子供たちが見ていたのは、自分たちだけ。
自分と、周囲5メートルの世界だけ。
そんな子供らしさに足もとを掬われた、8話。

そして。
めんまの本当のお願い、は花火ではないのかもしれない、などと
思ったり。
まあ、それは深読みのしすぎかもしれないが。


~□~

7話終盤でめんまの家族によって花火の件を止められたことを知った、
バスターズの面々。
5人は、揃って、めんまの母親を攻略に行くことに。


しかし、そこで突き付けられたのは、
一人の傷ついた母親の姿。

自分たちの行動が、めんまの母を傷つけていたことに動揺したみんなは、
花火の件から降りようと考える。。。


実は7話、それほど重要じゃないと思ってスルーしていたんだが。

めんまに線香をあげに行くのが、
7話の時点で初めてだった、という話。
確か、あなるかぽっぽの台詞だったと思うんだが。


つまり、この10年間、子供たちは、誰ひとりとして、
めんまの家にアクセスを持たなかったんだな。

そりゃ、10年ほっといて、いきなりポッとやってきて、
追悼イベントを、という話になったら、
親としては面白く思うわけないだろう。


もちろん、じんたんに関しては、
めんまの死後、割と間をおかず母を亡くしたという事情もあるだろうから、
線香をあげに行く云々ではなかったろうが、
他のメンバーまで、そうだだった、わけだしねえ。


確かに、あの母親の亡き子どもへの異常なこだわりと、
同時に、
弟君への放置の状況は、正直、あまり褒められたものではない。
それだけ愛情が深かったことは、わかるのだけれども。

ただ、
あなるやゆきあつ、そしてじんたんのように、
その死亡事故に関して、責任感(のようなもの)を持っている子がいたことなど、
母親は知る立場にはない。

子供たちもまた、友達(めんま)を失ったことでどれだけ傷ついていたか、
などといったよその子の事情まで受け入れる余裕どころか、
想像の欠片すら持っていなかっただろう。

逆に、5人のうち、誰か一人でも、
落ち着いた頃にでも、線香の一つでも上げに行き、
あるいは、めんまの家族と連絡を取る
(年に一度年賀状程度でもいいと思う)
くらいはしていたら、
全く違った結果になったのではないかなあ、等と思ったのも事実。


(逆に言うと、それができないくらい、5人にとって、めんまの死は重すぎだのだろう、きっと)


あと、あの母親の、子供の喪失に心を奪われるあまり、
残された子供(死んだ子の兄弟)に目を向けなくなってしまっている描写は、
何度か映画や小説で見たことのあるテーマ。

俺がすぐに思い出したのは、S・キング原作の、『スタンド・バイ・ミー』。
この作品は、主人公の(映画だとリバー・フェニックス)がピンで目立つ映画なんだけれども、
作者キングの幼少期と思しき少年が語り手となっていて、
彼から見た主人公のカッコ良さとその苦悩が
あますところなく描かれている。
だが、
この語り手の少年(キング自身)もまた、傷を負った少年であるという設定で、
語り手の少年は、兄を失ったばかりで、その喪失の哀しみのあまり、
父も母も自分を見てくれない(のではないか)と怯えて暮らすという背景を持って
描かれていた。
その、喪った兄を改めて追悼し、愛し、乗り越えるための行為として、
「その日の冒険」と、主人公の少年が必要だった、という展開なんだが、
この、「自分よりも出来のいい兄が死に、自分が残ることの罪悪感」の圧迫感は、
結構クるものがあった。

で。

今回8話でも、初めて、弟くんがちゃんと、じんたんと話をする機会があったのは、
逆に、いいタイミングだと思った。

というか、弟くんもまた、傷ついているだろうし、
そうした気持ちが少しでもほぐれるきっかけになりそうだろうから。

それが回りまわって、弟くんの傷を癒し、
めんまの実家、父と母との頑なな心を、安らかなものに変えていけるかも・・・
・・・という気がしているんだけれども。


~□~

むしろ。

本当の問題は、めんまの実家云々ではなく。

これを契機に、
解体の危機に瀕した、「超平和バスターズ」の方だろう。

実に、観ていたのは、自分の傷と、せいぜい、幼馴染みたちだけ。
自分たちのことしか、観ていなかった、そんな状態を、
かなりエグイかたちで突き付けられてしまった、今回。


めんま(の幽霊)を信じていないるつこ、
そして同様で、かつ、わだかまりはずっと大きいゆきあつは、
花火の件はもとより、超平和バスターズとして集まること、そのものにも
罪悪感を持つことに。

あなるもまた、自分達の行動で遺族を傷つけることにためらい、
行動を控えることに。

ぽっぽこそじんたんの肩を持つが、
今度はじんたんその人が、
他のメンバーに対して、壁を築いてしまう。

こうして、超平和バスターズは、解散の危機、にまで追い込まれる。


そしてじんたんは、さらに頑なに、なっていく。

だって、めんまが見えるのは、自分だけ、なのだから。

自分がめんまのお願いを叶える義務がある、とまで
思いつめる。


けれども、それって、どう見ても、めんまのお願いからは、遠ざかっているよね。
だって、めんまは、残されたみんなが楽しく交流していることが、
嬉しくて仕方が無いのだから。

じんたん一人で何かをなし得たところで、
それはたぶん、「めんまの本当のお願い」では、なくなってしまうだろう。


そうしたじんたんの一人で突っ走る混迷が、今回の修羅。

その修羅に巻き込まれるようにして、
自分の秘密を打ち明けてしまった、あなるは、
とても、つらい。
うーん、観ているこっちが、身を切られるように、痛いぞ。

自分の気持ちが、どれだけわがままで醜いかを知りながら、
それでも、
じんたんに向けて吐露せずにはいられなかった、というシーンは、
胸が痛んで痛んで、仕方がない。

というか、あなるは、そこまできちんと自分の傷と向き合っていたんだな、と。
結構な強さを持っているじゃないか。えらいぞ、あなる!

つか、誰か、キチンと褒めてやれよーっ!

確かにその想いを「醜い」とか、形容することはあるかもしれない。
けれども、恋なんて、きれいごとじゃあ済まないものなんだから。

死んだ友達すらも妬ましいと思う自分を卑下するからこそ、
彼女はああやって高校生となった今でも、
10年前と同じ拘りに立ちすくんでいる。
彼女の心は、10年前と同じように、縮こまったままだ。
成長したいと思っても、その殻から逃れることができずにいる。ずっと。


彼女が救われるには、本当、どうしたらいいのだろう。。。


~□~

ラスト。

めんまが、筆談を開始。


・・・・・・
・・・・・・
あー、そーきちゃったか。


どーして、このタイミングで、と正直、ツッコミせずにはいられなかったんだが。

というか、物理的にどこまで干渉が可能なのか、
その線引きがどうにもはっきりしないんだよな、この作品。

めんまが作った蒸しパンにしても、
アレ、俺、一応そこそこ半信半疑だったから、
ゆきあつへの「パッチンのお礼」のイタコ台詞がくるまで、
信用しきれなかったんだよね、正直なところ。
(そこまで、じんたん御乱心説と半々で観てた)

まあ、幽霊でも別にいいんだが、
料理やゲームができるにもかかわらず、
じゃあなんで、めんまはじんたん以外のメンバーと、
話そう・コンタクトを取ろうとしないんだろう、というのが
謎だったけれども(特に1話で母と交流ができなかった・しようとしなかった辺り)、
きっと物理的に無理なんだろうと勝手に解釈していた。

ら。

なんか、、
「えー?」(安中さんBy『日常』)状態に。

鉛筆、持てるんじゃん。


・・・・・・
・・・・・・
まあ、それでも感動はしたけどさー。
(たぶん、じんたんの孤独が延々と語られた、その溜めが効いたんだと思う)


できるんじゃん、筆談。

ならば。

めんまはね、じんたんの世話をやくよりも、
自分のこと、めんま自身のことに、
きちんと向き合った方がいいと思うんだ。

いや、自分のこと、というか、
自分と母親とのこと、というか。
自分と自分の家族のこと、というか。


めんま。。。自分を大事にできてこそ、初めて人は、他人に優しくできるんだよ。
自分を蔑ろにした優しさなんて、砂のお城と一緒で、
そんなものは相手の本当の力にはなってくれないものなんだ。
大抵は。

めんまは、お母さんに会いたくないというけれども、
(1話で懲りているのかな、やっぱ)
しかし、お母さんの心を軽くしてあげられるのは、
めんまじゃないの?
(もちろん、母親自身のパーソナリティや問題点、限界はあるかもしれないが)


本当に必要なのは、花火を上げる事じゃない、なんか、そんな気がしてきている。

そしてじんたんも、
自分だけで成そうとしても、ダメだと思う。
5人(本当は6人だけどね)揃わなきゃ。


きっとそこに、めんまの本当のお願い、というか、
彼女の想いが、隠れているのだと思う。


(つるこに注目したいのに、ほとんど出番がないよう・・・涙。。。つることあなるの幸せのために。続くよ)