応仁の乱に先立ち、1454年には関東で亨徳の乱が起こっていた。永享の乱で関東管領上杉憲実に討たれた鎌倉公方足利持氏の息子である成氏が、父の仇である憲実を謀殺したのだ。幕府の追討を受けた成氏は鎌倉を放棄して北関東の古河に居を移し、古河公方と呼ばれた。一方、幕府から派遣された足利政知も鎌倉に入れずに伊豆の堀越にとどまり、堀越公方と呼ばれた。関東は関東で分裂しており、決着は応仁の乱が終結する1477年まで持ち越されたのである。
  応仁の乱では、戦闘に伴う放火・略奪が横行し、特に主戦場となった京都は大きな被害を受けた。これも戦争における指揮系統の混乱を示す現象だと言えるかもしれない。放火は敵軍を撹乱して攻撃を阻むための作戦、略奪は資材や食糧を現地調達するための作戦として、それらの行為を「足軽」と呼び、後にそれがそうした行為を行う雑兵たちを総称する言葉になったが、被害を受ける側はたまったものではない。混乱に乗じた犯罪も続出し、治安は悪化し、幕府の権威はますます失墜した。
  なし崩し的に始まった応仁の乱は、なし崩し的に終わった。1477年、西軍の山名氏・六角氏が領国に引き上げ、西軍の中心的存在であった大内氏が九州に戻ると、幕府はこれを乱の終結とみて、天下静謐の祝賀を催した。何かが劇的に変わったわけではなく、長期戦による厭戦気分が広がり、何となく終わったという印象である。
  幕府の求心力の低下は止まらず、応仁の乱以降も各地で混乱は続き、1485年には山城の国一揆、1488年には加賀の一向一揆が起こった。山城の国一揆では、国人や地侍たちが京都南部の自治を行った。加賀の一向一揆では、一向宗(浄土真宗)の蓮如を精神的支柱として、信徒たちが100年に及ぶ自治を実現し、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。各地の惣村でも自治の動きは高まり、それぞれの村で独自の掟を定めて検断(裁判)を行ったり、領主から荘園管理や年貢徴収を請け負う地下請(じげうけ)の例も見られた。領主に対しては、年貢減免などを要求する愁訴や強訴(ごうそ)、要求が容れられない場合に村が団結して耕作を放棄する逃散(ちょうさん)、武力闘争である土一揆など、さまざまな対抗手段を取った。中央政府の弱体化は、相対的に地方自治の伸長をもたらしたのである。
  室町時代は地方分権の進んだ時代だと言えるかもしれないが、それは中央の制御が利かなくなった状態での、なし崩し的な分権であり、政治への強い不信感を背景としていた。応仁の乱は、そうした政治不信を決定づけた事件であった。中央政府の求心力の決定的な低下に伴い、各地で下剋上が広まり、戦国大名が生まれ、百年に及ぶ戦国時代が幕を開ける。乱を鎮圧するどころか、目先の利害によって自ら乱に加わってしまった足利将軍家は、結局は自らの政治生命を縮める事態を招いたのであった。