今週の中京テレビ「スポーツスタジアム魂」スポスタ魂は、6月いっぱいで中日スポーツを退いた、かつての星野仙一監督の番記者、館林誠さんに密着する企画を放送してくれてました。




星野仙一と並んで写るこの男。中日スポーツ報道部部長・館林誠(60歳)。今年6月で定年退職を迎えた。記者時代は星野仙一の番記者。1年365日、晴れの日も雨の日も毎日星野に寄り添い話を聞いた。最後の記事は追悼。星野の生き様に触れ続けた。31年間、文章でドラゴンズを伝えてきた男が最後に重い口を開く。

(ナゴヤドームのベンチにて)
与田監督「悪口じゃなくて?(笑)」

矢野監督「情熱大陸??(笑)」

退職を祝う慰労会。星野に対する思いがあふれる。

館林「泣きながら原稿書いたのは初めてのこと」


6月29日、ナゴヤドーム。翌日の退職を前に挨拶に訪れた。新聞社の社員としてグラウンドに足を踏み入れるのは、この日が最後となる。31年感の思い出が甦る。

ドラゴンズの取材を始めたのは1988年。星野が監督として初めて宙を待ったシーズンだった。ここ数年は現場から退き、紙面の責任者を務めていた。今もドラゴンズから目を離す日はない。

与田監督は入団当初から取材。星野政権を支えたストッパーに対しては、ある思い出があった。

館林「オレがドラ番になって初めて一面書かせてもらったのが…」
与田「僕でした?ほ〜」
館林「覚えてない?」
与田「いやいやいや。悪口じゃなくて?(笑)」

1年目に31セーブを挙げた与田の2年目を不安視する記事だった。

与田「もう30年近く月日が流れてね。まぁこれからゆっくりできるじゃないですか。歳を重ねて、またいろんな話をしましょう。よろしくお願いします」

そしてもうひとり。

矢野「カメラなんか(引き連れて)どうしたんですか?」
館林「カメラ?オレの最後撮ってくれとるんですよ」
矢野「ええ?すごいっすね。テレビに流れるんですか?」

星野のもと、ドラゴンズとタイガースでプレーした矢野監督とは付き合いが長くなった。

矢野「こんな形で会うとは夢にも思わなかったですけど」
館林「逆に阪神に行ってからの方が、星野さんの関係もあってさ、話す機会も多かった。ホントお世話になりました」
矢野「いえいえ!お世話になりました。これからじゃないですか。わざわざすいません、お偉いさんに来てもらって」


この日、館林の慰労会が行われた。この会を催したのは、入団当初からの付き合いとなるこのふたり(立浪和義、井上一樹)。引退後も食事を重ね、今も親交が厚いという。

(以前放送)
星野仙一「ドラゴンズ寂しいんだよ。お前ら(立浪と井上)がユニフォーム着なきゃダメだよ」

言わずと知れた『星野イズム』の継承者。ふたりに対する館林の思いも深い。

(慰労会)
井上「ということで、館さんお疲れ様でした!」(乾杯)
立浪「館林さん今おいくつですか?60?」
館林「60」
立浪「60歳、新たな挑戦」
館林「こんなメンバーでやってもらうとさ、涙出そうやわ」

館林は若かりしときの立浪の言葉を今でも覚えていた。

館林「タッちゃん初めて取材したときに、『天才は』というような言い方したんやわ。そしたら『僕そう言われるの一番嫌なんです』って(立浪&井上笑)。『天才って努力してないみたいじゃないですか』。天才が努力するからこういうことになる」
立浪「そんなことあったかなぁ、でもなぁ」
井上「いやあるでしょう(笑)」
立浪「あんまり記憶にないのと、これオレのコーナーちゃうからね!」(一同笑)

話はやはり“あの人”の思い出に。

立浪「星野さんはホント(館林さんのことが)好きですもんね」
井上「『館林ー!』ってすぐ呼んでたじゃないですか」

館林と星野の関係の深さを物語る、記者としての宝を見せてくれた。星野の言葉を書き留めた5冊のノート。

(中スポのデスクにて)
館林「星野さんが『オレが言うことを、お前ちゃんとメモしとけよ。館林、オレはえぇこと言うやろ』と言われて」

5年間で1800日以上、そこには星野の全てがあった。

優勝した翌年の1月には星野流の指導論が書かれていた。

愛情、理論、多少の恐怖心。3つがあればチームを育てていける。


主力に成長した選手への愛情も綴られていた。
山本(昌)、立浪、ガキのころから知ってる。だからガミガミ言える。アイツらにとっても幸せ。


館林「あの人って、何て言うかな、言葉に非常に力がある人で、どんどん言葉が湧いてくる人だったよね」


今だから話せるこんな話も。

(慰労会にて)
館林「『ピッチャー宮越事件』って知ってる?」

宮越(徹)とは2000年にプロ初登板を果たした中継ぎ投手。事件が起きたのは、当時の左のエース・野口茂樹が先発したカープ戦(9月12日)。序盤から大きくリードしていたが、突如野口が打ち込まれ、遂にベンチが動く。

館林「監督がカリカリして、加藤安さん(安雄コーチ)に『オイ!次誰や!!』。加藤さんがブルペンに電話して『誰や?』。電話を取った宮越が『宮越です』って言うたの」

ブルペンの電話に出た宮越は『はい、宮越です』と答えたため、コーチは中継ぎを『宮越』と伝えてしまった。そして、投球練習もしていない宮越がマウンドへ。その結果は…逆転ホームラン。宮越は打者ひとりで交代、試合にも負けた。

井上「『誰や?』って言ったら『宮越です』って言うわな、そりゃなぁ」
立浪「『誰が準備してるんだ?』って聞かなアカンわな。それ星野さん、後々気がついたんですか?」
館林「『きのう何で宮越だったんですか?』って聞いたら、『いやアレなぁ、笑い話やわ』」(一同笑)

そして、密接な星野との付き合いに終止符が。星野は名古屋を離れ大阪に。さらに仙台。徐々にふたりの距離は遠ざかっていった。そして、あの日の話に。

館林「夜中の3時ごろに、スポーツ新聞のネット(ニュース)でアップされて、それであちこちから電話がかかってきて。もう寝れぇへんじゃん。何か夢見とるのかなって、一瞬な」

思いもよらぬ突然の訃報。館林が一面を書くことになった。『夢をありがとう 仙さん』。館林のメッセージだった。

(紙面より)
よく怒られた。「二度と来るな!」と三くだり半を突きつけられたこともある。仕事のことで愚痴をこぼしたこともある。泣き言を言ったこともある。

そのたびに耳を傾け、最後は「おまえがしっかりせんでどうするんだ」と叱咤激励された。

そして最後に…。
とうとう、弱音を聞けぬまま…。監督、寂しいです。悲しいです。悔しすぎますよ。

…と、記事は締められた。

(慰労会)
館林「一面書くなんて20年ぶりぐらいじゃん。こんなに書けるかなとは思ったよ。ナンボでも書けた。でも、(訃報が)あまりにも急じゃん。全く考えもせんかった」
立浪「でも(星野さん)本人は分かってたんですもんね。一切そういうそぶり出さへんもんなぁ」
館林「最後までいろんな人のこと心配してな。強いってうかさ。正直言って…泣きながら原稿書いたのは初めてだわな」

ふたりの間には記者と監督以上の深い絆があった。

(花束贈呈)
立浪「ドラゴンズ職員の立場で、また頑張ってください」
井上「お疲れ様でした」




モコ感想:記者は選手に連れ、選手は記者に連れ、という感じなんですかね。ここで語りきれない(語れない!?)エピソードもたくさんあるんでしょうね〜。

館林さんが手掛けた星野さんの訃報の記事、僕も読みました。かつて番記者だった館林さんでも、訃報を知ったのが結局他紙のネットニュースがだったというのに驚きましたが、それほど寝耳に水のことだったんでしょうね。

しかしながら、懐かしい名前を聞きました「宮越事件」は笑うに笑えない失敗談だったんですね。星野監督もカリカリ来ちゃってて、まさに「短気は損気」を地でいくエピソードです。しかしそんなこともあってか、宮越徹さんは今もイーグルスのスタッフとして活躍しているようなので、宮越さん自身にとっては災い転じて福となす、ということなんですかねぇ。

ところで館林さんは今後、ドラゴンズ球団職員になられるそうで、そちらでも辣腕を振るってもらいたいです。
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