よろず大学 ~General Campus~

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  20019月、衝撃的なニュースが流れた。米国同時多発テロである。4機の旅客機をハイジャックしたイスラム過激派が、ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンの国防総省に突入した。2棟の高層ビルは崩壊し、旅客機の乗客も含めて死者の総計が3,000名を超える大惨事となった。米国は国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラディンをテロの首謀者と断定し、ブッシュ大統領は「対テロ戦争」を宣言した。同年10月、ビンラディンの引き渡しを拒んだタリバンが支配するアフガニスタンに侵攻した米国は、さらに一歩踏み込んで米国防衛のための予防措置と先制攻撃の必要性を唱え、大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を開戦理由として、イラク侵攻へと突き進んだのである。

 20033月、米国・英国を中心とした有志連合軍は、フランス・ドイツ・ロシア・中国等の反対を押し切り、国連決議が得られないままに、イラクへの武力攻撃に踏み切った。有志連合軍は、圧倒的な軍事力で、短期間にイラクの各都市を制圧し、5月には「大規模戦闘終結宣言」が出され、フセイン政権は崩壊した。しかし、独裁政権の崩壊により、宗派間の対立や反米武装勢力のゲリラ活動等はかえって激化し、イラク国内の治安は急激に悪化した。2006年には米国の支援を受けて新政府が正式に発足し、同年末にはフセイン前大統領が処刑されたが、乱立する武装勢力による銃撃や爆弾テロ、拉致や暗殺などが頻繁に起こり、米軍の駐留は長期化した。この時期に組織された過激派組織「イラクのイスラム国」が、後のIS(イスラム国)の前身となる。戦争とテロの連鎖が、ここでもまた繰り返されたわけだ。結局、米軍のイラク撤退完了は201112月、開戦から8年以上の年月を要して、イラク戦争は一応の終結をみたのである。

 戦争における犠牲者数は、統計によって異なるため、正確にはわからないが、少なくともイラク軍5,000名以上、有志連合軍4,800名以上、イラク国内の民間人の犠牲者数は116,000名以上に達すると推定されている。もちろん、負傷者数はこの数倍に上るはずである。米国のイラク帰還兵の間には心の病が広まり、米国退役軍人省の統計によると、イラクとアフガニスタンの帰還兵260万人のうち5人に1人がPTSD(精神的外傷後ストレス傷害)を患ったことがあるという。帰還兵の自殺者は既に戦闘での米軍の死亡者数をはるかに上回り、帰還兵が関わったとみられる殺人事件も120件を超える。戦争は、勝利を収めた側にも、甚大かつ不可逆的な損傷をもたらしたのだ。

 小泉内閣はイラク戦争に際して、いちはやく米国支持の方針を打ち出した。そして、時限立法で成立させたイラク特措法に基き、人道復興支援活動と安全確保支援活動を軸として、「非戦闘地域」に限るという前提のもとで、自衛隊がはじめて戦争当事国に派遣されることとなった。2003年末に始まった自衛隊のイラク派遣は、特措法の期限延長を経て2009年まで続いた。この間に派遣された約9,200名の隊員のうち、29名が自殺したとの報告がある。これは一般職の公務員や他の自衛隊員の統計と比べると、かなり高い自殺率であると言える。戦死者こそなかったものの、「非戦闘地域」での任務が、隊員たちの心に大きな負担をかけたことは想像に難くない。現地での自衛隊の復興支援活動の評価は高く、2006年に共同通信社が自衛隊派遣地域のサマワ市民に対して行った調査では、8割近くの住民が、復興支援に満足していると回答したという。現場での隊員たちの尽力がうかがえる数字である。それだけに自殺率の高さには、やりきれない思いがする。
 イラク戦争は、中東のみならず、世界中に深い傷跡を残した。混乱の極から生まれた過激派組織ISは、隣国のシリアにも勢力を伸ばし、さらに各国の過激派組織と連携しながら、国際的な同時多発テロを拡大していく。中東の混乱は多くの難民を生み、トルコやギリシャ、地中海などを経由して、多くの難民がヨーロッパへと流れこんだ。国際移住期間の統計によれば、不法にEU国境を越えた難民は、2014年の1年間だけで28万名以上に及ぶ。難民の急激な増加への対応はEU諸国間の軋轢を生み、英国のEU離脱の一因ともなった。現代の国際社会を覆う問題のルーツの多くは、イラク戦争に端を発しているといっても過言ではないのである。


 1990年代前半のバブル崩壊から2000年代初頭に至るまで、日本経済は長期低迷を続けた。いわゆる「失われた10年」である。資産価格の大幅な低下によって銀行や企業の収益は悪化し、90年代後半には、山一証券・三洋証券・北海道拓殖銀行・日本長期信用銀行・日本債券信用銀行など、金融機関の破綻が相次いだ。バブル期の無理な投資がたたって、多くの金融機関が不良債権を抱え込んでいたのだ。
 1996年に始まった金融ビッグバンも、日本の金融機関を追い込んだ一因である。高度成長期の日本の銀行は「護送船団方式」と呼ばれる規制政策によって守られていた。「銀行は一行たりともつぶさない」というのが当時の大蔵省の方針であり、貸出金利から振込手数料に至るまで全てが横並びとなっていたのだ。しかし、グローバリゼーションの進む中で、日本の金融市場の開放を求める海外からの圧力もあって、橋本龍太郎内閣は金融改革を断行した。外資系の金融機関も含めた競争が激化する中で、銀行は国際競争力をつけるために合併を繰り返し、かつて13行あった都市銀行は4つのメガバンクグループに集約されていった。
 経済のグローバル化により、海外の経済危機も日本経済を直撃するようになった。特に1997年に起こったアジア通貨危機は、タイ・インドネシア・韓国などのアジア諸国の経済に大きな打撃を与え、その余波は日本にまで及んだ。この通貨危機は各国の実体経済の悪化ではなく、米国を中心としたヘッジファンドと呼ばれる機関投資家たちが自らの利益のために各国通貨の空売りを仕掛けたのが原因で起こったものであった。通貨自体が商品となり、国境を越えたボーダーレスな投機によって巨大な損益が生み出される時代となっていたのである。
 日本経済の低迷は労働市場にも大きく影響し、企業が新卒採用を控えた結果、1970年代生まれの「団塊ジュニア」世代は深刻な就職難に見舞われた。安価な労働力を求めて海外に生産拠点を移す企業が増えたのも、就職氷河期を生み出す一因となった。非正規雇用が増加し、長期にわたるデフレーションで100円ショップなどの安売り店が繁盛した。また、バブル期の派手な生活を見直し、地味で堅実なライフスタイルを求める価値観も広がりを見せた。そういう意味では、失われた10年は、それまでの価値観を見直す契機となったと言えよう。
 橋本内閣から政権を引き継いだ小渕恵三内閣、小渕首相の急死により後継となった森喜朗内閣のもと、行政改革が進み、中央省庁が1府22省庁から1府12省庁へと再編された。続いて小泉純一郎内閣によって進められた構造改革により、日本経済はようやく回復傾向を見せ始めた。そんな中、世界を震撼させた米国同時多発テロ事件が勃発したのである。
 

 1995年1月17日未明、阪神・淡路大震災が起こった。震源は明石海峡、地震規模はマグニチュード7.3、最大震度7の直下型巨大地震であった。死者6400名以上、負傷者4万名以上、家屋全半壊24万戸以上にのぼる大惨事となり、震災直後の2日間にわたる火災によって、神戸市長田区では区の中心部全域が灰燼と化した。鉄道や道路などの交通網が寸断され、電気・ガス・水道などのライフラインが止まり、埋め立て地は液状化して地盤沈下を起こし、都市機能と経済基盤が大きく損なわれた。被害は淡路から神戸・芦屋・西宮・尼崎・大阪と阪神一円に及んだ。
 当時の政府は未曽有の大災害に対して十分な想定をしておらず、初期対応が遅れた。その教訓から、緊急連絡体制の確保、情報提供システムの整備、安全基準の見直しなど、危機管理体制の充実が急務とされた。そして、震災の惨事の記憶も生々しい中、3月には東京の中心部で地下鉄サリン事件が勃発したのである。
 3月20日の朝、通勤ラッシュで混み合う地下鉄の3路線・5車両で、刺激臭を伴う猛毒ガスが発生。死者13名、負傷者6000名以上という、国内最悪の無差別テロ事件となった。警察は化学兵器サリンを使ったオウム真理教による組織的な犯行と断定。教祖の麻原彰晃(松本智津夫)はじめ、教団幹部・実行犯ら40名余りを逮捕した。捜査の過程で、未解決であった弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、公証人役場事務長監禁致死事件なども全てオウムの犯行であったことが証明され、オウム真理教が宗教法人の名を借りた巨大なテロ組織であったことが白日の下にさらされたのだ。
 サリン事件の被害者や目撃者の多くは、その後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむことになった。震災においても被災者にPTSDの症例がしばしば見られたが、地下鉄サリン事件の方は明白な悪意を持った無差罰テロ犯罪であり、それに巻き込まれた人々やその家族にとっては、より理不尽さを感じる出来事であっただろう。一方、事件の加害者であるオウム教団側には、医師や研究者など高学歴で社会的地位の高い者も多数含まれており、それがいっそう社会の不気味な病理を浮き彫りにしていたと言える。
 作家の村上春樹氏は、地下鉄サリン事件の被害者と家族への60名に及ぶインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」と、事件の加害者へのインタビューをまとめた「約束された場所で」を相次いで出版した。それぞれのあとがきで、彼はこう述べている。

<阪神大震災と地下鉄サリン事件というふたつの超弩級の事件が、短期間の間に続けて起こってしまったというのは、偶然とはいえ、まことに驚くべきことである。それもちょうどバブル経済が盛大にはじけ、右肩上がりの「行け行け」の時代がほころびを見せ始め、冷戦構造が終了し、地球的な規模で価値基準が大きく揺らぎ、同時に日本という国家のあり方の根幹が厳しく問われている時期にやってきたのだ。まるでぴたりと狙い澄ましたように。
 その二つの出来事に共通してある要素をひとつだけあげろと言われれば、それは「圧倒的な暴力」ということになるだろう。もちろんそれぞれの暴力の具体的な成り立ちはまったく異なっている。ひとつは不可避的な天災であり、もうひとつは不可避とは言えない<人災=犯罪>だった。それらを「暴力」という共通項でひとつにくくってしまうことに無理があるのはもちろんよくわかっている。
 しかしたまたま実際に被害を受けた側からすれば、それらの暴力の襲いかかり方の唐突さと理不尽さは、地震においても地下鉄サリン事件においても、不思議なくらい似通っている。暴力そのものの出所と質は違っても、それが与えるショックの質はそれほど大きく違わないのだ。サリン事件被害者の話を聞きながら、私はしばしばそのような印象を持った。
          (中略)
 それらはともに私たちの内部から——文字どおり足元の下の暗黒=地下(アンダーグラウンド)から——「悪夢」という形をとってどっと吹き出し、同時にまた、私たちの社会システムが内奥に包含していた矛盾と弱点とをおそろしいほど明確に浮き彫りにした。私たちの社会はそこに突如姿を見せた荒れ狂う暴力性に対して、現実的にあまりにも無力、無防備であった。我々はその到来を予測することもできず、前もって備えることもできなかった。そこで明らかにされたのは、私たちの属する「こちら側」のシステムの構造的な敗退であった。
 言い換えれば、我々が平常時に<共有イメージ>として所有していた(あるいは所有していたと思っていた)想像力=物語は、それらの降って湧いた凶暴な暴力性に有効に拮抗しうる価値観を提出することができなかった——ということになるだろう。>
     (村上春樹「アンダーグラウンド」より)

<私がオウムの信者、元信者のインタビューを続けていて、その過程で強く実感したのは、「あの人たちは『エリートにもかかわらず』という文脈においてではなく、逆にエリートだからこそ、すっとあっちに行っちゃったんじゃないか」ということだった。
 唐突なたとえだけれど、現代におけるオウム真理教団という存在は、戦前の「満州国」の存在に似ているかもしれない。1932年に満州国が建国されたときにも、ちょうど同じように若手の新進気鋭のテクノクラートや専門技術者、学者たちが日本での約束された地位を捨て、新しい可能性の大地を求めて大陸に渡った。彼らの多くは若く、新しい野心的なヴィジョンを持ち、高い学歴と優れた才能を持っていた。しかし日本という強圧的な構造を持つ国家の内側にいるかぎり、そのエネルギーを有効に放出することは不可能であるように思えた。だからこそ彼らは世間のレールからいったんはずれても、もっと融通のきく、実験的な新天地を求めたのだ。そういう意味では——それ自体だけをとってみれば——彼らの意志は純粋であり、理想主義的でもあった。おまけにそこには立派な「大義」も含まれていた。「自分たちは正しい道を進んでいるのだ」という確信を抱くこともできた。
 問題はそこに重大な何かが欠落していたことだった。満州国の場合、その何かが「正しく立体的な歴史認識」であったということが今ではわかる。もっと具体的なレベルでいえば、そこに欠けていたのは「言葉と行為の同一性」であった。「五族協和」だの「八紘一宇」だのといった調子の良い美しい言葉だけがどんどん一人歩きをして、その背後にいやおうなく生じる道義的空白を、血生臭いリアリティーが埋めていったわけだ。そして野心的なテクノクラートたちはその激しい歴史の渦の中に否応なく呑み込まれていくことになった。
 オウム真理教事件の場合、同時代的に起こった出来事であるが故に、今ここで明快にその何かの内容を定義してしまうことにはやはり無理があるだろう。しかし広義的に言えば「満州国」的状況について語れるのとだいたい同じことが、オウム真理教事件にも適応できるはずだと私は考えている。そこにあるものは「広い世界観の欠如」と、そこから派生する「言葉と行動の乖離」である。
    (中略)
 カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ。
 彼らは少しばかりまじめにものを考えすぎるかもしれない。心に少しばかり傷を負っているかもしれない。まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスとのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ。>
    (村上春樹「約束された場所で」より)

 ——戦後50年という節目の年に起こったふたつの大事件。それは日本の現代史の大きなターニングポイントを示すとともに、我々の社会に共有されていたはずの<物語>の在り方を問い直すものでもあったのだ。

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