2011年07月25日

精神疾患へのアプローチ再考 \鎖整緡鼎慮従

※この記事は柿谷カウンセリングセンターのホームページの記事を転載させて頂いています

http://www.choicetheory.net/kcc/alternativeapproach.html

精神疾患へのアプローチ再考

柿谷正期

はじめに
  旧ソ連の精神科医が、統合失調症と診断された患者に対して施している治療は、ある種の拷問であるとの見方が1980年代に西欧諸国に広まった。1970年代にソ連の精神刑務所に政治的理由で幽閉されていたロシアの科学者の一人が、ハルドールを処方され、その恐怖体験について述べている。

「日が経つにつれ私は自らが知的、道徳的、情緒的に崩壊していく恐怖を体験した。私の政治問題に対する興味は急激になくなって行った。そして、科学的問題に対する興味もなくなって行った。それから自分の妻や子どもに対する興味すらなくなって行った。」(Gosden, p.219)

ハルドールはソ連が作り出した抗精神病薬ではない。アメリカが作り出した薬である。そして1955年には米国市場で抗精神病薬の24パーセントを占めていた。ソ連で使えば拷問で、米国で使えば治療薬ということなのだ。ソ連で人々を無気力にするために使われている同じ薬が、他の国では患者を癒す薬として使われている。ちょっと視点を変えてみると、精神疾患の薬物療法は、国連の定義する拷問ではないのだろうか。

薬物療法だけではなく、それに先立つ精神疾患の治療の歴史は、問題だらけと言えるような状態である。その実態を概観してみよう。米国を中心に精神病の治療の歴史を見、その後日本の歴史にも触れようと思う。
国によってはベンゾジアゼピン系の睡眠薬ハルシオンを認可していない国もあり、国によって若干の対応の差はあるものの、他の先進国での治療の歴史はそれほど変わったものではなく、米国の治療の歴史を見れば、世界全体の動きが見えて来る。ロバート・ホイタカー(Robert Whitaker)はアメリカの精神疾患治療の歴史を4期に分けて、1750〜1900年を「混乱期」、1900〜1950年を「暗黒期」、1950〜1990年代を「混乱期への回帰」、1990年代〜今日までを「狂気の薬物治療期」としている。その分類に従ってそれぞれの期の特徴を概観してみよう。

精神疾患の治療の歴史をたどってみると、あるものは実に残酷としか言えないものがある。昔こんな治療が行なわれていたのかと唖然としてしまう。
これから100年後、今の治療を知って、やはり今の治療のやり方に唖然とする人も少なくないのではなかろうか。

混乱期(1750〜1900)

最初のモラール・トリートメント(道徳療法)をおこなう精神病院がアメリカで開設されたのは1817年であった。良好な結果を生み出し、退院する患者が増えていった(Whitaker、p.27)。
モラール・トリートメントは原則小規模で多くても250人以下で、自然に触れる機会があり、患者は花壇の手入れをし、園芸にいそしむことができた。職員との人間関係は温かく、友好的で、職員は共に食事をして係わるのが普通であった。日中は忙しく活動しているので、狂った考えをしなくてすむようになっていた。講演会も音楽会も企画され、レクリエーションや教育の機会が提供されていた。こうした施設の施設長は医師ではなかった。このような施設で患者の50%以上が改善して退院するようになっていた。施設によっては60%、80%がよくなって退院をしていたとの報告もあった。

  1844年アメリカでこのような施設の運営を規制する法律が通過して、施設の長は医師でなければならなくなった。このときからそれまで有効な治療を施していた施設が悪化の一途を辿ることになる。アヘンやモルヒネが治療薬として使われるようになり、薬物による化学的な拘束がやがては身体的拘束をも受け入れられる土壌を作って行った(Whitaker、p.29)。

  1874年までに精神病院は巨大化して、432人の患者が平均的となった。3分の1の病院は500人以上の患者を収容し、ある精神病院は1000人を越す患者を収容していた。次第にリクリエーション、教育的なプログラム、観劇は病院から姿を消すことになる。クエーカー教徒が意図した施設とはかけ離れたものとなり、モラール・トリートメントは行なわれなくなった。

  精神疾患の治療に大きな打撃をもたらしたものは南北戦争後であった。自らのアプローチをより科学的であると自認する神経学を専門とする医師たちが、これまでの精神病の治療のあり方を非科学的と評し始めた。精神病院もこれまでの治療方針を新しい、より科学的なものにするという決意を表明し、それまでの愛と共感によって内側から治癒力が生じる援助を提供するという理念が失われて行った。アメリカではここから精神病治療の暗黒時代が始まる。

暗黒期(1900〜1950)

チャールズ・ダーウィンの従兄弟にあたるフランシス・ガルトン(Francis Galton)は、資産家の家に生まれ、遺産を相続してゆとりのある生活ができる身分であった。彼は優生学に興味を抱き、当時の農業従事者が優れた植物を交配させて優秀な種子を作ること、また家畜の交配を意図的に行なうことによって優秀な子孫を残す方法が成功していたことを理由にして、人間の中にも子孫を残してはならない者がいることを主張するようになった。

精神疾患を持つものに対して、結婚を禁じ、不妊手術を施す動きが始まった。「間違った科学は間違った法律の土台となった」(Whitaker、P.59)。第二次大戦の前には、強制的な断種手術を行なわれた人は、ドイツで40万人、米国で3万人と言われている(Johnstone,p.155)。ナチスドイツは、1940年に精神病患者をガスで虐殺するようになり、1年半で7万人の精神病患者をガスで虐殺した(Whitaker、p.66)。

1930年代のアメリカ、ニューヨークの精神病院の患者の死亡率は、一般の5倍であったと報告されている(Whitaker、p.68)。なかでも20歳から24歳までの若者の死亡率は、一般の同年齢と比較すると15倍であった(Whitaker、p.69)。優生学の関与を否定できない。
1930年代にアメリカ医学会(AMA)は、精神病院の調査を開始した。ジョン・グリムズ(John Grimes)がその任にあたり、174の州立病院を直接訪問し、調査した。その報告は暗いものであった。病院は入院患者で満杯状態、病院の職員は看守のようであった

  統合失調症にはインシュリンコーマ療法、そううつ病にはメトラゾール発作療法が適しているとされていたが、この二つを順番に施す療法がなされるようになった。そのうちけいれん発作そのものを電気で作り出す電気ショック療法がイタリアの精神科医サーレッチー(Ugo Cerletti)によって考案された。電気ショックによってもたらされる記憶喪失について、インシュリンコーマ療法を発案したセイケルは、知的レベルが低下することを指摘し、「記憶喪失が大きければ大きいほど、脳の損傷は大きい」としている(Whitaker、p98)。電気ショック療法は患者の同意なしで行なわれた。ときに患者の行動が受け入れられないものであると、2倍強力な電気ショック療法が行なわれた。1940年代から1950年代にかけてアメリカの多くの精神病院では、電気ショック療法は普通の治療法となったが、患者にとっては拷問の手段としてとらえられることが多かった。

  インシュリンコーマ療法、ソトラゾール発作療法、電気ショック療法は、脳全体に影響を及ぼすもので、例えれば時計を修理する目的で、金槌で時計をたたくようなものであった。しかし、この時期に、より科学的とされる療法が精神病院で行なわれるようになった。モニッツ(Egas Moniz)によって発案された前頭葉ロボトミー(脳葉手術)である。彼は1949年にノーベル賞を受賞している。 
 ロボトミーによって悪くなった患者はいないとモニッツは報告しているが(Whitaker、p.114)、事実はそうではなかった。アメリカではフリーマン(Walter Freeman)がワッツ(James Watts)と共にロボトミーを手がけ、その結果を良好と報告しているが、その後の状態を調査してみると、喪失したはずの症状をぶりかえし、何度も手術をする必要が出ており、結果は必ずしも良好なものではなかった(Whitaker、p.117)。

アメリカでは1936年から1955年の間に5万人もの人がこのロボトミーの手術を受けたと言われている(Johnstone,p.154)。

 フリーマンはトランスオービタル・ロボトミーを開発し、短時間で多くの手術を可能にした。麻酔を使わずに、電気ショックで眠らせている間に、手術用のアイスピックを両目の上に突き刺すというやり方である。
混乱期への回帰(1950〜1990年代)

1950年代になると、薬物療法が主流となった。クロルプロマジン(米国商品名 ソラジン、日本商品名 ケセラン、セレネース)がアメリカ市場に紹介されたのが1954年5月であった。この薬は1800年代にはフェノチアジンとして知られていた。この薬から、1950年にクロルプロマジンは合成された。フェノチアジンは当初合成染料であったが、1930年代に豚の寄生虫駆除に使われるようになった。当初は脳の働きを妨げるものとして知られていたが、今や抗精神病薬として使われている。精神疾患のある者を断種手術、インシュリンコーマ、電気ショック、ロボトミーによって対処してきた精神医療の歴史のなかで、薬物療法は安価な化学的ロボトミーとして主流の地位を占めて行った。北米で最初にクロルプロマジンを使ったモントリオールの精神科医レーマン(Heinz Lehmann)は、「薬理学はロボトミーに代わる療法」になると推測した(Whitaker、p.144)。

ウインケルマン(William Winkelman)は「この薬は前頭葉に対するロボトミーと同じ効果をもたらす」と言っている。この薬の副作用としてパーキンソン病に似た症状が出るので、以前けいれん発作と精神異常が共存しないと思われたことがあったのと同じように、パーキンソン病と統合失調症は共存しないのではないかと思われた。薬物療法を支持する論文が学会誌に発表され、学会誌への製薬会社からの広告収入が増大するにつれ、アメリカ医学学会の当初の薬物への検閲機能が低下して行った。

ホイタカーの調査によると、論文が製薬関係者によって書かれ、それが医師の名前で学会誌に掲載されることも少なくなかったようである(p.149)。1956年と1957年に入院した患者について、カリフォルニア州精神衛生局が調査をし、薬物療法を受けた患者の入院日数は必ずしも短くないことが報告された。しかしこれは注目されることもなく、薬物療法で入院日数は減少しているとするブリル(Henry Brill)とパットン(Robert Patton)の主張が受け入れられた。

ドイツの精神科医クレペリン(Emil Kraepelin)が早発性痴呆症と名付け、後にブロイラーによって統合失調症と命名されたのであるが、1800年代クレペリンが研究していたときには脳炎の存在はまだ知られていなかった。一時期梅毒は狂気を伴う恐ろしい病気として精神科領域で治療対象であったが、抗生物質で治療できることが判明して、精神科領域から内科領域に移された。クレペリンの研究対象患者の中には、脳炎のような器質的疾患を抱えていた患者が混入していたというボイル(Mary Boyle)の指摘は看過できない(Whitaker、p.165)。

統合失調症の診断の正確さについても異論がある。1940年代の英米の精神科医の診断を比較してみると、アメリカの精神科医の69パーセントが統合失調症と診断したのに対して、イギリスの精神科医の2パーセントしか統合失調症と診断しなかったという調査がある(Whitaker、pp.168)。血液検査やX線のような客観的な検査方法がないので、医師、病院、国によって違った結論が出ているのが実情である(Johnstone,p.77)。

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