2020年08月14日

NHKBS1スペシャル 暗号名 チューブアロイズ 原爆投下 チャーチルの戦略

NHKBS1スペシャル 暗号名 チューブアロイズ 原爆投下 チャーチルの戦略

2019年1月27日放送
2020年7月8日(水) 再放送


第1章 原爆をめぐる攻防〜チャーチル対ヒトラー〜
第2章 核の独占〜チャーチルとルーズベルト〜
第3章 新たな脅威〜チャーチル対スターリン〜
第4章 “対立”か“協調”か〜ソ連をめぐる攻防〜
第5章 原爆投下への道程
第6章 終わりなき核の時代へ


原爆は何故投下されたのか?

最新研究からアメリカの原爆開発「マンハッタン計画」に
大きな影響を与えた人物が明らかになった

イギリス首相、ウィンストン・チャーチル

7年前、公開されたイギリスの極秘資料、「チューブ・アロイズ」と暗号名がつけられていた

「チューブ・アロイズ」とは管状合金のこと、ラジエターや燃料タンクの製造を連想させ原爆開発と悟られないようにした

チャーチルはイギリスの科学者をアメリカに送り込み、原爆開発をけん引しようとしていたのである


マンハッタン計画がアメリカ単独のものという認識は誤りです[証言]

さらに日本への原爆投下にチャーチルが強い影響力を与えていたことが明らかになった
「イギリスは日本への原爆投下に同意する」


チャーチルがマンハッタン計画を始めたのです
アメリカだけでは原爆開発は遅れ、終戦には間に合わなかったでしょう
日本への原爆投下はなかったに違いありません[証言]

アメリカを動かし原爆開発を進めるチャーチル

しかし、ナチスドイツのヒトラー、ソビエトのスターリンも原爆開発を進めしのぎを削っていた

スターリンは開発を急ぐためにイギリスにスパイをおくっていた


原爆開発はその初期段階からソビエトの諜報活動によって
機密情報が盗まれていた


やるべきことは明確でした。原爆の機密情報の入手です
チャンスがあれば盗めばいいのです(元KGB将校)


U235を使用した原爆の開発に最初に着手したのはナチスドイツだった。

1939年アインシュタインはアメリカも原爆研究を始めるよう提案する手紙を書いた
宛先は当時の大統領ルーズベルト

しかし、ルーズベルトは原爆は実用的でないと考えた

原爆開発には大量のウランが必要になる
爆弾は重すぎて大型船でしか運べず、輸送は困難とみなしたからだ

1940-1941年、ロンドンはドイツによる空襲で大火に包まれた。
ヒトラーの猛攻で敗戦の危機に立たされるチャーチル

そのチャーチルの元に戦況の逆転につながる朗報がもたらされた

イギリスバーミンガム大学で原爆を小型化する理論が見つかったのだ

サイクロトロンは原爆の小型化に欠かせない装置
のちにウランの分離に用いられた(ウラン濃縮)

当時研究を行っていたのが、ドイツからの亡命したユダヤ人科学者
ルドルフ・パイエルス

注目したのがウランの種類

U235だけを分離すれば原爆は小型化できる。

(ちょっと待て、ウラン濃縮しないと原爆どころか発電すらできないのに何を言っているんだ)


ケベック会談は、第二次世界大戦中の1943年8月17日から8月24日にイギリスおよびアメリカ合衆国によってイギリス自治領カナダで開かれた秘密軍事会合

ケベック協定(1943年8月19日)

注目すべきは第2項、相互の同意なしに、それを第三者に使用しない

原爆投下の決定は英米二国で決定する


プルトニウム原爆に必要な技術「爆縮」
均等にプルトニウムに圧縮するために考えられた方法が「爆縮レンズ」
これを考案したのが、イギリスから派遣された科学者
クラウス・フックスとジェームス・タックであった

もっとも重要な原爆情報をソビエトに渡していたスパイがいた。
コードネーム「チャールズ」

イギリスで原爆実用化理論が発見されたこと
さらに、それを元にアメリカのロスアラモスで開発研究されていることをつぶさに報告していた。

最初に情報を渡していたのは1941年
マンハッタン計画が始まる以前からチャールズはスパイ活動を行っていた

「チャールズ」とは誰なのか?
ソビエトの秘密資料にはその実名も記されていた
クラウス・フックス


チューブ・アロイズ計画に参加し、あのプルトニウムの爆縮の研究を行った物理学者だ

フックスはドイツ共産党員でイギリスに亡命した物理学者だった

チャーチルはイギリスの科学者が原爆の最高機密情報までソビエトに漏らしていたことを把握していなかった。






チャーチルは共産主義のソビエトと戦後に衝突が起こると考え原爆の実用化を急いでいた
「国際的恐喝に利用されかねない原爆を獲得する競争で、ソビエトを勝たせてはならない」チャーチル

一方アメリカのルーズベルトは違った考えを持っていた

ルーズベルトの戦後の大きな目標はソ連との協調だった
ルーズベルトは戦後もイギリスとは軍事同盟を維持しながら
同時にソビエトとの協調も必要になると信じていた




我々はとりわけ日本の存在を忘れてはならない
日本を償わせるためにどれだけの時間や努力が必要とされるのか(チャーチル)


最終的に原爆が使用可能になったとき
おそらく日本に使用することになろう
「ハイドパーク協定1944.09.18」

ハイドパーク協定
ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が1944年9月18日、米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆使用と将来の核管理について申し合わせたもので、1972年に初めて公開された秘密協定である。




1945.02.04~11
ヤルタ会談


ソ連は対日参戦を条件に南樺太や千島列島などを要求【ヤルタの密約】


ソ連参戦は日本を確実に降伏させるための作戦
このとき、原爆が本当に実用化できるか誰にもわかりませんでした
終戦へのあらゆる戦略を練ったのです

1945.04.12
フランクリン・ルーズベルト死去

1945.05.08
ドイツ降伏

歓喜に沸く群衆にもまれながら私の心は将来の懸念でいっぱいになっていった
事態にはもう一つの局面があった。日本がまだ征服されていなかった
原子爆弾がまだ生まれておらず世界は混沌としていた

私の目にはソビエトの脅威がナチスにとって代わっているように見えた
(チャーチル)


ニューメキシコ州ロスアラモス

1945.05.10
目標検討委員会(原爆投下目標の選定)

第2回議事録

兵器を使用する際、これを劇的なものにし
その重要性を国際的に認識させること

「原爆の被害が大きいほど好都合だ」チャーチル


ウィリアム・ペニー 爆風研究の専門家

衝撃波「マッハ-ステム」原爆を起爆させる高度が重要議題だった


戦局を左右する実験情報も
クラウス・フックスによってソビエトに伝えられていた

「実験は7月10日ごろ行われる」
「成功すれば原爆は早急に実際の戦闘で試される」


この情報がスターリンに「日本との戦いに参戦すべきだ」と決意させた

「原爆投下前に対日参戦できるのか」これがスターリンの課題(関心事)だった


チャーチルはトルーマンから原爆投下の同意を求められ
ためらうことなく同意した

ケベック協定 第二 互いの合意なしに第三者に使用しない

英米はソビエト参戦前に原爆投下で戦争を終わらせようとする
スターリンに日本の領土を渡さずに済むからだ

1945.07.16 原爆実験(プルトニウム爆弾)

ポツダム会談(1945.07.17-08.02)

7.17スターリンはチャーチルに日本がソビエトに
和平の仲介提案をしていることを伝えた
スターリンは対日参戦する意向をチャーチルに伝えた

チャーチルも日本の和平提案をすでにつかんでいた
日本の電報が解読されチャーチルに報告されていたのだ
チャーチルも和平に応じないことを告げた

チャーチルは外交的な終結を望まず
日本人には罰を下す必要があると考えていた

07.18 原爆実験の成功の報

トルーマンの日記
マンハッタン(原爆)が日本の上空で爆発すれば日本は間違いなく降伏する

対日戦の終結にはもはやソ連を必要としなくなった(チャーチル)


トルーマンは大胆になりスターリンに対し強気の外交交渉を進める
これはチャーチルにとって好都合だった

我々はソビエトとのパワーバランスを回復するものを手に入れた
ドイツ降伏後、不安定だった外交が原爆の力で一変する
今後ソビエトにあれこれ言われれば、モスクワを消せばいいのだ

(陸軍元帥アラン・ブルックの日記)

07.24トルーマンはスターリンに実験のことを伝えた

トルーマンは「新兵器を手に入れた」と言いました
スターリンを怖がらせようと思ったのです
しかしスターリンの反応はトルーマンの予想とは違いました
スターリンは冷静でした。なんの反応もありませんでした
スターリンはすでに知っていたからです




2人の国家元首の話し合いは間もなく終わってしまった
トルーマンが私のそばに姿を見せた
「どうでいしたか?」と私は尋ねた
「スターリンはひとつも質問をしなかった」とトルーマンは答えた
私はスターリンが自分お知らされていることの重要な意義を
まるでわかっていないと確信した

しかし、その重要性を知っていたスターリン
すぐに側近を集め会合を開いた

スターリンの言葉を側近が回想している

我々は同盟国だったはずだ
米英は我々が当分の間、原爆を開発できないことを望んでいるに違いない
そうやって時間稼ぎをして自分たちの計画を押し付けようというのだ
だが、そうはさせない

スターリンがしたのは対日参戦の予定を繰り上げることであった

07.25 原爆投下の承認
07.26 ポツダム宣言発表
日本はこれを黙殺(イグノア)

08.06広島に原爆投下
08.09ソ連対日参戦
08.09長崎に原爆投下

08.10トルーマンの声明

戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した
アメリカ国民も同意してくれると思う

原爆を使用すべきかどうかについて一刻の議論の余地もなかった
1、2度の爆発の犠牲によって圧倒的な力を顕示する
我々があらゆる苦労と危険を経験してきた後では
奇跡的な救いのように思われた(チャーチル)

08.15日本降伏


第6章 終わりなき核の時代へ



ルドルフ・パイエルス


1946年マクマホン法
外国への原子力技術の移転を禁止

1949年ソビエト核実験に成功
クラウス・フックスからの機密情報

1952年アメリカ水爆実験成功
1953年ソビエト水爆実験成功

クラウス・フックス1950年ソビエトのスパイであることを自白
イギリスで裁判に。英国籍をはく奪され9年の服役後
東ドイツで暮らした

戦後私はソビエトの政策に疑問を抱くようになった
私の行いをもたらした被害を修復できるよう努めたい
だが過去にはもう戻れはしない
(クラウス・フックスの裁判記録)

目標検討委員会メンバー ウィリアム・ペニー(爆風研究)
戦略爆撃調査団の中心メンバーとして長崎をおとずれている

当時珍しかった鉄筋コンクリート造の城山国民学校を調査
建物強度と中にいた人の死亡率の関係を記録した

核戦争の防衛計画を立案

1952年イギリス核実験成功(責任者ウィリアム・ペニー)
イギリスの原爆の父と呼ばれた



原爆開発にかかわった研究者を研究する
東京工業大学
山崎正勝名誉教授

イギリスから見たらウィリアム・ペニーは英雄かもしれない
しかし、日本から見たら



神は私になぜ原爆を使用したのかたずねられるかもしれない
しかし自己弁護させてほしい
人類が熾烈な戦いの最中にあった時に
なぜ神はこの知識を私たちに与えたのだろうか
(チャーチル)


もし原爆が日本に投下されていなかったら
戦後の世界の様相は違っていたでしょう

原爆投下は第二次世界大戦の終わりではなく冷戦の始まりでした
チャーチルが原爆開発を主導したことを考えれば
核の軍拡競争の責任はチャーチルにあります
(ジョージメイソン大学マーティン・シャーウィン名誉教授)







 アメリカのアヘン密輸の中心人物は、マサチューセッツ州の捕鯨の町、フェアヘイブン出身で広州最大手の「ラッセル・アンド・カンパニー」を率いたウォーレン・ディラノ(1809〜98)、第32代大統領フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(在任1933〜45)の母方の祖父だ。

フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano, 1854年 - 1941年)は、フランス系プロテスタント教徒(ユグノー)であり、デラノ一族は阿片戦争の頃から中国(清)とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり、ジェームズは再婚で、フランクリンが誕生したとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた。




miyakuma at 07:58│Comments(0) 安全保障 | 軍事

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