この春に小学3年生になった長女が
まだ可愛らしかった幼児の頃に、
浜錦を見て
「パパ、この金魚さん、お顔にお尻が乗ってるよ。」
と言った。
名言。
この「お顔にお尻」こそが
なるほど!理想的な浜錦といえる。
養魚場で浜錦を選ぶ金魚仲間たちも
皆一様に「頭が二つにくっきり割れた奴」を
血眼にいなって探していたし、
飼育書などで巻頭カラーページに掲載される浜錦も
例外なく「お顔にお尻」な浜錦だ。
そういう観点から見ると、
現在我が家で飼育中の2匹の浜錦は
理想的な「お尻」には少し足りていない気もするが
飼育法の工夫で見事な「お顔にお尻」を完成させることが
できるのだろうか?
その辺りも詳しくは分からない。
らんちゅうのコブを出させる方法は
高タンパクの餌を与えるなど、
一般的に「こうすれば良い」という方法が
いくつか知られているが、
浜錦の「お顔のお尻」を発達させる方法は基より、
それ以前に浜錦のコブのルーツである水泡眼の
あのほっぺたの袋を発達させるための方法も
私はあまり見聞きした覚えがない。
それにしても、
自然界で魚として生存していくうえで、
浜錦のコブや水泡眼の袋などは
恐らく100%無意味な器官ではないだろうか?
金魚という文化はこのあたりが面白い。
例えば犬のダックスフンドの足を短くしたのは
穴の中に潜って獲物を捕獲するためだし、
牛のホルスタインの乳を異常発達させた動機は
より多くの牛乳を生産するためだったように
自然界の生き物を人間の都合に合わせて「作る」際は
少なくとも人間にとっての利益または利便性の追求が
その根本的な動機となるはずだ。
金魚の場合、
元々はフナの突然変異で生まれた
赤色の魚に観賞価値を見出したことが始まりとされる。
そこから琉金型の金魚などが作られて、
更にらんちゅうなどの品種が作られたあたりまでは
人間が生来持っている美意識というか
芸術的欲求の追求の果てに作られたであろうことは
ある程度想像することができる。
しかし、
金魚の頭にケツを乗せることに
いったいどれだけのニーズがあったのか???
いったい何人の人が真剣に
「金魚の顔の上にケツを乗せたい!」と切望したのか?
そしてこの金魚は初めてこの形になった時
いったい何人の人が真剣に
「よ〜し、ついに頭にケツの乗った金魚が完成したぞ!」
と狂喜したのか?
そんなことを考えながら、
気が付いたら頭にケツを乗せられて、
サラリーマンの家の小さな水槽で泳がされている
我が家の浜錦を見ていると
なんだか面白いというというか、
見方によっては滑稽なこの金魚を愛しむ気持ちが
腹の底から湧いてくる。
自身の生存には多分必要のないケツ型のコブを
人間の娯楽のために載せられた浜錦にしてみれば
「なんで俺がケツ乗せなきゃなんね〜の?」
って感じに違いないが、
この愛らしい金魚の飼い主として自分は
「君が頭に載せたそのケツ型コブを俺は愛している!」
と声を大にして言っておこう。
水槽を眺めながら、
こうした意味のない思索の時間もまた至福の時なり。
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