みわよしこのなんでもブログ : トラウマ

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ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


トラウマ

[雑感]私は希望を抱くことができるのか? ~ 母親と味噌汁

 私が作った味噌汁を、母親が「まずい!」と言ってひっくり返したことがある。1983年。私は19歳だった。目撃者はいなかった。数分違いで食べた他の家族は、同じ味噌汁に対して、特に何も言っていなかった。母親にだけ、特製の美味しくない味噌汁を出したわけでもない。母親は、勝ち誇ったような嬉しそうな表情を浮かべていた。私は、嘆きも悲しみもしなかった。毎度のことだ。

 現在の私の住まいには、もろもろの都合で、母親が味噌汁をひっくり返した現場と同じ配置、同じような日照条件となる場所がある。日中、その部屋のその場所に行くたびに、私は母親の「まずい!」とひっくり返された味噌汁を思い返す。思い出したくて思い出すのではない。記憶のほうから勝手に出てくる。忘れたいのに忘れられない。トラウマ記憶とはそういうものだ。



 ところが2ヶ月ほど前、2020年7月、大きな変化が起こった。

 その場所で、私が母親の「まずい!」と言う声と、勝ち誇ったような嬉しそうな表情と、ひっくり返された味噌汁を思い出すことは変わらなかった。しかしその時、ひっくり返されて椀の中からこぼれ出た味噌汁が、竜巻に巻き上げられたように浮かび上がり、母親の頭の上から降り注いだ。

 私は「えっ?」と驚いた。まあ、物理としてあり得ない話ではあるんだけど。その日から、私の中に少しずつ変化が起こりはじめた。

 母親はじめ原家族から受けたことは、今のところ「言われっぱなし」「やられっぱなし」「泣き寝入りさせる」でしかない。幼少のころ、さらにそれを引きずって成人後も現在もそうである私としては、「せめて、なかったことにしないことができる」という希望を見出したい。それは、たった一つだけ私に残された、原家族に関する希望である。

 でも、私が「なかったことにしない」という現実を作ろうとすると、原家族によって、あるいは原家族の影響が濃厚な何かによって全力で潰された。原家族にはもちろん、なかったことにしなくては都合が悪いという現実があるだろう。

 私も、最初からそんなことはされなかった過去を望んだ。もしも、望んで叶うものなら。でも過去は変えられない。過去にその事実があったこととその影響自体は消せない。誰かの都合で、なかったことにされるかどうかは、また別の話。

 私が最初からそんなことをされなかった過去とは、両親はじめ原家族が私にそんなことをしなかった過去である。でも両親は、私の記憶にある限りは55年前(私が2歳のころ)よりも前に、今となっては「なかったことにしなくては」と必死にならなくてはならない現実を作る道を選んだ。

 これは戦争なのだ。私は生まれて物心ついたら、両親が作った戦争に巻き込まれていた。好きで巻き込まれたわけではないが、勝たなければ生き延びられない。でも、勝ち目はない。どうせ負ける。生まれて来ないほうがよかった人生の「生まれて来ないほうが良い」度が増すだけだ。負けがひどくなるだけのなら、損切りしなきゃ。自分が死ぬことによって。ずっとずっと、そう考えていた。客観的に「それは違う」と言える変化は、少なくとも私が知る限り、何もない。

 両親にとっても、事情はおそらく似たりよったりだろう。55年前に止められず、その後もエスカレートを止められなかった。今となっては隠蔽するしかないのだが、当事者である私は絶対に応じない構えを示し続けている。こうなったら私を消すなり潰すなりするしかないのだが、私は全力で抵抗を続けている。両親の真意や心情は推測するしかないのだが、ここで停戦したら、過去少なくとも55年分のすべてが無駄になるのかもしれない。勝ち目があろうがなかろうが、私を消して潰すことに全力を尽くすしかないのかもしれない。

 私は抵抗を続けてきたが、正直なところ、「両親の思い通りにならない結末がありうる」と考えたことはない。相手の方が圧倒的に優勢だ。人数だけで言っても、両親と弟妹で4人。最初から4対1の負け戦だ。その後、弟妹の配偶者とその社会的地位と経済力などが加味され、さらに両親側が優勢になった。弟妹夫妻の子どもたちは成長し、いまだ未成年ながら、さまざまな輝かしい活躍をしているようだ。もう絶望的だ。親を選んで生まれたわけではない甥たちに対して何かをしたいとは思わないが、私は自分と自分の人生と自分の猫たちと暮らしを守りたい。でも、どうやって?

 今でも、客観的に私の不利が減ったという事実はない。でも2ヶ月前、約40年前の記憶の中の母親がひっくり返した味噌汁は、空中に飛び上がって母親の頭に降り注いだ。それは私の脳内での出来事に過ぎないけれど。

 その次の日も、さらに次の日も、私は同じように母親と味噌汁を思い出した。そして味噌汁は、同じように母親に降り注いだ。日を重ねるごとに、母親の表情が変わっていった。勝ち誇ったような嬉しそうな表情は、頭の上から味噌汁が降り注ぐと「まさか」「なぜ」「どうして」という驚きと悲しみへと変わるようになった。

 私は驚いた。おそらく、私の知る範囲の現実として、原家族のメンバーが私に対してしてきたことに向き合うことはないだろう。自分たちが正義であり、私には何をしても許され、何もかもを「なかったこと」にできる。都合が悪ければ、私をさらに踏みつければいい。ずっとそうしてきた、それしか出来なかった人たちが、同じ相手に対して違うことを始められるわけはない。私も、その可能性には全く期待していない。

 しかし、もしかすると、原家族からのもろもろを「なかったこと」にされず、その懲罰として消されたり潰されたりすることもない今後が、私に訪れるのかもしれない。
 根拠はないけれど、ぼんやりした希望を抱くことができるようになった。

[エッセイ]「特攻」に関する記憶(2)-昭和50年代の中学生・高校生として

 本日、2020年8月15日は、終戦から70年の節目の記念日です。
「特攻」に関して、2014年8月15日、当時はオーサーであった「Yahoo!ニュース個人」に書いた記事を転載します。ヤフーのサービスはどうにも肌が合わず、ほとんど使っていなかったのですが、「Yahoo!ニュース個人」編集部からのお声がけをいただき、2014年はじめから2018年10月までオーサーを務めていました。現在は、そのお声がけに応じたことを心から後悔しています。
 以下、当該記事です。

中学生・高校生の時のことは「黒歴史」として封印していましたが

 まず、出身中学校・高校について書くことについて、言挙げをします。

 私はこれまで、出身中学校・高校(1976年中学入学~1982年高校卒業)について「女子校だった」以上に明かしたことはありません。
 柳美里さんが作品化している中高生時代が「まだマシ」と思えるほど酷いイジメに遭っていたからです。

 学校でイジメに遭っているだけならまだしも、地域にも家庭にも逃げ場がありませんでした。家は学校から徒歩15分程度、市境をはさんだ隣町。同じ町内に、同じ学校に子どもを通わせている家庭が10軒はありました。

 もともと、その女子中学校に進んだのは、そこの出身者である母親の強い希望によってのことでした。正直なところ、私は女子校に自分が合うとは思っていなかったのです。

 しかし小学6年のときの私は、担任教師の奨励のもと、日常的に暴力にさらされていました。コンパスの針でつつかれたり、傘で殴られたりすることが日常茶飯事。それどころか、クラスや班で作られた奇妙なルールにより、私は「罰金」を支払わなくてはならないことにされていました。担任教師は「クラス(班)のことだからクラス(班)で解決を」と、まったく取り合ってくれませんでした。「罰金」は毎日毎日増えていき、利子までつけられました。小学6年の2月には、その総額は数千円に達しており、支払わないからといって私はさらに暴力を受けるのでした。

 私の中学受験は、「受験勉強は結構楽しいからする、入試は力試しに受けてみる」くらいの感じでした。子どもだけで通える範囲に進学塾は存在しませんでしたから、参考書・問題集・過去問を買ってもらって、自学自習でした。私はそれを結構楽しんでいました。私の世代だと、少なくとも福岡あたりでの中学受験は概してこんなものでした。塾や家庭教師に助けてもらっての受験が一般的になったのは、私の2学年下あたりからです。
 「受けたら受かった」という結果に対し、周囲の大人たちが「せっかく受かったんだから、行ったら?」と言ってくれたとき、
「やった、これで小学校のイジメから救われるかもしれない」
と思いました。そこで、女子中学校に進学することにしたのです。

 小学校時代の「罰金」は、その後、追いかけてきませんでした。

 しかし同じ小学校から5人程度が、その女子中学校に進みました。その一人が、私の忌み嫌っていた小学校時代のアダ名と「いじめられっ子だった」ということを周囲に吹聴したため、私は中学校でも高校でも、時に自殺または退学を考えるほどのイジメにさらされることになったのです。

 もちろん中学生のとき、高校受験で逃れることは考えました。当時、「嫁入り学校」として認識されていたその女子中・高の教育は、私自身が思い描く職業人としての将来計画には有益ではなさそうでした。イジメがなかったとしても、県立高校を受験したいと考えていただろうと思います。
 しかし、その高校の出身者でもある母親の強い希望により、私は高校にエスカレーター進学することとなってしまいました。

 高校時代はほぼ毎朝、登校すると上履きが下駄箱にありません。すぐ近くのゴミ箱に捨てられていたり、どこにも見当たらなかったりしました。下駄箱にあったとしても、中にはチューインガムやプッシュピンが入っていたりしました。

 教室にいけば、椅子の上にプッシュピンがあったりしました。私がそれをつまみあげて壁に刺すことが数日続いたあと、セロファンテープでプッシュピンが止められている朝があったりしました。机の中にはしばしば、手紙が入っていました。利き手でない側の手で書いたと思われるグチャグチャの文字で書かれた手紙の内容は「気持ち悪い」「消えて欲しい」「死んで欲しい」といったものです。

 担任教員は、「いじめられる側に問題がある」ということにしたがる典型的な学校教員でした。私は、毎日どのような目に遭っているかを訴えたいとも思いませんでした。一度訴えたところ、たいへん大げさに問題にされ、私はほとんど「晒し者」に近いような扱いをされてしまったからです。

 私は高校時代、クラスメートとほとんど会話していません。朝、教室に行ったら「おはよう」、帰りがけには「さよなら」とは言っていました。返事はありませんでしたが、「こちらから口を聞かないわけではない」という態度表明として、私はその空しい挨拶を続けていました。

 ただ単に辛く惨めだっただけではなく、実害もありました。中学3年の3学期、私は音楽の筆記テストでカンニングしたことにされたのです。机にテストの答えが書いてあったという「証拠」があったそうです。何が書いてあったのか、私は知りません。もちろん書いてもいません。でも、騒ぎ立てたグループの一人は模範的な生徒で、その学校の体育教員の子どもでした。音楽の先生たちは
「あなたがカンニングするとは思わないし、する必要があるとも思わないけど、でも、N先生の子どもが問題にしているから、しかたない」
と私に釈明しつつ、音楽のテストを0点にしました。

 卒業後は、同窓会との付き合いが始まるわけですが、これがまた苦痛に満ちたものでした。もと同級生との関係は言うまでもないことですが、同じ中学・高校の出身者であり同窓会と強い関係を維持している母親が、自分の望み通りの付き合いを私に強制するのです。

 私は東京の大学に進学し、ほぼ同時に勤労学生となりました。その後も、就労していなかった期間はありません。

 当時の同窓会は、ほとんどが専業主婦である卒業生たちの都合に合わせて、行事が開催されていました。平日の昼間に、時には1万円以上の費用を必要とする同窓会の集会に参加することは、私には不可能でした。その事実は、母親を激しく怒らせました。

 耐えかねた私は、1997年ごろ、中学・高校の同窓会に手紙を書きました。内容は、同窓会との付き合いが困難な事情と、「今後は同窓会の一員としないでほしい」というお願いです。
 でも、それで同窓会から無縁になれたというわけではありません。母親が同窓会にいる以上、それは無理というものでした。頻度と程度は減りましたが、その後も、うんざりするようなことの数々が続きました。

 というわけで、私は出身中学・高校について明かしてきませんでしたが、今日のエントリーを書くにあたって、明かさないわけにいかないので、明かすことにします。
 現在は進学校としての一面「も」知られる、福岡女学院中学校・高等学校です。歴史あるミッション・スクールとして知られています。

 私の在学中は、学力を伸ばしたい女子・キャリアにつながる進学をしたい女子に対して、むしろ妨害するような傾向のある学校でした。
「九州中から頭のいい女の子を集めて、6年かけてバカにして卒業させる学校」
と言う人までいたくらいです。

 しかしながら、ごく少数の教員たちの理解と協力に恵まれた結果として、私の現在があります。それらの出会いには感謝しているのですが、「行ってよかった」と手放しで言う気には、未だなれずにいます。

中学・高校時代の教員たちにとっての戦争

 私が中学・高校生時代を送った昭和50年代、45~55歳程度の「ベテラン」としてリーダーシップを発揮していた女性教員たちは、終戦時に女学生だったり、女子専門学校(現在の大学に相当)の生徒だったりしました。

 私が中学1年のときに数学を教わった故・山崎マツエ先生は、現在の東京女子大の学生だったと聞いています。学徒動員や疎開で学業どころではない学生生活を送り、東京の学校には戻れないまま、なんとか卒業はできるということになりました。私の記憶ですが、確か昭和21年3月、福岡県にいた同級生と一緒に卒業式に行こうとして下関まで行ったところ、下関駅の駅員さんが、
「卒業式? 生きるか死ぬか、食うか食わずやの人たちがたくさんいるのに、卒業式のために東京に行く人に切符は売れない」
と言い、結局、卒業式には行けずじまいだったということです。
「生きるために東京に行かなくてはいけない人が優先されるのは、それは当たり前だと思ったので、そういう不幸を生み出さないように仕事をしたいと思った」
というようなことを話してもらった記憶があります。

 この山崎先生は、小説家を志していた中学1年の私の数学の素質を見抜き、理数系への進学をそれとなく促してくれた恩人です。

 高校2~3年のときには、化学を内田孝子先生に教わりました。内田先生は、福岡女学院中学・高校が「福岡女学校」だった時期の卒業生です。理科系に進学する女子が一学年230人中7人しかいないという環境で、その女子たちをモチベートし、科学の楽しみや意義を教え、もちろん学力も高め……ということに非常に尽力され、結果も出していました。内田先生がどれほど有能な教育者であったのかを認識したのは、自分が教員免許取得のために大学で教職課程を履修し、教育実習も行ってからのことですが。

 私のうろ覚えですが、内田先生が女学生だった時期に、福岡女学校の生徒たちも学徒動員の対象となったそうです。平和台競技場かどこかで行われた出陣式で、旗手を務めたのは内田先生であったとも聞いた記憶があります。

「振武寮」の立地が意味するもの

 特攻隊は「振武寮」という宿舎を持っていました。何らかの理由で特攻出撃が出来なかった特攻隊員の宿舎でした。
 やや長いのですが、Wikipediaより引用します。
 振武寮(しんぶりょう)とは、福岡の旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいであり、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
(略)
 振武隊(西日本にあった陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の名称)の特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容された施設である。要因とは様々あり、悪天候・エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃のような外的要因から、内的要因まであった。
(略)
 特攻隊員は一方向・一回限りの攻撃であり(実際は敵戦闘機に遭遇したら引き返すよう指示)、その原則を崩すと隊員の士気に関わると考えた特攻隊の指揮官は、これらの帰還特攻隊員を他の特攻隊員から隔離するべしと命令を下したとされる。また死して軍神となったのに実は生きていたとなると大本営発表の虚偽が露見するところとなるため、一般軍人や一般市民からも隔離されたといわれ。振武寮に送致された帰還特攻隊員が、自分より先に特攻で出撃し戦死したとされていた同僚と再会することもあったという。
(略)
 帰還特攻隊員は帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、即座に振武寮にて事実上の軟禁状態に置かれることになる。振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた。死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたという。振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もいたといわれる。
(略)
 振武寮に関する公的資料はいまだ発見されず(私文書で「振武寮」という言葉のあるものは存在する)、また振武寮の存在は当時の軍の機密事項に属したため、今でも知る人は少ない。振武寮が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、約80人が収容されたといわれている。また、振武寮そのものは1945年6月19日の福岡大空襲で焼失したという説も、終戦まで存在したという説もあり、どのように役割を終えたのかは明らかになっていない。

 振武寮で実際にそのような懲罰的なことが行われていたかどうかについては、「なかった」「あるわけがない」という主張もあるようです。
 私がたいへん気になるのは、その立地です。

 当時も現在もミッション・スクールである福岡女学校(Wikipediaの記述には「福岡女学院」とありますが、当時は「福岡女学校」だったはずです)の寄宿舎であったということ。
 そこは数多くの女子校が集中する、東京でいえば飯田橋~四谷あたり、横浜でいえば「乙女通り」のような場所であったこと。

 20歳まで福岡にいた私の記憶の中では、もと振武寮、現・九電記念体育館は、泳げる小学生なら入っても怒られない50メートルプールのある「県営プール」の向かいにあり、プールの後は九電の科学館(うろ覚えですが)のお楽しみがありました。卓球の試合(中学時代)でも何回か訪れた場所です。その時期、福岡女学院は現在と同じように福岡市の南端に移転していました。
 しかし昭和30年代まで、福岡女学院は現在の西鉄大牟田線・薬院駅の近くにあったということです。九電記念体育館は、そこから徒歩15分程度の場所にあります。

 振武寮が存在したとされる当時、そこはもともと、ミッション・スクールである福岡女学校の寮であっただけではありません。
 すぐ近くに福岡高等女学校がありました。現在の福岡雙葉学園も、すぐ近くにありました。もちろん、福岡女学校も近所にありました。女子校・女学生に囲まれているような場所です。

 では当時、福岡女学校はどういう位置づけにあったのでしょうか? 私が読んだことのある学校史にも、あまり詳しくは書かれていた記憶がありません。記録されているのは、学徒動員で生徒が工場で働いたということ、負傷者(?)も出たということと、お下げ髪・制服、スカートではなくモンペの女学生たちの写真です。

 当時の福岡女学校は、キリスト教を積極的に前面に出すことはしていませんでしたが、捨ててもいなければ、否定してもいなかったと聞いています。学徒動員先の寮でも礼拝を守っていたとか。そんなミッション・スクールが、戦時中に迫害されなかったとは考えられません。
 戦時中にありえたはずの迫害について、当時女学生であった教員たちにたずねてみると、非常に沈鬱な顔つきになって「制服で歩いていたら石をぶつけられた」というような話を少しだけしてくれたこともあります。しかし、口は極めて重かったです。語られていないだけで、語りえないほどトラウマティックなことが、たくさんあったのかもしれません。

 福岡女学校の寮が「振武寮」になった理由の正確なところは、今となっては調べようがありません。しかし、女学校が集中している地域の、しかもミッション・スクールの寮をわざわざ選択したということに対して、私は「狙った感」が拭えません。
 もしかすると、「宿舎として手頃な建物があるぞ、そもそも学寮だし」が最大の理由だったのかもしれません。
 しかし、迫害や差別の対象ともなっていたミッション・スクールの寮をわざわざ選んで、そこに特攻できなかった特攻隊員たちを収容したということ。そこで、さらに懲罰的かつ屈辱的な扱いが行われていた可能性。
 私はそこに、「多重の差別、多重の迫害を効率的に行いたい」という意志を読み取らずにはいられないのです。


「君が代・日の丸・元号」と無縁だった福岡女学院

 戦時中、キリスト教を捨てなかったことによって迫害されたキリスト教系学校は、少なくありません。その直接的な結果であるかどうかは別として、現在も君が代・日の丸・元号を用いないキリスト教系学校もあります。
 少なくとも私が在学していた1976年~1982年の福岡女学院でも、徹底して、君が代・日の丸・年号は用いられていませんでした。

 一方で、
「戦時中のキリスト教への迫害はそれはそれとして、その国の国旗・国家・歴史的慣習を尊重する」
という視点から、君が代も日の丸も用いているキリスト教系学校もあります。

 最後に読んだのが数十年前でうろ覚えなのですが、横浜・栄光学園の校長であったグスタフ・フォス氏の著書「日本の父へ」には、
「わが校では、戦時中のことはそれはそれとして、君が代と日の丸は国家・国旗として尊重し、尊重することを生徒にも教えます」
というような記述があったと記憶しています。フォス氏のジェンダー観には大変閉口したものの、私にとって得るところの多い本でした。

 グスタフ・フォス氏が栄光学園で行った「それはそれとして、国旗国家だから」という選択は、それはそれで一つの見識だと思います。


 福岡女学院が私の在学していた時期に行った選択は、
「威張ってばかりでロクに働かない商店主の夫を、立てつつも実際にはいうことは聞かず、家庭や家業の実権を握っている妻」
「同額の資金を出して家を建てようとする共働き夫妻の妻が、封建的な土地柄なので夫の意向ばかり通りやすくなってしまうことに対し、建った後の夫の住み心地を悪くすることで鬱憤を晴らす」
といったものに近いのかもしれません。
 それらは少なくとも1990年代以前、福岡の女性によく見られた「女の抵抗」です。
 現在の福岡女学院で、君が代・日の丸がどのように用いられているのか、あるいは用いられていないのかは知りません。元号に対しても、どのように扱っているのか知りません。

 在学中のできごとは、未だ、思い出すだけで辛いです。学院や同窓会に問い合わせてみたいとは思えません。
(現在、福岡女学院に在学中の中学生・高校生の方、もしよろしければ情報提供いただけたら嬉しいです)

 けれども、もしも現在の福岡女学院が「君が代・日の丸」や元号と無縁であることを貫いているのであれば、思想信条の自由という観点から、その選択を「卒業生として」応援してもいいと思っています。
 そういう学校「も」存在するべきなのです。
 そういう学校の存在「も」許されなくなるときは、日本にとって、ほんとうの危機だと思います。

[エッセイ]「特攻」に関する記憶(1)-昭和40年代の小学生として

 本日、2020年8月15日は、終戦から70年の節目の記念日です。
「特攻」に関して、2014年8月15日、当時はオーサーであった「Yahoo!ニュース個人」に書いた記事を転載します。ヤフーのサービスはどうにも肌が合わず、ほとんど使っていなかったのですが、「Yahoo!ニュース個人」編集部からのお声がけをいただき、2014年はじめから2018年10月までオーサーを務めていました。現在は、そのお声がけに応じたことを心から後悔しています。
 以下、当該記事です。

私の親と同じ世代にとっての、終戦と戦後民主主義

 私は1963年(昭和38年)、1933年(昭和8年)生まれの父親と、1939年(昭和14年)生まれの母親の長子かつ長女として出生しました。

 父親は1945年8月15日、国民学校(当時)の6年生でした。父親の父親、つまり私の父方祖父は、1945年2月、軍需工場を狙った空襲により、勤務先の軍需工場(現在、東京都北区にある豊島五丁目団地)で亡くなりました。

 私にとっての父方祖父が亡くなった時には埼玉県浦和市に住んでいた父親たち5人きょうだい(父親は3番目で長男)は、終戦時、母親(私の父方祖母)の郷里である佐賀県の山村に身を寄せていました。

 父親はその時期のことを、私を含む3人の子どもたちに対して、ほとんど語っていません。しかし、1945年8月15日を境に周囲の大人の言うことが全く変わってしまい、9月の新学期が教科書の「墨塗り」からはじまったこと、それから戦後の「カストリ小説」やエログロナンセンスの氾濫については、なんとも沈痛な顔つきで何回か語っていました。父親の死、まったく異なる環境への移住、さらに終戦は、多感な少年の心にどのような影響を残したことだろうかと思います。もしかすると、戦後民主主義や戦後民主主義教育そのものが、父親にとっては「裏切り」でありつづけているのかもしれません。

 終戦当時に6歳だったはずの母親は、福岡市・博多地域に生まれ育ちました。終戦時は、母方祖母の郷里である福岡県郡部の農村に疎開していたと聞いています。母親の方は、小さすぎたせいか、あまり記憶がはっきりしていません。「いとこたちのいる家に滞在し、基本的には楽しく過ごした」という感じだった様子です。母親は、ほぼ戦後民主主義教育を受けて育った世代には属していますが、家庭や血縁社会や地域社会は「イエ」「ムラ」そのものだったようです。戦後民主主義教育は、「家庭や地域とは全く別世界である学校」という、ねじれた状況を母親にもたらしていたのでしょうか?

 父親より2歳~4歳上の人々は、軍の学校に進学することを考えたり、進学したり、あるいは招集が現実化する可能性に実のところビクビクしたりしていたようです。5歳以上上だと、従軍経験があることも珍しくありませんでした。父親の姉たちの夫の中には、終戦のおかげで、スレスレで招集を免れた人もいます。


昭和40年代の小学生の日常に出現した「特攻」

 福岡市のベッドタウン化が進みつつあった町で育った私は、小学4年の秋、風邪をこじらせ、学校を欠席して4日ほど寝込んでいました。
 二段ベッドの上の段で寝ていると、午後、幼稚園から帰ってきた弟(当時5歳)と向かいの家の同い年の女児・タカコちゃんが積み木遊びを始めました。二人は、積み木を重ねて塔のようなものを作っていました。それはいつもどおりの二人の遊びでした。
 しかしその日は、塔のできあがった後が少し違っていました。
 タカコちゃんと弟は、手に積み木を持ち、「天皇陛下ばんざーい!」「特攻!」と言いながら、塔に突入させて壊したのです。
 どこかで誰かに、特攻隊の話を聞いてきたばかりだったのでしょう。
 二人がそういう遊び方をするのを、私はその日、初めて見ました。前日も二人は積み木遊びをしていましたが、「特攻ごっこ」はしていなかったのです。
 姉である小学4年生の私は、特攻隊とは何であったか、「天皇陛下バンザイ!」がどういう場面で発せられたかを、既に知っていました。
 だから二人に、
「そんな、遊びにしてふざけるものじゃない」
と言いたかったです。
 しかし、風邪で喉と呼吸器をやられていたその時の私は、声を出せませんでした。
 声を出せたとしても、言えたかどうかわかりません。長男である弟に対し、長女である私には発言力がありませんでした。
 子ども向け番組がTVで放映されている時間帯のチャンネル権は、完全に弟にありました。私は、昭和40年代後半に小学生だった女児の多くが見ていたTV番組のほとんどに対して
「存在くらいは知っている」
「主題歌だけは聞いたことがある」
という調子です。
 私が見て育ったのは、「仮面ライダー」「ウルトラマン」「ライオン丸」「キカイダー」の類。夕食時に弟が選んだTV番組が、そういうものばかりであったからです。「アルプスの少女ハイジ」や「ふしぎなメルモ」は、弟が見たかったので見ることができましたけど。
というわけで、
「特攻を遊びにするなんて、やめさせたほうがいいんじゃないか」
と思った私は、「やめなさい」と言えなかったわけです。
 その時、確か、母親は家にいませんでした。言ってやめさせることがもしも可能だったとすれば、弟はそれをあとで母親に報告するでしょう。そのとき、「弟とお友達が楽しく遊んでいるのを、姉が妨害した」というふうに伝わったら、あとで私はどういう罰を受けるでしょうか。想像するだけで恐ろしいことでした。実際に、そういうことは私が5歳くらいのときから、多々ありましたから。

 私は黙って、タカコちゃんと弟の「特攻ごっこ」の背景に想像をめぐらせました。
 二人がその日、誰かに特攻隊の話を聞いてきたのは、おそらく間違いないでしょう。
 誰から聞いたのでしょうか?
 特攻隊そのものに属していたことがあったり、日本軍に属していて特攻隊のことを良く知っていたりした、当時45歳前後くらいの男性だったのでしょうか? でも、平日の午前中や昼間に、そういう壮年世代が町にいて幼稚園児に特攻の話をするというのは考えにくい話でした。
 特攻できょうだいや恋人や夫を失った、自分たちの両親より少し上の世代だったのでしょうか?
 特攻で子どもを失った、当時60~70代の女性や男性だったのでしょうか?
 その人は、どういうつもりで幼稚園児に特攻隊の話をしたのでしょうか?
 タカコちゃんと弟は、どういうふうに受け止めているのでしょうか? そもそも、内容を理解できていたのでしょうか?

……そこまで考えた私は、
「ああ、二人は『お国のために飛行機に乗って自殺攻撃をする』という人たちがいた事実を、実は理解しきれていなくて、気持ちの中で受け止めきれていないのかもしれない。だから、今、積み木で『特攻ごっこ』をしているのかもしれないな」
と思い至り、
「続くようだったら、方法や言い方を考えて、やめさせよう」
と考えました。

 二人はその後、少なくとも私の見ているところでは、積み木での「特攻ごっこ」はしていませんでした。「何も言わずに様子を見る」は、結果から見れば正解だったのかもしれません。その時「天皇陛下ばんざーい!」「特攻!」と叫びながら積み木で塔を壊すことで、二人は聞いた話を受け止めることができ、その後、繰り返す必要がなくなったのかもしれないと思ってます。

 タカコちゃんは、たいへん学業優秀な小中学生に成長しました。高校は地域トップの進学校に進み、大学時代の途中からは海外の大学に留学したと聞いています。
 20歳でその地域を離れた私は、タカコちゃんのその後についてほとんど知らないのですが、7年ほど前に聞いた最後の消息では、タカコちゃんは国連に勤務しているということでした。

 5歳のときの「特攻」を覚えているかどうか、その時にどう感じていたのか、今どう思っているのか。
 機会があれば、タカコちゃんに聞いてみたいと思い続けています。

トラウマを塗り替えていくということ

今、京都に来ています。
ちょっと時間が出来たので、京都市街を散策していたところ、大日本スクリーン製造(株)さんの社屋の横を通りすがりました。感謝とともに思い出される社名です。
歩みを止め、わが家の長男猫である故・悠(1998-2013)に、「キミが生まれる前にね」と昔の仕事を話してやるなどしました。
2014-03-31-13-20-32

悠も、彼の姉貴猫の摩耶(1997-)もまだ生まれていなかった、1997年春のこと。
私は応用物理学会の全国大会で、半導体の洗浄に関するシミュレーションの研究について発表していました。
職場で干されていた私は、クラッシャー上司が潰して追い出した先輩の机の上に、帳簿上は廃棄されていたことになっていたけれども予算不足で廃棄できていなかった古いワークステーションを乗せ、会社どうしのお付き合いで購入したけれども誰も使っていなかったシミュレータを動かして、 パワハラや嫌がらせに涙を流しながら、研究を続けていたのです。
その成果がやっと出始めての発表でした。

発表が終わった後、私は周囲をスーツ姿の男性5人に囲まれて
「あの、今の発表について質問させてほしいんですが」
と質問責めに遭いました。
「今、やろうと思っている装置改良があるんだけど、シミュレーションしてみたら効くかどうか分かりますか?」 
といった内容です。
それらは、私が既に試したものばかりでした。
「どうすれば、このタイプの装置で有効な洗浄と乾燥ができるのか、提案できたらいいよね」
という理由から。でも「どうもこの装置は今後はちょっと……らしい」という結論が分かっただけだったんですが。
そのスーツ姿の男性5人は、大日本スクリーン製造で、そのタイプの装置の研究開発を行っている方々でした。
よくもまあ、全く世界が違うシミュレーションのセッションまでお越しになったものです。そして、よくもまあ、34歳の私に丁寧に熱心に質問をされたものです。
仕事に対する熱意に頭が下がりました。 

「もうその洗浄装置は、改良レベルの何かでは今後のプロセスに対応できないよ」
という私の発表は、かなりのセンセーションを巻き起こし、多くの方々から関心と期待をいただきました。
しかし上司たちから疎まれていた私が成果を挙げるということは、つまり、次の瞬間には上司たちによって何もできない状況に追い込まれるということでありました。
その研究は、そこで終わらされてしまい、その後にはつながっていません。自宅でLinuxマシンを利用して続けるという選択肢? 自宅には、上司たちの手先と化した元同僚の元夫がいました。何もできませんでした。彼らが「これだけはさせてやってもよいか」と考えたらしいのが、Linuxサーバ構築・管理に関する技術記事です。私がそういうものを書くことにとどまっている限り、彼らのメンツは潰れないということだったのでしょうか。
私は、その悔しさを忘れたことはありません。ずっと、ずっと、思い出しては涙していました。思い出さなかった日はたぶん一日もないと思います。

でも今の私は、
「上司たちに潰された元研究者」
のままではなく、まあまあ社会的に活動しており、自分の収入を手放さずに済んでいます。
そして、その自分の社会的活動の延長として訪れた京都で、たまたま、私の仕事に注目してくれた方々が在籍しておられた会社の前を通りすがりました。
私は、もう、上司たちに潰されたかつての私を「自己責任」「やり方が下手くそ」と責めなくていいんじゃないか?
そういう実感が、はじめて、心のなかから沸き上がってきました。
1997年から数えて、17年目のことです。 

逆にいえば、17年も経っています。
トラウマの自然治癒に過ぎないのかもしれません。
でも、途方もない時間はかかっても傷は癒えるようです。
どんな巨大な力によって潰されようとしても、最終的に「潰されなかった人生」 を生きることは可能なのかもしれません。
潰されてしまって「女の小さな幸せ」に逃げるのでもなく「仕方なかった」と諦めるのでもなく、「潰されなかった」と自分で小さく胸を張れる人生を生きることは、もしかしたら私にも出来るのかもしれません。
私はそこに小さな希望を見出したいと思っています。 
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「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
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「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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