馬鹿じゃなれない、利口じゃならぬ。
昔、高倉健が東映任侠映画の中で主題歌か挿入歌か忘れたが唄っていた唄の一節だ。
だが、実際には馬鹿じゃなれない、利口じゃなれない、中途半端じゃなおなれない、が正しい。
つまり、誰もなれないということになる。
若い頃、この意味を分かったような気でいたが、後々何度もこの意味を考え悩むことがあった。
今はむしろ余計に分からなくなったように思う。
歳のせいか、身すぎ世すぎに浸かりすぎてしまったのか、情けないが素直にそう思う。
このブログを書こうと考えたのも、そんな自分を見直そうと思ったからかも知れない。
なのに、一方で明快に答えをだしている自分がいる。このブログの別タイトルで書いている私だ。
それでいいのだろうか、と迷う自分に情けなくなる。
またちょっと話しがそれたかな。つまり渡世人として生きていくには、答えの一生出ない道を行くしかないのかと思う今日この頃だということだ。
ただ、如何に険しい道でも決して後戻りは出来ないということ。
これは、ヤクザだけで無くどんな人の一生にも言えることじゃないか。
人は毎日、毎回答えを出し決断しなければならない。
日々の中に迷う時間は無い。過ちも成功もどちらも答えだ。それを変えることは出来ない。 吐い唾は飲み込めないとか、ヤクザに証拠は要らねぇとか言われるたりする分だけ渡世の道は厳しいけど。
だから、中途半端じゃなおなれないという言葉の意味は分かるような気がする。
それでも、馬鹿じゃなれない、利口じゃなれないは答えは出ない。
私なんかに答えが出る訳ないか。
とにかく、そういうヤクザ唄があるということ。
もうひとつ、利口のふりする馬鹿、利口のふりする利口者、馬鹿のふりする利口者というのがある。
それにひとつ足して、馬鹿と居直る馬鹿もいると私は話すのだが、世の中見回すとこの四者に必ず当てはまるように思うのは私一人だろうか。