本日、2020年8月15日は、終戦から70年の節目の記念日です。
「特攻」に関して、2014年8月15日、当時はオーサーであった「Yahoo!ニュース個人」に書いた記事を転載します。ヤフーのサービスはどうにも肌が合わず、ほとんど使っていなかったのですが、「Yahoo!ニュース個人」編集部からのお声がけをいただき、2014年はじめから2018年10月までオーサーを務めていました。現在は、そのお声がけに応じたことを心から後悔しています。
 以下、当該記事です。

中学生・高校生の時のことは「黒歴史」として封印していましたが

 まず、出身中学校・高校について書くことについて、言挙げをします。

 私はこれまで、出身中学校・高校(1976年中学入学~1982年高校卒業)について「女子校だった」以上に明かしたことはありません。
 柳美里さんが作品化している中高生時代が「まだマシ」と思えるほど酷いイジメに遭っていたからです。

 学校でイジメに遭っているだけならまだしも、地域にも家庭にも逃げ場がありませんでした。家は学校から徒歩15分程度、市境をはさんだ隣町。同じ町内に、同じ学校に子どもを通わせている家庭が10軒はありました。

 もともと、その女子中学校に進んだのは、そこの出身者である母親の強い希望によってのことでした。正直なところ、私は女子校に自分が合うとは思っていなかったのです。

 しかし小学6年のときの私は、担任教師の奨励のもと、日常的に暴力にさらされていました。コンパスの針でつつかれたり、傘で殴られたりすることが日常茶飯事。それどころか、クラスや班で作られた奇妙なルールにより、私は「罰金」を支払わなくてはならないことにされていました。担任教師は「クラス(班)のことだからクラス(班)で解決を」と、まったく取り合ってくれませんでした。「罰金」は毎日毎日増えていき、利子までつけられました。小学6年の2月には、その総額は数千円に達しており、支払わないからといって私はさらに暴力を受けるのでした。

 私の中学受験は、「受験勉強は結構楽しいからする、入試は力試しに受けてみる」くらいの感じでした。子どもだけで通える範囲に進学塾は存在しませんでしたから、参考書・問題集・過去問を買ってもらって、自学自習でした。私はそれを結構楽しんでいました。私の世代だと、少なくとも福岡あたりでの中学受験は概してこんなものでした。塾や家庭教師に助けてもらっての受験が一般的になったのは、私の2学年下あたりからです。
 「受けたら受かった」という結果に対し、周囲の大人たちが「せっかく受かったんだから、行ったら?」と言ってくれたとき、
「やった、これで小学校のイジメから救われるかもしれない」
と思いました。そこで、女子中学校に進学することにしたのです。

 小学校時代の「罰金」は、その後、追いかけてきませんでした。

 しかし同じ小学校から5人程度が、その女子中学校に進みました。その一人が、私の忌み嫌っていた小学校時代のアダ名と「いじめられっ子だった」ということを周囲に吹聴したため、私は中学校でも高校でも、時に自殺または退学を考えるほどのイジメにさらされることになったのです。

 もちろん中学生のとき、高校受験で逃れることは考えました。当時、「嫁入り学校」として認識されていたその女子中・高の教育は、私自身が思い描く職業人としての将来計画には有益ではなさそうでした。イジメがなかったとしても、県立高校を受験したいと考えていただろうと思います。
 しかし、その高校の出身者でもある母親の強い希望により、私は高校にエスカレーター進学することとなってしまいました。

 高校時代はほぼ毎朝、登校すると上履きが下駄箱にありません。すぐ近くのゴミ箱に捨てられていたり、どこにも見当たらなかったりしました。下駄箱にあったとしても、中にはチューインガムやプッシュピンが入っていたりしました。

 教室にいけば、椅子の上にプッシュピンがあったりしました。私がそれをつまみあげて壁に刺すことが数日続いたあと、セロファンテープでプッシュピンが止められている朝があったりしました。机の中にはしばしば、手紙が入っていました。利き手でない側の手で書いたと思われるグチャグチャの文字で書かれた手紙の内容は「気持ち悪い」「消えて欲しい」「死んで欲しい」といったものです。

 担任教員は、「いじめられる側に問題がある」ということにしたがる典型的な学校教員でした。私は、毎日どのような目に遭っているかを訴えたいとも思いませんでした。一度訴えたところ、たいへん大げさに問題にされ、私はほとんど「晒し者」に近いような扱いをされてしまったからです。

 私は高校時代、クラスメートとほとんど会話していません。朝、教室に行ったら「おはよう」、帰りがけには「さよなら」とは言っていました。返事はありませんでしたが、「こちらから口を聞かないわけではない」という態度表明として、私はその空しい挨拶を続けていました。

 ただ単に辛く惨めだっただけではなく、実害もありました。中学3年の3学期、私は音楽の筆記テストでカンニングしたことにされたのです。机にテストの答えが書いてあったという「証拠」があったそうです。何が書いてあったのか、私は知りません。もちろん書いてもいません。でも、騒ぎ立てたグループの一人は模範的な生徒で、その学校の体育教員の子どもでした。音楽の先生たちは
「あなたがカンニングするとは思わないし、する必要があるとも思わないけど、でも、N先生の子どもが問題にしているから、しかたない」
と私に釈明しつつ、音楽のテストを0点にしました。

 卒業後は、同窓会との付き合いが始まるわけですが、これがまた苦痛に満ちたものでした。もと同級生との関係は言うまでもないことですが、同じ中学・高校の出身者であり同窓会と強い関係を維持している母親が、自分の望み通りの付き合いを私に強制するのです。

 私は東京の大学に進学し、ほぼ同時に勤労学生となりました。その後も、就労していなかった期間はありません。

 当時の同窓会は、ほとんどが専業主婦である卒業生たちの都合に合わせて、行事が開催されていました。平日の昼間に、時には1万円以上の費用を必要とする同窓会の集会に参加することは、私には不可能でした。その事実は、母親を激しく怒らせました。

 耐えかねた私は、1997年ごろ、中学・高校の同窓会に手紙を書きました。内容は、同窓会との付き合いが困難な事情と、「今後は同窓会の一員としないでほしい」というお願いです。
 でも、それで同窓会から無縁になれたというわけではありません。母親が同窓会にいる以上、それは無理というものでした。頻度と程度は減りましたが、その後も、うんざりするようなことの数々が続きました。

 というわけで、私は出身中学・高校について明かしてきませんでしたが、今日のエントリーを書くにあたって、明かさないわけにいかないので、明かすことにします。
 現在は進学校としての一面「も」知られる、福岡女学院中学校・高等学校です。歴史あるミッション・スクールとして知られています。

 私の在学中は、学力を伸ばしたい女子・キャリアにつながる進学をしたい女子に対して、むしろ妨害するような傾向のある学校でした。
「九州中から頭のいい女の子を集めて、6年かけてバカにして卒業させる学校」
と言う人までいたくらいです。

 しかしながら、ごく少数の教員たちの理解と協力に恵まれた結果として、私の現在があります。それらの出会いには感謝しているのですが、「行ってよかった」と手放しで言う気には、未だなれずにいます。

中学・高校時代の教員たちにとっての戦争

 私が中学・高校生時代を送った昭和50年代、45~55歳程度の「ベテラン」としてリーダーシップを発揮していた女性教員たちは、終戦時に女学生だったり、女子専門学校(現在の大学に相当)の生徒だったりしました。

 私が中学1年のときに数学を教わった故・山崎マツエ先生は、現在の東京女子大の学生だったと聞いています。学徒動員や疎開で学業どころではない学生生活を送り、東京の学校には戻れないまま、なんとか卒業はできるということになりました。私の記憶ですが、確か昭和21年3月、福岡県にいた同級生と一緒に卒業式に行こうとして下関まで行ったところ、下関駅の駅員さんが、
「卒業式? 生きるか死ぬか、食うか食わずやの人たちがたくさんいるのに、卒業式のために東京に行く人に切符は売れない」
と言い、結局、卒業式には行けずじまいだったということです。
「生きるために東京に行かなくてはいけない人が優先されるのは、それは当たり前だと思ったので、そういう不幸を生み出さないように仕事をしたいと思った」
というようなことを話してもらった記憶があります。

 この山崎先生は、小説家を志していた中学1年の私の数学の素質を見抜き、理数系への進学をそれとなく促してくれた恩人です。

 高校2~3年のときには、化学を内田孝子先生に教わりました。内田先生は、福岡女学院中学・高校が「福岡女学校」だった時期の卒業生です。理科系に進学する女子が一学年230人中7人しかいないという環境で、その女子たちをモチベートし、科学の楽しみや意義を教え、もちろん学力も高め……ということに非常に尽力され、結果も出していました。内田先生がどれほど有能な教育者であったのかを認識したのは、自分が教員免許取得のために大学で教職課程を履修し、教育実習も行ってからのことですが。

 私のうろ覚えですが、内田先生が女学生だった時期に、福岡女学校の生徒たちも学徒動員の対象となったそうです。平和台競技場かどこかで行われた出陣式で、旗手を務めたのは内田先生であったとも聞いた記憶があります。

「振武寮」の立地が意味するもの

 特攻隊は「振武寮」という宿舎を持っていました。何らかの理由で特攻出撃が出来なかった特攻隊員の宿舎でした。
 やや長いのですが、Wikipediaより引用します。
 振武寮(しんぶりょう)とは、福岡の旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいであり、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
(略)
 振武隊(西日本にあった陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の名称)の特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容された施設である。要因とは様々あり、悪天候・エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃のような外的要因から、内的要因まであった。
(略)
 特攻隊員は一方向・一回限りの攻撃であり(実際は敵戦闘機に遭遇したら引き返すよう指示)、その原則を崩すと隊員の士気に関わると考えた特攻隊の指揮官は、これらの帰還特攻隊員を他の特攻隊員から隔離するべしと命令を下したとされる。また死して軍神となったのに実は生きていたとなると大本営発表の虚偽が露見するところとなるため、一般軍人や一般市民からも隔離されたといわれ。振武寮に送致された帰還特攻隊員が、自分より先に特攻で出撃し戦死したとされていた同僚と再会することもあったという。
(略)
 帰還特攻隊員は帰還の直後に福岡の司令部に出頭命令が下り、即座に振武寮にて事実上の軟禁状態に置かれることになる。振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた。死して軍神となるはずの特攻隊員が生きて戻ってきたことは激しく非難され、「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵られたという。振武寮の目的は帰還隊員にもう一度死を覚悟させて特攻に赴かせるものであったともいわれ、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もいたといわれる。
(略)
 振武寮に関する公的資料はいまだ発見されず(私文書で「振武寮」という言葉のあるものは存在する)、また振武寮の存在は当時の軍の機密事項に属したため、今でも知る人は少ない。振武寮が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、約80人が収容されたといわれている。また、振武寮そのものは1945年6月19日の福岡大空襲で焼失したという説も、終戦まで存在したという説もあり、どのように役割を終えたのかは明らかになっていない。

 振武寮で実際にそのような懲罰的なことが行われていたかどうかについては、「なかった」「あるわけがない」という主張もあるようです。
 私がたいへん気になるのは、その立地です。

 当時も現在もミッション・スクールである福岡女学校(Wikipediaの記述には「福岡女学院」とありますが、当時は「福岡女学校」だったはずです)の寄宿舎であったということ。
 そこは数多くの女子校が集中する、東京でいえば飯田橋~四谷あたり、横浜でいえば「乙女通り」のような場所であったこと。

 20歳まで福岡にいた私の記憶の中では、もと振武寮、現・九電記念体育館は、泳げる小学生なら入っても怒られない50メートルプールのある「県営プール」の向かいにあり、プールの後は九電の科学館(うろ覚えですが)のお楽しみがありました。卓球の試合(中学時代)でも何回か訪れた場所です。その時期、福岡女学院は現在と同じように福岡市の南端に移転していました。
 しかし昭和30年代まで、福岡女学院は現在の西鉄大牟田線・薬院駅の近くにあったということです。九電記念体育館は、そこから徒歩15分程度の場所にあります。

 振武寮が存在したとされる当時、そこはもともと、ミッション・スクールである福岡女学校の寮であっただけではありません。
 すぐ近くに福岡高等女学校がありました。現在の福岡雙葉学園も、すぐ近くにありました。もちろん、福岡女学校も近所にありました。女子校・女学生に囲まれているような場所です。

 では当時、福岡女学校はどういう位置づけにあったのでしょうか? 私が読んだことのある学校史にも、あまり詳しくは書かれていた記憶がありません。記録されているのは、学徒動員で生徒が工場で働いたということ、負傷者(?)も出たということと、お下げ髪・制服、スカートではなくモンペの女学生たちの写真です。

 当時の福岡女学校は、キリスト教を積極的に前面に出すことはしていませんでしたが、捨ててもいなければ、否定してもいなかったと聞いています。学徒動員先の寮でも礼拝を守っていたとか。そんなミッション・スクールが、戦時中に迫害されなかったとは考えられません。
 戦時中にありえたはずの迫害について、当時女学生であった教員たちにたずねてみると、非常に沈鬱な顔つきになって「制服で歩いていたら石をぶつけられた」というような話を少しだけしてくれたこともあります。しかし、口は極めて重かったです。語られていないだけで、語りえないほどトラウマティックなことが、たくさんあったのかもしれません。

 福岡女学校の寮が「振武寮」になった理由の正確なところは、今となっては調べようがありません。しかし、女学校が集中している地域の、しかもミッション・スクールの寮をわざわざ選択したということに対して、私は「狙った感」が拭えません。
 もしかすると、「宿舎として手頃な建物があるぞ、そもそも学寮だし」が最大の理由だったのかもしれません。
 しかし、迫害や差別の対象ともなっていたミッション・スクールの寮をわざわざ選んで、そこに特攻できなかった特攻隊員たちを収容したということ。そこで、さらに懲罰的かつ屈辱的な扱いが行われていた可能性。
 私はそこに、「多重の差別、多重の迫害を効率的に行いたい」という意志を読み取らずにはいられないのです。


「君が代・日の丸・元号」と無縁だった福岡女学院

 戦時中、キリスト教を捨てなかったことによって迫害されたキリスト教系学校は、少なくありません。その直接的な結果であるかどうかは別として、現在も君が代・日の丸・元号を用いないキリスト教系学校もあります。
 少なくとも私が在学していた1976年~1982年の福岡女学院でも、徹底して、君が代・日の丸・年号は用いられていませんでした。

 一方で、
「戦時中のキリスト教への迫害はそれはそれとして、その国の国旗・国家・歴史的慣習を尊重する」
という視点から、君が代も日の丸も用いているキリスト教系学校もあります。

 最後に読んだのが数十年前でうろ覚えなのですが、横浜・栄光学園の校長であったグスタフ・フォス氏の著書「日本の父へ」には、
「わが校では、戦時中のことはそれはそれとして、君が代と日の丸は国家・国旗として尊重し、尊重することを生徒にも教えます」
というような記述があったと記憶しています。フォス氏のジェンダー観には大変閉口したものの、私にとって得るところの多い本でした。

 グスタフ・フォス氏が栄光学園で行った「それはそれとして、国旗国家だから」という選択は、それはそれで一つの見識だと思います。


 福岡女学院が私の在学していた時期に行った選択は、
「威張ってばかりでロクに働かない商店主の夫を、立てつつも実際にはいうことは聞かず、家庭や家業の実権を握っている妻」
「同額の資金を出して家を建てようとする共働き夫妻の妻が、封建的な土地柄なので夫の意向ばかり通りやすくなってしまうことに対し、建った後の夫の住み心地を悪くすることで鬱憤を晴らす」
といったものに近いのかもしれません。
 それらは少なくとも1990年代以前、福岡の女性によく見られた「女の抵抗」です。
 現在の福岡女学院で、君が代・日の丸がどのように用いられているのか、あるいは用いられていないのかは知りません。元号に対しても、どのように扱っているのか知りません。

 在学中のできごとは、未だ、思い出すだけで辛いです。学院や同窓会に問い合わせてみたいとは思えません。
(現在、福岡女学院に在学中の中学生・高校生の方、もしよろしければ情報提供いただけたら嬉しいです)

 けれども、もしも現在の福岡女学院が「君が代・日の丸」や元号と無縁であることを貫いているのであれば、思想信条の自由という観点から、その選択を「卒業生として」応援してもいいと思っています。
 そういう学校「も」存在するべきなのです。
 そういう学校の存在「も」許されなくなるときは、日本にとって、ほんとうの危機だと思います。