2013年10月

たしか平成十二年か十三年だったと思う。NTTはすでに分割しており、本社機能的なものは大手町の持ち株会社がおこなっていた。
この頃私は、渋谷の神山町に住んでいたが、相変わらずの外人好きで、六本木、赤坂の外人クラブを飲み歩く毎日であった。
ひょんなことから、渋谷にロシア系の外人クラブを見つけて、通うようになっていた。連れは、十数年来の外人遊びの友、Y氏である。
Y氏は、文筆業をしていて、後に大学の講師を務めたりするような立派な人物であり、私も色々教えてもらった。
ただ外人好きという点では、私も時に負けることがあり、いつも我が外人友の会会長と呼んでいた。因みに私は、事務局長と自称していたが、別段そんな会が正式にあるわけでなく、一緒に外人クラブに通い出す者がいると,私とY氏で勝手に会員認定していたわけである。互いに貴方のせいで、今夜もまた飲んでしまったと飲み屋に居る言い訳にして、明日からは清く正しく美しく生きようと約束することが日課であった。守れ無いのだが。
そんな中に現役のS会系暴力団組長Fがいた。ヤクザ者との付き合いを、完全に絶っていたわけでは無いが、普段はなるべくヤクザ者と飲むことは避けていた。しかし、Fはなかなかお茶目なところがあり、切れ者でもあり、その上女を口説く術に長けていた。そんなFを別格扱いにして、一時期はよく一緒に飲んでいた。
そんなFから、ある話しを持ち掛けられる。
Fの親分が面倒を見ているM建設が、江東区医師会病院と付き合いがあるのだが、今、江東区医師会病院は区内に物件を探している、現在は使用されていないNTT男子寮が江東区内にあるが、これを江東区医師会病院に売却してくれないか、売却してくれればM建設が建築を請け負うことが出来るからと。高額の報酬も提示された。
ヤクザ柄みが気になったが、全てM建設と江東区医師会病院しか表に出ないということで、私はこの件を纏めるため乗り出す。
結果は上手くいく。現在たしか江東区医師会病院別館だと思ったが、それがあることが証拠だ。
私は高額の報酬を受け取り、Fもそれなりのものを手にしたと思う、金額は聞いていないが。
その後Fは最高級のレクサスを、M建設よりリースしてもらい、赤坂に事務所を構えたので、親分筋からも認められたのだろう。
この頃他にも、同じくS会系のI組長に飲みに誘われ、そこで建設関係の経営者を紹介されたことから、NTTドコモの基地アンテナの設計や施工などを発注してもらった。ドコモ、アンテナ建設は、ドコモ関連会社を名乗ることを許された下請け会社がおこなっていたが、そこに私がI組長に紹介された業者を連れていった。
これ等のことは、全て持ち株会社を通しておこなったのは当然である。
この様なことは、それからも度々あったが、何故そんなことが私に出来たのか、脅しで約二十年に渡り、そんなことが出来るか、考えてもらえば分かると思う。
私もなかなか腕がいいが、何よりNTT側の欲と思惑があったから出来たのである。
その理由については、複雑なので追々書いていくが、まずはNTTドコモやコミュニケーションズの広告を始めた経緯を書いてみたい。

江東区のNTT男子寮売却について、江東区医師会病院が別館を建てたように書いたが、もしかしたら別館とは違う名称だったかも知れない。何しろ十数年前のことなので、記憶がはっきりしないが、何か建物の名前がそこまで出かかっているような気もするのだが。
とにかく、手元に当時の資料が無いので、いずれ資料を見て、間違いであれば訂正する。

官僚がよく使う言葉に、あの人はサムライだ、というのがある。
NTTの人も同じように、サムライという言葉をよく使う。勤め人らしくなく、豪放で腹の座った幹部などを評して使う。最も今やNTT内でも、うちにサムライはもういませんよと言うぐらいになっている。
このことは、長くNTT幹部を見てきた私も感じていた。あるNTT職員が、うちの役員も皆サラリーマン化してしまいましたからねと、よく話していた。
ある時NTT社内で、そのサムライ云々の話しになった時、一人の課長がこんな事を言った。
鴻池さん、知ってます、うちの役員が一人問題になっているんですよ。夜な夜な家の近所を彷徨いて、格好もおかしいらしくて、Tシャツに短パン、野球帽を目深にかぶり、リュックサックみたいなものを背負ってるらしいんです。夜中の三時とか四時に。おかしいでしょう。うちの他の役員はどうなっちゃたんだろうと頭を抱えてますよ。昔ならこんな噂が出たら、大変なことになってますよ。
と言い、それでどうしてるの上の人はと、私が聞くと、まあ何かあったら困るので、それと無く様子は注意して見てるようですよ、などと彼は話していた。
NTT役員はストレスが溜まるのか、それとも単に少しいかれたのか、何にしても危なっかしい話しである。
某課長は、ただ最近の役員は重みがない、昔みたいな豪胆な役員はもう出ないのかと、嘆いたのだろうが。
十数年もNTTに、週三日も通っていると(よく出社しているようですねと、冷やかされたりした)、こういった話しを社員のように耳にした。
私が見てきたNTTでは、過去にはサムライと言える人が多数いた。
第一に上げるのが佐田氏だが、他にも島津氏、大星氏などがいた。児島元会長や鈴木正誠氏も強烈なサムライ肌だったんだろうな。
自殺した田島氏も、残念な死に方をしたが、立派なサムライ肌の人だったと思う。
私は田島氏とは、自殺する数ヶ月前にNTT関係者の紹介で会った。場所は代官山の、タブローズというイタリアンレストランであった。以前にこのNTT関係者に、このイタリアンレストランを紹介していて、気に入ってくれたらしく、よく使っていたようだ。この時もたしか、今夜タブローズで友人と食事をするが来ないかと誘いがあり、いったものと思う。
そこで、田島氏を紹介される。たしかこの時、田島氏はNTTドコモの副社長であったと思うが、紳士でなかなかの人物であった。
その後も会うのは、いつもタブローズであったが、その時の会話は、今はあまり話すべきではないだろう。
田島氏が、自殺して亡くなったことを聞いて驚いたが、心情は分かるような気がした。
その後、紹介してくれたNTT関係者が、葬儀の際に焼香の場で、貴方が死ぬことはなかった、責任を負わなくならない者は他にいるではないかみたいなことを、萬座の席で言ったと本人から聞いた。回りは黙って下を向いてしまったと話していたが、真偽の程は分からない。
NTTという会社自体の利に走らず、日本の通信を担っていると自負し、誇り高かったNTTは何処にいったのだろう。
長い付き合いから、NTTには深い思い入れがあったが、街の商売人になったNTT日本電信電話株式会社には、もう未練は無い。

私論 経済と国家論3
どうも私には、こんな大層なタイトルの話しは、無理だったようだ。
考えとしては、確たる持論があるのだが、文字にするのは難しい。大体子供の頃から、お国のことは語るべからずという社会で育ってきたので、あれは、これは書いてもよいかと、悩んでしまい上手く書けない。
そんな訳で、今回で止めにする。
経済や政治について書こうと思い、普段よりも気にしてニュースや新聞を見ていると、今更ながらがっかりしてしまった。もはや日本は、どうしても救われないような気がする。
まあ私なんかが、そんなことを言うのもおこがましいが。
とにかく、この項は終わりにします。
代わりに日本に住む外国人について、少し書いてみたい。
私は過去幾度となく、外国人女性と結婚していて、同棲した外国人女性も数知れず。ハーフの子供も何人かいる。自慢できたことではないが、外人好きな性分だから、仕方がない。
そんなことから、外国人女性だけでなく、様々な外国人とこれまで接してきた。やくざであったことも、不良外国人などと知り合う、機会を増やしたと思う。
そんな経験から、日本はあまり外国人を受け入れない方が良いと思う。
日本にいる外国人は、皆日本人を舐めていると思って間違いない。
このことで私は、いつも情けなくなる。日本人が悪い訳ではないが、日本人の良さが裏目に出てしまう。それと何より嫌なのは、外国人好きなことが、現在では日本人女性に持てない男の逃げ道みたいになっていること。
かって、昭和の時代、外人女好きの私や友人は、大変な思いで外人女を口説いてきた。当時、外人クラブなどほとんどなく、外国人が集まる青山や六本木の高級ディスコで、モデルの娘を口説いていた。日本人の女を口説くなんて比でなく、難しかった。そしてそれが最高にお洒落なファッションであったのに。それが今や、とにかく彼女が欲しい、結婚したいという情けない男のために外国人が日本に来ているかのようだ。 これについて、また何故外人好きの私が、外国人を日本にあまり受け入れない方が良いと思うのか書いていきたい。

A工業がNTTより、一般産廃回収業務を請け負ってから、私はA工業の顧問としてNTTと接するようになる。
銅線ケーブル回収事業に、参加できるようなめどはまるで立たなかった。A工業も、一般産廃回収業務でそれなりの仕事をしていたが、林哲也に騙されたことによる損害が大きく経営を圧迫していて、銅線ケーブル回収事業に期待していた。
いつ頃になれば、銅線ケーブル回収事業をやらせて貰えるのか、A工業社長は再三私に尋ねた。A工業社長は、いつ頃かさえ分かれば、うちはいくらでも待つ、だがそれがはっきりしなければ、予定も計画も立てられない、銀行と話し合うことも出来ないじゃないかという。
最もな話しである。一、二年のうちには必ずと約束したのに、すでに二年近く経過していたのに、何らの話しもなかったのである。 およそ経営というものは、予定や計画による準備が重要だ。準備をしっかり出来れば、その上で始まった事業は安心して経営出来る。そうでなければ、逆に経営は決して上手くいかない。しかし、NTT幹部のように、お役所的な考えをする人にはこれがなかなか理解されない。
まあ私が見るところ、この辺が優秀なNTTキャリアが、民間企業に行っても成功しない原因だと思う。私はそれはそれでNTT幹部、役員としてはよいと思う。NTTのような国策企業は、利益追求とは別の運営を必要とされるのだから。
だがA工業はそうはいかない。あくまで商売だ。しかも林哲也に騙され、損害をだし借金を背負っている。このままではいずれ、倒産してしまう。A工業社長は立派な人物で、決して泣き言を言わずにいたが、経営は逼迫していた。
私はその頃、週三日はNTT本社に居るようになり、それはNTTが分割して本社が持ち株会社に変わり、新宿から大手町に移っても今年(平成二十五年四月)まで続くことになるのだが、この頃は明確にA工業の代理人として、行っていた。
のらりくらりと、銅線ケーブル回収事業は先のばしされた。そのくせ、他の仕事に関して何かと提案してくる。しかし、NTT側が提案してくる仕事は、どれも単発物で長続きするものはなかった。
私個人的には、実入りのいいものもあり、NTTがらみの収入は増えていくが。
何故、三浦、宮崎両部長が銅線ケーブル回収事業を避けたのか、今は推測するしかないが、様々な理由が重なってしまい運というか間が悪かったんだと思う。
林に騙され、トラブルになっていた期間が長すぎたこと、このため光ケーブル事業に参入する時期を逸したこと。NTTの分割を控えた最中、林がらみのA工業を重要な事業に参入させることに、両部長が恐れをなしていただろうこと、さらに両部長が責任を押し付けあっていただろうこと。その他、今は色々想像がつく。
そうした目で、その後の両部長を見ると、東日本に行った三浦氏は、要領よく立ち回り会長になり、宮崎氏は西日本に行くが、そこで失脚してその後陽の目を見るなく、会社去った理由も分かる気がする。宮崎氏はサムライであった。
とにかく、銅線ケーブル回収事業参入は急務であった。
最終的には、私の交渉は上手くいかず失敗に終わる。
A工業とは変わらず、顧問をしていた。なんとかNTTがらみの仕事を出し、息を繋いでいた。ただ現状の仕事量ではまるで足りなかった。どうするか当時考えあぐねていたが、紆余曲折がありながらその後十五年ほど、A工業はNTTがらみの仕事をしながら、存続していく。
私は自身の仕事、ビジネスについても、あれこれ考え始める。仲介業というか紹介業のようなものを始める。つまり、NTTがらみの仕事、或はNTTの下請け、孫請けになりたい会社などをNTTに紹介し、紹介料を貰うことを始めた。
これは当たった。街の中小企業から、それなりの名前を言えば誰でも知るような会社まで、時には政治家の秘書なんかまで、私のもとに相談にきた。最初、紹介料は三百万だったり五百万だったりしたが、後に紹介料は三百万円と決める。
三百万円のうち、状況によりNTT側に五十万から百万を渡し、私に業者を連れて来て紹介した者に、同じく五十万から百万円を渡した。これは私が、別に宣伝している訳でないので、人づてに噂を聞いて業者を連れて来るというケースが大体だったからで、こうした私への業者紹介者にも謝礼を払っていた。NTT側には、この謝礼とは別に、他のグループ会社に仕事の相談に行く場合などに、手土産など手配した。NTT某幹部から、いくら同じグループ会社でも、電話一本でものを頼む訳にはいかないんですから、体で行って頼まなきゃならない時があるんですよと、釘を刺されたことがあったので。
A工業顧問とは別に、この紹介業が私のNTTにおける仕事のようになる。そして、前述したようにその後十数年に渡り、週三日もNTTに通うようになる。
ヤクザやその関係者は、紹介しない約束になっていたが、時々はそれを守れないことがあった。
これについて、書いてよいのか、少し考えるところがあるので、続きは次回に。

話しを、林哲也と訣別した後に戻そう。
林哲也とトラブルになり、NTTから林哲也との関係を断つと約束された頃、私はA工業社長と話し合いを重ねていた。
A工業社長S氏は、終戦後一人で事業を起こして、その頃は東京都産廃組合の副理事長を務めていた。
それが数年前に林と知りあったことで、大変なことになる。
そもそも、A工業社長を林に引き合わせたのはNTT幹部社員なのである。A工業は、元々NTT出入り業者であった。NTTがまだ木製電信柱を使用していた頃、A工業は所有する山林の木材を電信柱用としてNTTに卸していた。電信柱がコンクリートポールに代わると、古くなったコンクリートポール製電信柱を、破砕して処理するなどの事業をしていた。事業はそれなり順調であったが、当時不景気ということもあり、新たな事業展開を模索していた。
そんな時、A工業に声をかけたのが、当時A工業を担当していたNTT資材調達課長である。この資材調達課長は、親の代からNTT(電電公社から)に勤めていて、代々木にビルを建てて最上階を二世帯住宅にして親子で住まいとし、それ以外のフロアをテナントとして貸していた。
地下一階から三階までを、オフィスとして使っていたのが林哲也の会社であった。
NTT資材調達課長が所有するビルにオフィスを構え、その資材調達課長がうちの(NTT)幹部に顔のきく男だと言えば、大概の中小企業業者は疑いもせず言いなりになってしまう。A工業もそんな風にして、紹介され林を信頼してしまう。
それが、後に七億円あまりの金を林に騙し取られる原因となる。私はこの資材調達課長に、重大な責任があると考えたが、A工業社長はその時点でまだNTT関連の事業をしており、あまり資材調達課長とトラブルになることを嫌がった。そのため、私はこの資材調達課長にはあまり接触することはなかった。
総じてNTT幹部は、このような目に見えぬNTTという巨大企業の権力を振りかざし、中小企業を泣かせることが往々にしてにしてある。
私はA工業の顧問に就任して、まず林がA工業から借りだし市中の金貸しや金融機関に流してしまった、A工業振り出しの手形回収に乗り出した。すでに二億円からの現金が林に貸出されており、別に貸出した手形額面の総額も不明で、多分貸出した現金と同額位あるのではないかということであった。
林を信頼しきっていたA工業が、林に頼まれ手形を貸出しす際、額面や支払い期日を白紙のまま貸出していたのである。不用意なと思われるだろうが、このようなことは大企業が絡むとよくあった。大手企業は大体支払い期日が長いため、中小企業は自社の手形を市中の金融機関に振り出すことが多ったのである。それが当たり前になっていたので、林のようなやり手にかかると、いわゆる手形のパクりにあうのである。現在では電子手形等になり、このようなことは少ないらしいが。
とにかく、私は手形回収に奔走していた。最終的になんとか事なきを得たが、それからが大変であった。
A工業に事業発注のお墨付きを与えたNTT幹部に、この事業の履行を迫らなくてはならない。
つまり、三浦人事部長と宮崎総務部長の二人である。
初めはNTTに出向き、I総務課長に再三このことの是非を説いた。林は悪いが、一緒になって仕事が出来るかのように振舞い、事実そんな言動をしていた二人の部長にも責任があることは明白だと。
当初、うちの部長らがそんなことする訳ないと話していたI課長も、次第に自信を持てなくなったのか、上と相談すると言ってきた。
I課長から、宮崎総務部長が会うので直接話し合って欲しいと申し出がある。私はA工業社長の同席を求め、了解される。
数日後、A工業社長、常務と共にNTT本社を訪れ、本社正面フロアの吹き抜けの一部二階造りにあたる部分にある応接室で、宮崎総務部長と面会した。
話しの内容はこうである。A工業が希望する(約束されていたのだが)光ケーブル事業に関して、光ケーブル施設後不要になる既存の銅線ケーブル回収事業について、光ケーブル事業の関東における幹事会社、藤倉電線との調整に時間がかかること理解して欲しい、約一年から二年待ってもらいたいとのこと。必ず参入させるからと。その間、A工業には茨城県のNTT各支店の一般産廃回収事業を発注するからとのこと、これをA工業は了解する。NTTの子会社である関東運輸を通して、この事業は始められる。後に神奈川県のNTT支店産廃回収も行うようになる。
関東運輸との関わりから、その後のNTTドコモの二度の本社移転による引っ越し業務にも参加することになる。
三浦人事部長とは、本社ではなく、外で会い話し合ったが、内容は宮崎総務部長の申し出を聞いてくれというような内容であった。
とにかく、一段落はついた。A工業の顧問になりNTTから仕事を取ることが出来たのだから。この事業は、約十年ほど続く。
しかし、約束した本来の銅線ケーブル回収事業は結局、実行されることはなかった。
このことが、後々何かと尾をひくことになるが。

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