カテゴリ: 雪まつり〜大内宿会津若松 2013 2月
芦ノ牧温泉小谷の湯にて夕食♪
芦ノ牧温泉小谷の湯へ♪
大内宿の雪まつりのあとは
ナビにしたがって進むと灯りに導かれるように
小谷の湯に到着♪
窓を開けたら雪景色の川と向かいにも旅館。
一面きれいな冬の景色でした♪
ナビにしたがって進むと灯りに導かれるように
小谷の湯に到着♪
窓を開けたら雪景色の川と向かいにも旅館。
一面きれいな冬の景色でした♪
会津若松 宮泉銘醸へ♪
西郷頼母邸跡や内藤邸跡のあるすぐ近くに
宮泉銘醸があり、そこは会津戊辰戦争終結の地でもありました。
会津降伏式はこの甲賀町通りで行われたのだそうです。
貧乏徳利、小原庄助さん愛用の石風呂もありました。
この酒呑教訓もこまかく読むと面白かったです^^
試飲もさせてくれます。
試飲は無料です。
見学は300円必要ですがお土産に
赤い盃をいただけます。
試飲してとてもおいしかったのでこちらの純米吟醸宮泉を買いました。
酒粕なども買って帰りました。
宮泉銘醸があり、そこは会津戊辰戦争終結の地でもありました。
会津降伏式はこの甲賀町通りで行われたのだそうです。
貧乏徳利、小原庄助さん愛用の石風呂もありました。
この酒呑教訓もこまかく読むと面白かったです^^
試飲もさせてくれます。
試飲は無料です。
見学は300円必要ですがお土産に
赤い盃をいただけます。
試飲してとてもおいしかったのでこちらの純米吟醸宮泉を買いました。
酒粕なども買って帰りました。
西郷頼母邸跡のある通り。
八重の桜では西田敏行さんが演じている西郷頼母。
こちらは石碑だけがある西郷頼母邸跡です。
読んで衝撃を受けました。
戊辰戦争での西郷頼母邸。
頼母の留守を預かる妻、千恵子が、
長男吉十郎を城へ送り出したあと
もはやこれまで、と残りの一族を集めました。
幼い者や女は足手まといになる、
恥辱を受ければ家名の恥になる、と
母、律子58歳を始め、2歳の季子まで
21人揃って辞世を詠んで自刃したのだそうです。
なよ竹の風に任する身ながらもたまわぬ節はありとこそ聞け
千恵子34歳
死にかへりいくたび世には生まるともますら武夫となりなんものを
眉寿子26歳
武士の道と聞きしをたよりにて思い立ぬるよみの旅かな
由布子23歳
いざたどらまし死出の山道(下の句)
細布子16歳
手をとりて共に行きなば迷はじよ(上の句)
瀑布子13歳
この日郭内では230余名の婦女子が自刃したそうです。
会津では戊辰戦争でたくさんの優秀な人が亡くなって
こんな若い子どもまでもが亡くなって
生まれるであったろう優秀な子や孫までも
この日たくさん亡くなったということなんだなあ。
八重さんが多くの影響を遺したように
きっとたくさんのことを遺すはずだったでしょう。
そうしてみると八重さんが戊辰戦争を生き抜き、
86歳まで生きたことは奇跡のようだけれど
たくさんの犠牲になった命の分も、と
エネルギッシュに生きた理由がわかる気がします。
通りを挟んですぐ近くには内藤邸跡がありました。
内藤家から梶原家の養子になったのが梶原平馬。
前回の八重の桜で池内博之さんが演じていましたね。
藩主松平容保が京都守護職のとき側近として仕え
家老にもなった人だそうです。
会津戦争で鶴ヶ城に籠城し、政務を総監、
西郷頼母を追放し、暗殺指令を出したと言われています。
内藤家でも敵迫るとの知らせを受け、
一族は上田家とともに自刃したそうです。
内藤家は信順67歳、妻58歳、娘4人、23歳、19歳、17歳、ほか。
信節の妻23歳、孫2人、6歳と3歳。
上田家は八郎右衛門の父である伊閑61歳、妻58歳、
妹56歳、娘30歳、孫9歳、
さらに内藤家家臣4人も自刃したそうです。
そして今、会津若松はどこに行っても八重さんでにぎやか^^
通りの先には鶴ヶ城が見えました。
勇ましく見えました。
こちらは石碑だけがある西郷頼母邸跡です。
読んで衝撃を受けました。
戊辰戦争での西郷頼母邸。
頼母の留守を預かる妻、千恵子が、
長男吉十郎を城へ送り出したあと
もはやこれまで、と残りの一族を集めました。
幼い者や女は足手まといになる、
恥辱を受ければ家名の恥になる、と
母、律子58歳を始め、2歳の季子まで
21人揃って辞世を詠んで自刃したのだそうです。
なよ竹の風に任する身ながらもたまわぬ節はありとこそ聞け
千恵子34歳
死にかへりいくたび世には生まるともますら武夫となりなんものを
眉寿子26歳
武士の道と聞きしをたよりにて思い立ぬるよみの旅かな
由布子23歳
いざたどらまし死出の山道(下の句)
細布子16歳
手をとりて共に行きなば迷はじよ(上の句)
瀑布子13歳
この日郭内では230余名の婦女子が自刃したそうです。
会津では戊辰戦争でたくさんの優秀な人が亡くなって
こんな若い子どもまでもが亡くなって
生まれるであったろう優秀な子や孫までも
この日たくさん亡くなったということなんだなあ。
八重さんが多くの影響を遺したように
きっとたくさんのことを遺すはずだったでしょう。
そうしてみると八重さんが戊辰戦争を生き抜き、
86歳まで生きたことは奇跡のようだけれど
たくさんの犠牲になった命の分も、と
エネルギッシュに生きた理由がわかる気がします。
通りを挟んですぐ近くには内藤邸跡がありました。
内藤家から梶原家の養子になったのが梶原平馬。
前回の八重の桜で池内博之さんが演じていましたね。
藩主松平容保が京都守護職のとき側近として仕え
家老にもなった人だそうです。
会津戦争で鶴ヶ城に籠城し、政務を総監、
西郷頼母を追放し、暗殺指令を出したと言われています。
内藤家でも敵迫るとの知らせを受け、
一族は上田家とともに自刃したそうです。
内藤家は信順67歳、妻58歳、娘4人、23歳、19歳、17歳、ほか。
信節の妻23歳、孫2人、6歳と3歳。
上田家は八郎右衛門の父である伊閑61歳、妻58歳、
妹56歳、娘30歳、孫9歳、
さらに内藤家家臣4人も自刃したそうです。
そして今、会津若松はどこに行っても八重さんでにぎやか^^
通りの先には鶴ヶ城が見えました。
勇ましく見えました。