みわよしこのなんでもブログ : ジェンダー

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


ジェンダー

[しんどい記憶]2002年ごろ渋谷で、夫のいるパート女性(娘あり)と

2002年ごろだったと思う。
ピアノ愛好家のサークルを立ち上げた女性の知人がいた。当時、30代前半くらいだったと思う。
彼女は、幼少期からの憧れだったピアノを入手して習い始めたところだった。


彼女は、大学を卒業して就職したものの(確か保険会社の総合職)、男尊女卑に痛めつけられる毎日を送っていたとのこと。
嫌気がさしていた彼女は、社内結婚とともに退職。
まもなく妊娠し、女の子が生まれた。女の子は、私が彼女とともに会ったときは4歳か5歳くらいだった。今はそろそろ成人に迫る年頃かもしれない。
女の子がまだ0歳か1歳のころ、夫君が、うつ病のため休職。
うつ状態の夫君が家にいること、収入が減ったことに耐えられなくなった彼女は、ヤ◯ルトの販売員として働きはじめたそうだ。
「すぐに子どもを預けて働けるところは、そこしかなかった」
とのことだった。
このとき、茨城県の実家の父親に経済援助を相談したところ、お金の代償に性行為の相手をすることを求められた由であった。こういう父親を持っているという娘は、現在の45歳以上だと結構な頻度でいる。私の世代の父親たちだと、特に珍しい話でもない。
 

私は2002年、渋谷のギャラリーで開催された「おっぱいプリン」展を、彼女と一緒に見に行った。
「おっぱいプリン」展は、実に面白いインスタレーションだった。
ミシェルさんという女子美出身のアーティストが、女性20人近くの乳房を型取り、プリンを作って展示していた。
それぞれのプリンには、風俗嬢紹介のような女性たちの写真とキャプションが一緒に展示されていた。
「コンプレックスの露出 性の安売り!」
というサブタイトルについて、ミシェルさんに尋ねたところ、
「コンプレックスが現れやすいところですよね、女性の乳房って。でも、コンプレックスって、個性じゃないですか」
というお言葉。ナットク。

その余韻を感じながら、彼女とカフェに入った。
開口一番、彼女はウズウズという感じで、

「あのね、子どもがいるって素晴らしいことで、育児は楽しいのよ」
と、目をキラキラさせて語り始めた。

当時39歳の私は、独身で子どもはいなかった。
子どもが嫌いとか持ちたくなかったとかではなく、むしろ欲しかった。
ただ、「どうしても」というほど自分の子どもが欲しいわけではなかった。
「子どもが欲しい」という淡い欲求は、自分が仕事を手放さず生きていくことに比べれば、優先順位はかなり低いものであった。
気がついたら、子どもを持つ機会を失いつつあった。
 

子どもを持つことや育児は、大きな負荷を伴いつつも、かけがえのない経験であるだろうと思う。
そう思っている私が、なぜ子どもや育児の素晴らしさを布教されなくてはならないのかと、内心、怒りを覚えた。 
しかし私は怒りを表さず、彼女に対して「どのように子どもを断念するに至ったのか」を話した。
さらに、「盆正月などに一時的里親になることも考えたけど独身じゃ無理だった」とも話した。


彼女はかなりの動揺と当惑を表情に浮かべ、話題を変えた。
子どもと育児の素晴らしさを教えてあげる彼女の心づもりを私がぶち壊したのは事実だっただろう。


彼女はエッセイストになりたがっていた。
文章を書くのが「ちょっと好き」という女性には、ありがちなことだ。
彼女は、私と共著で本を出したいという話をしてきた。
「出したきゃ単著で出せばいいでしょ?」と言いたかった。
彼女の書きたい内容は、子育て、きもの、料理、なんだか女性ジェンダーを前面に出すような素材ばかりだった。
それをさらに、
男性社会で挫折した女性の屈折した女性ジェンダーで「今は今で幸せ」と味付けするようなものであった。
それは私の、最も書きたくないものであった。
私は子ども嫌いじゃないし、和服も好きだったし、料理も好きだが、それをジェンダーと絡めて前面に出すのは、最もしたくないことだった。今もしたくないけど。
本の具体的内容について詰めるところまで行かないまま、話は立ち消えになった。
彼女がなぜ、そんな本を「私と」出したいと思ったのかは、わからない。
自分および自分の書きたいことの、格好の引き立て役と見込まれたあたりではないかと思う。
 

しかし最もムカついたのは、上記のどちらの件でもない。
渋谷でお茶した数カ月後、彼女は、私の作った曲のタイトルが気に入らないといって
「変えようよ(^^)」
とWeb掲示板に書いてきた。
それは他人に気楽に言ってよいことなのか? しかも顔文字つきで?
私は
「この世に彼女がいることが許しがたい」
というほどの怒りを覚えた。
タイトルも含めて私の作品だ。
なぜそこに、他人が口を挟む理由がある?
気に入らないなら、自分で曲を作れ。自分の作った曲に、自分のつけたいタイトルをつけろ。 
それが出来ないなら、他人にとやかく言うな。
その作品を売る立場にある人が、商売の都合として言うなら、まだわかる。
でも彼女は、ただの知り合いとして曲名を知っただけだ。
そこに、顔文字をつけて、お気楽に「変えようよ」とは!?


私は当たり障りなく答えながら、
「なぜ私は、ここで怒りを爆発させることができないんだ」
と情けなくなり、パソコンの前で泣いた。

さらに数ヶ月後、ピアノサークルは内紛から空中分解し、彼女との縁も切れた。
その後、彼女から私には連絡が一度もない。
今どうしているか、全く知らない。 

もしかすると。
彼女は、父親や夫から自分を守るために精一杯だったのかもしれない。
ただの娘、ただの嫁、ただの妻、ただの母、パート主婦としか見られない自分を、 必死で奮い立たせようとしていたのかもしれない。
国立大学から、就職氷河期に総合職として就職できた彼女は、それなりに優秀だったのだろうと思う。
しかしいったん「家に入る」を選んでしまったら、 そこまでの彼女に目を向けてくれる人は誰もいない。
保育園(娘さんは当時は公立保育園に通っていた)とのママ友とのお付き合いやパート勤務をつつがなく続けようと思ったら、出身大学も前職も言えない場面の方が多いだろう。
鬱屈した彼女の、低められてしまった自意識を、私は一人でぶつけられる巡りあわせになっていたのかもしれない。
私だって、そんなに羨ましがられるような経験や立ち位置にいたわけではないのだが、もしも彼女に「ちょっとだけ想像してみる」が可能だったら、彼女は最初から、そんな言動は取っていなかっただろう。

はっきりしているのは。
そういう人とお付き合いするのは、私には無理だったということだ。 
もちろん、今も無理。 

ブラ美(仮名)さんの「東大卒は使えない」説

過日絶交したブラ美(仮名)さんは、過去の職場で東大卒業者と一緒に働いたことがありました。
ブラ美さんについては
難忘的一夜 - ゼミ前日にブラ美さん(仮名)に転がり込まれた件
をご参照ください。
この夜、ブラ美さんは「東大卒は使えない」と主張していました。

東大卒業者がいたのは、現在53歳のブラ美さんの2つ目か3つ目の職場でのことだったそうです。中規模か小規模の専門商社だったと聞いたような記憶があります。
時期は1990年か1991年ごろ。まだまだバブル経済が続いていたころです。
ブラ美さんのいた職場には、東大卒の新人が3人いたとのこと。
うち1人は女性で、人前で鼻クソをほじる癖があり、その鼻クソを「こんなに大きいのがとれた」と同僚に見せびらかしていたそうです。
他の2人も、何かと問題があったそうです。詳細は覚えていませんが、無断欠勤が多いとか、電話応対ができないとか、叱ったら親から苦情の電話がかかってくるとか、当時の「問題の新人」のよくあるパターンのいくつかだったと記憶しています。
この3人から、ブラ美さんは「東大卒は使えない」と結論づけていました。3人が3人ともダメだったから、と。

私はこのとき、
「この時期が空前の売り手市場だったのは覚えてるよね? 大手有名企業でもブランド大学卒業者の採用には苦戦してたでしょう? 私のいた一部上場の電機メーカーも、何年か続けて東大卒の採用が出来なくて、東大出身者たちが『社内同窓会を維持できなくなる』と危機感を抱いてたよ。単純に、採用が難しかったから問題の大きな人でも採用せざるを得なかっただけで、『東大』はあまり関係ないんじゃないの? そのころの私の同期にも、鼻クソほじる癖のある京大出身者がいたよ」
と答えました。
その答えは、親の反対で四年制大学に進学できず女子短大に進んだブラ美さんを、全く満足させないものであったようです。
 
1990年に私が一部上場電機メーカーに就職したとき、同期に東大出身者はいませんでした。早慶上智・旧帝国大学の出身者もほとんどいませんでした。
同期400名のうち数名は旧帝国大学出身者でしたが、そのほとんど全員が中国籍などの外国人でした。どこの国であるかはっきり覚えていませんが、イスラム教国の出身者も一人いました。そのたった一人のために、合宿研修のときには宗教的禁忌に配慮した食事が用意されていました。
他にはMARCHや関関同立が若干、入試偏差値でいえば40台〜50台が中心の感じでした。そこまでの売り手市場だったんです。
同期の中に、京大出身の男性が一人いました。 この男性は、人前で鼻クソをほじる癖がありました。しかもそれを相手の服になすりつけたりするのです。相手は女性であったりもしました。3年ほどで、数ヶ月単位での異動を繰り返した末、セクハラの嫌疑をかけられて退職したと聞いています。もしかするとセクハラの内容は「鼻クソを女性の服になすりつけた」だったのかもしれません。他にもさまざまな奇癖がありました。朝、出勤しようとして職場近くまでやってきて、コンビニの店頭でマンガ本の立ち読みを始めて遅刻するとか。

現在なら、ブラ美さんの3人の東大卒の元同僚も、京大卒の私の同期も、まず正社員としての就職は不可能だろうと思います。 「東大」「京大」といったブランドがあっても、そこまで問題のある人を企業コミュニティの一員として受け入れたいと考える企業はないでしょうから。
しかし、自分の能力努力の不足によってではなく四年制大学への進学の道を閉ざされたブラ美さんにとって、20年以上前のその出来事は、現在も「東大卒はダメ」の根拠とするに足ることであるようです。

「行きたいのに行けなかった」「したいのにできなかった」という人たちの怨恨は、どう晴らされればいいんだでしょうか?
ブラ美さんの怨恨の晴らし方は、どう考えてもおかしな「逆恨み」の類だと思います。
でも、不本意に蓄積させられた怨恨を自分の心がけや努力によって昇華することを、さまざまな機会に恵まれなかった人が 一方的に求められ続けるのは、ブラ美さんの「逆恨み」以上におかしいと思います。

この問題に結論は出せていません。
私自身も、今後、どうすべきなのかを自分自身の生き方を通じて考え続けなくてはならない立場にあります。 
私にも「したいのにできなかった」がたくさんあります。
さらに、「できる」に近づけ、「できる」を達成したら、さらに成功しないように脚を引っ張り続けられることの連続でした。 
「脚を引っ張る人々やその行為がおかしい」 とは思います。
私は、そんなことをされたくありません。
怨恨の怪物にならざるをえない人々が既に抱えさせられてしまった怨恨に対する何らかの解決が必要だとは思います。
でも、私が怨恨をぶつけられることは解決ではない気がします。

難忘的一夜 - ゼミ前日にブラ美さん(仮名)に転がり込まれた件

「難忘的一夜」とは、中国で天安門事件を指すときに用いられる言い回しであるとのことだそうです。
2ヶ月近く経過しても、私が未だに思い出し怒りを抑えられずにいる2014年7月下旬のある一夜の出来事を、ここに記録しておきます。

  • 事の顛末をざっくり言うと

ざっくり言うと、下記の通りです。
夫君の仕事の都合でインドに滞在している旧知のブラ美さん(仮名)が、日本に帰省していた。仮住まいは関西にある。
私が京都の大学院でのゼミのために京都に宿泊するときに、会って一杯やることにした。
ところがブラ美さんは終バス終電を逃し、私のホテルに転がり込んだ。
私は翌日ゼミであること、まだ準備をしていないということを何度も言ったが、ブラ美さんは私を話し相手にしつづけた。
翌朝、私は話したがるブラ美さんを振りきって無視し、ゼミの準備をした。
終わったらブラ美さんは意気消沈し、落胆した様子で、まったく饒舌でなくなっていた。

  • ブラ美さん(仮名)について
(プライバシーに配慮し、ディテールは変えてあります)
53歳、岡山県生まれ。短大卒。
オーストラリア人大学教員の夫と結婚。現在は夫の勤務先であるインドA州(ムスリムが多いことで知られるB地域)に在住。
娘2人の母。上は大学を既に卒業して就職。下は高校3年。

  • それまでのブラ美さんとの付き合い
SNSで知り合った。
2012年夏 日本の大学教員(女性)と3人で会った。特に問題ある感じではなかった。
2013年夏 彫刻家(男性)と3人で飲んだ。その後、有名広告代理店に勤務する若い男性(B市でブラ美さんに世話になったということ)と合流。私は終電があるからおいとました。

過去、一対一で会ったことはなかった。
今にして思えば、同席していた大学教員・彫刻家・有名広告代理店の会社員などが「歯止め」になっており、ブラ美さんの悪意や攻撃性が表面化しなかっただけなのではないかと思う。

  • ブラ美さんにどのように困らされたか
・居酒屋で

ブラ美さんは席に着くなり、大声で話し始めた。他にお客さんがいなかったのは幸いだったが、不思議だった。こんな無神経な言動をする人であったか? と。
ブラ美さんは「おみやげ」と言って、ガムテープで止めた紙袋を私に渡した。中には、そこのコンビニで売っている化粧品・地元名物という袋菓子・現在滞在しているインドの食器・自分が過去に使っていたマグカップなどが入っていた。私は、おみやげを貰うことを期待していたわけではなかったが、そういったものを「いかに価値があるものか」と説きつつも「現地の100円均一ショップで買った」と語るブラ美さんにどう反応していいか困った。
ブラ美さんは「傍若無人」という感じで、自分の話したいことを一方的に大声で話し続けた。口調は攻撃的だった。私がトイレに立つと、「それ、ステテコ?」と大声をあげた。私はユニクロの「リラコ」を穿いていたのだが、そういうことを大声で言うか?
ブラ美さんはその日、京都のお友達の家に泊めてもらうことになっていたが、携帯電話を忘れてしまい、相手の住所も電話番号もわからないという。とりあえず私のスマホでお友達のFBアカウントにメッセージを送り、連絡があるのを待ちつつ、お店の方にタクシーを読んでもらい、ブラ美さんのお友達の住まいがあるという方面に向かった。なお、飲み代は割り勘にした。
お友達の家には、ブラ美さんは行ったことが一度あり、近くにいけばわかるはずだという。

・タクシーの中で

ところがブラ美さんの説明は要領を得ない。「自動販売機がある道を曲がって、暗い道を登っていく」というものである。そんな道はいくらでもある。タクシーでブラ美さんが「こっちだったと思う」という方面に行ってみても該当する住まいは見当たらない。引き返すにしても、もう終電も終バスもないブラ美さんをどうするかが問題なので(放り出せばよかった!)、私は宿泊を予約しているホテルに電話し、「一人帰れなくなった人がいるんだけど、空きはありますか」と尋ねた。空きがあり、受け入れ可能ということだ。
ブラ美さんは、このことを後に
「みわちゃんが、私と話したいからそうしてくれたんだと嬉しかった」
と言った。また、タクシー代約4000円は
「私が遠回りさせたから」
とブラ美さんが払った(強引に割り勘にしておくのだった。このことも後に恩着せがましく言われることになったから)。
なお結局、ブラ美さんが「泊めてもらう約束をしている」という人からのお返事はなかった。友人関係も、泊めてもらう約束も、もしかすると最初からなかったのかもしれない。


・ホテルで(翌朝まで)

ホテルに着くと、シングルルームの空きはなくツインかダブルだという。女同士で寝る趣味はないので、ツインにしてもらった。ブラ美さんは「やったー!」と言った。後にブラ美さんは「みわちゃんが私と話したいからそうしてくれたんだと思った」という。私はダブルベッドで女性と寝たくなかっただけだ!
部屋に入るなり、私はパソコンと参考書籍を出して作業を始めようとした。するとブラ美さんが横にやってきて
「みわちゃん、ブラジャーしてるの? 私、これ」
と、自分のブラジャー(レース付き、ベージュ色)を私の目の前にぶら下げた。アンダーバストの締め付けがないのだそうだ。
「きついブラジャーしてるとガンになるよ」
とブラ美さんは言った。
私は「明日はゼミで、準備が必要」と再三繰り返していた。ホテルの部屋に入ってからも何回も繰り返したのだが、聞こえなかったかのように、ブラ美さんは自分のしたい話を話すのであった。
私は
「30分くらいちゃんと話を聞いたら気が済むんだろうか」
と相手することにした。でも、1時間ほど一方的な話を聞いた痕に
「じゃ、私は明日の準備をするから」
と何度か努力したが、ブラ美さんは
「それでね……」
と話し始め、私を解放しなかった。
午前3時過ぎ
「じゃ、寝るから」
と私がベッドに入ると、ブラ美さんはなおも話しかけ続けた。
「宗教を信じている人は寛容だと思う、あなたも宗教を持つべきだ」
という内容だった。私は
「ごめん、寝かせて」
と頭から布団をかぶって寝た。

・私の身体障害に対して

ブラ美さんからは「何かあったら手伝うから言ってね」と何回か言われた。何も頼んでなくてもこれだけしゃべられて妨害されるのなら、何か頼んだらどういう代償が待っていることか。怖いから何も頼まなかった。

・ホテルにて(翌朝)

朝、私が目覚めると、ブラ美さんはいなかった。近所の喫茶店で朝食を食べるというような書き置きがあった。私はこれ幸いとホテルの朝食を食べにいった。するとブラ美さんがいた。自分の好みに合うような喫茶店はなかったのだそうだ。
私はそそくさと朝食を食べ、ブラ美さんが何度もバイキングのおかわりを繰り返しているなか、自室に戻った(近所のネカフェ情報などが全く分からなかったので、とっととチェックアウトするか、またはそこで作業するしかなかった)。
私が机に向かって必死で作業しているところに、ブラ美さんが戻ってきて話し始めたが、私は
「今、作業してるから!」
と言い、作業の手を止めなかった。途中、何回かブラ美さんは話しかけてきたが、私は
「あと○分くらいで終わるから」
と言い、相手しなかった。
なんとか私はゼミ発表の資料を作り上げることができた。そしてブラ美さんは不機嫌になり、あの饒舌さはどこに行ったのか? という感じだった。
後にブラ美さんは
「大丈夫だと思った時にだけ話しかけた」
と言っていた。それがもし事実であったとしても、ブラ美さんの「大丈夫だと思った」は、まったく当たっていなかったということだ。
お昼ごろ、ブラ美さんと私は京都駅で別れた。ブラ美さんによれば、この時、私は
「こんどは私の結婚生活の話も聞いてね」
と言ったことになっている。私は
「こんどは私の話も少しくらいは聞いてね」
くらいは言ったかもしれないが、結婚生活の話と言ったことはない。過去10年以上、結婚生活というものと無縁なので、語るべき結婚生活がないのだ。
  • ブラ美さんが私に語ったこと
下記のとおり、極めて下らない話の数々であった。後にブラ美さんは「みわちゃんに、種まきをしてあげたんだ」と語ったが。
百歩譲ってそれが本音であったとしても、なぜ、「明日ゼミ発表で、まだこれから資料を作らなくちゃ」と私が言っている時に「種まき」をする必要があるんだ?

・岡山県の封建的な両親のもとに生まれた。弟と二人きょうだい。そもそも封建的なので、長男である弟が大切にされていた。弟は出来が悪かったため、「出来が悪い子ほど可愛い」という面からも大切にされていた。不満はあったが、今は両親とも弟一家ともまあまあ良好な付き合いができている。家族だから、最終的には分かり合えた。
(感想:あからさまな虐待に遭うようなことはなかったらしい)
 
・インドA州B地域(Tさんが数年来在住している地域)の日本人会婦人会で、東日本大震災以後ボランティア活動をしていた。内容は主に募金。
(感想:これは、そうしかなりようがないと思う。さらにA州B地域内での募金と日本への送金は容易なことではなかったらしい。Webで公開されているA州B地域日本人会の会報に、彼女の手記が載っていた)
 
・一度、婦人会で、募金を届けた東北の被災地を訪問したことがある。東北の人々が支給される手当金に甘えて働かないことが問題になっていた。
(感想:私はそのとき、そもそも働こうにも、震災前から充分な就労先があった地域ではなかったことを指摘しようとした。2010年に私が石巻を訪れてハロワにも行ったときの話をしようとしたが、遮られた)
 
・東北の人たちは、被災者といってもお金を持っている人が結構多かった。家や家財などにそれほどの被害を受けたわけでもないけれども、余震が続いているのでとりあえず避難所にいた人も。一人10万円(?)の手当金が配られて、食べ物は炊き出しなのでお金を使う機会がない。そういう避難所に真珠のミキモトが訪問営業し、いい商売をしていた。
 
・日本人はそれほど心正しい民族でもなく、略奪も若干はあった。ご遺体から指輪やネックレスなど貴金属を盗んで売る人もいた。ご遺体の指を切り取って指輪を盗む人もいたが、それは日本人ではなく中国人。
(感想:とりあえず、被災地関連はここまでにしておきます。ブラ美さんは非常に多くを被災地について語りましたが。日本の中にいても、激甚被災地の現状を知ることは容易ではないのに、なぜ海外にいる彼女のほうが「自分はたいへんよく知っている」という態度に出られるのか不思議でした。しかも東日本大震災後、訪問したのは2011年中か2012年前半の一回きりだったという話)
 
・友人の研究者H子さんが白黒はっきりつけたがる性格でイヤだという話
(感想:私はここで「データとロジックで勝負するのが研究者だ」という話をしたら、「じゃ、こんどH子と会ってみる?」とのこと。どういう意味だろうか? 会ったら「白黒はっきりつけたがるイヤな奴」と私も思うだろうとでも? この話は7月25日の1時~3時くらいの間に行われたと記憶。彼女は後日、その時刻に自分はすでに寝ていたと主張)
 
・スウェーデンがイスラム圏からの難民を寛容に受け入れていたら人口の50%がイスラム系になったという話。イスラム文化では、富める者は貧しい者に喜捨をすることで神に評価されるので、貧しい者は「喜捨されてやっている」という意識でいる。だからスウェーデンがそういうふうになるのは当たり前。
(感想:結果として起こったことは事実かもしれないけど、なんかすごい偏見だなあと思う。もしかするとイスラム教の教義には、そういう内容が実際に含まれているのかもしれないが)
 
・B地域で親しくしている大家族で、赤ちゃんが哺乳瓶の黒い液体を飲んでいるので、何だと聞いてみたらコカコーラだったという話。やめろといったら、「あとで永久歯が生えてくるから大丈夫」と答えられた。永久歯にも悪影響が出ると話したら、ブラ美さんがいるときには「ブラ美が来ているから」と目の前ではやらなくなった。赤ちゃんは乳歯がボロボロに。永久歯の歯並びにもやはり悪影響が出ている。
(感想:これはまあ、そうだろうと思う)
 
・B地域に働きに来ているフィリピン人やインドネシア人の話。ドミトリーをベッド一つ単位で借り、それをさらに昼勤と夜勤でタイムシェアして住居費を浮かせ、本国への仕送りを増やしたりしている。
(感想:これもまあ、ありうることだと思う)
 
・更年期でホルモンバランスが悪い。娘も十代後半でホルモンバランスが悪い。だから母と娘でぶつかる。
 
・娘(こんど(?)高校3年、B地域で学費が一番高い高校に在学)の学校は、授業を受けるというのがなく、全部プロジェクト学習。
 
・娘はベッドの上でノートパソコンを開いて、背中を丸めてパソコンを使って学校のプロジェクトをやっていることが多い。
 
・下の娘が来年から大学。あと5年、学費がかかる。
 
・夫は64歳。B地域の大学教員。契約は単年度更新。まだ仕事があるだけマシ。
 
・もし夫の仕事がなくなったら、2週間で国外退去しなくてはならない。
(感想:そうなのかもしれない)
 
・夫への愛が冷めた。
 
・夫は教員なので、人に話をして指図するのが習い性になっているが、人に話されることや指図されることを嫌う。夫に何か別の選択肢を提案するようなことを「Don't control me!」と怒鳴られる。
 
・夫が日本の現在の仮住まいを気に入らないため、仮住まいの近くに新しくアパートを借りた。小型冷蔵庫などの家電・家具類を、自分が暑い日に台車で何往復もして運んだ。汗だらだらながして台車押している横を、トラックやバンが通って行った。誰も自分に「乗りなよ」「運んであげるよ」と言ってくれなかった。日本人はひどい。インドでもどこでも、「どこまでいくんだ?」と声をかけて荷台に乗せてくれるもの。
(感想:話からして、独立した歩道のある道路ではないだろうと思う。せいぜい二車線+路側帯、もしかすると一車線とか。車のほうは、気になったとしても停止できなかったという可能性がある。それにブラ美さんは車の運転ができる。「レンタカーを借りる」という選択肢もあったはず。その程度のお金もないということは考えにくい)
 
・夫のサラリーがよくない。教員なのでサラリーはそれほど良くはなく、プール付きのマンションには住めない。自分もプールのないマンションに住んでいるので、近くのジムに通っている。面倒くさいし、ジム代が高い(でも聞いてみると日本と同水準だった。月極で1万円ちょっとくらい)。ジムは会員にならないと、一回あたり2000円とか3000円とかして高い。(これも日本の通常のビジター料金程度だと思う)
 
・毎日寝る前に薬を飲んでいる。 
(と大変深刻そうな表情で言って、目の前で薬を飲んだ。その薬は抗不安薬か睡眠導入剤かというようなことを言っていた記憶がある。「私も飲んでるけど?」と返すと、不快そうな表情になった。「そうなの、大変ねえ」と言われたかったのだろうか?)
 
・B地域の日本人学校で、精神障害のある中学生の女の子が母親ごと排除された。
(感想:ありうることだとは思う(あってよいと言いたいわけではないが))
 
・ブラ美さんの馴染みのある日本の一地域で統合教育が始まった。モンスターペアレントが増えているので、統合教育が教員のストレスになるのではないかと心配。友人がそこで小学校教員をやっている。大変そう。
(感想:私はこのとき、統合教育は日本としてしないわけにいかないこと、分離教育と差別の関係、分離教育が地方では少子化で成立しなくなっていることを話そうとしたが、遮られた)
 
・B地域では、外に出ている車椅子の障害者はあまり見ない。しかしイスラム風の部族社会で大家族、親類同士の行き来もあるので、社会の方から障害児のところに来てくれる。
 
・おしゃべりは無駄ではない。大切である。コミュニケーションと情報交換と社交の機会である。
(感想:私が、彼女のおしゃべりから離れて自分の課題に向かおうとした時のこと。おそらく、おしゃべりを非難されたことが過去にもあるのだろう)
 
・日本在住中、身体の弱い子猫を大切に育てた。子猫は近所の子どもたちにも可愛がられていたが、早死にした。近所の子どもたちと一緒に、その猫の墓を河原に作った。一ヶ月後、工事が始まり、ショベルカーに墓が掘り返されてしまった。

(感想:よほどご本人にとって重要な話なのだろう。SNSで何回か書かれていた記憶がある。ただ、その一晩の間に、口頭で10回近くも繰り返された。おかしいと感じた)
 
・B地域の獣医たちは、伝染病の猫は治療せず安楽死させる。
 
・健康不安について。本来2つある臓器の片方がダメになった。もうひとつもダメになったらと思ったら心配。 
(感想:「わかるわかる」「大変ねえ」とか言われたかったんだろうか? 私だって健康不安ならいくつもあるし、すでに障害者で車椅子生活なんだけど?)
 
・若い時、日本ではよくディスコで踊っていた。今でも踊るのが好き。
 
・今年から、B地域の日本人会婦人部長になった。年一回の総会のやりかたを変えた。踊る時間を作り、自分がステージの上で「恋のフォーチュンクッキー」を踊った。他の会員から「今年はなんだか違うんですねえ」と言われた。心のなかで「だって会長が変わったんだから」と思っていた。
 (感想:そういうのがイヤな人は困惑するだろうなあ)
 

  • その後のブラ美さんの行動
3日後、短大の同級生のお宅にお茶に行って翌日まで滞在。「その同級生とよくしゃべった」とブラ美さんはSNSに書いていた。私同様、一方的に話を聞かされた上、泊まり込まれて迷惑しただけじゃないだろうかと思っている。
5日後、彫刻家(2013年に会った人)の個展に、お友達と待ち合わせて行った。お友達には買っていった高級ハンカチか何かを土産に手渡し、個展でもそれほど無作法だったり違和感を持たれたりする行動はしなかったとのこと。

これらの行動を見て、私は自分がされたことが何だったのかを理解した。
不要品やガラクタの詰め合わせを「おみやげ」にしてよい人間であると、軽く扱われたのだろう。
その軽く扱われるべき人間が大学院だゼミだと言っているから、是が非でも妨害しなくちゃいけないことになったのだろう。
その軽く扱われるべき人間が、大学院のゼミのために交通費と宿泊費を使って東京から京都に来ていたわけだが、だからこそ、その目的は叩き潰さねばならなかったのだろう。

  • 私が怒りをぶちまけて以後
私はSNSで、ブラ美さんに対して怒りをぶちまけた。
ブラ美さんは素直に謝罪する一方で、「覚えてない」「自分はその時刻に起きてなかったはず」などと表明した。
さらにその一方で、個人向けメッセージで「みわちゃんのためにしていたこと」「そんなことは言ってない」といった主張を「タクシー代は出してあげた」といった恩着せがましい主張、その他の自己正当化や弁解とともに繰り返した。
私はさらに怒り、絶交することにした。
ブラ美さんはそれを「スピリチュアルな意味のある出来事」と解釈して、自分のプライドを守ったようである。
 

母の解放の物語としての「少女は自転車にのって」

治部れんげさんが推薦しておられた映画「少女は自転車にのって」を見てきました。

「少女は自転車にのって」公式サイト

女性が抑圧されており参政権もないサウジアラビアで、10歳の女の子ワジダが自転車に乗りたいと望み(学校でも家庭でも、女の子が自転車に乗ることは禁止されています)、ついにその希望を叶える物語です。

私は、元気な女の子と母親(高校生のときに結婚したと言っていましたから、まだ30歳前後でしょう)が家の中で繰り広げる会話の一つ一つに、胸が締め付けられるような気がしました。社会の慣習や因習を背負っている母親と、それを打破しようとする娘の間に、人間どうしとしての交流が成り立つなんて。
私自身は、とにもかくにも娘を抑圧し、支配しようとする母親しか知りません。母親と娘の間に、時に対立がありつつも平和な交流がありうる状況を、自分自身のこととしては知りません。私の母親は、私に対して抑圧し支配する存在であったことについて、
「昔はそれが当たり前やったから」
と正当化しています。
私は映画の前半、とてもつらい思いで、会話するワジダと母親を見ていました。

ワジダの父親は、第二夫人を迎えようとしています。男の子が欲しいというワジダの父方祖母の希望を入れての話です。母親は、第二夫人がやってくることに抵抗し、イヤだとはっきり言い、怒ります。その姿は、
「抑圧されているイスラム圏の女性」
という感じではありません。
ワジダの母親は、働くことを勧める妹に当初は難色を示します。夫の好む長い髪、自らの美しさを際立たせる赤いドレスなどで、夫を引き留めようとします。しかし結局は、第二夫人を迎える夫と決別し、長い髪を切り、働いてワジダと二人で生きていくことを選択します(夫と別れることについては、「パパが決めたの」と言っていますが、「なんとか関係を維持しようとする父親と、その父親をもはや相手にしようともしない母親」とも取れる場面があります)。
そしてラストで、ワジダを抱きしめて「世界一幸せになって」と語りかける母親。母親には、
「自分の望むような娘になってくれたら、自分が傷つかない範囲で幸せになることを許してやってもいい」
というような、「条件付きの愛」は全く見受けられません。感動的な場面でした。

私には、母親の変化と解放をもたらす導きの糸として、ワジダと自転車のストーリーがあるかのようにも見えました。
慣習や因習の中で育てられ、その世界の中にいてさえ、変わることのできる賢明で柔軟な女性。その賢明さや柔軟さが家庭の中だけではなく、社会で役立つ可能性。娘が自分の夢に向かって歩いて行くことが、その可能性を母親に少しずつ気づかせていく。そして母親は、その可能性に向かって羽ばたき始める……。
優れた映画は、数多くの側面を持っているものです。社会や世界に存在する背景や構造までが描き込まれているからです。
私は、「少女は自転車にのって」を、母親の解放の物語として見ました。そして、この母娘の未来が輝かしいものであるようにと祈るような気持ちになって、 映画館を出ました。

「少女は自転車にのって」、ほとんどの地域で上映終了となっていますが、 これから見ることのできる映画館も若干はあります。おすすめします。

激ウツからの脱出の記録

私、元気に見えますし、けっこう元気ではあるんです。
しかし、これでも精神障害者(手帳は2級) で、
統合失調症という持病を持っております。
統合失調症の症状って、妄想のように派手な陽性症状と呼ばれるものと、
地味でわかりにくい陰性症状と呼ばれるものがあり、
私の場合は、ここ10年程度、ほぼ陰性症状のみです。
まあ、コントロールに成功している部類ではあるでしょう。

とはいえ、この陰性症状が結構厄介なんです。
「ウツっぽい」「注意散漫」「易疲労感」
 といったものが中心です。
薬が効く人や、効く場面もありますが、
私の陰性症状に対しては、薬はほとんど効果がありません。 
さらに、これらの陰性症状は、冬に出やすい傾向があります。
これは日照量と関係があると思うので、
なるべく午前中に外出して太陽光線を浴びるようにしています。
とにかく、症状は陽性でも陰性でも
「出る前に予防する」
が一番です。
でも、そういう注意を払っていても、
大きな精神的ストレスがかかると
……はい 、今年は出ちゃいました。

今回、「まあまあ復調したかな」といえるまでの、
激ウツと回復の記録です。



●2013年11月中旬


悪化の引き金となった問題Aと問題B(Aより派生)が、
日本南西部方面で発生。


この時の症状は以下のとおり。 

- 口の中がザラザラした感じ。食事の味がしない。
-安眠できない。夜間に何回も目が覚める。
-不安焦燥感。
-身体全体のこわばり感。
-血圧上昇(ふだん、125/80 mmHg 程度だったのが、150/110 mmHg  程度に)
-意欲低下。猫の食事の世話や16歳の猫への注射・皮下補液もしたくなくなる。
 (注射・皮下補液は、どうしてもやる気のない日に数回サボったが、
  幸いに16歳の猫は今日も元気)
-充分な食物繊維を摂っているのに便秘気味に

対策として

-味を感じなくても食事を定期的に摂る
-それ以上の悪化を防ぐために、睡眠を確保する

を実行。
また、直後、問題Aについてのみだが、

-長年お世話になっている障害者運動家
-障害者団体の人権擁護部門
-かかりつけ精神科のソーシャルワーカーと精神科医

に相談。
事態が最悪の進展をした場合にどうなるか、
その最悪の進展に対してどういう対策ができるか、
ざっくりとではあるが、考えることができた。
さらに精神科ソーシャルワーカーのアドバイスで
障害者の人権問題に詳しいX弁護士に相談予約をした。
藤岡毅弁護士には、ふだん、非常にお世話になっておりますが、
X弁護士は藤岡弁護士ではありません。



この時期、仕事は穴を開けずにできていた。
しかしこの時期から昨日まで、ほぼ毎日飲酒。
酒量も結構なもの。
一日あたり平均で、日本酒換算1.5~3合くらいか。

●2013年11月下旬 

-高知・松山に出張(2泊3日)
-大阪に出張(1泊2日)

身体のこわばり感や疲労感の背後に身体疾患が隠れている可能性を考慮し、
関節リウマチ専門医(かかりつけ)を受診。
身体疾患の可能性は否定された。 
しかし、不安焦燥感は、さらに増大。
睡眠が充分にとれない状況も深刻に。
睡眠がとれていない上に、
生活保護法改正案・生活困窮者自立支援法案が
衆院に(参院先議のため)。
疲労とストレスでフラフラに。
酒量はさらに増す。

高知出張時、気分転換目的で、温水プールで泳いだ。
2年ぶりのこと。
身体が暖まったので布団をかけずにうたた寝していたら、
風邪を引いた。
数日後には気管支炎に。



●2013年12月上旬

-X弁護士に相談(「法テラス」利用のため無料)。
 問題Aの進展の可能性と、
 進展それぞれへの対策の可能性を検討。
 問題Aについては、傾向と対策らしきものがひとまずは判明した状況。
 
-別の知人のアドバイスで、日本南西部方面のY弁護士にも相談予約。
-改正生活保護法・生活困窮者自立支援法、成立。
-沖縄出張(2泊3日、那覇・恩納) 

気管支炎は治らず。
ひどい咳と痰が続く。
うつ気分、疲労感、不安焦燥感、さらに激しくなる。
便秘と激しい下痢を繰り返す状態に。
仕事はできていたが、日に日に疲労感が増していった。
沖縄出張、先送りできるのだったら行かなかったと思う。

●2013年12月中旬 

-問題Aが解消したとカモフラージュする目的かも? と見るべき問題Cが発生。
 問題C自体は面倒かつ長期化しそうではあるが、深刻な問題ではない。
 しかし問題Cにより、問題Aから派生した問題Bが表面化。

-石垣島出張(3泊4日、石垣島・竹富島)

うつ気分、疲労感、不安焦燥感で泣きたいくらいだった。
しかし、諸般の事情で先送りができず、行ってくることに。
便秘と下痢の繰り返しは継続。

-精神科に通院

気管支炎も見ていただいた(内科併設)。
処方された薬で、ようやく少しずつ快方に。

この時期も仕事はできていたが、
疲労が蓄積してきており、
能率は非常に低下していた。



●2013年12月下旬


-年末の締め切りラッシュ
-12月30日、自分の誕生日で友人たちが来て家飲み

疲労消耗感、不安焦燥感が激しくなる。 
仕事が遅れがちになる。
便通は、ほとんど下痢。
ときどきトイレが間に合わず、毎日のように大量の洗濯をすることに。
(うちの洗濯機に簡易乾燥機能があってよかった)

風邪はほぼ治癒。

●2014年1月上旬 

-「緊張の糸が切れた」 というべき脱力状態に。
-一方で、長年の懸念Nが解消方面へと向かう。
 喜ぶべきことではある。
 しかし、これでさらに脱力。
-夜、酔って友人たちに電話して、
 問題Aとについての不安と恐怖を語って泣き叫んだことが
 何度かあったらしい(記憶にない)。
-酒量、さらに増える。
 多い日は、日本酒換算で5合くらい。
-血圧は 125/90 mm Hg 程度になる。収縮期血圧がなかなか復旧しない。
-インフルエンザ予防接種を受けたところ、
 注射した箇所が腫れ上がった。
 病院に行くヒマもなく放置していたら、10日ほどで収まる。

激しい疲労感でいっぱい。
朝起きたら、すでに疲労困憊している感じ。
便秘が続く。浣腸を使わなければ排便できない状態に。
充分な食物繊維を摂っているはずなのに、便はごく少量。
仕事がどうしてもできない状態に陥り、
新年早々、「生活保護のリアル」を2回休載。
とにかく、
食事・睡眠・入浴(身体を洗いたくなくても浴槽にお湯を張って浸かる)を
確保。

●2014年1月中旬

-漫画家のさいきまこさんと大阪出張。
 非常に密度の高いスケジュールだったが、
 さいきさんという得難い仲間と一緒の2泊3日で、
 かなり心身ともに回復した。


-問題AとBについて、日本南西部のY弁護士に相談(有料:正規の相談代金で)。
 Bについては明快な解決の道が見えた。
-年明け初めての精神科受診。
 状況をかかりつけ精神科医に報告。
-血圧はほぼ復旧。125/80 mmHg 程度。

Y弁護士に相談した翌朝から、便通は正常化。
その後3日くらい、スポン、スポンと面白いように出た。
「薄皮をはぐように」という感じで
ウツ気分や不安感が薄れていく。
不安の根源である問題Aと問題Cは対処も解決も困難なので、
不安「感」だけ薄くなっても無意味かもしれないが、
不安「感」が薄くなれば、冷静にタフに対処することが容易になるから、
強い不安感を抱えているよりはマシなのだと思う。

●まとめ

-優先順位を、
 猫ともどもの生存>生活>仕事
 とした。
 結果として、仕事のほとんども含めて、ほぼ全部を守れた。
 この優先順位付けは正解だったと思う。

-早期に、身体の問題である可能性を考慮して
 リウマチ科を受診した判断は、非常に正しかったと思う。
 「リウマチが悪化しているのかも、その他の病気があるのかも」
 という懸念から早期に解放された。

-認知心理療法に1980年代(伊藤順康先生による)から馴染んでいたことは、
 かなり力になったと思う。
 ノート一冊(あるいは紙一枚)とペンがあれば、いつでも誰でもどこでもできる。
 お勧め。

類書たくさんありますけど、このセットが最良だと思います。


-信頼できる人々が周囲に、それもさまざまな分野に
 (政治・法律・精神医療・障害者運動・近所の居酒屋など)
 数多くいてくれたことは、本当に力になった。
 具体的に何かできることがなくても、
 話を聴いてもらうだけでもありがたかった。
 特に、長期化する見込みが強い問題Cについては、
 今後も、話を聴いてくれる友人たちの存在が
 最大の力になると思われる。

-自分で問題の切り分けを行い、
 「この部分は……さんに」
 と、各方面のさまざまな方々に相談を行えたことは、
 問題AおよびBのインパクトによる激ウツからの早期脱却に対し、
 非常に有効だったと思う。
 現在のかかりつけ精神科には復数のソーシャルワーカーがいて、
 そちらに一任してしまうことも可能ではあったのだけれども、
 あくまで、自分が主体となって解決の方向性を探ることができたことで、
 この問題によって自己肯定感を低めさせられずに済んだと思う。

-重圧に耐え切れないときに悲鳴をあげられたことは、
 結果として、問題を少しでもこじらせないことにつながったと思う。
 「酔って深夜に覚えてない電話を」のずっと手前で、
 自覚して悲鳴をあげていれば、もっとよかった。

●課題

-カウンセラーを全く利用しなかったことは問題だと思う。
 行く元気もなかったからなのだけど、
 そこまで消耗する前に、
 早めにカウンセラーのところにも行っておくべきだった。

-生活面での負荷は、もっと減らせたし、減らすべきだった。
 たとえばヘルパー派遣時間数を増やし、
 ふだんお願いしていないこと(料理など)もお願いするなど。 

-ふだんから仲間・友人に対して、
 愚痴をいう習慣をつけておくべきだった。
 少しぐらいは、言ってもいいのだと思うし、
 嫌われない愚痴の言い方というのもありそうだし。

-解決できるのは問題Bのみ。
 それだけでも、早急に、今週中にでも解決しておく。

-このような問題が発生する状況自体が問題なのだが、
 なにしろ、相手あること。
 「問題AとCが最悪の方向に向かう」
 という前提をおき、
 早期に問題A・問題Cそのものから
 離れることも視野に入れる必要がある。
 どんなに急いでも2年はかかるのだが。
 

-最後には生活保護があるし、
 生活保護を使って逆転できる可能性も(まだ、たぶん)あるんだから、
 それを信じてヤケにならずに生きていかないと、ね。

 
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「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
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「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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