無常の流れ

ゲーム・漫画関連のネタや時事ネタ等がメインとなります。 現在のメインは ・うみねこのなく頃に ・とある科学の超電磁砲 ・バカとテストと召喚獣 を中心に取り扱います。 こちらのSS・雑記の部屋も宜しくお願いします。リンクフリーです。 是非コメントお願いします!m(_ _)m

武将紹介

第2回戦国武将紹介

何とかギリギリ6月中に第2回戦国武将紹介が間に合いました。と言っても結局長くなったので後半は月を跨ぎますが…><

それでは早速、第2回戦国武将紹介『小早川 隆景』をお送りします。


小早川 隆景 (1533-1597)

小早川隆景毛利元就の三男として生まれる。
小早川家は沼田・竹原の両家に分かれていたが、竹原小早川家の当主・小早川興景が死去すると、隆景が養子に迎えられ、竹原小早川家の当主となる。
初陣で砦を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、大内義隆から賞賛される。
沼田小早川家の当主・小早川繁平は病弱であったため、元就・義隆は繁平を隠居させて隆景に家督を継がせ、沼田・竹原の両小早川家を統合する。隆景は繁平の妹を妻に娶る。
備後国(広島県)の新高山城を本拠地とする。

以後、小早川氏は毛利一門に組み込まれ、隆景は毛利家の水軍の大将として活躍。
厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍を破り、毛利軍の勝利に大いに貢献する。
元就が隠居して長兄の毛利隆元が家督を継ぎ、さらに隆元が急死し、甥の毛利輝元が家督を継ぐと、隆景は兄の吉川元春と共に幼少の輝元を補佐する。
元春が軍事面を担当したのに対し、隆景は水軍の情報収集力を活かし主に政務・外交面を担当

天正4年(1576年)、落ち延びてきた将軍足利義昭の強い誘いもあり、第2次信長包囲網の一角として織田方と戦うこととなる。
石山本願寺を救援した第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍、村上水軍を主力とする毛利水軍が、織田方の九鬼水軍を破った。
しかし2年後の天正6年(1578年)には第二次木津川口の戦い鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗れ、制海権を失う。
天正10年(1582年)には清水宗治が籠る備中高松城(岡山県)が包囲され、隆景は輝元・元春と共に毛利氏の主力3万を率いて救援に赴く(備中高松城の戦い)。
6月に本能寺の変が起きて織田信長が死去した際、羽柴秀吉は毛利家と和睦を結び、畿内へ引き返す(中国大返し)が、信長の死を知り、秀吉を追撃するべきとする吉川元春・元長父子に対し、
隆景は「誓紙の血が乾かぬうちに追撃するのは不義であり、信長の死に乗ずるのは不祥である」と主張したため、毛利軍は羽柴軍を追撃しなかった。
この頃、隆景は居城を新高山城から瀬戸内海に面した三原城(広島県)に移している。

賤ヶ岳の戦いの後に毛利家が秀吉に従属すると、隆景は秀吉に積極的に協力する。
四国征伐で功績を挙げて伊予(愛媛県)一国を与えられ、九州征伐の後には筑前・筑後(福岡県)・肥前(佐賀県)1郡に移されて37万石の大名となる。
九州征伐の際に兄の元春とその嫡男元長が相次いで死去したため、隆景は一人で輝元を補佐し、毛利家を守っていくことになる。
朝鮮出兵では碧蹄館の戦いで立花宗茂とともに明の大軍を撃破する。
秀吉の隆景に対する信任は厚く、毛利家から輝元だけでなく隆景も五大老に迎えられている。

秀吉は妻の甥である羽柴秀俊を実子のいない輝元の養子にし、毛利家を継がせようとしたが、隆景はこれを阻止するため、隆景自身にも子が無い事を理由として秀俊を小早川家に迎えたいと申し出る。
秀俊は小早川秀秋と名乗り、隆景は秀秋に家督を譲って隠居する。


第1回の蒲生氏郷の時と比べて、今回は略歴だけで結構な長さになりました(^_^;)
隆景は毛利家の大黒柱としてだけでなく、豊臣政権内で毛利家中の陪臣でありながら五大老に選出されるなど、秀吉からも大きな信頼を得ていました。
小早川家を継いだ秀秋は後に関ヶ原の合戦で西軍から東軍に寝返り、僅か2年後に早世したため小早川氏は断絶してしまいますが、隆景が秀秋を小早川家に引き取ったからこそ、毛利本家は救われ、後の長州藩として幕末・維新の主役となっていったので、これも隆景の功績だと言えるのではないでしょうか。

その他のエピソードに関してはまた次回。


良ければ押して頂けるとありがたいですm(_ _)m
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武将紹介まとめページ作成しました

SS・雑記の部屋に、戦国武将紹介のまとめページを追加しました。

もっと評価されるべき戦国武将紹介 まとめ

現在の所1回だけしかやってないので、第1回の "蒲生氏郷"の項目だけですが、
今後、第2回、第3回…と更新するごとに、まとめページの方にも追加していきます。

取りあえず、第2回以降の予定について。

  第2回  小早川隆景 (中国・四国)
  第3回  滝川一益  (織田・豊臣家)
  第4回  佐竹義重  (関東甲信越)
  第5回  立花宗茂  (九州)
  第6回  最上義光  (東北)
  第7回  朝倉宗滴  (近畿・北陸)
  第8回  榊原康政  (徳川家)
  第9回  真田信之  (関東甲信越)

今後変更になったり順番が入れ替わったりするかもしれませんが、今の所この予定で考えております。

不定期で月に良くて2〜3回程度になるかと思いますが、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

第1回武将紹介続き

第1回武将紹介、「蒲生 氏郷」の続きです。

氏郷は新しく召抱えた家臣に対し、
「当家には銀のナマズの尾の兜をかぶり、真っ先に敵陣へ切り込む者がいるが、その者に負けぬように働くが良い」と励まし、
実際に戦が始まるとナマズの尾の兜の武将が駆け抜けていったので、皆先を争って敵陣へ突き進んでいったとの事ですが、
そのナマズの尾の兜の者こそ、氏郷本人であったそうです。
このように氏郷は、常に最前線で戦い、部下を奮い立たせていたようです。
また、とても家臣思いであり、家臣に自ら風呂を焚いたり、蒲生の姓を多くの家臣に与えたりしたそうです。関ヶ原の合戦で活躍した蒲生郷舎も、氏郷から蒲生姓を与えられた一人です。

雑談中に「秀吉の後継者となるのは誰であろうか?」という話題になった時、氏郷は「前田利家殿である」と答え、
「利家殿ではなく徳川家康殿だろう」と反論された時の答えは
「利家殿でなければ自分がなる」とも、あるいは「家康には自分がいる限り天下を取らせない」ともいわれているようです。
会津への移封の際には、
「たとえ多くの領地を得ても、京の都から遠く離れてしまっては天下を望む事は出来ない。
  小身であっても都に近ければ天下を窺う事も出来るのに」
と、涙ながらに嘆いたとの事です。

氏郷が本当に天下を狙う意思があったのかは分かりませんが、これらの発言から考えると、
秀吉からみると天下を脅かす危険人物のように映るかも知れません。
豊臣家の天下が安泰である為に、手を打ったのでしょうか…?

もしも氏郷が長生きしていたならば、秀吉死後の展開もかなり変わってくるのではないでしょうか。
史実では会津の上杉景勝の討伐を口実にして、関ヶ原の合戦へと突き進んでいく事になりますが、
氏郷が存命ならば当然会津の領主は氏郷のままなので、越後に残る上杉と組めば家康も政宗も簡単には手を出せなくなるでしょう。
または、前田利家死後の反徳川派の大名の中心人物は、石田三成ではなく氏郷になっていたかも知れません。
そうなると、家康は最終的な天下統一を果たせず、徳川幕府は開かれずに豊臣政権が続いていた可能性も高いのではないでしょうか…?
東国一の大大名の地位も、家康ではなく氏郷になっていたかも知れませんね。

参考までに、『信長の野望 革新』 の能力値
蒲生氏郷統率90 武勇82 知略84 政治89
全体的にかなり高い設定になっていますね。


といった所で、第1回の武将紹介、2回に分かれて長くなってしまいましたが、いかがだったでしょうか?

第1回・もっと評価されるべき戦国武将紹介

今回から、"もっと評価されるべき戦国武将紹介"を始めていきたいと思います。
昨今の戦国ブームで、無双やBASARAなんかで知名度が大幅に上がった武将もいるようですが、ここで取り上げるのは、知名度はあまり無いけれどもある程度の業績を挙げた武将、興味深いエピソードのある武将がメインになる予定です。とはいっても、自分もそこまでマイナーな武将について詳しく知ってるわけではないので、『信長の野望』等のゲームでは割と活躍が目に付くレベルの武将になるかと思います。

では、第1回目、「蒲生氏郷」からお送りします。


蒲生 氏郷 (1556-1595)

近江国(滋賀県)・六角氏の家臣、蒲生賢秀の嫡男。
六角氏滅亡後は信長の元に人質として送られるが、信長に才能を見抜かれて娘の冬姫と結婚し、織田家の一門扱いとなる。
姉川や長篠の合戦等で武功を挙げ、本能寺の変の際には安土城にいた信長の妻子を保護・避難させる。
豊臣政権では小牧・長久手の戦いに従軍して伊勢(三重県)松ヶ島12万石を与えられ、松坂城を築城して城下町を作り上げる。
1590年の小田原北条氏の征伐後は陸奥(福島県)会津92万石に移封され、徳川・毛利・前田家に次ぐ大大名に抜擢される。
町の名前「若松」の名付け親であり、"鶴ヶ城"と呼ばれる会津若松城を築城し、商人を招き寄せて城下町の開発を進める。
茶湯や和歌にも秀でており、利休七哲の筆頭に挙げられ、"風流の利発人"と評される。
キリシタンでもあり、ローマに度々使者を送っている。

日本の歴史上で、会津といえば幕末の会津藩を思い浮かべる方が多いかと思いますが、
その会津藩の基礎を築いた人物が、この氏郷です。
人質でありながら信長の娘婿に選ばれ、秀吉からは会津の大大名として家康や伊達政宗の監視役を任され、
茶湯や和歌を嗜む教養人であるという、かなりの有力武将だといえるのですが、
1595年に40歳の若さで亡くなってしまいます。
急死に関して、秀吉や石田三成による毒殺説もあるようですが…。


…夜遅くなったので、続きはまた次回でお願いしますm(_ _)m


動画も取りあえずこれだけ。

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落武者A

職業:ソフトウェア開発関連
最近はほとんどアニメ感想記事しか書けていませんね… もっと色々なネタを書ければいいのですが。

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