猫と食事と西荻窪、ときどき旅する車椅子

ライター・みわよしこの日常つれづれ話



トラウマ

[猫ばか日記]瑠(8)、「遊ぶ」が上手になりました

2016年度になってから、人間と猫じゃらしで遊ぶことを覚えた瑠(8)。

本日2016年8月5日の瑠(8歳2ヶ月4日)。珍しく、至近距離で写真を撮らせてくれました。
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2015年9月、姉貴・摩耶(享年18)を喪ったばかりの瑠の前で、私が猫じゃらしを振り回してみたところ、「自分を攻撃している」と誤解され、唸られて本気で引っかかれてしまいました。 
幼少期に虐待されており、生後半年でアニマルシェルターに保護されて5歳まで過ごした後で我が家に来た瑠は、「人間と遊ぶ」ということを知らなかったようです。
それでも2016年度に入ると、遠くで振られる猫じゃらしを目で追ってみたりするように。
2016年6月25日、本気の狩りと遊びの区別はついていないようでしたけど、とりあえず遊べました。本猫初の快挙。
しかし、瑠は本気で猫じゃらしを押さえこみ、私の手から取り上げてしまいました。
参照:[猫ばか日記]瑠(8)、初の「撫でて」と本気猫じゃらし遊び

この頃の遊びっぷりです。2016年6月27日。緊張がうかがえます。


その後も、瑠は進歩を続けています。
約一ヶ月後、2016年7月21日は、「遊び」 というものを理解して楽しめているようです。

本気の押さえ込みで、私から猫じゃらしを奪うこともなくなりました。
それをやってしまうと遊び続けられなくなることも、理解したようです。 

瑠にはこれからも、楽しいこと嬉しいことを、たくさん覚えてほしいものです。
キミの大好きな摩耶ねーちゃん(1997-2015)も、きっと見守ってくれてるからさ。

一年前の今日、2015年8月5日の摩耶。衰えが目立ってきていました。
私は、摩耶を抱いていられることが、ただ幸せでたまりませんでした。 03

[猫ばか日記]瑠、人間不信を払拭しつつある、か!?

生まれて最初の半年、人間の飼い主からネグレクト(もしかすると暴力も)を受けて育ち、5歳までアニマルシェルターで過ごした猫の瑠(7歳10ヶ月)。
2013年4月に我が家に来てから、もうすぐ満3年になります。

2016年3月22日の瑠。
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2015年9月に18歳で他界した摩耶ねーちゃんとはラブラブだった瑠、私には懐こうとしてくれませんでした。
摩耶の他界後、少し寂しがる素振りはありましたが、すぐに猫ひとり人間ひとりの生活に適応。
私との距離は、ほとんど縮まらず。

一年前、2015年3月27日の故・摩耶(17歳10ヶ月)と私。
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そんな瑠に、変化が訪れつつあるようです。

1. 頭隠して尻隠さず


瑠の食事の定位置は、私のベッドの下です。
人間に見られたり接近されたりする場所では落ち着いて食事できないようなので、そうなりました。
これまでの瑠は、ベッドの下に全身を隠して食事していました。
しかし一昨日の朝、彼はベッドの下に頭だけを入れ、首から後ろは出したまま食事したのです。
「後ろから何かされるかも」への恐怖が減ったのでしょうか。

2. 呼んだら来て!

瑠は昨日から、寝室にいて、仕事部屋にいる私に「にゃおー、にゃうー」と声をかけ、呼びだすようになりました。
私が行ったからといって何か変わったことがあるわけではなく、ハンガーの服の下などに隠れているのですが、私が顔を見ると嬉しそうな表情をします。

こういうコンテンツ、もしかしたら役に立つのかな?


3. あ、逃げちゃイヤ


本日夕方のこと。
外から帰宅したら、瑠が「にゃー」と声を出して「おかえり」の意思表示をしてくれました。
姿を見せての出迎えはありませんでしたが。
寝室のハンガーの下に隠れている瑠をちらっと見て。
「ただいま」と言って。
どうせ触らせてくれないだろうと、でも彼の前に手を出してみて。
やっぱり触らせてくれなさそうなので、
「そっか、触っちゃヤなのね」
と手を引っ込めると、急に近づいてきました。
そして私の手の匂いを嗅ぎました。

猫語学習の定番教材。


猫生最初の時期に人間に虐待を受けた猫が、人間への信頼を回復するのは、なんと遠く難しい道のりなんでしょうか。
カーチャンは諦めないけどね(^^) 

31年目の綿の新芽

一週間ほど前に撒いた綿の種、双葉を出しつつあります。
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1983年5月以来、 31年越しの夢の第一歩です。

1983年5月、19歳で浪人中だった私は、綿の種を頂戴しました。
さっそく 、実家の庭で誰も使っていなかった植木鉢に種蒔きしました。
あのときも、綿の種はこんなふうに、双葉を出していました。
どんなふうに育つだろうかと、心から楽しみにして、毎朝様子を見て水を与えていました。所要時間は2分以下だったと思います。

でも、綿が双葉を出したころから毎朝、私は植木鉢が倒れているのを見ることになりました。
最初は「間違って何かがぶつけられたのだろうか」と思っていました。
でも毎日、毎日、植木鉢は倒されていました。
私は、母親のしわざだろうとは思っていましたが、黙って元に戻して水を与えていました。
一週間後のある日、同じように植木鉢は倒されており、綿の新芽は折れてしまっていました。もう、救うことはできそうにありませんでした。 

私は母親に
「あそこの植木鉢が毎日倒れているんだけど」
と言いました。
母親は
「アンタが余計なことをせずに勉強するように、お母さんがしてやっとうとよ(してやっているのよ)」
と言い、ニヤニヤしました。

それまでも、私が大切にしているもの、仲良くしている相手を母親が傷つけることはよくありました。
お気に入りの茶碗が、わざと手が滑ったことにされて割られ、母親がバーゲンで衝動買いしたかなにかした結果としてストックされていた趣味の悪い茶碗を
「お母さんが買ってやった、感謝して使わんと」
と押し付けられたり。
でも、生き物に累が及んだのは初めてでした。

私は、綿の新芽に謝りました。
私のところに来たばかりに、こんな悲惨な運命をたどらせてしまって、ごめんなさい、と。

それから、家庭菜園で綿を栽培することは、一般的になりました。
ドライフラワーとして飾られていることも珍しくなくなりました。
綿の花を見るたびに、私は1983年5月のことを思い出して、胸が痛みました。
なぜ私は、母親にあんなことをされなくてはならなかったのか、今でも理解できません。
悲しさや悔しさや苦しさが、今でも心の中にそのまま残っています。 
今は、母親がいかに私のせいだと主張していた(いる)としても、私に若干の問題はあったのだとしても、母親の行動は母親に原因あっての問題だと考えています。
その認識は、私のこれからを少しだけ楽にしてくれるかもしれません。
でも私の「これまで」の解決にはなりません。

私は、母親に痛めつけられ続けた生育歴から自由になりたいと思い、今年、綿を育てる決意をしました。
この写真の綿の双葉に、何らかの形で母親の影響が及ぶ可能性は、否定できません。なんといっても相手あることです。
私は31年前と同じように、母親によって綿の鉢がひっくり返され、芽が折られるのを見なくてはならないのかもしれません。そして、31年前と同じように泣くのかもしれません。
でも来年も、その次の年も、綿を育ててみようとする努力をやめることはないでしょう。
そこに、私の生き直しがかかっているような気がするのです。

綿の花言葉は「優秀」だそうです。
母親がこの花言葉を知っていたかどうかは知りませんが、母親は、私が「優秀」と認められることを、何よりも嫌いました。 
私は、この綿の新芽を育て、花を咲かせて、自分も「優秀」になるための・そうであるための努力ができる毎日を取り戻したいと切実に思います。
10代、20代のころに、そういう努力をしたかったのです。
私の努力を母親は徹底的に踏みにじろうとしましたし、踏みにじることにかなり成功していたと思います。
もう遅すぎるかもしれませんが、 これからでも、可能な限り、その努力をしたい。
私は生き直したい。

この綿の双葉に、すくすくと育ち、花咲く秋がありますように! 

続・原家族とのことを書き始めてからの変化

2014年3月、突然、原家族とのことを書かずにいられなくなって、このブログに書き始めました。 その後、心身にさまざまな変化が起こりました。
4月上旬までは 原家族とのことを書き始めてからの変化 に記録しています。
本エントリーは、その続きです。

●気分がラクになった

両親、特に母親にしがみつかれ、心のなかまで縛られている感覚が消えていきました。
長年の間、特に母親によって、私は母親の好む感情・母親の好む意志だけを自発的に感じたり持ったりするように望まれていました。
その感覚が消えました。
母親が、私に対して感じることも考えることも表出することも禁じていた感情を、私がここに書いてしまった以上、当然のなりゆきでしょう。

●強烈な虚脱感とウツ気分

しかし、その「母親にしがみつかれ縛られている感覚が消えた」は、快い状態でもなんでもありませんでした。
私は激しい疲労感を覚えました。しばらくの間、虚脱状態になり、はげしいウツ気分に陥り、呆然と過ごしていました。他にどうすることもできませんでした。

●両親に関する幻視幻聴が消えた

私は、他に誰かがいる場所で笑ったり、楽しいと感じたり、学んだりするたびに、耳元で
「間違っとう!(間違ってる!)」
と電話口で叫んだり耳元でつぶやいたりする母親の声が聞こえつづけていました。20歳で実家を離れてから、ずっとです。
時には、母親が私に絡むのをニヤニヤ笑いながら「女どうしだから」と微笑ましそうに見ている父親の表情もセットになって見えることがありました。 それも実際によくあったパターンでした。でも、両親がそこにいないのに見えるんだから、幻視です。
それらの幻視幻聴が、すっかり消えてしまいました。
 
●恐れずに笑い、楽しみ、学ぶことができるようになった 

「え?」と思われるかもしれませんが、私は今まで、笑ったり楽しんだり学んだり、さらに何らかの達成をすることが怖かったのです。
そんなことをすると、母親がどんなに不機嫌になり、怒りを抱くでしょうか。どんなに、達成を妨げようとするでしょうか。
私がそれでも達成してしまったら、母親は、どれほど理由がなくても達成した何かに侵入して「自分のおかげ」ということにしようとします。それが叶わないならば、達成した何かを無意味にしようとします。
それは妄想でもなんでもなく、実際に母親が私に対して示した感情であり、実際に母親が私にしてきたことです。
これからも、そういうことは起こるかもしれません。母親が前面に出てこなくなることはあるかもしれませんが、母親が影響を及ぼした誰かによって同様のことがなされるのかもしれません。
明日、母親につながる人々によって、私は何もかもを奪われてしまうのかもしれません。
でも、
「今日は笑っていよう、楽しんでいよう、将来の何らかの達成につながることを信じて学ぼう」」
と思えるようになりました。
原家族とのことを書き始めるまでは、実のところ、
「笑ったり楽しんだり学んだり達成したりしたら、全部を潰されてしまうのだから」
という恐怖でいっぱいでした。
今は、
「明日何をされるかは分からないけど、笑おう、楽しもう、学ぼう、達成を目指そう。明日、原家族のメンバーが全力で私を潰そうとしたとしても、それ以上の力で抵抗するための力になるから」
と、気休めとしてではなく、本気で思えています。

「子どもが悪意なくしたこと」?

私は主に母親によって、4歳下の弟との間で、非常なきょうだい差別を受けました。
最初は母親が行い、弟が母親に言われたり促されたりするままに同調し……という感じでした。
参考:弟との間にあったこと

私はその一部始終を目の前にしていましたが、止めることはできず、ただ、弟にさまざまな種類の暴力を振るわれ続けているしかありませんでした。
私は弟が16歳のときに実家を離れましたが、そのような状況は、弟が20歳まで続きました(大学再受験で私のアパートに滞在した際)。その後も、両親はあくまでも弟の側に立ち続けました。

長年、私には疑問がありました。
当初、弟が母親によって、私を痛めつける者となるように仕向けられたのは事実です。それは、弟がまだ物心つかない幼少のころでした。1歳とか2歳とか。
でも弟も、いつまでも小さな子どもではありません。判断力がないまま、親が許しているという理由で私を痛めつけ続けていたとも思えないのです。
弟の方は、どういうつもりだったのでしょうか?
弟は私に対して、イジメや虐待を行っているという意識はあったのでしょうか?

2003年だったか、弟が35歳くらいで結婚したとき、疑問のごく一部が解けました。
実家の台所で、弟と私はほんの1分足らずの会話をしました。
弟は
「Kくんと、こないだ会って。お姉ちゃんの話が出たよ。Kくんは『ボクたちが仲間外れにしてイジメて、ヨシコちゃん、傷ついたやろうねえ』と言ってたよ」
と語りました。笑いながら。軽い調子で。
「Kくん」とは、母の兄の双子の息子の一人で、私の一歳下です。私は幼少時、その家にしばしば預けられていたので、双子のK・Mと良く遊んでいました。しかし弟が3歳、私が7歳になるころから、K・Mは弟を仲間とし、同時に、露骨に私を仲間はずれにするようになりました。
「男の仲間に女が一人」
と囃し立てられたり、2対2に別れて何かのゲームをしていたところ、目配せとともに3対1にされてボコボコにされたりといったことがしょっちゅうでした。それでも、泣くこともできませんでした。ガマンできずに泣くと、母親に私が「問題を起こした」と責められるからです。K・Mは、弟からそのことを聞いており、私のことを「安心してイジメられる」と考えている節がありました。
私は弟に
「ああ、とても傷ついたよ。今でも傷ついているよ」
と言いました。真顔でした。
弟は顔をこわばらせました。
その時、弟の携帯電話が鳴りました。弟は弾かれたように立ち上がり、離れた場所で電話に応答しました。

私は、どこか気持ちが落ち着くのを感じました。
それまでの私は、
「悪意ない子どもが、何気なくしたことなんだから、傷ついてはいけない」
と思い込んでいました。両親は私に
「大切な長男に何をされても黙ってガマンする姉」
を期待していました。
長年、私は「それはおかしい」と思い、腸の煮えくり返るような思いを抱えていましたが、辛さや悲しさを誰にどうぶつけてよいか分かりませんでした。その辛さや悲しさを、誰がもたらしているのかも良く分かりませんでした。
でもこの時、
「きっかけを作ったのは母親で、父親がそれを黙認あるいは暗黙のうちに奨励し、弟もそれに乗ったけれども、幼少時のあるとき、弟は自分の意志で姉である私を痛めつけることを選びとった」
という一つのストーリーが明確に見えた気がしたのでした。
それまでの私は、
「誰も悪くはなく、私の対応が下手くそなので、私は辛い立場に置かれ続けていた」
と思い込まされていました。父親がそれに近い言葉を私に語ったことは何回かあります。
でも事実はそうではなく、おそらく、
「家庭内で実権を持っている人々によって、子どもたちの序列と役割が決められ、子どもたちはそのように振る舞うように仕向けられ、あるいはイヤでもそうすることを事実上強制され、有利な立ち位置にいて暴力的であることを許される子どもたちは、それは自分自身にとって有利な状況なので、いつかその立ち位置を主体的に選びとった。不利な立ち位置に置かれた子どもは泣き寝入りを強いられるしかなく、その場ではそうするしかなかった(でも私は『面従腹背』『臥薪嘗胆』だった)」
ということなのです。

従弟のKとM、弟、自分の4人で最後に「遊んだ」のは、私が中学1年、KとMが小学6年、弟がたぶん小学3年のときのことでした。
鹿児島に赴任していた母親の弟が、母方祖母・母親・K・M・私・弟を、鹿児島での一泊か二泊の旅行に招待してくれたのでした。
母方祖母がいたので、母親もふだん私に対して行っているような差別を堂々とは行えませんでした。私はKやMと相撲を取り、気持よく投げ飛ばしたりしました。
これ以後、4人で遊んだことはありません。
4人で遊んでいた、弟が3歳~小学3年の期間のどこかで、弟には「姉をイジメよう」という主体的な意識が芽生えていたようです。
無垢な子どもが、悪意なく、ただ子どもらしく振る舞っただけで私を傷めつけたのであったら、私には救いがありません。
でも、弟は、自分の置かれている立場を自覚し、したたかに振る舞える子どもでした。私の目には、悪意をもって、子どもらしさを演出しながら私を巧妙に痛めつけているように見え続けていました。
大人になった弟自身の口から、それに近い内容の言葉を聞いて、私はほっとしたのです。
私の見方や感じ方は、おかしくはなかったのだ、と。


 
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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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(共著 2009.10 技術評論社)

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