猫と食事と西荻窪、ときどき旅する車椅子

ライター・みわよしこの日常つれづれ話



ジェンダー

[死なずに生きててよかった]私が、弟と同等あるいはそれ以上に価値ある自分になれる方法

私は、3人きょうだい(自分・弟・妹)として、福岡市近郊で育ちました。
1933年生まれの父親は中学から、1939年生まれの母親は小学低学年から、戦後民主主義教育を受けて育っています。しかし両親の脳内は、戦前の「イエ」主義や、もしかすると法でも制度でもない江戸時代か何かの農村的封建思想で出来上がっていました。
「長男」である弟は、両親にとって何より尊重されるべきものでした。そこで私は壮絶なきょうだい差別を受けて育ちました。その内容について詳しくは書きませんが、幼少児の私の切実な希望は
「後ろから、弟にいきなり蹴られたり殴られたりしたくない」
「弟に痛い思いをさせられたとき、痛いと言いたい」
 「弟妹と母親が食事している同じ場所・同じ時間に、同じように、温かい食事をTVを見たり談笑したりしながら食べたい、床に正座させられ、食卓の裏や母親と弟妹の脚を見ながら食事時を過ごさせられ、何時間か後に冷えきった食事を食べるのではなく」
でした。

大きくなっていった私は、両親に理由を尋ねるようになりました。不公平だ、イヤだとは言えませんでした。
父親は、あいまいに言葉を濁して話題を変えたり、「そんなことを気にするのはおかしい」と言うばかりでした。
母親は、
「H(弟)は跡取り。女でナマイキなアンタなんか努力しても何にもなれない価値のない人間。Hは男だから立派な大人になって、たくさん稼いで、結婚して自分たちの老後を見てくれる価値ある人間」
と言うばかりでした。
それならば、客観的な「弟より価値ある自分」の証拠を作らなくては。
私は、そのように考え、さまざまな努力をしました。
しかし、学業成績は「女のくせに」「勉強だけできても」というdisりにつながるので、私の両親に対しては、あまり意味がありません。それに、あまり勉強向きでなかった弟の不機嫌や鬱屈の原因にもなり、まわり回って自分にどういう禍いがやってくるか。「成績が良かったために恐ろしいことが起こった」を、原家族の中で、私は数えきれないほど経験しています。なので、両親に対して「ヨシコはH(弟)と同じくらいには価値がある」と認めさせる目的に対しては、有効ではありません。
運動は、弟の運動能力があまりにも優れていたため、勝負にならず。
ピアノや書道にも熱心に取り組み、それなりの結果は出していましたが、弟の運動での「県大会入賞」などの成果に比べると、自分でも「価値あり」とは思えない程度でした。
では学歴か。親が認めたくなくても、周囲の人に「認めさせられる」はありうるかも。
就職して仕事を手放さずにいれば、自分の収入が弟の収入以上になるかも。そうすると、死んだり殺されたりしたときの「逸失利益」という形で、弟以上になれる。それは今の日本で誰もが納得する、命の値段。
自分だって
「自分の命が弟の命よりも高額だったら、自分の方が弟より価値がある」
は思っていません。でも、せめてそこで、「自分にも価値がある」と思いたかった。
障害者になっても、仕事は手放しませんでした。稼いでいれば「障害者だから逸失利益が低い」とはなりませんから。
でも、いろんなことがあって、仕事がほとんどできない数年間がありました。そこに原家族も関係があるのですが、それはさておきます。
2010年から2012年にかけ、父親は私に電話で、
「つつましく生きていければ、それで良かろうもん」
と繰り返し言いました。血縁からの実質的な縁切りは、それ以前、2007年に私が障害者手帳を取得したときに行われていました。
おそらく、父親は
 「生活保護で生きていけばいいだろう」
と言いたかったんだと思います。不要・有害と判断して縁を切った娘が、どこかで生活保護を受けても、「イエの恥」にはなりませんからね。

その間に、弟はキャリアを展開させ、安定した高収入の立場となり、皆さんが羨むようなステータスある女性との結婚をし、両親の深い理解と協力のもと共働きを継続し、子どもたちにも恵まれました。
「私の逸失利益が弟のそれを上回ることは、もう無理だろう」
と認めたのは、2011年末、私が47歳のときのことでした。
弟は子どもたちに恵まれたため、保険金の計算に子どもの育成・教育に必要な費用が加算されることになりました。それも含めて、私が抜き返すことは不可能でしょう。もちろん、子どものための費用の加算それ自体は、必要不可欠、当然すぎるのですけれど。
私は雨の中、外で声をあげて、手放しで泣きました。
私のそれまでの生涯をかけての闘いは、完璧な敗北に終わった。それは認めざるを得ませんでした。
人生詰んだ。
それが、偽らざる実感でした。
そして私は「余生」を生き始め、社会保障や社会福祉についての執筆活動を始めたのです。
物理やコンピュータに比べると「女っぽい」それらは、男である弟に勝つためには使えないので、関心はあっても仕事にしないできたのです。
でも、もう弟には負けが確定したのだから、最後、余生に後悔を残さないために、書いてみようと思いました。
そして現在に至ります。

つい最近、2016年6月のこと。 
私は、逸失利益を弟以上にする方法を発見しました。
あと15年くらいで、弟の子どもたちは成人し、扶養を必要としなくなります。
そのころ、弟は60歳を過ぎています。
弟が厚生年金との2階建ての年金を受給するのは何歳でのことかわかりませんが、 いずれは年金+就労収入、あるいは年金オンリー、になるでしょう。 
年金の金額でも、私は弟を抜くことができません。まず、弟の妻自身の年金もあります。
厚生年金加入者だった年数が通算で11年しかない私は、老齢年金を2階建てで満額ゲットしたって生活保護基準以下。だから、働き続けるしかないでしょう。
私がまだ働き続けているうちに、弟が働くことをやめたら?
その日以後、私の逸失利益は、弟を上回ることになります。

私は、なんと下らないことを考え続けてきて、今も考えているのでしょう?
別に、弟をぶちのめすために生まれてきたわけではなかったはずだし、そんなことがしたかったわけでもないんです。今も、したくてやっているわけではありません。
でも、私は、「自分が、少なくとも弟と同等の価値を持っている」と思いたかったんです。
生き、育ち、学び、働き、人と交流したりするにあたって、その前提条件として、「私の価値は、少なくとも弟と同等」と思いたかったんです。

4歳下の弟より一日でも長く働くことが、今の私の目標です。
そのためには、障害はあっても健康である必要があります。これは、なんとかなりそうです。弟はヘビースモーカーですけど、私は過去に一本もタバコは吸っていませんから。
「弟より一日でも長く働く」を実現するには、少なくとも向こう20年、ヘタすると25年・30年といった時間が必要です。その日まで、どうあがいても、私の逸失利益は弟を上回りません。
父親の「所詮は予定、所詮はつもり(どうせ実現しないだろう)」と嘲笑する声、何百回もぶつけられた声が聞こえる気がします。
でも、この目標に向かって努力しつつ、私は「すでに実現した」と思うことにしました。 
実現する前に、私が死んでしまうかもしれません。
でもその瞬間まで「実現した」ということにしておけば、少しでも多く希望を持って、明るい気分で過ごすことができます。それだけでも、私にとっての価値は「プライスレス」です。

52年かかりましたが、原家族トラウマを乗り越えてゆく糸口が、やっと見えてきました。
今日こう思っているだけでも、今日、生きててよかった。 

[しんどい記憶]2002年ごろ渋谷で、夫のいるパート女性(娘あり)と

2002年ごろだったと思う。
ピアノ愛好家のサークルを立ち上げた女性の知人がいた。当時、30代前半くらいだったと思う。
彼女は、幼少期からの憧れだったピアノを入手して習い始めたところだった。


彼女は、大学を卒業して就職したものの(確か保険会社の総合職)、男尊女卑に痛めつけられる毎日を送っていたとのこと。
嫌気がさしていた彼女は、社内結婚とともに退職。
まもなく妊娠し、女の子が生まれた。女の子は、私が彼女とともに会ったときは4歳か5歳くらいだった。今はそろそろ成人に迫る年頃かもしれない。
女の子がまだ0歳か1歳のころ、夫君が、うつ病のため休職。
うつ状態の夫君が家にいること、収入が減ったことに耐えられなくなった彼女は、ヤ◯ルトの販売員として働きはじめたそうだ。
「すぐに子どもを預けて働けるところは、そこしかなかった」
とのことだった。
このとき、茨城県の実家の父親に経済援助を相談したところ、お金の代償に性行為の相手をすることを求められた由であった。こういう父親を持っているという娘は、現在の45歳以上だと結構な頻度でいる。私の世代の父親たちだと、特に珍しい話でもない。
 

私は2002年、渋谷のギャラリーで開催された「おっぱいプリン」展を、彼女と一緒に見に行った。
「おっぱいプリン」展は、実に面白いインスタレーションだった。
ミシェルさんという女子美出身のアーティストが、女性20人近くの乳房を型取り、プリンを作って展示していた。
それぞれのプリンには、風俗嬢紹介のような女性たちの写真とキャプションが一緒に展示されていた。
「コンプレックスの露出 性の安売り!」
というサブタイトルについて、ミシェルさんに尋ねたところ、
「コンプレックスが現れやすいところですよね、女性の乳房って。でも、コンプレックスって、個性じゃないですか」
というお言葉。ナットク。

その余韻を感じながら、彼女とカフェに入った。
開口一番、彼女はウズウズという感じで、

「あのね、子どもがいるって素晴らしいことで、育児は楽しいのよ」
と、目をキラキラさせて語り始めた。

当時39歳の私は、独身で子どもはいなかった。
子どもが嫌いとか持ちたくなかったとかではなく、むしろ欲しかった。
ただ、「どうしても」というほど自分の子どもが欲しいわけではなかった。
「子どもが欲しい」という淡い欲求は、自分が仕事を手放さず生きていくことに比べれば、優先順位はかなり低いものであった。
気がついたら、子どもを持つ機会を失いつつあった。
 

子どもを持つことや育児は、大きな負荷を伴いつつも、かけがえのない経験であるだろうと思う。
そう思っている私が、なぜ子どもや育児の素晴らしさを布教されなくてはならないのかと、内心、怒りを覚えた。 
しかし私は怒りを表さず、彼女に対して「どのように子どもを断念するに至ったのか」を話した。
さらに、「盆正月などに一時的里親になることも考えたけど独身じゃ無理だった」とも話した。


彼女はかなりの動揺と当惑を表情に浮かべ、話題を変えた。
子どもと育児の素晴らしさを教えてあげる彼女の心づもりを私がぶち壊したのは事実だっただろう。


彼女はエッセイストになりたがっていた。
文章を書くのが「ちょっと好き」という女性には、ありがちなことだ。
彼女は、私と共著で本を出したいという話をしてきた。
「出したきゃ単著で出せばいいでしょ?」と言いたかった。
彼女の書きたい内容は、子育て、きもの、料理、なんだか女性ジェンダーを前面に出すような素材ばかりだった。
それをさらに、
男性社会で挫折した女性の屈折した女性ジェンダーで「今は今で幸せ」と味付けするようなものであった。
それは私の、最も書きたくないものであった。
私は子ども嫌いじゃないし、和服も好きだったし、料理も好きだが、それをジェンダーと絡めて前面に出すのは、最もしたくないことだった。今もしたくないけど。
本の具体的内容について詰めるところまで行かないまま、話は立ち消えになった。
彼女がなぜ、そんな本を「私と」出したいと思ったのかは、わからない。
自分および自分の書きたいことの、格好の引き立て役と見込まれたあたりではないかと思う。
 

しかし最もムカついたのは、上記のどちらの件でもない。
渋谷でお茶した数カ月後、彼女は、私の作った曲のタイトルが気に入らないといって
「変えようよ(^^)」
とWeb掲示板に書いてきた。
それは他人に気楽に言ってよいことなのか? しかも顔文字つきで?
私は
「この世に彼女がいることが許しがたい」
というほどの怒りを覚えた。
タイトルも含めて私の作品だ。
なぜそこに、他人が口を挟む理由がある?
気に入らないなら、自分で曲を作れ。自分の作った曲に、自分のつけたいタイトルをつけろ。 
それが出来ないなら、他人にとやかく言うな。
その作品を売る立場にある人が、商売の都合として言うなら、まだわかる。
でも彼女は、ただの知り合いとして曲名を知っただけだ。
そこに、顔文字をつけて、お気楽に「変えようよ」とは!?


私は当たり障りなく答えながら、
「なぜ私は、ここで怒りを爆発させることができないんだ」
と情けなくなり、パソコンの前で泣いた。

さらに数ヶ月後、ピアノサークルは内紛から空中分解し、彼女との縁も切れた。
その後、彼女から私には連絡が一度もない。
今どうしているか、全く知らない。 

もしかすると。
彼女は、父親や夫から自分を守るために精一杯だったのかもしれない。
ただの娘、ただの嫁、ただの妻、ただの母、パート主婦としか見られない自分を、 必死で奮い立たせようとしていたのかもしれない。
国立大学から、就職氷河期に総合職として就職できた彼女は、それなりに優秀だったのだろうと思う。
しかしいったん「家に入る」を選んでしまったら、 そこまでの彼女に目を向けてくれる人は誰もいない。
保育園(娘さんは当時は公立保育園に通っていた)とのママ友とのお付き合いやパート勤務をつつがなく続けようと思ったら、出身大学も前職も言えない場面の方が多いだろう。
鬱屈した彼女の、低められてしまった自意識を、私は一人でぶつけられる巡りあわせになっていたのかもしれない。
私だって、そんなに羨ましがられるような経験や立ち位置にいたわけではないのだが、もしも彼女に「ちょっとだけ想像してみる」が可能だったら、彼女は最初から、そんな言動は取っていなかっただろう。

はっきりしているのは。
そういう人とお付き合いするのは、私には無理だったということだ。 
もちろん、今も無理。 

猫の摩耶、17歳になりました

わが家が2番目に迎えた猫の摩耶は、本日17歳になりました。
私が寝起き頭ですけど。
IMG_2419[1]


1997年6月18日、元夫と私と9歳のお姉ちゃん猫のいた我が家は、ちょうど1ヶ月前の5月18日に生まれたという子猫を迎え、「賢くて心優しい子に」という願いを込めて「摩耶」と命名しました。
二匹の猫は、あっという間に仲良しになりました。

それから、本当にいろんなことがありました。
私は当時の勤務先で、いわゆる「血で血を洗うリストラ」に巻き込まれはじめました。
ある日突然、誰もが私に声をかけられたら逃げるようになってしまったのです。
心労から、私は胃炎を起こして入院しました。
その一部始終を見ていた長女猫も心労から胃炎になり、7月25日に他界しました。
摩耶は、せっかく仲良くなれた「お姉ちゃん」を亡くし、たいへん気を落としました。摩耶にやっと子猫らしさが戻ってきたのは、9月ごろのことでした。
翌年の1998年6月18日には、弟猫の故・悠(当時1ヶ月)も家族に加わりました。
そのころ、勤務先の同僚でもあった元夫は、自分の身分を守るため、先鋒に立って私を攻撃し、退職を迫るようになっていました。
私は退職を選択しました。同時に、元夫と別れたいと思いました。正確に言うと、なかなか退職の意志を表明いない私にガマンできなくなった元夫の方が「終わりにしよう」と言い出したのでした。私は、望むところでした。そこで別れるための具体的な話を進めようとすると、元夫は周囲の人々に「別れないように」と私に圧力をかけさせたのです。
元夫は私がどれだけ仕事を大切にしているか、職業を持ち続けることを大切にしているかを知っているのに、仕事を手放すことを求め、その後は「主婦」「嫁」となることを求めようとしたのです。ならば、仕事にそれほど重きを置かず、「妻として母として嫁として」という世界に収まることを自ら望む女性を選べばよい話。私はそうではないし、そうなることを強制される言われもありません。
しかし元夫は、私と一緒にいたがりました。苦闘の末、元夫に出て行ってもらうことに成功したのは、2001年5月のことでした。この時期、西荻窪には元夫の味方をした人々が何人かいました。その人々のことを、私は未だに許すことができません。
摩耶の「お父ちゃん」は、酒と薬でラリって刃物を振り回し、生活費や家賃は入れないような男になりました。もともとそういう男だったことが、勤務先の問題で露わになっただけかもしれませんが。
そんなゴタゴタの末、摩耶の「お父ちゃん」はいなくなりました。

私・摩耶・悠の平和な暮らしが続くかと思ったら、2005年には私に運動障害が発生しました。
2007年からは、ヘルパーさんや訪問医療の人々や仕事仲間が住まいを訪れては、私を痛めつけるような状況が続きました。摩耶はそういうとき、悠を連れて離れた場所に行くなどしていましたが、どんなに心を痛めていたことだろうかと思います。ときどきでもヘルパーさんに私が叩かれたり引っかかれたりする状況は、2011年はじめまで続きました。
2010年夏、摩耶は慢性腎不全に罹患していることが判明しました。ステージIIIでした。闘病生活が始まりました。2012年秋には、糖尿病との闘病も始まりました。
2013年3月、悠が他界しました。
摩耶は激しく寂しがり、落ち込み、食欲をなくし、一ヶ月経過しても立ち直る気配がありませんでした。
15歳だった摩耶が新しい猫の家族を迎えることにはリスクもありましたが、私は、摩耶にふたたび弟を迎える決心をしました。
そして、2013年4月、もうすぐ5歳という瑠がやってきました。面倒見のよい摩耶ねーちゃんを、瑠はすぐ大好きになりました。
今日の摩耶と瑠です。
2014-05-18-13-07-57


不安材料を数えれば、地球レベルから個人レベルまで限りありません。
しかし、とにもかくにも今日、17歳になった摩耶と瑠と私の平穏な暮らしが、私の大好きな地域の大好きな住まいにあることを心から喜び、支えてくださっている方々に感謝したいと思います。
願わくば、来年の今日も、18歳の摩耶と過ごせますように! 

台所の脱腐海化作戦(0) ヘルパー派遣を受けている「からこそ」出来ないこと

ヘルパーさんが来ていてもできない、むしろ、来ているからこそ出来ない家事があります。「片付け」です。
片付けは「これは捨てるか、捨てないか」「これをどこに置くか」という細かな判断の連続です。
ヘルパーさんと一緒に片付けを行うということは、異なる判断基準の確認の連続です。
「この人はこの人だから」で済めばいいんですが、たいていは、さまざまな感情的な問題を引き起こします。
ヘルパーさんに「捨てましょう」「これはまだイケますよね」と言われた時に「No」をいうのは、私にとっては非常にストレスフルなことです。でも意に沿わない「Yes」は言いたくありません。とすれば、「ヘルパーさんと片付けはやらない」が正解、ということになります。
片付けのヘルプをお願いしても軋轢が発生しない、あるいは私が泣き寝入りを強いられて悲しまないヘルパーさんは、過去7年のヘルパー派遣経験の中で2人しかいません。

私は入浴に介助を必要とするため、ヘルパーさんは必然的に女性となります。長年、異性介護は人権侵害のシンボルのようなものでしたから。
私にとって
「家事のやり方をめぐって女性どうしがぶつかる」 
ほどイヤなことはありません。それはしばしば「だから女は」「だから女同士は」という冷笑の対象になります。もちろん
「家事のやり方をめぐって男性と女性がぶつかる」
もあるわけですし、それは女性に対して「男性がせっかくやってくれているのに」「感謝の心が足りない」などという説教の対象になりますが、それは男性の家族がいなければ解決できることです。そして、介護業界で長続きするタイプの男性のヘルパーさんは、概して、そういう愚かな「ぶつかる」を引き起こさない感じがします。
とにかく私は、ヘルパーさんとぶつかったり感情を損ねたりするのが本当にイヤなので、「それをされたら暮らせなくなる」レベルのこと以外では何も言いません。
しかし、細かな判断の異なりが細かくぶつかり合う「片付け」という場面では、私は少なくとも「(女の)闘い」を引き起こしてしまうヘルパーさんと一緒にいたくありません。「闘い」が起こらないにしても、「ヘルパーさんと片付けをする」は大変ストレスフルです。しかし片付けないと、自分が快適に過ごせない。
私はこのようなジレンマの中で日常を送っています。

「(女の)闘い」は私の取り越し苦労ではなく、実際に発生します。

ある介護事業所の所長(50代・女性)からは
「台所の布巾で床を拭かれて、それを台所に戻された」
というようなことをされました(雑巾は別の場所にちゃんとあります)。
この介護事業所の別のヘルパー(50代・女性)から暴言・暴行などを受け続けたので対処を要望したところ、所長がある日突然、
「明日から支援できません」
と打ち切りを通告してきました。
「それは困ります、明日まではお願いします」
と言ったところ、所長がやってきて、若干のヘルパー業務とともに暴行・暴言、さらに「台所の布巾で床を拭く」をやられたのでした。

別の介護事業所のサービス責任者(当時・30代女性)は、
「雑巾がなくなったのでタオルを一枚雑巾におろしていいですか?」
と私に言いました。私が
「はい、お願いします」
と答えると、新品に近かった戴き物のジャガード織りのタオルが雑巾にされていました。雑巾にするにふさわしいタオルは、他にもたくさんありました。でも私は何も言いませんでした。何か言ったら、「嫌がらせをされている」という惨めな事実を認めることになるし、愚かな「女の闘い」に巻き込まれることにもなります。
私はそのサービス責任者が帰った後、その雑巾にされたタオルを、泣きながら捨てました。その、嫌がらせの象徴を見続けたくなかったのです。
それから、古いベッドパッドを切り刻み、数年分の「雑巾」を作りました。

このような問題が起こってしまう背景には、さまざまな問題があるでしょう。
介護労働者の労働条件が良くはならず悪くなる一方であることも、その一つかと思われます。
ともあれ、ほとんどのヘルパーさんに、私は片付けのヘルプを頼むことができないという現状があります。

簡単に入手できる料理レシピから腕前をなるべく速く向上させる、超簡単な方法

4月から、進学や就職をきっかけに一人暮らしと自炊を始めた方も多いかと思われます。
自炊を始めて一ヶ月足らずの時期にできることは、その方の生活スタイル・それまでに蓄積した生活スキルなどに大きく左右されることでしょう。
本エントリーでは、 「クックパッド」をはじめとするインターネット上のレシピ・一般的で比較的安価な料理書からスタートして、自炊初心者が料理の腕前を短期間で向上させる方法について書いてみたいと思います。
  • 腕前向上のための超簡単な方法:味見回数を5~10倍(自分比)にする
どれか一つ、スタート地点とする料理とレシピを決めます。自分の好物料理を選んでください。
スタート地点とするレシピは、「クックパッド」でも書籍でも、誰かに教えてもらったものでも何でもかまいません。自分が無理なく「面倒くさい」と思わずに作れそうなものを、定評あるレシピの中から選びます。
「クックパッド」には「玉石混交すぎる」という難点はあるのですが、一定数の「つくレポ」があって何人かに「リピします」と書かれているレシピならば、大きな問題はないでしょう。
道具は、今、必要最低限と思われるものが揃っているのであれば、何かを新しく揃える必要はありません。「包丁を研ぐ」などの手入れを改めて行う必要もありません。 ただ、箸5膳・スプーン5本くらいが余分にあると便利です。ごく安価だったりタダでもらえたりする割り箸・スプーンでかまいません。スプーンはなるべく金属製がよいのではありますが、樹脂のスプーンでかまいません(耐熱温度は確認しておいたほうがよいかも)。

まずは、レシピ通りに作ってみます。
ここで私が提案したいのは、
「一行程ごとに、ちょっとだけ口に入れてみる」
ということです。 
つまり「味見をする」ということですが、私がお勧めしたいのは、味見を通常考えられる数倍の頻度で行うことです。
たとえば、
「濃縮めんつゆを3倍に薄めて調味液を作る」
とレシピに書いてあるのなら、濃縮めんつゆ段階・3倍に薄めた段階のそれぞれで口に入れてみます。その濃縮めんつゆの味の特性を把握し、この場合の塩分濃度やダシの濃さの「ほどよい」とはどういうことであるかを考え、最終的に出来上がった料理への影響をモニタリングするためです。一回ごとに水を飲んで口の中を「リセット」することをお忘れなく。
カレーを作るために
「タマネギを刻んで炒める」
というのであれば、刻んだ生タマネギ・1分炒めたタマネギ・2分炒めたタマネギ……炒め上がりと考えられるタマネギを少しだけ口に入れてみます。すると、刻み方や火の通し方による影響が分かります。
この「段階的味見」を、その料理の最終工程まで行います。
「弱火で煮込むこと30分」
を含むレシピだったら、煮込む前と後の味を見ておきます。ついでに、煮込まれる肉なり魚なり卵なりの表面を、煮込み前・煮込み後のそれぞれ、割り箸で軽くつっついてみましょう。すると、表面の固さや弾力がどう変化するのかに関する情報を得ることもできます。ちなみに私、焼き魚の振り塩やステーキの塩コショウも、焼く前に魚や肉の表面をちらっと舐めますよ。自分が作って自分だけが食べる場合に限定ですけど。
ただ、味見一回あたりの量が一般的な味見の場合の量だったら、独り者の一食分のおかずは、完成する前に簡単に消滅してしまいます。だから、一回あたりの味見は「お箸の先で野菜みじん切り1切れ」「スプーンの先で調味液や汁を1cc以下」という感じで行う必要があります。少量を確実に取るためには、箸やスプーンが必要です。味見のたびに箸やスプーンを洗っていたのでは面倒くさいし、乾燥しきってない箸やスプーンの水気が加わると味見にならなくなったりしますので、「箸とスプーンは余分にあったほうがよい」というわけです。

この「細かく味見」を習慣づけると、たいていは自動的に料理の腕前が上がるでしょう。
最初に選んだ大好物を、繰り返し作ってみたくなります。前回「これでいいのかな?」と思ったポイントを改良して試してみたいと自然に思うでしょうから。それを繰り返していれば、最初から大好物であったものが、さらに美味しく作れるようになります。時間もかからなくなっていきます。「これは省いてもいい」「これに関しては包丁でのみじん切りではなく、ミキサーでガーッとやっても仕上がりには響かない」「加熱に入ったら◯分間は大きな変化はないので、タイマーかけて他のことやっていようっと」「材料の一部を取り分けておいて、弱火煮込み段階でポリ袋に入れて参加させて別の料理を」などの工夫が、半自動的に行われるようにもなるでしょうから。
平たく言えば、「PDCAサイクルを回す」ということです。義務だから回させられるのでも、良い社畜であることのアピールのために速く回したいと思っているふりをするのでもありません。ただ楽しいから、面白いから、美味しいから、回せるときに回したいように回す。この繰り返しは当然のことながら、その料理を作る手際や出来上がりを向上させます。
その向上のプロセスに、数多くの「おまけ」がついてきます。自分自身に料理の地力がつくということ。
まず、料理書から得られる情報量が多くなります。同じ文章・同じ写真を見たときに「何をどうすればそうなるのか」が理解しやすくなります。
「食べたことのない料理を、文字と完成写真だけを手がかりにして作ってみる」
という場面でも、少なくとも食べられるもの・極度に不味くはないものが作れるようになります。
たとえば柴田書店のプロ向け料理書(買ったら高いけど図書館で読めます)のレシピを、ひとり暮らしや数人での「家飲み」向けのレシピに読み替えることも容易になります。10人前のレシピを1人前に置き換えるとき、単に量を1/10にしただけでは似て非なるものしかできないわけです。どこをどうすれば本質を変えずに仕上がり量だけ変え、肝心なポイントは外さず、自分の事情に合わせてアレンジできるのか。そのための「道具」は、
「アレをコレしたらソレになる」
という細かな因果関係の組み合わせ・重ねあわせが数多く「保存」されており「この場合の組み合わせ最適」を見つけ出すことのできる自分の脳と、可能な範囲で再現できる自分の手(または、他人に行ってもらうための自分の口)しかないと思います。

  • 「細かく味見」法にたどりついた経緯
進学で東京に出てきたときに住んでいた大学近くのアパート(6畳+半畳のキッチン、風呂なしトイレ共同)のすぐ近くに、新宿区立中町図書館がありました。そこに、津村喬「ひとり暮らし料理の技術」があったんです。偶然手にとり、あまりにも面白いので借りて読み、のちに購入しました。名著ですが絶版。

 この本は、料理の「食文化」という側面が「ひとり暮らしの自炊」というテーマを通じて幅広く解説されているのですが、「何を何グラム」といった分量の解説は皆無に近いんです。著者のポリシーとして記載しないということでした。
私は掲載されている料理の数々を読んで「なんと魅力的な」と思い、実際に作ってみようとしたんですが、失敗したり「食べられるものは出来たけど、これはその料理そのものなのか?」という疑念が湧いたり、でした。
そうこうするうちに、「ひとり暮らし料理の技術」で紹介されていた、辰巳浜子「料理歳時記」を読んでみる機会がありました。この本は現在も新刊で入手できますし、Kindle版もあります。
辰巳浜子さんは、昭和30年代~40年代に活躍された料理研究家で、料理研究家の辰巳芳子さんの母上です。

「料理歳時記」を読んだ大学1年の私、「ひえええええええええええ!」とぶったまげました。ご飯や味噌汁やお浸しや焼き魚といったものに、一つ一つ深い情熱を傾ける人がいたという事実。その情熱の目的は、料理研究家として世に出ることでもなんでもなく、動機は「家族(+お客さん)に美味しいものを食べさせたい、家庭を喜びで満ち溢れさせたい」ということであったらしい、ということ(結果として世に出たのではありますが)。伝統を大事にしつつもハイテク(冷凍庫←昭和20年代の話です)は積極的に導入する超合理性。アウトプットを最良最高にするために大切にされるプロセス。辰巳さんは決して「手段の目的化」をしません。真似する気にもなれない手間暇をかけ、これ以上はないほどの真心は込めていますけど、「手間暇」「心を込める」が目的なのでもなければ、そこを評価されたいというわけでもなく……。どの一つにも驚嘆しました。家事、料理、主婦業といったものを、才能と志ある人は、そこまで高めてしまうわけです。さらに「高める」が本人の心がけや家族の幸福感で終わったというわけではなく、夫君の生産活動を支え、社会で何らかの生産を行うことのできる子どもたちを育てたうえに、後には自らの料理も評価されているわけです。「おいしいね」という言葉や家族の笑顔だけではなく、経済的に、金銭という形で。なにしろ死後40年近くにもなる現在、まだ売れ続けているご著書が何冊もあるという事実。
こんなことを書かれたら辰巳さんご自身は不快になられるかもしれませんが、この方は生涯に、いったいどれだけの経済的生産を行われたのでしょうか。ご著書のセールスだけでも大変な金額になっているでしょう。その達成の前提となったのは「恵まれたご家庭に育ち、適切な教育を受け、良家に嫁いだ」という幸運ではありますが、「費用対効果」が非常に大きい方だったことは間違いないかと思われます。どういう偶然が重なったら、ここまで費用対効果が大きくなるのかは分かりません。才能と志が素晴らしいものであったことは感じますけれども、それだけではないように思われます。最も重要だったのは、原家族での育てられ方、生育環境、受けた教育でしょうか。私立の高等女学校に通っていたこと以外は、特別にお金のかかるものではなさそうに思えますが、「生まれてから18歳まで」というタイミングに大きな意味があったのは間違いないでしょう。そのタイミングをのがした場合、あとで補いがつく可能性はあるでしょうか? あるとすれば、どうやって……? 本当に、いろんなことを考え始めるきっかけになる本でした。
この本は、「職業って何だろう? キャリアって何だろう?」と考え始めるきっかけにもなりました。私が職業を手放さずにきたこと、職業を継続できていることの根には、「料理歳時記」に学んだ職業観・キャリア観があるようにも思えます(ただし、昭和の高度成長期の専業主婦のほとんどを、私は職業人とは考えていません。彼女たちの家事を「キャリア」とも考えていません。「主婦業も立派な仕事」という言い回しには警戒を怠っていません。念のため)。
この本には一つだけ、大きな問題点がありました。読んでも「実際にやってみよう」というモチベーションが沸かず、むしろ萎えることが多いのです。心がけも考え方も手順の一つ一つも、あまりにもハイレベルというか面倒くさすぎて。料理好きな専業主婦・主夫の多くにとっても、おそらくはそうなのではないかと思います。まして、昼も夜も職場や大学で過ごしている勤労学生だった私に実行可能そうなことは、片手で足りるほどしか見いだせませんでした。
私は大学のすぐそばに住んでいましたから、「職場帰りに買い物をして、いったんアパートに帰って軽い夕食を食べ、明日の朝食の下拵えをしてから大学で授業に出る」が可能な日もありました。勤労学生としては恵まれた条件にあったと思いますが、それでも「料理歳時記」は「こんなこと、実際に出来るわけがあるもんか!」の連続でした。私は幼少時から料理を自然に覚え、習慣的に行って(というかやらされて)育っています。漬物・梅干し・味噌といったものは家で作ったり、作った方に分けてもらったりするのが当たり前という環境でした(お店で買えると知って驚いたのは10歳くらいの時)。20歳時点での料理スキルは、同世代の中では、偏差値でいえば確実に75以上だったでしょう。それでも、「料理歳時記」の記述のほとんどは「出来るわけがあるもんか!」だったんです。
最も驚かされたのは、数え年17歳の辰巳浜子さんが白和えを作り始めたときのエピソードです。「白和え」という料理一つをものにするために、少女といってよい年齢の辰巳さんが何をなさったか。ぜひ、「料理歳時記」でお読みください。

私は「この人の真似はできない」と思いました。「私は物理屋になろうとしているんだから、この人のようになれなくても別にかまわないんだし」とも思いました。人生の最初に見た白和えのレシピが、辰巳浜子さんの「究極」といってよいレシピだったことは、私から「白和えを作ろう」というモチベーションを失わせてしまいました。半端に作ったって「まがいもの」しか出来ないんだから、とモチベーションが萎えてしまったのです。「料理歳時記」を読んで以後、一度も白和えは作っていません。それどころか、「料理歳時記」に書いてあるとおりに何かを作ったことは、ほとんどありません。ちょっとしたコツのいくつかを取り入れるのが精一杯でした。
でも、この本は深いところで、私の何かを変えてしまったようです。

いつの間にか私は、味見を細かく行うようになっていました。
当時も今も、料理には時間はかけられません。体力気力がないときには、時間がない上に、やることが雑になります。しかし、時間も体力も気力もない中で「今できるベスト」「今できる『ちょっとだけマシ』」を追求することならできるだろう、と思ったんです。
そのために必要なことは、「今、何が起こっているのか」を知っておくことでしょう。味見を細かく行うことは、特に面倒くさくも苦痛でもなく、疲れることでもありません。辰巳さんの「白和え」の取り組みを爪の垢ほどでも取り入れてみるかと始めてみたら、面白くて楽しいので、ごく自然に習慣になりました。
それを積み重ねて、30年経ちました。
「中間データを可能な限り細かく取る」は、実験でも重要です。大学2年から実験を職業にしていた私は、そのノウハウも自炊料理に惜しみなく投入しました。キッチンサイエンスの成書・科学的知見を盛り込んだ料理書に接する機会があったら、自分が日々やっていること・舌や指先で得た「データ」の数々と頭のなかで突き合わせてみました。結果は、次回に自然にフィードバック。
この繰り返しは、基本的には楽しいことでした。そして余裕のあるときに「楽しんで」おく積み重ねで、疲れているとき・本当に時間のないとき・ロクな道具がないときに出来ることのレベルが上がっていきました。これもまた楽しく快適なことでした。なにしろ食べて旨く、身体にも悪くないわけですから。
残念ながら、料理に関しては記録をほとんど残していません。あまりにも日常的なことなので、わざわざ記録してみようという気にもならなかった……という理由もあります。専攻が同じ男性の先輩・同じ仕事をしている同僚と付き合っていたり半同棲していたり事実婚していた時期が、通算15年ありました。料理という「女性的」なことに取り組んでいる姿を男性に見せたら、「やっぱり女性だから」と軽蔑される……という危惧もありました(相手の選択を間違えていたのかもしれませんが)。読んだ論文・やった研究については、同居男性がそこにいても、神経質なくらいノートつけてました(ただし相手のプライドが傷つかない程度に配慮しつつ)。それは「私はこの仕事を手放さないからね、あなたには『手放せ』という権利はないからね」という無言の主張でもありました。
料理について書籍を読んだりノートをつけたりすることは、少なくとも「男性の前でやる」はやりたくありませんでした。料理の記録を若干とも残せるようになったのは、パソコンを所有するようになって以後の話です。電子データだったら、紙のノートよりは安全ですから。
それでも、漬物や梅干しはノート作ってました。年に1回~数回しかやれないわけですから、繰り返して「前回よりマシ」にしたいと思ったら記録が頼りです。それなりの手間暇をかけて、不味いもの・食べられないものが出来たら悲しいです。それに、限られた手間暇でも少しでも旨いものを作りたいですからね。
ああ、毎日の料理での試行錯誤の数々をノートに記録していたら、もっと大きな発展があったかもしれなかったのに。残念。

今の私は自分の自炊に対して、「料理の食味そのものについては100点満点の85点くらい、総合点では100点満点の65点かな」と考えています。食味については、自己ベストからの減点。総合点の減点ポイントは、台所や用具・道具のマネジメント、盛り付け・見た目などについてです。
「私は、辰巳浜子には絶対になれない」
と諦めた20歳大学生女子、30年後にも大した高みには上れていませんが、小高い丘の上には到達できたかなあ? と思っています。

続きを読む
GoogleAdsense
Amazonアソシエイト・楽天アフィリエイト・Google Adsense に参加しています。アフィリエイトが嫌いな方は、ご注意ください。
「みわちゃん・いんふぉ」内を検索
カテゴリー
連絡先
原稿等のご依頼・情報提供・ご意見・ご感想・ご相談などは
ライター・みわよしこ 連絡受付フォーム
よりお願いします。
Amazon プロダクトウイジェット
楽天市場
著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

Part5「測定器、使えてますか?」は、
東日本大震災後、
環境測定を始められる方々のために
gihyo.jpさんで無料公開
しております。