「ヒストリー・ライティング ~ローマ・イタリア史~」が無事終了しました。少し休んで7月から久しぶりに「御当地文学の旅」の連載を始めたいと思います。今回は石川啄木の作品を中心に、東北への旅をテーマとした連載になる予定です。ご期待ください。

 2022年現在、イタリアの名目GDPは世界8位、ヨーロッパではドイツ・イギリス・フランスに次いで4位にランクされている。新型コロナウィルスの影響で経済が大きく減速したのは他国と同様だが、まずまず堅調な経済運営を続けているといえよう。イタリア経済の土台には、かつての都市国家の伝統を受け継ぐ各地域の特色を生かした多彩な産業基盤がある。
 概して北部は工業、南部は農業中心の経済が成り立つ。北部のトリノ・ジェノバ・ミラノの三角地帯を中心とした自動車工業では、フィアット傘下のフェラーリやアルファ=ロメオなどの有名ブランドが海外市場でも確実なシェアを占めている。国際貿易港としてのジェノバ、世界のファッションの中心としてのミラノ、グッチやフェラガモなどの高級ブランドで知られる伝統革製工業を擁するフィレンツェ、ヴェネチアン=グラスで有名なガラス細工の町ヴェネチアなど、それぞれの都市の個性を生かしたブランド戦略がイタリア経済の強みである。
 南部では、ピザやパスタの原料となる小麦の生産を筆頭に、生産量世界一を誇るブドウ、第2位のオリーブ、第6位のトマトなど、多くの農産物が輸出されている。イタリア料理は日本をはじめ、世界中で根強い人気を誇る。国連食糧農業機関(FAO)や国連世界食糧計画(WFP)の本部もイタリアにある。イタリアは今も昔も世界の食文化の中心的存在なのだ。
 そしてもちろん、古代ローマ帝国以来の歴史的建造物や古くからの街並みを活かした観光産業も、イタリアの経済に大きく貢献している。新型コロナウィルスの影響で一時縮小を余儀なくされているものの、コロナ禍が収まった暁には、堰を切ったように観光客が押し寄せることだろう。
 文化面・経済面に比べて、政治面でのイタリアは多党乱立の中で不安定な状況が続いているように見える。イタリアでは、国家元首は大統領、行政の長は首相というツートップでの政権運営の形をとっているが、特に首相の交代が目まぐるしく、一時は「おはよう、今日の首相は誰?」というジョークが飛び交うような状況であったらしい。2022年2月に辞任したコンテ首相の後任として、マッタレッラ大統領はドラギ前欧州中央銀行総裁を首相に指名。連立与党をはじめ、各政党に協力を呼びかけた。日本と同様、慢性的な財政赤字や少子高齢化などの問題を抱えているとはいうものの、EECからEUに至るまで欧州統合の中心であり続けたイタリアの存在感は今なお大きい。日本との関係も良好である。
 ローマ帝国崩壊からの長い分裂時代が、結果としてイタリアに各地域の特色に応じた自立を促した。適度に統合されながら適度にばらけた良い意味でのいい加減さ、集中と分散の絶妙な均衡が、長い歴史の中で培ったイタリアのしたたかさなのだろう。カトリックの総本山であるバチカン市国を擁して、首都ローマの輝きは今もなお健在である。ローマは一日にして成らず。イタリアも一日にしてならず。ローマ・イタリアの歴史は、ヨーロッパの歴史、世界の歴史において、圧倒的な存在感を保ち続けているのである。

 1944年6月、連合軍によるローマ解放を受けて、ドイツ軍に対するレジスタンスの主体となった各政党の連立内閣が成立した。大戦終結後、イタリアでは王政存続か共和政移行かを問う国民投票が実施され、僅差で共和政支持が上回って王政が廃止された。開戦時にファシストを支持し、ドイツによるローマ占領時には国外に逃亡した国王は、国民の信を失っていたのだ。
 二度にわたる大戦で荒廃したヨーロッパは、東西冷戦の影響を受けて東側の社会主義陣営と西側の資本主義陣営に分断された。米国主導のマーシャル・プランで経済復興への道筋をつけ、これも米国主導の軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)加盟を通じて冷戦下の国際秩序に組み込まれた西欧諸国では、相互不信による対立から大戦に至った反省を踏まえ、段階的統合へと向かう機運が高まった。まずはドイツとフランスの対立の象徴であったルール地方とザール地方の石炭や鉄鉱石などの資源を共同管理下に置く欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が1952年に発足。西ドイツ・フランス・ベネルクス三国とともにイタリアも創設に加わった。1957年にはローマ条約によって欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)も発足し、イタリアを含めた6カ国は統合の中核となっていったのである。
 しかし統合への道のりは平坦なものではなかった。特に大陸諸国の連携に警戒を強めた英国は反発し、1960年にEEC非加盟の7カ国で欧州自由貿易連合(EFTA)を結成。西ヨーロッパには二つの経済協力機構が競合することとなった。1967年にはECSC・EEC・EURATOMの三者が統合し、欧州共同体(EC)が発足。1971年のドル・ショックに象徴される米国経済の後退もあって、ECの経済的優位が次第に明らかになり、EFTAはECへの統合という形で発展解消に向かう。73年には英国・アイルランド・デンマーク、80年代にはギリシャ・ポルトガル・スペインが加入。欧州議会も発足し、欧州統合は経済協力の枠を超えて新たな局面に入った。
 1985年には域内のヒト・モノ・カネの自由な移動を目指す単一欧州議定書が成立。パスポート審査を廃止するシェンゲン協定も締結された。そして1992年、市場統合・通貨統合・共同安全保障の枠組みを定めたマーストリヒト条約が成立し、翌93年には欧州連合(EU)が発足。95年にはスウェーデン・フィンランド・オーストリアも加盟し、さらに2002年には15カ国中12カ国が自国通貨を廃止して共通通貨であるユーロへと移行したのである。
 欧州統合への歩みにおいて、イタリアは常に原加盟6カ国の一員として中心的役割を果たした。そこにはやはり、無意識下に刻印されたローマ帝国の歴史的記憶があったのではないか。かつてヨーロッパはひとつだった。2000年の時を経たロールモデルの存在が、統合への困難な道のりを支え続けたのではないかと思うのだ。

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