みわよしこのなんでもブログ : 毒親

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ライター・みわよしこのブログ。猫話、料理の話、車椅子での日常悲喜こもごも、時には真面目な記事も。アフィリエイトの実験場として割り切り、テーマは限定しません。


毒親

[雑感]私は原家族トラウマから解放されつつあるのか

 私はここ数ヶ月、原家族トラウマから急速に解放されつつある実感がある。
 それを実感したのは、昨日のことだ。

 いつものように、突然、妹の3人の息子たちのことが思い浮かんだ。

 妹の3人の息子たちは、全員が10代。1人は理工系分野で、2人はスポーツ分野で、早くも頭角を現したり活躍したりつつある。

 思い出したくも考えたくもないのだが、我が身を守るために最低限、今どうしているかの情報は収集してきた。

 両親(直接言葉を発するのは主に母親)が、私の弟妹、結婚したらその配偶者の言動や活躍ぶりを、私に対してどのように活用してきたか。それを考えると、弟妹の子どもたちが今どうであるかは、充分に警戒の必要のある情報だった。

 たとえば母親が、弟妹やその配偶者について、仕事の内容や過去にしてきたことを私に語るとき、そこには「アンタも似たようなことをしている(していた)のかもしれないけど、それには価値がない」というニュアンスがつきまとった。私はせめて、母親が私をsageる目的でそれを口にしていることを、母親自身の言葉で語ってほしかった。しかし私がはっきりさせようとすると、母親はキレたり、あるいは他の誰か(父親とか妹とか)を連れてきて私の異常さをアピールしはじめたりするのだった。

 弟妹の子どもたちとは、2008年を最後に会っていない。父親が2006年ごろから少しずつ、2007年から明確に、私を段階的に血縁から排除していったからだ。父親はその後も、さまざまな口実で、排除をどんどん激化させていった。

 弟妹の子どもたちの中には、生まれたのは知っているけれども一度も会っていない子どももいる。会わないこと自体は、別にかまわない。幼少の子どもたちが単独で私と会うわけはなく、そこには子どもたちの両親や祖父母がセットでいるはずだ。そこに私がいたら、必ず傷つけられるだろう。そうなることが最初から分かっているのに「近寄りたい」とは思えない。

 たとえ、弟妹や配偶者や子どもたちの美点がことさらに「私sage」に使われないとしても、弟妹は結婚しており、子どもたちがいる。弟夫妻は共働きでもある。妹は通常の専業主婦生活以上のことをしている。どれも、私がしていないことだ。違う人が違う人生を歩んでいるだけのことなのだが、どんな小さなことも、両親がいれば比較と「私sage」の題材に使われるだろう。弟妹も、両親の作ったパワーバランスを崩さず、私を人間サンドバッグか何かのように扱ってきた。弟妹が「そうではなくなった」と信じられるような変化は何もない。弟妹にとっては、両親の作ったパワーバランスを変化させず強化することには利得があり、そうしないと損失だけだ。変えるメリットがない。だから変わらない。これまでの事実が、そう語っている。最初から惨めな負けが予定されていた私の人生は、さらに惨めになり、さらに大きく負けるだけだった。少なくとも、両親と弟妹との関係では。

 弟妹あわせて2人と私の比較ですら、私にとっては充分に痛いものだった。今や、弟妹とその配偶者と子どもたちの合計人数は、少なく見積もって9人に達する(私が知らない間に生まれた子どももいるかもしれない)。9以上対1。私が傷つけられたり負けさせられたりする可能性は、さらに大きくなった。せめて少なく傷つくようにしなくては。

 だから私は、比較され蔑まれる恐怖や苦痛と闘いながら、本当に最小限度に弟妹と子どもたちの情報を収集してきた。本当は、収集したいと思っていない。けれども私は、比較されて貶められたくない。蔑まれたくない。苦痛の上塗りをされたくない。最低限に情報を収集しておかないと、両親が次にどこから何を繰り出してくるか全く読めない。防御できるはずの攻撃を防御できずに傷つけられることは、避けたい。

 妹の子どもたちは、私によって「sage」られるようなことはない。なにしろ本人たちが好むと好まざるとにかかわらず、生まれた時から私の両親によって、私に対する攻撃兵器のように使われてきたり使われる可能性がある立場に置かれているのだ。私から見れば、その攻撃力を見積もるにあたって、過少に見積もることはあり得ない(たとえ、本人が攻撃するわけではないとしても)。ただし、過大に見積もることはありうる。なにしろ、小学校にも行っていない幼児や、ハイハイして喃語をしゃべる乳児だった時期から、既に私を両親がチクリチクリネチリネチリと攻撃するのに使われてきたのだ。今や、妹の子どもたちは10代になり、素晴らしい活躍をしている。私にとっては、恐怖でしかない。現実の蓄積に裏付けられたこの恐怖を現実化しない方法は、両親や弟妹ごと、弟妹の子どもたちと接触しないこと。それ以外に選択肢があるのならともかく、現実として選択できる方法は何もなさそうに思える。

 昨日も、妹の子どもたちのことが頭に浮かんだ。しかし、不思議なことに気づいた。生々しい恐怖感や苦痛がなかったのだ。

 私はただ、「どこかには、そういう10代もいるだろうねえ」という感慨をもって、妹の子どもたちのことを思い浮かべた。恐怖は湧かなかった。 

 もしかすると、物心ついた時以来ずっと私を苛んできた、両親が恣意的に作るモノサシで自分の何もかもが無価値にされてしまう恐怖から、私は解放されつつあるのかもしれない。「もう二度とそんなことはされない」「過去に両親がしてきたことを、なかったことにしないことができる」という非現実的すぎる夢を、現実にできるのかもしれない。

[雑感]小学生の私が、父親に「本当に俺の子か」と疑われた件

 小学生のころ、父親に「本当に俺の子か」と疑われたことがある。

 時期は、弟が絵を描くようになって私との比較が可能になっていたころであるはず。だから、4つ下の弟が6歳~8歳、私が10歳(小4)~12歳(小6)の時期だと思う。ただ、私は小学生だった記憶がある。また、4年生ではなかった記憶もある。だから小5か小6のころであろう。

 父親が私について「本当に俺の子か」と疑ったのは、正確にいうと、
  • 私が小学5年か6年だった1974年度か1975年度に
  • 家の中で
  • 父親ふくめ他の大人が家の中におらず、なおかつ弟や9歳下の妹が近くにいない時に
  • 母親が私に対して「お父さんがアンタの絵を見て、下手くそだから、『ヨシコは本当に俺の子か』とお母さんに言ったとよ」と言って、「ふふふ」と笑った
  • 母親はさらに、「アンタのせいでお母さんが疑われる」とキレて、「どうしてくれる」と言いながら、いつものように荒れ狂った
という成り行きだった。

 父親は、若い頃から画家になる可能性を認められていたほど、絵が上手だった。母親も、世の中一般との比較では充分に絵が巧かった。家のなかに画材がゴロゴロしており、絵を描く習慣を持つ大人がいた。福岡市近郊の実家から、休日にたまに一家で出かける先は久留米市にある美術館だったりした。そこで、子どもも含めて全員で「ベン・シャーン展」を見たりするのだった。とはいえ、小学校低学年だった私には、その展覧会で展示されていた絵の記憶はまったくない。両親に怒られないように、後で怒られる種を作らないように必死だったんだろうと思う。

 そんな環境で育つ子どもは、自然のなりゆきとして、世の中一般よりは絵が巧くなりがちなのではないかと思う。私ときょうだいもそうだった。ただ私は、絵に限らず、課題やモティーフの内容による合う合わないの差が激しかった。

 小5小6のころは、担任教諭主導のクラス概ね全員からのイジメに遭っていた。何をどうしようが、担任教諭に悪く言われた。満点であるはずのテストは、どこかにツッコミどころを見つけて減点された。その担任教諭が無理やり減点したポイントのうちいくつかは、その後の学びで、担任教諭のほうが誤っていたことが分かった。そのたびにスカッとした。

 音楽は「伴奏など目立つことはさせない」程度の嫌がらせだった。それ以上にやりようがなかったのだろう。体育は、小5小6の時期は同じ学年の全クラス合同授業だったから比較的安全だったが、私が比較的得意な種目では、担任教諭が難癖をつけて「参加させない」という嫌がらせパターンもあった。担任教諭は女性で、専門は家庭科だった。家庭科はもう、何をしてもしなくても、そこにいるだけで難癖のオンパレード。何を言われたかいちいち覚えていない。

 そして図工も、なんとでも難癖のつけようがある科目だった。しかし私が小5のとき、図工専任の若い女性教諭がやってきた。それが救いだった。ただし、その女性教諭は、私の担任教諭にイジメられていた(注)。

 もともとの得意不得意の差が激しい傾向は、小5小6の時期、この担任教諭のもとで激しくなっていた。私は、比較的得意だった写生に注力することにした。学校が無関係なコンテストに積極的に応募し、下書きや仕上げの段階で図工専任教諭に指導してもらった。銅賞または佳作にはコンスタントに入っていたし、商品として絵の具が得られていた。私にとっての絵の具は、白以外は「残り少なくなったらコンテストでゲットしよう」というものになっていた。

 図工の中でも苦手な分野、たとえば読書感想画は、担任教諭にクラス全員の前で「この学年相当の絵ではない」とまで言われたこともある。

 話を父親に戻すと、父親がたとえば私の読書感想画を見て下手くそさに呆れたのであれば、それは大いにありうる話だ。

 私は、このエピソードを、その後も繰り返し繰り返し思い返した。わざわざ思い出そうとしているのではなく、記憶の方から勝手に出てくるのだ。

 しかし今年になって、思い出し方が変わってきた。

 昨年まで、客観的には下手くそではなかったはずの絵画について、たまたま見た一枚を「下手くそ」とされたことへの悔しさとともに思い出していた。

 そして、父親が悪く言っていたのは私だけではないことを思い返し、自分をなだめていた。実家で父親が誰かを悪く言いはじめると、母親がビールを次々と飲ませた。まるで「わんこそば」の給仕のように。あっという間に酔っ払った父親は、べろんべろんになりながら、思いつく限りの誰かの悪口を「どいつもこいつも」と言い続けるのだった。父親に悪口を言われている人々の中には、母親が大切にしており関係が円満だったはずの母親自身の弟もいた。母親は相槌を打ちながら、さらに父親に飲ませるだけだった。父親の語る内容があまりにもひどいので、私は録音や文字での記録を試みた。すると、母親は全力で止めた。母親のしていたことは、絵に描いたような「イネイブリング」だった。私は今にして思う。

 私の絵の上手下手について父親が言ったことは、今となってはどうでもいい。私は90年代終わりごろ、武蔵野美大の短大通信教育部デザイン科に入って卒業した。絵画の授業で描いた人物像は、好ましい評価を受け、参考作品にしてもらった。なにも、父親に評価してもらわなくてもいい。

 最大の問題は、両親の関係性ではないか。そのことに思い至ったのは、56歳になった今年だった。

 父親が「ヨシコは本当に俺の子か」と言ったのかどうかは分からない。私の記憶が正しいとしても、それは母親の「お父さんが『ヨシコは本当に俺の子か』と言っていた」という言葉の中のことだ。母親が、事実ありのままを私に言ったのかどうかは分からない。今、母親にただしても「覚えとらん」という答えしか返ってこないだろう。

 しかし父親と母親の関係の中には、「父親が母親に対して、自分の子どもではない子どもを産んだ疑惑を持つ」という可能性があった。少なくとも、母親が私にそう言った時、母親の中にはその可能性があった。母親は母親で、家の外での父親の行動に対する疑惑や不安を私にぶつけていたのだが、その話は長くなるので割愛。

 両親にそういう関係性しかない中で、私は育った。私の記憶の中にある、両親や弟妹や父方祖母(私が実家を離れる前年に他界)と同居していた実家の記憶の中で、両親の関係性は常にこのようなものだった。

(注)
20代だった図工専科の女性教諭は、確か私が小5になった1974年度はじめ、大学新卒・新任で私の出身小学校に赴任してきた。
私の小学5年・6年の頃の担任教諭は、当時40代の日教組活動家教員だった。終戦時に長崎の師範学校生だったということだった。「原爆投下当時は遠隔地に動員されていて助かった」と言っていた気が。ただし、ご家族やお友達を亡くした話を聞いた記憶はない。どこまで事実なのか不明だが、1945年に18歳なら、1975年に48歳だったことになる。今、生きていたら93歳。
日教組活動家教員は、教員としての技量を磨くことに熱心なタイプ(大多数。教員の研鑽の機会って教研集会くらいしかなかったから)と、労働者性の主張にだけ熱心なタイプ(少数)のどちらかだった。私の当時の担任は後者。授業は自習ばかりだった。クラスの児童に自習させておいて、担任教師は教卓や職員室で日教組の作業をしていることが多かった。したい指導は我流で、したくない指導は放棄。たとえば体育で自分のできない種目の指導とか。
こういう教員に担任されてしまう案件は、私の世代だと結構よくあったパターン。だけど、その前までの学年で勉強の習慣がついていたり、もともと学びやすい環境にあったりする子どもは、ろくでもない教員に指導されるより放置されて自習ばかりの方がマシな学びにつながった。「それにしても算数や理科は無理だろう」と、理科が専門の教頭先生がときどきクラスに教えに来てくれたし。自分が担任ぐるみのイジメターゲット(効率的なクラス経営の手段として)にされていなかったら、そう悪くはなかったと思う。
何が書きたいのかというと、私のクラス担任が、その新任の図工専科の教員をイジメたことである。職員室でそれはそれは壮絶なことがあった噂も聞いている。イジメられていたせいか、教員は放課後や昼休みは図工準備室にいることが多かった。おかげで私は個人的に指導を受けやすかった。
しかし図工専科教員が2年目になると、私のクラス担任は、周囲に誰かの目があっても図工専科教員をイジメるようになった。図工以外の授業中やホームルームの時に、その図工専科教員の指導内容をくさすのである。サイテー。

[雑感]原家族、ラスボスの恐怖

生まれてから56年間経った今、父親に対する恐怖心が、自分史上最大になっている。

離れて暮らし始めてから36年。その間、直接会って話した機会は、たぶん50回はないと思う。電話を含めても、会話をした時間は1年あたり平均では30分から1時間の間だと思う。「親類等がいる中に父親もいた」という場面を含めても、誤差の範囲だろう。それは36年間に20回もない数少ない機会だったから、いちいち数え上げられる。

客観的に見れば、たぶん力関係では、自分史上最大に自分が強くなっているはずだ。

父親は87歳。こちらは車椅子だが、肉体的な勝負なら勝てる自信がある。同居していたころみたいに、「眠っていたところ、深夜に帰ってきた父親が母親に何事かを吹き込まれ、階段を駆け上がってきて私を叩き起こしてビンタを浴びせる(ビンタ、ということにしておく)」というようなことは、今は起こらない。

父親の持っていた社会的影響力や実権も、そういうものを直接取り扱う現役でなくなってから数十年が経過すると、激減している。父親のパワーのピークは私が大学院生くらいのころだったが、その後の私は、ジリジリジリジリとしぶとくしつこく、簡単に潰されないように根を張り枝を伸ばしつつ逃げ足を鍛えてきた。たぶん力関係は、父親のパワーを最大に見積もっても「気を付けろ、依然として、油断したら自分がやられる可能性はある」程度であろう。

しかし今、私は父親に対して、自分史上最大の恐怖を感じている。私が物心ついて以来、苦しんで痛めつけられて育った世界のルールは、一言で言えば「男尊女卑」、より正確に言えば「女は使役動物で産む機械(例外はありうるが、例外条件は明確にされない)」。

時間を共にする時間が圧倒的に長かったのは母親と弟妹だった。私を直接に痛めつけたのは主に母親と弟だった(妹は9歳下で、私が実家を離れた20歳時点までは、さほどの脅威ではなかった)。しかし、「そうしてよい」というルールがある実家の世界のトップにいてルールを決定しているのは、父親だ。

私は20歳で実家を離れるのと同時に、自分を「使役動物で産む機械」とするルールからも離れるはずであった。むろん、原家族の世界がそんなことを許すわけはない。今となっては、その後の私に起こったことは、たったこれだけで概ね説明がつく。しかし「なぜ? どうして?」と自問しながら必死であがく時間が、その後、延々と続いて現在に至っている。まるで、ゴキブリホイホイにつかまったゴキブリのように。

私は生きたまま、このゴキブリホイホイから解放される日を迎えたい。父親に対して、根拠に基づきつつ実際の5倍10倍の恐怖心を抱くのは、おそらく生き物として正常なことなのだろう。恐怖と悲しみと怒りを叫び続けつつ、解放される日と、いかなる意味でも解放されたことの罰を受けないその後の未来を生きたい。

父親がそのようなルールの支配する家庭社会を作るにあたっては、むろん、父親一人だけに責任があったわけではない。終戦時の国民学校6年生として経験した過酷な出来事の数々があり、生き延びるために余儀なかったかもしれない多様な選択(たとえば結婚。母親の兄などとの関係はじめ、子ども心にも不可解なことが多かった)の影響があり、「そうしかやりようがなかった」という側面が多々あるのであろう。それは理解している。というより、理解と共感を強制されてきた。

もしかすると、今の私に起こっていることは、56年間にわたって感じないことにしてきた恐怖を、56年分まとめて味わっているということなのかもしれない。自分が他のきょうだいのように人間扱いされていないという事実を、幼少の私は認めたくなかったのだ。何をしても、両親に価値を認められることはなく、認められたらその後に恐ろしいことが起こるという自明の成り行きに対して、「そんなことはないと言える日が来る」と信じたかったのだ。自分の愚か者め!

今より愚かだった少し前の私、もっと前の私を責めても、何も返ってこない。責めるなら私じゃない。まず、私をそういう状況に置くことについて責任あった父親、そして母親、その状況を利用してきた弟妹だ。しかし、誠実な対話ができる相手ではない。もしそうなら、こんなことにはならなかった。

私はただ、自分と自分の人生とキャリアと、自分の大切な猫たちや大切な人々を、これまで以上に守って育てて生きていこう。

[雑感]原家族トラウマが薄れるとき

さんざん記している通り、私はいわゆる「毒親育ち」だ。20歳で実家を離れるとすぐ、PTSDの多様な症状に苦しめられ、現在に至っている。しかし、その苦しみは少しずつ和らいできた感じがする。

今年4月から、私は「いじめられ癖をなくす」ということを心がけた。両親はじめ原家族のメンバーの中でいじめられて育った過去は致し方ない。これから、自分に刷り込まれた「いじめやすさ」をなくすことはできるだろう。そして、それには成功しつつある。

並行して、腹家族で何があったのかを、なるべく隠さないようにした。いくらなんでも書けないことが未だに多数あるけれど。4月から5月にかけて、実家とトラブルがあったことが、私の背中を押した。

時に、激しい身体の痛みを経験した。叩かれたり蹴られたり、耳元で毒台詞を吐き続けられたりするとき、私は身体を固くして衝撃に備えていたようだ。いつもいつもそうだったから、それが身体に染みついていたようでもある。

コロナ禍でオンラインの講演会等が増えた。自分のビデオをオフにできるときは、ストレッチしながら試聴したりする。どうしても硬さが取れない筋肉に、幼少期からの痛みとやりすごしてきた努力がこびりついている。ほぐそうとすると、その場面が想起され、心身ともに激しい苦痛を味わうこともあった。いったんほぐれても、数日後にフラッシュバックとともに緊張がやってくることもあった。その一進一退も、だいぶ進む側に動いてきた感じがある。

そして私は、自分がその中で育ってきた原家族という舞台装置、そこにいる人々の動きを大きく決める原理を概ね理解できたのではないかと思う。すると、すべてのことは「そうなるしかない」。私が悪いのだと誰がどれほど激しく罵ったとしても、私は悪くなかったと言える。

このことは、私の気持ちを非常に楽にした。たとえば「◯年◯月、妹(◯歳)が、これこれの状況下で、私に◯◯をした」という出来事は、妹や私のキャラクターの問題ではなく、いずれかの性格や認知の問題でもなく、私が対応を誤ったわけでもなく、その舞台装置がその力学のもとにあるゆえに起こることなのだ。そういう認識を持てると、過去の記憶はむしろ、表に出しやすくなる。相手個人や相手のした個々の言動を問題にすると、「相手も人であり立場であり、屁理屈でも理を持っている」という事実の前に怯んでしまいがちだ。しかし、相手や相手の言動を、その舞台装置を描くために示すのであれば、私が罪悪感を抱くことはなくなる。

その舞台装置の中に生まれた私に、舞台装置を使ったことの責任はない。事実上弾き出されてしまっているというか、そこにとどまるという選択肢が事実上なかったことについては、「多数決」かつ大人と子どもの差により、やはり私の責任ではないはずだ。20歳で原家族を離れてなお、35年以上にわたって私が苦しまなくてはならなかったことも、かなりの部分は「私のせいじゃない」と言える。

ならば、誰にどういう責任があるのか? 知らない。少なくとも、私にはない。

そして2020年10月1日の朝、私は背中に羽が生える感じを味わいながら目覚めた。その後数日、目が覚めようとする時のぼんやりした感覚の中で、私の背中の羽は、高橋しん『最終兵器彼女』のヒロインの羽のように広がったりもした。


目覚めると、もちろんそんな羽は生えていない。しかし、羽が生えそうな朝を何日分か過ごすと、両親やその大事な子どもさんたちである弟妹とその配偶者、大事なお孫さんたちである甥たちへの恐怖心が消え、遠くのどこかで暮らす普通の人に見えてきた。普通の人たちなら怖くないわけではないが、血がつながっていなければ、私と血のつながりを持っている故に恐怖をもたらすことはない。これが、まともな感覚なのだろう。

私は、「誰も、私から翼をもぎ取ることはできなかった」という希望の結末と、救いあるその後に向かって、少しずつ歩みたい。

[雑感]「アスレチックランドゲーム」の記憶

「アスレチックランドゲーム」という、昭和のテーブルゲームがある。現在もけっこう人気。中古が3000円台で売買されているようだ。発売は1979年。


この年のクリスマス、実家の「サンタさん」も、このゲームをおねだりされていたようである。クリスマスの朝、当時12歳で小6の弟の枕元に、このゲームがあった。妹は妹で、何かサンタさんにおねだりしたものを貰っていた気がする。

ちなみに私へのクリスマスプレゼントは、クリスマスと無関係に必要なデスクランプだったり防寒衣料だったりした。もう、そんなものであることに慣らされてしまっていた。私が中学以後になると、母親は私に弟のクリスマスプレゼントを預けて寝てしまい、寝ている弟の枕元に置くのは私の仕事になった。

弟は、当時7歳の妹とともに、このゲームを楽しんだ。両親が参加しているのを見た記憶がある。私も少しくらいは触らせてもらった気がする。

一週間ほどで、お正月がやってきた。そしてお年玉。実家は父方母方とも子どもが多く、申し合わせをしてお年玉を比較的低く抑えていたが、それでも子どもにとっては数千円以上の現金は大金だった。

すると弟は、もらったばかりの「アスレチックランドゲーム」を、妹に売ってしまったのだ。
「あんなにほしくて、喜んでたのに。どうして?」
と聞くと、弟は
「ウチにあるから、これからも遊べる。僕は何も損しない」
と答えた。妹は数千円を損したわけだが、特に不満は持っていなかったようである。

私は文句を言わなかった。弟のこのような「賢さ」には、その何年も前から繰り返し痛めつけられていた。抵抗感や不満を表情に示そうものなら、母親に「倍返し」ではきかない仕打ちを受けることになった。

博多弁の「こすか(ずるい)」という言葉を、弟と無関係に口にしただけで、「たった一人の弟を非難した罪」によぅて母親に折檻されたこともある。その時の「こすか」の対象は弟ではなかった。いずれにしても、物心ついたら既に、私が弟に対して不満を持つ状況と、私が不満や怒りを示したらそれを口実にさらなる責め苦が注がれる構造が、母親によってガッチリと築かれていた。

 私は、両親によって作り上げられたアリ地獄から、逃げようとしてもがき続けてきた。いつになったら投げ切れるのか、分からない。

 2019年、はじめて和歌山県に足を踏み入れたとき、和歌山県出身者から負わされたトラウマと、この「アスレチックランドゲーム」に関するトラウマが同時に氷解する出来事があったのだが、その話はまた改めて。
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(共著 2009.10 技術評論社)

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