みわよしこのなんでもブログ

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ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。

[雑感]「大学は対面講義をすべきであるかどうか」に注目すると見落とすもの


 仕事の合間の走り書きです。いずれnoteで記事としてまとめるかも。

 コロナ禍で、「大学の講義は、やはり対面でなくては」という議論が盛り上がっています。いわゆる「キャンパスライフ」だけではなく、学生が大学という場に行くことを前提としたあらゆる体験の機会が、2020年度の新入生からは失われてしまってるわけですよね。それは問題だと思います。

 しかし私は、現役の大学生でも、大学生の親の立場でもありません。
 大学院博士課程の院生ではありますけど、単位は修了に余りあるほど取得し、あと博論を残すのみ。大学院は京都にあり、最初からリアル通学の必要性が少なかったんですよね。図書館も年に数回しか行けないから、オンラインサービスを中心に利用。間に合わないときは国立国会図書館など、東京の地の利をフル活用。そんなわけで、私の院生生活は、コロナ禍でほとんど影響を受けませんでした。

 というわけで、「高い学費を払ったのに、オンライン講義だけでは意味がない」をはじめとする大学生や保護者の方々の痛みは、すみません。我が事としては分かりません。

 しかし、2020年に入って以来のコロナ禍と、各大学や教員、職員、学生、院生など多様な大学関係者の動きを見ていて、一つ思い至ったことがあるんです。

 大学って、完全にクローズしてて教職員も学生も院生も来ず、もちろん市民講座も行われないとしても、活動を停止してるわけじゃないんです。教職員はオンライン講義で大変な思いをしていますけど、それ以外にも、外部から見えやすかったり見えにくかったりする多様な営みがあります。

 一例をあげると、農学系の学部がある大学は、たいてい演習林を持ってます。農場もあったりします。まるまる半年間なり1年間、それらを使った実習や講義がなかったら、どうなるのでしょうか?
 もしも
「使われず、学生たちの学びや単位取得といった成果にも結びつかないから、維持コストは意味がない」
という判断のもと放置すると、演習林は演習もできない荒れ放題の林になり、農場の動物たちは死んでしまいます。コロナ禍以前の状態に戻そうとすると、おそらくカットした維持コストの10倍くらいの費用が必要になるでしょう。
 というわけで、実習も講義もできず、学生や院生が来ず、さらには全員が休学したり退学したりしてしまって学費収入がなくなってしまったとしても、維持せざるを得ないのです。

 このことが意味するのは、まず、そこで働いている教職員(場合によっては院生)の人件費が必要だということです。もちろん、建物や水や飼料などのランニングコストも必要です。目に見える形で「利用者」や恩恵を受けるはずの人がいないとしても。

 このようなことは、大学のあらゆる部署で起こります。たとえば大学図書館が、貸し出しも入館も停止しているとしても、図書館業務がなくなるわけではなく、したがって一定の人件費をはじめとする費用が必要。そしてそれは、「無駄だから削りなさい」と言えるものではありません。そこを削ったら、もう、生きていられなくなるギリギリのラインです。人間でいえば、寝ていて活動しなくても必要な「基礎代謝」のようなもの。

 学生・院生やその保護者にも、似たような部分があります。本人あるいは子どもが、在籍している大学に通えないとしても、大学生の身分はあります。フルタイムの学生であるということは、学生の身分と、その他の生活への何らかの制約を意味します。大学に通えていようがいなかろうが、オンライン講義で何とかなっていようが、学習ができない状況になっていようが、とりあえず生命体として人間として生きています。それがなければ、将来の大学通学再開あるいはその他の選択肢が意味を持ちません。

 「その組織」「組織の機能を果たす人」「その組織に(学費等を支払って)所属する人」のどのレベルにおいても、まずは生存が今後数年にわたって保障されていないと、現在も近未来も考えられません。今、コロナ禍下での最大の問題は、あらゆるレベルでの「生存」。

 問題は「オンラインか対面か」「払った学費をどうしてくれる」というところにはありません。もちろん、それらは非常に重要な課題ではあります(特に貧乏学生にとっての学費は……)。しかし、本質はそこではありません。

 何をどうすればいいのか。私にも答えは見えません。
 しかし、困難が数多く積み重なっているからこそ、筋のよい試行錯誤に近づきたいものだと思います。

[雑感]原家族トラウマはどのように癒えるのか(大学時代編)


 私がしつこくしつこく、原家族、特に両親との問題を書き続けている最大の理由は、回復したいから。というわけで、どのように私が回復してきたかをメモするシリーズ。

 生まれてから20歳までの原家族との同居で抱えたトラウマは、新たなトラウマの追加がなければ、おそらく「時間薬」だけでも20年くらいで癒えたのではないかと思う。実際には生きているだけで相当のトラウマ増し増しが行われることになる。また生きている間に、治療や回復に関する知見が進歩したり、一般ピープルまで届きやすくなったりもする。それも、一概に「良いことばかり」とはならない。
 何があれば、回復の見通しが立つのか。「◯年後の自分がどうなっている」と思えるのか。私は、その目安くらい欲しかった。誰かの役に立つだろうと思い、自分がどんなふうに回復してきたかを記す。

  • ふつうにトラウマ症状に襲われる(1984-1988)
 原家族との同居が終わったのは1984年3月、私の大学進学に伴ってのことだった。東京理科大の理学部第二部物理学科に進学。
 ところが、東京で1人暮らしをはじめて1週間も経たないうちに、フラッシュバックや過食をはじめとして、今なら「複雑性PTSD」の一言で片付く数々の症状が出揃った。しかし当時、PTSDという用語は日本の一般ピープルのところまで届いていなかった。そもそもは、米国でベトナム戦争後の戦争障害者を救済するために編み出された用語という一面も。1984年時点でいえば、現在のように幅広く使われてはいなかったはず。
 私は自分に起こっていることが何なのか、よくわからなかった。
 そして、1人暮らしを始めたのはいいけれど、毎日の母親からの電話に悩まされることになった。電話に出ないと、侵入的な父方叔母の一人(父親の末弟の妻)が母親とセットで「東京に様子を見に行かなくては」ということにしてしまう。その父方叔母は、自分の娘2人と私の妹(1972年生まれ)を連れて、宿泊費無料で東京に遊びに行きたいだけだったのだが、私が当時住んでいた木造アパートは、階下に高齢の家主夫妻が住んでおり、2階のアパート部分も静かな大人ばかりだった。静かな話し方や物腰といったものとは対象的な父方叔母と10代女子3人が来たら、いったいどうなるのか。6畳1間に私を含めて5人が雑魚寝するというのは、およそ非現実的な話だと思うのだが。
 私は、父方叔母の来訪計画に必死で抵抗した。父方叔母は「あそこまで嫌がるのは、何か悪いことをしているに違いない」と言い立て、さらにエスカレートした。結局、この父方叔母の攻勢は、1984年12月、出張で東京にやってきた父親が私の留守中にアパートを訪れ、家主に鍵を開けてもらって中に入って置き手紙をして帰るまで続いた。この父親の来訪のことを、母の兄の息子たち2名(双子で私より1歳下)は「立入検査」と呼び、親類が集まる際の話題にした。その時の屈辱感は、未だに身体に刻まれている。
 トラウマが癒えるヒマもなく上塗りされたわけで、もちろん学生生活にも学業にも、大学2年から始めた常勤アルバイトの仕事にも、相当の支障があった。にもかかわらず、表面的には要領よく単位を取得した。大学3年までに卒業に必要な単位+50単位くらいを取得。理科の教免に加えて数学も取ろうとしていた上、昼の仕事が結晶学だったため関連する化学科の科目まで履修していた。部活(物理研究)、学友会活動(大学祭実行委員として大学との交渉に当たるなど)、バンド活動、ピアノや歌のスキルを落とさないための自主訓練、登山、スキー、スケートなどにも励む。昼間の仕事を続けながら(それは職場の多大な理解と支持あってのことだけど)大学院修士課程に合格。理科大には嫌気がさしており、国立大学の院に進学したかったけど、理科大に引っかかって新設の研究室に拾われたおかげで、超絶的に恵まれた修士課程を送れる……はずだった。
 表面的に見れば「なんと充実した大学生活」ということになる。休む間もなく「何かする」ということで時間を埋めていないと、気がヘンになりそうだった。

  • 今から振り返る「こうだったらよかったのに」
 2020年現在のセオリーでいえば、ここまで激烈なPTSDの症状が出揃っている場合、大学で誰かが気づくなり話を聞くなりしただろう。1984年の東京理科大(神楽坂)には、それが可能な体制はあった。なかったのは、複雑性PTSDに関する知識と対応スキル。入学当時、学生相談室はまだなかったけれど、確か1988年か1989年に設置されている。理由としては、「理科大の高い自殺率が問題になったから」とまことしやかに囁かれていたけれど、教員養成校としての一面が強い理科大と、教員に強い影響力のある故・國分康孝先生が当時理科大にいたことが最大の背景と思われる。実は私、國分先生に個人的にずいぶん助けていただいた。「合法的家出」としての大学進学については理解があった國分先生だったけれど、虐待後遺症や複雑性PTSDについては概ね知らなかった(あくまでも1987年度まで、私が学生として接していた時期のこと。念のため)。
 原家族と物理的に距離を置いたのだから、医療その他の介入のもと、原家族とのコミュニケーションを制限することが可能なら、まずそれが第一の選択肢になるだろう。帰省時のファミリーカウンセリングといったことも、手段としてはアリかもしれない。原家族や原家族との関係がどうにもならないようなら、学生の安全を保ちながら生活と関係を分離すべく社会保障その他の制度を総動員することも(利用できる制度は2020年現在も皆無に近いけど)、考えられるかもしれない。ただこれは、良くも悪くも面倒見が悪く「放置プレイ」が学風の当時の東京理科大だと、考えにくい路線。
 いずれにしても、すべきことは単純な話。目に見える擦り傷切り傷に例えれば、患部を保護し、新たな刺激を避けて回復を待つ。感染症に罹っていたら、それも治療する。回復すれば、傷跡は残るかもしれないけど、保護する必要のない患部と身体に戻る。
 ところが私に出来たことは、物理的に1000km以上の距離を取ることだけだった。新たな刺激は多様な理由で続いた。回復するどころではなかった。PTSD症状は、年々悪化していった。


 父親にアルコール問題があったことも、別途書き記しておく必要があると思うが、それはそれで長い話になるのでやめておく。
   


 私が理科大二部に進学することになった直接のきっかけは、父親のアルコール問題、そして母親のイネイブリングに関係している。

  • 原家族との間で起こったこと(1984-1988)
これは箇条書き的に書くにとどめる。2020年現在、まだフラッシュバックするような出来事が多数。

1984年3月
私が東京に出ていくことが確定すると、もともと私に対して「そこに一人の人間がいる」という扱いをしていなかった弟が、私を透明人間か何かのように扱うようになる。私に懐いていた実家の初代猫(当時5歳)が私の横にいるとき、黙って部屋に入ってきて黙って猫を抱き上げて立ち去るなど。

1984年4月 
東京都新宿区、理科大(神楽坂)の近くで一人暮らし開始

1984年4月 
福岡の母親からの毎日の電話攻勢が、アパートの共用ピンク電話に対して行われる。出ないと他の住人に迷惑がかかる。出たら30分も1時間も解放してくれないので他の住人に迷惑がかかる。それを言っても「お母さんが電話してやりようとに(電話してやっているのに)」。

1984年5月 
幼少のころから半分育ての親のような母方叔母が、出張ついでに来訪。特に問題なし。母方叔母は、東京に本社がある企業の九州支店に高卒で就職。定年まで勤め上げ、最後は経理の責任者のような仕事をしていた。

1984年5月 
上述の父方叔母から「行って泊まって様子を見てあげる」という申し出が、母親に対して始まったらしい。母親(時に父親)から、受け入れない私のせいで自分たちが責められるかのように言われはじめる。

1984年7月
共用ピンク電話への母親からの電話の心労に耐えかね、7万円払って部屋に電話を引く。ちなみにアパートの共益費には、ピンク電話の利用料金が最初から上乗せされていた。私が自室に電話を引いても、その費用はそのまま支払うこととなり、電話にかかわる費用を二重に払っていたわけ。
周囲の住人に遠慮しなくてよくなったため、母親の電話の頻度と長さと内容はさらにエスカレートする。念のために書いておくと、「ナンバー・ディスプレイ」はまだなかった(2008~2010年ごろ、筑波大の当時の指導教員に本件で「電話に出るからいけない」と笑いものにされたので、わざわざ書いてる)。

母親が「東京は野菜が高いようだからいろいろ送ってやった」と電話してきた。当時は、配達時間指定がまだなかった。母親が何か送ってくると、土曜日や日曜日を一日潰して在宅していることになった。さらにクール便や宅配便の温度管理がまだなかった。
届いた段ボール箱の中には、ほうれん草など野菜や果物がたくさん。しかし、ほとんどが腐っていた。一日を潰した上、届いたものをすぐ捨てなくてはならないのである。泣きながら始末し、実家に電話をかけると、妹が出て
「あ、お姉ちゃん? お母さんが送った荷物届いた? お母さんが、『腐って大変やろうねえ、ふふふ』って言いよんしゃったよ」
と言った。
以後、母親からの「荷物を送る」という申し出は固辞に固辞を重ね、どうしても送ると言うときには生鮮食料品だけは入れないように念に念を押した。
ちなみに1990年を過ぎ、私が就職したころ、母親から「野菜を送った」という電話があった。私は「やめてほしい」と言った。母親はなぜか素直に応じ、実家近くの取り扱い店に連絡し、送り返してもらったそうだ。送った翌々日だったが、何も悪くなっておらず、入れたナスは熟成されて美味しくなっていたそうだった。このことは母親と妹の2人からその後何回か繰り返された。なぜそんなに繰り返すのか理解できなかったが、その後のある時に納得することになった。母親と妹にとって、1990年過ぎ、宅配便の所要日数が減り、通常便でも一定の温度管理がされるようになった時、腐らないように私に野菜を送ることは、1984年の意図的腐敗便を打ち消す効果があったようだ。しかも私は送らせず受け取らなかったわけなので、「理由なく親の好意を拒んだ、ひどい長女」というエビデンスまで作れたわけである。

1984年8月 
帰省。父方叔母から「東京に行って泊まりたい」としつこい依頼を受けるが、「静かな住宅街の中の静かな住人ばかりのアパートだから、迷惑がかかるので」とお断りする。
この時に衝撃的なことを知るが、それについては書かないことにする。弟に関連している。
学生・院生時代の帰省は、この後、1986年正月、1986年8月、1987年正月、1989年8月(これが最後)。
いずれの時も、実家の初代猫は私を覚えていて、私に甘え、抱かれたり、一緒に寝たがった。ところが最後の帰省のとき、猫が私の背中の上で寝ていたところ、部屋のドアを黙って開けて9歳下の妹(当時高校生)が入ってきて、背中の上で寝ている猫を黙って抱き上げて連れて行ってしまった。この時の悲しさから、猫の存命中は実家には一度も泊まらなかった。私が猫を離さなかったり、猫が私から離れなかったりすると、私が口を極めて罵倒されることになる。

1984年9月
父方叔母の「子どもたちと東京に行ってヨシコちゃんのところに泊まる」という意向が、さらに強まる。勉学どころではない中、大学で最初の定期試験。
共通一次にも出願。理科大の環境に馴染めないものを感じたため。

1984年12月
出張で東京にやってきた父親が、私の留守中に大家に依頼してアパートの自室に入って様子を見て、置き手紙をして帰る。出張の予定を知らされていたので、私は黙って不在にし、福岡に帰って予備校時代の旧友や恩師と会っていたのだが、東京に戻ってみると……。

1985年1月
年末年始に帰省。この時、1歳下の従弟たち(双子、母親の兄の子たち)によって、父親による私の「立入検査」が話題にされる。
私の受験した英検などについて、母親の弟の妻(母親は非常に嫌っていた)が熟知しており、質問責めにされる。1986年1月には、同じ叔母から常勤アルバイトの仕事について質問責めにされた。その叔母の家には、私より数歳下の従妹2名がおり、将来の参考にしたいというのなら分からなくもない。しかし、叔母はそのために尋ねている感じではなかった。いずれにしても、答え方や用語に対して、あとで母親から責められる(理由はよくわからない)ことになるため、私は盆暮れの帰省を避けるようになっていく。具体的には、親類が集まるタイミングを避けて最小限の義理を果たす方向。新幹線の1日乗り放題切符を使い、1月1日夜に帰省、1月2日に東京に戻るなど。

1985年1月
初めての学年末試験。
共通一次も受験。880点だったか。東工大に出願しようとした。ところが出身高校の教諭が、理由になっていないことを言って妨害。母親の知るところとなる。母親からも強い妨害。

1985年2月
東工大には結局は出願できたものの、母親から毎日の電話。「期待を裏切ったら許さない」「失敗は許されない」など。落ちても理科大の学籍はあるのだが、母親の目的は再受験を失敗させることにあったと思われる。
福岡の大学に進学していた予備校時代の友人(女性)がおり、将来へ備えたスキル習得のため、長期の休みに東京の大学に進学した予備校の友人たちの住まいを渡り歩いていた。彼女が私の住まいに泊まっていた日、私の不在中に母親から電話。うっかり電話をとってしまった彼女は、「アンタ誰? どこの大学?」などと母親に詰問されて泣き出した。泣いているところに私が帰宅。

1985年3月
母親の「励まし」の電話で精神状態が極めて悪くなる。
東工大の受験日は、受験会場まで行けず棄権。
理科大の単位は全部合格。進級できることに(ストレート進級は学年の1/3)。
この年、弟が高校を卒業して福岡の大学に進学したはず。

1986年
アパートの横に別のアパートが建って生活環境が悪化したため、徒歩5分ほどの別のアパートに転居。
母親からの電話攻撃は相変わらず。
3月、妹が中学受験に合格したご褒美に東京に滞在。私のアパートに泊まる。東京ディズニーランドに行きたがったので、随行した。また、池袋など妹が買い物に行く場所にも随行した。妹がしたいことに、安全のため付き添ってただけ。

1987年
2月、弟が日大芸術学部を再受験するといって、私のアパートに泊まる。この時のアパートの大家は、プライバシーへの詮索や介入の度が過ぎる高齢女性で、弟の滞在に関する理解を求めるのは大変だった。母親は「たった一人の弟を世話してやらんと」といい、弟が不合格だったら私のせいにするかのようなことも言う。しかし実質、親の意向通りに福岡の大学に通い続けるために認めてやった記念受験のようなものだったらしい。弟は中学1年レベルの英語や社会の復習をしていた。日大芸術学部は不合格。弟は、食事については「作ってほしい」「不要」などと言うことはなく黙っており、ただコンビニで買ってきたものばかり食べていた。私が作った食事は弟の分が無駄になるだけだった。その他、私が弟に「しないでほしい」といったことが、弟が福岡に帰った後、ほとんどすべてやられていたことに気づく。実家に電話すると母親が出て「(弟が)……をしたから、お姉ちゃん怒っとろうやと言っとったけど、アンタ怒ったらいかんよ」と言っていた。
弟は、この時の受験というか東京旅行で、「ルームサービスのあるホテルに泊まる」ということが希望だったらしい。私はそんなホテルは知らず、弟が自分で探した池袋のビジホに泊まったらルームサービスはなかったらしい。その不満も私のせいということにされた(母親談)。

7月、先輩たちにくっついて国家公務員試験(II種)を受験。自分だけ合格。

母親が希望したのか、父親と母親が希望したのか不明だが、父親が東京に転勤する話が持ち上がる。それ自体はありうる話なのだが、母親によれば私は父親と同居して、父親の「お世話」をし、「アンタのしたいことやら、何もできんとよ、ふふふふふ」ということだった。父親によれば「一家の住居が3つというわけにはいかない」ということだった。私は仕事を捨て、大学も退学して行方をくらますことを検討せざるを得なかったが、父親の転勤話が頓挫。

1988年
大家が同居しておらず、プライバシーが守れる(しかし安全面では若干の懸念のある)アパートに転居。1990年に西荻窪に転居するまで3年間住んだ。

この年は大学院受験だったが、保険につぐ保険をかける気持ちで、7月に国家公務員試験(II種)を受験。合格。
大学院受験は、当時の大学の研究室の指導教員の妨害にあった。東工大は出願できず。次に電通大に出願したが、同じ研究室の大学4年生男子から、試験数日前から色恋沙汰のお誘いが。どうも試験を狙って、指導教員がなんとなく承知のもとか、それとも指導教員の歓心を得るべく本人が策略をねったのか。そして試験前日に「受験やめちまえ」と1時間以上罵倒される。翌日、試験に行ったものの、全く出来ず。試験内容も覚えていない。不合格。
理科大の大学院への出願は、なぜか妨害されなかった。出願しても合格を妨害できるだろうという指導教員の心づもりがあったのかもしれないが、ペーパーテストで合格圏。面接では、新任の指導教員が採りたい意向を示し、合格。
理科大の院試のペーパーテストのとき、同級女子が保護猫3匹を試験会場につれてくるという笑い話あり。その1匹が我が家の初代猫となる。
母親は、もちろん大学院進学には反対。毎日電話をかけてきては「お父さんが……に就職したらどうかと言っている」。父親が勧めているという私の就職先は日替わりだった。事実ではなかったのかもしれない。大学院の合格を知らせると「はあ、まだ学生が続くとね」と嘆息。母親はその後、近隣の人々や親類たちに「おめでとうと言って泣いた」と言っていたそうだが、私の知る限り、そんな事実はない。
指導教員の反対にもかかわらず大学院を受験して合格、しかも同じ研究室から受験した学生は他1名を除いて全員不合格。私がどういうお仕置きを受けるか。想像するまでもない話で。それはもう凄まじいことが。

話はやや前後するが、国家公務員試験に合格した時、留守電電話を買った。SONYのミニカセット式の留守番電話。昼間は働いていた私が、採ってもらえそうな官公庁からの連絡を受けるため。4万円もしたけれど、「これで母親からの電話に出ないことが可能になる」という目論見もあった。でも、甘かった。
母親によれば、「留守番電話の応答の音声が感じが悪い」ということであった。何回も応答の音声を変えてみたが、母親は「感じが悪い」「こんな電話では親がおかしいと思われる」と繰り返すのみ。なぜ、私のアパートにある電話で両親が「おかしい」と思われるのか理解不能だった。しかし私には、「昼間、不在のときに連絡を受ける必要がある」という現実のニーズがあった。大学院に合格するまでは。その後は母親の「感じが悪い」攻勢に屈し、せっかくの留守番電話を使えなくなった。
結果として、この4万円は無駄な投資にはならなかった。修士の院生のとき、大学4年のときの所属研究室を引きずった嫌がらせに対抗するのに役立った。しかしその時期、留守番電話を機能させておくと、母親の「感じが悪い」に責められることになった。さらに母親は、その嫌がらせを支持したのであるが、それは1988年度以後のこと。

1988年3月
東京理科大二部物理学科を卒業。

  • PTSD治療に関して
 しつこいようだが、1984年から1988年の時期、まだ「PTSD」という用語は日本の一般ピープルや学生のところまで届いていなかった。精神科開業医のほとんどのところにも。自分にも「病院に行くなら精神科なのだろう」という自覚はあったけど、いくつかの理由で、大学在学中は1度も受診していない。

1. 辛うじて、学内で精神面の支援が得られていた

 教育心理学を教わった國分康孝先生に助けていただいていたことは前述したとおり。教育心理学の講義が21時過ぎに終わって、國分先生がさいたま市のご自宅へと帰途につくまでの3分5分の立ち話だけど。「困りごとと背景を要領よく聞き取り、一人で限られた時間で出来るワークを出し、翌週、その結果を見て次のワークを」ということの繰り返し。症状は軽減しなかったが、どれだけ助けられたか。回復に至らなかったのは、國分先生が「PTSD」を知らなかった以上、しょうがない。

 学校教育の現場にカウンセリング・マインドを導入するというのが國分先生の思いだったのだけど、カウンセリングマターとそれ以外の切り分けについては、繰り返し教えられた記憶がある。たとえば、精神疾患をカウンセリングで治すのは無理ゲーだし、悪化させる可能性もあるし。でもカウンセラーには「それは精神疾患だ」と診断したりできないし。その場面で、学校教員はどうすればいいか。その具体的な方法論もあり。「親を呼び出して精神科につれていくように言う」といったメチャクチャはなかった。
 私自身も、國分先生に対して「カウンセリングマターの範囲で」という配慮をして話していたところもある。本当に深刻なところは口から言葉に出せなかったから、結果としてそうなったというところも。なんとか少しでもラクになりたかったから、「目の前の凄い人から確実に得られそうな助けで確実にラクになれる部分が一部でもあるのなら、まずはそれ」と割り切ったというところも。
 ただ、「これはカウンセリングマターではない」と判断されたとして、それではどこに行けばよかったのか。当時の日本には、どこにもなかった。下手に当時の精神医療につながらなかったことは、もしかすると不幸中の超幸運かもしれない。

 神楽坂キャンパスの保健室の看護師さんにも、ひとかたならずお世話になった。
 私はほとんど通年、母親から強烈な電話を受けては数日後に体調を崩し、胃痛や頭痛や震えで講義室に居られなくなり(実験室は大丈夫だった)、保健室を訪れては簡単な投薬を受けていた。試験時期は、ほとんど毎日のように微量の鎮静剤をもらっていた。
 私自身、「背景と原因は原家族」という認識を明確に持っていたわけではないし、そういう路線で聞き取りをされたわけではないし、話したわけでもない。しかし、4年間ずっとそうだったので、一定の理解と支持はされていた感じがあった。たぶん「理科大生(特に二部生)あるある」だったんだろうと思う。似たような女子学生は、他にも少なからずいた。いつの間にか退学して大学から消えたりせず、この世からも消えず、卒業してその後があることを今も確認できるのは、私以外に2人くらい。

2. 健康保険が父親のものだった

 大学3年の時まで、私の健康保険証は父親の保険組合の遠隔被保険者証だった。精神科や心療内科に行くと、親バレするということである。このため、身体の病気で深刻になりそうな気配があったら、病院に行けなかった。「それを口実に福岡に連れ戻されたら」と思うと、病院に行けない。ましてや精神科は。
 大学4年になるのと概ね同時に、常勤アルバイトから嘱託になり、自分の健康保険証を持てることになった。この時「やった、精神科に行っても親バレしない」と思った。しかし、なにしろ精神科というところに行ったことがない。中の想像がつかない。今だったら、駅前に複数の精神科・心療内科クリニックがあって選択に困るくらいだが、1980年代は街中にそもそもなかった。どうすれば、より傷つけられることだけはないところを探し当てられるのか。それもわからない状態。

 というわけで、自分に何が起こっているのか皆目わからず、治療や回復の当てもないまま、トラウマにさらなるトラウマが重なり、状況も症状も悪化する中で、私の大学生生活が終わった。

  • 1989年を目の前に

 日本の一般ピープルのもとに「PTSD」がもたらされる先駆けとなる出来事は、私が修士課程1年だった1989年に起こる。もちろん、それで万事解決するわけはない。

[雑感]育児や教育のリテラシーは、子どものために使われるとは限らない


 親を対象として書かれた育児書や教育書は、通常は親が読んで親自身の言動や考え方を変えるために使うものだと思う。ところが私の両親(特に母親)は、私に対してはそうではなかった。

 最初は、小学館の『小学◯年生』だったと思う。私は、1学年上のものを買い与えられていた。母親は、学習ページを全部終わらせないと、他のページは読めないし付録も触れないというルールを作っていた(弟妹はそんなことはされていない)。そんなに困難な課題というわけではなかったから、こなしていた。マンガや女児向けのアニメなど、クラスメートとの共通の話題になるようなものから遠ざけられていた私にとっては、クラスのみんなが面白がっているものに接するための概ね唯一の機会だった。1学年ずれてたけど。
 なお小学4年を最後に、学年なりの『小学◯年生』に変えてもらった。年度末は、2学年上の学習ページに取り組むことになる。小4の私にとって、さすがに小6算数はキツかった。
 
 母親は、『小学◯年生』の保護者向けのページも、私に読むように求めていた。そして、そのとおりにせよと。確か、私が小学2年くらいの時から。当時の私は既に、大人向けの書籍や雑誌や新聞が読めた。文章として「読める」という意味では、そう現実離れした要求ではなかった。そこにはしばしば、きょうだい差別やきょうだいを比較することの弊害に関する記述があった。世の中には、読んでハッとして自省する親がいるのかもしれない。「ウチではそんなことしてないけど、それで正解なんだ」とホッとする親がいるのかもしれない。でも、どこにいるのだろうか? 少なくとも、私に対する両親にそんなことは全く期待できない。どこにそんな世界があるのか。きっと、実在することはするのだろう。でも、どこに? その世界の住人であるということは、どんな生き心地なのだろうか。想像がつかなかった。今も想像できない。

 当時流行した育児書の多くは、同じような成り行きで、両親のどちらかから読むように求められて読んだ。たとえば、浜尾実『女の子の躾け方』とか。当時、この本のせいで白いパンティがトラウマになった女性、相当数いたんじゃないかな。


 ところが、母親が徹夜でむさぼり読んだにもかかわらず、私には見せなかった教育書がある。井上隆基『100を求めて0 にしないで : よい習慣をつくる勉強のしかたとは』という本(CiNiiページ)。CiNiiの書誌情報では1983年刊行とあるけれど、所蔵している大学図書館の目録には発行年が異なるものもある。もともとは、付録のような扱いで無料配布されていたパンフレットだったようである。母親がこの本を読んでいたのは、私が中学2年の時、1977年だった。

 文字と言葉が早く勉強の要領が良い方だった私は、中学受験して入った私立中高一貫校で、あまり勉強に苦労しなかった。中学に入って間もないころ、数学の時間にぼーっとしていて落ちこぼれたけど、すぐV字回復。中学3年以後は、熱心だけど細かすぎる英語教師の教え方に自分を合わせられず、気がつくと英語で落ちこぼれて高校卒業まで至った。とはいえ、英語は学年相当レベル程度には読めるし聞けるし話せるし、文法を気にしなければ書けるし。校外模試なら、それなりの成績取れるし(偏差値70を「100点満点の70点」と意図的に誤解した母親から、100点ではないことを責められたりはするけど。母親が「意図的に誤解した」としているのは、そこに素点も書いてあったから)。問題は、学校の英語のテストの成績が悪いことだけだった。英語以外の科目では、特に学習に苦労した記憶はない。勉強は嫌いじゃなかったし。

 中学2年の1学期の期末試験のとき、特段の準備はしていなかったのに、学年で2番になった。
 次に母親がしたことは、『ポピー』という自宅学習用教材の購読だった。私に意向を尋ねることもなにもなく。ある日、学校から帰ってくると、その教材が1ヶ月分、机の上にドカンと積んであった。そして母親が、目を血走らせていた。

 母親は、「アンタのために買ってやったんだから、今すぐ全部やりなさい」という。1ヶ月分を今日中にやれと。いくらなんでも無理だ。母親の方針に表立って逆らったことはほとんどなかった私だが、このときの『ポピー』に関しては、「言うことを聞いたら後が恐ろしい」と直感した。私が取り組まなかったら、そのことの罰を受けるだろう。しかし、もしも私がこなしてしまったら、さらなる無理ゲーが重ねられ、最終的に潰されるだろう。どっちがマシか。
 結局、私は教材をほとんど開かず手も触れなかった。その教材をめぐる一触即発状態は3ヶ月ぐらい続いたが、母親はだんだんトーンを下げていった。ついには、諦めて購読をやめた。
 決め手になったのは、母親の兄の妻がいるところで、私がその教材について口にしたことであった。母親は、自分自身の兄夫妻が子どもたちの知育や学業成績アップに熱心であることに、激しい対抗心を燃やしていた。実体はともあれ、母親はご近所さんや親類から「教育ママ」と見られることを非常に嫌がっていた。私の前に母親以外の大人がいなくなったとき、私は覚悟をきめた。母親の想定外のことを親類に語った罪の罰として、いつものようにぶっ叩かれるのだろうか。しかし、その時は何も起こらなかった。
 それにしても、私の嫌がること、私に無理を強いることを、母親が自発的に止めるなんて。私のこれまでの56年の人生の経験の中で、片手で数えられるほど珍しい成り行きだ。もっとも、母親が「ためを思って」「教育」といった名目で私に無理無茶を強いて、弟妹ともども私を笑い者にするようなことは、別の名目で続いた。

 『ポピー』とともに、『100を求めて0にしないで』という本が実家にやってきた。保護者向けにセットになっていたのだと記憶している。母親はその晩、ほぼ徹夜で食い入るように読んでいた。そして、この本は私に見せなかった。書棚に並べず、裁縫道具の中かどこか、簡単に私にアクセスされないようなところにしまい込んであった。

 私は今年になって、「!」と思い当たった。タイトルから見て、その本には、子どもの学習意欲を維持して喚起するにあたって有効な考え方や方法が書いてあったのだろう。

 「100を求めて0にしないで」というタイトルは、「100を求めるならば、0になる可能性がある」と同じ意味であるが、「0にするには、100を求めればいい」と同じ意味にはならない。しかし、子どものモチベーションを阻害する可能性がある親の言動の数々は、子どものモチベーションをなくしたい親にとっての有効なヒントになりうる。

 この本は、2020年現在、中古市場で入手できるようである。買ってまで読みたいとは思えないけれど、国立国会図書館など所蔵している図書館に行く機会に、ついでに見てみようと思う。

 この本が実家にやってきた後、中学2年の夏休みから後は、学習や勉強を口実にして打ちのめされることの連続になった。成績が良ければ、母親が自分の勉強法や自分の勧める教材を押し付けて、私の学びを妨害する。成績が悪くなれば私のせいである。母親の「ためを思って」名目の妨害から逃げ切った結果として成績が良好だったら、母親は何か私の性格上の欠点や見た目や表情の問題を口実にして「勉強ができても何もならん」と言ったりする。有効な隙がないと、「アンタなんか努力しても何もならん」という予言を繰り返す。現在形で書いているのは、形態を変えつつも現在進行中、少なくとも終わってはいないからだ(念のため。私は自分が酷い目に遭ったり遭う可能性があったりすることを終わらせたいのであり、母親自身の生命健康に何かが起こってほしいというわけではない。わざわざこう書いているのは、「親を痛めつけようとしている」「親を亡き者にしようとしている」とか言われないために。10代まで実際に何回も何回も言われたけど、そんな欲求は持ってなかった。4つ下の弟は、年齢1桁のころは母親にかなり激しい暴力で向かっていたけれど、それは私の暴力にすり替えられた。私、やってません!)。

 そして私は、「乱数表を使って学業成績をランダムに乱高下させる」という対応で日々をしのぎながら自分と自分の人生を守ろうとしたり、ソロバンと計算尺でマルコフ連鎖モデルを計算してその日の母親のブチ切れ確率を出す「母親シミュレータ」を作ったりする高校生になっていく。母親が私の勉強ぶりから学業成績の成り行きを予測したり、自分の言動が与えるインパクトを学習されてしまうと、そこが母親の願望や口実の入り込む隙に使われてしまうからだ。もっとも、私の学業成績が母親の便利な道具にならなくなったら、母親は「美容院に行ったら、たまたま来てた占い師」といった、実在するのかどうか不明の何かを動員するようになった。また、私がいないときに弟妹が私について語ったことも利用され、捏造ではなく事実だった可能性が高い。弟妹には利得だけあって損失はなかったから、その行動は強化されていった。どっちみち、私に対する仕打ちの総量は変えられないのかもしれない。

 その時期、1975年から1980年ごろは、一般市民向けの心理学書がちょっとしたブームになりつつあった時期でもある。父親は企業に勤務する労務屋だった。通常の会社員以上に心理テクニックの駆使が期待される職種だ。世の中でブームになるのよりも少し早く、心理学書が実家の本棚に並んでいた。中高生の私は、「なんだろう?」と思って、手にとって読んでみた。エロ本でもなければ、爆弾の作り方の本でもない。読んで悪い理由があるだろうか?


 数週間遅れで、母親は、私が父親の心理学書を読んでいることに気付いた。そして「他人の心の中を知るやら、好かーん(他人の心の中を知るなんて嫌いだ)」と繰り返した。そういう母親自身は、近所のお宅のありもしない嫁姑戦争やきょうだい差別を作り上げては、背景をとくとくと私に解説し、私が耳を塞ごうとすると「お母さんがせっかく話してやりようとに、聞きぃ!(お母さんがせっかく話してやっているのに。聞け)」というのだった。

 中高生の私は、「母親がそう言っている」という事実に対して、反抗したいとは思わなかった。母親に変わってほしいとも思わなかった。ただ、トラブルや軋轢の種を減らしたいだけだった。母親が「好かん」というのなら、家で読まなければいい。それだけの話。手段はあった。

 母親がとくとくと語る近隣のお宅の(おそらく70%くらいは非実在の)嫁姑戦争等に対しては、肯定しなければ自分が酷い目に遭わされる。しかし肯定すれば、「私がそう言っていた」という話として当該の近隣に吹き込まれる。小学生のころから、そんなことが繰り返され、私はつくづく懲りていた。表情を変えずに、軽く頷いているのか頷いていないのか分からないような顔の動かし方をしていた。母親は、思い通りの反応が得られないためキレる。肉体的な暴力に及ぶことも多々ある。しかし、それだけで済む。ともあれ、私が心理学書を読むことを母親が嫌がったのは、「母親が、自分自身の心の中を知られたくなかった」という理由だったと結論づけてよいだろう。

 さて。『100を求めて0にしないで』には、何が書いてあるのだろうか。そこにあるノウハウそのものや、その裏、その逆を、母親が誰にどのように使用したのだろうか。

 読めば、きっと分かるだろう。

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「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
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