猫と食事と西荻窪、ときどき旅する車椅子

ライター・みわよしこの日常つれづれ話



虐待

[猫ばか日記]瑠(8)、「遊ぶ」が上手になりました

2016年度になってから、人間と猫じゃらしで遊ぶことを覚えた瑠(8)。

本日2016年8月5日の瑠(8歳2ヶ月4日)。珍しく、至近距離で写真を撮らせてくれました。
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2015年9月、姉貴・摩耶(享年18)を喪ったばかりの瑠の前で、私が猫じゃらしを振り回してみたところ、「自分を攻撃している」と誤解され、唸られて本気で引っかかれてしまいました。 
幼少期に虐待されており、生後半年でアニマルシェルターに保護されて5歳まで過ごした後で我が家に来た瑠は、「人間と遊ぶ」ということを知らなかったようです。
それでも2016年度に入ると、遠くで振られる猫じゃらしを目で追ってみたりするように。
2016年6月25日、本気の狩りと遊びの区別はついていないようでしたけど、とりあえず遊べました。本猫初の快挙。
しかし、瑠は本気で猫じゃらしを押さえこみ、私の手から取り上げてしまいました。
参照:[猫ばか日記]瑠(8)、初の「撫でて」と本気猫じゃらし遊び

この頃の遊びっぷりです。2016年6月27日。緊張がうかがえます。


その後も、瑠は進歩を続けています。
約一ヶ月後、2016年7月21日は、「遊び」 というものを理解して楽しめているようです。

本気の押さえ込みで、私から猫じゃらしを奪うこともなくなりました。
それをやってしまうと遊び続けられなくなることも、理解したようです。 

瑠にはこれからも、楽しいこと嬉しいことを、たくさん覚えてほしいものです。
キミの大好きな摩耶ねーちゃん(1997-2015)も、きっと見守ってくれてるからさ。

一年前の今日、2015年8月5日の摩耶。衰えが目立ってきていました。
私は、摩耶を抱いていられることが、ただ幸せでたまりませんでした。 03

31年目の綿の新芽

一週間ほど前に撒いた綿の種、双葉を出しつつあります。
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1983年5月以来、 31年越しの夢の第一歩です。

1983年5月、19歳で浪人中だった私は、綿の種を頂戴しました。
さっそく 、実家の庭で誰も使っていなかった植木鉢に種蒔きしました。
あのときも、綿の種はこんなふうに、双葉を出していました。
どんなふうに育つだろうかと、心から楽しみにして、毎朝様子を見て水を与えていました。所要時間は2分以下だったと思います。

でも、綿が双葉を出したころから毎朝、私は植木鉢が倒れているのを見ることになりました。
最初は「間違って何かがぶつけられたのだろうか」と思っていました。
でも毎日、毎日、植木鉢は倒されていました。
私は、母親のしわざだろうとは思っていましたが、黙って元に戻して水を与えていました。
一週間後のある日、同じように植木鉢は倒されており、綿の新芽は折れてしまっていました。もう、救うことはできそうにありませんでした。 

私は母親に
「あそこの植木鉢が毎日倒れているんだけど」
と言いました。
母親は
「アンタが余計なことをせずに勉強するように、お母さんがしてやっとうとよ(してやっているのよ)」
と言い、ニヤニヤしました。

それまでも、私が大切にしているもの、仲良くしている相手を母親が傷つけることはよくありました。
お気に入りの茶碗が、わざと手が滑ったことにされて割られ、母親がバーゲンで衝動買いしたかなにかした結果としてストックされていた趣味の悪い茶碗を
「お母さんが買ってやった、感謝して使わんと」
と押し付けられたり。
でも、生き物に累が及んだのは初めてでした。

私は、綿の新芽に謝りました。
私のところに来たばかりに、こんな悲惨な運命をたどらせてしまって、ごめんなさい、と。

それから、家庭菜園で綿を栽培することは、一般的になりました。
ドライフラワーとして飾られていることも珍しくなくなりました。
綿の花を見るたびに、私は1983年5月のことを思い出して、胸が痛みました。
なぜ私は、母親にあんなことをされなくてはならなかったのか、今でも理解できません。
悲しさや悔しさや苦しさが、今でも心の中にそのまま残っています。 
今は、母親がいかに私のせいだと主張していた(いる)としても、私に若干の問題はあったのだとしても、母親の行動は母親に原因あっての問題だと考えています。
その認識は、私のこれからを少しだけ楽にしてくれるかもしれません。
でも私の「これまで」の解決にはなりません。

私は、母親に痛めつけられ続けた生育歴から自由になりたいと思い、今年、綿を育てる決意をしました。
この写真の綿の双葉に、何らかの形で母親の影響が及ぶ可能性は、否定できません。なんといっても相手あることです。
私は31年前と同じように、母親によって綿の鉢がひっくり返され、芽が折られるのを見なくてはならないのかもしれません。そして、31年前と同じように泣くのかもしれません。
でも来年も、その次の年も、綿を育ててみようとする努力をやめることはないでしょう。
そこに、私の生き直しがかかっているような気がするのです。

綿の花言葉は「優秀」だそうです。
母親がこの花言葉を知っていたかどうかは知りませんが、母親は、私が「優秀」と認められることを、何よりも嫌いました。 
私は、この綿の新芽を育て、花を咲かせて、自分も「優秀」になるための・そうであるための努力ができる毎日を取り戻したいと切実に思います。
10代、20代のころに、そういう努力をしたかったのです。
私の努力を母親は徹底的に踏みにじろうとしましたし、踏みにじることにかなり成功していたと思います。
もう遅すぎるかもしれませんが、 これからでも、可能な限り、その努力をしたい。
私は生き直したい。

この綿の双葉に、すくすくと育ち、花咲く秋がありますように! 

台所の脱腐海化作戦(0) ヘルパー派遣を受けている「からこそ」出来ないこと

ヘルパーさんが来ていてもできない、むしろ、来ているからこそ出来ない家事があります。「片付け」です。
片付けは「これは捨てるか、捨てないか」「これをどこに置くか」という細かな判断の連続です。
ヘルパーさんと一緒に片付けを行うということは、異なる判断基準の確認の連続です。
「この人はこの人だから」で済めばいいんですが、たいていは、さまざまな感情的な問題を引き起こします。
ヘルパーさんに「捨てましょう」「これはまだイケますよね」と言われた時に「No」をいうのは、私にとっては非常にストレスフルなことです。でも意に沿わない「Yes」は言いたくありません。とすれば、「ヘルパーさんと片付けはやらない」が正解、ということになります。
片付けのヘルプをお願いしても軋轢が発生しない、あるいは私が泣き寝入りを強いられて悲しまないヘルパーさんは、過去7年のヘルパー派遣経験の中で2人しかいません。

私は入浴に介助を必要とするため、ヘルパーさんは必然的に女性となります。長年、異性介護は人権侵害のシンボルのようなものでしたから。
私にとって
「家事のやり方をめぐって女性どうしがぶつかる」 
ほどイヤなことはありません。それはしばしば「だから女は」「だから女同士は」という冷笑の対象になります。もちろん
「家事のやり方をめぐって男性と女性がぶつかる」
もあるわけですし、それは女性に対して「男性がせっかくやってくれているのに」「感謝の心が足りない」などという説教の対象になりますが、それは男性の家族がいなければ解決できることです。そして、介護業界で長続きするタイプの男性のヘルパーさんは、概して、そういう愚かな「ぶつかる」を引き起こさない感じがします。
とにかく私は、ヘルパーさんとぶつかったり感情を損ねたりするのが本当にイヤなので、「それをされたら暮らせなくなる」レベルのこと以外では何も言いません。
しかし、細かな判断の異なりが細かくぶつかり合う「片付け」という場面では、私は少なくとも「(女の)闘い」を引き起こしてしまうヘルパーさんと一緒にいたくありません。「闘い」が起こらないにしても、「ヘルパーさんと片付けをする」は大変ストレスフルです。しかし片付けないと、自分が快適に過ごせない。
私はこのようなジレンマの中で日常を送っています。

「(女の)闘い」は私の取り越し苦労ではなく、実際に発生します。

ある介護事業所の所長(50代・女性)からは
「台所の布巾で床を拭かれて、それを台所に戻された」
というようなことをされました(雑巾は別の場所にちゃんとあります)。
この介護事業所の別のヘルパー(50代・女性)から暴言・暴行などを受け続けたので対処を要望したところ、所長がある日突然、
「明日から支援できません」
と打ち切りを通告してきました。
「それは困ります、明日まではお願いします」
と言ったところ、所長がやってきて、若干のヘルパー業務とともに暴行・暴言、さらに「台所の布巾で床を拭く」をやられたのでした。

別の介護事業所のサービス責任者(当時・30代女性)は、
「雑巾がなくなったのでタオルを一枚雑巾におろしていいですか?」
と私に言いました。私が
「はい、お願いします」
と答えると、新品に近かった戴き物のジャガード織りのタオルが雑巾にされていました。雑巾にするにふさわしいタオルは、他にもたくさんありました。でも私は何も言いませんでした。何か言ったら、「嫌がらせをされている」という惨めな事実を認めることになるし、愚かな「女の闘い」に巻き込まれることにもなります。
私はそのサービス責任者が帰った後、その雑巾にされたタオルを、泣きながら捨てました。その、嫌がらせの象徴を見続けたくなかったのです。
それから、古いベッドパッドを切り刻み、数年分の「雑巾」を作りました。

このような問題が起こってしまう背景には、さまざまな問題があるでしょう。
介護労働者の労働条件が良くはならず悪くなる一方であることも、その一つかと思われます。
ともあれ、ほとんどのヘルパーさんに、私は片付けのヘルプを頼むことができないという現状があります。

続・原家族とのことを書き始めてからの変化

2014年3月、突然、原家族とのことを書かずにいられなくなって、このブログに書き始めました。 その後、心身にさまざまな変化が起こりました。
4月上旬までは 原家族とのことを書き始めてからの変化 に記録しています。
本エントリーは、その続きです。

●気分がラクになった

両親、特に母親にしがみつかれ、心のなかまで縛られている感覚が消えていきました。
長年の間、特に母親によって、私は母親の好む感情・母親の好む意志だけを自発的に感じたり持ったりするように望まれていました。
その感覚が消えました。
母親が、私に対して感じることも考えることも表出することも禁じていた感情を、私がここに書いてしまった以上、当然のなりゆきでしょう。

●強烈な虚脱感とウツ気分

しかし、その「母親にしがみつかれ縛られている感覚が消えた」は、快い状態でもなんでもありませんでした。
私は激しい疲労感を覚えました。しばらくの間、虚脱状態になり、はげしいウツ気分に陥り、呆然と過ごしていました。他にどうすることもできませんでした。

●両親に関する幻視幻聴が消えた

私は、他に誰かがいる場所で笑ったり、楽しいと感じたり、学んだりするたびに、耳元で
「間違っとう!(間違ってる!)」
と電話口で叫んだり耳元でつぶやいたりする母親の声が聞こえつづけていました。20歳で実家を離れてから、ずっとです。
時には、母親が私に絡むのをニヤニヤ笑いながら「女どうしだから」と微笑ましそうに見ている父親の表情もセットになって見えることがありました。 それも実際によくあったパターンでした。でも、両親がそこにいないのに見えるんだから、幻視です。
それらの幻視幻聴が、すっかり消えてしまいました。
 
●恐れずに笑い、楽しみ、学ぶことができるようになった 

「え?」と思われるかもしれませんが、私は今まで、笑ったり楽しんだり学んだり、さらに何らかの達成をすることが怖かったのです。
そんなことをすると、母親がどんなに不機嫌になり、怒りを抱くでしょうか。どんなに、達成を妨げようとするでしょうか。
私がそれでも達成してしまったら、母親は、どれほど理由がなくても達成した何かに侵入して「自分のおかげ」ということにしようとします。それが叶わないならば、達成した何かを無意味にしようとします。
それは妄想でもなんでもなく、実際に母親が私に対して示した感情であり、実際に母親が私にしてきたことです。
これからも、そういうことは起こるかもしれません。母親が前面に出てこなくなることはあるかもしれませんが、母親が影響を及ぼした誰かによって同様のことがなされるのかもしれません。
明日、母親につながる人々によって、私は何もかもを奪われてしまうのかもしれません。
でも、
「今日は笑っていよう、楽しんでいよう、将来の何らかの達成につながることを信じて学ぼう」」
と思えるようになりました。
原家族とのことを書き始めるまでは、実のところ、
「笑ったり楽しんだり学んだり達成したりしたら、全部を潰されてしまうのだから」
という恐怖でいっぱいでした。
今は、
「明日何をされるかは分からないけど、笑おう、楽しもう、学ぼう、達成を目指そう。明日、原家族のメンバーが全力で私を潰そうとしたとしても、それ以上の力で抵抗するための力になるから」
と、気休めとしてではなく、本気で思えています。

原家族とのことを書き始めてからの変化

3月から、ときどき「家族」タグで原家族との間のことを書いています。
断片的にはTwitter(以前使っていた@miwa_chan)や「はてなダイアリー」の拙ブログ に書いてきましたが、まとまった形で書くのは初めてです。

●書き始めたきっかけ 

「今、書かなければ」という強い思いに駆られて、自動筆記マシン化したかのように書き始めました。
私には「ついに来るべき時が来た」という感覚がありました。

●あえて理由をつけると

「原家族との関係が、今後改善する見通しはまったくない」と確信できる出来事が、2013年~2014年にかけて相次いだことでしょうか。
大きなきっかけになったのは、2013年7月に「生活保護リアル」を出版したこと、2013年11月と12月に両親と接触したときのできごとです。
両親からはその後、年賀状も来なくなりました(父親が用事を頼みたい時には携帯メールが来ますけれども)。
両親が本格的に私を絶縁したり、それに先立って再起できない状態に叩きのめして反撃されないようにするための動きを始めた可能性を考えています。
両親は、愛してやまない弟妹とその5人の子どもたちに、万が一にも私からの反撃があってほしくはないでしょう。そのためには、絶縁では済まないはずです。絶縁するなら、その前に私を完全に叩きのめしておく必要があると思われます。社会的に抹殺するか、あるいは社会的に抹殺するだけではなく……。
思い過ごしかもしれませんが、最悪に備えておいて悪いわけはありません。
現在50歳~60歳の女子、焼け跡闇市世代を親に持つ女子にとって、親、特に父親とは、しばしばそのような存在です。似たような話を何人から聞いたことでしょうか。



●書いた直後

まず、「これで自分は生きていけなくなるんだろう」と思いました。
両親の望みは、私をせめて社会的に葬り去ることであるのかもしれません。私は両親が自分にしたことを書くことによって、両親や弟妹たちに格好の攻撃の根拠を与えてしまうことになったのかもしれません。
その時期、年度末+2月の米国行き(AAAS年会参加)+大学院の学費支払いなどで、私の懐具合は大変厳しいことになっていました。なぜか私の預金残高や私の購買行動に詳しい父親は、もしかすると、それを見てほくそ笑んでいたかもしれません。父親がどこからそのような情報を得ているのかは知りませんが、父親がなぜか私のプライベートに詳しい状況は1998年ごろから延々と続いています。いつになったら終わるんでしょう。私が死ななくては終わらないのでしょうか。気持ち悪いです。
「即刻終わって欲しい、そのためには自分が死ぬしかないのか」
と、私は1998年ごろからずっと思い続けています。
どういうルートから情報を得ているのかはともかく、私のプライベートに詳しい父親は、私が「なかったことにしない」という態度を明確にすれば、おそらく全力をもって私を葬り去るための方策を練るであろうと確信できます。そのために、父親が得ている私のプライベートな情報は、大いに有効でしょう。
しかし、私には不思議な安堵感がありました。
「これで終わった」
という。
書いてしまった以上、あとは絶大な力を持つ父親やその味方たちに叩き潰されるのは時間の問題でしかないでしょう。
夜、私は眠りにつきながら、二匹の猫たち、もうすぐ17歳の摩耶・もうすぐ6歳の瑠のことを考えました。とにかく摩耶の寿命までは逃げ切り、その間に瑠を誰か信頼できる人に託せば、私は大きな後悔を残さず死ぬことができます。自分自身が安全になって寿命まで生き延びることは絶望的ですが、猫たちだけなら何とかなりそう。そのことに深い安心を覚えて、気持よく眠りました。

●書いてしまってからの変化

ところがその後、私には「潰される」どころではない大きな変化が起こりました。
原家族での辛い出来事、脳に刻印であるかのように刻まれた両親や弟妹の言葉の数々が、突如、どうでもよい小さなことに感じられるようになったのです。
それは、気持ちのよい変化ではありませんでした。大きな恐怖と不安を伴う変化でした。私は自分の基盤を失いつつあるかのように感じました。
もちろん、父親が私に対して、何らかの経済制裁を計画しはじめた可能性はあります。といいますか、それはもう2008年ごろから始まっているようです(父親の言動による)。それが本格化するだけでしょう。私を失意と絶望のうちに叩き潰すためには、真綿で首を絞める拷問のような経済制裁が一番ですから。しかし、私が感じた恐怖と不安は、その経済制裁に対するものではありませんでした。
具体的な経済制裁に対する対策は、具体的かつ現実的に行う必要があります。都営住宅や生活保護の利用を視野に入れるならば、父親が何を企んで実行しようとも、おそらく私は生き延びることくらいはできます(その場合、「生活が厳しい」以上に苦しまされることになるような攻撃を、さらに両親や弟妹から受けたりしないように、万全の対策が必要ですが)。
想定される経済制裁に対する「傾向と対策」は、昨年11月から弁護士などにも相談して、具体的に練ってあります。あとは。何かあったら、
「こうなったら、こうする」
を一つ一つ実行するのみ。
私は、恐怖と不安を覚えるたびに、脳内で何回も、「傾向と対策」のシミュレーションをしました。それは、ただただ、「こうなったら、こうする」と「その場合の落とし所は」の連続のみです。
それでも、恐怖と不安は去りませんでした。
私の感じていた恐怖と不安は、経済不安に対するおそれではありません。よくも悪くも私を形作っていた原家族での辛い経験が、自分のすべてを支配する大きな存在から、ごくごく小さな存在に変わっていったことによっていたからです。それは未経験のことでした。傾向と対策を、どこかで読んだことがあるというわけでもありませんでした。どこかに書いてあるとも思えませんが。

そうこうするうちに、3月30日、大学院生活が始まりました(3月30日に編入生のガイダンスがありました)。
私は、両親が大学院に手を回して、私が学業を続けられない状況に陥らせようとしている可能性を考えていました。筑波大のとき、その可能性を考えざるを得ない状況がありましたから。
ところが、大学院の先生方には、そのような気配も感じられませんでした。
私は
「最初だからじゃないのかな」
と疑いました。
でも、さまざまな機会に教職員の方々と接しているうちに、
「少なくともこの研究科では、もし両親が何らかのルートで私を潰すように依頼したとしても、応じることはないだろう」
と信じられるようになってきました。
その時も
「いやいや、私が東京の住まいを離れて関西にいるから、したがって両親は(おそらく)私の居所を知らないから、そんな錯覚を感じているだけじゃないのかな」
と自分に言い聞かせていました。

関西に滞在している間、不思議な夢を3回ほど見ました。
母親が私に対して呪いの言葉を吐きつつ、私の身体のどこかにしがみつこうとします。すると母親は、とても強い力で後ろ側から脚を引っ張られ、転倒します。転倒した母親は、なお、私の脚をつかもうとしますが、母親は後ろから脚を強く引っ張られているので手は届きません。「アンタなんか何をしても何にもならん」「親への裏切り」などと、私に向かって何百回も直接投げつけた呪いの言葉を吐きつつ、母親はズルズルと脚を引っ張られて私から離れていきます。
私は脂汗をかいて目を覚まし、夢であることに安堵しました。母親が私にしたことが何であっても、「私のせいで母親が不幸になる」は、やはり私にとっても、決して愉快なことではないのです。

東京に帰っても、
「立命館の先端研の教職員の方々は、親と院生が対立していたら、基本的には院生の味方であると信じてよいのではないか」
という感覚は去りませんでした(願わくは、私の学位取得まで、その信頼が裏切られませんように)。
気が付くと、頭のなかでガンガン鳴り響き続けていた母親の声や目の前に見えていた表情、ずっと感じられて続けていた父親の表情や身体の重さや体臭や、私の身体のどこかを掴んだときの強い力が、
「思い出そうとすれば『そんなこともあった』と思い出せるけれども、否応なく、突然思い出されることはない」
という状態になっていました。
20歳で実家を離れてから、30年目のことでした。

●その後

両親、特に父親が次に何か攻撃を開始するとしたら、私の東京の住まいのご近所さん関係でしょうか。なんとなく、ご近所さんの私を見る表情がぎこちなくなったのを感じます。気のせいだといいのですが。
ただ、あまり深くは気にしていません。もし父親がご近所さんに私に関するネガティブ情報の収集や何らかの攻撃を依頼したとしても、この地域に15年住み続けている私との関係を悪くするメリットは、ご近所さんにはほとんどありません。そうではないご近所さんも、いることはいますけれども、現実にどれだけの力を持てるかというと疑問です。
もしそのような問題が発生した場合にどうするかについては、既に「こうなったら、こうする」のプランをいくつか立てています。それを実行するのみです。
あまりにも甘い予想でしょうか? もっと直截な経済制裁が行われるのでしょうか? もちろん、そうであるとしても、両親は自分たちと長男である弟だけは火の粉をかぶらないように、誰か他の人、それも私がなるべく反撃しづらい相手を直接の攻撃者とする形で、ヤワヤワネトネトジメジメと私を潰しにかかってくるのだろうと思いますが。これは思い過ごしではなく、過去そういうパターンが何度も繰り返されたことから私が「学習」しているのです。
とりあえず本日、2014年4月8日現在は、何も表面化していません。
いつまで「何も表面化していない」といえるかは分かりません。相手あること、なんといっても相手は両親ですから、油断はできません。常に最悪に備える必要があります。
しかし、両親対策にあまりにも時間やエネルギーを割かなくてはならないようでは、それはそれで結果として自分が経済制裁されるのと同じことになってしまいますから、協力してくださる方々に協力をいただきながら、自分と家族と自分の人生を守りつつ、なるべく前に進んでいくしかありません。

今は、
「実家を離れてから30年もかかったけど、自分の感覚と能力を信じて、自分の人生を生きていけるようになりそうだから、ま、いいか」
と思えています。

●念のため

母方祖父(故人)はアマチュアのヴァイオリン弾きでした。正式に譲られたというわけではありませんが(母方祖父は私が生まれる前に他界しています)、いろんな経緯の末、母方祖父の愛器であったヴァイオリンは私の手元にあります。母親が保有していた別の親戚(ヴァイオリンを弾く人)から取り上げて実家に持ってきたのは、1980年ごろでした。母親がその人からヴァイオリンを取り上げるにあたって理由にしたのは「ヨシコが弾きたいと言っている」でした。私は確かに弾いてみたいと言いましたが、実家周辺には、楽器に関する充分な知識のある人がいませんでした。たとえば松脂。母方祖父が昭和30年ごろ亡くなる直前に使っていたと思われる松脂が、楽器とともにやって来ました。でもヴァイオリン用の松脂って、時間が経つと固まって使い物にならなくなるんです。私はその松脂を弓の毛に懸命に塗りましたが、音は出せませんでした。当たり前です。
その楽器が、東京にいた私の手元に来たのは1991年です。1980年から1991年まで、楽器は温度変化が激しくジメジメする実家の押入れの中に置きっぱなしにされていました。弦を張ったらテールピースが割れ、響板もあちこち剥がれかけているという状態でした。
その放置されて酷い状態だった楽器を復活させ、弾けるときには弾いて音を出してやり(ヴァイオリンは弾いて音を出してやらないと、「自分が楽器であったことを忘れてしまう」といいますか、楽器としての性能が落ちてきてしまいます)、弾けないときにも定期的に楽器工房でメンテナンスを行い、湿気や虫などへの対策を行い……ということを、私は23年間続けてきました。
しかし、妹の長男(確か2003年生)がヴァイオリンを習い始めたころから、母親は私に何度も、その楽器を
「Y(妹の長男)にやりい!(よこしなさい)」
と命じたり、存命中だった認知症の母方祖母を理由に、
「おばあちゃん(母方祖母)の横に置いてやりたいから、ちょっと宅急便で送っちゃりい(送りなさい)」
と言ってきたり、
「お父さんの思い出の楽器だから、ちょっと触りたい」
と言ったりなどしています。
「Y(妹の長男)にやりい!」
には、
「Yちゃんはまだ大人用の楽器を弾ける年齢ではないでしょう?」
と答えました。妹の長男はまだ4歳か5歳でしたから。
次に
「おばあちゃんの横に置いてやりたいから、ちょっと宅急便で」
は、
「ちょっと宅急便で送れるようなものではないです」
と答えました。
「お父さんの思い出の楽器だから触りたい」
は、母親のホンネなのかもしれません。可能であれば私は、故人である母方祖父に、
「自分の楽器を長期放置しておいて、楽器として使い物にならない状態にした上に、復活させて長年面倒を見てくれた人に礼も言わず、良い状態で維持されている楽器を取り返そうとする貴方の娘さんを、どう思いますか?」
と聞いてみたいのですが。それに、過去の母親の言動を考えると、その「ちょっと触りたい」を許したら、私が永久に触れなくなりそうです。母親の「ちょっと触りたい」が本気であるとして、私が「実現してもいいか」と思ったとしても、私が後で悔しさや悲しさのあまり何度も泣くことにならないように万全の対策が必要です。
話を母親に戻します。母親は、そのヴァイオリンを妹の長男に与えたいんでしょう。私に「やりい!」と言い出したのは、妹の長男がヴァイオリンを習い始めてから後のことでしたから。妹の長男は、そろそろ大人用の楽器を弾ける年頃と思われます。でも、「ちょっと宅急便で」送れるようなものではないんです。それに母親は、酷い状態だった楽器を復活させて状態を維持するにあたって私が注ぎ込んだお金や時間やエネルギーは全く考慮していません。考慮したかに見える言葉さえ、今のところ一度も発していません(これから母親がそういう言葉を発しても、もはや心からのものと信じるわけにはいきませんが)。
私自身、現在50歳となっています。自分の寿命を超える長い寿命を持っている楽器を、自分の死後にどうするかについては考えざるを得ないところです。楽器の由来からいって、血縁の誰かでヴァイオリンを弾く人に渡ることが最も適切なのではないかとも考えるところです。他にもさまざまな可能性を考えます。母方祖父と友人たちが立ちあげたアマチュアオーケストラは、その後プロオケへと発展し、地域の文化にとって重要な存在となっています。その立ち上げの志を活かすことを考えたら、血縁者ではない方がよいかもしれません。その楽器にとって最も幸せで、最初の所有者の志が最も生きる方法は何なのでしょうか? 貴重な楽器を預かって面倒を見ている身として、40歳を過ぎたころから真剣に考えています。
でも、とにかく、母親の恣意によって、なあなあで、あるいは騙されて、あるいは脅されたりすかされたりして半ば強制されて手放すことを強いられ、母親の望む誰かに渡さざるを得なくなる成り行きだけは避けたいのです。ああまだ他にも考えられるパターンはありますね。甥たちにおねだりさせるとか。それは最高にイヤななりゆきです。子どもはそのように利用されるべきではありません。
母親はこのヴァイオリンについて「自分のものである」と主張したことは過去に一度もありません。「自分の」楽器だから返してほしいというのなら、まだ理解できるのですが。
いずれにしても、私は、そこまで軽く扱われ、そこまで馬鹿にされてよい人間ではないと思います。
このヴァイオリンに関しても、弁護士さん等と相談のうえ、「傾向と対策」は立ててあります。


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著書です(2009年-)
「おしゃべりなコンピュータ
 音声合成技術の現在と未来」
(共著 2015.4 丸善出版)


「いちばんやさしいアルゴリズムの本」
 (執筆協力・永島孝 2013.9 技術評論社)


「生活保護リアル」
(2013.7 日本評論社)

「生活保護リアル(Kindle版)」
あります。

「ソフト・エッジ」
(中嶋震氏との共著 2013.3 丸善ライブラリー)


「組込みエンジニアのためのハードウェア入門」
(共著 2009.10 技術評論社)

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