猫と食事と西荻窪、ときどき旅する車椅子

ライター・みわよしこの日常つれづれ話



回復

[猫ばか日記]瑠、人間不信を払拭しつつある、か!?

生まれて最初の半年、人間の飼い主からネグレクト(もしかすると暴力も)を受けて育ち、5歳までアニマルシェルターで過ごした猫の瑠(7歳10ヶ月)。
2013年4月に我が家に来てから、もうすぐ満3年になります。

2016年3月22日の瑠。
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2015年9月に18歳で他界した摩耶ねーちゃんとはラブラブだった瑠、私には懐こうとしてくれませんでした。
摩耶の他界後、少し寂しがる素振りはありましたが、すぐに猫ひとり人間ひとりの生活に適応。
私との距離は、ほとんど縮まらず。

一年前、2015年3月27日の故・摩耶(17歳10ヶ月)と私。
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そんな瑠に、変化が訪れつつあるようです。

1. 頭隠して尻隠さず


瑠の食事の定位置は、私のベッドの下です。
人間に見られたり接近されたりする場所では落ち着いて食事できないようなので、そうなりました。
これまでの瑠は、ベッドの下に全身を隠して食事していました。
しかし一昨日の朝、彼はベッドの下に頭だけを入れ、首から後ろは出したまま食事したのです。
「後ろから何かされるかも」への恐怖が減ったのでしょうか。

2. 呼んだら来て!

瑠は昨日から、寝室にいて、仕事部屋にいる私に「にゃおー、にゃうー」と声をかけ、呼びだすようになりました。
私が行ったからといって何か変わったことがあるわけではなく、ハンガーの服の下などに隠れているのですが、私が顔を見ると嬉しそうな表情をします。

こういうコンテンツ、もしかしたら役に立つのかな?


3. あ、逃げちゃイヤ


本日夕方のこと。
外から帰宅したら、瑠が「にゃー」と声を出して「おかえり」の意思表示をしてくれました。
姿を見せての出迎えはありませんでしたが。
寝室のハンガーの下に隠れている瑠をちらっと見て。
「ただいま」と言って。
どうせ触らせてくれないだろうと、でも彼の前に手を出してみて。
やっぱり触らせてくれなさそうなので、
「そっか、触っちゃヤなのね」
と手を引っ込めると、急に近づいてきました。
そして私の手の匂いを嗅ぎました。

猫語学習の定番教材。


猫生最初の時期に人間に虐待を受けた猫が、人間への信頼を回復するのは、なんと遠く難しい道のりなんでしょうか。
カーチャンは諦めないけどね(^^) 

[猫の闘病記]摩耶を失ってもうすぐ満三ヶ月、一つの気づきと三つの出来事

2015年9月9日未明に猫の摩耶(18歳+約4ヶ月)を失ってから、あと3日で満3ヶ月となります。
早いものです。
摩耶に逝かれた後は、二度と立ち直れないかのような気持ちになり、ダメージを引きずっている状態が11月中旬まで続きました。自覚していないだけで、まだダメージは残っているのかもしれません。
しかし、一つの気づきがありました。
そして、「立ち直り?」と思える出来事が三つありました。

2013年12月の摩耶(17歳7ヶ月)と私。
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  • 一つの気づき
2009年12月、私は公私ともに最低に近い状況にありました。
そんな中で、猫の悠(当時11歳)の慢性腎不全が発覚し、毎日の服薬が始まりました。悠は5月には甲状腺機能亢進症であることも判明し、薬剤の量の調整に成功しないまま夏を迎え、2010年8月には、夏が越せるかどうかも危ぶまれる危機的な状態に陥りました。
同じ2010年8月、摩耶(当時13歳)の慢性腎不全が発覚しました。
2010年8月、私は公私とも、最低より酷い「ドツボ」というべき時期にありました。
しかし摩耶と悠の闘病を支えることで自分を支え、立ち直り、現在に至っています。
2009年12月に始まった摩耶と悠の闘病は、2013年3月に悠が他界し、ついで2015年9月に摩耶が他界したことで、ひとまず終止符が打たれました。
5年10ヶ月。
長いような短いような、毎日、プレッシャと大変さに「放り出してしまいたい」と思うような、しかし同時に、永遠に続いてもいいと思えるような、濃密な時間でした。

甘え上手で、可愛さのアピールが上手だった悠。
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摩耶を失ってしまった私は、9月半ばごろから、脳内に一気に噴き上げてくる幼少時からのトラウマティックな記憶に苦しめられました。主に原家族での記憶で、登場するのは両親ときょうだいです。
しばらくの間、まるで自動筆記マシンになったかのようにツイートし、ときおりtogetterに「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」というまとめを作りながら、気づきました。
大学4年で23歳だった秋、最初の猫と暮らし始めて以来、私は「目の前の猫を守る」に没頭することで、辛い記憶の数々から、目をそらし続けてきたのです。
2009年12月以後、摩耶と悠の闘病が始まって以後は、なおさらそうでした。その時期、特に2010年から2012年前半にかけて原家族のメンバーとの間に何があったかは、「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」に書きました。知りたい方は、そちらをどうぞ。もちろん私は今でも思い出すことができますが、あまりにも辛いので、繰り返し思い出して書きたくありません。
原家族の中での辛い体験の辛い記憶に直面することを避けながら、原家族のメンバーと表面的な付き合いを続けながら(2007年、実質的に縁を切られるまでのことですが)、私は51歳まで、何とか生き延びて来ました。
原家族のメンバーとの話し合いの努力は、精一杯してきました。話し合いに応じられないので対決することも試みました。しかし、何も通じませんでした。
さらに2010年から2011年にかけての出来事で、私は原家族に対して、どのような望みも抱かなくなりました。あの状況で何かを望んだら、私が愚か過ぎるということです。何があったかは「猫の摩耶他界後の「おもひでぽろぽろ」」をご参照ください。
摩耶を失い、毎日の注射や皮下補液や服薬や健康状態チェックや……という日課と生命を守るプレッシャから解放された私に、長年、直面することを避けていた原家族との問題が、一気に降りかかってきた気がしました。
「摩耶と悠を守らなくては」という5年10ヶ月間の緊張は、原家族の問題によるダメージから自分を守る殻としても機能していたのです。
摩耶が逝ってしまって初めて、私はそのことを自覚したのでした。
「母は強し」と言いますが、母は子のために強くなることによって、初めて、自分を守れる人間になれたのかもしれません。
過去に読んだことのある「母親」の物語を、そういう視点から、もう一度たどり直してみたいものです。


  • 一つ目の出来事
2015年12月1日朝。
私は目覚め、中国・北京市のホテルで朝風呂をしました。
学会参加のため11月29日夜から北京市のホテルに滞在していた私は、11月30日に無事に発表を終え、ほっとした気持ちで長湯しました。
じっくりと身体を温め、浴槽の中で悠の愛した「アンパンマンのマーチ」を歌い(我が家で「読経」と呼んでいる日課です)、冷水シャワーを浴び、汗が引いたところで身体を拭いて服を着て。
私は
「動物虐待 動物虐待 大変だ 大変だ」
と歌い始めました。意識してではなく、自然に。
それは、摩耶の毎朝の皮下補液とインシュリン注射のために作った歌の冒頭でした。

摩耶の皮下補液の様子を記録した、唯一の動画です。歌も入っています。


でも、そこは北京のホテルです。
ずっと東京で暮らし、3ヶ月近く前に死んでしまった摩耶がいるわけはありません。
私は歌い続けましたが、歌の途中で涙が止まらなくなり、数分間、そのまま涙を流し続けました。
そして思いました。
摩耶は猫の肉体をもって、18年と約3ヶ月を私とともに過ごしてくれました。
今もきっと、摩耶は私とともに生きているのだ、と。
  • 二つ目の出来事
12月3日、帰国のため北京市内を駅に向かって移動していた時のことです。
信号も横断歩道もなんのその、車の流れが途切れない交差点を渡ろうとしていたら、車がすぐ横手に迫ってきました。
頭の中に
「失敗は許されんとよ(許されないのよ)」
という声が響きました。母親のものでした。私だって「失敗したくない」と思っている入試などの直前に、母親が何十回も耳元で繰り返す「失敗は許されんとよ」に、私はどれほど苦しめられてきたか。言い表しようもありません。
外国で交差点を渡ろうとするときも含め、一歩間違えば身の危険に繋がるような場面、あるいは仕事や学業で強いプレッシャの下にあるとき、私の頭の中には母親の「失敗は許されんとよ」がいつも鳴り響いたのでした。私は頭の中でガンガン鳴り響く「失敗は許されんとよ」に絶叫したいような気持ちになりながら、いくつかの困難に立ち向かいました。乗り越えられた困難も、避けられた危険もありますが、失敗の方が多かったのではないかと思います。母親によれば、成功すれば「お母さんが言ってやったから」と母親のおかげ、失敗したら私のせい。
しかし、その北京の交差点で、私は
「失敗は許されんとよ」
という母親の声に
「そうですか」
と答え、そのまま車を避けて交差点を渡り終えました。
当惑して立ち尽くす母親の姿が交差点の中に見えましたが、まもなく、行き交う車に隠されて見えなくなりました。

たったそれだけのことですが、私にとってはエポックメイキングな出来事でした。
私は長らく、脳内に深く打ち込まれた辛い記憶に苦しめられずに生きられるようになれれば、と望んできました。
この時、「もしかすると現実になるかもしれない」と確信できたのです。
少なくともその一瞬、私は自分の「そうですか」という言葉で、「失敗は許されんとよ」という母親の声に混乱させられることなく、危険な交差点を渡り切ることができたのです。

  • 三つ目の出来事
いくつもの病気を抱えることになった摩耶と悠に対し、資金も時間も体力も限られた中で、出来るだけのことはしてやりたいと思いました。それは、99%くらいは実現できたと思っています。
しかし摩耶の最後にあたって、私には大きな心残りがありました。
亡くなる3日前の9月6日夜、タクシーで摩耶を動物救急センターに運びこんだとき、脳神経疾患を疑った獣医さんにMRI検査を勧められたものの、「10万円」という費用を聞いて尻込みしてしまったのです。
住まいの耐震補強に伴う仮住まいへの引っ越しなどなど、何かと出費のかさむ時期だったので、10万円という費用に対して「お願いします」と即決できませんでした。
摩耶は翌朝、いったんは起きて食事が出来るところまで回復しましたが、その後すぐ容体が悪化。二度と起き上がることなく、9月9日早朝に亡くなりました。
死後のMRI検査・CTスキャン検査・髄液検査で、死因は脳髄膜炎であること、脳にリンパ腫があり脊髄に転移していた可能性も高いことが判明しました(麻酔不要なので、頭部MRIと全身CTスキャン合わせて3万円でした)。
私は大いに後悔しました。なぜ、あのとき、10万円を惜しんだのだと。
脳と脊椎の状況が判明したからといって、大きな改善が見込めるわけはなく、せいぜい数日の延命が可能だった程度でしょう。
でも、そのせいぜい数日、意識のある摩耶に話しかけ、コミュニケートすることができれば。
今、身体の中で何が起こっていて、これからどうなるのかを話して聞かせてやることができれば。
摩耶の最後の何日かは、もっと幸せだっただろうに、と。

それから自責しました。
私は2014年度のほぼ一年間、「生活保護」というキーワードに関連して、二人の男性に苦しめられました。
一人は「生活保護詐欺」というべき悪質なタカり。実際に支出させられることになり、「返します」という再三の言葉にもかかわらず返されることのなかった費用は、直接の出費だけでも9万円に及びます。あの9万円が失われていなかったら!
(本件、ここに詳しい事情は書きませんが、いわゆる「不正受給」には当たりません。その期間、カネを出させた相手(妄想性の精神疾患ありと思われる)は保護廃止中でした。タカった直接の相手はその人の親で、日本人ですが日本には住んでおらず、もちろん日本の生活保護受給者でもありません。外国居住中の日本人に対する「生活保護を利用した都合の悪い家族の捨て方マニュアル」でも存在するのか? と思うほど巧妙な、居住地・現在地など生活保護の「ツボ」を知り尽くして突いているとしか思えないパターンでした。2015年2~3月に大変な目に遭い、ついで6月に「タカられた」が確定して以来、タカった相手への怒り・騙された自分への自責と嘆き・無理解から(なにしろ詳しい事情を語ることができませんので)私を責めた人々・私がリアルタイムで苦しんでいるというのに社会運動の論理でさらに追い打ちをかけてくる人々などへの怒りでいっぱいでした。しかし、激しい感情は、そろそろ収まってきました。来年前半には、この件をまとめて書く事ができるかと思います)

もう一人については、相手が10代のころから15年以上にわたる付き合いでしたが、もう、書きたくも思い出したくもありません。かつては良い友人関係にありましたが、最後は単なる搾取者でしたから。
もしも私が「自分は生活保護」「自分は精神障害」を理由にして時間・気力・体力を奪いつづける男性を、2014年度に自分に近寄らせていなかったら、金額換算で何十万円を得ることができていたでしょうか? 失った時間、それによって失った機会、それを取り戻そうとしての消耗を考えると、いまだ数百万円の損害を被っているのかもしれません。
(「こんなことを書くと人格攻撃してくるだろうな」と思い浮かぶ反貧困運動界隈の男性が何人かいるのですけれども、「もう勝手にしろ」としか思いません。その人たちは、私と家族の人生に責任を負っているわけではないし、負いたくても負えないわけですから)
私が愚かすぎて、ジェンダーというものに対して充分な注意を払わずに男性のメールに答えたり、男性に会ったりしたから、こんなことになった。
だから、摩耶に最後に充分に治療を受けさせてやれなかったんだ。愚か者め、愚か者め、愚か者め!
私はそんなふうに、自分を責め苛み続けていました。3ヶ月近くにもわたって。

でお12月3日、中国から帰国して。摩耶ねーちゃんが大好きだった瑠に再会して。
幼少のとき虐待から救出され、5歳までシェルターにいた瑠は、今でも人間を簡単には信頼しません。
一緒に暮らし始めて2年8ヶ月になる私も、数日に一度は触らせてもらえるかどうかです。
でも、ちょっとぎこちないコミュニケーションで、アイコンタクトで、再会を祝しあっているうちに。
「摩耶の最後に10万円を出し惜しむことになったのは、あの二人のせいだ。あの二人が、摩耶から最後の十分な治療と、最後の数日間を奪ったんだ。悪いのは、あの二人。自分を責めるのはやめよう」
という気持ちになり、
「そういうリスクをもたらす人との接触は、これからは最小限にしよう、人語を話せない猫たちに、しわ寄せが及ぶんだから。私が『猫のおかあさん』である以上、しなくてはならないことなんだから。私はまず、私を守らなくちゃ。どういう名目でも、私の安全や健康の脅威になる人は近づけず、脅威になってきたら全速力で遠ざかるようにしなくちゃ」
と決意しました。
摩耶と一緒に苦しみ、摩耶と一緒に吹っ切った気がします。

2015年12月6日、これから50cmほどの下降ジャンプを試みようとする瑠(7歳7ヶ月)。
私の出張中、過食気味だったようで、太っちゃってます。
適量のご飯にカーチャンがいる心の満足をプラスして、少し痩せてもらわなくちゃ。
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  • たぶん、まだまだ続くプロセス
なんといっても、18年3ヶ月という長い時間をともにしてくれた摩耶がいなくなった喪失感は、やはり多大なものです。
これからもまだまだ、私自身の回復のプロセスは続くのでしょう。
もうすぐ3ヶ月になろうとしている今のところを、とりあえず記録しておきます。 

続・原家族とのことを書き始めてからの変化

2014年3月、突然、原家族とのことを書かずにいられなくなって、このブログに書き始めました。 その後、心身にさまざまな変化が起こりました。
4月上旬までは 原家族とのことを書き始めてからの変化 に記録しています。
本エントリーは、その続きです。

●気分がラクになった

両親、特に母親にしがみつかれ、心のなかまで縛られている感覚が消えていきました。
長年の間、特に母親によって、私は母親の好む感情・母親の好む意志だけを自発的に感じたり持ったりするように望まれていました。
その感覚が消えました。
母親が、私に対して感じることも考えることも表出することも禁じていた感情を、私がここに書いてしまった以上、当然のなりゆきでしょう。

●強烈な虚脱感とウツ気分

しかし、その「母親にしがみつかれ縛られている感覚が消えた」は、快い状態でもなんでもありませんでした。
私は激しい疲労感を覚えました。しばらくの間、虚脱状態になり、はげしいウツ気分に陥り、呆然と過ごしていました。他にどうすることもできませんでした。

●両親に関する幻視幻聴が消えた

私は、他に誰かがいる場所で笑ったり、楽しいと感じたり、学んだりするたびに、耳元で
「間違っとう!(間違ってる!)」
と電話口で叫んだり耳元でつぶやいたりする母親の声が聞こえつづけていました。20歳で実家を離れてから、ずっとです。
時には、母親が私に絡むのをニヤニヤ笑いながら「女どうしだから」と微笑ましそうに見ている父親の表情もセットになって見えることがありました。 それも実際によくあったパターンでした。でも、両親がそこにいないのに見えるんだから、幻視です。
それらの幻視幻聴が、すっかり消えてしまいました。
 
●恐れずに笑い、楽しみ、学ぶことができるようになった 

「え?」と思われるかもしれませんが、私は今まで、笑ったり楽しんだり学んだり、さらに何らかの達成をすることが怖かったのです。
そんなことをすると、母親がどんなに不機嫌になり、怒りを抱くでしょうか。どんなに、達成を妨げようとするでしょうか。
私がそれでも達成してしまったら、母親は、どれほど理由がなくても達成した何かに侵入して「自分のおかげ」ということにしようとします。それが叶わないならば、達成した何かを無意味にしようとします。
それは妄想でもなんでもなく、実際に母親が私に対して示した感情であり、実際に母親が私にしてきたことです。
これからも、そういうことは起こるかもしれません。母親が前面に出てこなくなることはあるかもしれませんが、母親が影響を及ぼした誰かによって同様のことがなされるのかもしれません。
明日、母親につながる人々によって、私は何もかもを奪われてしまうのかもしれません。
でも、
「今日は笑っていよう、楽しんでいよう、将来の何らかの達成につながることを信じて学ぼう」」
と思えるようになりました。
原家族とのことを書き始めるまでは、実のところ、
「笑ったり楽しんだり学んだり達成したりしたら、全部を潰されてしまうのだから」
という恐怖でいっぱいでした。
今は、
「明日何をされるかは分からないけど、笑おう、楽しもう、学ぼう、達成を目指そう。明日、原家族のメンバーが全力で私を潰そうとしたとしても、それ以上の力で抵抗するための力になるから」
と、気休めとしてではなく、本気で思えています。

トラウマを塗り替えていくということ

今、京都に来ています。
ちょっと時間が出来たので、京都市街を散策していたところ、大日本スクリーン製造(株)さんの社屋の横を通りすがりました。感謝とともに思い出される社名です。
歩みを止め、わが家の長男猫である故・悠(1998-2013)に、「キミが生まれる前にね」と昔の仕事を話してやるなどしました。
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悠も、彼の姉貴猫の摩耶(1997-)もまだ生まれていなかった、1997年春のこと。
私は応用物理学会の全国大会で、半導体の洗浄に関するシミュレーションの研究について発表していました。
職場で干されていた私は、クラッシャー上司が潰して追い出した先輩の机の上に、帳簿上は廃棄されていたことになっていたけれども予算不足で廃棄できていなかった古いワークステーションを乗せ、会社どうしのお付き合いで購入したけれども誰も使っていなかったシミュレータを動かして、 パワハラや嫌がらせに涙を流しながら、研究を続けていたのです。
その成果がやっと出始めての発表でした。

発表が終わった後、私は周囲をスーツ姿の男性5人に囲まれて
「あの、今の発表について質問させてほしいんですが」
と質問責めに遭いました。
「今、やろうと思っている装置改良があるんだけど、シミュレーションしてみたら効くかどうか分かりますか?」 
といった内容です。
それらは、私が既に試したものばかりでした。
「どうすれば、このタイプの装置で有効な洗浄と乾燥ができるのか、提案できたらいいよね」
という理由から。でも「どうもこの装置は今後はちょっと……らしい」という結論が分かっただけだったんですが。
そのスーツ姿の男性5人は、大日本スクリーン製造で、そのタイプの装置の研究開発を行っている方々でした。
よくもまあ、全く世界が違うシミュレーションのセッションまでお越しになったものです。そして、よくもまあ、34歳の私に丁寧に熱心に質問をされたものです。
仕事に対する熱意に頭が下がりました。 

「もうその洗浄装置は、改良レベルの何かでは今後のプロセスに対応できないよ」
という私の発表は、かなりのセンセーションを巻き起こし、多くの方々から関心と期待をいただきました。
しかし上司たちから疎まれていた私が成果を挙げるということは、つまり、次の瞬間には上司たちによって何もできない状況に追い込まれるということでありました。
その研究は、そこで終わらされてしまい、その後にはつながっていません。自宅でLinuxマシンを利用して続けるという選択肢? 自宅には、上司たちの手先と化した元同僚の元夫がいました。何もできませんでした。彼らが「これだけはさせてやってもよいか」と考えたらしいのが、Linuxサーバ構築・管理に関する技術記事です。私がそういうものを書くことにとどまっている限り、彼らのメンツは潰れないということだったのでしょうか。
私は、その悔しさを忘れたことはありません。ずっと、ずっと、思い出しては涙していました。思い出さなかった日はたぶん一日もないと思います。

でも今の私は、
「上司たちに潰された元研究者」
のままではなく、まあまあ社会的に活動しており、自分の収入を手放さずに済んでいます。
そして、その自分の社会的活動の延長として訪れた京都で、たまたま、私の仕事に注目してくれた方々が在籍しておられた会社の前を通りすがりました。
私は、もう、上司たちに潰されたかつての私を「自己責任」「やり方が下手くそ」と責めなくていいんじゃないか?
そういう実感が、はじめて、心のなかから沸き上がってきました。
1997年から数えて、17年目のことです。 

逆にいえば、17年も経っています。
トラウマの自然治癒に過ぎないのかもしれません。
でも、途方もない時間はかかっても傷は癒えるようです。
どんな巨大な力によって潰されようとしても、最終的に「潰されなかった人生」 を生きることは可能なのかもしれません。
潰されてしまって「女の小さな幸せ」に逃げるのでもなく「仕方なかった」と諦めるのでもなく、「潰されなかった」と自分で小さく胸を張れる人生を生きることは、もしかしたら私にも出来るのかもしれません。
私はそこに小さな希望を見出したいと思っています。 
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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


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(共著 2009.10 技術評論社)

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