(以下の記事はあくまで私見であり、私が自分自身の考えをまとめるために書いたメモのようなものです。暖かな目で読んでいただければ幸いです)
学校教育では「目的を持って勉強しなさい」といわれる。たしかに、それは一見、正しい論理のように思えるし、また目的をもって学習したほうが効果と達成率が高いように見える。
しかし、それは本当に正しい論理なのだろうか。
そもそも、人はなぜ学ぶのか。
なにかの技術者??たとえば大工??になろうとした場合、そのために必要な技術を習得する必要がある。
コンピューター技術者、デザイナー、音楽家、弁護士、役人、会社員、ナレーター、声優……すべての職業には、その職業に必要な技術や知識というものが存在する。それを身につけなければその職業につけないことは確かだ。だから、人はそのために勉強し、技術習得をする。
しかし、そのことと、人として「学ぶ」ということは別のことかもしれない、と最近考えはじめている。
現場を見ていて、そう考えるようになったのだ。
私の「現場」というのは、朗読表現を学ぶ場=現代朗読協会のワークショップやゼミのことである。私はそこで指導者というよりは演出家、コーチといったアドバイザー的立場を取っている。学びはあくまで、参加者の自主的な「気づき」に任される。自主的な気付きを生みだすために、私はアイディアを提示して、みなさんにいろいろなことを試してもらう。
ところで、「朗読を学ぶ」というのはどういうことだろうか。
朗読を学んで知識や技術を習得すれば、ある職業について収入を得ることができるようになるだろうか。たとえば「朗読家」といった高収入を得られる職業に?
いまのところ、それはなかなか難しいようだ。
たしかに、世の中には朗読公演をおこない、多くの観客を集め、高額のチケットを売って、高収入を得ている人がいくらかはいる。しかし、彼らは高収入を得るために朗読公演をおこなっているのだろうか。
違うと思う。いや、なかにはお金目的で朗読公演をやる人もいるかもしれないが(プロモーターやマネージャーはもちろんここでは別の話)、基本的には「ひと前で自分を表現したいというやむにやまれぬもの」に突き動かされて朗読をしているのではないだろうか。
これは朗読に限らず、音楽でも演劇でも、絵画でも小説でも、なんらかの表現をおこなっている多くの人にいえることだろう。
彼らはなぜ「学ぶ」のか。
いや、「彼ら」と限定してはいけない。「人は」と私はいいたい。なぜなら、人はなんらかの職業を得て生活の糧とする以前に、生きて人と関わる存在である以上、必ず自分を表現したい、表現者でありたいという欲求を(潜在的にせよ)持っているいきものであるはずだからだ。
話がややこしいのは、私の「現場」には、そういう表現欲求に突き動かされてやってくる人と、職業的知識/技術/あるいはその他の利益を求めてやってくる人が混在してしまう、ということだ。
技術習得のためだけにやってくる人は、お金を払ってそれに見合うだけのものを身につけようとする。ある対価を支払って、それに見合うだけの技術を習得するというのは経済原理であり(その原理においては正しい商行為)、等価交換が成立することがそこには求められる。そのお金の出所が自分であれば、それを回収し、それ以上の収益を生むだけの技術習得がなければならない。お金の出所が自分でない場合(親とかパートナー)、彼らに説明できるだけの技術習得や目に見える形での収入向上がなければならない。
対価に見合っただけの技術習得ができた、あるいはできない??すなわち等価交換が成立しないと判断されれば、あっさりと来なくなる。
しかし、表現衝動に突き動かされ、ただ自分の表現行為を向上させたい、もっといえば自分自身を高めたい、と思って来る人たちは、お金は払っても、それは等価交換のためではない。その場に参加する、あるいはその場そのものを存続させるための「方便」としてお金を払っているにすぎない。
振り返って自分のことを考えてみると、私自身は大学も出ていなければ、その後専門学校にも通っていない。音楽も小説も朗読も、だれか先生について学んだという経験はない。「師匠」と呼べる人もいない。しかし、だからといってなにも学ばなかったかといえば、そうではないと胸を張っていえる。とにかく、いつも勉強していた。いまもそうだ。
なにかの目的のために勉強するのではなく、ただ自分を一歩たりとも前に進めたいがために勉強するのだ。これとて私がこじつけた理由にすぎないかもしれない。ただ衝動にかられて勉強することにかじりついているだけのような気もする。
数年前に亡くなった元帝国ホテルシェフの村上信夫さんは、学歴はないが大変な勉強家だったそうだ。亡くなったその日も、枕元にフランス語の勉強のためのカセットテープが置いてあったそうだ。
そんな年寄りになって、しかも死ぬ間際になってフランス語を勉強して、いったいなんの役に立つの? そう思う人もあるかもしれない。しかし、その発想は経済原理主義に侵されている。村上さんにとって、なんの役に立つのか、ということよりも、自分が死ぬ間際までとにかく勉強しつづける人間である、ということが重要だったに違いない。
昨日は松本清張展に行ってきたが、彼もまた尋常高等小学校しか出ていなかった。彼もまた、死ぬまで勉強しつづける人間だった。
そういう姿勢を持っていた人が、元気に生きている間にどのようにものごとに取りくんでいたのか、おのずと知れようというものだ。
私の「現場」にいま来ている人の顔ぶれを見ていると、数学者、カメラマン、サラリーマン、主婦など、さまざまだ。
「なぜ朗読をやろうと思ったの?」
と聞かざるをえないような顔ぶれだ。しかし、それも上記のように考えてみるとよくわかる。彼らは自己の表現と向上を願う人たちであり、生きているあいだは常に学びに向かい、一歩でも前に進みたいと思っている人たちなのだ。
私の「現場」から去っていってしまった人たちに、もう一度いいたい。表現の仕事を続けたいなら、ただ職業的技術を身につけるためだけでなく、みずからの「学び」ということをもう一度真剣に考えてみてほしい。
学びは経済原理のなかでは決して考えることのできない、人間の基本的な生き方であると、私は思う。