2015年10月23日
《歌集読む 59》 吉野裕之『Yの森』 ~意志の力を信じるように、ほか
吉野裕之『Yの森』を読みます。
吉野さんの「吉」は土に口と書く。以降も同様。
オレも「吉」という字を名前にもっているが、オレのはこのままの吉。
平成23年12月とある。1996年から1999年の作品で構成したとある。沖積舎。
鹿が来て微笑みながら横切ってゆく夢を見た朝の諍い/吉野裕之『Yの森』
→オレはチェーホフのbotを作ってるんだけど、そのなかに、死ぬ間際に鹿を思い出すという短編の場面がある。そのイメージがあって、鹿の微笑みがまるで死のようなやすらぎだとオレには読めた。
朝の諍いという現実の一日の始まりがするどい対比をなす。
きのう読んだ世に並びなく美しい優雅な鹿の群が、ふっとかたわらを走り去った。それから百姓女が書留便を持った手を差し出した。……ミハイル・アヴェリヤーヌィチが何か言った。それから一切が消え去った。それなりアンドレイ・エフィームィチは永遠に意識を失った。
「六号室」チェーホフ
きのうまであった木椅子がなくなってさみしい朝のバス停/吉野裕之『Yの森』
→バス停の椅子ってたしかにいつのまにかあらわれたり消えたりすることがたまにある。
この歌には三句がない。これが木椅子の不在やさみしさをあらわしている、と言うのは簡単すぎて逆に言うのをためらう。
一時間早めに乗った窓に見ゆ朝日を返す墓石の群れ/吉野裕之『Yの森』
→電車やバスだろうけど、そこを省略している形。
オレも早朝の電車に乗ったことがあるけど、人の少ない朝の風景はいいものだ。
また朝と死の歌になった。「群れ」が生き物みたいだ。
あっ、君が反対をすることなんか考えていなかったと思う/吉野裕之『Yの森』
→この「あっ、」はとても気になる。なかなか出ない「あっ」だ。「えっ」なら言うかもしれないが、「えっ」は疑いや不満がある。「あっ」は純粋に驚いたり気づいたりしている。
自分が相手の意思を決めつけていたことに気づいた「あっ」だ。
以前にももらったような気がすると思いながらもポケットに入れる/吉野裕之『Yの森』
→二つ前に引いた歌と同様に、何をもらったかを省略している形。これは推測しづらい。なんとなく木の実のような気がしたが。
あの夏は小さなぼくの手をひいて埋め立ての音響かせている/吉野裕之『Yの森』
→「あの夏」は濃い言葉だ。埋め立ての音が遠い思い出を破壊してゆくようだ。
「手をひいて」は夏が擬人化されているようだが、「響かせている」でほどかれる。
柿の実を三つバッグに忍ばせる意志の力を信じるように/吉野裕之『Yの森』
→さっきは何かをポケットに入れる歌があった。物を隠し持つことに何か力があるという感覚。
穂村弘さんの、ポケットに将棋の桂馬の駒を入れていたエピソードを思い出す。
打楽器を専攻したという人が玄関にいて母と話せり/吉野裕之『Yの森』
→「玄関にいて母と話せり」ってことは、主体は玄関にいなくてその人の姿も見えていない。声だけを聞いている。
その人については打楽器専攻という情報しかない。話し声のなかに打楽器的なものを探っているのではなかろうか。
東京が博物館になるまではじっとしていていいと云いたり/吉野裕之『Yの森』
→果てしなく長い間じっとしていていいわけだ。じっとしているのは、博物館の展示物も同じだ。
蓮の葉の群れてそよげる夕つ方現れて消ゆ一脚の椅子/吉野裕之『Yの森』
→さっきはバス停の椅子がなくなる歌があったがこちらはより幻想的だ。
椅子があらわれ消えるのは、そこに座る何らかの存在の可能性もまたあらわれ消えたのかもしれない。
脚立ひとつ置かれていたる枯れ芝に父は一歩を踏みださんとす/吉野裕之『Yの森』
噂とも雨とも思う夕暮れに過ぎゆくものをきみに告げたり/吉野裕之『Yの森』
→何を告げたのだろう。それはとても不確かなおぼろげなものなのではないか。そのたよりなさを良いと思った。
わたくしの前を流れてゆく人にときおり赤い袋混じれり/吉野裕之『Yの森』
→生きている人間よりも袋の赤にピントが合っている。
袋、鞄、ポケットなど、しまうものがよく出てくる気がする歌集だ。
ちりめんじゃこちりめんじゃこと暖かな二月の歩道橋を渡りぬ/吉野裕之『Yの森』
→オレが短歌研究を買いはじめて間もないころの「作品季評」にこの歌集が取り上げられていた。そのなかでもこの歌がインパクトが強かった。オレの、この作者の第一印象がこの歌だったな。
なんて斬新なオノマトペだろうと。
ゆっくりと窓に寄りゆく男いて振り向くか振り向くか向かぬか/吉野裕之『Yの森』
→さっき引いて何も言わなかった、枯れ芝と脚立の歌にも似たような味があった。
たいして意味のないようなわずかな動きにズームしてゆく歌。
ネクタイの太さを競う会議かもかもしれないと眠りゆくべし/吉野裕之『Yの森』
→会議の内容が頭に入っていかない状態か。ネクタイの太い人の言葉が重く働くように見えたのか。眠るときにはとりとめのないおかしな考えになりながら眠っていくことがあるものだ。
「かも」の重複も眠りに落ちてゆく様子を思わせる。
自転車の荷台が錆びていることを気にして父はすこし笑いぬ/吉野裕之『Yの森』
→さっきの父の歌は枯れ芝と脚立が出てきていたが、そうしたものとの取り合わせが父の性質をあらわしているようだ。
陸橋はことばのようだ言ってから変だと思うがそのままにする/吉野裕之『Yの森』
混み合える地下鉄のなか大切にPを抱えて人ら立ちおり/吉野裕之『Yの森』
→「P」って? 思えば歌集も「Yの森」だし、こうしたイニシャルはいくつか出てくる。
「移動する点P」を思い出したが、いろいろ考えられるだろう。さっき引いた三つの柿の実の歌に通じるような「意志の力」のようなものか。
のっぴきならぬところまで来て開きたり北海道のようなる口を/吉野裕之『Yの森』
→言われてみれば、北海道の形はひらいた口のようだ。どんなもんか、鏡を見ながら口を開けてみたくなる。
「のっぴき」が北海道の地名っぽい。
ひとの死を認めるための空間に歩を運びおり 駅を離れる/吉野裕之『Yの森』
→この歌集に一字あけは少ない。収録歌は390首というが一字あけがあるのは5首くらい。そのうちのひとつ。
生きている人が行き来する駅が出てくることで死の孤独がより深まる。
というわけで『Yの森』は終わりです。印のついた歌が多い歌集でした。
んじゃまた。
吉野さんの「吉」は土に口と書く。以降も同様。
オレも「吉」という字を名前にもっているが、オレのはこのままの吉。
平成23年12月とある。1996年から1999年の作品で構成したとある。沖積舎。
鹿が来て微笑みながら横切ってゆく夢を見た朝の諍い/吉野裕之『Yの森』
→オレはチェーホフのbotを作ってるんだけど、そのなかに、死ぬ間際に鹿を思い出すという短編の場面がある。そのイメージがあって、鹿の微笑みがまるで死のようなやすらぎだとオレには読めた。
朝の諍いという現実の一日の始まりがするどい対比をなす。
きのう読んだ世に並びなく美しい優雅な鹿の群が、ふっとかたわらを走り去った。それから百姓女が書留便を持った手を差し出した。……ミハイル・アヴェリヤーヌィチが何か言った。それから一切が消え去った。それなりアンドレイ・エフィームィチは永遠に意識を失った。
「六号室」チェーホフ
きのうまであった木椅子がなくなってさみしい朝のバス停/吉野裕之『Yの森』
→バス停の椅子ってたしかにいつのまにかあらわれたり消えたりすることがたまにある。
この歌には三句がない。これが木椅子の不在やさみしさをあらわしている、と言うのは簡単すぎて逆に言うのをためらう。
一時間早めに乗った窓に見ゆ朝日を返す墓石の群れ/吉野裕之『Yの森』
→電車やバスだろうけど、そこを省略している形。
オレも早朝の電車に乗ったことがあるけど、人の少ない朝の風景はいいものだ。
また朝と死の歌になった。「群れ」が生き物みたいだ。
あっ、君が反対をすることなんか考えていなかったと思う/吉野裕之『Yの森』
→この「あっ、」はとても気になる。なかなか出ない「あっ」だ。「えっ」なら言うかもしれないが、「えっ」は疑いや不満がある。「あっ」は純粋に驚いたり気づいたりしている。
自分が相手の意思を決めつけていたことに気づいた「あっ」だ。
以前にももらったような気がすると思いながらもポケットに入れる/吉野裕之『Yの森』
→二つ前に引いた歌と同様に、何をもらったかを省略している形。これは推測しづらい。なんとなく木の実のような気がしたが。
あの夏は小さなぼくの手をひいて埋め立ての音響かせている/吉野裕之『Yの森』
→「あの夏」は濃い言葉だ。埋め立ての音が遠い思い出を破壊してゆくようだ。
「手をひいて」は夏が擬人化されているようだが、「響かせている」でほどかれる。
柿の実を三つバッグに忍ばせる意志の力を信じるように/吉野裕之『Yの森』
→さっきは何かをポケットに入れる歌があった。物を隠し持つことに何か力があるという感覚。
穂村弘さんの、ポケットに将棋の桂馬の駒を入れていたエピソードを思い出す。
打楽器を専攻したという人が玄関にいて母と話せり/吉野裕之『Yの森』
→「玄関にいて母と話せり」ってことは、主体は玄関にいなくてその人の姿も見えていない。声だけを聞いている。
その人については打楽器専攻という情報しかない。話し声のなかに打楽器的なものを探っているのではなかろうか。
東京が博物館になるまではじっとしていていいと云いたり/吉野裕之『Yの森』
→果てしなく長い間じっとしていていいわけだ。じっとしているのは、博物館の展示物も同じだ。
蓮の葉の群れてそよげる夕つ方現れて消ゆ一脚の椅子/吉野裕之『Yの森』
→さっきはバス停の椅子がなくなる歌があったがこちらはより幻想的だ。
椅子があらわれ消えるのは、そこに座る何らかの存在の可能性もまたあらわれ消えたのかもしれない。
脚立ひとつ置かれていたる枯れ芝に父は一歩を踏みださんとす/吉野裕之『Yの森』
噂とも雨とも思う夕暮れに過ぎゆくものをきみに告げたり/吉野裕之『Yの森』
→何を告げたのだろう。それはとても不確かなおぼろげなものなのではないか。そのたよりなさを良いと思った。
わたくしの前を流れてゆく人にときおり赤い袋混じれり/吉野裕之『Yの森』
→生きている人間よりも袋の赤にピントが合っている。
袋、鞄、ポケットなど、しまうものがよく出てくる気がする歌集だ。
ちりめんじゃこちりめんじゃこと暖かな二月の歩道橋を渡りぬ/吉野裕之『Yの森』
→オレが短歌研究を買いはじめて間もないころの「作品季評」にこの歌集が取り上げられていた。そのなかでもこの歌がインパクトが強かった。オレの、この作者の第一印象がこの歌だったな。
なんて斬新なオノマトペだろうと。
ゆっくりと窓に寄りゆく男いて振り向くか振り向くか向かぬか/吉野裕之『Yの森』
→さっき引いて何も言わなかった、枯れ芝と脚立の歌にも似たような味があった。
たいして意味のないようなわずかな動きにズームしてゆく歌。
ネクタイの太さを競う会議かもかもしれないと眠りゆくべし/吉野裕之『Yの森』
→会議の内容が頭に入っていかない状態か。ネクタイの太い人の言葉が重く働くように見えたのか。眠るときにはとりとめのないおかしな考えになりながら眠っていくことがあるものだ。
「かも」の重複も眠りに落ちてゆく様子を思わせる。
自転車の荷台が錆びていることを気にして父はすこし笑いぬ/吉野裕之『Yの森』
→さっきの父の歌は枯れ芝と脚立が出てきていたが、そうしたものとの取り合わせが父の性質をあらわしているようだ。
陸橋はことばのようだ言ってから変だと思うがそのままにする/吉野裕之『Yの森』
混み合える地下鉄のなか大切にPを抱えて人ら立ちおり/吉野裕之『Yの森』
→「P」って? 思えば歌集も「Yの森」だし、こうしたイニシャルはいくつか出てくる。
「移動する点P」を思い出したが、いろいろ考えられるだろう。さっき引いた三つの柿の実の歌に通じるような「意志の力」のようなものか。
のっぴきならぬところまで来て開きたり北海道のようなる口を/吉野裕之『Yの森』
→言われてみれば、北海道の形はひらいた口のようだ。どんなもんか、鏡を見ながら口を開けてみたくなる。
「のっぴき」が北海道の地名っぽい。
ひとの死を認めるための空間に歩を運びおり 駅を離れる/吉野裕之『Yの森』
→この歌集に一字あけは少ない。収録歌は390首というが一字あけがあるのは5首くらい。そのうちのひとつ。
生きている人が行き来する駅が出てくることで死の孤独がより深まる。
というわけで『Yの森』は終わりです。印のついた歌が多い歌集でした。
んじゃまた。
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