I駅前にネットカフェがある。とりあえずはそこに行くことにした。児童保護施設には翌朝、電話するつもりだ。すぐに受け容れて貰えるかどうかは判らないが、こんな中途半端な時間に電話しても、埒があかないだろう。
 愛奈は二つ折りの携帯電話を開いた。このメタリックピンクの携帯は実は拓人に与えられたものだ。待ち受けの時間は午後七時半を指している。特に残業や接待がなければ、そろそろ拓人が帰ってくる時間だ。
 愛奈がいないことを知った彼はどうするだろうか。探すだろうか。怒り狂うのか。反町君に告白しようと思う―ただそれだけを告げたのに、拓人は反町君の父親に解雇同然の処分を下し、遠い北海道に追放した。
 そのことで、愛奈は拓人の怖ろしさを初めて知った。借金を肩代わりしてまで側に置こうとした愛奈が逃げ出したと知れば、腹を立てるに違いない。考えただけで、背筋が寒くなるほどの恐怖を憶えずにはいられない。
 これだけはどうしても置いていくわけにはいかなかった。色々と必要だといのがいちばんの理由だが、画像フォルダの中には反町君と別れ際、二人で撮影したツーショットの写真も入っている。二人きりで撮影した最初で最後の写真なのだ。
 幸運にもこのネットカフェは二十四時間営業だから、誰にも咎められずに翌朝までは過ごせる。
 モノトーンダイヤが並んだ床が広がる大きな空間に無数の仕切りが立てられている。その仕切り一つ一つに小さな個別スペースがあり、簡易デスクとチェアが備え付けられてあった。
 デスクにはデスクトップパソコンが一台ずつ常備されている。もちろんインターネットに繋ぐこともできるし、使い方は自由自在だ。デスクは大きく取られた窓に面しており、窓の向こうには狭いながらグリーンの配置された人工の庭まで見えるという凝った趣向である。
 共用スペースにはドリンクコーナーまである。コーヒーや紅茶、ジュースがいつでも飲み放題というサービスも嬉しかった。
―ひらきたくと、ひらきたくと。
 愛奈は自分でも知らぬ中に、キーボードを叩いていた。気がつけば、パソコンの画面には〝ひらきたくと〟の名前だけがそれこそ無数に数え切れないほど並んでいる。
 私ったら、何をしてるのかしら。
 愛奈は小さく首を振り、再びケータイを開いた。画像フォルダを開き、今日、撮ったばかりの反町君との写真を出してみる。そこには微笑んで寄り沿い合う二人の姿があった。恐らく愛奈にとっては永遠の宝物になるはずだ。
―私は反町君を好きなのに、どうして、考えるのは拓人さんのことばかりなの―。
 と、愛奈の足許―デスクの下に置いた小さなバスケットの中でか細い啼き声が聞こえた。愛奈は慌ててしゃがみ込んで、バスケットを開く。真っ黒な子猫が顔を覗かせた。
「シーィ。静かにしないと追い出されちゃうからね」
 基本的にペット同伴はお断りの店内である。盲導犬のような場合は認められているが、子猫は絶対に無理だろう。昨夜、公園から連れ帰った子猫は〝エメ〟と名付けてミルクやキャットフードを与えて大切に世話していた。瞳の色がエメラルドとゴールドだから、エメである。安易な名付けだと子猫に恨まれそうだ。
 愛奈はエメの頭をよしよしと撫でて、可哀想なので蓋は閉めずにそのままにしておいた。咽が渇いたので共用スペースに行って冷たい紅茶を紙コップに注いだ。
 室内はあまり冷房が効いていないようで、じっとしていても汗が浮いてくる。額に滲んだ汗を手のひらで拭った時、背後で声がした。
「愛奈」
 その優しすぎるほどの呼びかけに、愛奈は華奢な身体を震わせた。
「随分と探したぞ、帰ろう」
 拓人に手首を掴まれ、愛奈は振り向いた。
「放してください」
「愛奈―」
 拓人が哀しげに自分を見ていた。悪いことをしたのは拓人の方なのに、何故か愛奈が彼を苛めているような気になってくる。
「拓人さんは卑怯よ、反町君のお父さんにまで手を出して、勝手に私の知らないところで転勤なんかさせたりして」
「何故、お前がそれを知っている?」
 この時、拓人の静かすぎる表情が初めて動いた。
 愛奈はそのわずかな変化に気づかず、思わず叫んでいた。
「反町君から聞いたの! そのせいで、彼はもう大学にも行けなくなったのよ」
 拓人の切れ長の双眸がスウと細められた。
「お前はあいつに逢ったのか? あの男はもう学校には二度と出てこられないようにしてやったはずだが」
「―酷い」
 愛奈は非難と軽蔑をこめたまなざしで拓人を睨んだ。
「転校するまでにまだ日にちがあるのに、反町君が学校に来なくなってしまったのは拓人さんが裏で手を回したからなのね」
 愛奈は信じられない想いで叫んだ。
「何でそこまでするの?」
 だが、会話はそこで途切れた。拓人がいきなり愛奈を抱き上げたからだ。
「何をするの!? いや」
 まるで荷物のように肩に担ぎ上げられた愛奈は悲痛な叫びを上げた。
 店内にはかなりの数の客がいたが、むろん、この騒動に皆がちらちらと好奇の視線を送っている。
「お客さま、店内での揉め事は困ります」
 騒ぎを聞きつけた店員が駆け寄ってくるも、どこからともなく現れた黒服の背の高い男がさっと店員に近寄り何事か耳打ちした。
 雰囲気としてはボディガードといった感じで、均整の取れた身体を黒服の上下に包み、サングラスをかけている。その男が店員に何かを囁き一万円札を数枚渡すのを愛奈は確かに見た。
「卑怯者、こんなところまでお金で片を付けるのね」
 涙が滲んだ。信じていた優しい従兄、いつも温かなまなざしをくれた年上の男。その真実の姿がこれだったとは。自分は一体、拓人の何を見ていたのだろう。
 金を握らされた途端、店員は大人しくなった。見て見ぬふりを決め込むのだ。客たちも騒動に巻き込まれては叶わないと誰も愛奈を助けてくれようとする者はいない。ただ遠巻きになりゆきを見守っているだけだ。
 結局、愛奈は泣き叫びながら拓人に連れ去られてしまった。ミャー、ニャーとエメがしきりに啼いている。小さな子猫だけが拓人に抱えて連れ去られようとする愛奈を助けるつもりなのか、果敢に拓人の足許に寄っていたけれど―。黒服のボディガードにその度に邪険に追い払われてしまった。
 拓人に担がれた愛奈の耳にエメの哀しげな啼き声が遠く聞こえた。