みわよしこのなんでもブログ : 家族

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ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


家族

[雑感]原家族トラウマはどのように癒えるのか(大学時代編)

 私がしつこくしつこく、原家族、特に両親との問題を書き続けている最大の理由は、回復したいから。というわけで、どのように私が回復してきたかをメモするシリーズ。

 生まれてから20歳までの原家族との同居で抱えたトラウマは、新たなトラウマの追加がなければ、おそらく「時間薬」だけでも20年くらいで癒えたのではないかと思う。実際には生きているだけで相当のトラウマ増し増しが行われることになる。また生きている間に、治療や回復に関する知見が進歩したり、一般ピープルまで届きやすくなったりもする。それも、一概に「良いことばかり」とはならない。
 何があれば、回復の見通しが立つのか。「◯年後の自分がどうなっている」と思えるのか。私は、その目安くらい欲しかった。誰かの役に立つだろうと思い、自分がどんなふうに回復してきたかを記す。

  • ふつうにトラウマ症状に襲われる(1984-1988)
 原家族との同居が終わったのは1984年3月、私の大学進学に伴ってのことだった。東京理科大の理学部第二部物理学科に進学。
 ところが、東京で1人暮らしをはじめて1週間も経たないうちに、フラッシュバックや過食をはじめとして、今なら「複雑性PTSD」の一言で片付く数々の症状が出揃った。しかし当時、PTSDという用語は日本の一般ピープルのところまで届いていなかった。そもそもは、米国でベトナム戦争後の戦争障害者を救済するために編み出された用語という一面も。1984年時点でいえば、現在のように幅広く使われてはいなかったはず。
 私は自分に起こっていることが何なのか、よくわからなかった。
 そして、1人暮らしを始めたのはいいけれど、毎日の母親からの電話に悩まされることになった。電話に出ないと、侵入的な父方叔母の一人(父親の末弟の妻)が母親とセットで「東京に様子を見に行かなくては」ということにしてしまう。その父方叔母は、自分の娘2人と私の妹(1972年生まれ)を連れて、宿泊費無料で東京に遊びに行きたいだけだったのだが、私が当時住んでいた木造アパートは、階下に高齢の家主夫妻が住んでおり、2階のアパート部分も静かな大人ばかりだった。静かな話し方や物腰といったものとは対象的な父方叔母と10代女子3人が来たら、いったいどうなるのか。6畳1間に私を含めて5人が雑魚寝するというのは、およそ非現実的な話だと思うのだが。
 私は、父方叔母の来訪計画に必死で抵抗した。父方叔母は「あそこまで嫌がるのは、何か悪いことをしているに違いない」と言い立て、さらにエスカレートした。結局、この父方叔母の攻勢は、1984年12月、出張で東京にやってきた父親が私の留守中にアパートを訪れ、家主に鍵を開けてもらって中に入って置き手紙をして帰るまで続いた。この父親の来訪のことを、母の兄の息子たち2名(双子で私より1歳下)は「立入検査」と呼び、親類が集まる際の話題にした。その時の屈辱感は、未だに身体に刻まれている。
 トラウマが癒えるヒマもなく上塗りされたわけで、もちろん学生生活にも学業にも、大学2年から始めた常勤アルバイトの仕事にも、相当の支障があった。にもかかわらず、表面的には要領よく単位を取得した。大学3年までに卒業に必要な単位+50単位くらいを取得。理科の教免に加えて数学も取ろうとしていた上、昼の仕事が結晶学だったため関連する化学科の科目まで履修していた。部活(物理研究)、学友会活動(大学祭実行委員として大学との交渉に当たるなど)、バンド活動、ピアノや歌のスキルを落とさないための自主訓練、登山、スキー、スケートなどにも励む。昼間の仕事を続けながら(それは職場の多大な理解と支持あってのことだけど)大学院修士課程に合格。理科大には嫌気がさしており、国立大学の院に進学したかったけど、理科大に引っかかって新設の研究室に拾われたおかげで、超絶的に恵まれた修士課程を送れる……はずだった。
 表面的に見れば「なんと充実した大学生活」ということになる。休む間もなく「何かする」ということで時間を埋めていないと、気がヘンになりそうだった。

  • 今から振り返る「こうだったらよかったのに」
 2020年現在のセオリーでいえば、ここまで激烈なPTSDの症状が出揃っている場合、大学で誰かが気づくなり話を聞くなりしただろう。1984年の東京理科大(神楽坂)には、それが可能な体制はあった。なかったのは、複雑性PTSDに関する知識と対応スキル。入学当時、学生相談室はまだなかったけれど、確か1988年か1989年に設置されている。理由としては、「理科大の高い自殺率が問題になったから」とまことしやかに囁かれていたけれど、教員養成校としての一面が強い理科大と、教員に強い影響力のある故・國分康孝先生が当時理科大にいたことが最大の背景と思われる。実は私、國分先生に個人的にずいぶん助けていただいた。「合法的家出」としての大学進学については理解があった國分先生だったけれど、虐待後遺症や複雑性PTSDについては概ね知らなかった(あくまでも1987年度まで、私が学生として接していた時期のこと。念のため)。
 原家族と物理的に距離を置いたのだから、医療その他の介入のもと、原家族とのコミュニケーションを制限することが可能なら、まずそれが第一の選択肢になるだろう。帰省時のファミリーカウンセリングといったことも、手段としてはアリかもしれない。原家族や原家族との関係がどうにもならないようなら、学生の安全を保ちながら生活と関係を分離すべく社会保障その他の制度を総動員することも(利用できる制度は2020年現在も皆無に近いけど)、考えられるかもしれない。ただこれは、良くも悪くも面倒見が悪く「放置プレイ」が学風の当時の東京理科大だと、考えにくい路線。
 いずれにしても、すべきことは単純な話。目に見える擦り傷切り傷に例えれば、患部を保護し、新たな刺激を避けて回復を待つ。感染症に罹っていたら、それも治療する。回復すれば、傷跡は残るかもしれないけど、保護する必要のない患部と身体に戻る。
 ところが私に出来たことは、物理的に1000km以上の距離を取ることだけだった。新たな刺激は多様な理由で続いた。回復するどころではなかった。PTSD症状は、年々悪化していった。


 父親にアルコール問題があったことも、別途書き記しておく必要があると思うが、それはそれで長い話になるのでやめておく。
   


 私が理科大二部に進学することになった直接のきっかけは、父親のアルコール問題、そして母親のイネイブリングに関係している。

  • 原家族との間で起こったこと(1984-1988)
これは箇条書き的に書くにとどめる。2020年現在、まだフラッシュバックするような出来事が多数。

1984年3月
私が東京に出ていくことが確定すると、もともと私に対して「そこに一人の人間がいる」という扱いをしていなかった弟が、私を透明人間か何かのように扱うようになる。私に懐いていた実家の初代猫(当時5歳)が私の横にいるとき、黙って部屋に入ってきて黙って猫を抱き上げて立ち去るなど。

1984年4月 
東京都新宿区、理科大(神楽坂)の近くで一人暮らし開始

1984年4月 
福岡の母親からの毎日の電話攻勢が、アパートの共用ピンク電話に対して行われる。出ないと他の住人に迷惑がかかる。出たら30分も1時間も解放してくれないので他の住人に迷惑がかかる。それを言っても「お母さんが電話してやりようとに(電話してやっているのに)」。

1984年5月 
幼少のころから半分育ての親のような母方叔母が、出張ついでに来訪。特に問題なし。母方叔母は、東京に本社がある企業の九州支店に高卒で就職。定年まで勤め上げ、最後は経理の責任者のような仕事をしていた。

1984年5月 
上述の父方叔母から「行って泊まって様子を見てあげる」という申し出が、母親に対して始まったらしい。母親(時に父親)から、受け入れない私のせいで自分たちが責められるかのように言われはじめる。

1984年7月
共用ピンク電話への母親からの電話の心労に耐えかね、7万円払って部屋に電話を引く。ちなみにアパートの共益費には、ピンク電話の利用料金が最初から上乗せされていた。私が自室に電話を引いても、その費用はそのまま支払うこととなり、電話にかかわる費用を二重に払っていたわけ。
周囲の住人に遠慮しなくてよくなったため、母親の電話の頻度と長さと内容はさらにエスカレートする。念のために書いておくと、「ナンバー・ディスプレイ」はまだなかった(2008~2010年ごろ、筑波大の当時の指導教員に本件で「電話に出るからいけない」と笑いものにされたので、わざわざ書いてる)。

母親が「東京は野菜が高いようだからいろいろ送ってやった」と電話してきた。当時は、配達時間指定がまだなかった。母親が何か送ってくると、土曜日や日曜日を一日潰して在宅していることになった。さらにクール便や宅配便の温度管理がまだなかった。
届いた段ボール箱の中には、ほうれん草など野菜や果物がたくさん。しかし、ほとんどが腐っていた。一日を潰した上、届いたものをすぐ捨てなくてはならないのである。泣きながら始末し、実家に電話をかけると、妹が出て
「あ、お姉ちゃん? お母さんが送った荷物届いた? お母さんが、『腐って大変やろうねえ、ふふふ』って言いよんしゃったよ」
と言った。
以後、母親からの「荷物を送る」という申し出は固辞に固辞を重ね、どうしても送ると言うときには生鮮食料品だけは入れないように念に念を押した。
ちなみに1990年を過ぎ、私が就職したころ、母親から「野菜を送った」という電話があった。私は「やめてほしい」と言った。母親はなぜか素直に応じ、実家近くの取り扱い店に連絡し、送り返してもらったそうだ。送った翌々日だったが、何も悪くなっておらず、入れたナスは熟成されて美味しくなっていたそうだった。このことは母親と妹の2人からその後何回か繰り返された。なぜそんなに繰り返すのか理解できなかったが、その後のある時に納得することになった。母親と妹にとって、1990年過ぎ、宅配便の所要日数が減り、通常便でも一定の温度管理がされるようになった時、腐らないように私に野菜を送ることは、1984年の意図的腐敗便を打ち消す効果があったようだ。しかも私は送らせず受け取らなかったわけなので、「理由なく親の好意を拒んだ、ひどい長女」というエビデンスまで作れたわけである。

1984年8月 
帰省。父方叔母から「東京に行って泊まりたい」としつこい依頼を受けるが、「静かな住宅街の中の静かな住人ばかりのアパートだから、迷惑がかかるので」とお断りする。
この時に衝撃的なことを知るが、それについては書かないことにする。弟に関連している。
学生・院生時代の帰省は、この後、1986年正月、1986年8月、1987年正月、1989年8月(これが最後)。
いずれの時も、実家の初代猫は私を覚えていて、私に甘え、抱かれたり、一緒に寝たがった。ところが最後の帰省のとき、猫が私の背中の上で寝ていたところ、部屋のドアを黙って開けて9歳下の妹(当時高校生)が入ってきて、背中の上で寝ている猫を黙って抱き上げて連れて行ってしまった。この時の悲しさから、猫の存命中は実家には一度も泊まらなかった。私が猫を離さなかったり、猫が私から離れなかったりすると、私が口を極めて罵倒されることになる。

1984年9月
父方叔母の「子どもたちと東京に行ってヨシコちゃんのところに泊まる」という意向が、さらに強まる。勉学どころではない中、大学で最初の定期試験。
共通一次にも出願。理科大の環境に馴染めないものを感じたため。

1984年12月
出張で東京にやってきた父親が、私の留守中に大家に依頼してアパートの自室に入って様子を見て、置き手紙をして帰る。出張の予定を知らされていたので、私は黙って不在にし、福岡に帰って予備校時代の旧友や恩師と会っていたのだが、東京に戻ってみると……。

1985年1月
年末年始に帰省。この時、1歳下の従弟たち(双子、母親の兄の子たち)によって、父親による私の「立入検査」が話題にされる。
私の受験した英検などについて、母親の弟の妻(母親は非常に嫌っていた)が熟知しており、質問責めにされる。1986年1月には、同じ叔母から常勤アルバイトの仕事について質問責めにされた。その叔母の家には、私より数歳下の従妹2名がおり、将来の参考にしたいというのなら分からなくもない。しかし、叔母はそのために尋ねている感じではなかった。いずれにしても、答え方や用語に対して、あとで母親から責められる(理由はよくわからない)ことになるため、私は盆暮れの帰省を避けるようになっていく。具体的には、親類が集まるタイミングを避けて最小限の義理を果たす方向。新幹線の1日乗り放題切符を使い、1月1日夜に帰省、1月2日に東京に戻るなど。

1985年1月
初めての学年末試験。
共通一次も受験。880点だったか。東工大に出願しようとした。ところが出身高校の教諭が、理由になっていないことを言って妨害。母親の知るところとなる。母親からも強い妨害。

1985年2月
東工大には結局は出願できたものの、母親から毎日の電話。「期待を裏切ったら許さない」「失敗は許されない」など。落ちても理科大の学籍はあるのだが、母親の目的は再受験を失敗させることにあったと思われる。
福岡の大学に進学していた予備校時代の友人(女性)がおり、将来へ備えたスキル習得のため、長期の休みに東京の大学に進学した予備校の友人たちの住まいを渡り歩いていた。彼女が私の住まいに泊まっていた日、私の不在中に母親から電話。うっかり電話をとってしまった彼女は、「アンタ誰? どこの大学?」などと母親に詰問されて泣き出した。泣いているところに私が帰宅。

1985年3月
母親の「励まし」の電話で精神状態が極めて悪くなる。
東工大の受験日は、受験会場まで行けず棄権。
理科大の単位は全部合格。進級できることに(ストレート進級は学年の1/3)。
この年、弟が高校を卒業して福岡の大学に進学したはず。

1986年
アパートの横に別のアパートが建って生活環境が悪化したため、徒歩5分ほどの別のアパートに転居。
母親からの電話攻撃は相変わらず。
3月、妹が中学受験に合格したご褒美に東京に滞在。私のアパートに泊まる。東京ディズニーランドに行きたがったので、随行した。また、池袋など妹が買い物に行く場所にも随行した。妹がしたいことに、安全のため付き添ってただけ。

1987年
2月、弟が日大芸術学部を再受験するといって、私のアパートに泊まる。この時のアパートの大家は、プライバシーへの詮索や介入の度が過ぎる高齢女性で、弟の滞在に関する理解を求めるのは大変だった。母親は「たった一人の弟を世話してやらんと」といい、弟が不合格だったら私のせいにするかのようなことも言う。しかし実質、親の意向通りに福岡の大学に通い続けるために認めてやった記念受験のようなものだったらしい。弟は中学1年レベルの英語や社会の復習をしていた。日大芸術学部は不合格。弟は、食事については「作ってほしい」「不要」などと言うことはなく黙っており、ただコンビニで買ってきたものばかり食べていた。私が作った食事は弟の分が無駄になるだけだった。その他、私が弟に「しないでほしい」といったことが、弟が福岡に帰った後、ほとんどすべてやられていたことに気づく。実家に電話すると母親が出て「(弟が)……をしたから、お姉ちゃん怒っとろうやと言っとったけど、アンタ怒ったらいかんよ」と言っていた。
弟は、この時の受験というか東京旅行で、「ルームサービスのあるホテルに泊まる」ということが希望だったらしい。私はそんなホテルは知らず、弟が自分で探した池袋のビジホに泊まったらルームサービスはなかったらしい。その不満も私のせいということにされた(母親談)。

7月、先輩たちにくっついて国家公務員試験(II種)を受験。自分だけ合格。

母親が希望したのか、父親と母親が希望したのか不明だが、父親が東京に転勤する話が持ち上がる。それ自体はありうる話なのだが、母親によれば私は父親と同居して、父親の「お世話」をし、「アンタのしたいことやら、何もできんとよ、ふふふふふ」ということだった。父親によれば「一家の住居が3つというわけにはいかない」ということだった。私は仕事を捨て、大学も退学して行方をくらますことを検討せざるを得なかったが、父親の転勤話が頓挫。

1988年
大家が同居しておらず、プライバシーが守れる(しかし安全面では若干の懸念のある)アパートに転居。1990年に西荻窪に転居するまで3年間住んだ。

この年は大学院受験だったが、保険につぐ保険をかける気持ちで、7月に国家公務員試験(II種)を受験。合格。
大学院受験は、当時の大学の研究室の指導教員の妨害にあった。東工大は出願できず。次に電通大に出願したが、同じ研究室の大学4年生男子から、試験数日前から色恋沙汰のお誘いが。どうも試験を狙って、指導教員がなんとなく承知のもとか、それとも指導教員の歓心を得るべく本人が策略をねったのか。そして試験前日に「受験やめちまえ」と1時間以上罵倒される。翌日、試験に行ったものの、全く出来ず。試験内容も覚えていない。不合格。
理科大の大学院への出願は、なぜか妨害されなかった。出願しても合格を妨害できるだろうという指導教員の心づもりがあったのかもしれないが、ペーパーテストで合格圏。面接では、新任の指導教員が採りたい意向を示し、合格。
理科大の院試のペーパーテストのとき、同級女子が保護猫3匹を試験会場につれてくるという笑い話あり。その1匹が我が家の初代猫となる。
母親は、もちろん大学院進学には反対。毎日電話をかけてきては「お父さんが……に就職したらどうかと言っている」。父親が勧めているという私の就職先は日替わりだった。事実ではなかったのかもしれない。大学院の合格を知らせると「はあ、まだ学生が続くとね」と嘆息。母親はその後、近隣の人々や親類たちに「おめでとうと言って泣いた」と言っていたそうだが、私の知る限り、そんな事実はない。
指導教員の反対にもかかわらず大学院を受験して合格、しかも同じ研究室から受験した学生は他1名を除いて全員不合格。私がどういうお仕置きを受けるか。想像するまでもない話で。それはもう凄まじいことが。

話はやや前後するが、国家公務員試験に合格した時、留守電電話を買った。SONYのミニカセット式の留守番電話。昼間は働いていた私が、採ってもらえそうな官公庁からの連絡を受けるため。4万円もしたけれど、「これで母親からの電話に出ないことが可能になる」という目論見もあった。でも、甘かった。
母親によれば、「留守番電話の応答の音声が感じが悪い」ということであった。何回も応答の音声を変えてみたが、母親は「感じが悪い」「こんな電話では親がおかしいと思われる」と繰り返すのみ。なぜ、私のアパートにある電話で両親が「おかしい」と思われるのか理解不能だった。しかし私には、「昼間、不在のときに連絡を受ける必要がある」という現実のニーズがあった。大学院に合格するまでは。その後は母親の「感じが悪い」攻勢に屈し、せっかくの留守番電話を使えなくなった。
結果として、この4万円は無駄な投資にはならなかった。修士の院生のとき、大学4年のときの所属研究室を引きずった嫌がらせに対抗するのに役立った。しかしその時期、留守番電話を機能させておくと、母親の「感じが悪い」に責められることになった。さらに母親は、その嫌がらせを支持したのであるが、それは1988年度以後のこと。

1988年3月
東京理科大二部物理学科を卒業。

  • PTSD治療に関して
 しつこいようだが、1984年から1988年の時期、まだ「PTSD」という用語は日本の一般ピープルや学生のところまで届いていなかった。精神科開業医のほとんどのところにも。自分にも「病院に行くなら精神科なのだろう」という自覚はあったけど、いくつかの理由で、大学在学中は1度も受診していない。

1. 辛うじて、学内で精神面の支援が得られていた

 教育心理学を教わった國分康孝先生に助けていただいていたことは前述したとおり。教育心理学の講義が21時過ぎに終わって、國分先生がさいたま市のご自宅へと帰途につくまでの3分5分の立ち話だけど。「困りごとと背景を要領よく聞き取り、一人で限られた時間で出来るワークを出し、翌週、その結果を見て次のワークを」ということの繰り返し。症状は軽減しなかったが、どれだけ助けられたか。回復に至らなかったのは、國分先生が「PTSD」を知らなかった以上、しょうがない。

 学校教育の現場にカウンセリング・マインドを導入するというのが國分先生の思いだったのだけど、カウンセリングマターとそれ以外の切り分けについては、繰り返し教えられた記憶がある。たとえば、精神疾患をカウンセリングで治すのは無理ゲーだし、悪化させる可能性もあるし。でもカウンセラーには「それは精神疾患だ」と診断したりできないし。その場面で、学校教員はどうすればいいか。その具体的な方法論もあり。「親を呼び出して精神科につれていくように言う」といったメチャクチャはなかった。
 私自身も、國分先生に対して「カウンセリングマターの範囲で」という配慮をして話していたところもある。本当に深刻なところは口から言葉に出せなかったから、結果としてそうなったというところも。なんとか少しでもラクになりたかったから、「目の前の凄い人から確実に得られそうな助けで確実にラクになれる部分が一部でもあるのなら、まずはそれ」と割り切ったというところも。
 ただ、「これはカウンセリングマターではない」と判断されたとして、それではどこに行けばよかったのか。当時の日本には、どこにもなかった。下手に当時の精神医療につながらなかったことは、もしかすると不幸中の超幸運かもしれない。

 神楽坂キャンパスの保健室の看護師さんにも、ひとかたならずお世話になった。
 私はほとんど通年、母親から強烈な電話を受けては数日後に体調を崩し、胃痛や頭痛や震えで講義室に居られなくなり(実験室は大丈夫だった)、保健室を訪れては簡単な投薬を受けていた。試験時期は、ほとんど毎日のように微量の鎮静剤をもらっていた。
 私自身、「背景と原因は原家族」という認識を明確に持っていたわけではないし、そういう路線で聞き取りをされたわけではないし、話したわけでもない。しかし、4年間ずっとそうだったので、一定の理解と支持はされていた感じがあった。たぶん「理科大生(特に二部生)あるある」だったんだろうと思う。似たような女子学生は、他にも少なからずいた。いつの間にか退学して大学から消えたりせず、この世からも消えず、卒業してその後があることを今も確認できるのは、私以外に2人くらい。

2. 健康保険が父親のものだった

 大学3年の時まで、私の健康保険証は父親の保険組合の遠隔被保険者証だった。精神科や心療内科に行くと、親バレするということである。このため、身体の病気で深刻になりそうな気配があったら、病院に行けなかった。「それを口実に福岡に連れ戻されたら」と思うと、病院に行けない。ましてや精神科は。
 大学4年になるのと概ね同時に、常勤アルバイトから嘱託になり、自分の健康保険証を持てることになった。この時「やった、精神科に行っても親バレしない」と思った。しかし、なにしろ精神科というところに行ったことがない。中の想像がつかない。今だったら、駅前に複数の精神科・心療内科クリニックがあって選択に困るくらいだが、1980年代は街中にそもそもなかった。どうすれば、より傷つけられることだけはないところを探し当てられるのか。それもわからない状態。

 というわけで、自分に何が起こっているのか皆目わからず、治療や回復の当てもないまま、トラウマにさらなるトラウマが重なり、状況も症状も悪化する中で、私の大学生生活が終わった。

  • 1989年を目の前に

 日本の一般ピープルのもとに「PTSD」がもたらされる先駆けとなる出来事は、私が修士課程1年だった1989年に起こる。もちろん、それで万事解決するわけはない。

[雑感]育児や教育のリテラシーは、子どものために使われるとは限らない

 親を対象として書かれた育児書や教育書は、通常は親が読んで親自身の言動や考え方を変えるために使うものだと思う。ところが私の両親(特に母親)は、私に対してはそうではなかった。

 最初は、小学館の『小学◯年生』だったと思う。私は、1学年上のものを買い与えられていた。母親は、学習ページを全部終わらせないと、他のページは読めないし付録も触れないというルールを作っていた(弟妹はそんなことはされていない)。そんなに困難な課題というわけではなかったから、こなしていた。マンガや女児向けのアニメなど、クラスメートとの共通の話題になるようなものから遠ざけられていた私にとっては、クラスのみんなが面白がっているものに接するための概ね唯一の機会だった。1学年ずれてたけど。
 なお小学4年を最後に、学年なりの『小学◯年生』に変えてもらった。年度末は、2学年上の学習ページに取り組むことになる。小4の私にとって、さすがに小6算数はキツかった。
 
 母親は、『小学◯年生』の保護者向けのページも、私に読むように求めていた。そして、そのとおりにせよと。確か、私が小学2年くらいの時から。当時の私は既に、大人向けの書籍や雑誌や新聞が読めた。文章として「読める」という意味では、そう現実離れした要求ではなかった。そこにはしばしば、きょうだい差別やきょうだいを比較することの弊害に関する記述があった。世の中には、読んでハッとして自省する親がいるのかもしれない。「ウチではそんなことしてないけど、それで正解なんだ」とホッとする親がいるのかもしれない。でも、どこにいるのだろうか? 少なくとも、私に対する両親にそんなことは全く期待できない。どこにそんな世界があるのか。きっと、実在することはするのだろう。でも、どこに? その世界の住人であるということは、どんな生き心地なのだろうか。想像がつかなかった。今も想像できない。

 当時流行した育児書の多くは、同じような成り行きで、両親のどちらかから読むように求められて読んだ。たとえば、浜尾実『女の子の躾け方』とか。当時、この本のせいで白いパンティがトラウマになった女性、相当数いたんじゃないかな。


 ところが、母親が徹夜でむさぼり読んだにもかかわらず、私には見せなかった教育書がある。井上隆基『100を求めて0 にしないで : よい習慣をつくる勉強のしかたとは』という本(CiNiiページ)。CiNiiの書誌情報では1983年刊行とあるけれど、所蔵している大学図書館の目録には発行年が異なるものもある。もともとは、付録のような扱いで無料配布されていたパンフレットだったようである。母親がこの本を読んでいたのは、私が中学2年の時、1977年だった。

 文字と言葉が早く勉強の要領が良い方だった私は、中学受験して入った私立中高一貫校で、あまり勉強に苦労しなかった。中学に入って間もないころ、数学の時間にぼーっとしていて落ちこぼれたけど、すぐV字回復。中学3年以後は、熱心だけど細かすぎる英語教師の教え方に自分を合わせられず、気がつくと英語で落ちこぼれて高校卒業まで至った。とはいえ、英語は学年相当レベル程度には読めるし聞けるし話せるし、文法を気にしなければ書けるし。校外模試なら、それなりの成績取れるし(偏差値70を「100点満点の70点」と意図的に誤解した母親から、100点ではないことを責められたりはするけど。母親が「意図的に誤解した」としているのは、そこに素点も書いてあったから)。問題は、学校の英語のテストの成績が悪いことだけだった。英語以外の科目では、特に学習に苦労した記憶はない。勉強は嫌いじゃなかったし。

 中学2年の1学期の期末試験のとき、特段の準備はしていなかったのに、学年で2番になった。
 次に母親がしたことは、『ポピー』という自宅学習用教材の購読だった。私に意向を尋ねることもなにもなく。ある日、学校から帰ってくると、その教材が1ヶ月分、机の上にドカンと積んであった。そして母親が、目を血走らせていた。

 母親は、「アンタのために買ってやったんだから、今すぐ全部やりなさい」という。1ヶ月分を今日中にやれと。いくらなんでも無理だ。母親の方針に表立って逆らったことはほとんどなかった私だが、このときの『ポピー』に関しては、「言うことを聞いたら後が恐ろしい」と直感した。私が取り組まなかったら、そのことの罰を受けるだろう。しかし、もしも私がこなしてしまったら、さらなる無理ゲーが重ねられ、最終的に潰されるだろう。どっちがマシか。
 結局、私は教材をほとんど開かず手も触れなかった。その教材をめぐる一触即発状態は3ヶ月ぐらい続いたが、母親はだんだんトーンを下げていった。ついには、諦めて購読をやめた。
 決め手になったのは、母親の兄の妻がいるところで、私がその教材について口にしたことであった。母親は、自分自身の兄夫妻が子どもたちの知育や学業成績アップに熱心であることに、激しい対抗心を燃やしていた。実体はともあれ、母親はご近所さんや親類から「教育ママ」と見られることを非常に嫌がっていた。私の前に母親以外の大人がいなくなったとき、私は覚悟をきめた。母親の想定外のことを親類に語った罪の罰として、いつものようにぶっ叩かれるのだろうか。しかし、その時は何も起こらなかった。
 それにしても、私の嫌がること、私に無理を強いることを、母親が自発的に止めるなんて。私のこれまでの56年の人生の経験の中で、片手で数えられるほど珍しい成り行きだ。もっとも、母親が「ためを思って」「教育」といった名目で私に無理無茶を強いて、弟妹ともども私を笑い者にするようなことは、別の名目で続いた。

 『ポピー』とともに、『100を求めて0にしないで』という本が実家にやってきた。保護者向けにセットになっていたのだと記憶している。母親はその晩、ほぼ徹夜で食い入るように読んでいた。そして、この本は私に見せなかった。書棚に並べず、裁縫道具の中かどこか、簡単に私にアクセスされないようなところにしまい込んであった。

 私は今年になって、「!」と思い当たった。タイトルから見て、その本には、子どもの学習意欲を維持して喚起するにあたって有効な考え方や方法が書いてあったのだろう。

 「100を求めて0にしないで」というタイトルは、「100を求めるならば、0になる可能性がある」と同じ意味であるが、「0にするには、100を求めればいい」と同じ意味にはならない。しかし、子どものモチベーションを阻害する可能性がある親の言動の数々は、子どものモチベーションをなくしたい親にとっての有効なヒントになりうる。

 この本は、2020年現在、中古市場で入手できるようである。買ってまで読みたいとは思えないけれど、国立国会図書館など所蔵している図書館に行く機会に、ついでに見てみようと思う。

 この本が実家にやってきた後、中学2年の夏休みから後は、学習や勉強を口実にして打ちのめされることの連続になった。成績が良ければ、母親が自分の勉強法や自分の勧める教材を押し付けて、私の学びを妨害する。成績が悪くなれば私のせいである。母親の「ためを思って」名目の妨害から逃げ切った結果として成績が良好だったら、母親は何か私の性格上の欠点や見た目や表情の問題を口実にして「勉強ができても何もならん」と言ったりする。有効な隙がないと、「アンタなんか努力しても何もならん」という予言を繰り返す。現在形で書いているのは、形態を変えつつも現在進行中、少なくとも終わってはいないからだ(念のため。私は自分が酷い目に遭ったり遭う可能性があったりすることを終わらせたいのであり、母親自身の生命健康に何かが起こってほしいというわけではない。わざわざこう書いているのは、「親を痛めつけようとしている」「親を亡き者にしようとしている」とか言われないために。10代まで実際に何回も何回も言われたけど、そんな欲求は持ってなかった。4つ下の弟は、年齢1桁のころは母親にかなり激しい暴力で向かっていたけれど、それは私の暴力にすり替えられた。私、やってません!)。

 そして私は、「乱数表を使って学業成績をランダムに乱高下させる」という対応で日々をしのぎながら自分と自分の人生を守ろうとしたり、ソロバンと計算尺でマルコフ連鎖モデルを計算してその日の母親のブチ切れ確率を出す「母親シミュレータ」を作ったりする高校生になっていく。母親が私の勉強ぶりから学業成績の成り行きを予測したり、自分の言動が与えるインパクトを学習されてしまうと、そこが母親の願望や口実の入り込む隙に使われてしまうからだ。もっとも、私の学業成績が母親の便利な道具にならなくなったら、母親は「美容院に行ったら、たまたま来てた占い師」といった、実在するのかどうか不明の何かを動員するようになった。また、私がいないときに弟妹が私について語ったことも利用され、捏造ではなく事実だった可能性が高い。弟妹には利得だけあって損失はなかったから、その行動は強化されていった。どっちみち、私に対する仕打ちの総量は変えられないのかもしれない。

 その時期、1975年から1980年ごろは、一般市民向けの心理学書がちょっとしたブームになりつつあった時期でもある。父親は企業に勤務する労務屋だった。通常の会社員以上に心理テクニックの駆使が期待される職種だ。世の中でブームになるのよりも少し早く、心理学書が実家の本棚に並んでいた。中高生の私は、「なんだろう?」と思って、手にとって読んでみた。エロ本でもなければ、爆弾の作り方の本でもない。読んで悪い理由があるだろうか?


 数週間遅れで、母親は、私が父親の心理学書を読んでいることに気付いた。そして「他人の心の中を知るやら、好かーん(他人の心の中を知るなんて嫌いだ)」と繰り返した。そういう母親自身は、近所のお宅のありもしない嫁姑戦争やきょうだい差別を作り上げては、背景をとくとくと私に解説し、私が耳を塞ごうとすると「お母さんがせっかく話してやりようとに、聞きぃ!(お母さんがせっかく話してやっているのに。聞け)」というのだった。

 中高生の私は、「母親がそう言っている」という事実に対して、反抗したいとは思わなかった。母親に変わってほしいとも思わなかった。ただ、トラブルや軋轢の種を減らしたいだけだった。母親が「好かん」というのなら、家で読まなければいい。それだけの話。手段はあった。

 母親がとくとくと語る近隣のお宅の(おそらく70%くらいは非実在の)嫁姑戦争等に対しては、肯定しなければ自分が酷い目に遭わされる。しかし肯定すれば、「私がそう言っていた」という話として当該の近隣に吹き込まれる。小学生のころから、そんなことが繰り返され、私はつくづく懲りていた。表情を変えずに、軽く頷いているのか頷いていないのか分からないような顔の動かし方をしていた。母親は、思い通りの反応が得られないためキレる。肉体的な暴力に及ぶことも多々ある。しかし、それだけで済む。ともあれ、私が心理学書を読むことを母親が嫌がったのは、「母親が、自分自身の心の中を知られたくなかった」という理由だったと結論づけてよいだろう。

 さて。『100を求めて0にしないで』には、何が書いてあるのだろうか。そこにあるノウハウそのものや、その裏、その逆を、母親が誰にどのように使用したのだろうか。

 読めば、きっと分かるだろう。

[雑感]私は希望を抱くことができるのか? ~ 母親と味噌汁

 私が作った味噌汁を、母親が「まずい!」と言ってひっくり返したことがある。1983年。私は19歳だった。目撃者はいなかった。数分違いで食べた他の家族は、同じ味噌汁に対して、特に何も言っていなかった。母親にだけ、特製の美味しくない味噌汁を出したわけでもない。母親は、勝ち誇ったような嬉しそうな表情を浮かべていた。私は、嘆きも悲しみもしなかった。毎度のことだ。

 現在の私の住まいには、もろもろの都合で、母親が味噌汁をひっくり返した現場と同じ配置、同じような日照条件となる場所がある。日中、その部屋のその場所に行くたびに、私は母親の「まずい!」とひっくり返された味噌汁を思い返す。思い出したくて思い出すのではない。記憶のほうから勝手に出てくる。忘れたいのに忘れられない。トラウマ記憶とはそういうものだ。



 ところが2ヶ月ほど前、2020年7月、大きな変化が起こった。

 その場所で、私が母親の「まずい!」と言う声と、勝ち誇ったような嬉しそうな表情と、ひっくり返された味噌汁を思い出すことは変わらなかった。しかしその時、ひっくり返されて椀の中からこぼれ出た味噌汁が、竜巻に巻き上げられたように浮かび上がり、母親の頭の上から降り注いだ。

 私は「えっ?」と驚いた。まあ、物理としてあり得ない話ではあるんだけど。その日から、私の中に少しずつ変化が起こりはじめた。

 母親はじめ原家族から受けたことは、今のところ「言われっぱなし」「やられっぱなし」「泣き寝入りさせる」でしかない。幼少のころ、さらにそれを引きずって成人後も現在もそうである私としては、「せめて、なかったことにしないことができる」という希望を見出したい。それは、たった一つだけ私に残された、原家族に関する希望である。

 でも、私が「なかったことにしない」という現実を作ろうとすると、原家族によって、あるいは原家族の影響が濃厚な何かによって全力で潰された。原家族にはもちろん、なかったことにしなくては都合が悪いという現実があるだろう。

 私も、最初からそんなことはされなかった過去を望んだ。もしも、望んで叶うものなら。でも過去は変えられない。過去にその事実があったこととその影響自体は消せない。誰かの都合で、なかったことにされるかどうかは、また別の話。

 私が最初からそんなことをされなかった過去とは、両親はじめ原家族が私にそんなことをしなかった過去である。でも両親は、私の記憶にある限りは55年前(私が2歳のころ)よりも前に、今となっては「なかったことにしなくては」と必死にならなくてはならない現実を作る道を選んだ。

 これは戦争なのだ。私は生まれて物心ついたら、両親が作った戦争に巻き込まれていた。好きで巻き込まれたわけではないが、勝たなければ生き延びられない。でも、勝ち目はない。どうせ負ける。生まれて来ないほうがよかった人生の「生まれて来ないほうが良い」度が増すだけだ。負けがひどくなるだけのなら、損切りしなきゃ。自分が死ぬことによって。ずっとずっと、そう考えていた。客観的に「それは違う」と言える変化は、少なくとも私が知る限り、何もない。

 両親にとっても、事情はおそらく似たりよったりだろう。55年前に止められず、その後もエスカレートを止められなかった。今となっては隠蔽するしかないのだが、当事者である私は絶対に応じない構えを示し続けている。こうなったら私を消すなり潰すなりするしかないのだが、私は全力で抵抗を続けている。両親の真意や心情は推測するしかないのだが、ここで停戦したら、過去少なくとも55年分のすべてが無駄になるのかもしれない。勝ち目があろうがなかろうが、私を消して潰すことに全力を尽くすしかないのかもしれない。

 私は抵抗を続けてきたが、正直なところ、「両親の思い通りにならない結末がありうる」と考えたことはない。相手の方が圧倒的に優勢だ。人数だけで言っても、両親と弟妹で4人。最初から4対1の負け戦だ。その後、弟妹の配偶者とその社会的地位と経済力などが加味され、さらに両親側が優勢になった。弟妹夫妻の子どもたちは成長し、いまだ未成年ながら、さまざまな輝かしい活躍をしているようだ。もう絶望的だ。親を選んで生まれたわけではない甥たちに対して何かをしたいとは思わないが、私は自分と自分の人生と自分の猫たちと暮らしを守りたい。でも、どうやって?

 今でも、客観的に私の不利が減ったという事実はない。でも2ヶ月前、約40年前の記憶の中の母親がひっくり返した味噌汁は、空中に飛び上がって母親の頭に降り注いだ。それは私の脳内での出来事に過ぎないけれど。

 その次の日も、さらに次の日も、私は同じように母親と味噌汁を思い出した。そして味噌汁は、同じように母親に降り注いだ。日を重ねるごとに、母親の表情が変わっていった。勝ち誇ったような嬉しそうな表情は、頭の上から味噌汁が降り注ぐと「まさか」「なぜ」「どうして」という驚きと悲しみへと変わるようになった。

 私は驚いた。おそらく、私の知る範囲の現実として、原家族のメンバーが私に対してしてきたことに向き合うことはないだろう。自分たちが正義であり、私には何をしても許され、何もかもを「なかったこと」にできる。都合が悪ければ、私をさらに踏みつければいい。ずっとそうしてきた、それしか出来なかった人たちが、同じ相手に対して違うことを始められるわけはない。私も、その可能性には全く期待していない。

 しかし、もしかすると、原家族からのもろもろを「なかったこと」にされず、その懲罰として消されたり潰されたりすることもない今後が、私に訪れるのかもしれない。
 根拠はないけれど、ぼんやりした希望を抱くことができるようになった。

[雑感]「としまえん」閉園にまつわる心のザワザワモヤモヤ

 2020年8月31日、東京都内の遊園地「としまえん」が閉園した。
 閉園がアナウンスされてから閉園まで、私は内心、怯えていた。私に対して誰かが「としまえん」を話題にしたらどうしようか? と。
 何よりも恐れていたのは、「としまえん」が話題にされるとき、その人自身の「懐かしい」「楽しかった」という記憶が語られて、同意が求められることだった。
 その次に恐れていたのは、「行きたかったけど、お金がなくて行けなかった」という形で「としまえん」が話題にされることだった。
 幸い、そういう話題になる相手と会うことはなく、閉園の日が過ぎた。私はホッとした。
(本記事はnote記事の下書きを兼ねています)

  • なぜ「楽しかった『としまえん』」に同意したくないのか
 私は福岡市で生まれ、福岡市と隣接する春日市で20歳までを過ごした。
 当時の福岡市には本格的な遊園地がなかった。太宰府の「だざいふえん」が、たぶん最も近くて遊園地らしい遊園地だったのでは。比較的アクセスしやすかったのは、天神にあったデパート「岩田屋」の屋上遊園地、福岡市動物園の遊具コーナーといったところ。
 それでも子どもにとっては、楽しい非日常。そうだったはずだ。

 私自身には、遊園地で楽しく遊んだ記憶がほとんどない。
 福岡市動物園には、両親の両方または片方、弟妹のどちらかまたは両方とともに、しばしば訪れていた。私は、大きな滑り台やブランコで楽しく遊ぶことができた。父親がいれば、ティーカップやミニ電車に一緒に乗ることもできた。しかし、家族とともに有料の遊具に乗った記憶は、概ね6~11歳くらいで途絶えている。ミニ電車に最後に乗った時は、9歳下の妹とそのお友達と一緒だった。母親が妹たちを連れて動物園に来るにあたり、面倒を見る係として私も一緒に行くこととなり、小さい子どもたちの安全を守りながら遊具に乗っていたのだった。

 一番切なかった記憶は、4歳下の弟が3歳、私が7歳くらいの時のこと。
 母親は、弟と私を連れて福岡市動物園に行った。
 動物を見て、無料の遊具で遊んで、有料遊具のコーナーへ。そこには当時、小さな飛行機に乗って空中をぐるぐる回るような遊具が出来たばかりだった。弟は「あれに乗る」と言った。母親は弟とともに、飛行機に乗って空中遊歩を楽しんだ。私はそれを眺めているだけだった。母親が「アンタはここで待ってなさい」と言ったからだった。
 「弟だけは乗せられるけど私は乗せられないほどお金がなかった」というわけではない。
 私を乗せることに、何か不都合があったわけでもない。
 今から考えれば、母親はただ、素晴らしいものは弟にだけ味わわせたかっただけであろう。さらに、結果として唯一の息子になった長男と2人だけの時間を楽しみたかっただけであろう。まだ幼稚園児だったり小学校低学年だったりした弟に対して、母親は「将来、何になってもいいけど、結婚相手だけはお父さんとお母さんに決めさせなさい」と言い聞かせていた。同時に、小学生だった私は、弟の将来の結婚相手選びが母親の意向に沿ったものになるような振る舞いを、母親に要求されていた。

 ともあれ私は、なぜ自分が飛行機の遊具に乗れないのか分からず、呆然としていた。
 楽しそうに降りてきた母親に「私も乗りたい」と言ったけれど、母親は無視して弟と楽しそうに話し続けていた。
 私は、泣きも怒りもしなかった。そんなことをしようものなら、飛行機の遊具に乗れなかったこと以上に恐ろしいことが起こることを、既に学習していた。
 私にとっての遊園地とは、そういうものなのだ。

  • 機会を奪われた子どもに起こりがちなこと
 私が幼少期の経験について話すと、しばしば「一番上の子だったから、二番目の子に親の愛情を奪われて嫉妬したのでは」という反応が返ってくる。実はこれが非常にしんどい。
 弟が生まれたのは、私が3歳9ヶ月のときだったけれど、「お母さんを取られた」的な記憶は全くなかった。
 まず、環境の変化はそれほどではなかった。かなりの頻度で、私が母親の実家に預けられていたからである。母方祖母の近くにいて、さまざまな「家の仕事」で多忙な祖母の横で本を読んだり折り紙を折って(年下のいとこ達と遊ぶのは、数年後のことだった)。祖母と手をつないで買い物に行くついでに池の亀や神社の鶏を一緒に見せてもらって、毎日を平穏に楽しく過ごし、しばらくして両親のいるところに戻ってくる。すると、赤ちゃんがいたり、赤ちゃんが大きくなっていたりする。
 母親からのはじめての「これって虐待?」の記憶は、2歳半くらいの時期のことだった。その時期の私が文字や言葉を早く習得したため、母親と父方祖母(元小学校教師)の確執が発生したことを、後に母親から聞いた。それは本当に、理由らしい理由なく平手打ちをあびせる理由だったのかどうか。母親本人にしか分からないはずだ。いずれにしても、その時期の母親は、弟をまだ妊娠していなかったはずである。
 私は、弟が生まれることによる変化を、あまり感じていなかった。そもそも、両親や弟とずっと一緒にいたわけではなかったため、感じようがなかった。今から振り返ってみると、もともと年齢なりの両親への愛着が形成されていなかったようである。形成されようがなかったとしか言いようがない。ともあれ、4歳下の弟は「お父さんとお母さんの息子さん」、その5年後に生まれた妹も含めて「お父さんとお母さんの息子さんと娘さん」という感じになっている。その「息子さんと娘さん」と同じ意味で、「お父さんとお母さん」が親であるとは、どういう感覚なのだろうか。私には、現在も理解できない。
 ともあれ私は、両親と弟妹と同じ屋根の下にはいたのだが、その4人とは最初から分断されていた。分断は年々、激しくされていった。両親は、私が実家を離れたせいにしている。私は「そんなことはない」と、事実の数々をもって示せる。分断を激しくしていったのは主に両親であり、その状態を温存することによって利得はあっても損失はない弟妹である。弟妹に配偶者ができ、子どもたちが生まれると、両親はさらに分断を激しくしていった。その詳細についてここでは書かないが、私はまだこの世にいる。あの世にまで排除されているわけではない。だからまだマシだと思わなくてはならない現在がある。
 話を幼少時に戻そう。

 私が5歳の頃、両親は家を買って転居した。母親の実家は遠くなった。ほぼ常時、母親と弟と私の3者しかいない家になった。翌年には父方祖母が同居しはじめ、母が父方祖母への憤懣を漏らし続ける中で、身の置きどころがない毎日となった。それでも、父方祖母がいればまだ良かった。父方祖母は、緊張が高まりそうになると娘たちの家で数週間を過ごしてくる知恵を持っていたのだが、それは私への攻撃への抑止力がなくなるということである。
 母親もまた、他者に咎められない形で虐待をする知恵を持っていた。母親と弟が談笑しながらテレビを見ながら温かいカレーライスを食べているとき、私は黙って見ていなくてはならなかったが、後に冷えて固まったカレーライスを食べることはできた。私が小学3年の時に妹が生まれると、夕食の手伝いの途中に何か母親が口実を作って私に罰を与えたりした。私は台所の床に正座させられ、食卓の裏面と母親と弟と妹の脚を見ながら、食卓の上の食器の音や食事の臭いを聴いたり匂ったりしながら、弟妹と母親がテレビを見ながら楽しそうに談笑しているのを聴きながら、「反省」していなくてはならないのである。私はその1時間か2時間か後、宿題に加えて懲罰的な漢字の書き取りを何度もさせられた後(そもそも就学前に覚えている漢字の書き取りをさせ、「態度が悪い」「表情が恨めしい」とか何とか言って3回も5回もやり直しさせるのである)、冷えた食事を食べることはできたが、それが何だったのか覚えていない。

 こういう経験が日常であった子どもが、どのように経験を位置づけるかは、子どもによって異なるだろう。私は意識したわけではないが、自分がアクセスできないものや、アクセスすると母親によって恐ろしいことがもたらされるものに対して魅力を感じる回路を遮断した。
 私は、当時の女児向けテレビ番組をほとんど見ていない。せいぜい、テーマ曲を知っているだけだ。しかし、仮面ライダーやウルトラマンやゴレンジャーはリアルタイムで見ていた。テレビのチャンネル権は弟のものだったから。
 大人にくっついていれば大人向け番組は見られるので、小学2年生からNHK大河ドラマを見るようになった。小学3年時の『国盗り物語』以後は記憶がハッキリしている。しかし私が本格的に関心を向け、シナリオの勉強を始めたりすると、母親による妨害が始まった。というわけで、中学2年の時に大河ドラマ『花神』を見た後は、テレビから卒業した。「見たい」と思わなければ、妨害されて悲しい思いをすることはない。以後、テレビ番組は年に1~2回、家族に対する周到な根回しの上、家族からの冷やかしや嘲り、その後の嫌味を覚悟して見るものとなった。
 高校3年の秋からは予備校に特待生として通うようになり、帰りがけに電気店の店頭で見ることもあった。カール・セーガンの『コスモス』は、再放送を電気量販店の店頭で見た。1982年3月から4月ごろのことだと思う。昭和でいえば57年。テレビがまだ「一家に一台」には程遠く、プロレスの試合を見るたびに子どもが電気店の店先に群がっていたのは、昭和30年代前半、私が生まれる前の話である。
 
 遊園地や遊具を「行きたい」「乗りたい」と思う余裕は、私にはなかった。原家族のメンバーとともに行って乗って楽しい思いをした記憶は皆無というわけではないが、「帰宅後に些細な出来事を蒸し返されて母親にぶちのめされる」といった「ああ、やっぱり」の”アフター”を伴わない記憶は、20歳までの期間に5回もない。その数少ない例外的な記憶には、両親と弟妹、弟妹のお友達などの他に、誰かがいた。たとえば、母方の叔母とか。そこに身内であっても他者の視線を持つことの出来る人がいると、全く違う経験となった。しかし、子どもだった私には人選の権利がなかった。
 私自身のためという名目での遊園地行きは、たった1回だけあった。私が小学校を卒業した3月の春休み。でも、母親と弟妹が一緒なのである。母親はもちろん、弟妹が私よりも多く(数と金額の上で)楽しめるようにしましたとも。そして私は母親から、「アンタのために行ってやった」と恩に着せられるのである。もしも母親が「自分の大切な長男と次女を楽しませるために、長女はどうでもいいけど口実に使った」と言ってくれたら、どんなに救われたか。

 大人になった私は、行きたい時に遊園地に行ける。1日くらいなら、おそらく好きなだけ遊具に乗れる。しかし、何が楽しいのか全く分からない大人になっていた。絶叫系の乗り物のように、極めて分かりやすい肉体的な感覚を伴うものは、「楽しい」と思える。が、遊園地や遊具に「行って乗りたい」という魅力を感じることはなかった。『としまえん』にも何回か行ったことはあるのだが、高飛び込み用のプールを使って高飛び込みをするためのみ、だった。
 東京ディズニーランドは、私が東京で大学に進学してから出来た。その後、妹が中学受験合格のごほうびに東京旅行をすることになり、私のアパートに泊まった。妹が行きたがったから、私も付き添って東京ディズニーランドに行った。何が楽しいのか全く分からないまま、後に母親から攻撃の口実に使われるような失敗をしないように緊張していた。以後、東京ディズニーランドには一度も行っていない。
 子ども時代に適切な学習をしていないと、子ども向けの何かに楽しさや魅力を感じる回路は育たないのかもしれない。少なくとも私はそうだった。遊園地だけではなく、子ども向けの絵本も、子ども向けの書籍も。今でも、日本語の絵本や児童書を読むのは、トラウマが刺激されて辛い。
 
  • なぜ「行きたかったけど、お金がなくて行けなかった『としまえん』」の話が辛いのか
 書いていて辛くなってきたので、こちらについては短めにしようと思う。
 私は現在、貧困問題を中心に活動している。当然、貧困によって機会を失ったまま成長した大人多数、貧困によって機会を失っている子ども多数に接している。
 現在進行形で機会を失っている子どもたちは、「東京ディズニーランドに行ってみたい」といった希望を語らないことが多い。東京だからではないだろう。関西の子どもが、USJや「ひらかたぱーく」に行って楽しむという発想を持っていないことは珍しくない。本当に知らないのか。それとも、知っていても行けないことを考えたくないから、憧れる心の回路を遮断したのか。
 しかし私は、そこまで厳しい状況に置かれたわけではない。福岡市動物園の有料遊具のコーナーの前までは行くことができた。そういった場所での飲食や服装を含め、誰が見ても「中流家庭の子ども」だったはずだ。
 私よりも絶対的に何かが不足していて遊園地に行けなかったり行くことを考えられなかった子どもたちや元子どもたちの話を聞く時、その話はその話として受け止めるしかない。受け止める。何らかの理解を示す。部分的には理解出来る話でもある。しかし「私にも同じような経験があって」とは、口が裂けても言えない。その人々と同じような欠落があったわけではないという時点で、「同じような経験」ではない。客観的に見れば、その人々よりも私は圧倒的に恵まれている。私は、どう嘆けばいいのか。どう語ればいいのか。相手と離れて一人になると、いつもは忘れたことにしている痛みが噴き上げてくる。
 所詮、私は嘆くことも語ることもできなさそうだ。嘆いたり語ったりすると、「親御さんたちにも事情があったのでは」「あなたの思い込みでは」「もっと恵まれない人が」「昔のことになってよかったじゃないの」などなど、四方八方から嘆かせず語らせない圧力がかけられることになる。
 仕事として、厳しい子ども時代を送った人々の経験や体験や出来事を聴き、仕事として形にする。それが、現在の私にできることの限界のようだ。

 ともあれ、「としまえん」は閉園した。当面、『としまえん』と子ども時代の記憶に刺激されることはないだろう。
 跡地は『ハリポタ』テーマパークになるようだが、私は『ハリポタ』を読んでいない。私には無縁の何かとして、ニュースや語りに接することができるだろう。

[死なずに生きててよかった]私が、弟と同等あるいはそれ以上に価値ある自分になれる方法

私は、3人きょうだい(自分・弟・妹)として、福岡市近郊で育ちました。
1933年生まれの父親は中学から、1939年生まれの母親は小学低学年から、戦後民主主義教育を受けて育っています。しかし両親の脳内は、戦前の「イエ」主義や、もしかすると法でも制度でもない江戸時代か何かの農村的封建思想で出来上がっていました。
「長男」である弟は、両親にとって何より尊重されるべきものでした。そこで私は壮絶なきょうだい差別を受けて育ちました。その内容について詳しくは書きませんが、幼少児の私の切実な希望は
「後ろから、弟にいきなり蹴られたり殴られたりしたくない」
「弟に痛い思いをさせられたとき、痛いと言いたい」
 「弟妹と母親が食事している同じ場所・同じ時間に、同じように、温かい食事をTVを見たり談笑したりしながら食べたい、床に正座させられ、食卓の裏や母親と弟妹の脚を見ながら食事時を過ごさせられ、何時間か後に冷えきった食事を食べるのではなく」
でした。

大きくなっていった私は、両親に理由を尋ねるようになりました。不公平だ、イヤだとは言えませんでした。
父親は、あいまいに言葉を濁して話題を変えたり、「そんなことを気にするのはおかしい」と言うばかりでした。
母親は、
「H(弟)は跡取り。女でナマイキなアンタなんか努力しても何にもなれない価値のない人間。Hは男だから立派な大人になって、たくさん稼いで、結婚して自分たちの老後を見てくれる価値ある人間」
と言うばかりでした。
それならば、客観的な「弟より価値ある自分」の証拠を作らなくては。
私は、そのように考え、さまざまな努力をしました。
しかし、学業成績は「女のくせに」「勉強だけできても」というdisりにつながるので、私の両親に対しては、あまり意味がありません。それに、あまり勉強向きでなかった弟の不機嫌や鬱屈の原因にもなり、まわり回って自分にどういう禍いがやってくるか。「成績が良かったために恐ろしいことが起こった」を、原家族の中で、私は数えきれないほど経験しています。なので、両親に対して「ヨシコはH(弟)と同じくらいには価値がある」と認めさせる目的に対しては、有効ではありません。
運動は、弟の運動能力があまりにも優れていたため、勝負にならず。
ピアノや書道にも熱心に取り組み、それなりの結果は出していましたが、弟の運動での「県大会入賞」などの成果に比べると、自分でも「価値あり」とは思えない程度でした。
では学歴か。親が認めたくなくても、周囲の人に「認めさせられる」はありうるかも。
就職して仕事を手放さずにいれば、自分の収入が弟の収入以上になるかも。そうすると、死んだり殺されたりしたときの「逸失利益」という形で、弟以上になれる。それは今の日本で誰もが納得する、命の値段。
自分だって
「自分の命が弟の命よりも高額だったら、自分の方が弟より価値がある」
は思っていません。でも、せめてそこで、「自分にも価値がある」と思いたかった。
障害者になっても、仕事は手放しませんでした。稼いでいれば「障害者だから逸失利益が低い」とはなりませんから。
でも、いろんなことがあって、仕事がほとんどできない数年間がありました。そこに原家族も関係があるのですが、それはさておきます。
2010年から2012年にかけ、父親は私に電話で、
「つつましく生きていければ、それで良かろうもん」
と繰り返し言いました。血縁からの実質的な縁切りは、それ以前、2007年に私が障害者手帳を取得したときに行われていました。
おそらく、父親は
 「生活保護で生きていけばいいだろう」
と言いたかったんだと思います。不要・有害と判断して縁を切った娘が、どこかで生活保護を受けても、「イエの恥」にはなりませんからね。

その間に、弟はキャリアを展開させ、安定した高収入の立場となり、皆さんが羨むようなステータスある女性との結婚をし、両親の深い理解と協力のもと共働きを継続し、子どもたちにも恵まれました。
「私の逸失利益が弟のそれを上回ることは、もう無理だろう」
と認めたのは、2011年末、私が47歳のときのことでした。
弟は子どもたちに恵まれたため、保険金の計算に子どもの育成・教育に必要な費用が加算されることになりました。それも含めて、私が抜き返すことは不可能でしょう。もちろん、子どものための費用の加算それ自体は、必要不可欠、当然すぎるのですけれど。
私は雨の中、外で声をあげて、手放しで泣きました。
私のそれまでの生涯をかけての闘いは、完璧な敗北に終わった。それは認めざるを得ませんでした。
人生詰んだ。
それが、偽らざる実感でした。
そして私は「余生」を生き始め、社会保障や社会福祉についての執筆活動を始めたのです。
物理やコンピュータに比べると「女っぽい」それらは、男である弟に勝つためには使えないので、関心はあっても仕事にしないできたのです。
でも、もう弟には負けが確定したのだから、最後、余生に後悔を残さないために、書いてみようと思いました。
そして現在に至ります。

つい最近、2016年6月のこと。 
私は、逸失利益を弟以上にする方法を発見しました。
あと15年くらいで、弟の子どもたちは成人し、扶養を必要としなくなります。
そのころ、弟は60歳を過ぎています。
弟が厚生年金との2階建ての年金を受給するのは何歳でのことかわかりませんが、 いずれは年金+就労収入、あるいは年金オンリー、になるでしょう。 
年金の金額でも、私は弟を抜くことができません。まず、弟の妻自身の年金もあります。
厚生年金加入者だった年数が通算で11年しかない私は、老齢年金を2階建てで満額ゲットしたって生活保護基準以下。だから、働き続けるしかないでしょう。
私がまだ働き続けているうちに、弟が働くことをやめたら?
その日以後、私の逸失利益は、弟を上回ることになります。

私は、なんと下らないことを考え続けてきて、今も考えているのでしょう?
別に、弟をぶちのめすために生まれてきたわけではなかったはずだし、そんなことがしたかったわけでもないんです。今も、したくてやっているわけではありません。
でも、私は、「自分が、少なくとも弟と同等の価値を持っている」と思いたかったんです。
生き、育ち、学び、働き、人と交流したりするにあたって、その前提条件として、「私の価値は、少なくとも弟と同等」と思いたかったんです。

4歳下の弟より一日でも長く働くことが、今の私の目標です。
そのためには、障害はあっても健康である必要があります。これは、なんとかなりそうです。弟はヘビースモーカーですけど、私は過去に一本もタバコは吸っていませんから。
「弟より一日でも長く働く」を実現するには、少なくとも向こう20年、ヘタすると25年・30年といった時間が必要です。その日まで、どうあがいても、私の逸失利益は弟を上回りません。
父親の「所詮は予定、所詮はつもり(どうせ実現しないだろう)」と嘲笑する声、何百回もぶつけられた声が聞こえる気がします。
でも、この目標に向かって努力しつつ、私は「すでに実現した」と思うことにしました。 
実現する前に、私が死んでしまうかもしれません。
でもその瞬間まで「実現した」ということにしておけば、少しでも多く希望を持って、明るい気分で過ごすことができます。それだけでも、私にとっての価値は「プライスレス」です。

52年かかりましたが、原家族トラウマを乗り越えてゆく糸口が、やっと見えてきました。
今日こう思っているだけでも、今日、生きててよかった。 
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