筆者は廃墟マニアではないが、先日、これがそうなのかと思われるところに行った。前号で、今は消えてしまった北海道の金山について触れたが、そのひとつ、手稲金山の跡地が筆者の拙宅から近いことがわかり、出向いてみた。
そこでも選鉱場跡はまさしく廃墟だった。人がやってくることを想定していないから、案内板や掲示板など全く無い。「一応注意しましたよ」的な、立ち入り禁止の看板があるだけ。ルートは自分で調べるしかない。街中からそれほど遠くないとは言え、そこは山の中である。誰とも出会うことが無かった。筆者、たった一人での探訪。もし、熊が出てきて襲われたら、もし途中で転んで骨折でもしたら等々、ビビリながらの散策だった。
それにしても今回の「今昔」はドラスティックだった。手稲金山の一帯には、一時期5,000人ほどの住民がいたらしいが、今はゼロ・・・。まるで神隠しにあったかのように、“そして誰もいなくなった“のである。ともかく、そのときに撮りためた写真をもとに報告させてもらいたい。
「鉱山の部屋」に寄る
札幌から小樽へ向う途中に手稲という街がある。今は札幌市手稲区である。国道5号線で手稲の中心地を過ぎて、さらに小樽寄りに10分ほど進んだあたりに「手稲鉱山通り」というバス停があるが、ここが元手稲鉱山の入口だ。
その通りは山側に向かって伸びているが、途中でY字状に二手に別れる。その右手方向は昔、金山の本坑道があったエリア至る。左手は、その廃墟ぶりがいかんなく発揮されている選鉱場に至るルートである。
まずは右手方向に行く。つまり金山の中枢があったところだ。いきなりでナンだが、奥の坑道入り口を目指したが、途中であきらめた。その理由は後述。しかし、その手前、2Kmくらいのところまでは行きました。
その前に、途中のあるところに寄った。そこは「手稲西小学校」。そう、小学校である。なぜかというと、そこには「手稲金山」にちなんだ展示施設、名称が「鉱山の部屋」があるからだ。前日、電話で見学を申し込み、快諾いただいた上で訪問した。教頭先生、有難うございました。
博物館といっても、教室のひとつ(たぶん)を展示スペースとして使っているもので、それほど広くない。しかし、展示物は、なかなか見ごたえがある。昔の資料や、写真パネル、鉱物のサンプル、生徒が書いた年表や絵等々、盛りだくさんである。何故、この小学校にあるかというと、ここは昔、鉱山の住民の子弟が通っていた学校だったから。別名「鉱山小学校」とも呼ばれたらしい。
これがその入り口。フリ仮名付きなのが、いかにも小学校という感じですね。

当時の作業の様子を再現したもの。

鉱物のサンプル。背後の絵は生徒が書いたもの。

昔の金山の様子がわかる写真パネルも展示されていた。
選鉱場。ここは採取した鉱物の原石を選別するところです。ここが後年、廃墟と化す。

選鉱プロセスの最後の工程である沈殿池。ここも今や雑草が茂った更地になっている。そのあたりは後述。

金山入り口に向かう
ところが、現地に来てみて分かったことがあった。
・ 以前、金山の中枢だったところは、現在でも何かの用途(エコなんとか)に使われており、三菱マテリアル所有の私有地であること。となると、そこに勝手に入ることは出来ない。ましてや本坑道入り口あたりの見学は難しそう。
・ 西小学校から、終点(つまり昔の本坑道があったあたり)までは近くない。4Kmくらい。そんな距離を歩く装備はしてなかった。
・ しかも、このあたりで最近、熊が出没したとかで、要注意との看板を数度見かけた。おまけに、数ヶ月前だろうか、80代の男性がキノコ取りか何かで手稲山に立ち入り、遭難し、死体で発見されたナンテ事件もあったことも思い出して弱気になった不肖宮の沢、途中(2Km地点あたり)で引き返すことにした次第です。
そんなわけで、こちらのパートはサエナイ報告になるが、それなりの発見もあった。
ここが「奥の院」への入り口。「立ち入り禁止」だけど入れますよね。関係者以外、入ろうとする物好きな人などほとんどいない、ということか。



しかし、ここから少し行ったあたりに、昔の坑道入り口と思われるところがあった。初期に使われて、その後閉鎖されたのだろうか、山に押しつぶされて、ほとんどふさがっている。

しかも、それが数ヶ所もあった。

そして「手稲鉱山」のバス停に戻る。

ここには昔、下の写真の注記にあるように「映画館、JRバスの手稲鉱山停留所に建っていました」とあるところ。

昔、住宅があったあたり。

昔はこんな感じだったのだろう。

選鉱場跡に行く
空振りに終わった金山の中枢行きだが、こちらはそうではなかった。大迫力の廃墟にお目にかかれたのである。
それがこれ。手前の原っぱが沈殿池があったところだろう。

なかなかの迫力である。金山が稼動していたときは、このコンクリートの上に木造の施設があった。しかし、閉山により、それらは取り壊され、あるいは朽ちて無くなり、基礎部分が荒れるにまかせて残ったということなのだろう。

近づくと、その廃墟度(?)が増してくる。



中に入ってみる。

上から雑木でも突っ込んだのだろうか。不気味さが漂う。

廃鉱物がばら撒かれたのだろうか、地面(コンクリート面?)が変色している。これも不気味である。

さらに上に行ってみるが、もちろん廃墟しかない。




このあたりから手稲の町と石狩湾が見える。

一通り見学を無事終えて国道方面へもどる。手前に高速道路があり、そこのパーキングエリアの名前が「金山」(ここでは”かなやま”と呼ぶらしい)。また近傍の住宅街の住所が”金山”とある。説明するまでもないが、近くに金山鉱があった名残である。


廃墟の迫力
それにしてもこの廃墟なるものの迫力と言おうか、不気味さはどこから来るのか。それらは人工物だったが、今は全く機能していない。数十年前には人々が住み、労働していた空間だ。しかし、今は誰もいない。
そこに行き、静けさのなかにひたっていると、かっての華やかさの残像、人々のざわめきが、まるで幻聴のように聞こえるような気がする。なにか幽霊、あるいはミイラのような存在、それが廃墟なのだろうか。
冒頭、筆者は廃墟マニアではないがと書いたが、そうなってしまいそうな感じである。しかし、高齢者の廃墟歩きは危なさそうだ。気をつけるとしましょう。
そこでも選鉱場跡はまさしく廃墟だった。人がやってくることを想定していないから、案内板や掲示板など全く無い。「一応注意しましたよ」的な、立ち入り禁止の看板があるだけ。ルートは自分で調べるしかない。街中からそれほど遠くないとは言え、そこは山の中である。誰とも出会うことが無かった。筆者、たった一人での探訪。もし、熊が出てきて襲われたら、もし途中で転んで骨折でもしたら等々、ビビリながらの散策だった。
それにしても今回の「今昔」はドラスティックだった。手稲金山の一帯には、一時期5,000人ほどの住民がいたらしいが、今はゼロ・・・。まるで神隠しにあったかのように、“そして誰もいなくなった“のである。ともかく、そのときに撮りためた写真をもとに報告させてもらいたい。
「鉱山の部屋」に寄る
札幌から小樽へ向う途中に手稲という街がある。今は札幌市手稲区である。国道5号線で手稲の中心地を過ぎて、さらに小樽寄りに10分ほど進んだあたりに「手稲鉱山通り」というバス停があるが、ここが元手稲鉱山の入口だ。
その通りは山側に向かって伸びているが、途中でY字状に二手に別れる。その右手方向は昔、金山の本坑道があったエリア至る。左手は、その廃墟ぶりがいかんなく発揮されている選鉱場に至るルートである。
まずは右手方向に行く。つまり金山の中枢があったところだ。いきなりでナンだが、奥の坑道入り口を目指したが、途中であきらめた。その理由は後述。しかし、その手前、2Kmくらいのところまでは行きました。
その前に、途中のあるところに寄った。そこは「手稲西小学校」。そう、小学校である。なぜかというと、そこには「手稲金山」にちなんだ展示施設、名称が「鉱山の部屋」があるからだ。前日、電話で見学を申し込み、快諾いただいた上で訪問した。教頭先生、有難うございました。
博物館といっても、教室のひとつ(たぶん)を展示スペースとして使っているもので、それほど広くない。しかし、展示物は、なかなか見ごたえがある。昔の資料や、写真パネル、鉱物のサンプル、生徒が書いた年表や絵等々、盛りだくさんである。何故、この小学校にあるかというと、ここは昔、鉱山の住民の子弟が通っていた学校だったから。別名「鉱山小学校」とも呼ばれたらしい。
これがその入り口。フリ仮名付きなのが、いかにも小学校という感じですね。

当時の作業の様子を再現したもの。

鉱物のサンプル。背後の絵は生徒が書いたもの。

昔の金山の様子がわかる写真パネルも展示されていた。
選鉱場。ここは採取した鉱物の原石を選別するところです。ここが後年、廃墟と化す。

選鉱プロセスの最後の工程である沈殿池。ここも今や雑草が茂った更地になっている。そのあたりは後述。

金山入り口に向かう
ところが、現地に来てみて分かったことがあった。
・ 以前、金山の中枢だったところは、現在でも何かの用途(エコなんとか)に使われており、三菱マテリアル所有の私有地であること。となると、そこに勝手に入ることは出来ない。ましてや本坑道入り口あたりの見学は難しそう。
・ 西小学校から、終点(つまり昔の本坑道があったあたり)までは近くない。4Kmくらい。そんな距離を歩く装備はしてなかった。
・ しかも、このあたりで最近、熊が出没したとかで、要注意との看板を数度見かけた。おまけに、数ヶ月前だろうか、80代の男性がキノコ取りか何かで手稲山に立ち入り、遭難し、死体で発見されたナンテ事件もあったことも思い出して弱気になった不肖宮の沢、途中(2Km地点あたり)で引き返すことにした次第です。
そんなわけで、こちらのパートはサエナイ報告になるが、それなりの発見もあった。
ここが「奥の院」への入り口。「立ち入り禁止」だけど入れますよね。関係者以外、入ろうとする物好きな人などほとんどいない、ということか。



しかし、ここから少し行ったあたりに、昔の坑道入り口と思われるところがあった。初期に使われて、その後閉鎖されたのだろうか、山に押しつぶされて、ほとんどふさがっている。

しかも、それが数ヶ所もあった。

そして「手稲鉱山」のバス停に戻る。

ここには昔、下の写真の注記にあるように「映画館、JRバスの手稲鉱山停留所に建っていました」とあるところ。

昔、住宅があったあたり。

昔はこんな感じだったのだろう。

選鉱場跡に行く
空振りに終わった金山の中枢行きだが、こちらはそうではなかった。大迫力の廃墟にお目にかかれたのである。
それがこれ。手前の原っぱが沈殿池があったところだろう。

なかなかの迫力である。金山が稼動していたときは、このコンクリートの上に木造の施設があった。しかし、閉山により、それらは取り壊され、あるいは朽ちて無くなり、基礎部分が荒れるにまかせて残ったということなのだろう。

近づくと、その廃墟度(?)が増してくる。



中に入ってみる。

上から雑木でも突っ込んだのだろうか。不気味さが漂う。

廃鉱物がばら撒かれたのだろうか、地面(コンクリート面?)が変色している。これも不気味である。

さらに上に行ってみるが、もちろん廃墟しかない。




このあたりから手稲の町と石狩湾が見える。

一通り見学を無事終えて国道方面へもどる。手前に高速道路があり、そこのパーキングエリアの名前が「金山」(ここでは”かなやま”と呼ぶらしい)。また近傍の住宅街の住所が”金山”とある。説明するまでもないが、近くに金山鉱があった名残である。


廃墟の迫力
それにしてもこの廃墟なるものの迫力と言おうか、不気味さはどこから来るのか。それらは人工物だったが、今は全く機能していない。数十年前には人々が住み、労働していた空間だ。しかし、今は誰もいない。
そこに行き、静けさのなかにひたっていると、かっての華やかさの残像、人々のざわめきが、まるで幻聴のように聞こえるような気がする。なにか幽霊、あるいはミイラのような存在、それが廃墟なのだろうか。
冒頭、筆者は廃墟マニアではないがと書いたが、そうなってしまいそうな感じである。しかし、高齢者の廃墟歩きは危なさそうだ。気をつけるとしましょう。
ここでひとつ小ネタを。
実は、ここで仮面ライダーの撮影がおこなわれたことがありました。
ショッカーが鉱山に陣取り、なかなか迫力があり、地元がテレビに出てきたワクワク感は今でも覚えています。