久しぶりに『増野鼓雪全集』からの引用である。


「人間の目から見て大変よいことをして居る積りでも、神様のお目から見ればそれが大変に悪いことである場合がある。が又その反対に良くないことだと思うて仕て居ることがよいことである場合もある。これが神様と人間の違う所で、あたかも鏡に向うた様なもので、われわれに右の手が左に映り、左の手が右に映る様なものである。
 でわれわれが一寸でも良いことをして居ると、己はこういうよいことをしたんだという考えが頭にコビリ付いて、何時まで経っても取れないことがある。それが却って悪い結果をもたらすことがある。所が反対に悪いことをして置くと、却ってよい結果を生んで来ることがある。
 例えば教校を優等で卒業した人は、己は偉いものだという頭が生涯取れないから、優等の割合に実地にやって見ると成績がよくない。しかし仮級第で出して貰った様な人は、その頭で一生懸命きばるから、卒業してから大変によい成績を表はすことがある。ですから神様が判断なさることと、人間の頭で裁いたこととは非常に違って来るものである。
 懺悔するのにしても、何か悪いことはなかったかといふ風に悪いことばかりを探しているから、何時まで経っても助からぬことになる。善いと思うてして来たことさえ探せば、それでわかる筈である。というのは善いことの裏にはきっと悪いことがあるからである。
 人に褒められている人でも神様に叱られて通る人もあれば、人に憎まれて居ながら神様に褒められて行く人もある。だから自分のことはまして自分では解らぬから、出来るだけ人から聞かして貰って通る様にせねばならぬ
。」
 (『増野鼓雪全集 6』 131~133頁より)(一部表記改)

自分で良い事だと思ったことが、神様から見れば悪い事かもしれないというのだ。

私が思うことには・・・

自身が相手より利口だから、立場が偉いから、年上だから、などと言うものに捉われる余り、任意といって勝手気まま見下してくる人もいれば、またそれを良い事と思い人を叱ったり説教したりする人もいるかもしれない。
それは神様から見れば当然悪い事だと、周りも悪い事だと分かる筈である。

しかし、かといって、やられた方はソレを指摘してその人を潰すことは、これまた良い事といえるのだろうか・・・
「やられたらやり返す」「取られたものを取り返す」ような精神で果たして、いんねんは切れるだろうか・・・

我々は、みな常に成人の途中の未熟な子供である。
いくら偉そうにしていても、人間が利口だの年上だの言うのは、
それは神様の目から見れば、たかだか大きい子供と小さい子供が居るにすぎない事ではないか。

人の評価を求める内は、きっとまだまだ未熟な証拠であろう。
我々は、たとえ人から笑われそしられようとも、常に神様から評価される人間であるべきである。