猫と食事と西荻窪、ときどき旅する車椅子

ライター・みわよしこの日常つれづれ話



東日本大震災

東日本大震災のこと(3) では、何をいつまで行えばいいのか

私は大災害などの情報に接した時、心がけていることが一つあります。
「復旧まで続けられること以外はしない」 
です。 ボランティアも寄付も。
復旧まで続けられることが見つからなければ、何もしません。 
2010年、宮崎県での口蹄疫発生のときから、それを自分に対するルールにしています。 

この種の大災害・大災厄に際して、最初は多くの報道がなされ、注目が集まります。
でも報道や注目は長続きしません。世の中に忘れられてから後の方が長いのです。 
そして、本当にボランティアや寄付が必要になるのは、その「忘れられてから後」であることの方が多いのではないでしょうか。

2010年、宮崎県の口蹄疫では、
「県の畜産の再生に少なくとも10年、復旧に20年」
と聞きました。「もしかしたら復旧はしないかもしれない」とも。口蹄疫をきっかけに離農する方も多いと見られていましたから。
私は、自分の経済状況の浮き沈みと無関係に、少なくとも10年間は続けられることを探しました。
そして
「新宿に行ったら、宮崎県のパイロットショップで何か買ってくる」
と決めました。10年間、大きな無理をせずに続けられそうなことは、それくらいしか見つからなかったからです。当時の私はほとんど仕事ができておらず、ほぼ、障害基礎年金だけが収入源でした。それでも、
「年に何回か宮崎県のパイロットショップに行き、冷や汁用の味噌か干しタケノコを買ってくる」
くらいはできました。九州以外ではそれほどポピュラーではない干しタケノコ、美味しいものですよ。私は生のタケノコよりも好きです。

2011年の東日本大震災の時は、あまりにも被害そのものや被害の範囲が大きく、「乗り越えた」といえるまでの時間も長くなりそうに思われました。特に福島第一原発は、私が天寿を全うするまでに、まだ収束していない可能性があります。
私は、生涯続けられることを探す必要を感じました。仕事ができるかぎり、仕事はしているでしょう。だから仕事の中で、東日本大震災に関する何かを続けようと思いました。
しかし東日本大震災やその後そのものの取材は、障害者であるうえに車の運転ができない私には容易ではありません。

私は、東日本大震災直前の2011年2月から参加し始めたAAAS年会に、今後も参加し続けようと思いました。そして「東日本大震災への関心がどう変わっていくかを見届けよう」「可能な範囲で東日本大震災のその後を伝えよう」と思いました。現在はまだその途上にあります。幸い、2012年・2013年・2014年はAAAS年会に参加することができました。今後も参加が可能かどうかは分かりませんが、可能な限りは続けていきたいと思っています。

また、東北以外でも津波被害は発生しています。その地域の人々がどうしたのか・どういう備えがそれまでにあったのかを、埋もれる前に聞き取って世の中に知らせる必要を感じました。ただ2011年の私は、13歳になる病気の猫を抱えていたため、思うに任せませんでした。2010年夏、その猫は夏が越せるかどうかも危ぶまれるような状態だったのです。2011年夏はそれほど危機的な状況ではありませんでしたが、遠出には心理的抵抗がありました。そんな中で、北海道浦河町の事例を記事化することができたのは幸運でした。

災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ【前編】
災害に強い町づくりを、過疎の町と障害者たちに学ぶ【後編】

一度だけ、自分の決めた「東日本大震災への何かは本業で行う」 というルールを犯して、寄付を行いました。
当時、我が家の猫たち(大震災当時13歳と12歳)は、揃って慢性腎不全を抱えていました。良いと聞くサプリメントを、私はさまざまな国から個人輸入していました(現在も)。
東日本大震災直前、私は台湾の業者さんに新規注文を行ったばかりでした。すると震災直後、業者さんから連絡があり、
「今回の代金は無料にするから、その分を東日本大震災で被災したどこかに寄付して欲しい。できれば動物医療関連団体を希望」
というお申し出をいただきました。
動物の被災の全貌は、未だ明らかになっていません。直後は、明確なことは何もわかっていませんでした。どこに寄付すべきなのかは、非常に悩ましいところでした。
結局は
「自分の知っている激甚被災地で、地域のために活動している、地域の団体」
という基準で選択しました。私は2010年初夏、石巻を訪れていました。だから、石巻で活動している地元の獣医さんたちを中心としたアニマル・レスキューのプロジェクトを選びました。
私は台湾の業者さんが無料にしてくださったサプリメントの代金に、ほぼ同額を加え、15000円だったかを寄付しました。 

実は他にも、「ちょっとやってみようか」と思い立ってやってしまったことが、いくつかあります。でも、続きませんでした。続かないということは、継続的にお役に立つこともないということです。
私は
「役に立たないのならば、やってはいけない」
とさえ思います。特に災害や災厄に見舞われた方々に対する何かは。

これからも、世界のあちこちで、災害や災厄は起こり続けるでしょう。
いろんな考え方、いろんな行動がありうると思います。
私は今後も、
「復旧までに必要な年月の間、無理なく続けられることだけをする」
という原則で臨みたいと考えています。 

東日本大震災のこと(2) 発災後の親族の反応

東日本大震災発災の数時間後、福岡県に住む叔母(母の妹)から電話がかかってきました。
この叔母は子どもがなく、長年、私を我が子同様に心配し、愛してくれていました。
「発災直後から何回も電話していたがつながらず、やっとつながった」
ということでした。
「被災地へ電話をかける」は、災害時に行ってはいけないことの一つですが、そうせずにいられなかった叔母の気持ちは分かります。そして有り難く感じました。

この翌日、同じく福岡県に住む父親から電話がありました。
「壊れたりしているものはないか、こちらでも何か考えるから」
ということでした。
震度5強、かなり激しく揺れた築60年の我が住まいでは、門柱が折れ、部屋の中では本棚3本が倒れていました。二匹の猫たちを含めて誰も負傷しなかったのは、不幸中の幸いでした。
固定してあった本棚からは、段ボール箱に入ったままの「中井久夫著作集」が箱ごと飛び出し、私が仕事のときに座っていた椅子の上に落ちていました。もしそこに私が座っていたら、直撃を受けたわけです。
いずれにしても、生活ができるように屋内を片付けることが目先の課題でした(結局は、友人たちが2~3週間かけて行ってくれました)。
私は父親に、さっそく、明らかに補修等の手当が必要と思われるものの一覧表を送りました。Excelで、優先順位・重要度・対処の必要な時期などの情報を付して。それは特に多額の出費を要するものでもなんでもありませんでした。
父親からは電話があり
「受け取った、見た」
ということでした。この件について、父親はその後何も言っていません。3年後の現在に至るも、何も言っていません。何のために、父親はその情報を欲しがったのだろうかと思います。

次に父親と電話で会話したのは、2011年3月下旬か4月上旬だったでしょうか。父親は
「自分の意志で東京に住んでいるんだから、被災は自己責任」
と私に言ったのです。私に夫などの家族がおらず、子どもがおらず、一人で何もかもに対処しなくてはならないのは、父親によれば自己責任なのだそうです。私は人間の家族を持ちたいと長年望んでいました。そのことを話しても、父親は
「自己責任たい」
と繰り返すばかりでした。私は身体障害者なのですが、それも父親によれば
「自己責任たい」
でした。
私は
「つまり、父親は、私のために出費したくないということなのかな?」
と推測はしました。あくまでも推測です。
とにかくはっきりしているのは、父親が私に対して「自己責任」と言ったことです。それも、とてもとても嬉しそうな声で、軽い調子で。当時の博多では、居酒屋談義レベルでは、
「東北は気の毒だけど、東京はいい気味だ」
というような会話も、当然のようになされていたと聞いています。父親は、私に「自己責任」と言っても福岡の地域コミュニティでは許される、と確信していたのかもしれません。
どのような背景があろうが、言われた私は深く傷つきました。この悲しみ、この悔しさ、この情けなさは、未だに表現する言葉が見つかりません。

2011年4月ごろ、私の住まいでは屋根の雨漏りが発生し始めました。貯金を崩し、20万円ほどかけて補修し、他に損傷箇所がないかどうかを点検してもらいました。それは、住み続けるために、せざるを得ないことでしたから。父親には、補修についても費用についても話していません。大したことはなかったとはいえ、天災の被災を「自己責任」と言う人には、何も話したくありませんでした。
もし、父親の「自己責任」発言の真意が、
「どういう被害を受けていても、その被害状況について知りたくない、知ったら何らかの援助をせざるを得なくなるかもしれないから」
というところにあったのであれば、父親の希望は見事に叶ったということになります。父親とは、真意をきちんと質すような会話どころか、その後ほとんど会話といえる会話をしていませんが。
叔母は、その建物に住む私を心配し、「耐震補強をしては」と経済的援助の意志とともに申し出てくれました。いかし着工のタイミングを計っているうちに、昨年秋、着工どころではない問題が私の両親の方から持ち上がってきてしまいました。この込み入った事情について説明するのは容易ではありませんが、未だに着工できていません。
昨年秋以後、叔母との連絡も、ほとんど途絶えてしまいました。電話で会話したことが一度だけあります。私の方は、それまでと変わることなく話そうとしたのですが、叔母の方はそうではなくなっており、なんともギクシャクした会話となりました。その、最後の叔母とのギクシャクした会話も、何度も電話して出てもらえず、やっと出てもらえた時のことでした。
「ギクシャク」の原因として思い当たることは、私の方にはありません。その数日前に両親と接触して私が脅威を感じる出来事があったこと、私がその脅威感を正直にその場で表明したことくらいです。それ以外に思い当たることはありません。叔母と私が平穏に会話できなくなった理由の本当のところは分かりません。ただ、叔母が自分自身の平和な日常のために、遠く離れた東京に住む私よりも、身近で密接な関係のある私の両親との関係を重視するということは、むしろ自然なことかと思われます。
「電話しても出てもらえないのでは」「あの時みたいな会話になるのでは」と思うと、現在の私は、怖くて叔母に電話をかけることができません。それまでは月に一度は電話していました。近くに私の両親など近親者がいるとはいえ、一人暮らしの叔母が心配だったからです。でも、どうしているだろうかという気がかりを表明することも、できなくなりました。

さて、私の従妹の一人は、東日本大震災当時、福島県相馬市に住んでいました。従妹も福岡県出身なのですが、ご縁があって相馬の方と結婚したのです。
相馬は地震の揺れそのものが東京より激しく、その上、福島第一原発の問題もありました。従妹の一家は幸い、誰も負傷したり亡くなったりしなかったのですが、かなりの期間、避難生活を強いられたということです。従妹は、一時期は福岡の実家に身を寄せていたとも聞いています。
私は、従妹の被災について、「自己責任」とは思っていません。「大変だったんだろうなあ」と推察しています。
しかし、自分の意志で東京の大学に進学し、その後も東京に住み続けている私が東日本大震災に遭ったことを「自己責任」とした父親の論理によれば、自分の意志で相馬の方と結婚した従妹だって「自己責任」となるはずです。その父親は、従妹に対しては「自己責任」とは言いませんでした。ごく普通に、大変な目に遭った身内に対する同情や共感を示していました。 

なぜ相馬の従妹が「自己責任」でなく、東京の私が「自己責任」なのか。
未だに、私はこの違いを納得することができません。
東日本大震災以後、私は何度も何度も、父親の「自己責任」という発言を思い出して涙しました。
3年が経過して、私はやっと、
「もし私が相馬で同じような目に遭ったとしても、父親は私を『自己責任』とし、従妹は『被災者』にしたんだろう」
ということを納得することができました。
私が生まれてから50年、つまり父親との関係も50年ということになりますが、50年かけても、父親と私はそういう人間関係しか作ってこれなかったということです。ここまで破壊的な関係になっている以上、もはや改善の見込みはないでしょう。
今の私は、その身も蓋もない現実を認識することができるようになっています。その現実を認識できるようになって、よかったと思っています。
父親が不用意に、嬉しそうに「自己責任」と語ったからこそ、その認識に至ることができました。

今は、東日本大震災がきっかけで父親に本音をぶつけられた巡りあわせに、感謝しています。
 
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(共著 2015.4 丸善出版)


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 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


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(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
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(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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