がある。ここに集う世界的企業T社、続くN社、さらにM社のなかでもT社の対応は群を抜いている。朝訪れると、かなりの上司と思える人も我々に「おはよう」と声を掛けてくれるのだ。これは際立っているし、当初はビックリもした。

 T社に対しては、何らかの批判もあるかもしれない。しかし、社員教育という点では飛びぬけていると思いますな。これは、やれそうでなかなかできることではない。おもいもかけず、体得したある日本企業群の実相である……。

 PS どうも思考が発展せず、疲れているのは疲れているようでありますな。少し間をおいて、今度は少し文化的なことも書いてみたい。

ここまで時間を有効に使うとは

 以前にも一回触れたことがあったように思うが、朝早く起きるようになってからの一日は長い。普段の日もともかく、満を持していた今日の休みももう以前であれば丸1日経ったような感覚ながら、まだ午後の浅い時間なのである(だいたい午後2時40分くらい)。

 当地では少し前から夏の通り雨に特有なような黒い雲が現れ、しばしの間強い前を降らせていた。けっこうな激しさと思ったら、もう晴れ間がのぞいてきている。「夏なのだな」とも思う。気温もさほど高くはなく、雨に混じって爽やかな風も吹いていたので、感覚的にはすこぶる快調なのである。

 これまでの行程。朝は4時過ぎに起きて散歩。何時ものように道で行き交う人には「おはようございます」と声がかけるが、たいがいは元気な声が戻ってくるので気持ちがいい。中には、ブスッとしたままのオヤジもいるにはいるのだが……。

 朝食も家族みんなで食べる。子どもは学校での補習。嫁さんを職場に送り出してからは、ゴミだしをし、余りの眠さにしばしの仮眠。これも何のことはない1時間ほどで起きたので、時計の針はまだ午前10時ちょっと過ぎである(以前の自分の生活なら考えられないことだ)。それからは、今週分の原稿の準備作業で2時間ほどを過ごす。

 午後は午後でふるっていますよ。郵便局で少しお金を降ろし、支払いの準備のために銀行3カ所を回ってそれぞれに足りなくなりそうなお金を充当する(これだけでもけっこう気苦労のある作業)。途中、久しぶりに本屋さんによって英語の勉強用の教科書とドキュメンタリーを2冊求める。『ワシントンハイツ』(秋尾沙戸子・新潮社)に『ワーキングプア』(NHKスペシャル「ワーキングプア」取材班編・ポプラ社)の2編である。まあ、自分の趣味が知れようというものだ。ちなみに、私は前記・ワシントンハイツのすぐそばで育った。だので、大変に馴染みが深い。しかも、その基地に配備されていた軍人さんが(黒人の人だった)家に下宿していたこともあったのだ。

 そんなこんなで、愉しみな本でもあります。

 これからはスーパーに買い物に出かけ、子どもや嫁さんの喜ぶような献立も考えるつもり。いつも月曜は魚料理が中心になるので、きょうもメーンは魚にするつもりだ(もちろん、原稿も執筆しないといけないのだが)。

 何という、充実ぶりだろう。人間、その気になればこうして人生を密度の高いものにできるのだということも知った。しかし、だからと言ってそれに規定される気もないのです。たまたまの休みで、たまたまやることがたくさんあっただけだろう。そこに、少しでも充実度が被さればいいと思っている。

  籐椅子を立ちて来し用忘れけり(安住敦)

週刊 002表紙はなかなかいいと思えるが…


どうでもいいようなことなのだが、以下に掲げたコラムは今日の朝早く書いたものである。そのときアップをしながら、機械の操作を間違えて同じ文章を2つ掲載してしまった。慌てて一つを削除したのも束の間、確認すると全然消えていない。そこで、再度削除を行ったら2つとも消えてしまったという顚末。ほんの2、3分の出来事だったが、朝に読んだ人ももしかしているのかも…。

見るべきものは余りない

 久しくやっていなかった週刊誌評のようなことをきのうの夜、やることを決めていたが、食事のあとすぐに疲れて寝てしまっていた。蓄積疲労という奴かな。体が痛いのは取れてきたが、気の緩みはどうしようもない。失敗をしないよう心がけていきたいだけだ。

 ところで少し遅ればせの今週の『週刊新潮』(7月28日号)。多少の期待はあったものの、結論的には総じて面白くない。政治の話題にしても、その他の文化的話題にしてもそうだ。期待をした、「菅直人を自在に操る怪しい“言霊詩人”」(P32〜)からにしても、ダボス会議のメンバーだともいう内閣官房参与の田坂広志氏(60)のアドバイスがことごとく菅総理を動かしているとするもの。周囲に味方や側近がいないのは確かだとは思うが、どこまでの影響力なのかはこの文章を読んでも分からない。

 それにしても、この人の強気と自分を恥じない居座りはどういうことなのだろうか。国会答弁なぞを聞いても、笑ってしまいますよ。「今回の震災に対する対処にしても、のちのちには“かなり立派にやっていた”と評価をされるのではないかと考えております」とシャーシャーと言ってのけている。何でここまで……とむしろ不思議に思えるのだ。打たれ強いというのか、自らの立場に酔ってしまっているのか。辞任の3条件どころの話ではない。

 9月初めの訪米、同下旬の国連総会出席にも大意欲だという。辞めると言っておきながらの、この状況と政治姿勢で、この国が何処に行こうとしているのか、誰もコントロールできなくなった――。嗚呼。

 それよりも面白いと思ったのは、有名なバイオリニストである諏訪内(ない)晶子さんの脱税の話(P35〜P37)。全国紙にも取り上げられたが、その手法と意図的な所得隠しは相当な部分があったらしい。周囲にも評判というから、人間見てくれだけでは分からないものですな。

 これはもう、週刊誌的興味だけだけれど、新潮の歴史を見る皮肉と文章力が見られないと、こうしたスキャンダルばかりが目につくことになる。お金への執着は女性の特許でも何でもないので、みんなピンとくるものがあって面白いのだと思う。この分野では、ますます新潮や文春に活躍してもらいたいものだ。

コラム類も全滅だったのだが…

 いつも愉しみにしているコラムの類もほとんどが面白くなかった。藤原先生の「管見妄語」は不発。高山正之さんの「変見自在」は、韓国のインフラや文化的遺産に対し、日本の貢献度はかなり高いとするもの。ある部分は当たっていると肯定できるのだが、韓国への敵意が強過ぎてちょっと腰がひけますな。

 そんな中で、随分と興味深い話題を提供していると思えたのは、福田和也氏の「世間の値打ち」である。評価は分かれると思うけれど、この人のコラムはたまに随分と読ませるものがある。今回もそうだと感じる。

 話題は元朝日の記者・野嶋剛氏が書いた『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)が大変に面白いとするものだった。読んでいないので本の内容もともかく、これまで気にはなっていた北京と台北にある2つの故宮博物院の比較が大変に興味深かった。

 台北の方の宝物は蒋介石が北京から持ち出したものであるのは有名な話ながら、その数(収蔵品)はまだ北京の方が断然に多いのだという。さらに、その評価に関しても中心になる文化品の年代がごく違っていたりするので、何とも言えないところがあるなどとするコメントが面白かった。詳しく知るものではないのだが、私は台北の方がよほどいいものを持っているぐらいの知識しかなかったので、個人的に随分と惹かれる内容でありました。やはり、この福田さんという人の知識や着想には敬服するしかないのだろう(昔の仲間には随分と嫌われているというが)。

 仕事の合間にザッと読み通しただけなのだが、無責任と無見識を棚に上げればそんなこんなの内容であったと思えたところ。皆さん、週末はどのように過ごされたのだろうか。私は明日がやっと休みになる。休みがこんなにも恋しいものであるのは、久しく覚えなかった感慨だ。ばっちし休むぞ! 拝。

何処か遠くに来た人生か


 ことさらにカッコウをつける訳ではないが、半ば肉体労働のような毎日なので疲れる。一方で、精神的にもきつさはあるものの、もう半分居直っている格好かもしれない。

 まだまだサボる余裕とてないわけだが、自分が担当している地区には随分と田園風景といえるものも多く、毎日ではないがそこで車を転がすたびにある種の“快感”を味わっている。一人での作業なので、自由にできるし、急ぐと事故を起こすとばかりに目いっぱいの安全運転で時間を浪費している。だからなのかもしれないが、一つの悲哀や感慨といったものを感じるのである。

 きょうは夕方から随分と時間が余ったので、公共施設の駐車場で小半時ばかりを過ごした。遠くを見つめていると、何やら勇気のようなものも湧いてくる。

 思うに、私たちは何時も近くばかり見て遠くを見なくなりがちだ。近視眼とは文字通りのことで、近くのものやコトにばかり捕らわれていては危うい。多少、夢想のようなことでも、愉しいことを想像するのに如くはないのではないでしょうか。

 そんなことを思った。

 狭量になれば、人の悪口ばかり言うようになるし、世の中に不平や不満をたれることばかりが日常になる。そんな日常を自分が過ごしている場合もあるし、他人のフリを見てそんな思いに捕らわれることもある。

 そこで提案。遠くを見よう。きっと、心に落ち着きと爽快感が生まれるハズである。「遠くへ行きたい」という言葉にも含蓄があるが、「遠くを見つめて」も素敵な言葉ではありませんか。普段は意識しない遠い風景や山並みを見ていれば、何か感じるものがあるハズ。乙女チックになっている訳でも何でもありませんが、もうこの歳だし、これからは“遠く”を見つめて生きていきたいものですな。

リハビリ 006写真は本文と関係ありません


偉大な人生と今後への不安と

 いささか疲れがたまっていたようだ。これまでの緊張感によって眠気や、その他の疲労をごまかすという作業ができなくなった。逆に、これまで緊張で朝起きられていたものだが、そうでなくなってきていることを感じ怖れています。

 きのうまで忙しかったのは、スポーツ紙への投稿作業を行っていたからだ。テーマは「リハビリ」。リハビリテーションと言っても、自分がそんなに詳しいという訳ではない。私のリハビリ体験は、3年ほど前にある医療雑誌の依頼で有名なリハビリテーション病院を取材し、そこで関連して現在のリハビリの“問題点”といった話を聞いたことからだ。たまたま行ったT病院に面白い先生がいて、その方(S先生と言います)にアレコレ聞いているうちに、多少なりとも興味を持った。その先生は、健康保険制度でリハビリに日数制限が設けられたことに猛反発をしていて、行政訴訟まで起こした御仁である。もちろん、裁判では負けているのだが、その趣旨には賛同を隠せないところが多かった。

 これまた、たまたまだったのだが、このS先生とは初対面でいきなり飲んだ。そこで、先生の生い立ちや「なぜ、医者になったのか?」などの話を聞いて随分共感をした。さらに、考え方そのものが自分に随分近い気がしたのである。やっていることは声高だし、かなりエキセントリックにも見えるのだが、私はこの先生は本物の人だと思っている。言っていることがブレていないし、ほぼ同年代の人間としてその考えに共振をするところが多かったのである。

 それにしても、お医者さんは金持ちだと思っていたけれど、病院近くの居酒屋で飲んだあとに、「実は今月、金がまだ入っていなくて……」と驕る羽目に陥ったときには、やはり少しばかりビックリも。そんな“庶民的”な人もいるのですな。

リハビリの大事さはすべての人に共通か

 そんな経験を踏まえているところで、私の古い友人であるSちゃんが去年8月に脳出血で倒れた。ただその後の推移はまさに理想的で、発見が早く、本人も精力的にリハビリに取り組んだので、私が知っている範囲でもホントウによく「ここまで…」と思えるような回復振りである。

 一回は初台リハビリテーション病院(回復期リハをやったところ)に見学にも行っているし、まったくこうした医療の理想と問題点を知らないわけでもないので、この体験を奇貨としてSちゃんのこれまでを、啓発的な卒中記事として書けないかと思った次第である。それを今日の午前中に出稿した。

 リハビリテーション(文字通り、本来の生活に適した状態に人間の体を戻すという作業)は、これからますます大事になってくると思う。一方で、その大事さが分かっていながら、これほど個人の取り組みによって差が生まれてしまう医療行為もないと言うことだ。年寄りは理屈ばかりだから、自分が動けない、足が不自由、言葉も語れない――というのが悔しいのでしょうな。

 友人のリハビリを記事にする一方で、自分も“リハビリ”をしていると感じているのはまさに日常的な作業である仕事によって、この1月ほどで6キロ近くも痩せたからである。原因についてはことさらに問うまい。体を使う、緊張感があるし、さらに食欲も以前ほどではないようだ。友人と飲みに行く機会はめっきり減った――そんなことで、体重はこの年齢の人間にしてはというところで、理想体重にほぼ3、4キロ程度のとこまで近づいているようなのですな。

 思えば、遠くに来たもんである。

 多くは語るまい。リハビリは本来ある、人間の適応能力を高めたり維持する訓練のようであるから、そんな趣旨に自分の生活をあてはめるということになるのだろうか。人間は進歩もします。しかし、メゲナイし悪いことを愉しんだりするのも人間だから、余計にこれからの展開が楽しみといったところにいる。

 肉体的なそれは、いくらでも我慢をしたり、“慣れる”ことによって克服することが可能になるのだと思う。しかし、職場での上司との付き合いやその人間性からくる感化に我慢ができないと、一気に職場の雰囲気への不信も生まれてきそうでありますな。自分もそうだったけれど、どんな仕事にも面白さは見出せる。しかし、本当の意味の友人や力をくれるスタッフを探す作業も、「大事ではないのか」と思えるコレマデなのである。

 ブヨブヨと太った肉体を誇示し、負け惜しみで「多少太っていると、長生きができるそうな」と発言をし続けるような愚を、後世に残したくはないのですな。ここはそれ、大人たちが自分らの生き方を明らかに生きていくしかないでしょう。今春の震災で分かったように、日本人は大舞台だけではなく本当に我慢づよいし、今ある条件を思い出しながら受け入れる民族だろう。しかし、それに甘えて安住するばかりでもいけないのでしょう。本当にそう思う。

 心のリハビリをめざす作業は、皆さんと一緒に考えていかないといけないのだと思っています。――……( ´∀`)つ

kyou 004お堀端のユリ、自生かも?


何とも愉しいものかも

 ああ、それにしても快挙ですな。なでしこジャパンのワールドカップ優勝。まさかとは思われていただけに、まさしく“劇的”な展開となった。PK戦での勝利ですからね。とにかく、明るい話題に事欠いていた日本に対し、これ以上のプレゼントはないだろう。おめでとう。

 きょうも朝早く起きて、お濠の回りをずっと散歩してきた。朝6時過ぎに戻ってきたら、嫁さんはちゃっかり起きて熱戦観戦の真っ最中。個人的にさほどの興味を抱いていたわけでもないのだが、その技術力や集中力の凄さには脱帽する。澤キャプテンの活躍は特筆ものである。

 とそこまで気分のいいところで、きょうはお休みでもあるし個人的に流れていた話題を少し真面目にしようと考えていた。しかし、きのうまた個人の話ではあるものの面白い思いに捕らわれたので、そのことに簡単に言及しようと考えた。

 例のface bookのお話である。フェイスブックという機能については、以前から興味を抱いていました。全世界で広がっているし、中東の民衆革命の導火線になったということも聞いていた。できるなら、加盟をしたいとも考えていたものが、時間だけ過ぎていった展開。それが、ついこの間、仕事のために外国のニュースを読んでいたら、英語ではあるのだがこのフェイスブックに加わらないかとの誘いのクリックボタンがあったのだ。大分、以前のことだけれどその指示に従っていろいろ個人情報を記して一応、無事に加盟ということになったのである。

 それからしばらくは、その存在すら忘れていた。

 それが、つい2、3日前に高校時代の同級生から急に友だち通信が来て「彼が友だちになりたいと望んでいます」との要望。わけが分からなかったのだが、いちおう“同意”だけはしておいたのである。

外国人との友人関係もいいものかも

 そうしたらスグにまたというか、きのうはきのうで、急に外国にいる私の友人から友だち通信とメールが来たのである。これにはちょっとビックリした。もちろん、すぐに返事もしたのだが、間髪をいれずにまた挨拶が返ってきたことにも驚いている。

 もっと、興味を抱いたのはその後の私の学習の推移でありますな。何か画面をいじくっているうちに、「彼は友だちの可能性があります」とか「知り合いではありませんか」とか、名前とスナップ写真が大量に出てくる。大部分は違うのだが、何人か知っている人間を認めたのである。そこですぐに、友人メールを送るとともにその知り合いの画面を開くと、今度は今度で私としても共通の友人になるのであろう古い知り合いの名前と顔が出ていたりする。面白くなって、また“友人希望メール”を送るという次第である。

 面白い。

 「こういうことだったのか」とも思った。実名を出していたり、個人情報が本人の同意の中で記されることによって友だちの輪がグングンと広がるという設定。ハーバードの学生さんが編み出したとの触れこみだが、ホントウに興味深い仕組みができたのだなという気がする。

 個人的にもちょっとはまってしまった。3、4件送った友だちメールで同意が得られたのはまだ2件ながら、そうやってすぐに反応があるのもこのフェイスブックの真骨頂なのだろう。やろうと思えば、自分のブログやホームページの代わりに使えそうなのも、便利さを追求した成果なのだろうと思える。

 外国人である友人は、すでに数百人の友人を持っているし、どうも画面を見る限り頻繁にチェックをして便りの返事も書いているらしい。しかも、友人のかなりの割合が女性。私は先年、亡くなった彼の嫁さんのこともよく知っているのだが、あまり間をおかずに再婚をしていることをこのフェイスブックで知り、仰天もした。何とも、よくやるものだなぁ〜。「子どもたちは私から離反した」と英語のメールで返事をくれたが、それもありなんか。

 とまれ、きのうから少し古めで最近は会っていなかった友人に2人、この機能で再会をできて喜んでいる。コンピュータ時代の申し子といったところだろうが、オジさんの感覚の中では「使えるものなら、使おう」というのが恐らく一番実感に近い、正直な気持ち。「使えない」部分ももちろん、あるのでしょうが……。私的な発見だ。

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