よろず大学 ~General Campus~

「よろず大学」とは、入学試験も単位認定も卒業証書も何もない、学びたい人が勝手に学ぶアクセスフリーの学びの場です。 通常の授業の枠では収まりきらないような、教科や学年や専門分野や世代を超えた学びのネタを提供していきたいと思っています。

  室町文化のもうひとつの特徴は、地方への広がりである。特に応仁の乱で荒廃した京都を逃れた貴族や僧たちが各地へ下ってからは、むしろ地方の文化の方が充実した感がある。特に中国地方を拠点とした大内氏は、朝鮮半島にルーツを持ち、日朝・日明貿易や石見銀山の収益で利益を上げ、文化面にも力を注いだ。城下町の山口は「西の京」とも呼ばれ、連歌の宗祇、水墨画の雪舟、儒学の桂庵玄樹、南村梅軒などの文化人が集まった。その後、玄樹は南九州へ下って薩南学派を開き、梅軒は土佐に下って南学を開いたといわれる。また、同じく儒者の清原宣賢は、将軍や公家に加えて、能登・越前・若狭の大名たちにも招かれ、北陸地方に儒学を広めた。彼に師事した饅頭屋の林宗二は、日本最古のいろは引きの国語辞典である「節用集」を刊行している。有職故実の第一人者である一条兼良は奈良から美濃へ、漢詩僧の万里集九は美濃から関東へ下った後、越後や飛騨にも赴いた。
  関東では上杉憲実が下野国(栃木)にあった儒学・易学・軍学を学ぶ場である足利学校を再興した。憲実は永享の乱で討ち取った鎌倉公方足利持氏の子である成氏に謀殺されたが、学校は残った。寺院でも教育が行われ、学問の初歩や道徳観を盛り込んだ「実語教」や「庭訓往来」などが、木版技術の普及により、教科書として広く用いられた。
  室町時代は映画やTVドラマの題材になりにくいと言われる。確かに、源平合戦や戦国時代や幕末に比べると、派手なドラマもなければ、強烈な個性を持った英雄も見当たらない。戦乱は多かったものの、大抵は身内の内輪揉めがダラダラと続いているだけの印象を受けるし、将軍や天皇の影も薄い。しかし、政治の面ではパッとしない室町時代も、文化の面では現代に大きな足跡を残している。日本の伝統文化と呼ばれるものの原型のほとんどが、この時代に形成されているのだ。政治の弱体化と文化の充実の組み合わせは「クールジャパン」の元祖と言ってもいいのかもしれない。

  鎌倉仏教の諸派は、室町時代に、それぞれ独自の発展を遂げた。臨済宗は五山十刹の制を通して政治と深く結びついたが、それを潔しとしない禅宗諸派は「林下(りんげ)の禅」と称して五山派から距離を置き、自由な布教活動を行った。その代表格が大徳寺の僧であった一休宗純、すなわち「一休さん」である。自由を重んじた彼の風狂を描いた数々の逸話は、少年僧の頃の頓智話も含めて、現代でも親しまれている。
  浄土真宗(一向宗)では蓮如が出て、庶民にもわかりやすい御文(おふみ)を用いた布教活動によって、近畿・北陸・東海に信徒を増やした。彼は越前(福井)に吉崎御坊と呼ばれる道場を開いた。その後、北陸で一向宗門徒の国人・農民たちと守護勢力との対立が激化。蓮如は御坊を去ったが、門徒たちは彼を精神的支柱として加賀一向一揆を起こし、守護を追い出して、百年に及ぶ自治支配を実現した。宗教パワーを強烈に見せつけた事件であった。
  日蓮宗では日親が京都を中心に活躍し、「立正治国論」を著して六代将軍義教に改宗を勧めたが投獄される。権力の弾圧に屈せず布教に努める彼の姿は庶民からの敬意を集め、町衆(商工業者)の間に信徒を増やした。十六世紀には京都町衆の間で、法華宗(日蓮宗)徒と一向宗(浄土真宗)徒の対立が深まり、1532年には法華宗徒が山科本願寺を焼き打ちして一向宗徒を追い出し、町政を独占支配した(法華一揆)。四年後、今度は延暦寺の僧兵たちが近江の六角氏と組んで、洛中の21ヶ所に上る日蓮宗寺院を焼き打ちして法華宗徒を京から追放した。こうなるともはや宗教戦争である。
  浄土真宗の開祖の親鸞や、法華宗の開祖の日蓮が、このような事態を望んでいたはずはないのだが、信仰の力が暴走を始めると抑えきれなくなるのは古今東西変わらない。同じ頃、ヨーロッパでは宗教改革が起こり、カトリックとプロテスタントの対立が激しさを増していた。日に日に勢力を強めるプロテスタントに対して危機感を持ったカトリック側は、イエズス会を組織して自己改革と新天地での布教活動を始める。その一環として東洋に派遣されたフランシスコ・ザビエルが鹿児島に漂着したのは、同じく十六世紀半ばの1549年のことであった。

  北山文化において特筆すべきは、能楽の大成である。この時期に観阿弥・世阿弥が出て、農耕芸能としての田楽や、寺社を中心とした猿楽、民間芸能の今様や曲舞(くせまい)などを統合した能楽を広めた。奈良には興福寺を本所とした大和四座が置かれ、将軍義満の庇護を受けた世阿弥は「風姿花伝」を著し、「秘すれば花」という名フレーズで能楽の奥義を示した。「芸術はバクハツだ!」の岡本太郎ではないが、優れた芸術家にはおしなべてコピーライターの才能があるようだ。
  十五世紀も後半に入り、八代将軍義政の時代になると、北山文化に比べてやや地味な、簡潔さと精神性を重んじる東山文化が成立する。代表建築はもちろん慈照寺銀閣である。金閣が寝殿造・和様・禅宗様の建築様式をミックスした全面金箔の三層ゴージャス仕様であるのに対して、銀閣は簡素な書院造の二層建築で、外観もきわめて地味である。当初は銀箔を施すつもりだったらしいが、幕府の財政難によって見送られたという。しかしそれが結果的に、銀閣の個性を際立たせることになった。
  庭園では竜安寺の石庭や大徳寺の大仙院庭園など、石や砂を山や川に見立てた枯山水(かれさんすい)という手法が流行した。水墨画では雪舟がモノトーンの世界を極め、大和絵では土佐光信や狩野正信が出て、それぞれ土佐派・狩野派の祖となった。茶道では村田珠光が侘茶(わびちゃ)の精神を強調し、茶と禅の一体化を唱えた。いずれも前代に比べて質素な精神性重視の傾向が見て取れる。
  庶民の文化が発展したのも、室町時代の特徴である。惣村での祭礼・寄合、盆踊りの普及、町衆の祭礼などが広く普及した。阿波踊りや祇園祭も、この時代に始まっている。当初は将軍や公家の保護を受けた職能集団が演じていた能や狂言も、時代が下るにつれて、武家や農民などの間で幅広く演じられるようになっていった。庶民の小唄を集めた「閑吟集」も、この時期に成立している。
  連歌の世界も次第に庶民化した。十五世紀末に連歌師の宗祇らが吟じた「水無瀬三吟百韻」や、準勅撰集の「新撰菟玖波集」などでは芸術性が重視されていたが、十六世紀に成立した「犬菟玖波集」では、滑稽や機知を旨とした俳諧連歌が集成され、後世の俳句へとつながっていった。文学では「御伽草子」を通して、「一寸法師」や「浦島太郎」など、現代にも残る昔話の数々が生み出された。
  一方、公家や貴族は旧来の文化を保持することに、自らのアイデンティティを見出していた。南北朝期には既に後醍醐天皇が「建武年中行事」を著し、宮中の有職故実を整理していたが、室町後期には一条兼良が「公事根源」で、それらの起源や変遷をまとめた。兼良は「花鳥有情」で「源氏物語」の注釈も行っている。貴族隆盛の時代であった奈良・平安時代の伝統を守っていくことは、彼ら自身の存在意義を示す行為でもあったのだろう。
 

↑このページのトップヘ