猫と食事と西荻窪、ときどき旅する車椅子

ライター・みわよしこの日常つれづれ話



ペットロス

[猫ばか日記]故・摩耶さんたちに病院に連れて行かれて手術された夢

早いもので、2015年9月9日早朝に猫の摩耶(18歳約4ヶ月)が他界してから、半年が経過しました。

約1年前、2015年3月11日の摩耶と私です。
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さすがに喪失のショックが癒えてきた2016年3月4日朝、不思議な夢を見ました。
以下、SNSに記した夢日記です。

昨日、調子悪くて、午後3時ごろ寝たのですが、寝入りばなに不思議な夢を見ました。
寝入った直後、私の身体が草原の上にふわっと持ち上げられ、運ばれていったんです。
私は四角い布の上に寝ていて、四隅を猫の天使たち数十にゃんが持ち上げて運んでいました。
もちろん猫の天使たちの中には、我が家の故にゃん、美晴・摩耶・悠がおりました。
私は調子悪いままでしたから、
「もしかしたらこのまま、自分は猫の天国に連れて行かれるのか!?」
と思いました。
私の身体の横にはいつものカバンがありました。
それを身体に引き寄せました。
カバンにはスマホと財布と、瑠(現在同居している猫・7歳男子)の医療保険証などが入っています。
「瑠の行く末をお金とともに誰かに託してからじゃないと、天国行けない」
と思ったんです。
猫の天国に行くのは本望ですが、その前にしなきゃいけないことが!


瑠の動物医療保険証。私のFCCJ会員証と並べて、パチリ。

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でも調子の悪い私は動けないまま、コックピットのような診察室に連れて行かれました。
耳から内視鏡が差し込まれ、モニターに何かが映しだされ、医師たちが話し合っていました。
聞き覚えのある声がしました。
内視鏡を覗いているのは、友人の病理医、榎木英介さんでした。



「病理医なのに内視鏡も使えるんだ」
と感心している場合ではありません。

モニターには私の脳のどこかが映しだされていて、病変がこことあそこにあると。見るからに病変っぽかったですが、脳のどこなのかはわかりませんでした。だいたい耳から内視鏡入れて、脳の何が見えるやら。このあたりが、医学知識皆無に近い人間の、いいかげんな夢ですね。

「これはひどい、今までよく活動出来てたよね、すぐ手術しないと」
という会話が行われ、麻酔が打たれました。
私は、手を伸ばせば届くところにあるバッグを掴んで、瑠に遺言を残そうと必死でしたが、手は届きませんでした。そのせいか麻酔は効きませんでした。

 

看護師さんがやってきて、口の中にゼリー状の麻酔薬を塗りました。
それでも効かず、「おかしいなあ、いきなり聞くと怖いから」と、榎木さんが5mlシリンジに皮下注射用の注射針をつけて、私に麻酔薬注射をしました。
病理医が麻酔打っていいのかとツッコむヒマもなく、私はコテンと眠り、目が覚めたら快調になっていました。

私は、猫の天使たちが運ぶ布に乗せられて、その秘密のコックピットのような診察室を後に。
ずっと浮かんだまま、ウチのベッドの上に。
でも猫の天使たちは、布を完全にはおろしてくれませんでした。
「どうして?」
と聞くと、悠が
「お母さん、僕たちも一緒に支えているんだからね、お母さん一人でがんばらなくていいんだよ、これからはラクにがんばれるんだよ」
って。
 

2012年12月1日の悠(14歳7ヶ月)。甘え上手、可愛さのアピールが上手なコでした。2013年に入るとともに調子を崩し、進行肺がんが発見され、2013年3月2日に14歳9ヶ月で他界。

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嬉しい夢でした。
私はきっと、故にゃんたちや、故にゃんたちのお母さんたちや、故にゃんが天国で作ったお友達たくさんと一緒に今を生きており、死んだら数えきれないほどの猫たちと一緒に、猫の天国に行くんでしょう。
何があっても生きる希望を持てるようになれそうな夢でした。 

[猫ばか日記]摩耶さん他界より満5ヶ月

2016年2月9日で、猫の摩耶(享年18)を喪ってから5ヶ月になりました。
早いものです。

2015年2月9日の摩耶と私。
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この間の心と身体の動きを整理すると

2015年9月9日 
摩耶、他界
2015年9月 
自分の一部を喪ったような痛みと脱力、食欲喪失。
2015年10月 
もう立ち直れないかのような悲しみ。摩耶と暮らした18年3ヶ月のうち18年2ヶ月は、摩耶幼少のころの私の勤務先での追い込み退職を引きずった問題が次から次に起こり続け、悲しみ、怒り、嘆くことが多かった。摩耶にもっと笑顔を見せてやれなかったことを後悔。もちろんその私の笑顔は「男社会で生きていけなかったけど、家庭の幸せがあるから、まあいいや、お皿洗って幸福感でも」であってはならないわけで、私は「男社会でうまくやれず、猫の子どもたちに笑顔をたくさん見せることもできず、仕事でも家庭でも失敗したどうしようもない自分」と自分を責めた。さらに2014年-2015年、生活保護にからんで2人の生活保護利用男性+1人の生活保護利用者家族男性に苦しめられ、金銭等の実害もあったことから、「あんなことさえなければ」と自分を責めた。
2015年11月 
猫を抱きたい、触りたいという思いに駆られる(瑠はボディタッチが好きでないのです)。自責の思いは、「そんなにも最低の男たちに最低のことをされていたにもかかわらず、猫の子どもたちを寿命まで守り通せた自分、支えてくれた猫の子どもたち。これはこれで価値ある物語ではないのか?」というふうに変わってきた。2014年の生活保護男性らの件については、「摩耶に対してベストを尽くせなかったのは、あの人達のせいだ」で気持ちに折り合いをつけることにした。実際、かなりそうなんだし。
2015年12月
瑠との距離感のある同居生活に「これはこれでいいや」と感じ始める。食欲がないだけではなく、胃腸の動きがおかしくなり、排便が不規則に。元勤務先のことは、急速に記憶の前面に出てこなくなり、「昔の話」という箱に収められ、開ければ見えるがふだんは見えないような感じに。
2016年1月
食欲、何か食べて「おいしい」という感じが、少しずつ復旧し始める。胃腸の動きはさらにおかしくなり、排便はさらに不規則かつ酷い便秘に(繊維質たくさん食べてるのに) 。元勤務先のこと、2014年-2015年の3人の男性のことなどは、ときどき、すさまじい怒りとともに思い出された。「相手を殺してやりたい」「相手を、生まれてきたことを後悔するほどの目に遭わせてやりたい」が具体的な方法やシーンとともに思い浮かぶ感じ。ただ長続きはしない。1分も続かないのだが、「こんなにも激しい怒りを覚えていたのか」と自分で驚いた。そして、今後はそういう人々を遠ざけようと決意。
2016年2月
排便リズム復旧し始める。摩耶が生きていた18年間の摩耶との出来事が、その時期に職業世界その他でどれほど辛いことがあったとしても、ただ「摩耶がいた時間」として幸せに思い出される。

癒えない傷って、ないんですね。
2017年7月は、元勤務先で凄まじいイジメが始まってから20周年です。
それから、2000年の退職後、少なくとも2012年前半まで何があったか。
どんなふうに引きずられたか。どんなふうに、私のそれまで築いていた人間関係を破壊されたか。
私の攻撃者と化した時期が年単位であったにもかかわらず、私との関係を続けようとする人々を、私はその後どうしたか。未だ断ち切れない人々を、どうするつもりか。
2017年7月までには、まとめられるようにしたいものです。

バカバカしい目に遭わされる人間も、そんな人間のもとで本来なら与えられるはずの愛や関心や資源を与えられなくなる猫も、できるだけ、生まれませんように。

 

[食事の記録]七草粥を食べました

2015年9月に猫の摩耶(享年18)を喪って以後、食欲不振が続いております。
2015年12月10日ごろから自炊に復帰したのですが、主食はご飯だと重くて、お粥にしてます。
というわけで、昨日1月7日朝も、お粥を炊いてました。

昨年1月7日の摩耶さんと私。

お粥が炊き上がるころ、ツイッターを見て、今日は七草粥の日だと気付きました。
プランターに植えた植物、勝手に生えた植物、近所の空き地に生えてる植物などから食べられるものを採集。
5分足らずで、これだけ集まりました。

お粥に乗せて食べるのに適したサイズに刻み、常備の5%塩水を噴射。しばらく待ってレンチン。
  
中央上左から時計回りに、スミレ、ハコベ、コオニノカタビラ、ハルジオン、アシタバ。どこかにヨモギが隠れてるはず。
一種類足りないので、この後、ニンジンの葉を追加。

めんつゆに数分間漬けておいた卵黄とともに、お粥にトッピングして出来上がり。

アボカドのレモン汁かけ、お粥に使わなかった茎と庄内麩の味噌汁。
この他、出汁パックの中身と卵の白身を混ぜてレンチンしたものをいただいた、朝昼兼用ごはんでした。
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季節のご飯ものを工夫するとき、今、一番参考にしている本です。
でも全部は必要ないので、所有せず、必要になったら図書館で見てくるようにしています。
「1ページいくら」で、必要なページだけ電子版で売ってくれたらなあ……。 
 
  
食べられる野草、コンパクトで充実した図鑑は、現在ないようですね。
今だったら、写真撮ってツイッターにアップして「これ何? 食べられる?で済むのかもしれませんが。 

[猫の闘病記]摩耶を失ってもうすぐ満三ヶ月、一つの気づきと三つの出来事

2015年9月9日未明に猫の摩耶(18歳+約4ヶ月)を失ってから、あと3日で満3ヶ月となります。
早いものです。
摩耶に逝かれた後は、二度と立ち直れないかのような気持ちになり、ダメージを引きずっている状態が11月中旬まで続きました。自覚していないだけで、まだダメージは残っているのかもしれません。
しかし、一つの気づきがありました。
そして、「立ち直り?」と思える出来事が三つありました。

2013年12月の摩耶(17歳7ヶ月)と私。
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  • 一つの気づき
2009年12月、私は公私ともに最低に近い状況にありました。
そんな中で、猫の悠(当時11歳)の慢性腎不全が発覚し、毎日の服薬が始まりました。悠は5月には甲状腺機能亢進症であることも判明し、薬剤の量の調整に成功しないまま夏を迎え、2010年8月には、夏が越せるかどうかも危ぶまれる危機的な状態に陥りました。
同じ2010年8月、摩耶(当時13歳)の慢性腎不全が発覚しました。
2010年8月、私は公私とも、最低より酷い「ドツボ」というべき時期にありました。
しかし摩耶と悠の闘病を支えることで自分を支え、立ち直り、現在に至っています。
2009年12月に始まった摩耶と悠の闘病は、2013年3月に悠が他界し、ついで2015年9月に摩耶が他界したことで、ひとまず終止符が打たれました。
5年10ヶ月。
長いような短いような、毎日、プレッシャと大変さに「放り出してしまいたい」と思うような、しかし同時に、永遠に続いてもいいと思えるような、濃密な時間でした。

甘え上手で、可愛さのアピールが上手だった悠。
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摩耶を失ってしまった私は、9月半ばごろから、脳内に一気に噴き上げてくる幼少時からのトラウマティックな記憶に苦しめられました。主に原家族での記憶で、登場するのは両親ときょうだいです。
しばらくの間、まるで自動筆記マシンになったかのようにツイートし、ときおりtogetterに「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」というまとめを作りながら、気づきました。
大学4年で23歳だった秋、最初の猫と暮らし始めて以来、私は「目の前の猫を守る」に没頭することで、辛い記憶の数々から、目をそらし続けてきたのです。
2009年12月以後、摩耶と悠の闘病が始まって以後は、なおさらそうでした。その時期、特に2010年から2012年前半にかけて原家族のメンバーとの間に何があったかは、「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」に書きました。知りたい方は、そちらをどうぞ。もちろん私は今でも思い出すことができますが、あまりにも辛いので、繰り返し思い出して書きたくありません。
原家族の中での辛い体験の辛い記憶に直面することを避けながら、原家族のメンバーと表面的な付き合いを続けながら(2007年、実質的に縁を切られるまでのことですが)、私は51歳まで、何とか生き延びて来ました。
原家族のメンバーとの話し合いの努力は、精一杯してきました。話し合いに応じられないので対決することも試みました。しかし、何も通じませんでした。
さらに2010年から2011年にかけての出来事で、私は原家族に対して、どのような望みも抱かなくなりました。あの状況で何かを望んだら、私が愚か過ぎるということです。何があったかは「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」をご参照ください。
摩耶を失い、毎日の注射や皮下補液や服薬や健康状態チェックや……という日課と生命を守るプレッシャから解放された私に、長年、直面することを避けていた原家族との問題が、一気に降りかかってきた気がしました。
「摩耶と悠を守らなくては」という5年10ヶ月間の緊張は、原家族の問題によるダメージから自分を守る殻としても機能していたのです。
摩耶が逝ってしまって初めて、私はそのことを自覚したのでした。
「母は強し」と言いますが、母は子のために強くなることによって、初めて、自分を守れる人間になれたのかもしれません。
過去に読んだことのある「母親」の物語を、そういう視点から、もう一度たどり直してみたいものです。


  • 一つ目の出来事
2015年12月1日朝。
私は目覚め、中国・北京市のホテルで朝風呂をしました。
学会参加のため11月29日夜から北京市のホテルに滞在していた私は、11月30日に無事に発表を終え、ほっとした気持ちで長湯しました。
じっくりと身体を温め、浴槽の中で悠の愛した「アンパンマンのマーチ」を歌い(我が家で「読経」と呼んでいる日課です)、冷水シャワーを浴び、汗が引いたところで身体を拭いて服を着て。
私は
「動物虐待 動物虐待 大変だ 大変だ」
と歌い始めました。意識してではなく、自然に。
それは、摩耶の毎朝の皮下補液とインシュリン注射のために作った歌の冒頭でした。

摩耶の皮下補液の様子を記録した、唯一の動画です。歌も入っています。


でも、そこは北京のホテルです。
ずっと東京で暮らし、3ヶ月近く前に死んでしまった摩耶がいるわけはありません。
私は歌い続けましたが、歌の途中で涙が止まらなくなり、数分間、そのまま涙を流し続けました。
そして思いました。
摩耶は猫の肉体をもって、18年と約3ヶ月を私とともに過ごしてくれました。
今もきっと、摩耶は私とともに生きているのだ、と。
  • 二つ目の出来事
12月3日、帰国のため北京市内を駅に向かって移動していた時のことです。
信号も横断歩道もなんのその、車の流れが途切れない交差点を渡ろうとしていたら、車がすぐ横手に迫ってきました。
頭の中に
「失敗は許されんとよ(許されないのよ)」
という声が響きました。母親のものでした。私だって「失敗したくない」と思っている入試などの直前に、母親が何十回も耳元で繰り返す「失敗は許されんとよ」に、私はどれほど苦しめられてきたか。言い表しようもありません。
外国で交差点を渡ろうとするときも含め、一歩間違えば身の危険に繋がるような場面、あるいは仕事や学業で強いプレッシャの下にあるとき、私の頭の中には母親の「失敗は許されんとよ」がいつも鳴り響いたのでした。私は頭の中でガンガン鳴り響く「失敗は許されんとよ」に絶叫したいような気持ちになりながら、いくつかの困難に立ち向かいました。乗り越えられた困難も、避けられた危険もありますが、失敗の方が多かったのではないかと思います。母親によれば、成功すれば「お母さんが言ってやったから」と母親のおかげ、失敗したら私のせい。
しかし、その北京の交差点で、私は
「失敗は許されんとよ」
という母親の声に
「そうですか」
と答え、そのまま車を避けて交差点を渡り終えました。
当惑して立ち尽くす母親の姿が交差点の中に見えましたが、まもなく、行き交う車に隠されて見えなくなりました。

たったそれだけのことですが、私にとってはエポックメイキングな出来事でした。
私は長らく、脳内に深く打ち込まれた辛い記憶に苦しめられずに生きられるようになれれば、と望んできました。
この時、「もしかすると現実になるかもしれない」と確信できたのです。
少なくともその一瞬、私は自分の「そうですか」という言葉で、「失敗は許されんとよ」という母親の声に混乱させられることなく、危険な交差点を渡り切ることができたのです。

  • 三つ目の出来事
いくつもの病気を抱えることになった摩耶と悠に対し、資金も時間も体力も限られた中で、出来るだけのことはしてやりたいと思いました。それは、99%くらいは実現できたと思っています。
しかし摩耶の最後にあたって、私には大きな心残りがありました。
亡くなる3日前の9月6日夜、タクシーで摩耶を動物救急センターに運びこんだとき、脳神経疾患を疑った獣医さんにMRI検査を勧められたものの、「10万円」という費用を聞いて尻込みしてしまったのです。
住まいの耐震補強に伴う仮住まいへの引っ越しなどなど、何かと出費のかさむ時期だったので、10万円という費用に対して「お願いします」と即決できませんでした。
摩耶は翌朝、いったんは起きて食事が出来るところまで回復しましたが、その後すぐ容体が悪化。二度と起き上がることなく、9月9日早朝に亡くなりました。
死後のMRI検査・CTスキャン検査・髄液検査で、死因は脳髄膜炎であること、脳にリンパ腫があり脊髄に転移していた可能性も高いことが判明しました(麻酔不要なので、頭部MRIと全身CTスキャン合わせて3万円でした)。
私は大いに後悔しました。なぜ、あのとき、10万円を惜しんだのだと。
脳と脊椎の状況が判明したからといって、大きな改善が見込めるわけはなく、せいぜい数日の延命が可能だった程度でしょう。
でも、そのせいぜい数日、意識のある摩耶に話しかけ、コミュニケートすることができれば。
今、身体の中で何が起こっていて、これからどうなるのかを話して聞かせてやることができれば。
摩耶の最後の何日かは、もっと幸せだっただろうに、と。

それから自責しました。
私は2014年度のほぼ一年間、「生活保護」というキーワードに関連して、二人の男性に苦しめられました。
一人は「生活保護詐欺」というべき悪質なタカり。実際に支出させられることになり、「返します」という再三の言葉にもかかわらず返されることのなかった費用は、直接の出費だけでも9万円に及びます。あの9万円が失われていなかったら!
(本件、ここに詳しい事情は書きませんが、いわゆる「不正受給」には当たりません。その期間、カネを出させた相手(妄想性の精神疾患ありと思われる)は保護廃止中でした。タカった直接の相手はその人の親で、日本人ですが日本には住んでおらず、もちろん日本の生活保護受給者でもありません。外国居住中の日本人に対する「生活保護を利用した都合の悪い家族の捨て方マニュアル」でも存在するのか? と思うほど巧妙な、居住地・現在地など生活保護の「ツボ」を知り尽くして突いているとしか思えないパターンでした。2015年2~3月に大変な目に遭い、ついで6月に「タカられた」が確定して以来、タカった相手への怒り・騙された自分への自責と嘆き・無理解から(なにしろ詳しい事情を語ることができませんので)私を責めた人々・私がリアルタイムで苦しんでいるというのに社会運動の論理でさらに追い打ちをかけてくる人々などへの怒りでいっぱいでした。しかし、激しい感情は、そろそろ収まってきました。来年前半には、この件をまとめて書く事ができるかと思います)

もう一人については、相手が10代のころから15年以上にわたる付き合いでしたが、もう、書きたくも思い出したくもありません。かつては良い友人関係にありましたが、最後は単なる搾取者でしたから。
もしも私が「自分は生活保護」「自分は精神障害」を理由にして時間・気力・体力を奪いつづける男性を、2014年度に自分に近寄らせていなかったら、金額換算で何十万円を得ることができていたでしょうか? 失った時間、それによって失った機会、それを取り戻そうとしての消耗を考えると、いまだ数百万円の損害を被っているのかもしれません。
(「こんなことを書くと人格攻撃してくるだろうな」と思い浮かぶ反貧困運動界隈の男性が何人かいるのですけれども、「もう勝手にしろ」としか思いません。その人たちは、私と家族の人生に責任を負っているわけではないし、負いたくても負えないわけですから)
私が愚かすぎて、ジェンダーというものに対して充分な注意を払わずに男性のメールに答えたり、男性に会ったりしたから、こんなことになった。
だから、摩耶に最後に充分に治療を受けさせてやれなかったんだ。愚か者め、愚か者め、愚か者め!
私はそんなふうに、自分を責め苛み続けていました。3ヶ月近くにもわたって。

でお12月3日、中国から帰国して。摩耶ねーちゃんが大好きだった瑠に再会して。
幼少のとき虐待から救出され、5歳までシェルターにいた瑠は、今でも人間を簡単には信頼しません。
一緒に暮らし始めて2年8ヶ月になる私も、数日に一度は触らせてもらえるかどうかです。
でも、ちょっとぎこちないコミュニケーションで、アイコンタクトで、再会を祝しあっているうちに。
「摩耶の最後に10万円を出し惜しむことになったのは、あの二人のせいだ。あの二人が、摩耶から最後の十分な治療と、最後の数日間を奪ったんだ。悪いのは、あの二人。自分を責めるのはやめよう」
という気持ちになり、
「そういうリスクをもたらす人との接触は、これからは最小限にしよう、人語を話せない猫たちに、しわ寄せが及ぶんだから。私が『猫のおかあさん』である以上、しなくてはならないことなんだから。私はまず、私を守らなくちゃ。どういう名目でも、私の安全や健康の脅威になる人は近づけず、脅威になってきたら全速力で遠ざかるようにしなくちゃ」
と決意しました。
摩耶と一緒に苦しみ、摩耶と一緒に吹っ切った気がします。

2015年12月6日、これから50cmほどの下降ジャンプを試みようとする瑠(7歳7ヶ月)。
私の出張中、過食気味だったようで、太っちゃってます。
適量のご飯にカーチャンがいる心の満足をプラスして、少し痩せてもらわなくちゃ。
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  • たぶん、まだまだ続くプロセス
なんといっても、18年3ヶ月という長い時間をともにしてくれた摩耶がいなくなった喪失感は、やはり多大なものです。
これからもまだまだ、私自身の回復のプロセスは続くのでしょう。
もうすぐ3ヶ月になろうとしている今のところを、とりあえず記録しておきます。 

[猫の闘病記]摩耶、他界してから2ヶ月と1日目

2015年9月9日、猫の摩耶(18歳+約4ヶ月)が他界してから、2ヶ月と1日が経過しました。
一緒に暮らした猫を見送るのは3にゃん目ですが、何度繰り返したからといって、慣れるものではないようです。 
といいますか、過去に味わったことのない激しい喪失感といいますか、心身の激しい変調があり、まだ続いています。

摩耶。2015年8月24日。貧血のせいか、ちょっとダルそうです。
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  • 長く激しい夢が、終わろうとしている
摩耶が倒れて入院した9月6日夜、動物救急センターにタクシーで連れて行き、応急処置のあとお願いして一人で帰宅しようとした時、身体が締め付けられるような、削ぎ落とされるような感じがありました。
「今日、今これから」というほど緊迫した状況ではなかったものの、厳しい状況、摩耶の生涯最後にさしかかってしまったことは間違いありませんでした。
弟猫の瑠(7)がひとり待つ住まいに戻った時、やまだ紫「しんきらり」の
長い
長い——夢の中にいた
あの人にめぐりあって6年
結婚して10年
あわせて16年もの夢——
わたし自分を無欲な平和な女だと思っていた
結婚生活に過大な期待をもたず
ただ平和な日々がおくれたらとささやかな
夫婦が長く平和に——という望みは「ささやか」な望みなんかじゃなかった
こんなに激しい夢ってなかったんだ

というモノローグが、脳裏に浮かび上がってきました。
摩耶との約18年3ヶ月、1997年6月に生後1ヶ月の摩耶を迎えてから18年以上の時間を、とにもかくにも共に、互いに信頼しあって歩み通してきた奇跡。
ただただ、ありがたくて愛おしくて、 でも、遠からぬ将来に終わってしまうことが悲しくて。
ベッドの上にへたりこみ、何十分もそのままの姿勢でいました。

  • 摩耶との最後の10時間
亡くなる前日の2015年9月8日、午後3時少し前、摩耶が最後にお世話になった動物救急センターに駆けつけました。
摩耶の「おかあさん、おかあさん」と呼ぶ声が聴こえたので、取るものも取り敢えずそちらに向かっていたら、あと10分というところで「呼吸停止しました」という電話。蘇生と人工呼吸を「しますか」と尋ねられたので、お願いしました。
午後3時から午後9時少し前までの約6時間、私は摩耶のことだけを考えながら、摩耶の横にいて、撫でたり話しかけたり音楽を聞かせたりしていました。
摩耶をたいへんかわいがってくれた友人が迎えを手伝いにきてくれたのは、午後9時少し前。
連れて帰る準備が整い(住まいには酸素ボックスを用意していました)、友人に抱かれた摩耶とともに住まいに着いたのは、午後10時過ぎ。
午後11時過ぎには、友人は帰って行きました。もう1回2回は会えると思っていたそうです。私も、もう1日2日は頑張ってもらえるだろうと、ケアの心づもりをしていました。
リラックスした様子で横たわる摩耶を、ずっとずっと見ていたかったのに。一緒にいたかったのに。
日付が変わってまもなく、摩耶は他界しました(詳しくはこちら)。
最後に、摩耶と濃密な10時間を過ごせたのは良かったと思っています。
でも私はなぜ、摩耶が元気なときに、もっと向き合って、遊んで、愛さなかったのでしょうか。
やはり後悔が残ります。


  • 病院から初めて「おうち」に迎えられる赤ちゃんのように
亡くなる前日、9月8日の午後9時少し前、摩耶をたいへんかわいがってくれた女性の友人が迎えを手伝いに来てくれました。
呼吸器使用の難病患者さんを専門とする介護事業所を経営し、ヘルパーとしても活動する友人は、仕事の帰りでした。仕事に使っていた淡黄色のエプロンを持っていました。
動物救急センターを出るときは、雨でした。
腰から下をペットシーツでくるまれ、友人の淡黄色のエプロンをかけられた摩耶は、私に抱かれてタクシーに乗りました。
摩耶が濡れないように、獣医さんと友人が傘をさしかけてくれました。
タクシーで住まいに着いたら、友人に摩耶を抱いてもらい、私は車椅子をトランクから降ろして組み立て、住まいのドアを開け、用意した酸素ボックスが「スタンバイOK」であることを確認しました。
摩耶は、淡黄色のエプロンにくるまれ、友人に大切に抱えられて、住まいに入ってきました。
その様子は、産まれた病院から、おくるみに包まれてパパやママに抱かれて「おうち」に迎えられる新生児のようでした。
摩耶は産まれたばかりの人間の赤ちゃんではなく、余命いくばくもない病気の高齢猫で、意識もあるのかどうか明確にはわからない状態でした。
これからの成長を期待されての帰宅ではなく、最後の時間を「おうち」で過ごすために戻ってきたのでした。
でも、私たち家族の大切な娘であり、妹であり姉であり、友人たちにも愛してもらった摩耶は、とにもかくにも「おうち」に戻ってきました。
私たちの大切な生命が、私たちの暮らしの場である「おうち」に戻ってきたのです。
大切な生命の輝きは、迎える者たちの喜びは、人間であるかどうか・将来があるかどうかなどとは関係がないのだと思いました。

  • 腎臓は頑張ってくれていた
2010年8月、摩耶の多飲多尿が気になったので病院で検査してみると、腎臓がかなり悪くなっていました。CRE3.1だったか。慢性腎不全の病期分類ではステージIII。透析ステージが猫にはありえないので、ステージIVよりも先はありません。その一歩手前。
それから5年1ヶ月、血液検査の結果では、摩耶の腎臓はじわじわと悪くなってきてはいたものの、CRE3.1が時に3.5や3.8になる程度。BUNは少しずつ高くなってきており、腎機能が少しずつ低下していることは否めませんでした。
2012年10月に糖尿病との付き合いが始まって以後は、糖尿病と腎臓病の間で綱渡りするような日々が続いていました。
動物救急センターに最後の入院をさせたとき、私の匂いの染みたタオルを一緒に預けました。
そのタオルは、摩耶の尿にまみれて住まいに帰ってきました。薄めながら、しっかりアンモニア臭のする尿でした。
救急センターで最後の救命処置を受けていたときに敷かれていたペットシーツに染みていた尿からも、最後に住まいで呼吸停止したときの尿失禁の尿からも、しっかりアンモニア臭がしました。
髄膜炎と、おそらくその原因になったと思われる脳腫瘍さえなければ、摩耶は成人式を迎えてくれたのかも。

  • 摩耶のいない生活に慣れるまで
私は驚くほどスムーズに、摩耶の不在そのものに慣れました。
朝起きて、摩耶の姿が見えないのを「なぜ?」と思うようなことはありませんでした。 
しかしながら、摩耶がいないという事実は、日に日に重くのしかかってくる感じでした。 

  • 食欲がなくなった
摩耶が亡くなってから、食欲が激しく減退しました。
2ヶ月が過ぎた今でも、1日にお子様ランチ程度の食事1回程度を完食、あとは軽く野菜や果物をつまむ程度の食事しかできません。
食べることを考えただけで胃が重くなります。
なんとか固形物をお腹に入れると、またそれで胃が重くなります。
食べないと動けないし仕事もできないし研究もできないし。苦痛に耐えて食事をする日々が続きました。 
体重も激減しました。2ヶ月で6kg減りました。もとが高度肥満でしたから、まだ立派な肥満体ですけど。
今朝、目が覚めた時に「お腹すいたな、何か食べたいな」と思いました。
摩耶が亡くなってから、初めてのことでした。
摩耶が倒れた9月6日朝は、それなりに普通に朝食を食べた記憶があります。
それ以来、2ヶ月と5日ぶりのでした。

  • 瑠と、母一人息子一人に
2013年3月、愛してやまなかった弟分の悠(享年14)を失った摩耶は、ひどく力を落とし、嘆き悲しみ、寂しがりました。
私が近所のコンビニまで買い物に行って帰ってきて住まいに近づくと、たった20分足らずの不在なのに、「大泣き」という感じの摩耶の声が聞こえてくるのでした。
1ヶ月経っても立ち直りの気配もない摩耶のため、私は意を決して、アニマルシェルターから新しい猫を迎えました。虐待から救われ、シェルターで5歳まで育てられていた猫の瑠(りゅう・7歳男子)です。
いまだ人間不信・人間恐怖が若干残っている瑠ですが、摩耶ねーちゃんとは、あっという間に仲良くなりました。
摩耶と仲良くやってるし、摩耶も喜んでるから「ま、いっか」と思っていました。
しかし、摩耶がいなくなり、瑠と人間のカーチャンは一対一で向き合わなくてはならなくなりました。

ギクシャクしていた瑠との関係は、少しずつ少しずつ、ほぐれてきています。

瑠(7)。なかなかシャッターチャンスをくれないコです。
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摩耶がこよなく愛した弟分の悠(1998-2013)。甘え上手なコでした。
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  • お酒が飲めなくなり、ついで深酒連続になったので、当分のあいだ禁酒
摩耶が亡くなってから、お酒がまったく飲めなくなりました。
1ヶ月ほど、ビール1本も飲めませんでした。飲もうとすると、途中で気持ち悪くなるのです。
ところが1ヶ月半ほどすると、逆にお酒がいくらでも飲めるようになりました。日本酒換算で、1日あたり4合や5合を飲み、翌朝は酒は残っているものの二日酔いになるでもなく。
そのうちに、朝、眼が覚めたときに「お酒飲みたいな」と思うようになっていました。
これはヤバいです。そこで飲んだら連続飲酒状態に陥ります。アルコール依存症の仲間入りです。
カーチャン元気でないと、摩耶が悲しむぞ。
というわけで、本日から10月22日まで、禁酒することにしました。

愛と信頼で結ばれた大切な家族を失うことは、こんなにも辛いものなのですね。
これまで、(人間の)ご家族を亡くした方に、自分はなんと無神経な言葉がけをしてきたものだろうかと反省しています。
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著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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