みわよしこのなんでもブログ : 社会教育

みわよしこのなんでもブログ

ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


社会教育

血圧計を持とう

2014年3月、血圧計を購入しました。消費税アップ前の駆け込み消費です。

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以後2ヶ月近く、ほぼ毎朝、起きたらすぐに血圧を測っています。
総合的な体調のバロメータとして、血圧は非常に役に立つのではないかという気がしています。
血圧には、
  • 直前数日間の食事
  • 現在抱えているストレス
  • 本日の体調(発熱していないか、など)
といったことがらが、総合的に反映されるようです。
病院に行かなくても自宅で測定できますし、痛くも痒くもありません。 時間もかかりません。
たとえば「食事に気をつける」 といったことが独善に終わっていないかどうか、実際に効果を生んでいるのかどうかは、血圧である程度は把握することができます。
高血圧にならないように配慮した食事を摂っているつもりなのに血圧が高めになっているとすれば、食事への配慮が不十分なのか、あるいは食事以外に原因があるか、です。
一例をあげましょう。
私は毎日の血圧計測で、向精神薬の急激な減薬の影響について、身をもって知りました。血圧が 150/100 mmHg 程度にまで上がってしまい、一方で脈拍は一分間に 55 回 程度の徐脈となりました。この不可解な現象について、友人の精神科看護師が「減薬の影響ではないか」とアドバイスをくれました。私は薬の量を元に戻してみました。血圧も脈拍も正常値に戻りました。
血圧を測っていなければ気付かず、原因に思い当たることもなかったでしょう。
 
病気になってから慌てるのではなく、日常の健康のレベルを維持し高めるために、血圧計は大いに役に立つようです。
「低所得層に対して無料配布する」などの方針が検討されてほしいところです。ムダな受診を抑制する必要性があるならば、ムダではない効果的な受診を勧めてほしいものです。日々の血圧モニタリングは「ムダではない効果的な受診」に大いに役立つかと思われます。
また、ネットカフェに血圧計の設置を義務付けてほしいとも思います。
特に、いわゆる「ネットカフェ難民」の健康レベルは、たいへん気になるところです。健康を維持出来る食生活はまず不可能でしょうし、明日どこで寝泊まりするか分からない毎日のストレスが健康に良い影響を与えるわけはありませんから。
いきなり深刻な病気が発覚して、誰が拠出するかはともかく多額の医療費を必要とする事態に陥らないためにも、病気を遠ざける日常が、あらゆる人に保障される状況であってほしいものです。 

2014年5月16日(金)、川崎市で講演します

2014年5月16日(金)、神奈川県立川崎図書館で講演します。

特別講演会●情報へのユニバーサルアクセス拠点としての図書館
  
日 時 : 2014年5月16日(金)15:00~17:00
会 場 : 神奈川県立川崎図書館2階ホール
講 師 : みわ よしこ 氏(フリーランス・ライター)
司 会 : 末廣 恒夫 氏 (㈱資生堂 研究推進部 特許室)
主催者サイトより転載) 

神奈川県資料室研究会の会員の方々を対象とした催しですが、会員ではない方も、会費1000円(確か←要確認)を支払えば参加できるとのことです。
ご関心ある方、どうぞ参加をご検討ください。

簡単に入手できる料理レシピから腕前をなるべく速く向上させる、超簡単な方法

4月から、進学や就職をきっかけに一人暮らしと自炊を始めた方も多いかと思われます。
自炊を始めて一ヶ月足らずの時期にできることは、その方の生活スタイル・それまでに蓄積した生活スキルなどに大きく左右されることでしょう。
本エントリーでは、 「クックパッド」をはじめとするインターネット上のレシピ・一般的で比較的安価な料理書からスタートして、自炊初心者が料理の腕前を短期間で向上させる方法について書いてみたいと思います。
  • 腕前向上のための超簡単な方法:味見回数を5~10倍(自分比)にする
どれか一つ、スタート地点とする料理とレシピを決めます。自分の好物料理を選んでください。
スタート地点とするレシピは、「クックパッド」でも書籍でも、誰かに教えてもらったものでも何でもかまいません。自分が無理なく「面倒くさい」と思わずに作れそうなものを、定評あるレシピの中から選びます。
「クックパッド」には「玉石混交すぎる」という難点はあるのですが、一定数の「つくレポ」があって何人かに「リピします」と書かれているレシピならば、大きな問題はないでしょう。
道具は、今、必要最低限と思われるものが揃っているのであれば、何かを新しく揃える必要はありません。「包丁を研ぐ」などの手入れを改めて行う必要もありません。 ただ、箸5膳・スプーン5本くらいが余分にあると便利です。ごく安価だったりタダでもらえたりする割り箸・スプーンでかまいません。スプーンはなるべく金属製がよいのではありますが、樹脂のスプーンでかまいません(耐熱温度は確認しておいたほうがよいかも)。

まずは、レシピ通りに作ってみます。
ここで私が提案したいのは、
「一行程ごとに、ちょっとだけ口に入れてみる」
ということです。 
つまり「味見をする」ということですが、私がお勧めしたいのは、味見を通常考えられる数倍の頻度で行うことです。
たとえば、
「濃縮めんつゆを3倍に薄めて調味液を作る」
とレシピに書いてあるのなら、濃縮めんつゆ段階・3倍に薄めた段階のそれぞれで口に入れてみます。その濃縮めんつゆの味の特性を把握し、この場合の塩分濃度やダシの濃さの「ほどよい」とはどういうことであるかを考え、最終的に出来上がった料理への影響をモニタリングするためです。一回ごとに水を飲んで口の中を「リセット」することをお忘れなく。
カレーを作るために
「タマネギを刻んで炒める」
というのであれば、刻んだ生タマネギ・1分炒めたタマネギ・2分炒めたタマネギ……炒め上がりと考えられるタマネギを少しだけ口に入れてみます。すると、刻み方や火の通し方による影響が分かります。
この「段階的味見」を、その料理の最終工程まで行います。
「弱火で煮込むこと30分」
を含むレシピだったら、煮込む前と後の味を見ておきます。ついでに、煮込まれる肉なり魚なり卵なりの表面を、煮込み前・煮込み後のそれぞれ、割り箸で軽くつっついてみましょう。すると、表面の固さや弾力がどう変化するのかに関する情報を得ることもできます。ちなみに私、焼き魚の振り塩やステーキの塩コショウも、焼く前に魚や肉の表面をちらっと舐めますよ。自分が作って自分だけが食べる場合に限定ですけど。
ただ、味見一回あたりの量が一般的な味見の場合の量だったら、独り者の一食分のおかずは、完成する前に簡単に消滅してしまいます。だから、一回あたりの味見は「お箸の先で野菜みじん切り1切れ」「スプーンの先で調味液や汁を1cc以下」という感じで行う必要があります。少量を確実に取るためには、箸やスプーンが必要です。味見のたびに箸やスプーンを洗っていたのでは面倒くさいし、乾燥しきってない箸やスプーンの水気が加わると味見にならなくなったりしますので、「箸とスプーンは余分にあったほうがよい」というわけです。

この「細かく味見」を習慣づけると、たいていは自動的に料理の腕前が上がるでしょう。
最初に選んだ大好物を、繰り返し作ってみたくなります。前回「これでいいのかな?」と思ったポイントを改良して試してみたいと自然に思うでしょうから。それを繰り返していれば、最初から大好物であったものが、さらに美味しく作れるようになります。時間もかからなくなっていきます。「これは省いてもいい」「これに関しては包丁でのみじん切りではなく、ミキサーでガーッとやっても仕上がりには響かない」「加熱に入ったら◯分間は大きな変化はないので、タイマーかけて他のことやっていようっと」「材料の一部を取り分けておいて、弱火煮込み段階でポリ袋に入れて参加させて別の料理を」などの工夫が、半自動的に行われるようにもなるでしょうから。
平たく言えば、「PDCAサイクルを回す」ということです。義務だから回させられるのでも、良い社畜であることのアピールのために速く回したいと思っているふりをするのでもありません。ただ楽しいから、面白いから、美味しいから、回せるときに回したいように回す。この繰り返しは当然のことながら、その料理を作る手際や出来上がりを向上させます。
その向上のプロセスに、数多くの「おまけ」がついてきます。自分自身に料理の地力がつくということ。
まず、料理書から得られる情報量が多くなります。同じ文章・同じ写真を見たときに「何をどうすればそうなるのか」が理解しやすくなります。
「食べたことのない料理を、文字と完成写真だけを手がかりにして作ってみる」
という場面でも、少なくとも食べられるもの・極度に不味くはないものが作れるようになります。
たとえば柴田書店のプロ向け料理書(買ったら高いけど図書館で読めます)のレシピを、ひとり暮らしや数人での「家飲み」向けのレシピに読み替えることも容易になります。10人前のレシピを1人前に置き換えるとき、単に量を1/10にしただけでは似て非なるものしかできないわけです。どこをどうすれば本質を変えずに仕上がり量だけ変え、肝心なポイントは外さず、自分の事情に合わせてアレンジできるのか。そのための「道具」は、
「アレをコレしたらソレになる」
という細かな因果関係の組み合わせ・重ねあわせが数多く「保存」されており「この場合の組み合わせ最適」を見つけ出すことのできる自分の脳と、可能な範囲で再現できる自分の手(または、他人に行ってもらうための自分の口)しかないと思います。

  • 「細かく味見」法にたどりついた経緯
進学で東京に出てきたときに住んでいた大学近くのアパート(6畳+半畳のキッチン、風呂なしトイレ共同)のすぐ近くに、新宿区立中町図書館がありました。そこに、津村喬「ひとり暮らし料理の技術」があったんです。偶然手にとり、あまりにも面白いので借りて読み、のちに購入しました。名著ですが絶版。

 この本は、料理の「食文化」という側面が「ひとり暮らしの自炊」というテーマを通じて幅広く解説されているのですが、「何を何グラム」といった分量の解説は皆無に近いんです。著者のポリシーとして記載しないということでした。
私は掲載されている料理の数々を読んで「なんと魅力的な」と思い、実際に作ってみようとしたんですが、失敗したり「食べられるものは出来たけど、これはその料理そのものなのか?」という疑念が湧いたり、でした。
そうこうするうちに、「ひとり暮らし料理の技術」で紹介されていた、辰巳浜子「料理歳時記」を読んでみる機会がありました。この本は現在も新刊で入手できますし、Kindle版もあります。
辰巳浜子さんは、昭和30年代~40年代に活躍された料理研究家で、料理研究家の辰巳芳子さんの母上です。

「料理歳時記」を読んだ大学1年の私、「ひえええええええええええ!」とぶったまげました。ご飯や味噌汁やお浸しや焼き魚といったものに、一つ一つ深い情熱を傾ける人がいたという事実。その情熱の目的は、料理研究家として世に出ることでもなんでもなく、動機は「家族(+お客さん)に美味しいものを食べさせたい、家庭を喜びで満ち溢れさせたい」ということであったらしい、ということ(結果として世に出たのではありますが)。伝統を大事にしつつもハイテク(冷凍庫←昭和20年代の話です)は積極的に導入する超合理性。アウトプットを最良最高にするために大切にされるプロセス。辰巳さんは決して「手段の目的化」をしません。真似する気にもなれない手間暇をかけ、これ以上はないほどの真心は込めていますけど、「手間暇」「心を込める」が目的なのでもなければ、そこを評価されたいというわけでもなく……。どの一つにも驚嘆しました。家事、料理、主婦業といったものを、才能と志ある人は、そこまで高めてしまうわけです。さらに「高める」が本人の心がけや家族の幸福感で終わったというわけではなく、夫君の生産活動を支え、社会で何らかの生産を行うことのできる子どもたちを育てたうえに、後には自らの料理も評価されているわけです。「おいしいね」という言葉や家族の笑顔だけではなく、経済的に、金銭という形で。なにしろ死後40年近くにもなる現在、まだ売れ続けているご著書が何冊もあるという事実。
こんなことを書かれたら辰巳さんご自身は不快になられるかもしれませんが、この方は生涯に、いったいどれだけの経済的生産を行われたのでしょうか。ご著書のセールスだけでも大変な金額になっているでしょう。その達成の前提となったのは「恵まれたご家庭に育ち、適切な教育を受け、良家に嫁いだ」という幸運ではありますが、「費用対効果」が非常に大きい方だったことは間違いないかと思われます。どういう偶然が重なったら、ここまで費用対効果が大きくなるのかは分かりません。才能と志が素晴らしいものであったことは感じますけれども、それだけではないように思われます。最も重要だったのは、原家族での育てられ方、生育環境、受けた教育でしょうか。私立の高等女学校に通っていたこと以外は、特別にお金のかかるものではなさそうに思えますが、「生まれてから18歳まで」というタイミングに大きな意味があったのは間違いないでしょう。そのタイミングをのがした場合、あとで補いがつく可能性はあるでしょうか? あるとすれば、どうやって……? 本当に、いろんなことを考え始めるきっかけになる本でした。
この本は、「職業って何だろう? キャリアって何だろう?」と考え始めるきっかけにもなりました。私が職業を手放さずにきたこと、職業を継続できていることの根には、「料理歳時記」に学んだ職業観・キャリア観があるようにも思えます(ただし、昭和の高度成長期の専業主婦のほとんどを、私は職業人とは考えていません。彼女たちの家事を「キャリア」とも考えていません。「主婦業も立派な仕事」という言い回しには警戒を怠っていません。念のため)。
この本には一つだけ、大きな問題点がありました。読んでも「実際にやってみよう」というモチベーションが沸かず、むしろ萎えることが多いのです。心がけも考え方も手順の一つ一つも、あまりにもハイレベルというか面倒くさすぎて。料理好きな専業主婦・主夫の多くにとっても、おそらくはそうなのではないかと思います。まして、昼も夜も職場や大学で過ごしている勤労学生だった私に実行可能そうなことは、片手で足りるほどしか見いだせませんでした。
私は大学のすぐそばに住んでいましたから、「職場帰りに買い物をして、いったんアパートに帰って軽い夕食を食べ、明日の朝食の下拵えをしてから大学で授業に出る」が可能な日もありました。勤労学生としては恵まれた条件にあったと思いますが、それでも「料理歳時記」は「こんなこと、実際に出来るわけがあるもんか!」の連続でした。私は幼少時から料理を自然に覚え、習慣的に行って(というかやらされて)育っています。漬物・梅干し・味噌といったものは家で作ったり、作った方に分けてもらったりするのが当たり前という環境でした(お店で買えると知って驚いたのは10歳くらいの時)。20歳時点での料理スキルは、同世代の中では、偏差値でいえば確実に75以上だったでしょう。それでも、「料理歳時記」の記述のほとんどは「出来るわけがあるもんか!」だったんです。
最も驚かされたのは、数え年17歳の辰巳浜子さんが白和えを作り始めたときのエピソードです。「白和え」という料理一つをものにするために、少女といってよい年齢の辰巳さんが何をなさったか。ぜひ、「料理歳時記」でお読みください。

私は「この人の真似はできない」と思いました。「私は物理屋になろうとしているんだから、この人のようになれなくても別にかまわないんだし」とも思いました。人生の最初に見た白和えのレシピが、辰巳浜子さんの「究極」といってよいレシピだったことは、私から「白和えを作ろう」というモチベーションを失わせてしまいました。半端に作ったって「まがいもの」しか出来ないんだから、とモチベーションが萎えてしまったのです。「料理歳時記」を読んで以後、一度も白和えは作っていません。それどころか、「料理歳時記」に書いてあるとおりに何かを作ったことは、ほとんどありません。ちょっとしたコツのいくつかを取り入れるのが精一杯でした。
でも、この本は深いところで、私の何かを変えてしまったようです。

いつの間にか私は、味見を細かく行うようになっていました。
当時も今も、料理には時間はかけられません。体力気力がないときには、時間がない上に、やることが雑になります。しかし、時間も体力も気力もない中で「今できるベスト」「今できる『ちょっとだけマシ』」を追求することならできるだろう、と思ったんです。
そのために必要なことは、「今、何が起こっているのか」を知っておくことでしょう。味見を細かく行うことは、特に面倒くさくも苦痛でもなく、疲れることでもありません。辰巳さんの「白和え」の取り組みを爪の垢ほどでも取り入れてみるかと始めてみたら、面白くて楽しいので、ごく自然に習慣になりました。
それを積み重ねて、30年経ちました。
「中間データを可能な限り細かく取る」は、実験でも重要です。大学2年から実験を職業にしていた私は、そのノウハウも自炊料理に惜しみなく投入しました。キッチンサイエンスの成書・科学的知見を盛り込んだ料理書に接する機会があったら、自分が日々やっていること・舌や指先で得た「データ」の数々と頭のなかで突き合わせてみました。結果は、次回に自然にフィードバック。
この繰り返しは、基本的には楽しいことでした。そして余裕のあるときに「楽しんで」おく積み重ねで、疲れているとき・本当に時間のないとき・ロクな道具がないときに出来ることのレベルが上がっていきました。これもまた楽しく快適なことでした。なにしろ食べて旨く、身体にも悪くないわけですから。
残念ながら、料理に関しては記録をほとんど残していません。あまりにも日常的なことなので、わざわざ記録してみようという気にもならなかった……という理由もあります。専攻が同じ男性の先輩・同じ仕事をしている同僚と付き合っていたり半同棲していたり事実婚していた時期が、通算15年ありました。料理という「女性的」なことに取り組んでいる姿を男性に見せたら、「やっぱり女性だから」と軽蔑される……という危惧もありました(相手の選択を間違えていたのかもしれませんが)。読んだ論文・やった研究については、同居男性がそこにいても、神経質なくらいノートつけてました(ただし相手のプライドが傷つかない程度に配慮しつつ)。それは「私はこの仕事を手放さないからね、あなたには『手放せ』という権利はないからね」という無言の主張でもありました。
料理について書籍を読んだりノートをつけたりすることは、少なくとも「男性の前でやる」はやりたくありませんでした。料理の記録を若干とも残せるようになったのは、パソコンを所有するようになって以後の話です。電子データだったら、紙のノートよりは安全ですから。
それでも、漬物や梅干しはノート作ってました。年に1回~数回しかやれないわけですから、繰り返して「前回よりマシ」にしたいと思ったら記録が頼りです。それなりの手間暇をかけて、不味いもの・食べられないものが出来たら悲しいです。それに、限られた手間暇でも少しでも旨いものを作りたいですからね。
ああ、毎日の料理での試行錯誤の数々をノートに記録していたら、もっと大きな発展があったかもしれなかったのに。残念。

今の私は自分の自炊に対して、「料理の食味そのものについては100点満点の85点くらい、総合点では100点満点の65点かな」と考えています。食味については、自己ベストからの減点。総合点の減点ポイントは、台所や用具・道具のマネジメント、盛り付け・見た目などについてです。
「私は、辰巳浜子には絶対になれない」
と諦めた20歳大学生女子、30年後にも大した高みには上れていませんが、小高い丘の上には到達できたかなあ? と思っています。

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高校や困窮者家族に何を求めるの?

埼玉県の高校教諭が自分の子どもの入学式に欠席するために勤務校の入学式を欠席した件、引き続き話題になっているようです。
たとえば、「BLOGOS」には2014年4月19日づけで下記の記事が。

母親教師の「入学式欠席」問題にニコニコ読者「批判するのはモンペか社畜」

私自身の考えは、このようなものです。

  • 今はかならず担任・副担任の二人体制になっているようだよね? 私の高校生時代(35年前)と違って。担任も副担任もいなかったんなら、さすがに問題だと思うけど、副担任はいたんでしょ? 問題、何もないじゃん?
  • 何か実務上の支障はあったの? 問題になったわりに全く報じられていないところを見ると、何もなかったんでしょ? 何を騒いでるわけ?
  • 支障が発生したんだったら問題かもしれない。でも、もし何か支障が発生したのだとしても、担任教諭が一人いないだけでガタガタするような運営体制の問題。担任教諭が欠席したことが問題なのではなく。
  • 教員だって病気もする。事故に遭って負傷するかもしれない。夫であり妻であり子であり親であり地域住民であり……といった数多くの側面を持っている。仮面ライダーでもウルトラマンでもない普通の人間。その普通の人間の普通の生活についてまわる数多くのことを織り込んで、学校は運営されているべきもの。担任教員が事前にわかっていた私用で、事前に有給を申請した上で勤務校の入学式を欠席することは、突然の事故や病気による欠席に比べれば影響は非常に少ない。「教員は事故に遭ってはならない」「教員は急病になってはならない」と言う人はめったにいないのに、なぜ事前に申請して有給を取得したら問題になるわけ? 問題にするほうがヘンだよ。
     

……ですけど、感情的にそうは割り切れない人がたくさんいるから、問題になるし論争になるし、なんでしょう。

河本準一さんのお母さんが生活保護受けてた件が問題になったのと共通するものを感じます。
河本さんは余裕があるときには仕送りしてた(=扶養義務は果たしていた)のに、
「本人は稼いでるのに、お母さんが生活保護受けてた」
ということ「のみ」をもって指弾されていたわけですから。
非常に理不尽な指弾なんですが、そういう指弾が堂々と行われ、なおかつ同調する人がたくさんいたということに対して、私は今回の
「母親でもある教員が、子どもの入学式を優先した」
に対する騒がれ方と非常に共通点が多いと思っています。


さて。
この理不尽に対して「理不尽」と声をあげ、「もしかしたら自分は理不尽なことをしているのかも」と思っていただくことが、どうすればできるのでしょうか。
それはモノカキとして自分が大いに考え、悩まねばならないことですが、同時に
「そんなこと出来るんだろうか?」
という絶望感も感じるところです。 
 
この高校教諭の方や河本準一さんを問題にする方々には、
「高校教員や困窮者家族には理不尽な要求をしても許される」
という思い込みがあるように思われます。その思い込みを「理不尽」というのは容易ですが、その思い込みを修正していただくことはできるのでしょうか?
ご自分の考える「かくあるべき」を押し付けてもよい、という思い込みをただすことは可能なのでしょうか?
たぶん無理でしょう。「高校の担任教員なのに」「人気芸人で稼げているのに」という突っ込みどころは、非難の声を上げる方々にとっては「どういう非難をしても許される」という錦の御旗のようなものなのでしょうから。
 

相手は、日本の土着宗教のようなものであり、その土着宗教のようなものに支えられたメンタリティでもあるのでしょう。論理や合理性の通じる余地があるとは思えません。
そして私には、まるで相手がモンスターであるかのように見えてならないのです。
モノカキとして出来ることは……たぶん多くはないでしょうね。 多くはないとしても、後悔は残さないように出来ることはしておきたいところですが。

自治体の「生活保護ホットライン」に漏給情報の提供を

福岡市が「生活保護ホットライン」を開設するようです。
産経新聞の報道では、主目的は不正受給の告発を奨励することであるようです。福岡市のホンネはそうなんでしょうね。
産経ニュース:生活保護 不正受給は許さない! 福岡市が“たれ込み”ダイヤル開設 

でも、濫給(不正受給)だけを問題にすることはできないはずです。たとえタテマエだけであっても、漏給(貧困状態なのに生活保護を利用していないこと)も問題にせざるを得ないはずです。田村憲久厚労相も厚労省も、一応、国会答弁では「必要な人には保護を」と繰り返しています。

このニュースをよく読むと、福岡市長も、やはりそう解釈できる内容のことを言っています。言わざるを得ないからポーズとしてだけ言っているのかもしれませんが。

高島宗一郎市長は8日の記者会見で「行政だけではつかめない情報をすくい上げる。生活保護の公平性を担保し、守るべき人をしっかり守りたい」と語った。

市保護課の担当者は「生活保護は市民の信頼を得られないと成り立たない。本当に必要な人に支援を行き届かせるための第一歩にしたい」としている。

高島宗一郎市長は「生活保護をもらうのは恥ずかしいと考え、歯を食いしばって耐えている人がいる一方、不正受給者や、ギャンブルやアルコール依存で治療が必要な受給者もいる。こうしたさまざまな情報をすくい上げ、守るべき人をしっかり守りたい」と述べた。

福岡市の皆さん。
ホットラインが開設されたら、せっせと漏給情報を提供してさしあげてください。
「ご近所に低年金で大変な暮らしをしている高齢者がいる」
といったことに限る必要はありません。
「◯◯町に野宿しておられる方がいます、この方に生活保護の説明をして安定した生活につなげてください」
とか。
「生活保護なのにギャンブル!」「生活保護なのにブランドものバッグ!」といったセコい情報提供をしたって、実のところ誰の役にも立たないんですよ。そのギャンブルやブランドものバッグの本人が痛い目にあったら、情報提供した人は少しスカっとするのかもしれませんけど。
でも、生活保護を利用できる人が利用していないという情報を提供した結果、その人が生活保護を利用して安定した地域生活を営めるようになれば、本人も周囲も幸せになれます。
漏給情報を、せっせと垂れ込んでさしあげましょう。

あ、そうそう。
不正受給率を件数ベースで計算してはいけませんぜ。特に悪質な事例では、同じ人が何回も繰り返していることが多いです。それから不正受給と扱うべきではないケースが、「不正受給1件」とカウントされてたりするかもしれない。金額ベースで計算すると、約0.6%。過去数十年の傾向とも全国平均とも同程度かな? という感じです。

24年度に福岡市が不正受給と認定し、返還を求めたのは1521件(4億5900万円)に上った。受給総数3万1154件(784億円)の5%弱にあたる。

「不正受給が多い」という印象を与えたいので、そういう計算をして掲載したのかもしれません。でも、不正とはいわないまでも、不適切な計算だと思います。 
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著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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