まあ、恥ずかしい話ながら

 それこそ超私的の話であり内容なので、発言を憚るというか厚顔に自分で呆れたりもするのだが、まあ言うことに事欠いての戯れと勘弁をしてもらいたい。きのうは、私の誕生日であったのです。もう晴れて公的に高齢者の仲間入りということになってしまった。だから幾つなのと言われても返答に困るのだが、昭和28年生まれなので数えてください。

 いつも喋っているような気がするのは、他の人とも違ってなぜ「誕生日がそんなに愛でたいか?」と斜に構えた思いは何時も持っているものの、全く意識をしないわけでもありません。きのうも、殊更にそうか今日だったかと思ったのは朝の仕事を終えて帰ってきて、実兄からのお祝いのメッセージが早朝に届いていたことと、やっているFB(Facebook)のお友達からの何通ものお祝いメールが並んでいたため。FBの方のことは後述をするとして、何より意識をさせられたのは兄貴が「もう二人とも両親の歳はとうに超えてしまっているので、親不孝ということはないだろう」と書いていたからだった。

 そうですな。確かに私たちは両親が亡くなった歳を遥かに超える年齢に至ってしまった。これも私的な事でしかないのですが、私の母親は40代、父親は50代で本当に早くに亡くなってしまっている。だからどうだとか、苦労をしたとかいった言うのでは全くなく、むしろどの程度その親に近づくほどの器量を持てているのかとか、「親孝行したい時には親はなし」を本当に実感として感じる思いを反芻したりしたことがその際の率直の心情だった。

 そして、もう一つ。「家族からお祝いはしてもらえるのかな?」とも書いてあった。ビクっとした訳でも何でもないが、確かにここのところは嫁さんや子どもともキチンとしたお祝いのセレモニーは画策はしていなかったような気がする。もちろん、きのうもプレゼントはもらったし食事の時によせばいいのに「一言言わせてくれ」と唐突に自分の感慨を披瀝して、先ほどの実兄からのお祝いの内容に触れたりした。子どもに少しだけ、親がいることの有り難味を知ってもらいたかったからだ。

本当の節目になるか、きれいに老いているのかどうか

 だからどうだと、特別の感慨がある訳でもありませんな。淡々と時間が過ぎ、歳をとっていくだけ。むしろ、老いることの怖さの方が先に立つ。“老人シンドローム”は着々と進行中であります。

 先述したFBのことにも少しだけ触れておこう。何度も書いているように、私はたまたま会員登録をしてしまっただけで、いつも積極的に見ている訳でもないし投稿もごくたまにである。それでも、友人連中が頻繁に更新をするので、興味があれば近況をのぞいてみたり長く会っていない人にはたまにメッセージを送る程度。逆に、これは「自己満足の極致、リア充を他人にひけらかしたいだけではないか?」との、またちょっと僻みっぽい感想をもったりもしますな。

 それでも、誕生日のお祝いのメッセージをもらうというのは決して嬉しくないことではアリマセン。これは正直に認めたいところ。きのうも、12通だか13通のメールが届いていた。私はたかだか4、50人のフレンドしかいない身なので割合としては多いのかもしれない。何処かで気にとめてくださる御仁がいることは、孤独な老人の慰みになったりするのはする訳だ(随分、きょうも自嘲的でありますナ)。

 また、戯れ言をあれこれと言ってしまい、申し訳ありません。繰り返しになるが、きのう一昨日と今日が特別に違う訳でもない。晴れて老人になったからと行政からの特典がある訳でも、恐らくはないでせう。でも、何処かでこれを節目として意識なり行動の変化を考えなければいけないのかもしれないと考えたりもする。

 ムダに生きてしまうのは、皆さんにも申し訳ないことだろう。そうそう、先ほどのメールの中には長く会っていないグアム島からの日系二世の女の子のものも含まれていた。本当に懐かしかったなぁ。「お互いに65になったの、信じられないね」と書いてあったけれど(本文は英語、念のため)、本当にそうだ。その信じられない未来にこれから入っていく訳だ。心せねば――。