2006年08月02日
Googleに移行します
ライブドアのブログからGoogleのBloggerに移転することにしました。
Gmailを導入したのをきっかけに、様々なGoogleツールを使い倒してやろう、と思ったためです。新しいブログは自分のドメイン内に設置しました。
アドレスは、
http://mku-jp.net/blog/
です。
これからもよろしくお願いいたします。
Gmailを導入したのをきっかけに、様々なGoogleツールを使い倒してやろう、と思ったためです。新しいブログは自分のドメイン内に設置しました。
アドレスは、
http://mku-jp.net/blog/
です。
これからもよろしくお願いいたします。
2006年04月19日
梅田望夫『ウェブ進化論』ちくま新書を読む(バージョン1.0)
梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読んだ。
梅田氏は、以前よりご自身のブログで有名な方なので、何度か文章も読んだことがあるが、この本はなかなか興味深い内容だった。
今、Web2.0という言葉が取りざたされているが、本書はWeb2.0のもつ革命性を説明してくれている一冊だ。
自分のWeb1.0的な頭で理解した範囲はこんな風になる。
今までのWeb1.0時代では、インターネットは既存のビジネスの効率化を基礎として、競争優位性を企業に与えたり奪ったりしてきた。その中で登場したのがアマゾンや日本だと楽天ということになろう。
しかし、グーグルという企業が登場したことや、ブロードバンドで常時接続の環境が整ってきたことなどを背景として、にわかにその状況は変化を遂げ始める。グーグルは、ヤフーやMSNのように単に「情報を検索する機能としてのサーチエンジン」として事業を捉えたのではなく、「世界中の情報を整理しつくす」という壮大な構想に基づいて作られた企業である。しかも、そのためのシステムは、30万台の普通のコンピュータと、無料で使えるリナックスというオープンソースによって運営されている。既存の企業であればともすれば億の単位を超えかねない投資が、ゼロが3つ程少ないであろう金額で作られたと考えられる。これがインターネットの「チープ革命」と呼ばれるものである。
その結果何が起きたのかというと、旧来の企業ビジネスでは光の当てようのなかった小規模の需要や情報の存在というものにも存在可能性が生じてきた。これが「ロングテール」と呼ばれるもので、例えば、グーグルであれば「アドセンス」によって、アフィリエイトサイトの情報と、商品とのマッチングが既存のビジネスでは考えられないほど小さい需要レベルから可能になったし、アマゾンの売上の本の1/3は、通常の書店では並ばないほど少ない需要しかない本で占められることになった。アマゾンはそうした現象を前に、Web1.0的発想をやめ、自社の販売システムを他に利用したい事業者に利用可能にした。こうして自社のビジネスプラットフォームを他社にも利用可能にする(一方でコミッションを15%取る)ことによって、自社のシステムの想定外の需要ですらも取り込める仕組みを構築したのである。
重要なことは、グーグルにしろ、アマゾンにしろ、両者ともインターネット上で自己増殖していく情報の媒介になるという役割に徹していて、別に自社から需要をマスマーケティング等を用いてある枠組みの中に「作り出そう」としているわけではないという点にある。インターネットにおいては、中国で天安門事件の情報規制などがあるが、そうした政治権力の介入という希有な働きかけがない限り、自由な領域である。
この意味は漠としていてつかみどころがないが、今自分が考えられるのは、これが社会のあり方そのものを変えてしまう力を持ちうるかもしれない、ということだ。なぜならば、社会における価値を成り立たせているのは、意味体系であり、文化と呼ばれるものであろう。この文化というものの形成においては、多分に情報の秩序形成とそれを行わせる権力とが作用する。しかし、インターネットとはそうした「価値形成をさせる」ことは似つかわしくなく、むしろ、「価値形成が個々でマジョリティにならずに展開されているのを促進させる仕組み」なのかもしれない。(このあたりについては、朝一人で考えていたときはもっとクリアに説明できたのだが、どうも文章にするとえらく安っぽい感じになってきたので、今日はこのくらいにしておきたい。)要するに、今までの情報の非対称性というものによって成り立ってきた社会秩序が、別な次元に変わっていくことで、価値観やそれを支える権力といったものが変わっていく可能性があるかもしれない、ということだ。
もしこの論理に矛盾がないとするならば、これはとんでもないことである。自分は組織論を研究しているけれども、インターネットによって組織というもののあり方や価値も全く違う姿に変わっていくかもしれない。これから考えるべきことが増えた気がしてならない。
以上、とりあえずバージョン1.0の読後感想。
梅田氏は、以前よりご自身のブログで有名な方なので、何度か文章も読んだことがあるが、この本はなかなか興味深い内容だった。
今、Web2.0という言葉が取りざたされているが、本書はWeb2.0のもつ革命性を説明してくれている一冊だ。
自分のWeb1.0的な頭で理解した範囲はこんな風になる。
今までのWeb1.0時代では、インターネットは既存のビジネスの効率化を基礎として、競争優位性を企業に与えたり奪ったりしてきた。その中で登場したのがアマゾンや日本だと楽天ということになろう。
しかし、グーグルという企業が登場したことや、ブロードバンドで常時接続の環境が整ってきたことなどを背景として、にわかにその状況は変化を遂げ始める。グーグルは、ヤフーやMSNのように単に「情報を検索する機能としてのサーチエンジン」として事業を捉えたのではなく、「世界中の情報を整理しつくす」という壮大な構想に基づいて作られた企業である。しかも、そのためのシステムは、30万台の普通のコンピュータと、無料で使えるリナックスというオープンソースによって運営されている。既存の企業であればともすれば億の単位を超えかねない投資が、ゼロが3つ程少ないであろう金額で作られたと考えられる。これがインターネットの「チープ革命」と呼ばれるものである。
その結果何が起きたのかというと、旧来の企業ビジネスでは光の当てようのなかった小規模の需要や情報の存在というものにも存在可能性が生じてきた。これが「ロングテール」と呼ばれるもので、例えば、グーグルであれば「アドセンス」によって、アフィリエイトサイトの情報と、商品とのマッチングが既存のビジネスでは考えられないほど小さい需要レベルから可能になったし、アマゾンの売上の本の1/3は、通常の書店では並ばないほど少ない需要しかない本で占められることになった。アマゾンはそうした現象を前に、Web1.0的発想をやめ、自社の販売システムを他に利用したい事業者に利用可能にした。こうして自社のビジネスプラットフォームを他社にも利用可能にする(一方でコミッションを15%取る)ことによって、自社のシステムの想定外の需要ですらも取り込める仕組みを構築したのである。
重要なことは、グーグルにしろ、アマゾンにしろ、両者ともインターネット上で自己増殖していく情報の媒介になるという役割に徹していて、別に自社から需要をマスマーケティング等を用いてある枠組みの中に「作り出そう」としているわけではないという点にある。インターネットにおいては、中国で天安門事件の情報規制などがあるが、そうした政治権力の介入という希有な働きかけがない限り、自由な領域である。
この意味は漠としていてつかみどころがないが、今自分が考えられるのは、これが社会のあり方そのものを変えてしまう力を持ちうるかもしれない、ということだ。なぜならば、社会における価値を成り立たせているのは、意味体系であり、文化と呼ばれるものであろう。この文化というものの形成においては、多分に情報の秩序形成とそれを行わせる権力とが作用する。しかし、インターネットとはそうした「価値形成をさせる」ことは似つかわしくなく、むしろ、「価値形成が個々でマジョリティにならずに展開されているのを促進させる仕組み」なのかもしれない。(このあたりについては、朝一人で考えていたときはもっとクリアに説明できたのだが、どうも文章にするとえらく安っぽい感じになってきたので、今日はこのくらいにしておきたい。)要するに、今までの情報の非対称性というものによって成り立ってきた社会秩序が、別な次元に変わっていくことで、価値観やそれを支える権力といったものが変わっていく可能性があるかもしれない、ということだ。
もしこの論理に矛盾がないとするならば、これはとんでもないことである。自分は組織論を研究しているけれども、インターネットによって組織というもののあり方や価値も全く違う姿に変わっていくかもしれない。これから考えるべきことが増えた気がしてならない。
以上、とりあえずバージョン1.0の読後感想。
2006年04月02日
転職のご連絡
2006年4月1日より、早稲田大学アジア太平洋研究センター助手として勤務することになりました。
これにともなって、明治大学経営学部助手は退任し、また、同大学院経営学研究科博士後期課程も単位取得退学することとなりました。
本日は辞令交付式が行われ、いよいよ始まったという気分です。早速いくつかの業務がありますが、今までとは全く違う業務内容で難しいこともあるかもしれませんが、楽しみの方が大きいです。
特に今年は海外での学会報告を2回とそれ以外にも国内での学会報告を予定しており、そのほかにも、懸案である博士論文の執筆に取り掛かりたいと考えています。新しい環境で、昨年以上に研究成果を出せるようにがんばっていきたいと思っています。
これにともなって、明治大学経営学部助手は退任し、また、同大学院経営学研究科博士後期課程も単位取得退学することとなりました。
本日は辞令交付式が行われ、いよいよ始まったという気分です。早速いくつかの業務がありますが、今までとは全く違う業務内容で難しいこともあるかもしれませんが、楽しみの方が大きいです。
特に今年は海外での学会報告を2回とそれ以外にも国内での学会報告を予定しており、そのほかにも、懸案である博士論文の執筆に取り掛かりたいと考えています。新しい環境で、昨年以上に研究成果を出せるようにがんばっていきたいと思っています。
2005年11月14日
国際シンポジウム
12日に行われた国際シンポジウムで、なんとか無事に報告を終えることが出来ました。
UCLAアンダーソンスクールと明治大学大学院経営学研究科との合同シンポジウムだったので、報告、質疑、その他は全て英語で行われました。(詳しくはこちら http://www.meiji.ac.jp/dai_in/business_administration/internasional%20symposium2005.htm)
英語でアカデミックなプレゼンテーションをするのは、全く初めての経験だったのでもの凄く緊張しましたが、何とかそれなりに上手く行ったのではないかと思っています。
同じ時間に報告をされた榊原磨理子先生は、「あの」マイケル・ポーターと一緒に研究をされた方で、こういう方と同じ時間に報告させていただくのは得難い経験だったと思います。昼ご飯をご一緒させていただきましたが、色々とコメントをくださって勉強になりました。
その他、Sanford Jacoby、Bhagwan Chowdhryの両先生にも報告をいただきました。どれも興味深い内容で、特にJacoby先生の報告については、最近日本語訳が出た本でも考察がなされているようなので、是非読んでメールを送ってみようと思っています。
報告を終えて、やはりやってよかったなあと思います。
この4ヶ月間、学会報告や論文執筆などをしながら今回の準備に取り組んできましたが、無事に終えることが出来て、もの凄い充実感があります。
途中、本当に苦しい時期も何度もありましたが、大学院の後輩や仲間たちにずいぶん助けられました。感謝しています。
それと同時に、苦しい時期を乗り越えようとすることで、多くのものを得ることができたと感じています。特に、次は国際学会での報告をやってみたいと強く感じるようになりました。
今は少しだけ充実感に浸りつつ、また次の目標に向けて頑張りたいと感じています。
追記:当日の報告内容は、後日論文として発表されます。また、内容のパワーポイントのファイルをご希望の方は、メールをお送りいただければと存じます。どうぞよろしくお願いします。
UCLAアンダーソンスクールと明治大学大学院経営学研究科との合同シンポジウムだったので、報告、質疑、その他は全て英語で行われました。(詳しくはこちら http://www.meiji.ac.jp/dai_in/business_administration/internasional%20symposium2005.htm)
英語でアカデミックなプレゼンテーションをするのは、全く初めての経験だったのでもの凄く緊張しましたが、何とかそれなりに上手く行ったのではないかと思っています。
同じ時間に報告をされた榊原磨理子先生は、「あの」マイケル・ポーターと一緒に研究をされた方で、こういう方と同じ時間に報告させていただくのは得難い経験だったと思います。昼ご飯をご一緒させていただきましたが、色々とコメントをくださって勉強になりました。
その他、Sanford Jacoby、Bhagwan Chowdhryの両先生にも報告をいただきました。どれも興味深い内容で、特にJacoby先生の報告については、最近日本語訳が出た本でも考察がなされているようなので、是非読んでメールを送ってみようと思っています。
報告を終えて、やはりやってよかったなあと思います。
この4ヶ月間、学会報告や論文執筆などをしながら今回の準備に取り組んできましたが、無事に終えることが出来て、もの凄い充実感があります。
途中、本当に苦しい時期も何度もありましたが、大学院の後輩や仲間たちにずいぶん助けられました。感謝しています。
それと同時に、苦しい時期を乗り越えようとすることで、多くのものを得ることができたと感じています。特に、次は国際学会での報告をやってみたいと強く感じるようになりました。
今は少しだけ充実感に浸りつつ、また次の目標に向けて頑張りたいと感じています。
追記:当日の報告内容は、後日論文として発表されます。また、内容のパワーポイントのファイルをご希望の方は、メールをお送りいただければと存じます。どうぞよろしくお願いします。
2005年10月23日
論文「組織の問題化」
「組織の問題化−「組織と戦略」から組織化/戦略化へ−」の印刷がやっと終わりました。
内容は既にPDFでアップロードしてありますので、よろしければご覧下さい。
現在、11月12日の国際シンポジウムに向けた準備を行っております。テーマは、ターンアラウンド戦略についてで、松下電器産業における中村改革を「組織の問題化」の概念から分析しようと考えております。内容については、後日アップいたします。
内容は既にPDFでアップロードしてありますので、よろしければご覧下さい。
現在、11月12日の国際シンポジウムに向けた準備を行っております。テーマは、ターンアラウンド戦略についてで、松下電器産業における中村改革を「組織の問題化」の概念から分析しようと考えております。内容については、後日アップいたします。
2005年06月04日
郵便物の度重なる誤配
今日ポストにほかの階の方の郵便物が届いていた。つまり誤配だった。
しかも税金関係の「重要」と記された書類だった。恐らく納付書か何かだろう。
実はこうした誤配は初めてではなくて、今年に入ってから2度目のことだ。
前回の際は、クレジットカードの請求書と企業からの重要通知書類が間違って入っていた。
何れにしても、非常に重要な、個人情報にかかわる書類の二度目の誤配である。
前回の時に既に郵便局に直接電話をして、重要な書類にもかかわらず誤配があるのは問題だと伝え、原因と対策を出してもらった。その際にはしかるべき対策をしてもらったように思えた。
だが、再度同じような誤配が起きてしまったため、やむを得ずまた電話をすることにした。
担当の方から折り返し電話があり、おおよそ今分かっている原因を述べてもらい、同じ問題が二度目であることの重大さから、文書で正式に原因の究明と対策を示すよう求めた。
誤配をされた側ではなく、あくまで入っていた側だが、だからこそここでちゃんと対策を求めなかったら、また同じような問題が次には自分に降りかかってくるかもしれないし、或いは、同じ地域の他の方がとんでもないトラブルに巻き込まれる可能性だってある。こんなやかましい人間みたいな役回りをするのは、正直好きじゃないが、でもあまりにもひどすぎると思うのだ。
郵便局を問いただすことは、自分に与えられた責任だと感じた。
まだ正式回答ではないので述べることは出来ないが、非常に重大な組織的な問題があることが今日の段階で分かった。ある程度の原因を聞いた限りでは、配達員の責任とは言い難い理由であった(正式ではないのである程度の留保はあるけれど)。 そしてそれは組織的な問題というべきものだったのだ。そこから推察するに、もしかするとこれは私たち全員の郵便物が、ものすごい危険にさらされていることを意味するかもしれない重大な問題だと感じた。
現場で働く人たちを責めるつもりはないし、謝って欲しいわけではない。組織的問題ならば、しかるべき立場の人間が、もう一度組織設計を考えるべきだ。
そのためには謝る(謝ってお茶を濁す)よりも、ちゃんと原因を究明し、しかるべき対策を講じて、二度とこういうことが起きない体制を作って、地域の人たちの郵便物を守って欲しいと思う。
夜遅くにもかかわらず誤配の郵便物を受け取りに来た配達員の方は大変だと思う。彼らの名誉のためにも、ちゃんとした対策をとって欲しいと願わずにはいられない。
しかも税金関係の「重要」と記された書類だった。恐らく納付書か何かだろう。
実はこうした誤配は初めてではなくて、今年に入ってから2度目のことだ。
前回の際は、クレジットカードの請求書と企業からの重要通知書類が間違って入っていた。
何れにしても、非常に重要な、個人情報にかかわる書類の二度目の誤配である。
前回の時に既に郵便局に直接電話をして、重要な書類にもかかわらず誤配があるのは問題だと伝え、原因と対策を出してもらった。その際にはしかるべき対策をしてもらったように思えた。
だが、再度同じような誤配が起きてしまったため、やむを得ずまた電話をすることにした。
担当の方から折り返し電話があり、おおよそ今分かっている原因を述べてもらい、同じ問題が二度目であることの重大さから、文書で正式に原因の究明と対策を示すよう求めた。
誤配をされた側ではなく、あくまで入っていた側だが、だからこそここでちゃんと対策を求めなかったら、また同じような問題が次には自分に降りかかってくるかもしれないし、或いは、同じ地域の他の方がとんでもないトラブルに巻き込まれる可能性だってある。こんなやかましい人間みたいな役回りをするのは、正直好きじゃないが、でもあまりにもひどすぎると思うのだ。
郵便局を問いただすことは、自分に与えられた責任だと感じた。
まだ正式回答ではないので述べることは出来ないが、非常に重大な組織的な問題があることが今日の段階で分かった。ある程度の原因を聞いた限りでは、配達員の責任とは言い難い理由であった(正式ではないのである程度の留保はあるけれど)。 そしてそれは組織的な問題というべきものだったのだ。そこから推察するに、もしかするとこれは私たち全員の郵便物が、ものすごい危険にさらされていることを意味するかもしれない重大な問題だと感じた。
現場で働く人たちを責めるつもりはないし、謝って欲しいわけではない。組織的問題ならば、しかるべき立場の人間が、もう一度組織設計を考えるべきだ。
そのためには謝る(謝ってお茶を濁す)よりも、ちゃんと原因を究明し、しかるべき対策を講じて、二度とこういうことが起きない体制を作って、地域の人たちの郵便物を守って欲しいと思う。
夜遅くにもかかわらず誤配の郵便物を受け取りに来た配達員の方は大変だと思う。彼らの名誉のためにも、ちゃんとした対策をとって欲しいと願わずにはいられない。
2005年04月30日
JR福知山線脱線事故について
信じられないほど悲惨な事故が大阪で起きてしまいました。犠牲者の遺族の方々の心中を察するに、深い悲しみを感じます。
しかし、組織論研究者としては、こうした組織事故について、何が問題であったのかを明らかにする必要があると感じています。以下若干雑ですが、色々と研究の観点から考えてみたことを書いてみたいと思います。
クライシス研究は80年代までは主にメカニカルな観点からの分析が中心でした。飛行機事故であれば機器の故障や気候条件など、物理的な説明になります。
その後、オペレーションの研究がなされるようになり、例えば、どのような人材教育制度になっているのか、どのようなオペレーションが設計されているのか、という観点からの研究がなされるようになります。
しかし、こうした研究では、なぜそうした問題がそもそもその組織で発生したのかが明らかにならないため、組織的な観点からの研究がなされるようになりました。それが、今日ではHRO(High Reliability Organization:高信頼性組織)の研究として展開されているものです。
今回の事故の場合、メカニカルな観点では、スピードの出し過ぎによって、強い遠心力が働き、車両が外側へ脱線したためであると説明されます。一方、オペレーションの観点からは、私鉄との競争の激化を背景とした過密ダイヤと、一方で分割民営化以後の人員削減による運転士養成の遅れという両側面が閾値に達した結果であると説明します。
ではHRO研究の観点からはどう説明するのかというと、JR西日本という組織は、列車運行における安全性を重視するマインドがなく、むしろ、運行の安全性は与件として放置され、一方で、正確なダイヤの運営のみに関心を向けてきたという点に問題がある、と説明します。
安全性を与件であると考えるのは非常に危険で、この結果、大きなクライシスにつながる小さな予兆を軽視する傾向が発生します。HROとして知られている大変に危険な職場であるアメリカ軍空母の甲板では、作業員がもしスパナを一つどこかへ落として見失ってしまった場合には全員でその落としてしまったスパナの捜索を行います。そして、そのことを報告した作業員は罰せられるのではなく、安全な運営を実現することに貢献した人間であると評価されます。これは、安全は当たり前のものではなく、日々のメンバーの聴きにつながる予兆を察知してつぶそうとする努力によって初めて達成されているのだというマインドに基づいて組織が動いているためであると説明が出来ます。
報道を見る限りですが、JR西日本では「ミス」に対して非常にネガティブな評価しかなされていませんでした。日本の列車運行は非常に時間に正確であり、我々もそうした利便性を享受している立場ですので、単純に「もっとゆとりをもってもいいんじゃないか」などと無責任なことを言うべきではありませんし、それは全く何の解決にもつながりません。
一方で、日々の正確な運行は、現場の大変な努力によって支えられていることを前提にオペレーションは考えられる必要があります。その努力の限界(脱線に至らないが危険なケースは絶対にあったはずですし、信楽高原鉄道の例もあります)の予兆は既にいくつかあったと考えられますし、その予兆に対して、単純に「時間に正確に運行しろ」という指示しか出していなかったのであれば、これは安全性を全く無視していたと言っても過言ではないと思います。そうではなくて、日々の正確で安全な運行は、現場の努力の成果であるというマインドに基づいてオペレーションを行うことが必要であると言えます。
では安全性を無視してしまうのはどうしてなのでしょうか?まず、上にいる人間が、現場を全然知らないためではないかと私は思います。年に一度でも二度でも社長なり会長なりは、ラッシュアワーの福知山線の運転席に乗り込んでみてはどうかと思います。大きな危険の発生回避に、いかに現場が身を削るような努力をしているのか、少しは分かるのではないでしょうか。それと同時に単純に1ヶ月間の遅延発生時間などでしか現場を評価しないというのは非常に危険なのだということもよく分かるはずです。
私はこの事故を見たときに、阪神淡路大震災の発生時における村山首相が同じミスを行ったことによる初動の遅れを想い出しました。村山首相は地震発生の後、数字だけで状況を判断し、その結果、自衛隊への出動が大幅に遅れる原因を作り、結果として数多くの救える可能性もあった尊い命を犠牲にしました。彼の責任は重大であったと思います。
では、なぜ上にいる人間は現場を知ろうとしないのでしょうか?ここからはあまり専門的な分析は出来ませんが、雑感としては以下の通りです。
一つには、現場を知る必要性を認識していないことが挙げられます。つまり、現場(広く組織)とは命令に従って行動する機械である、という古くからある前提に従っているためではないかと私は思います。これは、組織に対するイメージの問題です(詳しくはMorganの”Images of Organization”を参照のこと)。もう一つは、現場が分からないからです。分からないのは、分かる必要のないことである、というある種の傲慢さがトップにはあったのではないかと推測されます。これは人事制度に関わる問題であると考えられます。第3に、これは単なる推測に過ぎませんが、現場と経営陣の対立が国鉄分割民営化以後に発生し、それが現場に対するある種の高圧的な態度を醸成したということも考えられるかと思われます。これはJR特殊的な問題のように見えますが、こうした対立やアイデンティティの問題は、クライシスを起こす組織には共通して存在する問題であると言えます。そして、これらの要因は相互に影響し合い、対立が現場を知る必要性をより排除し、現場を知らないことを正当化するためにより現場の軽視が進む、という関係が発生したとも考えられます。
ちなみに1991年の信楽高原鉄道事故においても、組織的な観点から見て今回と非常に似通った点を見ることが出来ます。同事故では、安全に対する資源配分が欠如していたために起きたと考えられています。具体的には信号機の専門家が一人も信楽高原鉄道にはいなかったということです。規範的に考えるならば、安全を最優先で考えることが行われなかったためである、というのは正しいと思います。しかし、もっと現実的に考えると、安全を確保することの困難さを知る術(つまり現場で何が起きているかを知ること)があまりになかったことが問題ではないかと思います。
確かに現場の論理だけで組織を動かすことは、部分最適という問題を引き起こしかねないので危険があるという観点は分かります。しかし、現場がきわめて複雑な環境に直面しているにもかかわらず、現場がなにをやってそれに対処しているのかを知らなければ、わずかな亀裂が入っただけで、対象の複雑性が故に巨大な問題へと一気に発展することをよく理解しなくてはならないはずです。ただ、その際にはトップに複雑な環境に直面していることを知らしめる必要があり、そのためには、何らかの形でそれをインフォームできる仕組みが必要になってくると思います。
しかし、組織論研究者としては、こうした組織事故について、何が問題であったのかを明らかにする必要があると感じています。以下若干雑ですが、色々と研究の観点から考えてみたことを書いてみたいと思います。
クライシス研究は80年代までは主にメカニカルな観点からの分析が中心でした。飛行機事故であれば機器の故障や気候条件など、物理的な説明になります。
その後、オペレーションの研究がなされるようになり、例えば、どのような人材教育制度になっているのか、どのようなオペレーションが設計されているのか、という観点からの研究がなされるようになります。
しかし、こうした研究では、なぜそうした問題がそもそもその組織で発生したのかが明らかにならないため、組織的な観点からの研究がなされるようになりました。それが、今日ではHRO(High Reliability Organization:高信頼性組織)の研究として展開されているものです。
今回の事故の場合、メカニカルな観点では、スピードの出し過ぎによって、強い遠心力が働き、車両が外側へ脱線したためであると説明されます。一方、オペレーションの観点からは、私鉄との競争の激化を背景とした過密ダイヤと、一方で分割民営化以後の人員削減による運転士養成の遅れという両側面が閾値に達した結果であると説明します。
ではHRO研究の観点からはどう説明するのかというと、JR西日本という組織は、列車運行における安全性を重視するマインドがなく、むしろ、運行の安全性は与件として放置され、一方で、正確なダイヤの運営のみに関心を向けてきたという点に問題がある、と説明します。
安全性を与件であると考えるのは非常に危険で、この結果、大きなクライシスにつながる小さな予兆を軽視する傾向が発生します。HROとして知られている大変に危険な職場であるアメリカ軍空母の甲板では、作業員がもしスパナを一つどこかへ落として見失ってしまった場合には全員でその落としてしまったスパナの捜索を行います。そして、そのことを報告した作業員は罰せられるのではなく、安全な運営を実現することに貢献した人間であると評価されます。これは、安全は当たり前のものではなく、日々のメンバーの聴きにつながる予兆を察知してつぶそうとする努力によって初めて達成されているのだというマインドに基づいて組織が動いているためであると説明が出来ます。
報道を見る限りですが、JR西日本では「ミス」に対して非常にネガティブな評価しかなされていませんでした。日本の列車運行は非常に時間に正確であり、我々もそうした利便性を享受している立場ですので、単純に「もっとゆとりをもってもいいんじゃないか」などと無責任なことを言うべきではありませんし、それは全く何の解決にもつながりません。
一方で、日々の正確な運行は、現場の大変な努力によって支えられていることを前提にオペレーションは考えられる必要があります。その努力の限界(脱線に至らないが危険なケースは絶対にあったはずですし、信楽高原鉄道の例もあります)の予兆は既にいくつかあったと考えられますし、その予兆に対して、単純に「時間に正確に運行しろ」という指示しか出していなかったのであれば、これは安全性を全く無視していたと言っても過言ではないと思います。そうではなくて、日々の正確で安全な運行は、現場の努力の成果であるというマインドに基づいてオペレーションを行うことが必要であると言えます。
では安全性を無視してしまうのはどうしてなのでしょうか?まず、上にいる人間が、現場を全然知らないためではないかと私は思います。年に一度でも二度でも社長なり会長なりは、ラッシュアワーの福知山線の運転席に乗り込んでみてはどうかと思います。大きな危険の発生回避に、いかに現場が身を削るような努力をしているのか、少しは分かるのではないでしょうか。それと同時に単純に1ヶ月間の遅延発生時間などでしか現場を評価しないというのは非常に危険なのだということもよく分かるはずです。
私はこの事故を見たときに、阪神淡路大震災の発生時における村山首相が同じミスを行ったことによる初動の遅れを想い出しました。村山首相は地震発生の後、数字だけで状況を判断し、その結果、自衛隊への出動が大幅に遅れる原因を作り、結果として数多くの救える可能性もあった尊い命を犠牲にしました。彼の責任は重大であったと思います。
では、なぜ上にいる人間は現場を知ろうとしないのでしょうか?ここからはあまり専門的な分析は出来ませんが、雑感としては以下の通りです。
一つには、現場を知る必要性を認識していないことが挙げられます。つまり、現場(広く組織)とは命令に従って行動する機械である、という古くからある前提に従っているためではないかと私は思います。これは、組織に対するイメージの問題です(詳しくはMorganの”Images of Organization”を参照のこと)。もう一つは、現場が分からないからです。分からないのは、分かる必要のないことである、というある種の傲慢さがトップにはあったのではないかと推測されます。これは人事制度に関わる問題であると考えられます。第3に、これは単なる推測に過ぎませんが、現場と経営陣の対立が国鉄分割民営化以後に発生し、それが現場に対するある種の高圧的な態度を醸成したということも考えられるかと思われます。これはJR特殊的な問題のように見えますが、こうした対立やアイデンティティの問題は、クライシスを起こす組織には共通して存在する問題であると言えます。そして、これらの要因は相互に影響し合い、対立が現場を知る必要性をより排除し、現場を知らないことを正当化するためにより現場の軽視が進む、という関係が発生したとも考えられます。
ちなみに1991年の信楽高原鉄道事故においても、組織的な観点から見て今回と非常に似通った点を見ることが出来ます。同事故では、安全に対する資源配分が欠如していたために起きたと考えられています。具体的には信号機の専門家が一人も信楽高原鉄道にはいなかったということです。規範的に考えるならば、安全を最優先で考えることが行われなかったためである、というのは正しいと思います。しかし、もっと現実的に考えると、安全を確保することの困難さを知る術(つまり現場で何が起きているかを知ること)があまりになかったことが問題ではないかと思います。
確かに現場の論理だけで組織を動かすことは、部分最適という問題を引き起こしかねないので危険があるという観点は分かります。しかし、現場がきわめて複雑な環境に直面しているにもかかわらず、現場がなにをやってそれに対処しているのかを知らなければ、わずかな亀裂が入っただけで、対象の複雑性が故に巨大な問題へと一気に発展することをよく理解しなくてはならないはずです。ただ、その際にはトップに複雑な環境に直面していることを知らしめる必要があり、そのためには、何らかの形でそれをインフォームできる仕組みが必要になってくると思います。
2005年03月28日
独自ドメインへ移行しました
私宇田川元一のウェブサイトの本体を独自ドメインのアドレスに移行しましたのでご連絡いたします。
新しいアドレスは、
http://www.mku-jp.net/
です。
本当は、-jpをとったアドレスを取りたかったのですが、すでにほかの方に取得されていました。独自ドメインとレンタルサーバーにはペーパーボーイアンドコーという会社が運営しているサービス(http://www.lolipop.jp/)を利用しています。
この会社のページをごらんいただくと分かるのですが、今や独自ドメインの取得には1000円かからないし、月々の使用料もわずか300円程度なんですね。驚きました。
これからは更新頻度を上げて内容を充実させていかなければ、と思っています。
新しいアドレスは、
http://www.mku-jp.net/
です。
本当は、-jpをとったアドレスを取りたかったのですが、すでにほかの方に取得されていました。独自ドメインとレンタルサーバーにはペーパーボーイアンドコーという会社が運営しているサービス(http://www.lolipop.jp/)を利用しています。
この会社のページをごらんいただくと分かるのですが、今や独自ドメインの取得には1000円かからないし、月々の使用料もわずか300円程度なんですね。驚きました。
これからは更新頻度を上げて内容を充実させていかなければ、と思っています。
2005年02月23日
ライブドア対フジテレビ 正当性を巡る争い
ライブドアによるニッポン放送の買収がメディアを騒がせている。多くのマスメディアは、ライブドアの買収行動を「金にものをいわせた買収」「時間外取引での株式取得は、法律には違反しないが、殆どルール違反」のような論調で、日々批判を行っている。
これらの批判はある意図に基づいていることは明確であるため、テレビを見る人間はこうした放送各局による緒言説に対して、批判的にこれを見る必要があるかもしれない。
ある意図とは、端的に言えば放送業界の有する総務省による電波割り当てという既得権の保護である。この点については、既に数年前にホットワイヤード内に連載されていた池田信夫氏の記事の中で明確に指摘されているし、同氏の著作『インターネット資本主義革命』NTT出版、1999年にも指摘されている。
専門家でない私の理解で池田氏の主張をまとめると、放送はインターネットでIP(インターネットプロトコル)の上でコンテンツが流されるようになれば、旧来の総務省による電波の割り当てという形での規制が意味を成さなくなる。なぜならば、共通のプロトコルがIPであり、誰でもデータを送信することが可能となるためである。しかし、放送業界は電波割り当ての既得権の価値を保持し続けるための戦略として、BSデジタルや地上波デジタルなどの新しい技術を開発し、そこに旧来のアナログ放送と同等の割り当てという既得権を反映させることを行っているのである。勿論、そうした新技術開発や実際のインフラ整備には、国からの膨大な補助金が投入され、それらが放送局に限らず、インフラ開発業者なども含めた業界のメンバーに分配される仕組みになっていることは言うまでもないことだろう。
ライブドアの堀江氏は、昨日出演したJ-WAVE「JAM THE WORLD」内で、「インタラクティブな放送が次世代のメディアであるならば、あんな莫大な投資をするメディアをわざわざ作らずに、その金をインターネットに投資すればよかったのだ。そうすれば、そもそもそんな莫大な投資は必要ないし、同じだけ投資したらもっとものすごいメディアが出来ていたはずだ。」と述べているが、これには上記のような背景があるのである。
勿論、まだまだインターネットが旧来のテレビに変わるようなものになるためには、技術的な問題と言うよりも、むしろ、戦略的な問題が数多く存在する。どのような形態で最終消費者に配信するのか、誰がどうやってコンテンツを開発するのか、ビジネスモデルはどうするのか、等々いくらでも課題はあるだろう。しかし、何よりもこうしたインターネット化を阻む要因は、既存の放送業界の既得権保持の姿勢であるかと思われる。なにかクリステンセンのイノベーションのジレンマを彷彿とさせるような問題だが、彼らはインターネット化は既得権の喪失を意味するので、それとは異なる方向へ関心を向けようとしているのである。
既得権を保護するために無駄に税金を投入されているならば、私は既存の放送業界を支持する理由は全くない。むしろ、コストがかからずに多様なコンテンツを提供してくれる可能性を提供する側を支持したいと思う。
こうした観点から、ライブドアの主張やマスメディアのライブドアに対する反応を見ると、ある意味で極めて妥当な利害の反映を見ることができると言える。すなわち、ライブドアのニッポン放送買収は、「放送のインターネット化の問題である」とするライブドアの主張と、訳の分からない会社の卑怯な襲撃による「株式市場の混乱の問題」ないし「放送法の規制の抜け道を狙った外資の手先になった買収行動」という問題にしようとする放送局側の争いである。放送局側は、既得権を保持し続けようとする戦略的意図がみえみえであり、ライブドア側には放送業界のあり方を問題化し、買収行動を正当化させようとする狙いが見える。
結局のところ、こうした対立とはライブドアと既存の放送業界との間の戦略の正当性を巡る闘いであり、勝者はより大きな合意を形成し得た側となるだろう。堀江氏に欠如しているとたびたび指摘されるのは、こうした合意形成の能力であると言われるが、その中身とは、彼の主張が理解されるような形で世の中に訴えていく方法と技量が欠けている、ということである。特に今回は既得権と絡む問題であるため政治力も関係する問題である。また合意形成の手段であるメディア自体を握っているのが今回の買収行動の対象であるために、困難が多いのも事実だろう。勿論、それ故に彼は市場という政治が介在できないフィールドでの勝負を挑んでいるのであろうが。
彼の主張する戦略には正しい点が多い。しかし、戦略は社会的な正当性を獲得して初めて機能する。正当性とは相対的なものであり、だからこそ既得権を有する利害集団は、政治と結びつくことを通じて、自らの正当性を保とうとするのである。ある意味で、そうした合意形成活動自体も戦略なのであり、このプロセスに対し堀江氏の関心が薄いような印象も受ける。
かつてヤマト運輸が宅急便サービスを始めた際には、国との間で数多くの対立があった。しかし、消費者に質の高いサービスを提供し、また時にはメディアを利用した闘いを国に挑んだヤマト運輸は、数多くの素晴らしい価値を実現してきた。起業家が起業家たる所以は、それまでの常識や論理を根本から覆すような新しい考え方・価値観を(思いつくだけでなく)社会に実現する点にある。当然、新しい考え方には既存の価値観に基づいた人々からの大きな反発がある。しかし、それを乗り越えて初めて価値を実現することが可能になるのである。
よって、真の起業家は優れた戦略家であらねばならない。優れた戦略家は、小局で敗北しても大局で勝利することを選ぶ必要もある。果たして堀江氏は真の起業家なのだろうか。今後の彼の行動から目が離せない。
これらの批判はある意図に基づいていることは明確であるため、テレビを見る人間はこうした放送各局による緒言説に対して、批判的にこれを見る必要があるかもしれない。
ある意図とは、端的に言えば放送業界の有する総務省による電波割り当てという既得権の保護である。この点については、既に数年前にホットワイヤード内に連載されていた池田信夫氏の記事の中で明確に指摘されているし、同氏の著作『インターネット資本主義革命』NTT出版、1999年にも指摘されている。
専門家でない私の理解で池田氏の主張をまとめると、放送はインターネットでIP(インターネットプロトコル)の上でコンテンツが流されるようになれば、旧来の総務省による電波の割り当てという形での規制が意味を成さなくなる。なぜならば、共通のプロトコルがIPであり、誰でもデータを送信することが可能となるためである。しかし、放送業界は電波割り当ての既得権の価値を保持し続けるための戦略として、BSデジタルや地上波デジタルなどの新しい技術を開発し、そこに旧来のアナログ放送と同等の割り当てという既得権を反映させることを行っているのである。勿論、そうした新技術開発や実際のインフラ整備には、国からの膨大な補助金が投入され、それらが放送局に限らず、インフラ開発業者なども含めた業界のメンバーに分配される仕組みになっていることは言うまでもないことだろう。
ライブドアの堀江氏は、昨日出演したJ-WAVE「JAM THE WORLD」内で、「インタラクティブな放送が次世代のメディアであるならば、あんな莫大な投資をするメディアをわざわざ作らずに、その金をインターネットに投資すればよかったのだ。そうすれば、そもそもそんな莫大な投資は必要ないし、同じだけ投資したらもっとものすごいメディアが出来ていたはずだ。」と述べているが、これには上記のような背景があるのである。
勿論、まだまだインターネットが旧来のテレビに変わるようなものになるためには、技術的な問題と言うよりも、むしろ、戦略的な問題が数多く存在する。どのような形態で最終消費者に配信するのか、誰がどうやってコンテンツを開発するのか、ビジネスモデルはどうするのか、等々いくらでも課題はあるだろう。しかし、何よりもこうしたインターネット化を阻む要因は、既存の放送業界の既得権保持の姿勢であるかと思われる。なにかクリステンセンのイノベーションのジレンマを彷彿とさせるような問題だが、彼らはインターネット化は既得権の喪失を意味するので、それとは異なる方向へ関心を向けようとしているのである。
既得権を保護するために無駄に税金を投入されているならば、私は既存の放送業界を支持する理由は全くない。むしろ、コストがかからずに多様なコンテンツを提供してくれる可能性を提供する側を支持したいと思う。
こうした観点から、ライブドアの主張やマスメディアのライブドアに対する反応を見ると、ある意味で極めて妥当な利害の反映を見ることができると言える。すなわち、ライブドアのニッポン放送買収は、「放送のインターネット化の問題である」とするライブドアの主張と、訳の分からない会社の卑怯な襲撃による「株式市場の混乱の問題」ないし「放送法の規制の抜け道を狙った外資の手先になった買収行動」という問題にしようとする放送局側の争いである。放送局側は、既得権を保持し続けようとする戦略的意図がみえみえであり、ライブドア側には放送業界のあり方を問題化し、買収行動を正当化させようとする狙いが見える。
結局のところ、こうした対立とはライブドアと既存の放送業界との間の戦略の正当性を巡る闘いであり、勝者はより大きな合意を形成し得た側となるだろう。堀江氏に欠如しているとたびたび指摘されるのは、こうした合意形成の能力であると言われるが、その中身とは、彼の主張が理解されるような形で世の中に訴えていく方法と技量が欠けている、ということである。特に今回は既得権と絡む問題であるため政治力も関係する問題である。また合意形成の手段であるメディア自体を握っているのが今回の買収行動の対象であるために、困難が多いのも事実だろう。勿論、それ故に彼は市場という政治が介在できないフィールドでの勝負を挑んでいるのであろうが。
彼の主張する戦略には正しい点が多い。しかし、戦略は社会的な正当性を獲得して初めて機能する。正当性とは相対的なものであり、だからこそ既得権を有する利害集団は、政治と結びつくことを通じて、自らの正当性を保とうとするのである。ある意味で、そうした合意形成活動自体も戦略なのであり、このプロセスに対し堀江氏の関心が薄いような印象も受ける。
かつてヤマト運輸が宅急便サービスを始めた際には、国との間で数多くの対立があった。しかし、消費者に質の高いサービスを提供し、また時にはメディアを利用した闘いを国に挑んだヤマト運輸は、数多くの素晴らしい価値を実現してきた。起業家が起業家たる所以は、それまでの常識や論理を根本から覆すような新しい考え方・価値観を(思いつくだけでなく)社会に実現する点にある。当然、新しい考え方には既存の価値観に基づいた人々からの大きな反発がある。しかし、それを乗り越えて初めて価値を実現することが可能になるのである。
よって、真の起業家は優れた戦略家であらねばならない。優れた戦略家は、小局で敗北しても大局で勝利することを選ぶ必要もある。果たして堀江氏は真の起業家なのだろうか。今後の彼の行動から目が離せない。
2005年01月25日
偽造カードと顧客戦略
最近銀行のキャッシュカードを偽造して現金を引き出すという悪質な犯罪が数多く発生しているとの報道が多い。
報道内容によると、キャッシュカードを何らかの方法で偽造され、現金を引き出された場合や、キャッシュカード自体を盗まれた場合には、あくまで本人はカードを盗まれたにすぎず、現金を盗まれたのは銀行、ということになるそうだ。
よって、現金を引き出された当事者は、現金を盗まれたことの被害届けを出すことが出来ない。銀行にはキャッシュカードによって現金を引き出された顧客に対しても、暗証番号による認証を経ているため、盗まれた現金を返す義務はなく、現金が戻ってこない可能性が極めて高い、ということになる。これは大きな問題である。
無論、法整備上の問題もあるが、経営戦略的観点から言えば、今こそ銀行の顧客戦略が問われるときだと考えられる。
なぜ銀行が被害補償の仕組みを持っていないのか、ということを考えると、
1.今までそうした被害がなかったため、対応が追いつかない
2.顧客の現金を弁償するのは、コストがかかるため対応する必要がない
3.キャッシュカードは顧客の利便性のために作られたものであり、顧客が管理する必要がある(から、対応する必要がない)
という点が考えられる。
しかし、こうした考え方がどれも間違っているのは、言うまでもない。
顧客から見た場合、たとえ銀行がどんな理由であったとしても、キャッシュカードは便利かつ安全に現金を引き出せるための道具なのである。
従って、顧客の立場に立ったカード利用をまず第一に考えるべきは当然であり、そのためにコストがかかるとはいえ、そのコストは最優先で負担すべきである。或いは、顧客に月額いくら、のような形で新たな顧客サービスを打ち出すこともできるだろう。
逆に言えば、今のような業界のマインドセットの中では、いち早くこの被害に対応し補償する仕組みを作ることは、顧客を集めるチャンスであると言える。当然の事ながら、こうした問題が社会問題となってきている現在、顧客の関心は、自分のカードや現金は大丈夫なのか?という点に向いてくる。
つまり、関心が向いているということは、それが銀行を選ぶ上での問題(選択基準)であると顧客が認識しているということを意味するのであり、その点にソリューションを提供することができるのである。こうした機会というのはそうそうないものである。ある意味で、マーケティング的に顧客の問題関心を引きつける努力をしなくてもよい状況にあるのであり、従って大きなチャンスなのである。
恐らく、銀行は業界として補償の仕組みをつくる、というようなことを考えているのではないだろうか。しかし、もし私が銀行の経営者であったならば、いち早く独自に対応して、その仕組みを他の同業者にも使わせることで利用料をとることを考える。仮に利用料がとれなくても、その仕組みを作った最初の銀行が自社であることを少なくとも訴求するだろう。要は、そうしたことに関心と努力を向けるかどうかは、その銀行の戦略上の問題なのである。
今後の展開から、日本の銀行がいかなるものか、見極めていくことが可能である。
報道内容によると、キャッシュカードを何らかの方法で偽造され、現金を引き出された場合や、キャッシュカード自体を盗まれた場合には、あくまで本人はカードを盗まれたにすぎず、現金を盗まれたのは銀行、ということになるそうだ。
よって、現金を引き出された当事者は、現金を盗まれたことの被害届けを出すことが出来ない。銀行にはキャッシュカードによって現金を引き出された顧客に対しても、暗証番号による認証を経ているため、盗まれた現金を返す義務はなく、現金が戻ってこない可能性が極めて高い、ということになる。これは大きな問題である。
無論、法整備上の問題もあるが、経営戦略的観点から言えば、今こそ銀行の顧客戦略が問われるときだと考えられる。
なぜ銀行が被害補償の仕組みを持っていないのか、ということを考えると、
1.今までそうした被害がなかったため、対応が追いつかない
2.顧客の現金を弁償するのは、コストがかかるため対応する必要がない
3.キャッシュカードは顧客の利便性のために作られたものであり、顧客が管理する必要がある(から、対応する必要がない)
という点が考えられる。
しかし、こうした考え方がどれも間違っているのは、言うまでもない。
顧客から見た場合、たとえ銀行がどんな理由であったとしても、キャッシュカードは便利かつ安全に現金を引き出せるための道具なのである。
従って、顧客の立場に立ったカード利用をまず第一に考えるべきは当然であり、そのためにコストがかかるとはいえ、そのコストは最優先で負担すべきである。或いは、顧客に月額いくら、のような形で新たな顧客サービスを打ち出すこともできるだろう。
逆に言えば、今のような業界のマインドセットの中では、いち早くこの被害に対応し補償する仕組みを作ることは、顧客を集めるチャンスであると言える。当然の事ながら、こうした問題が社会問題となってきている現在、顧客の関心は、自分のカードや現金は大丈夫なのか?という点に向いてくる。
つまり、関心が向いているということは、それが銀行を選ぶ上での問題(選択基準)であると顧客が認識しているということを意味するのであり、その点にソリューションを提供することができるのである。こうした機会というのはそうそうないものである。ある意味で、マーケティング的に顧客の問題関心を引きつける努力をしなくてもよい状況にあるのであり、従って大きなチャンスなのである。
恐らく、銀行は業界として補償の仕組みをつくる、というようなことを考えているのではないだろうか。しかし、もし私が銀行の経営者であったならば、いち早く独自に対応して、その仕組みを他の同業者にも使わせることで利用料をとることを考える。仮に利用料がとれなくても、その仕組みを作った最初の銀行が自社であることを少なくとも訴求するだろう。要は、そうしたことに関心と努力を向けるかどうかは、その銀行の戦略上の問題なのである。
今後の展開から、日本の銀行がいかなるものか、見極めていくことが可能である。
2005年01月20日
論文をアップデートしました
ウェブサイト本体のプロフィールページに掲載してある論文をアップデートしました。
経営戦略学会刊行の学会誌『経営戦略研究』No.3に掲載が決まっている拙著の論文「戦略論研究におけるパースペクティブ分化に関する考察:戦略論研究の課題と新たな方向性」です。
PDFファイルでご用意しておりますので、よろしければこちらをクリックしてご覧下さい。
経営戦略学会刊行の学会誌『経営戦略研究』No.3に掲載が決まっている拙著の論文「戦略論研究におけるパースペクティブ分化に関する考察:戦略論研究の課題と新たな方向性」です。
PDFファイルでご用意しておりますので、よろしければこちらをクリックしてご覧下さい。
2005年01月06日
論文作成
今年は生活全般が落ち着きを取り戻してくれる年であると信じているが、そのタイミングを活かして、研究に打ち込みたいと考えている。
今年は、論文を沢山書いてみたいと思っている。
その中で、密かにスタートしたのは、元の同僚との共同研究計画である。是非形にしたいと考えている。
他にも、理論研究で2本くらい書けるネタを考えついた。後は書いてしまうだけ。
ちゃんと書き始めてしまえば、あとはできあがるのは案外楽だったりする。問題は、そういう方向へ自分をモティベートする過程か。
博士論文も今年は書き始めないと。色々やりたいことが出てきているので、そう思えるときに少しでもやっつけておきたいと思う。よし、やるぞ。
今年は、論文を沢山書いてみたいと思っている。
その中で、密かにスタートしたのは、元の同僚との共同研究計画である。是非形にしたいと考えている。
他にも、理論研究で2本くらい書けるネタを考えついた。後は書いてしまうだけ。
ちゃんと書き始めてしまえば、あとはできあがるのは案外楽だったりする。問題は、そういう方向へ自分をモティベートする過程か。
博士論文も今年は書き始めないと。色々やりたいことが出てきているので、そう思えるときに少しでもやっつけておきたいと思う。よし、やるぞ。
2005年01月04日
人生を楽しむこと
2005年である。
2004年は、自分の人生において大きな転機であった。時に失うことは得ることであることを知る一年であった。
今年、と言っても時間は連続しているので、今、思うことは、人生を楽しむこと、である。
人生を楽しむこととはどういうことか?
人生が何であるかについて、今は答えを持たないが、少なくとも人は常に時間の連続の中にいる。
時間の連続の中であるが、私たちがその時に何があったかを知ったその瞬間には、既にその時間は過去のものとなっていく。
この、死を迎えるまで、常に生まれ、そして去っていく時間の中において、最も近い過去、すなわち「今」を感じることである。
今私の指先に感じる感触、今耳に聞こえる音、今食べているものの味。
今を感じるためには、未来にとらわれない心を持つことであろう。
未来から見て今がある、と考えることは時に「目的意識」と表現される。
しかし、私たちは目的を達成すれば次の目的をまた見つけて行くであろう。
つまり、強い目的意識は、時に今を感じることを拒むのである。
であるからこそ、今を感じることに意識を向けたいのだ。
閉じた未来の世界の中における今ではなく、今の中にある今を感じたい。
それこそが、人生を楽しむことであると思う。
2004年は、自分の人生において大きな転機であった。時に失うことは得ることであることを知る一年であった。
今年、と言っても時間は連続しているので、今、思うことは、人生を楽しむこと、である。
人生を楽しむこととはどういうことか?
人生が何であるかについて、今は答えを持たないが、少なくとも人は常に時間の連続の中にいる。
時間の連続の中であるが、私たちがその時に何があったかを知ったその瞬間には、既にその時間は過去のものとなっていく。
この、死を迎えるまで、常に生まれ、そして去っていく時間の中において、最も近い過去、すなわち「今」を感じることである。
今私の指先に感じる感触、今耳に聞こえる音、今食べているものの味。
今を感じるためには、未来にとらわれない心を持つことであろう。
未来から見て今がある、と考えることは時に「目的意識」と表現される。
しかし、私たちは目的を達成すれば次の目的をまた見つけて行くであろう。
つまり、強い目的意識は、時に今を感じることを拒むのである。
であるからこそ、今を感じることに意識を向けたいのだ。
閉じた未来の世界の中における今ではなく、今の中にある今を感じたい。
それこそが、人生を楽しむことであると思う。