第2回「水辺を歩こう会」
【日時】2007.12.1(土)13:30〜15:30
【集合場所】一仙道集会所(早良区東入部)
【ゲスト】熊本宗雄さん(早良区東入部在住)
お話を聞いた後、椿(つばき)井堰をスタートして、入部公民館裏までの椿(つばき)水路を約2km歩きます。
【主催】「水プロジェクト」実行委員会(事務局:玉井てるひろ事務所)
01椿井堰上流室見川は上流に遡ると、東入部で二つに分かれる。東方面が支流の小笠木川(さらに上流で、小笠木川と椎原川に分かれる)で最初の橋梁の上流に大きな堰がある。これが椿井堰である。
02椿井堰堰の役目は、文字通り川を堰き止め、上流の水位を上げ、川に繋がる水路に水を誘引し、水田に水を引き込むものである。
右岸側(川の流れの方向を見て、右側を右岸という)に水色の水門が見えるが、ここが椿水路の入口(起点)と思われる。この水門の開き具合で、水路に流す水量が調節できるのである。
さて、堰は、昔、石を積み上げたもので、洪水の度に崩壊した石を積み直していた。その後、強固なコンクリート製の固定堰にとって代わり、洪水の度に石を積み直す必要はなくなったが、新たな問題が起きた。固定堰のため、堰の上流の水が大雨時にスムーズに下流に流れず、上流側で洪水被害が起きやすくなるのである。
現代の河川工学では洪水対策として、いかに上流の水量をいち早く下流、つまり海に流すかということが、主眼となっている。そこで、河川改修の一環として固定堰を転倒堰に改築するのである。つまり、大雨時で洪水の危険があるときは、操作によって堰が倒れるのである(一定の水位に達したら自動的に倒れる形式もある)。
そして、洪水の危険が去ったら、堰を上げるのだが、水圧がかかるため、相当の力を要する。通常、転倒堰は、油圧式のシリンダーで支えられており、電動もしくはエンジンのポンプでオイルを圧送し、その油圧でシリンダーを起こして堰を立てる仕組みになっている。
さて、堰や水門の操作は誰が行っているのか?自動式でなければ、たぶん水利委員が操作されてあると思う(田に水を必要としている人達で昔から水利組合というのが組織され、その役員として水利委員が選出されている)。
03椿井堰標識堰の左岸側に機械室と思われる建物があり、その壁に貼られた「椿井堰」の標識。昭和61年3月竣工とあり、この時期、固定堰から今の転倒堰に改築されたものと思われる。
施工の溝田工業(現在は、株式会社ミゾタに改称)は佐賀市に本社を置く地場の水門メーカーとして有名。
04椿井堰下流堰の真ん中の水流は魚道。魚が下流から上流に遡上(洪水で下流に流された魚が上流に戻る場合も含む)するために、設けられたものだが、その傾斜や水流の速さからして、果たして遡上に役立っているのだろうか?
05椿水路起点付近堰き上げられた水が流下する椿水路が、小笠木川と並行して走る。



06椿井堰と椿水路左側が椿水路。




07本流と水路の分岐右側が椿水路で、左側が小笠木川。その間に記念碑が建っている。



08椿井堰記念碑の説明椿堰○記念碑。○は土へんに隶の字が書かれているように見える。



09椿井堰記念碑昭和25年7月21日竣工とある。椿水路は江戸時代に切り開かれたものと云われており、熊本宗雄さんの話によると、敗戦後、入部村と田隈村の共同で石積みの堰が再建された時の記念碑とのことで、この場所の字名が「椿谷」だったので「椿井堰」と命名されたそうである。また、下流の水量を確保するために堰の石積みを壊す者がおり、交代で見張りの水番を置き、水番には手当を出していたことが、昔の記録に残っているとのこと。
記念碑は入部村長と田隈村長の連名となっており、堰がある場所が入部村で、水路の流れ先が田隈村である。田隈村の世話人が数多く名前を連ねており、この水路がいかに広範囲に田隈村に水をもたらしたものであるか、伺える。
10水路下る1椿水路は一般県道「入部中原停車場線」を横断し、その県道に沿って下流に進む。


11水路下る2




12水路下る3(水道局)途中で東側の山方向に長い階段がある。入口には「福岡市水道局埋設○」の石柱あり。
水道局の知人に尋ねたところ「一家接合井(ひとつやせつごうせい)」と称し、階段を登りきったところに貯水池があるとのこと。この貯水池には二つの水源から水が送られてくる。一つは曲淵ダムからの標高差を利用して送られてくる水であり、もう一つは、室見川下流の室見取水場からポンプで圧送されてくる水である。曲淵ダムからの水は標高差があるため、水圧が高いが、室見取水場からの水は水圧がゼロに近い状態。この二つの水が貯水池にいったん預けれらることによって、水圧を解放し、今度は新たに同じ水圧をかけたうえで、山を越えて南区油山の夫婦石浄水場に送られるそうである。
つまり「一家(ひとつや)」が地名で、「接合井(せつごうせい)」とは二つの水源の水を接合させ、水圧を調整させる所と思われる。「接合井」は役目からして高台にあり、下から水が上がってくるところから、「井」が使われたのではないだろうか。
13水路下る4県道沿いを走っていた水路は県道を離れ、生活道路の横を走る。水路は本来、田に水を引くものであったが、水路の近くの人家にあっては、農産物や農機具を洗ったり、さらには食器を洗ったり、洗濯したりの生活用水でもあったと思われる。
昔は洗剤がなかったので、水質汚染にはそう大きな問題がなかったが、その後、高度成長期にあって合成洗剤を含んだ生活雑排水が多量に流されるようになって、下流に行くほど水質の悪化をもたらした。
現在は、下水道の整備により、人家からの下水は水路の下を横断し、生活道路の下に布設された下水道(汚水管)に流入しており、水路の水質は格段に向上している。
14水路下る5水路は、周囲に降る雨の流入先にもなって、下水道の雨水渠の役目を果たしており、下水道事業の一環として3面コンクリートで整備されたものと思われる。
15水路下る6(梯子)3面コンクリートで整備されたため、水路への昇降が困難になり、所々に金属製のハシゴが付けられている。誤って水路に転落したときの救助用でもあり、水路掃除するための昇降用でもある。
16水路底3面コンクリートのところは、所々に底が長方形に開けられている。地下水に水を補填するためである。


17水路下る7(大樹)3面コンクリートを過ぎると、民地側に石積みの護岸あり。近くには大きな樹木もあり。


18水路下る8(酒蔵手前)道路側の護岸は昔ながらの様相を呈している。この先に、もと酒造の立派な屋敷が見えてくる。


19水路下る9(酒蔵)もと「飛松酒造」。菅原道真がここで休憩し、自ら手植した松を「飛松」と称し、ここの地名になったと云われている。
また、松は菅原道真が植えたのでなく、飛んできて成長したとの説もあり、それがここの字名の「飛松」になったとも云われている。
20酒造を後にもと酒造を後に進むが、民地側の古くからの石積み護岸と庭木は、山荘のような落ち着いた風情を醸し出している。

21松ヶ根の井案内板「松ヶ根の井」。水路の脇に、岩をくりぬいたような3〜4坪ほどの井戸がある。菅原道真が手を清め、水を飲んだと云われ、水の冷たさと美味さを褒めたという。
ここの水はかつて酒を造るときに利用されるくらい、昔は澄んでいたそうである。
22松ヶ根の井残念ながら今は水も枯れて、昔の面影がない。



23入部公民館裏口水路を横断して、最終地点の入部公民館へ。ここで永浦義治館長より椿水路の歴史と近年の整備について、話をしていただいた。

<補稿>
みやうら寛さんの、かつてのホームページに載っていた「さわらものがたり」より

野芥駅のシンボルマークは椿

 …椿水路(つばきすいろ)…

 地下鉄七隈線野芥駅のシンボルマークは椿です。なぜでしょう。じつは、駅の西、ほぼ南北に流れる椿水路の名にちなんでいるのです。
 この水路は重留新町のサニーの前からなだらかな野芥・田隈の台地の上に深いところでは数メートルも掘り下げられたもので、原の方に水を流しています。この水路の水源は東入部の南端、一ツ家にある室見川の椿井堰(いぜき)です。ここから山麓ぞいに切り開かれた水路を経て入部小学校の前を通り、やがて重留の金屑川と合流し、配水しながら新町のサニー前にいたります。ここで金屑川本流と分かれ、また、野芥四角から一部を油山川に分流しながら、野芥駅の西、徳法師橋へとむかいます。
さらに賀茂で田村の花立井堰からの水路と合流し、下流の飯原で油山川に注ぎこみます。水流の乏しい金屑川や油山川の流路に豊富な室見川の水を注ぎ込み、また縦横にめぐらされた水路を通し、先人は広大な早良平野の田に配水したのでした。
 何百年の長きにわたって、こうしたシステムが徐々に作られたのでしょう。コンクリートもない時代、大石を組んで作った井堰、水漏れがする水路、その保持は大変な仕事でした。椿井堰の補修に、水路を利用する原四角付近から上流の農民が鍬と筵をかかえて連なって歩んでいったといいます。春の風物詩となっていたそうです。