A工業がNTTより、一般産廃回収業務を請け負ってから、私はA工業の顧問としてNTTと接するようになる。
銅線ケーブル回収事業に、参加できるようなめどはまるで立たなかった。A工業も、一般産廃回収業務でそれなりの仕事をしていたが、林哲也に騙されたことによる損害が大きく経営を圧迫していて、銅線ケーブル回収事業に期待していた。
いつ頃になれば、銅線ケーブル回収事業をやらせて貰えるのか、A工業社長は再三私に尋ねた。A工業社長は、いつ頃かさえ分かれば、うちはいくらでも待つ、だがそれがはっきりしなければ、予定も計画も立てられない、銀行と話し合うことも出来ないじゃないかという。
最もな話しである。一、二年のうちには必ずと約束したのに、すでに二年近く経過していたのに、何らの話しもなかったのである。 およそ経営というものは、予定や計画による準備が重要だ。準備をしっかり出来れば、その上で始まった事業は安心して経営出来る。そうでなければ、逆に経営は決して上手くいかない。しかし、NTT幹部のように、お役所的な考えをする人にはこれがなかなか理解されない。
まあ私が見るところ、この辺が優秀なNTTキャリアが、民間企業に行っても成功しない原因だと思う。私はそれはそれでNTT幹部、役員としてはよいと思う。NTTのような国策企業は、利益追求とは別の運営を必要とされるのだから。
だがA工業はそうはいかない。あくまで商売だ。しかも林哲也に騙され、損害をだし借金を背負っている。このままではいずれ、倒産してしまう。A工業社長は立派な人物で、決して泣き言を言わずにいたが、経営は逼迫していた。
私はその頃、週三日はNTT本社に居るようになり、それはNTTが分割して本社が持ち株会社に変わり、新宿から大手町に移っても今年(平成二十五年四月)まで続くことになるのだが、この頃は明確にA工業の代理人として、行っていた。
のらりくらりと、銅線ケーブル回収事業は先のばしされた。そのくせ、他の仕事に関して何かと提案してくる。しかし、NTT側が提案してくる仕事は、どれも単発物で長続きするものはなかった。
私個人的には、実入りのいいものもあり、NTTがらみの収入は増えていくが。
何故、三浦、宮崎両部長が銅線ケーブル回収事業を避けたのか、今は推測するしかないが、様々な理由が重なってしまい運というか間が悪かったんだと思う。
林に騙され、トラブルになっていた期間が長すぎたこと、このため光ケーブル事業に参入する時期を逸したこと。NTTの分割を控えた最中、林がらみのA工業を重要な事業に参入させることに、両部長が恐れをなしていただろうこと、さらに両部長が責任を押し付けあっていただろうこと。その他、今は色々想像がつく。
そうした目で、その後の両部長を見ると、東日本に行った三浦氏は、要領よく立ち回り会長になり、宮崎氏は西日本に行くが、そこで失脚してその後陽の目を見るなく、会社去った理由も分かる気がする。宮崎氏はサムライであった。
とにかく、銅線ケーブル回収事業参入は急務であった。
最終的には、私の交渉は上手くいかず失敗に終わる。
A工業とは変わらず、顧問をしていた。なんとかNTTがらみの仕事を出し、息を繋いでいた。ただ現状の仕事量ではまるで足りなかった。どうするか当時考えあぐねていたが、紆余曲折がありながらその後十五年ほど、A工業はNTTがらみの仕事をしながら、存続していく。
私は自身の仕事、ビジネスについても、あれこれ考え始める。仲介業というか紹介業のようなものを始める。つまり、NTTがらみの仕事、或はNTTの下請け、孫請けになりたい会社などをNTTに紹介し、紹介料を貰うことを始めた。
これは当たった。街の中小企業から、それなりの名前を言えば誰でも知るような会社まで、時には政治家の秘書なんかまで、私のもとに相談にきた。最初、紹介料は三百万だったり五百万だったりしたが、後に紹介料は三百万円と決める。
三百万円のうち、状況によりNTT側に五十万から百万を渡し、私に業者を連れて来て紹介した者に、同じく五十万から百万円を渡した。これは私が、別に宣伝している訳でないので、人づてに噂を聞いて業者を連れて来るというケースが大体だったからで、こうした私への業者紹介者にも謝礼を払っていた。NTT側には、この謝礼とは別に、他のグループ会社に仕事の相談に行く場合などに、手土産など手配した。NTT某幹部から、いくら同じグループ会社でも、電話一本でものを頼む訳にはいかないんですから、体で行って頼まなきゃならない時があるんですよと、釘を刺されたことがあったので。
A工業顧問とは別に、この紹介業が私のNTTにおける仕事のようになる。そして、前述したようにその後十数年に渡り、週三日もNTTに通うようになる。
ヤクザやその関係者は、紹介しない約束になっていたが、時々はそれを守れないことがあった。
これについて、書いてよいのか、少し考えるところがあるので、続きは次回に。
銅線ケーブル回収事業に、参加できるようなめどはまるで立たなかった。A工業も、一般産廃回収業務でそれなりの仕事をしていたが、林哲也に騙されたことによる損害が大きく経営を圧迫していて、銅線ケーブル回収事業に期待していた。
いつ頃になれば、銅線ケーブル回収事業をやらせて貰えるのか、A工業社長は再三私に尋ねた。A工業社長は、いつ頃かさえ分かれば、うちはいくらでも待つ、だがそれがはっきりしなければ、予定も計画も立てられない、銀行と話し合うことも出来ないじゃないかという。
最もな話しである。一、二年のうちには必ずと約束したのに、すでに二年近く経過していたのに、何らの話しもなかったのである。 およそ経営というものは、予定や計画による準備が重要だ。準備をしっかり出来れば、その上で始まった事業は安心して経営出来る。そうでなければ、逆に経営は決して上手くいかない。しかし、NTT幹部のように、お役所的な考えをする人にはこれがなかなか理解されない。
まあ私が見るところ、この辺が優秀なNTTキャリアが、民間企業に行っても成功しない原因だと思う。私はそれはそれでNTT幹部、役員としてはよいと思う。NTTのような国策企業は、利益追求とは別の運営を必要とされるのだから。
だがA工業はそうはいかない。あくまで商売だ。しかも林哲也に騙され、損害をだし借金を背負っている。このままではいずれ、倒産してしまう。A工業社長は立派な人物で、決して泣き言を言わずにいたが、経営は逼迫していた。
私はその頃、週三日はNTT本社に居るようになり、それはNTTが分割して本社が持ち株会社に変わり、新宿から大手町に移っても今年(平成二十五年四月)まで続くことになるのだが、この頃は明確にA工業の代理人として、行っていた。
のらりくらりと、銅線ケーブル回収事業は先のばしされた。そのくせ、他の仕事に関して何かと提案してくる。しかし、NTT側が提案してくる仕事は、どれも単発物で長続きするものはなかった。
私個人的には、実入りのいいものもあり、NTTがらみの収入は増えていくが。
何故、三浦、宮崎両部長が銅線ケーブル回収事業を避けたのか、今は推測するしかないが、様々な理由が重なってしまい運というか間が悪かったんだと思う。
林に騙され、トラブルになっていた期間が長すぎたこと、このため光ケーブル事業に参入する時期を逸したこと。NTTの分割を控えた最中、林がらみのA工業を重要な事業に参入させることに、両部長が恐れをなしていただろうこと、さらに両部長が責任を押し付けあっていただろうこと。その他、今は色々想像がつく。
そうした目で、その後の両部長を見ると、東日本に行った三浦氏は、要領よく立ち回り会長になり、宮崎氏は西日本に行くが、そこで失脚してその後陽の目を見るなく、会社去った理由も分かる気がする。宮崎氏はサムライであった。
とにかく、銅線ケーブル回収事業参入は急務であった。
最終的には、私の交渉は上手くいかず失敗に終わる。
A工業とは変わらず、顧問をしていた。なんとかNTTがらみの仕事を出し、息を繋いでいた。ただ現状の仕事量ではまるで足りなかった。どうするか当時考えあぐねていたが、紆余曲折がありながらその後十五年ほど、A工業はNTTがらみの仕事をしながら、存続していく。
私は自身の仕事、ビジネスについても、あれこれ考え始める。仲介業というか紹介業のようなものを始める。つまり、NTTがらみの仕事、或はNTTの下請け、孫請けになりたい会社などをNTTに紹介し、紹介料を貰うことを始めた。
これは当たった。街の中小企業から、それなりの名前を言えば誰でも知るような会社まで、時には政治家の秘書なんかまで、私のもとに相談にきた。最初、紹介料は三百万だったり五百万だったりしたが、後に紹介料は三百万円と決める。
三百万円のうち、状況によりNTT側に五十万から百万を渡し、私に業者を連れて来て紹介した者に、同じく五十万から百万円を渡した。これは私が、別に宣伝している訳でないので、人づてに噂を聞いて業者を連れて来るというケースが大体だったからで、こうした私への業者紹介者にも謝礼を払っていた。NTT側には、この謝礼とは別に、他のグループ会社に仕事の相談に行く場合などに、手土産など手配した。NTT某幹部から、いくら同じグループ会社でも、電話一本でものを頼む訳にはいかないんですから、体で行って頼まなきゃならない時があるんですよと、釘を刺されたことがあったので。
A工業顧問とは別に、この紹介業が私のNTTにおける仕事のようになる。そして、前述したようにその後十数年に渡り、週三日もNTTに通うようになる。
ヤクザやその関係者は、紹介しない約束になっていたが、時々はそれを守れないことがあった。
これについて、書いてよいのか、少し考えるところがあるので、続きは次回に。
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