「風のひとりごと」ブログ

東日本大震災および熊本大地震、さらに数々の豪雨で被災された方々へ、心からお見舞いを申し上げます。
 爾来、10数年の時が経ち現在は何とも退嬰的な日常になっていますが、マスメディアにいた人間として権力には対峙すべきとの姿勢や、世の出来事を注意深く観察する視点は変わらずにいるつもり。特に、2020年からは新型の伝染病という未曽有の災厄で世界観さえも変わりつつあります。人間の愚かさを見つめながらも、その聡明さと活力に期待をしてソロソロと進んで行きたいと思います。

2020年12月



やれやれの最終日

 先日、「今年は門松を飾るスポットが多い」との趣旨を書いた。これは大袈裟ではなくて、実際皆さんの心の中に災厄を打ち払い、無事に年神様を迎えたいとの心持ちがあるからでせう。正月という日本の最大のしきたりについて多くを知るものではないが、門松は新年に年神が天上から降りてくる際に目印で木を立てたのが最初とか。松に関しては平安時代からというが、それまでは杉なども遣われたの由。現在でも地方によって常緑樹であれば椿や榊でも良いとしている場所もあるという。

 その他、ご来光の由来は山に登って山頂近くの雲に映る自分の影を見、仏の像のように見えたので仏の「ご来迎」にかけたとの説もものの本にある。この本には、お屠蘇が元来は日本酒そのものではなく、中国由来の薬酒の意ともあった。知らなかったが「屠蘇」は漢字の屠ると蘇るの合わせ字、つまりは「悪鬼を屠(ほふ)り、死者を蘇らす」の意味だとか。勉強になりますな。

 ついでに、「おせち料理」は「お節料理」の意味合いだ。季節の変わり目に当たる節句の中でも、特に重要な正月に食べられるようになったのが、このおせちだ。元々は年神様に供えるものだったが、やがて大晦日の年越しの時に食べられるようになり、正月料理として限定して使われるようになった。当初、正月松の内にずっと食べていたが、次第に正月三が日だけになったとも。

 まあ、何とか今年もとうとう大晦日で、無事に新年を迎えることが出来そうであります。きのうは買い物で大量にそのおせちの素材、そして娘を家に迎えることから奮発したすき焼き用の牛肉なども仕入れてきた。焼肉用の肉も買ったので、きょうは焼肉、明日はすき焼きということにでもなりましょうかな。年に一度の贅沢でアル。

 多くは語るまいが、今年は特別の年であったし、世を挙げての自粛ムードに殊更の感慨も深い。ありきたりの言い方しか出来ないことを恥じますが、何とか良い年を迎え幸いの多からんことを乞い希ふところデス。

去年今年闇にかなづる深山川(みやまかわ) 飯田 蛇笏

やっと終えた

 別に量販店の看板ではないのだが、「総決算」というのは商売の触れ込みだけでなく、この時期一般の人にとっても実感としてある意識なのでせうな。大晦日に向けて大掃除をし、借金の清算に奔走。そして仕事を納めて軽く飲食する(今はやらないかも?)のも、葬儀の後の精進落とし(本来の意味とはちょっと違うが)と同様の意味を込めているのかもしれない。

 全く個人の感慨にはなりますが、自分にとってきのうは総決算の日でありました。朝の医薬品運びはなかったので、珍しくF市のセンターまで荷物を取りに行き、今年最後の名古屋行。無事に終えて、今度は最後の塾講師の日であった。いささかなりとも疲れ果てたが、今年は奇妙な高揚と満足感があったのも事実なのですな。やはり、通例の年とは違ったものになった。

 コロナ禍の年末はあらゆる意味で通常とは違う景色を皆にもたらしているのでは、とも思います。「新年どころではない」と大きな声で叫びたい人もいるだろうし、何とか自粛の掛け声をすすり抜けて旅行に出ている人もいるのかもしれない。ただ、新年には身の垢を落としてスッキリとした気持ちでご来光を拝みたいとの気持ちは、一般には変わらないと想像をしております。

 これは自分に置き換えても同じでありますナ。幸いに今年の後半は仕事が減るというよりも通常に戻り、さらにエキストラの作業が立て込んで普段以上に忙しかった。きのうも友人にメールをしたのは、今年は「いろいろと考えることが多かったな」ということ。当たり前がそうでなくなった日常で、自分に出来ること、出来ないことは何なのかと思案に暮れていた。

 そこで仕事納めに到達し、作業という意味では変にサッパリとした達成感と心地よい疲れがあったところであります。

どんな正月を迎えるのか?

 あまり聞きたくもないことでせうが、きのうの作業を簡単に振り返っておく。毎年やっていることながら、今年も名古屋行は24、5回の多さになると思う。去年までと違ったのは、第二東名が大分に改装工事をされ、作業の最後の方は完璧に3車線になったこと(静岡県内について)。これは大きかったですな。

 とにかく運転が楽でアル。2車線のときは追い越しをかけようとしても、後ろから圧倒的な速さで迫って来る外車や大型車に気を遣ってそのストレスは凄まじかった。ほぼ、綱渡りのような運転であった気がする。それが、未だ大型トラックに邪魔をされることは多いにしても、追い越しや定速走行がこれまでより全然楽ちんになりました。

 今一つ、今年の特別感は普段の年に悩まされていた眠気、つまり睡魔というのをほぼ感じなかったこと。何故なのかは良く分からない。別段睡眠時間が十分だったとも思わないのだが、何故だかこの“睡魔”というのがなかったのですな。イイ事である。

 それと、付け加えたいのは今年は富士山が冠雪をしておらなかったことだ。きのうのラストランでやっと上部のところに薄く冠雪した富士を眺められた。毎年、清水インター付近からのその威容に圧倒され、これも愉しみの一つになっていたものが、今年はなかったのですな。薄黒く象られた富士のシルエットなどは醜悪そのものでしかない。冬の富士は雪と共にあるのではないかな。今まではなかったことを経験し、今年はその意味でも異例でありました。

 再びにプライベートながら、明日は子どもも帰って来るし大晦日には深夜一緒に食事をし、除夜の鐘を聞き挨拶をする。この除夜の鐘というのは、以前はもう正月の行事だったのだそうですな。昔は日没と共に一日が変わったので、大晦日の日が暮れると正月だったのだそうだ。さらに、その鐘を突く回数である百八つについて。これも、一般には人間の煩悩の数と同数を厄払いとして叩くと教わっているが、一説には中国の暦にいう12月、二十四節気、七十二候の数字を足すと108つになることからそうなったとの説もあるのだそう(『日本人のしきたり』飯倉晴武著より)。

 単なるトリビアだが、何にしてもきちんと「総決算」を終え、自分にとっても希望のある新年を迎えたいと、心から希求をするところ――。

何とも不吉の気分ももたげるの記

 文意とは全然関係ないのだが、朝方短い時間の散歩に出たときに正月気分はともかく、今年は何処でも門松を「見かけるな」と思ったりした。近所の小体の八百屋さんのシャッターの両脇に立派な門松が飾られていることに一驚。後半では、城址公園の御門のところにこれまた大層に大きな門松が据えてあることにビックリさせられてしまった。今まではこんな事は無かった気がするが。……やはり今年は新年を迎えるに当たって、特別の思いを込める向きが多いのでせうかしら。驚いた。

 それもともかく、今朝方も観た「夢」のことであります。覚えている限りながら、ここ3日間連続して配送で窮地に陥った夢を見た。これもビックリであるのですな。

 この仕事を9年前に雲を掴むような思いで始めたとき、その余りの非効率さと理不尽の思い(皆勝手に仕事をし、仲間意識のないこと)をしたこともあって、暫くは夢でうなされることが多かった。一重にその過酷さと精神の不安定の故であったと思う。

 しかし、その後は全くそんなことも無くなったのですな。慣れのためだろう。ホントに、初めは「こんな商売は割に合わない」と敢然と辞めようとしたとき、今の親会社の社長から熱心な誘いを受け騙された思いで続けていたら、その後の丸9年が過ぎてしまった。本当に1年間も続けられるハズはないと考えていたものが、人生というのは面白いものである。

 ただ、お金のためとはいえ、仕事に本当の意味の安定感とか精神の落ち着きを感じていたかと言えば、そんなことは全くなく、元々の出自がデスクワークなり編集の仕事であったとの思いからそれに拘泥をしていた自己意識があったのも事実なのですな。

 まさしく、自分の夢見に関しては、ほぼ間断なくこの記者としての仕事を続けているか、臨時雇いのような形で元の会社に勤めている夢ばかりであった。そして、溜め息やら懐かしさやら登場するかつての同僚や何故か関係なく現れる学生時代の友人たちに、一人でジャーナリスト魂を説いていたりしたものだった。

文字通りの悪夢にうなされた3日

 それがこの事態でアル。――詳しく覚えているものではないが、最初は配達先を間違えるような夢で次は自分の運転する車が確か、いなくなってしまったものだったと思う。そして、今朝方に見た夢は大変に傑作であった。

 配達先は恐らく何処かの高校(女子高かもしれない)。ここの教室前で一人の女生徒と出会い、彼女が服を濡らしているのか、どうも寒そうに体を震わしているので軽く抱きしめると、彼女も満更ではないようでホンノリといい気分になったところを、現れた先生に睨まれたりした。バツが悪くて狼狽えていると、自分の名前を呼ぶ声。「ここに運び入れてください」と、中から女の先生に促される。「分かりました」と答えたものの、持って来ているハズの弁当は何処にもないのだ。

 これには狼狽え、焦りまくった。通常は運ぶ荷物を積んでいないなどというのは有り得ないことながら、そこは夢である。とにかく、締め切り時間は午前10時かそこらだったので、あと40分程度を残すのみだ。それで慌てて、同僚とともどもに荷物センターに弁当を取りに帰る格好になる(さほどは遠くない場所にあるようだった)。

 ただ、自分らが慌てて帰るよりはセンターにいる仲間に別の車両で届けてもらう方が何ぼか早いだろうとも考え、今度は携帯を取り出して相手先の番号を探るが、これも何故か機械は自分のものではなく他人のもの。遣い方(探し方)が分からずに焦りまくる場面も。そして、その後の帰還劇も途中で綱渡りのようなことをしたりと、ドタバタの連続という始末だった(具体的に言うと面白いのだが、そうだと長くなるので割愛)。

 要するに、頭はパニックになって自分の責任はどうなるかと思案をしているところで、やっと夢が覚めるというパターン。これは3日間とも同じだった。正に“悪夢”を観ていたのでアリマス。

 何とも、新年を間近にして“不吉”の思いもあるものながら、実感としては逆の事も考えております。要するに、自分がこの仕事に完璧の意味で慣れ、今までのように忌避しない気分が生まれているためではないのか、とも……。どうもそうかもしれないですナ。これまで拘泥をしていた編集作業の夢を観ずに、バタバタと体はきついけれどやった分だけの成果にはなる今の肉体労働である。

 何のかの、これからも切られない限りは、続けていくのかなとも思ってしまう年末でアリマシタ。

サンタイメージ写真


やはり異例かな

 気がつけば、「もうクリスマスか?」というのは、他の感慨と同じ。きのうはイブというのでいささかともビックリしてしまった。普段の年であれば、もうこの華やかな行事とは無縁になっている身として、騒ぎが五月蠅くて仕方がないとしか感じなかったものが、今年はやはり違いますな。周辺にそうした華やかさはまるで感じませんでした。

 それでも、スーパーに行けばローストチキンが所狭しと並べられている他、仕事の合間に聴くラジオでもそのクリスマスソングがたびたび響いてくるくらいが、ある種の“季節感”を感じさせるのみだ。

 だから、余り感想もないのだが、きのう耳にしたラジオでこのコロナ禍のシングルマザーの家庭での生活苦について現状をレポートしておりました。お母さんが子どもに「今年はサンタさんは来ないのよ!」と話したとのエピソードには胸をふたがれた。本当に大変の家庭も多いのではないでせうか。

 自分の身は未だ恵まれているとしか考えられないが、それでも今年という年の意味とか新年からの行く末といったものを憂いと共に考えてしまいます。

 個人的には今日の仕事を終えれば、週末は完全にお休み。さらに来週月曜に最後の名古屋行があって、夜は塾講師がありそれで恐らくは仕事納めになってしまうのではないだらうか。一応、荷物運びは29日まで可能性があるとは言われているが、「恐らくないだろう」とも……。

 今年は年末30日まで仕事の予定で戦々恐々としていたものが、どうやら人並みに買い物にも出かけられそうでアリマス。何とか無事に新年を……としか、それしか考えられない年末である。

表裏なき聖樹どこにも燈がともる 山口波津女

ここまで変わるのか

 ここのところ、普段とは違ってゆったりと時間が流れているような気分がある。きのう、今日と早朝の仕事が珍しくないせうだらう。年末になって医療機関の体制にも変化があるのかとも思ってしまう。

 それもともかく、愈々の年末で今年もあと残すところが10日を切ったようだ。されど実感としては乏しいですな。言うまでもなく、今年の2020年があらゆる意味で異常であったからだろう。1月、2月はそうでもなかったものの、3月ぐらいからは全てが「コロナ、コロナ…」で推移をしてきたようにも思う。誰の責任でもないとは言え、何とも不可思議で情けない心持ちにさせられてしまう。

 そこで、自分を含めた例の「生活様式の変化を探る」という奴でアル。政府から言われるまでもなく、多くの人ほぼ国民の全てがこの日常を“変える”ということを迫られております。否、強制をされているといった方がいいだろう。そのくらいに変わったし、変えざるを得なかった――。

 でも、どうなんですかね。普段のニュースを観ればテレビ局や媒体の常でいつも「こんなにも前向きに立ち向かっている人がいる」との明るさを求めている。お店をやっている人はコロナへの防御態勢はもとより、新商品の開発だとか売り方の工夫(例えば移動販売等)で活路を見出す。芸術家やスポーツ選手はまさに悲惨の感じがするものの、それでもリモートでコンサートをやったり無観客の試合を模索をしておられたりする。

 そのことをどうこう言う気はないし、本当にその多大の努力に頭の下がる思いがするのだ。私なぞは「よくそこまで現実を受け入れることが出来る」と驚嘆と尊敬しか浮かばない。

 仕方がないと言えばそれまでだが、やはりこれまでのコロナ防疫にしても予防の試みにしても何処かに穴があったのではないか、とも思ってしまいます。日本の幸いはそれでも、被害や犠牲者が予防体制の割には最小限で済んでいることではないか。異論もあるかもしれませんが、患者を含め死亡者などの割合は欧米の100分の1以下である。やはり、何処かにファクターXがあるやもしれぬと専門家ならずとも思うところ。

自分には出来ないなぁ

 今回駄文の主旨は政治家の無策や首相の貧困言語を責めることではないし、医療体制のひっ迫に処方箋を考えようというのでもない。その辺は、多少の知識はあるにしても国民全体で考えるしかないということなのでせう。

 言いたいのは、先の「生活様式の変化」というものが私たちにどのような影響を与え、多少のプラスとパラダイムの変換のほかに、一体何をもたらすのだらうということである。

 いま、求められている日常はマスクをすること、手洗いを励行すること、さらにソーシャルディスタンスを取る事の他、特に年末年始は外出を避けることと耳タコで分かっているものなのだが、どうにも全てを素直に受け入れられない自分にとまどっております。もちろん、一時とは違って逆らおうなどという気持ちもほぼ持ち合わせていないのだが、むしろこれから人々の気持ちにどんな変化があるかの方に気が向いている。

 感染を広げないための手段や工夫というのは分かる。これはほぼ皆が守るべきことでせう。仕事の様式を変えざるを得ないとか、飲み会を今までのように挙行するのが難しいというのも未だ理解は出来るところです。しかし、「対面はするな」とか「会話はなるたけ控えて」の苦痛とともに「相手との距離を取る」という部分にも結構な違和感を感じる。以前、仕事場やマンションのご近所との対話にぎこちなさがあるような事を書いたが、この頃はそうでもないものの、それでも相手が明らかに「余計のことをしゃべらまい」としている風も感じられたりする。実際、エレベーター内での会話は控えることとのお達しも管理会社から出ているのでアリマスですな。

 いや、やはりそこまでというのは、何処か無理があるのではともつい思ってしまう。私は軽口を敲くのが性分というところもあるので、こうした生活の変化が苦痛にしか感じられないのです。現状で皆が納得出来る“生活様式”というのがそうしたものなら、それは逆らってはいけないのかもしれません。がしかしねぇ〜、リモート飲み会にしても握手の禁じ手にしても、どうにも国民を分断する雰囲気とお達しの故なのではないかと、つい考えてしまうのだ。

 年寄りでもあるし、個人としてはとても生活を変えるなどと簡単に出来そうにない。出来るのは余った時間を有効に遣うことを、これまで以上に真剣に思うことだけ。とりあえず、きのうは簡単に部屋の片づけを行った。何処まで自分と生活を変えられるかは全く見当がつかないが、早く普段の生活が取り戻せるよう直近の回顧(つまりは1年ほど前)に励むのみでアリマス。

多分に心境に変化が

 自分の文章の中には、折に触れて「人間は弱い者だから…」といった一節が入ることがママある。もちろん、これはウソを言っている訳ではなくて正直、さまざまの場面でその弱さを体現することがあるように思います。

 ただ、そのフレーズは半面で一種の逃げであったり、保険のように言い訳をしている気味が全くないとは言わない。「弱いんだから仕方がない」と言ったら元も子もないだらう。一方ではその弱さが折に触れてもたげて来るのはしょっちゅうのこと。すぐに逃げたくなるのは自分の性分のようなものだが、何が抑えているかといえばもちろん、「仕事をしないと食ってはいけない」ということと「他人に迷惑をかけてはマズイ」という自制心のようなものである。ある種の責任感と言ってもいいのかもしれない。

 でも、それでもと言うのか、多くの立派な人に比べれば自分は本当に性根の弱いすぐにサボりたくなるような意気地のない性分を抱えていることを否定はしない。それでもココまで何とか生きて来ることが出来たのは、一重に親がそれなりの基礎体力を与えてくれていたことと、環境面では何とか生活出来そうな地盤があった故である。あとは、友人に恵まれたこともあったのかもしれない。

 前記のように、本来の自分とすれば条件さえ整うのであれば、別にあくせく働かずともノンビリ悠々と生きていきたいとの性向のあるのは全きの事実でアリマス。現実に、もう少し潤沢にお金があり何処かに不労所得でもあるのでありさえすれば、今のようにあくせくすることはないでせう。実際、少し前にそれなりに経済力のあった時には、暫く遊んでいた時さえあった。これは、もし海援隊のリーダーだった武田鉄矢さんのお母さんにでも知られたら、「死ね!」と言われてぶっ飛ばされているのでしょうな(ある種、恐怖がもたげます)。

この頃は労働に未知の喜びがある

 しかし、状況の変化というか心理面の変遷というのは面白いもので、コロナ禍でのこの1年近くの日常と自分にも襲った環境の変化によって、そうした心境とか性情にちょっとした変化が生まれているのだ。

 また、難しい言い草になってしまうが、ここのところは一時は途絶えていたお弁当運びの仕事がさながら元にもどって来て(今日も2件行ってきた)、さらに何度も言及しているように長距離の仕事も週の半分近くを占めるなんてこともあったりして、殊更に仕事が立て込んだ日常になっていたりする。確かに、疲れるのは疲れるのだが、どういう訳か以前よりは格段に充実した思いももたげていたりします。

 何故なんですかね。自分が立派になった訳でも何でもなくて、今のような特殊の状況がそうさせているのだ、思わせているのではないかと考える。

 つまりは、今のような時代状況の中で働けるという事は、何にしても誰に対しても感謝をしなければならない稀少なことではないのか、ということ。

 手の内を晒してしまうとまた、余計の憶測を呼びそうだが、この年末11月、12月だけでも普段の月の3倍程度の収入はあるのではないかナ。まぁ、基礎の数字が大したことがないので大きなことは言えないものの、恐らくあと3、4カ月程度はゆったりとした日常が送れそうであります。年が明ければ何処かに旅行が出来るくらい(もちろん、国内旅行の予定だが)の余裕は持てそうな気はしているので、九州にいる後輩のところに遊びに行こうとも考えている。

 要するに、働くことは収入を増やすことであり、その事がすべてではないにしても人間のある種の幸福に繋がることは否定の出来ない事実であるのでしょう。一方で、その気と能力があっても働けない人が出て来てしまっている状況なので、自分の恵まれた環境に今更ながらに落ち着きと感謝を隠せないでいるとの心境だ。

 その作業への責任感とかストレスとの意味で恐れも抱いていた名古屋行は、何とかあと3回ほどで終了をしそうである。親会社からの連絡に心底ホッとした気分もあるし、何とか年末までの仕事や作業が割り当てられそうな予定があって、本当に嬉しく思っております。この歳になって労働に感謝するなどといっても、今更で遅過ぎるかね。何時も言う、「遅れてきた青年」なってしまっております。

参ったなぁ〜

 一昨日ぐらいから列島は寒波が襲って来るということで、一気に寒さの中に入った。愈々「本格の冬」ぐらいの修辞なら未だ救いもあるが、これが仕事絡みとなるとそうも言ってはいられない。

 火曜日から例の名古屋行が今週も始まって、その1日目つまり一昨日は良かったものながら、きのうは大分様子が違った。「寒波が降りて来る」というので、北陸や東北、北海道ばかりでなく太平洋側の平場でも雪が積もる恐れがあるとの報道が、自分の仕事に一気に火を点けた。振り返るとそんなにも慌てることは無かったのかもしれませんが、生来の心配性なので本当に狼狽をしたのです。

 一昨日の仕事を終えたあと、親会社から「明日の名古屋は雪が降るかもしれません。万全の備えで臨んでください」とメールをいただき、これに痛く反応、本当に周章狼狽の体だった。自慢でも何でもなく、私は雪道での運転の経験は皆無。もちろん、雪解けのぬかるんだそれを転がしたくらいの拙い経験はあるものの、ちょっと積もった本格の経験なぞは全く想像も出来ない体たらくなのだ。

 商用車はスタッドレスも履いていないし、チェーンも持っていない。つまり、雪が積もればお手上げであります。それで、顔面蒼白となり、心配ばかりが募った。「本当に積もるくらいだったらどうしよう?」と……。お恥ずかしい話ながら、きのうは早朝に社長の家に電話をして、「もし降れば、私の能力では対処できないと思う。何とかなりませんか?」などともお伺いをたててしまった。社長の奥さん曰く「今更ながら、そう言われてもどうしようもない。一緒にやっているHちゃんは、自分の判断でスタッドレスを履いているわよ。プロなんだから自覚をしなさい」と、逆に怒られる始末でありました。

 結果としては全くどうということもない事態(晴れ間ものぞいた)だったのですが、本当に慌てたというのか、きのうはまるで戦場に赴くような気分だった。名古屋に着くまでは、ほぼ大丈夫と分かってはいても、ドキドキの心境もあったのです。

とうとう買ってしまった

 ここからが落ちのような本格のお話――。

 状況を観れば慌てることは全くない杞憂のようなものだったのだが、やはり本来の心配性があるので、「明日また本格の降雪があったらどうしよう。アイスバーンには対処も出来ないではないか」と悪いことばかり考える性情は頭をもたげる。それで、仕事を終えて帰る道すがらに、オートバックスで早速にスタッドレスタイヤを4本購入してしまった――。

 今の時期はタイヤの安売りセールを何処でもやっている風情がある。それで、いろいろ話を聞いても下手をするとホイールを一緒に付けても3万ぐらいで何とかなるのではないか、ぐらいに考えておりました。ところが、これがトンでもの話。従業員の人は純粋に仕様に適合する奴でないと車検も通らないと脅す。今は、お客さんの車に合うのはこれしかない、と何と出した値段が4万8000円ナリだった(純粋タイヤ4本、工賃も含む)。これには目を剥いたなぁ〜。「えぇっえー〜」というようなものだった。

 何とか、3000円だけはまけてもらったものの、私の性分ではどうしてもそうせざるを得なかった、雪道対処の結論。何と、そのプロの自覚としてのタイヤ購入は何とも高いものについてしまったのでアリマス。

 トホホと思うところもあるし、やはり安全を買うためには多額の出費が必要になるのが運転であったりこうした仕事であったりしますナ。何とか格好だけはついて、これからも6、7回はあるであらう名古屋行も安心の対処は出来そうな気だけはしてきた。

 きのうもつくづくに思ったことは、「私は本当に真面目人間なのではないのかネェ〜」ということでありましたです。

日常にささやかな愉しみを

 文字通りにブログ(日記)的な個人譚になってしまう。先週も土曜日は勤務だったと覚えているので、私の朝の散歩もまるまる1週間ぶりということになる。先ほど、長くはないが近所の神社を回って35分ほどの行程を歩いてきた。

 何のかんのと、やはり年末は仕事が立て込んでいる。きのうも久しぶりに試験問題運びの助手とかいうのを頼まれて、恐らく生涯で2度目ぐらいに2トン車の助手席に乗って正規のドライバーのIさんに気を遣ってきた。私は朝の職場はヘルプで入っているような体裁なので、N通運では各種の仕事に必要な資格(例えば、貴重品扱いなど)は取っていないため、この種の仕事を本チャンとして請け負うことは出来ない。その代わりに、繁忙期になるとこうした助手や、車だけ出すような格好で手伝わされることがママある訳だ。

 でも、きのうの仕事などは大変に美味しい仕事ですよ。荷物の数そのものは合計80個近くあったので(しかも重い)、作業自体は大変といえば大変なのだが、行程は20数分ぐらいの距離にある県立大学の教室に運び込むだけ。車2台で私のような助手がもう一人いたので、時間にすれば正味15分ぐらいの肉体労働であるだけでアル。それで、申告勤務時間は3時間ももらえるのだ(試験問題だけの特別の扱いと聴く)。大きな声では言えないものの、1時間程度しか働いていないのに、5000円近くのお金が恐らく貰えることになります。

 つまりは、それだけ大学などから高額の費用が親会社に払われているということだ。一度、その額を聞いたことがあるのだが、目を剥くような高額だった。頼む方も、「それだけのお金を払っているのだから、信用のある人間がテキパキとやってくれ」ということでせう。実際、多くの場合免許証で身分確認まですることが通例である。

 とそれは、きのうあった臨時の仕事の話。

やはり労働は出来るなら続けたい

 今一度現況を振り返っておくと、朝の仕事は以前のように休みが入ることがごく少なくなった(だからどうだと言っている訳ではない)。それから、今は火、水、木と平日の3日間は名古屋に出掛けることになっているので、朝の勤務の時は一緒にやっているドライバーさんに静岡のインターまで運んでもらい、それから引き継ぐ形。さらに、月曜と金曜には塾講師の仕事があるし、一時は途絶えていたお弁当運びの仕事も、この頃はそれなりに出てくるようになったのですな(名古屋が無い時に親会社が割り振ってくる)。だからもう、10月ぐらいまでに比べると格段に忙しくなっている格好(編集の仕事も僅かだが未だ続いております)。

 普段述べているように、この頃は仕事があることの有難みがあるため、断然にそれを厭っている訳ではないのですが、それでも結構疲れるのは疲れるところです。土曜日にも仕事が入ることが今回のように多いため、きょうのような日曜日の完オフが本当に嬉しいところだ。

 以前、私の親友Nがもう経済的にも困らないため、完全に悠々自適で好きな鉄道旅行、海外旅行などにいそしんで遊んでいたことがあった。しかし、暫くして「これはダメだ。自分がどんな生き方をしているのかが分からない」と真顔で告白し、ちょっとしてから福祉車両の運転手として再就職した。もちろん、週3日程度の仕事らしいが、それでも人間は遊んでばかりいると罪悪感に苛まれるところを、地でいった感じかしらね。

 それにかぶせるように言う訳でもないのですが、私も個人的に忙しい日常のあとに取れる休息を心底楽しんでおります。過度な負荷(ストレス)はこの歳になり願い下げだが、やはりある程度の負荷があることがささやかな楽しみ(愉しみ)を生むことを実感するこの頃でアリマスなぁ〜。

 きょうもこれから、もしかして1円パチンコに出かけてしまうし、最近は以前触れたような昔読んだ人気コミックを読み返すことも無上の愉しみになっております。さらに、隔週発行の『ビッグコミック オリジナル』でも、そのコラム欄が大変に面白くかつためになることを、最近今更ながらに“発見”したところだ。12月5日号の奴も大層に面白かったし、中にはどうでもイイような奴もあるが、こうした隠れた名物コラムが3篇も読める場所は貴重だと思っています。この欄の魅力に関しても、近々に触れてみたいと思っている今日。而してきょうは、「ハッピーサンデー」に……。

しむけん本当に日本中に衝撃が走った


一体に何を感じるか?

 自分の良く知る人が亡くなるというのは、それが病気であれ事故であれハタマタ自死によるそれであっても、大変に悲しく衝撃的であるのは、誰とも同じだらう。

 例えば、著名人の死というのはそのニュースを聞いたときに大きな衝撃が走るもの。今年はとりわけ、そんな一報が多かったような気もする。言うまでもなく、コロナ禍の中で本当の著名の方が急に目の前からいなくなった訳だし、それと直接関連するか私には分からないのだが、有名芸能人の自死も格別に多かった気がする。

 これもそのいろいろを挙げてあげつらうのが真情ではありません。ただ、志村けんさんの急死は本当に日本中にショックを与えたのではないでせうか。それまでの油断とか緩みといったものもこれで一気に吹き飛んだ。この新感染症に日本列島中が厳戒態勢に入った原因になったと言っても、過言ではないかもしれない。

 それに続く岡江久美子さんもそう。多くの人がそうかは分からないが、外交評論家の岡本行夫さんにしたところで私どものような政治に多少関わった人間からすると、大変なビッグネームである。その急死は大きなショックではありました。あとは、私は最近は多少とも疎いけれど著名芸能人の自殺報道ですかね。

 三浦春馬さん(30)に関して私は不明でよく存じ上げなかったのは恥じないといけないが、最初に聞き及んだ娘の驚きようは今でも良く覚えている。竹内結子さん(40)などは、この私でも良く知っている。嫁さんにすぐ、「あの綺麗な女優さんかな?」とすぐに確認をした。子どもさんさえ産んだばかりだったというのに……。あとは昭和世代の人間としては、それなりの衝撃だったのは俳優の藤木孝さん(80)ですかな。あのウエスタンカーニバルにも良く出ていらした、私らかするとロカビリー歌手である。何かそうさせるのか、軽々のことも言えず敬虔の気持ちになる思いだ。

 本当に多くの人が、そして有名であり社会にもどうしても存在をしておらないとならない方々の命が失われてしまった。こんな年も、そうそうはないような気がします。

その衝撃は何時まで続くのか

 ただ、そうした衝撃に水を差す訳でも何でもないのですが、私たちの弱さというのかそうしたショックも時間と共にいずれは薄れる。ましてや、病気やその年齢によって天に召された方に対しては、時間と一緒にすぐに忘却してしまうのも常ではないでせうかね。

 今年亡くなった人を少しだけ調べたところで、野村克也さん(84)や渡哲也さん(78)、監督違いながら大林宣彦監督(82)なんていうのは良く覚えているのだらうが、梓みちよさん(76)、C・W・ニコル氏(79)なんてなると、どこか思い出せない部分もあるかもしれない。

 なぜ急にそんなことを言うのかというと、個人的な体験だがつい先日職場近くのT字型の交差点で道路わきに花を手向けてたたずむ壮年の男性を見かけたからである。ここはもう1年以上前になるけれど、高校1年の女生徒が左折したトラックに巻き込まれて不慮の死を遂げたところ。地元では大きなニュースになった話だ。

 私も毎朝のように出かける職場のすぐそばであり、必ず通過する場所でもあるので絶えることのない献花に何時も胸の痛みを感じている。前述の方は恐らくはお父さんだと思うのだけれど、事故のあと半年ぐらいは毎日にように現場に訪れて花を換えているのを見かけたりしていた。そして、久しぶりではあったけれど、自家用車をそばに停めて所在もなさげに立ち尽くしている方を観るのは、本当に辛いものがあったのだ。

 つまり、まことに人間の心に大きな悲しみと忘れない哀悼をもたらすのは、ごく身近の人の死ではないかということ。自分にもちょうど5年前(本当にちょうどだ)の年末に小学校低学年来の大親友であったHを事故で失うという大打撃があった。それ以来の喪失感というのは、本当にハンパではないのですな。

 今でこそ意識しない時もあるように思いますが、一時までは彼との思い出を考えない日とて無かった気がする。何にしても辛いこと。これは肉親やごく親しい人を急に失った人でなければ、分からないのではないかという気がする。「人の死」などと大上段の言葉と意識を投げかけてしまったが、別に哲学的にどうだこうだと大それた思いを湧かせたものでもありません。

 今年あった多く良く知る人の衝撃的の死の中で、それが周囲の人間に如何に大きな悲しみをもたらすものであるか、再び考えてみただけだ。でも、それが大きいのですよね。何にしたところで、人間は自らの命に見切りをつけては、決してイケナイものだと思っている。 



もうここまで来たかの思い

 言うことに事欠くと季節の話題に逃げるのは、人の常かもしれない。私は他人としゃべることが商売だったので、以前にも触れたようにお天気の話などはよく枕にした。導入としては、どうにもやりやすいのですな。

 ただ、その事ばかりにかまけていると、話は全く進まないだらう。あくまで挨拶程度であり、その後の展開はそれこそその人の口舌の上手さにかかってきます。そんな事を考えると、二十四節気の話というのはこの頃は何処の局でもやっているし、ラジオを聴いていてもそれこそ枕になっている。お天気予報士の人としては、どうしてもそうなるのは分かるものの、どうも自分がそれをやっている伝になると能が無いと思うこの頃。

 かと言って、何を殊更に特異の話を持っているものでもありませんので、この頃のご当地について触れてみる。今日はもう「大雪」ということになるが、確かに寒さは募って来てはいるとはいえ、季題のように雪が盛んに降り始める頃との実感はないだらう。それこそ、どうしてもその言葉と実際の気候にはズレが出てきてしまう。一番に言いたかったのは、イメージ写真にあるような雪を被った雄大な富士山というのは、今年はついぞ見かけていないことでアリマス。やはり、雪が少ないのだ。そして、少し寒くなってもすぐに溶けてしまうのが常であった。

 今は、年末の仕事として週に半分弱は名古屋に出掛けているのだが、帰りの新東名で観る富士は何時も圧巻だった(昨年まで)。本当に荘厳という言葉がそのまま投げかけられるような、神々しい姿として映ってくる。それが未だないのですな。今年ももう、終わってしまうぞ。私の仕事もあと、3週間ちょっとでアル。

線路工夫の唄か嘆きか雪もよひ 石塚 友二

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