現代短歌史

2015年06月18日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第八章・戦中派による「前衛短歌」批判【後編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による「前衛短歌」批判
〈笠原伸夫・菱川善夫の前衛評価論争〉

評論家・笠原伸夫の前衛評価。
「戦後派の後にくる若い世代にとって、もっとも偉大な敵は近藤ではなく、佐藤(佐太郎)だったのではあるまいか」という提言。
「茂吉を克服する視点を回避するかぎり、短歌の問題は、所詮一種の真空地帯で空転するばかりだろう」

笠原は岡井隆の「短歌改革案ノート」に注目する。岡井は、連作の構成、文語の詩語としての有効性、定型意識とそれにともなう方法論、それに自由な表記などをもとめるとして、近代短歌の克服を訴えていた。
笠原「反逆のテーゼを、あきらかに方法のうえにのせることによって、ふかく溟い衝撃を内在させたものになりえていた」

笠原は塚本邦雄の「聖・銃器店」を「目をそばだてて見るべきもの」として注目した。
笠原「かれの作品の特質は、まさしく一首一行の身うごきできぬ空間のなかに、もうひとつのきわめて自在な非現実的空間を生みだした点にある」

そのうえで助詞にこだわり、あいまいなイメージを構成しがちであると指摘した。
壮年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦のひとすぢのきず/塚本邦雄
の「を」など。
これに菱川善夫が対立した。菱川は、あいまいさを招かざるを得ない詩句の構成と辞の用法にこそ、塚本の詩法の本質があると主張した。
岡井の古語をいかした二首についてもその評価において対立した。







篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による前衛短歌批判
〈陥没していた戦中派〉

座談会「昭和三十年代の短歌」(「短歌」昭和41.8、10)で世代論がもちあがる。戦中派、戦後派などと世代によって分けられる。

昭和40年12月の「短歌」の「戦中派感想集」には、大正3年生まれから14年生まれまでの歌人が寄稿した。岡部、清水、森岡、塚本、岡野など。宮、近藤、高安、大野など新歌人集団系の歌人ははずされていた。
佐佐木幸綱や岡井隆はこれに反発。
岡井隆「多世代発想─『戦中派感想集』感想」
「世代は年齢の謂ではない。あるいは言葉をかえて、戦中派は年齢的基盤からする区分ではない」

岡井の「多世代発想」は、文学世代というものが、生まれあわせたという偶発的な場から生まれるものではなく、多層世代が競合しあうことによって、より強固になっていくことを希求したものとされる。








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による前衛短歌批判
〈近代短歌の再発見へ〉

近代短歌の有力歌人が相ついで亡くなる。佐佐木信綱、川田順、窪田空穂、吉野秀雄。

「短歌」昭和39年2月号では信綱の追悼特集がくまれた。それに先立ち「短歌研究」昭和38年3月号では信綱系歌人特集がおこなわれた。


秒針の動き見まもり夜のふけにわれ今われを思ひつつをる/佐佐木信綱


吉野秀雄の死。秀雄は昭和42年に第一回の迢空賞を受けている。晩年の作品は高く評価された。


一息(いっそく)の駐(とどま)れば泥土たらむのみ時の間すらや惜しまざらめや/吉野秀雄

佐藤佐太郎「いよいよ晩年の病床吟になると、語感の古さは影をひそめる。或はまだ残つてゐても、その古さなど顧みるいとまがないほど、歌が切実になつてゐる」



89歳まで生きた窪田空穂も信綱、秀雄を同じように最期まで作歌を続けた。

哀しみはおそるべきかな老の身に残る身ぢから奪ひなんとす/窪田空穂

老の眼に山おぼろげに見えくれば心そぞろぐ何なりや山は/窪田空穂


塚本邦雄の空穂評価。「アニミズムの世界が、この老大家の口を借りて意外に執拗なリズムを伴って繰りひろげられる」
「物神崇拝の、原始的エネルギー渇仰の自然への懼れのうたである」
「古今集を髣髴するくどいまでの美意識と誇張、すべて短歌の主(ぬし)の年齢を超えたテノールの託宣と呪文を聞くようで、感嘆すると同時に不気味でもある」










篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による前衛短歌批判
〈七〇年代の混沌へ〉

昭和39年に編集方針が変更された「短歌」は、戦中世代を掘り起こそうとした。大正5年から15生まれで昭和10年代に兵役を迎えた人々を『戦争世代』と片山貞美は規定する。そして戦後世代の若手が誌面から消えた。昭和42年まで若手が薄い状態が続いた。
逆に「短歌研究」が若手層を起用するようになる。

昭和24年に「早大短歌」が創刊され、30年に「早稲田短歌」と改名された。佐佐木幸綱がリーダーシップをとった17号(昭和36.5)にいたって果敢な性格をもつようになる。
岡井のはがき通信にヒントをえた月一回の「27号室通信」が昭和37年12月に発行された。佐佐木幸綱のほかに、福島泰樹、三枝昴之の名前もみえる。

採決車すぎてしまえば炎天下いよよ黄なる向日葵ばかり/伊藤一彦
27号室通信は昭和45年までつづいた。

福島、三枝、名取弘文らは昭和44年に「反措定」を創刊。福島泰樹の宣言「テーゼ・70年のわれらに」は政治色のつよいものだった。くやしみにみちた闘争の経験を通じて、七〇年代におけるあらたな対決の契機をもとめた。

「反措定」の成否を論議するあたりから70年代の短歌史は開始されるべきではないか、と篠さん。



この本おわり。半年かけて読んだこの本もこれで終了となった。次からは上野誠『はじめて楽しむ万葉集』。


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2015年06月12日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第八章・戦中派による「前衛短歌」批判【前編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による「前衛短歌」批判
〈上田三四二の「前衛回顧」〉

上田三四二の時評「前衛回顧」や玉城徹「一九六四年の展望─昭和史の検討、前衛派の問題、セックス短歌その他」は前衛短歌が苦境に陥ったことを述べた。これらの批判の契機は共同制作にあった。

上田は、若い世代が塚本を絶対化することの危惧を言い、また、岡井が塚本に接近して前衛の時代が到来するが、いま「残っているのは、『朝狩』一巻をもって転身を完了した岡井いう一個の個性だけである」とし、もはや「前衛」の時代は終了したとする認識にたった。
岩田正は「終熄したのは前衛ではない。ついに作家の主体に肉迫することなく、ことばのゲームにふけった印象批評の終熄であり、上田的モダニズムの敗北なのである」とした。
これに対し上田は、「前衛回顧」を書いた眼目は塚本の作歌を励ますものであったとする。あくまで自分の鑑賞眼によって、リアリズムの側から評価してきたことを言い、それが塚本の全貌ではないことを知りながらも、十分に評価しうることを主張した。






篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による「前衛短歌」批判
〈玉城徹の前衛「意匠」論争〉

玉城徹「前衛短歌なるものに、もともと基本的文学思想または方法論はなかった。それは、かなりの程度に「意匠」の問題にすぎなかった。しかし、この数年来、前衛的意匠は相当に広範囲に広まったと言って良い。」

玉城は前衛短歌それ自体がゆきづまった要因について
ある一定の語彙への好み、特定の口調への執着、ある種の方法の頻用など、その基調に「強いマニエリスムの傾向」があり、多くの模倣者を輩出し、その模倣者たちの支持にささえられるようになったことを指摘し、
順応主義との戦いがなく、たんなる思いつきの奇抜さと結びついた「新たな硬化現象を生じている」
からだとした。

これに対し菱川善夫は玉城が「塚本邦雄論」「岡井隆論」を書くべきだとした。
「玉城は前衛短歌の否定の上に、どのような戦後短歌史を描こうとするのか、その視点を明確に打ち出すべきである」

木俣修は前衛を「伝統を無視した、雨後の毒タケみたいなやつが、ケバケバしい胞子なんかつけてばらまいても、それはすぐ消えてしまう」とした。

玉城は前衛がその思想や観念が共通していないこと、一貫したもよに支えられていないことを言い、「文学思想」がなかったのではないかと攻撃した。
「つまり前衛とは、本来、俗物の芸術概念に対立するものでなければならないのに、今日の前衛芸術は前衛的俗物の芸術にまで下落したというのである。」

菱川は彼ら一人一人が独自の発想の道をえらんでいるとする。「その中から真贋をみわけるのが批評家というものであるだろう」

この十年後に岩田正は、この論争は菱川のほうに分があったと感想を言う。「文学上の遺産はすでに、現在の若手歌人によって継承され咀嚼され発展させられていることによって証しされよう」







篠弘『現代短歌史Ⅲ』第八章・戦中派による「前衛短歌」批判
〈市川哲夫の塚本分析〉

市川哲夫は短歌における喩法に疑問をもった。比喩が一首のなかで、その全体像の形成に役立たなければ、それは作品から浮き上がり、間接的な「言いかえ」に堕してしまうと言う。

市川は塚本作品の比喩やイメージ、構成や文体にウェイトをおき、四つの型に分類した。
だがそれは恣意的な説得力のないものだった。
岡井隆は「ほかでもない短歌作品を対象にえらび分類を行おうという以上、そういう短歌の性格の洞察なくてしなんの分析であろう」と批判し、市川の分類が無駄な努力であったとする。

モスクワ・ゴリキー街の日曜日の暗き写真あり濡れし紙屑の中/塚本邦雄




つづく


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2015年06月05日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ【後編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈大西民子と河野愛子の転機〉

大西民子はほとんど現実の「私」からはじまる。夫の背信に悩む生活を告白する。

ドラマの中の女ならば如何にか哭きたらむ灯を消してわれの眠らむとする/大西民子『まぼろしの椅子』

不幸の告白衝動に支えられながらも、もう一人の眼が「孤独」を見据えるような、厳しい自己凝視がおこなわれていた。それが幻想的なイメージの定着を可能にしてくる。


夢のなかといへども髪をふりみだし人を追ひゐきながく忘れず/大西民子『不文の掟』

何遂げむ思ひともなし噴水と呼吸合ふまで立ちつくしゐて/大西民子『無数の耳』




河野愛子は戦後の苦しい生活のなかで、肺結核の長い療養をつづけた。

錯誤にみたされて幸であらむ日よ海より冷たき頬のいろせり/河野愛子『草の翳りに』

単純なるかかる形を受継ぎしかわく二つの掌を合せつつ/河野愛子『草の翳りに』


前衛短歌の影響。
河野「いまの時代に、真にそのようなリアリティをそなえる作品を創造しようと考えれば、私たちはどうしても、前衛という言葉のかかえる意味と、そのはたして来た仕事の内容について、無関心でいることはできない筈である。」









篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈平井弘と浜田康敬の登場〉

中井英夫が平井弘を寺山・春日井の系譜にある新人として注目する。
また、平井弘の作中の「兄」が虚構であったことから、フィクションの導入をめぐる論議に発展していく。

あじさいの朝の戸口をひきかえしゆく足音のなかのへいわよ/平井弘「前線」

佐佐木幸綱は平井弘のなかに「はずかしさ」を指摘した。「平井の作品を読むときいつも思うのだが、五七五七七のリズムのはずかしさが、そのまま内容と密着している。〈あげようとさえしなければ傷つかぬ顔わけもなき変声期経つ〉のはずかしさは、寺山にも春日井にもないそれである」


浜田康敬は角川短歌賞の受賞で注目された。葛原繁は完成度を問題にしつつも「しっかりした目で、自分の世界を押えて表現していて、自己の生き方と遊離した世界から発想していない。また過度の感傷性を殆どもっていない」とした。

塚本邦雄による評価。
元旦に母が犯されたる証し義姉が十月十日の生れ/浜田康敬
塚本「〈犯されたる〉と断定する作者の悪意は、その完全な有毒性によつて、かへつて歌全体を蘇らせ奔らせる」







篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈山中智恵子の短歌行〉


春の獅子座脚あげ歩むこの夜すぎ きみこそはとはの歩行者/山中智恵子

同人誌「極」が計画されたことによって、山中智恵子と塚本邦雄の交流は深まっていた。山中が前衛短歌の志向に近づく。

第二歌集『紡錘』への塚本邦雄の賛辞。「散文がついに伝えることのできない心の世界を、彼女は言葉のもつ呪文的な要素の絶妙な配合と断絶によって、伝え知らせようとしたのだ」

島田修二は山中の難解性にこだわり、伝達の意志を疑問視した。リアリティの乏しさを指摘。
水野昌雄も、イメージの乏しさを述べる。

夕こだま 明日のこだまの陽のこだま耳しひてわれはみるばかりなる/山中智恵子「鳥髪」
上田三四二の賛辞。「ひびきは読む者の心にしみるが、ことばは、ここから風となるほかないという危惧をともなって、心にしみる」


「会明(あけぼの)」への小中英之、塚本邦雄の批判。塚本は述志が過剰となり、観念的な発想になってきた点を否定した。

まこと薄き瞼と思へ一日の秋のくだものかかげゆくかな/山中智恵子








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈安永蕗子の美意識〉

安永蕗子は角川短歌賞の初の受賞者となった。
昭和36年「北方帰依」が話題作となった。

擦れ違ふ一人が握る虚空など見通しがたく冬の狂院/安永蕗子「北方帰依」

前登志夫「意味と感覚の中間を行くのではなく、双方の激しい合金作業によって新しい次元をひらこうとしている」


夜すがらの雪にいたむ歯かみをれば身のこなごなもひかりつつ降る/安永蕗子「白陶季」

岩田正「身体の末端が、単に感覚を伝達する機能にとどまらず、それ自身が独立の世界を形成し、かなしんだりふるえたりする」


安永蕗子の塚本邦雄評
乾葡萄の陽の味ふくみつつ視入るレスリングひめやかに喘げり/塚本邦雄
「烈しい生への肉の執着がひめやかな痙攣を伴う、そのたまゆらが作者を支える愉悦である」



拒むもの多き日(にち)にち雪ふれば緋の外套のなかにやせゆく/安永蕗子「緋文字」
安永の「緋文字」を塚本は「絢爛たる詩的良識の牢獄」と評価した。水野昌雄は破綻のあるものがよいとした。

まひる間のはかな心に指ひらくこの掌(て)に鳥の紅き足来よ/安永蕗子「終の行方」









篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈『感幻楽』への滑翔〉

一穂(いつすゐ)の錐買ひしかばかたへなる一茎(いつけい)のやはらかき妹/塚本邦雄『 色研究』

塚本邦雄の『綠色研究』は評価の高い歌集。


轢死あれ 轢死あれ われは屋上に蜂の巣の肺抱きて渇くを/塚本邦雄『綠色研究』
寺山修司「孤独な結核男が、自分より先に死ぬものを見とどけるべく屋上にのぼってゆくのは不気味なものである。そして、日ざかりの幸福そうな市街を見下ろしながら〈轢死あれ〉と呪文のごとくうたうさまは、変革がもはや政治などに期待できなくなった作者の、『人生を劇として見る』悲願のようなものである」


晴天にもつるるとほきラガー見む翳(かざ)せしゆびの間(あひ)の地獄に/塚本邦雄『綠色研究』


塚本邦雄「短歌考幻学」(「短歌」昭和39.4)
「集団的、社会的な幻想などはあり得ない。それ自体は全く秘められた個人のうちに、生れ爆発し開花するものだ。それゆえに幻想は命令されず統御それない」
「幻想するとき、あるいはし始めた時から、歌人もまた、異端者、反逆者として生きてゆくことを決意しなければならぬ」



あまたなる愛の一つをえらびつつ青年の髪の底なる白髪/塚本邦雄『感幻楽』


噴き上げの穂さき疾風(はやて)に吹きをれて頬うつしびるるばかりに僕(しもべ)/塚本邦雄『感幻楽』「瞠れカナンよ」
岡井隆はこの一連について「韻をふむ術、韻をふもうとする心についての理解がないと、この一連で塚本が実行している冒険の意味がまるでわからなくなってしまう」とする。また、写実句の精密であることを評価する。


『花曜─隆達節によせる初七組唄風カンタータ』40首は初句七音ではじまる。「馬を洗はば~」を含む。
大岡信「この本来結句にあるべき七音が、一首の頭に置かれることにより、歌全体が、終わりからふたたび始まっているような回帰的、旋回的印象を与えるのだ」


佐佐木幸綱は、塚本の真価は遊び心の質の卓抜さによって問われるべきであるとした。

「意志的にイメージを構築した美の方法から、韻律に遊びを加え、人間の持つ宿運をめぐって深層意識を自在に抉り出そうとする方向に進んでいくのである」と篠さんは結ぶ。


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2015年05月29日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ【前編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈「現代短歌」の規定〉

篠は短歌史上の近代の上限を明治四十年代におき、その下限を茂吉・迢空の死んだ昭和二八年あたりにおこうという仮説を出した。戦後短歌をもって現代のはじまりとする通説に反対した。 近代短歌は自然主義を基軸としている。現代短歌の起点として、塚本・岡井・寺山らによる、自然主義リアリズムを超えようとする方法の改革に注目した。

菱川善夫は現代の起点を昭和一五年前後におこうとする。筏井、坪野、佐美雄、斎藤史、佐太郎らの『新風十人』に起点をもとめた。








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈『朝狩』の現実認識〉

岡井隆『朝狩』の評価について。
大岡信が、モチーフに自己主張の表立たないような「リリシズムと完成を愛する」としたこと。
前登志夫は「土地よ、痛みを負え」三〇首について「この歌集の最も弱い部分、素直な章、いわばピアニッシモのところを叩いて、単調な詠嘆のなかに、岡井隆という作家の全存在を直接するおもいで感じる」とした。

葛原妙子は「群論」について「作者はこの一連の中で〈群〉なるものの生態を追及することによって〈群〉自身に批判を与え、併せて自らの立場を語ろうとするもの」として評価した。
「群論」は、自註によると「個と群という図式を、さまざまな喩と体験とを溶接することによって、定型短詩のうちに生動させることができはしないか」を企図したとされる。


開かれてやがてはげしく閉じらるるさびしき窓ぞ 他者の手のため/岡井隆


「婚」について篠は「新たなる性愛に苦しみながら没入していく姿がうたわれているとともに、それが喩になって、安保体験後のわが国のあがきそのものがうたわれているのではないか」とした。

岡井は昭和三七年より個人誌「木曜便り」をはじめ翌年に「木曜通信」をはじめた。週刊の葉書通信。定型を定型たらしめているものを模索した。

この時期を「定型における韻律を活かすことによって、どこまで「抽象的思考」を感性化しうるか、しかも、それがまた、現代人の現実認識になり得るかという課題であった」と篠さん。







篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈前登志夫の修羅〉
前登志夫は前衛短歌から離脱してゆく。塚本邦雄『水銀伝説』について独自の評価を見せる。「著者の自負する美の極致も、壮大な観念の形象化も納得できない。なるほど観念発生の構図は比類なく豊富に展開される。だが、観念それじたいがない。では何を読むか。卓抜な諷刺の魅力だ。エスプリ(機智)のものを貫く見事さだ。ユーモアだ」


前登志夫の「時間」三〇首(「短歌」昭和36.6)は傑作。高安国世や藤田武が評価する。
藤田「「自然の中に再び人間を樹てる」というテーマをもつ前登志夫にとって、一つの飛躍がなされたといえる佳作だ。」


翌年の「交霊」三〇首は呪術的なアニミズムの世界をもつ。同世代者から評価された。
また「転形期における伝統意識」というエッセイがある。短歌前衛に旅行詠を提案し、また、みずからの作歌の基点をたしかめようとした内容。








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第七章・「前衛短歌」から現代短歌へ
〈武川忠一と馬場あき子の変貌〉
武川忠一は素朴な自然主義的方法からの脱出を模索した。古代に執着し、古代の呪歌、神がのりうつって神意をつたえる巫女の世界をうたった。


あるときは襤褸の心縫わんとしき襤褸の心さらされていよ/武川忠一


自らに問えと決めしがある部分より炎のごとく昂ぶりしのみ/武川忠一


第二歌集『窓冷』は古代習俗の悲傷性にはじまり、現在の内面を錫出するという、そうすることによって矛盾に富んだ自己を衝こうとしたもの。



寝泳ぎに夕陽の長さ測りおりひとりの夏はもろ手にあまる/馬場あき子

能舞台を場とした「舞歌」が注目をあつめた。それと安保との関連。

騎手落ちし馬ははるかに疾走しかの激動の夏のうずしお/馬場あき子



つづく。


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2015年05月20日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第六章・東京歌人集会の周辺【後編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第六章・東京歌人集会の周辺〈フェスティバル“律”の公演〉

昭和39年6月に「フェスティバル“律”」が開催された。東京歌人会が協賛した、歌人の参加したイベント。
合計七本の演目。音楽、写真、ダンス、演劇、スライドなどと短歌が組み合わされた。
会場は超満員だったという。

冨士田元彦のいきとどいた評言。「青光記」は主題の明確さで成功をおさめたとする。
岡井隆はシンポジウムとフェスティバルの日時が重なったことについて書いている。

島田修二はフェスティバルの短歌ばなれについて書いた。「短歌というものをはるかにはなれて進行しているようでもあった」
岡井「はたしてこの場合、成功とはなんなのであろう」「型(かた)に復讐をうけていたのではないだろうか」
五島茂は共同制作において短歌が十分に機能していないことを指摘する。短歌の新しい可能性もあらわれていなかったとする。

寺山修司は翌年ラジオドラマで久保田万太郎賞を受ける。テレビドラマや演劇にもたずさわっていく。このフェスティバル“律”は寺山にとっての土壌づくりとなった。






篠弘『現代短歌史Ⅲ』第六章・東京歌人集会の周辺〈同人誌の運動〉

共同研究「戦後短歌史(三三)─同人誌運動」(「短歌」昭和45.10)
「昭和三三年から始まり三五年を一つのピークとして、三九年に至る時期は、戦後第一次の同人誌昂揚期とみることができる」

昭和三三年八月に短歌研究は「若い世代の同人誌」を特集する。核、環、青史、歴史、崖、前未来、早稲田短歌などが参加した。


奪ひしものあらば返さむしばらくは夕べのひかり丘は残して/小野茂樹 「早稲田短歌」


同人誌の成立の二つのケース。
1.地域的集団としての超結社グループ。同世代者による友好的結合と、特定の問題意識をもったものとに分けられる。
2.一つの結社の若手層が結集し、相互の批評を深めながら、母胎の結社よりも尖鋭化していったケース。母胎の結社に現代短歌の可能性を付加していったものと、結社から離れることとなりグループとして自壊作用を起こしたものがある。

昭和三六年には角川「短歌」でも同人誌の特集がくまれる。アンドロメダ、斧、仮説、核、果実、環、具象、走者、泥などが参加。


あがきつつ死にたる人を思うとき湧くごとく闇の中から馬がくる/百々登美子 「仮説」


どぶ川のあくたとともに流れゆくわれの屍に花もなげるな/山崎方代 「泥」



同人誌に対して否定的な声もあった。
葛原繁「自己の作品の指向方向の研鑽や、表現への努力から手を抜き、結社誌における長い修練を専ら回避して、逸早く名前を表わすための手段として同人誌を発行する傾向を生んでいるとすれば危険である」
「論が作品の未熟さを補うもの、あるいは未熟の作品と指向を正当づけるものと考えるなら、それは間違いである」
と仲間褒めになりがちな同士誌の構造を衝いた。

寺山修司「幻影の衝撃」はこの時期の適切な同人誌論とされる。同人誌の文学理念の曖昧さを指摘。同人誌間の交流に反対し「同人誌は孤立せよ」と提唱する。

塚本邦雄「錯覚への告発」
「多くの同人誌が、各結社の名店街的存在である限り、すべての同人誌的幻影はもとより不毛であろう」

「潮音」内部の若手層が中心となった「環」が注目される。短歌をめぐる既成概念を破ろうとする点で突出していた。読みごたえある特集をつづけた。
藤田武は一三号で「政治思想と前衛的表現をめぐる試論」を発表、一五号で「政治と文学の混迷を打開するために」を執筆。寺山との対立。
また「環」内部での抗争もあった。

昭和三九年六月に総合誌「短歌」の編集者が替わり、同人誌のありかたに影響した。急速に創刊が減少した。

同年十二月に月刊誌「ジュルナール律」が創刊される。若手層に発表の場が提供された。「環」の村木道彦が「緋の椅子」十首で注目された。有名なマシュマロの歌などを含む。

にんげんの濁声(だみごえ)ならんとどきくる向こうの森に目はくばりつつ/下村光男





篠弘『現代短歌史Ⅲ』第六章・東京歌人集会の周辺〈『現代短歌'66』の発刊〉

昭和41年10月にアンソロジー『現代短歌'66』が出版された。45人、'19年生まれから'41年生まれまで。「おおむね昭和三十年代に文学上の開花期、成長期を迎えた世代」とされる。
有名な塚本邦雄の「馬を洗はば~」や岡井隆の「アレキサンドリア種の曙に」が入っている。

股(もも)のあたりを洗ひつつをりわが体(たい)の細胞はいくたび代(だい)かはりしや/上田三四二


篠の「現代短歌論」をめぐって玉城徹、藤田武の論争がおこった。
篠弘はマルクス主義の崩壊により戦前世代の戦後短歌は終わったとする。

アンソロジーは78年まで2年ごとに持続した。


この章おわり。


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2015年05月12日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第六章・東京歌人集会の周辺【前編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第六章・東京歌人集会の周辺
〈東京歌人集会の運動〉

昭和三一年六月に発足した青年歌人会議は三四年三月に解散。全国規模の超結社集団で四四人からの新人が属していた。
その二年後に東京歌人集会が結成された。岸上大作の死と関わりがある。岡井隆、篠弘、藤田武、武川忠一、吉田漱が中心となる。二〇人に案内状が送られた。

「東京を中心として組織する」
「隔月に定例研究会をもつ
」。

例会は「いわゆる前衛短歌の問題点」「国語問題と短歌」「前衛俳句の問題」……とさまざまな問題について話し合われた。シンポジウムもひらかれた。

昭和37年、関西にもグループがうまれる。関西青年歌人会「黒の会」。塚本邦雄、前登志夫、吉田弥寿夫、山中智恵子など。東京とちがうのは、多くの同人誌に支えられてシンポジウムが運営されたこと。

東京歌人集会は昭和三八年四月に「一九六三年・現代短歌シンポジウム」を主催する。全国から一一二名からのメンバーが参加。テーマを掘り下げるのはむずかしかった。

三者の「評論による問題提起」。塚本邦雄「現代短歌における方法の研究、その美学と倫理について」、森正博「伝統を無視せよ」、島田修二「『場』について」にはすくなからぬ反応があった。

「作品による問題提起」では佐佐木幸綱「『あなたの子供が欲しい』なんていったくせに。馬鹿野郎」十首が注目された。



昭和三八年から三九年、東京歌人集会は二期の活動をおこなった。シンポジウムに積極的に参加し、例会をひらいた。

不意に首が切り落とさるる感じにて昼の花らのなかに眩暈す/新井伸一

東京の二回目のシンポジウムについて書いてある。政治詠の方法、あらたなる定型意識、共同制作の可能性、始源回帰としてのセックス、同人誌運動の果たす役割などについて論議された。


角川書店「短歌」が昭和三九年五月号をもって編集責任者の冨士田元彦を更迭した。前衛歌人の起用、シンポジウムのレポートが東京歌人集会寄りの編集となったこと、共同制作の掲載などに、旧世代からの反発があったという篠さんの見解。
冨士田から片山貞美の手に移った「短歌」は「昭和十年代の短歌」を三回にわたり特集するなど、歌人層のひろがりを意識していった。
総合誌に期待できなくなった東京歌人集会の歌人たちは発表の場として『現代短歌'66』を刊行することになる。その後の慰労会を東京歌人集会の正式な解散と篠さんは見る。








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第六章・東京歌人集会の周辺
〈「共同制作」の明滅〉

島田修二はシンポジウムで「『場』について」という提言をおこなった。「集団の詩」について論じられている。集団の詩、共同制作的な「連歌」の復活がもとめられた。

「律」三号に塚本邦雄の構成・演出による共同制作「ハムレット」が発表された。ハムレット役の佐佐木幸綱をはじめ、キャストとして歌人十名が参加した。短歌がちりばめられ、連歌になっている場面もある。
賛否両論がうずまいた。


谷川俊太郎、寺山修司、佐佐木幸綱による「祭」は「はじめは単なる音にすぎないものが、しだいに言葉を探りあててゆき、やがて形を得て、定型詩のリズムにはまりこんでゆくような、定型詩までの〈ことば〉同士の葛藤をすべて記録したみよう」という寺山の意図で制作された。
「村的な、いってみれば集団の虚ろな結合を鎖を絶ちきった祭のイメージそのものが、創造的な空間として、鮮明に形象化された」という城本雁の評価。城本雁は冨士田元彦の筆名。

塚本の「ハムレット」に対抗したのが、山田あきの構成・演出による定型詩劇「蟹工船」。社会派のメンバーが名を連ねた。これには歌壇内外からきびしい批評がなされた。
藤田武「個々の作品は自然主義リアリズムの克服の姿勢を示しながらも、散文的、説明的表現でドラマの内容を伝達しようと焦り、逆に思想の画一性を招いている」

共同制作への批判。
久保田正文は塚本の「ハムレット」を「日本印刷文化見本市のサービス用試作品にすぎぬ」とした。山田の「蟹工船」には「いよいよペーパー・シアター御用共同制作時代来るとあわてふためいた伝統派女流歌人や、民主主義派歌人が、白髪染め、紅かね塗って走り出したのだから、なんとも滑稽を通り越して悲惨のきわみというほかなかった」という。

木俣修は、共同制作の試みは短歌本来の動きとは別個のものであり、それによって短歌にプラスされるものはないという見方をしめした。

「共同制作が生まれてくる背景には、作品における「私」の拡大という希求があった。事実としての「私」の個人主義的発想からの脱出があった。」
「みずからの歌うべき主題の喪失を予知していたからでもあった」
と篠さん。

共同制作に場を与えた角川「短歌」の変質により、共同制作は衰微していった。



つづく。


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2015年05月06日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第五章・私性と虚構をめぐる論争【後編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第五章・私性と虚構をめぐる論争
〈「まひる野」の日常性論議〉

篠弘が塚本邦雄の「幼帝」を評価したこと。モチーフの新しい日常性と、それにともなう喩の直截性を評価した。

筑波杏明の作品をめぐる、篠の評価とそれに対する寺山の批判。
篠は「のびのびと自己のヒューマンな内部をあらわし、おおどかに抵抗感をあらわした点を評価した」とするが、
寺山は「あくまで、筑波杏明の置かれた現実への関心であって、表現された世界への関心ではない」とした。
寺山は「断崖」を対象とし、篠は「警棒」を対象としていて食い違いがある。


寺山は滝沢亘の『白鳥の歌』を批判する。滝沢の関心はつねに「自分の私生活」であるとし、いくら病人ではあっても、なぜ「いまある現実」しか詠めないかともどかしがる。塚本の賛同と、水野昌雄の反対。









篠弘『現代短歌史Ⅲ』第五章・私性と虚構をめぐる論争〈岡井隆・小瀬洋喜の「虚構論議」〉


兄たちの遺体のごとく或る日ひそかに降ろされいし魚があり/平井弘

平井弘は「兄」を創作し、細江仙子は「祖父」「母」を創作した。日本人の血脈にうったえる「母」「兄」といったフィクションに私性から脱却する可能性があると小瀬洋喜は「イメージから創作へ」で述べる。

岡井隆はこれに応える。
「平井の場合「兄」が虚構と考えるより、そういう「兄」をもつ「われ」が仮構であり、作者のアルター・エゴの化身と考えるべきではないか」
リアリズムの発想にフィクショナルな人物を接木するような試みにたいしては、岡井はきわめて否定的だった。

小瀬の反論は分析的なものだった。
塚本や岡井に〈うそらしい本当〉への努力があったとしても、平井の〈本当らしいがうそである本当〉という、もう一つの世界への躊躇がみられるという。

小瀬の分類はあまり歓迎されず、「図解して、ていねいに説明しているだけのことで、何ら新しい見解が示されているわけでもない」(黒住嘉輝)といった反応があった。








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第五章・私性と虚構をめぐる論争〈「非日常」をもとめる論議〉

岡井隆の「〈私〉をめぐる覚書」の三つの方式。
第一、作品のなかの「われ」と作者自身が一体である方法。

第二、作品における「われ」と作者との間に第三の人物が介在して、「われ」と作者を媒介するケース。「ナショナリストの生誕」「思想兵の手記」。歌の作り手を仮構することによって、表白された作品の内容に客観性や普遍性をもたせようとする。

第三、一首の歌に三人称の主人公を仮構し、そこに「作者の分身」を定着させようとする方式。農民歌人である草野比佐男の「Q氏もの」がこれにあたる。


脂ぎる僧の読経のながながし Q氏逝き収奪のとどめの儀式/草野比佐男「Q氏の死」
「われ」ではないQ氏という「彼」を創ったことによって、はじめて可能となった自害の歌。

寺山修司の「Q氏もの」批判。「歌が比喩でしかなくなってしまった」
「短歌の特性は「われ」という言葉で他者を語るところにこそ、むしろ特色を持っている」


山中智恵子、前登志夫、菱川善夫の論が紹介されてこの章はおわり。


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2015年04月24日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第五章・私性と虚構をめぐる論争【前編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第五章・私性と虚構をめぐる論争
〈「私」をめぐる論議〉


寺山、岡井、塚本らの私性論議。20ページあっていつもより長い。

塚本邦雄「牡蠣は棘を」
「戦後十年間、廃墟の地図のように変転した歌壇に、ただ一ついじらしい位頑固に守り徹されてきた「黙喫」のようなものがある。それは事実(決して現実でも真実でもない)に対する殉教的なまでの忠誠、経験と実践のものへの処女のような羞恥心、そしてメタフィジカルな世界への生理的な反撥である」


昭和36年。寺山の岡井批判。「土地よ、痛みを負え」の頃。
全体の概念のなかに「私」を拡散させたままで、十分に「私」を収拾しきれていないとした。岡井の方法上のさまざまな試行が、いっそうトータルな人間像の造型をあいまいなものにしていると。「拡散と回収」という言葉がでてくる。

菱川善夫はこの論議にきびしい。「戦後短歌史論」のなかで語られる。
「〈私〉性への批判が、本当の批評意識として稔るためには、「アララギ」の中から出発した近藤のような〈私〉の変革を、十分見据えたところから出発しなければならなかった筈である」


寺山の「メモリアリズム」という造語がでてくる。メモリアルとリアリズムを合成させたもの。日常のメモを記録したところで、自己肯定を前提にした「私」短歌にしかならないことを揶揄する。


娘売る相談すすみいるらしも土中の芋らふとる真夜中/寺山修司「戦後姥捨山」


寺山の「戦後姥捨山」と「恐山」はみずからの私論の提唱に対応するものとなるが当時の評価はきびしかった。
「出てきた〈私〉は表現者、主体としての寺山と、どの程度、結びついて感じられるかというと疑問が残る」という梅田靖夫の批判。
篠さんは「無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうる」という寺山のテーゼはひとまず達成されたと見ている。


岡井隆の「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後の一人の人──そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです」という有名な言葉がでてくる。







篠弘『現代短歌史Ⅲ』第五章・私性と虚構をめぐる論争
〈岡井隆・滝沢亘の「暗喩」論争〉


滝沢亘は「詩の計算」(「短歌研究」 昭和36.7)で塚本邦雄の二首をとりあげ批判する。
不渡手形遡求権のごとき恋 されば六月の鯖かがやける/塚本邦雄
滝沢は上句の〈恋〉にかかる喩が難解であり、そこに誤算があることを指摘。
これに対し岡井は、失敗作と認めたうえで、上下句間の対応にウェイトを置こうとした。そのうえで「上下句間の飛躍が、定型のもつ綜合力をこえているため、喩が正確に喩として成立していない」とし、そこに問題があると応えた。また、失敗作をあげつらうことのマイナス面を考えていた。
滝沢は批評態度については自分も岡井もよくわからないと首をふらざるをえないとあらば、「表現に欠陥があるものと断定して差し支えない」とする。


釘、蕨、カラーを買ひて屋上にのぼりきたりつ。神はわが櫓/塚本邦雄
について滝沢は、「櫓」が「ろ」か「やぐら」かがルビにより限定されていない点を批判する。岡井は「かみはわがやぐら」はルターの高名な讃美歌であるとする。滝沢は「御詠歌や讃美歌というものは、特定の教団や宗派にのみ通用する方言のようなもの」とゆずらない。

釘、蕨、カラーの暗喩について滝沢は「この一首からそれを読みとるのは、作者と暗号表を取り交わしていない私たちには全く不可能」とする。
岡井は「喩の「暗号表」的な固定化こそ、もっともつまらない非詩的な日常的な喩の世界への転落である」
「そんな子供だましみたいな「書き換え遊び」では、現実は表現できません」
とする。


労働にたへざるわれに空梅雨の市電火花を散らしつつ過ぐ/塚本邦雄

アララギの「歌壇作品評」では、こうした歌が理解され評価されている。解釈不能の歌については批評を保留している。これは滝沢の態度とは差異がある。
岡井「滝沢のあげた二首が、喩の両脚が開きすぎたために憤死しているとすれば、「アララギ」で話題になった二首は、両脚が即きすぎていて喩の機能を消失し、一見平凡な写実作品に見まちがわれてしまったということなのでしょう」


いづこにか時の溜まりてゐるごとく夕茜して音なき戸外/滝沢亘

仔を産みて穢くなりし白猫のあゆむを見つつ次第に苦し/滝沢亘




この章つづく。


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2015年04月17日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第四章・思想表現と文体の論議【後編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議
〈岩田正・水野昌雄の抵抗歌論争〉


岩田正は「抵抗的無抵抗の系譜─人民短歌運動批判」(「短歌」昭和36.7)を発表。論争となる。

「人民短歌」は昭和21年創刊の新日本歌人協会の機関誌。プロレタリア歌人中心。昭和24年に「新日本歌人」となり、日本共産党と直結するグループとなったとのこと。

岩田は論文のなかで、指導層のひとり、一条徹の排他的なありようを批判した。
岩田は赤木健介や一条徹の歌をあげ、その「作歌基盤の平板性とともに、詩としての抒情性の欠如」をあきらかにした。

また、人民短歌運動の内部において「反省」や「自己批判」が機能してこなかったことにふれる。
水野昌雄は「前衛短歌から学ぶ子とのできるのは、彼らからは学ぶに価するものが何もないということぐらいのものである」とした。
これを岩田は批判する。「技法的なたちおくれを克服する唯一の、不可欠な条件が、技法と表現による様式美・造型美にいのちをかけている前衛短歌を、分析し吸収すること」だととなえた。これについてやり取りが繰り返された。

水野「わたしの場合、前衛的手法であっても、写実的手法であっても、基本的にはそこに表現されたリアリティの質の問題なのである」
「克服すべきは写実的手法におけるリアリティの質の低さであり、前衛的手法のリアリティの低さである」








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議〈「新日本歌人」の内部論争〉

一条徹の「上げ潮をむかえるために」での安保詠の評価の仕方は、岩田正や水野昌雄の反発をまねく。一条が土屋文明の安保詠をもち上げたことに対して水野が反論している。

岩田論文について、赤木健介が「新日本歌人」を守る立場で反論する。お互いの歌をあげて批判している。
「評者の実作をくさして黙らせるという、茂吉のしばしば論争でつかう手口が、ここに見られたことはさびしい。ここにおける内部論争は、岩田を転向した卑怯者として、「新日本歌人」から追い出すことにあった」と篠さん。

赤木健介の岸上大作批判、岡井隆批判に岩田は反論する。岸上の「足裏の清しき論理」や岡井の『土地よ、痛みを負え』の「朝鮮人民住区にて」について岩田は説明している。

赤木は岩田に「トロッキスト的インテリゲンチャ」というレッテルを貼ったとある。
「党におけるトロツキズムとは、反ソ反共、スパイ、裏切者などと、ほぼ同義語に使われていた」と篠さん。

リカ・キヨシは時評のなかで、技法の拡充にふれる。前衛短歌を拒否するムードの濃厚ななかで、学ぶべき技法がより身近にあるとして、「新日本歌人」以外の作風に目を留めるべきことを述べる。滝沢亘や草野比佐男の作品があげられる。
次の時評担当の森正博はリカにならって石川不二子の作風をあげた。

リカや森が文学を政治よりも優位に置こうとしても幹部は動こうとしなかった。
森は前衛短歌に関心をもち、理解しようとしていた。「新日本歌人」の幹部は森のそうした傾向には否定的だった。


老年期不当にながし母は黄の歯に味噌汁を音立てて吸う/森正博


「岩田論文は「新日本歌人」の系譜と現状にスポットを当て、これを現代短歌の俎上にのぼらせた、いわば最後のチャンスであったと言えようが、共産党という政治組織に結びついた集団からは、文学の主体性をよみがえらせることができなかったのである。」と篠さん。






篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議
〈短歌本質論の形成〉

昭和35年に創刊された不定期雑誌「律」は短歌評論を中心とする。

上田三四二は「詩的思考の方法─あるいは、隠喩論」(昭和37.2)で、「詩は論理の絶えたところからはじまる」とし、直感や大胆な試みをもとめた。


泥のごとき茶殼が沈澱するを持つ手の椀(もひ)はわが危うきこころ/上田三四二『雉』



前登志夫「現代短歌試論─うたうという存在」。
近藤芳美と塚本邦雄への批判。近藤の政治詠は「現実は著しく膠着状態に陥り、観念だけが詠嘆をまじえて視野を蔽ってしまう危険がある」
塚本の作品のモチーフは「記号化の方にむかっており、言葉として存在することの乏しい」ことを指摘。メカニックな技術的思考を問題視していた。


母は熟し妹実るはつなつの檻の扉(と)とこしへに閉ざせ胡麻/塚本邦雄『水銀伝説』

(この次に書いてある実存うんぬんのことがよくわからない。)
「「うたう」ことによって、特異な思惟の世界を「一たび実存の暗黒に投げ込む」ことによって、そこに「生の内側から支えてあらわれる意識」の獲得がもとめられたのである」


次に菱川善夫の「戦後短歌史論」。
第二芸術論について、短歌がまことの現代短歌として生誕する好機を失ったと分析。岡井や寺山について批判的に論ずる。
(これも、いろいろ書いてあるが難しくてよくわからなかった。)







篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議
〈現代歌人論による究明〉

昭和三十年代後半は、短歌本質論のほかに、歌人論も活発だった。
上田三四二の岡井隆論、塚本邦雄の坪野哲久論、寺山修司の塚本邦雄論。

「ぼんやりした不安」などと書き遺して命断ちたる心理をおもふ/宮柊二


山本成雄の宮柊二論、岡井隆による批判的な高安国世論。
武川忠一の窪田空穂論、上田三四二の斎藤茂吉論。上月昭雄の佐藤佐太郎論、吉田漱の斎藤史論。
上月の佐太郎論では、「戦後短歌にもっとも欠如していた部分を埋めたのが、佐藤佐太郎の美学であった」とする。


この章おわり。


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2015年04月06日

篠弘『現代短歌史Ⅲ 六〇年代の選択』 第四章・思想表現と文体の論議【前編】

篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議
〈リアリズムの坩堝〉

(山崎芳江と田井安曇が取り上げられる。一人か二人ずつ、歌人が昭和35年前後に何してたかというのがしばらく続いている)



あるいはわれら標的にならんともかかげゆくべきこの旗は鳴る/山崎芳江

底辺の一人たるべし 無防備の最底辺のひとりたるべし/山崎芳江



ぼくがデモに行くことを拒否した彼のその時彼の耳長かりき/田井安曇

夕ごとにかの国会に帰りゆき坐りき〈戦後〉育ちの臀部/田井安曇



「反安保をうたった山崎にくらべてみても、山崎がオーソドックスな方法であるのにたいして、田井のほうがフォービズムのそれである。生まな直観と意識、他者と自分、それに過去と現在を交錯させている。そのうえ激しく自嘲するような、みずからを突き離そうとする文体をもっていた」
と篠さん。








篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議
〈特集「短歌における思想と文体」〉

「律」二号〈昭和37.6
〉の特集「短歌における思想と文体」は五人の評論からなる。


いたわりの優しきまなこあつめつつ論理おさなき紅き唇/岩田正「地下三〇五号室」(「短歌」昭和36.6)


岩田正「思想と表現の関連性─安保短歌をめぐって」は六人の作者をあげ、それぞれがどの程度にまで危機の本質を迫りえているかを分析している。岡井批判(闘争との距離感を指摘)がある。岸上大作の「血と雨にワイシャツ濡れて~」などを評価している。

篠弘「ドキュメンタリスムと思想」は表現主義の危うさを指摘するもともに、その危うさをまぬがれる方法として、日常性の獲得と私性の回復をドキュメンタリスムとして提示。そしてまた、シュールレアリスムの援用を考えようとしていた。

藤田武「思想と文体のかかわりについて」は、短歌における表現、思想、文体を分けて考えながらわ独自な文体を獲得することの必要性にふれていく。人民短歌運動批判。塚本と岡井について。現代語の活用。

山本成雄「思想と文体に関する仮定的な考察」
赤木健介と、土屋文明・近藤芳美の作品をあげる。作者の思想性と作品の思想性とは、きびしく弁別されるべきであるという前提にたつ。

山本「思想とは固定したものではない。強靭でしかも確固として揺ぎない半面をもつと同時に、柔軟な流動性を内部に潜めて、この現実を、どう把握し、どう生き抜いてゆくかという、ひとりひとりの人間の生き方を、その深層において律するものだ」
「文体とは、ひとりの人間の思想が、精神が、またその意識構造が、詩の発想を要求して、表現に定着せしめようとするときの、その定着の方法、あるいはその方法の軌跡でもあるし、作者の内的秩序を探るためには、たんなる作品の意味的表徴的要素によるばかりではなく、この文体に対する厳密な検討を必要とするのである」




勢ひの前には脆き平和かと思ふとき又何にすがらむ/近藤芳美『静かなる意志』


水野昌雄「憶良について」は、万葉のなかでもとくに生の執着をつづった憶良をおいて、思想と文体との関わりが明瞭になっているとして、憶良を手がかりにこの問題に応えていた。

それぞれの論文についてまとめられているとともに、執筆者のこのころの実作も置かれている。
きょうはここまで。






篠弘『現代短歌史Ⅲ』第4章・思想表現と文体の論議
〈短歌的抒情をめぐる論議〉

昭和35年の「短歌研究」での議論。
福田定良という評論家が「歌人がもっと俗化しなければならない」と提言する。現代短歌における相聞歌の不振に大きな疑問を呈した。ダイアローグとしての相聞形式の必要性を主張。

(「ダイアローグ」って対話だねつまり。)

水野昌雄はこれに関心をしめす。「歌よみと歌よみならざるものの溝」において「気恥ずかしさ」を「公然性」たらしめたいとした。

評論家・村松剛は「短歌の抒情性─覚書として」で、短歌の閉鎖的な傾向を指摘した。
「ある社会行動も、概念的、公式的にではなく、肉感をこめてうたい、しかも私小説に堕さないということが、いまの短歌で、いかにして可能なのだろうか」

詩人・笹原常与は「短歌は弱い心の棲家か」で、小野十三郎批判のかたちをとりながら「短歌的抒情」のありかをさぐった。


菱川善夫「行動的抒情の論」
「答えは明白だ。状況に対する主体の回復をおいてはない。主体的な行為と行動の確立、そこから抒情をくりひろげるということだ。主体の文学として成り立つと同時に、状況の文学として成り立つ可能性は、そういう行動的な抒情の論理に支えられてのみ可能であろう。」


(英文学者で評論家)野島秀勝「短歌的抒情弁護の試み─一局外者の反語的独白」
「現代にあって、この概念化し一様化した時代に、抒情の枯渇したときに、詠嘆とはまた一つの決断に他ならぬ。誰か見事な詠嘆をうたってみせてくれないか。出来合いの現代嘆き節でなしに、悲しみの岩盤を堀りあてるものはいないのか」

高安国世「短歌的抒情という言葉をやめよう─短歌の正しい発展のために」
「歌は今日の生活を如何に真剣に生きるか、ということから生まれたものでないと、そらぞらしい。もちろん、如何に生きるかは、単に政治的倫理的意味には限らない。自己の正しい、十分な成長をねがう心さえあれば、そこに必ずぶつかってくる問題がある。客観的情勢がある。それとぶつかるところに今日の抒情は成立する」


今日はここまで。


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