あけましておめでとうございます!年末12月29日に東海テレビで、昨季限りで引退した浅尾のドキュメンタリーを放送してくれてました。プロ12年間の振り返りや、特に後半の故障と闘う姿は見応え十分でした。




(12月、ナゴヤドーム)
中日ドラゴンズの本拠地・ナゴヤドームのブルペン。

浅尾「あそこの椅子に、だいたいみんなグローブを置いてるので。これ今は土を掘り返してるんですけど、こちら側(打席から見て右)のブルペンでキャッチボールから始めて」

浅尾拓也(34歳)。今シーズン限りでユニフォームを脱いだ。

浅尾「こっち(ブルペン)にいる方が緊張しますね。試合のときは別にそんなに緊張はしてないんですけど、出番が来るまでがすごくドキドキしてるって感じですね」

ブルペンに来るのは引退試合を行った9月以来。中継ぎ投手として、長い時間をここで過ごしてきた。

浅尾は中継ぎ投手として史上初のシーズンMVPを獲得するなど、その功績はファンの記憶に刻まれてきた。

男性ファン「ドラゴンズの希望というか、スターというか」

男性ファン「抑えてくれるところですかね、どこでも」

女性ファン「史上最強のセットアッパー」

その後、度重なるケガに悩み苦しんだ。くじけそうになる思いを堪え、何度も這い上がった。野球人生をかけた勝負の登板。

浅尾「きょうで最後かもしれないから悔いのない投球をしようと」

栄光と挫折を味わったプロ野球生活12年。浅尾を支えた思い、そして感謝とは。


(12月1日、岡山県)
今月1日、岡山県で子供たちに野球を教える浅尾の姿があった。浅尾自身も小学生のころ、プロを目指すきっかけとなった野球教室。今回依頼を受け快く受け入れた。(※確か浅尾のお父様は岡山の方でしたっけ)

(マイクでご挨拶)
浅尾「申し訳ないですが、このあとちょっと名古屋の方で予定があるので、僕はここで失礼させていただきます」

今年プロ12年で現役を引退。12月は野球教室や講演会に引っ張りだこだ。

(移動のタクシー車中)
記者「けっこうバタバタですね。途中で切り上げて」
浅尾「はい、このあと名古屋でイベントがあって」
記者「12月のスケジュールは?」
浅尾「そうですねぇ、けっこう入ってますね」

引退して迎えた初めてのオフシーズン。かつて絶対的セットアッパーと言われた男の声を、多くのファンが心待ちにしている。


浅尾は2006年、地元・愛知の日本福祉大学から大学・社会人ドラフト3位でドラゴンズに入団した。

(入団会見)
浅尾「中学までみんなと同じように軟式とかやってきたんで、そういう子たちでも入れるっていうこと、で活躍できるってことを証明できるような選手になりたいです」

ルーキーイヤーは先発投手として4勝を挙げると、2009年には先発投手の栄誉である開幕投手を務めた。このシーズンの途中から試合の終盤に登板する中継ぎ・セットアッパーへと転向。

躍動感のある投球フォームから投げるストレートは最速157キロ、140キロ台の高速フォークでいとも簡単に三振を奪っていった。8回・浅尾から9回・岩瀬へとつなぐ黄金リレーはプロ野球12球団で最強と言われた。

岩瀬「頼もしすぎるぐらい頼もしいですよね、やっぱり。逆にあんな簡単に3人で帰ってこられると、こっちがキツいなって思いましたし」

さらに、その実力に加え整った顔立ち。モデル顔負けのルックスは雑誌で特集が組まれるほど。ドラゴンズファンにとどまらず、プロ野球界で1、2を争う人気選手となった。

2010年には日本記録の47ホールドで最優秀中継ぎ投手賞を獲得。2011年には自身の球団記録を更新する79試合に登板しホームランはゼロ。防御率0.41という驚異的な数字を残した。

荒木「打たれる感じがしなかったですよね、みんなタイミングが合わないし」

谷繁「正直ですねぇ、あれほど首を振られたピッチャーいないんですよ僕は。だからやっぱりそれだけ自分で考えて投げてるんだろうって。このボールで抑えていくんだ、このボールでカウントを取るっていうね、そういうことをある程度組み立ててるんだろうなと」

自分が思ったら、大先輩の要求にも平気で首を振る頑固さ。それを通せる圧倒的な実力があった。

(2011年)
この年、シーズンMVPを獲得。中継ぎ投手が受賞するのは史上初めてのことだった。それほど浅尾の活躍は際立っていた。しかし同時に、これが苦しみの始まりでもあった。2009年から3年間で実に218試合というハイペースでの登板。その代償はあまりにも大きかった。


2012年。シーズン途中に右肩のケガで離脱。その後も肩、そしてヒジのケガに苦しむ。満足にボールが投げられない日々。少しよくなったかと思うと振り出しに戻る、その繰り返し。

浅尾「野球がほぼ生活の半分を占める中で、実際野球すらできてない状況で。何やってるんだろうとか常にイライラしちゃったりだとか、自分の気持ちを抑えるのに精一杯でした」

痛みは消えても恐怖心で腕が振れない。か倍ながら投げ続けた結果、投球フォームを崩した。ようやく1軍復帰を果たしたが、自信があったストレートが簡単に打ち返された。

時を同じくして、チームでは若手投手が台頭。浅尾が投げていたセットアッパーのポジションは奪われていた。

そんなとき、切れそうな思いをつなぎ止めていたのは同い年、吉見一起の存在だった。2008年から5年連続のふたケタ勝利を飾ったチームのエース。浅尾とともにドラゴンズ黄金期を支えてきた。

(焼き肉店?にて)
浅尾「吉見が投げるときは、まず勝ってくれるだろうな。常に準備していようかなっていうのもありますし、僕が連投してて、『オレがひとりで投げるわ』って言ったら投げるし。エースだなって思ってましたよね、ずっと」
吉見「7回ぐらいに森(繁和)さんが『どうや?』って来て、僕はもう浅尾に投げてもらった方が(勝てる)確率が高いんで、『浅尾でお願いします』っていうのを何回も言いましたよ、あのときは」

リーグ連覇にはふたりの信頼関係が欠かせなかった。そんな吉見もケガで苦しむ。このころ、浅尾とともに2軍で過ごしていた。

浅尾「自分が悩んでることに対して、『こうなっとるんちゃうん?』みたいな感じで言ってくれるんで、助かるとかじゃないんですけど、すごいなって、人のことよく見てるなって思いましたね。ランニングにしても負けたくないとか、そうやって奮い立たせてくれる存在ではありました、ずっと」

(焼き肉店)
吉見「お互い(1軍に)戻って、何て言ったらいいかなぁ、やっぱりふたりがいた方がいいなって思われるような活躍はしたいなって思いますね」
浅尾「お互いいい意味で競い合って、そうすれば絶対チームは強くなると思います。だから(吉見に)負けないように、とりあえず頑張ります」


吉見さんに限らず、浅尾さんはこれまでも人の出会いで成長してきました。1984年、愛知県知多市に生まれた浅尾さん。小学1年生のころ、近所の友だちに誘われて野球を始めました。小学生のときに在籍したつつじが丘ドリームズ元監督、伊藤元久さん。

伊藤さん「足も速かったと思うし、肩も強かったし、小学校の6年生までは『10』番つけてエースだった。まとめ役っていうかキャプテンやってたんで、そのキャプテンも『タクちゃんだったらいいよね』っていう感じだから、みんなから頼られてたんだろうね」

小学校の卒業文集に書いた夢は『プロ野球選手』でした。とはいえ高校は野球では無名の常滑北高校に進学。野球部にこそ入部しますが、同級生が遊んでいる姿がうらやましく、退部を考えます。そんな浅尾さんを引き留めたのが当時の野球部監督、谷奥伸治さんでした。

浅尾「『お前から野球を取ったら心配だし、もうちょっと頑張ってみないか』っていうことを話していただきましたね」

谷奥さんのその言葉で野球を辞めずに続けることにしました。

浅尾「こうやってプロ野球選手になれて、そこであきらめなかったことに関してはホントによかったなと思いますね。ホントに感謝してますね」

3年生のとき、それまで守っていた保守から投手へ転向。誰かに教えてもらうこともなく、自分で投球技術を身につけました。

大学は当時、愛知大学野球リーグ3部の日本福祉大学へ。浅尾さんは毎年、恩師に会いに母校を訪れます。日本福祉大学・野球部総監督、成田経秋さん。

成田監督「後にも先にも身体能力は浅尾に勝る者はいないですね。足が速いとかそういうことよりも、まず基本的にバネがすごいなっていうのを感じましたね。たぶん本人は気づいてなかったと思いますけど(笑)」
浅尾「(苦笑)いやぁ、そういうのはあまり考えたことなかったですね」

高校まで本格的なトレーニングを積んでこなかった浅尾さん。成田さんの指導で才能が一気に開花します。下半身を中心としたトレーニングで球速は130キロから150キロまで伸びました。

成田監督「2年生の終わりぐらいからかな?」
浅尾「はい、そうですね」
成田監督「スカウトが見に来るようになってですね、たぶんそこまでは半信半疑でずっとやってたと思うんですね。自分の能力っていうのに気づいてなくてですね、そこからたぶんスイッチが入って、人の何倍も練習したと思います」

全く無縁だと思い込んでいたプロ野球の世界。それが身近に感じられたことで道が開けました。

浅尾「すごく厳しかったので、その厳しさの中で今になってやっと分かることも多いですし、歳を重ねるごとに『あ、成田さんが言ってたのはこういうことだったんだな』っていう、今はそれが自然に感じられるようになって、成田さんはさすがだなと思いましたけどね」

浅尾「すいません、ありがとうございました」
成田監督「頑張って」
浅尾「ありがとうございます」

決してエリートではない道を歩んできた浅尾さん。高校・大学で出会った恩師が人生を変え、今の道につながっていたのです。


(2014年11月 鳥取県)
2013年から通い始めた、鳥取県にあるトレーニング研究施設『ワールドウィング』。長年、山本昌・岩瀬が通うこの場所で、ケガをしない体づくりと、代名詞である150キロを超えるストレートを取り戻すため投球フォームの修正に取り組んだ。

(昌にフォームチェックを受ける)
「すっげぇなぁしかし(笑)」

浅尾「投げ始めがすごくスムーズになりましたし、ボールの切れだったり、軽い力で強く投げる。まだ腕も振れそうな気がしますし」

(2015年1月 グアム)
ボールを投げることに最も時間を割いた。指先の感覚を忘れたくないという思いからだった。

浅尾「こっからこっち(ヒジから指先)を走らせるために、腕を振るんじゃなくて弾くような感覚では投げてるんで」

ストレートの確かな手応え。いよいよ復活のシーズンが始まる。


(2015年開幕戦)
自身3年ぶりの開幕1軍を勝ち取ると、そこから9試合連続無失点。結果を出していた。しかし、こだわってきたストレートで空振りが取れない。球速は全盛期から10キロ近く遅い140キロ台前半にとどまった。

浅尾「ホント毎日のように『スピードが出ない出ない』って言われてたので、それがホントに悔しかったですし。肩の開きが早い、力が入り過ぎてる、それで最後のリリースのときに思いっきりボールを放せない。自分の中で考え過ぎちゃって、わけ分かんなくなっちゃったというか」

周囲はスピードボールを期待する。それに応えようとすればするほどフォームが崩れ、腕が振れなくなった。


当時の監督・谷繁「以前のボールにある程度戻れば、それは(たくさん)経験もしてますし、そういう(重要な)ところで投げてもらいたいっていうのはあったんですけど、でも正直あのボールではね、なかなか。自分も苦しいでしょうし、われわれも自信を持って送り出すっていう状態ではなかったですよね」

この年は36試合に登板したものの、自分が思い描いたような投球ができなかった。2016年は3度目の肩のケガでプロ入り後初の1軍登板はなし。2017年は1軍での登板はわずか4試合に終わった。

(18年1月)
浅尾「一昨年(16年)ぐらいから崖っぷちですよね。実際いつ辞めてもいいっていうのは。今のところ自分の心の中で悔いはないですし、それがじゃあこのまま結果残せないまま終わるのも…」

頭の中に『引退』がちらつく。

浅尾「すごいっすよね」

ギリギリのところでその気持ちに歯止めをかけたのは、偉大な先輩の存在だった。岩瀬仁紀。去年カムバック賞を受賞し、浅尾とともに最強リリーフ陣といわれた球界の鉄人だ。2015年は左ひじのケガで一度も1軍のマウンドに上がれなかったが、去年50試合に登板し見事復活を果たした。

浅尾「実際キツいと思ってたので、年齢的にも。肩、体の動きにしても。10個上の先輩がそういう賞を獲ってすごいなと思いましたし、自分ももしかしたらできるんじゃないかと思いました」

岩瀬から受けた大きな刺激。もう一度這い上がる、そう心に決めた。


かつて守護神として通算182セーブを挙げた、元ソフトバンクホークス・馬原孝浩さんのもとで自主トレを行う。

浅尾「腰だったり股関節が年々固まってきたというか、腰が回らなかったり、股関節が硬くなって動かなくなったり、最近すごくそれを感じてたので、それがいい意味で1個1個がバラバラになってきたかなって。そういう感覚はすごく去年以上に感じてますね」

もともとふたりに面識はなかったが、肩のケガで苦しんでいる浅尾の姿を見て、柔道整復師を目指す馬原さんが手を差し伸べた。

馬原さん「自分自身も肩で苦しんで、浅尾も同じような形で苦しんでるっていうのは知ってましたので、何とかもう1回、もうひと花を咲かせてあげたいなって」

度重なる肩の故障や疲労の蓄積で崩してしまった投球フォーム。馬原さんとともにその修正に取り組んだ。

(スマホ動画でフォームチェック)
馬原「自分の投げてるイメージと一致してる?」
浅尾「この形がつくれてる」
馬原「うん、何も意識せずにね」
浅尾「はい」

浅尾「右手のここ(テイクバックから腕を上げていく動作)のときに、すごく返しが早かったんで、馬原さんがいろいろ研究してくれて、『こうしたらどうだ?』っていうことでテイクバックがちっちゃくなりました」

(屋外でキャッチボール)
浅尾「馬原さん、(腕が体から)離れてないですか?大丈夫ですか?」
馬原「大丈夫だよ」

今年で34歳、年々感じる体の衰え。全盛期のようにスピードが出ないのは分かっていた。それでもストレートにこだわりたかった。目指したのはMVPを獲得した2011年のフォームだった。

馬原「体の使い方じゃないかなぁ。ひねってるかひねってないかじゃないかな」
浅尾「ひねってない?」
馬原「ひねってない。真っすぐ出てきてるから、別にこっち(腕の位置)は問題ないと思うけどね」

浅尾「それ(11年のフォーム)が一番負担が少なかったんだろうなと思いますし、新たなフォームにするっていうよりは戻すって感じですかね」

馬原「もともと浅尾は体の使い方がちっちゃい、スーパークイックができるピッチャーですから、後ろ(テイクバック)の腕の上げ方なんですけど、そこをちっちゃくすればするほどバッターからすると見づらい、タイミングが取りづらいフォームにはなるんですけど、肩をやっちゃうとそれができなくなって」

肩のケガ以降大きくなっていたテイクバックを小さく戻し、打者からボールが隠れるように腕を使う。

(馬原さんをキャッチャー役にマウンドピッチ)
浅尾「もうちょっと力を入れたらしなりが入ってくるかなっていう。テイクバックは大きくはないです」
馬原「そこから力入れられそう?」
浅尾「入れられそうです」
馬原「だったら問題ない」

浅尾「特にここ3、4年、そろそろ無理なのかなぁと思いましたし、そこで馬原さんと知り合って希望が持てたというか。投げられなかった時期のことを考えると、ちょっと進歩してるのかなと思いますけど」

あとがない浅尾にとって充実した時間となった。


(18年2月、沖縄)
沖縄春季キャンプは2年連続で2軍のキャンプ地・読谷村。馬原さんとともに目指してきた投球フォームの手応えを感じていた。さらに、球速の衰えをカバーするため小さく曲がる変化球・カットボールも習得した。

浅尾「スピードは出てないんですけど、手応え的には去年よりかはいいかなと思ってますね。ずっとフォームで悩みながら投げてたところを、ちょっとずつ対バッターで考えられてきてるかなとは思ってますね」

プロ野球、2018年シーズンが開幕。浅尾は2軍スタートとなった。コンスタントに登板を重ねることができた。球速は130キロ後半。こだわってきたストレートの割合を減らし、変化球中心の投球スタイルで結果を出し続けた。

しかし、若手投手が入れ替わるように1軍に昇格する姿を眺めながら、時間だけが過ぎていった。

(8月)
うだるような連日の暑さ。40度を超えるナゴヤ球場での生活が続く。

浅尾「痩せるでしょ」
スタッフ「こんな灼熱の中?」
浅尾「やってみ」
スタッフ「どうなの?調子」
浅尾「見たまんまやないか。どうやったら1ぐんにあがれるのコレ」

思わず愚痴をこぼすほど精神的に追い詰められていた。当時の本音を吉見にだけは打ち明けていた。

吉見「2軍では抑えてる、『次は上がるのオレかな?』って思ってても、ビックリする人が1軍に上がるっていうのを、僕は経験したことがないので、そこのつらさは分からないだろ?って言われて、あ確かにって思って。正直そのとき言葉が出なかったんですけど」

浅尾「僕だけだったんですよ、30代で、たぶん。みんなが1軍に上がってく中、自分が『行ってらっしゃい』とか、そういうのは悔しくないわけがないじゃないですか。まぁでも、やっぱりそこで自分の存在価値っていうのが低くなってるんだろうなぁっていうのはすごく感じますよね」

くじけそうになる気持ちを何度も高ぶらせ、懸命にそのときを待ち続けた。8月13日、ようやくその機会が訪れた。

浅尾「やっと、自分がどれくらいできるのかな?って感じられるんじゃないかなと思います。まだ順位が確定してない段階で呼んでもらえたのは、あきらめないでよかったのかなぁとは思いますけどね」

遂に巡ってきた今シーズン初の1軍入り。これが最後の勝負だ。


(ナゴヤドーム)
スタッフ「今の気持ちどうですか?」
浅尾「もういいって(笑)。まぁ、頑張ります」

チームはクライマックスシリーズ真っただ中。1軍で生き残るため、抑え続けることが絶対条件となる。

ファンも心待ちにしていた浅尾の今季初登板。ツーアウト満塁のピンチを招き、迎えるは強打者ロペス。今年一番の大歓声が浅尾を後押しする(結果はサードゴロ)。無失点で今シーズン初登板を終えた。

(登板後、とあるお店で)
浅尾「疲れた〜。ファンの方の声援ですかね、『オオ〜』みたいな、あんまり自分の中でそんなに体験したことがなくて、結果抑えたんですけど、自分の力だけじゃなくて、ファンの力を借りて抑えられたのかなっていうのはすごく思いますね。それだけ応援してもらってるんだなって思ったら、やっぱりうれしかったですね」

やっと1軍初登板を果たした安堵感。同時に頭の中は1軍の打者相手に自分のボールが通用したのかどうかで埋め尽くされていた。

その後も生き残りをかけた登板は続く。

浅尾「『打たれたら終わり』っていうのは常に思ってましたね。『きょうで最後かもしれないから悔いのない投球をしよう』っていうのは、ずっとやってましたね」

投げても、投げても、不安が消えることはなかった。

浅尾「実際投げてて、正直キツいなっていうのはあったので。抑えるにしても、やっぱりスピードも出てないですし。やっぱりどこかで打たれる感じだったのは自分でも分かってましたね」

(9月16日 ジャイアンツ戦)
今シーズン9度目の登板(重信、マギーに連続ヒット、失点)。

浅尾は引退することを決めた。
(小笠原投手コーチ、野本に報告?する)


(9月26日 引退会見)
浅尾「小学生のころに『プロ野球選手になりたい』って(将来の)夢で書いたのも、半分夢みたいな感じで書いてたのが、大学になって現実に近づいて、こうやって本当にプロ野球の世界に入って10年以上できたことに関しては、自分の中でも奇跡だなって思いますし、プロ野球選手になれてよかったですし、プロ野球選手になったからこそ出会えた人もいっぱいいますし。悔いは、もうホントにないですね」

もう現役への未練はない。ユニフォームを脱ぐとき、あふれ出したのは感謝の気持ちだった。

(9月29日 引退セレモニー)
浅尾「きょう引退試合の登板したときに、すごい声援で、つらかった時期が多かったんですが、ホントに野球やっててよかったなって思いました」

小田島アナ「強かったころ、常にこの光景がナゴヤドームにありました。まさに史上最強のセットアッパーでした。日本プロ野球界にその名を残してきました浅尾拓也の、きょうが最後の登板です」

あのころのように全力で腕を振った。


(入団会見)
浅尾「中学までみんなと同じように軟式やってきたんで、そういう子でも活躍できるっていうことを証明できるような選手になりたいです」

2010年 最優秀中継ぎ投手賞
2011年 セ・リーグ連覇 最優秀選手

度重なるケガに悩み苦しんだ

いつも力を与えてくれた多くのファン。支えてくれた全ての人へ。

吉見「よかったときの浅尾っていうんですかね…を思い出してしまって、『あぁ、浅尾がいなかったら今の自分ここにないな』って思うと、感情がブワッてなっちゃって」

12年間の感謝をボールに込めた。

かつての必勝リレー、岩瀬がマウンドに上がる。

岩瀬「その形でね、ずっと勝ってきたっていう思いが僕にもありますから、ちょっとそういった感情が高ぶったところもありましたけど」

(引退セレモニー)
浅尾「たくさんの監督、たくさんのコーチ、たくさんのスタッフ、本当に助けられました。家族、親戚、友人、本当につらいとき、いつも味方でいてくれました。ありがとうございます。カッコいい大好きな先輩方、心の拠り所の同級生、弟みたいにかわいい後輩たち、本当にドラゴンズの選手はすごいファンの方と一緒に闘ってると思います。たくさん応援していただきありがとうございました。これからもドラゴンズをずっと応援し続けたいと思います。ありがとうございました」

(吉見も含めた引退パーティー?にて、浅尾&野本の似顔絵と『タク12年間お疲れ様!』『ケイ10年間お疲れ様!』と書かれたケーキを前に)
野本「何かすげぇやってもらっとる。タク、(グラブのマークが)ミズノになっとるよ、ちゃんと」
浅尾「ホントだ(笑)。細かい作業をしてくれてる」


11月1日、浅尾は投手コーチとして新たなスタートを切った。これまでいろんな人に支えられて野球を続けることができた。コーチを選んだ一番の理由は『恩返し』だった。熱心にボールを受け、とにかく会話を大事にする。

浅尾「自分はホントにケガで苦しんでたので、こうやって過ごせばよかったなっていうことも、やっぱり思うことはあるんですよ。あのときにもうちょっと我慢すればよかったなとか。(選手に)グッとこらえさせるのも、自分の経験を伝えられることのひとつなのかなって思います」

全力で駆け抜けた12年。つらいことの方が多かった。けれど、それがあったから多くの人に支えられていることに気づいた。そう、次は自分が支える番だ。




モコ感想:浅尾のプロ野球人生を振り返る、見応えのあるドキュメンタリーだったと思います。また、担当スタッフと浅尾の気心の知れた感じが、素直な気持ちをすんなりと引き出せたのかなとも思いました。

今回、浅尾の入団当時の映像が出て思い出しましたが、ピアス開けてるようなチャラい大学生が、こののち球界を代表するセットアッパーになっていくとは想像もつきませんでした(笑)。人は見た目で判断しちゃあダメだということですね。

年が明けたので今季からはファームで指導にあたるということで、高校の途中までキャッチャーをやっていたことで、ピッチャーの球を直にキャッチングできるという昔取った杵柄も生かせそうでいいですね。

また自分の経験から、オーバーワークになりそうな選手のブレーキ役としても頑張ってくれそうで頼もしいです。強力なピッチャーを1軍にたくさん送り出してくれるよう期待してます。
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