仙台文学館で斎藤茂吉展を見て永田和宏さんの講演を聞いた《歌集読む 213》加藤治郎『Confusion』  ~声になるまできみは言う、ほか

2019年09月20日

長嶋有『問いのない答え』読んだ  ~ツイッターが近い

長嶋有『問いのない答え』読んだ。
三日かけて読んだので、感想を三部にわける。









ツイッターと、大喜利みたいなそうでないような遊びと、震災がでてくる小説。

なかなかおもしろくなってこないが、読むのをやめたくなるほどではなかった。
半分すぎておもしろくなる小説もあるので、そこはじっくりやるようにしている。



ツイッターが出てくるんだけど「ツイッター」とか「タイムライン」とか「アイコン」にカギカッコがついている。ツイッターについて説明しながら話が進められる。

ツイッターだけど、けっこう人と人とのつながりが濃い。

ツイッターで遊ぶ人がそれを「言葉遊び」とは言わないんじゃないか。

ちょっとずつひっかかる。

それとも震災直後と今とで変化してるのか。そのころからツイッターやってたけど、雰囲気まではわからないなあ。









この小説ではツイッターの利用者たちがお互いを対等に見ている。そこがオレとちがう感覚なんだ。
オレだったら、相手が自分よりおもしろいかどうか、長く活動しているか、年齢はどうか、フォロワー数はどうか……などなどと考えて上に見たり下に見たりしやすい。

そうか「数字」の要素を排除してるんだ。だから対等なんだ。

そういうふうにやれればいいんだろうなあ。オレは数字を気にしながらツイッターやっている。

数字のないツイッターっていうのは記名式の掲示板に近いんじゃないの。みんなで大喜利しようっていう掲示板のスレッドみたい。
それでもやっぱりこれは掲示板じゃなくてツイッターなんだと感じる要素があって、それは言葉遊びだけじゃなくて日常的なことも同じ場所に書き込まれるということ。



でてくるツイッターがなんだか古い。みんなに挨拶していく人が人気者になったと書いてあるが、そんなのうっとうしいだけだろう。オレならブロックする。ミュートじゃなくてブロック。挨拶NOの意志を示したい。一人でいいかげんにやりたい。

ツイッターが、お題を出して答えるための場所になっているが、今でいうと坊主の選手権みたいなものを想像すればいいのか。この小説の多くの登場人物がそれに参加している。っていうか、参加してる人が描かれているのか。



新人賞をとって本を一冊だした、と当たり前のように書いてある。
短歌の世界では新人賞と本は直結しない。本を出せてる人はすごいと思う。



なんかつまんなくて読むのをやめようかと一瞬思ったが、読み進めたら秋葉原の殺傷事件を起こした加藤が掲示板に残した書き込みについて書かれていて、興味がもどってきた。

スズキとか佐藤という人物に混ざって急に「加藤」がでてくる。これも小説の登場人物なのかと思ったら、実在の犯罪者なので驚いた。



「生半可でない」という言葉が流行っている、という設定だ。「ハンパないって」が最近流行ったのを思い出した。この小説のなかの人たちは、こちら現実世界の人よりも性格がいいし頭もいいと感じる。




ここまで出てきた登場人物のなかでは、オレは加藤が一番感情移入できる。全体的に悪の要素がないのを物足りなく感じる。ツイッターによってつくられる「輪」というかコミュニティに対してみんな従順なのがオレには気に入らない。

実際には、とんちんかんな回答者が雰囲気をこわしたり、それを過剰に注意する人がでてきてギスギスするもんだよ。
どんなお題でもエロや犯罪やそのときの流行にひっかけてくる安易な回答者が実際にはいるはずなんだが、いないことになっている。

オレはその陳腐な書き込みが溢れるところ、ギスギスするところがほんとのツイッターだと思うから、それがないと綺麗事と感じる。

ツイッターで出されたお題に答える遊びに、みんなけっこう真剣なのがこちらとしては変に思う。もっとテキトーな参加者がいっぱいいるはずだ。ナメた感じにならないのは震災後という時期もすこしはあるのか。



一二三という女子高生がでてくるが、加藤一二三のイメージが邪魔をして、なかなか馴染めない。



ツイッターにみんなが自分の生活について書き込んでいるようだが、実際はそんなことしないと思う。あんまり書き込まないし、互いに知ろうともしないと思う。

ネムオによるツイッターの「言葉遊び」によって多くの人がそれぞれで会うようになったというのも、信じにくい話だ。
でもまあそれは今の感覚であって、当時はすこしちがうんだろう。
思い出してみると、たしかにツイッターで突発的に歌会が始まったりしてたことはあった。


登場人物が多いが、いちはやく言葉遊びに違和感をおぼえはじめた「サキ」に注目したい。それと岡山に急にとばされた「少佐」。
仙台がでてくるので興味がつづいている。

当時は今とはちがってたんだろう、と考えないと納得できないし、納得しないと読みすすめられない。



アイコンを変えたときに「みんなのTLを流れる公共の景色なんだから」とブーイングされるなんて、いい迷惑だ。勝手だろって話だ。公共と個人だと公共が優先されている。

「あうー」と書いたら複数のリプライがくるとかも、本当か? と思う。

要するに「近すぎる」んだ。

古いものって、人と人が近いと思う。人と人が近いから古いと感じる。すぐ返信されるのも、TLの互いのことをみんなよく知っているのも、人と人が近いんだ。

話しかけてくるおばあちゃんがでてくるけど、おばあちゃんはほんとうに近い。うかつに話しかけて、悪人だったらどうするのか。老人が人にかんたんに近寄る性質を利用したのがオレオレ詐欺だ。

以前はそうじゃなかったものがいまはハラスメントとされたりするけど、要するに距離をとっているんだ。変に近づくな、過剰に関わるな、ということだ。そういう流れなんだ。

この本がなかなか読み進められないのは、現代のことを書いているようで微妙に人と人が近いところが古くて、ひっかかってくるからだ。



どうしても「リツイート」という言葉を使いたくないのか「口づて」と書いてある。
これはいくらなんでも無理がある。リツイートはリツイートだ。口づてじゃない。口づてというと人が集まってしゃべっているみたいで、近すぎる。

ツイッターについてくわしく書いているわりには、リプライもハッシュタグもファボもリムーブもブロックも出てこないし、いろいろ不自然だ。
そうそう、この小説ではみんななかよしになってるけど、ほんとのツイッターは変な人や嫌な人がいてミュートやリムーブやブロックやスパム報告をすることがあるわけだよ。
ツイッターの嫌なところは書かないと、決めて書いてる小説なのか。



ツイッターがよくでてくる小説なのに、ツイッターを知らない人に向けて書いている。オレにはツイッターの説明はいらない。だから、こっちを見ていない本だ、と感じる。そう感じながら、もうだいぶ読み進めてしまったし、気になるところも出てきたので最後まで付き合おう。
オレはツイッターを9年やってるけど、この小説のなかの人たちはせいぜい数年だ。感覚がちがうところもあるだろう。











機種変したら画像が鮮明になり、よくわからなかったアイコンの意味がわかるという場面、良い。
たたまれたティッシュの箱と上の面の紙の蓋の話もいいと思う。

ところどころおもしろいポイントがある。

読みおわった。読みおわってみると、いい本だったと思えてくる。

ツイッターの外側を描いているところは違和感なく読める。こまかいところが生きている。

ツイッターについてはやはり違和感が大きい。主人公は、知りたいことがあっても検索せずにツイッターで誰かにきくのが好きだという。それで誰かがちゃんと教えてくれるあたり、フォロワー多いんだろうなと思う。

主人公は作家だからフォロワーが多いのもわかるとして、編集者のスズキもそんな感じらしい。途中で送信したつぶやきに「大勢に」一斉にツッコまれている。こういうのがひっかかるんだ。編集者でそんなにフォロワー多いのはなぜ?



ネムオという主人公に、スズキという人物がからむから、自動的に鈴木宗男を思い出すわけだが、べつにそれらしいことはなにも書かれていない。



ネムオがツイッターでお題を出している言葉遊びで知り合った二人が結婚するというエピソードがある。ツイッターからそこまで仲良くなるんだね。
でも、これが意外なことに、似たようなことはオレにも心当たりがある。ツイッターを通して、ちょっと手の込んだ方法で結婚のお祝いを伝えたことがある。
だからなのか、このあたりから違和感が薄くなってくる。

それでも、転勤するひとりにそのフォロワーがみんなで一人暮らしのための荷物を送る場面は変な感じがする。
閲覧が1000くらいあるネット配信者が「開封枠」とかいって視聴者から届いたものを開けてるけど、そのノリに近い。



漫画家のアシスタントのことが書いてあるのがおもしろい。漫画が描かれる現場なんて、なかなかわかんないからなあ。
二つの絵をパタパタさせてどちらの表情にするか検討する場面など。


教室で一緒だと仲良くなるのにバスで一緒でも同じようにならないのはどんな要素が足りないのか、という問いに考えこんだ。
考えたこともないような問いが、日常にひそんでいる。それをみつけて引っ張ってくる。


「ノノちゃん」の震災時の行動は、一方からはだらしないと思われ、別のほうからは人として当然と思われる。終盤に重い問いがあらわれた。

液晶の点と、電飾を体に巻いたデブの話は好きだな



この小説の特徴として、場面が急に変わることが挙げられるだろう。誰かが何か行動すると、同じ行動をしている別の誰かにバトンタッチされる。
それが終盤でいきてくる。山を登りながらの思考であったり、人だかりに囲まれた猫の死骸をのぞきながらの思考。



感想はそんなところ。もっと早く出会っていたら違和感がすくなかったんじゃないかと思った。インターネットの数年ってけっこうでかいので。
オレが読むのが遅かったんだ。



この本おわり。
んじゃまた。





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