駅近くの駐車場には見憶えのある高級車が停めてあった。拓人が通勤用に使っている黒の国産車である。拓人はその車に愛奈を放り込み、自分もすかさず隣に乗り込んだ。例の黒服ボディガードが運転席に乗り込み、車はすぐに発進する。
「どちらに行かれますか」
「鳳彩に行く」
「畏まりました」
 短いやりとりの後、車が発進する。高級車は深いぬばたまの闇の中をすべるように走った。時間にしてはどれほどのものだったのか、長いようにも短いようにも思えた。
 車が停車したのは、どこかの地下駐車場らしかった。先に車から降りた拓人に愛奈は再び横抱きにされる。
「一人で歩くから、降ろして」
 懇願しても無駄なことだった。拓人に愛奈を降ろす気はまったくないのは判った。拓人に抱えられたまま愛奈は地下駐車場からエレベーターに乗った。ボディガードは付いてくる様子はない。
 二人を乗せたエレベーターは十一階を示す数字が点滅している階で止まった。拓人は愛奈を抱いて絨毯の敷き詰められた長い廊下を歩く。深紅のベルベットを思わせる絨毯を拓人に抱かれていく中に、愛奈はふと自分が花婿に抱かれてバージンロードを進む花嫁のような想いに囚われた。
―私ったら、馬鹿だわ。こんなときに何をくだらない夢みたいなことを。
 現実は花嫁と花婿どころではない。こっそりと何も告げずに逃げ出して拓人は相当怒っているだろう。しかも、反町君と逢っていたことまで愛奈は迂闊にも喋ってしまった。
 これからどんな酷い目に遭うのか、考えただけで身体中の膚が粟立つ。
 とある部屋の前で、拓人の歩みが止まった。部屋のドアを開けて入ると、彼はそのまま中に入る。背後でカチャリと自動ロックされた音が無機質に響いた。
 愕いたことに、部屋は豪華なスイートだった。二部屋ある中の一つが洋風のリビング風でドレッサーやテーブル、ソファセットが整然と並んでいる。和洋折衷らしく、奥の寝室は畳敷で既に大きな布団が敷かれている。鮮血をイメージさせる緋色の夜具が照明を落とした中にうすぼんやりと浮かんでいる光景は何かとても淫靡な雰囲気を漂わせていた。
 枕許にあるのは行灯を模したスタンド。その唯一の光源に、何故か派手な色柄の長襦袢が掛けられているのはインテリアだろうか。
 その光景を見た刹那、愛奈は生理的な嫌悪感を感じた。何か見たくないものを見せられているような。その理由が最初は判らなかったけれど、直に思い当たった。室内の様子がいつかテレビの時代劇ドラマで見た遊廓にそっくりだったのだ。
 それは確か吉原遊廓を舞台にした花魁のドラマだったと思う。苦界と呼ばれる吉原という女の地獄で生きる女たちの愛と哀しみを描いたものだった。
 拓人が何故、こんな場所に自分を連れてきたのかは判らない。でも、何かこれが自分にとっては危険な状況を示しているのだということは愛奈にも察知できた。
「ここなら見せ物にならずに、ゆっくりと話ができる。さて、お前が何故、あの男と逢ったのか聞かせて貰おうじゃないか」
 拓人は洋風のリビングには見向きもしなかった。大股で洋間を横切り、襖を脚で開けるなり、愛奈を血色の褥に放った。
 愛奈は小刻みに身体を震わせながら言った。
「拓人さん、ここじゃなくて隣の明るい部屋で話をしたいの」
 だが、拓人はそれが聞こえなかったかのよように質問を繰り出してゆく。
「あの男は学校には行ってないはずだ。なのに、お前たちは逢った。つまりは、お前があいつを訪ねていったのか?」
「私は」
「お前は俺の婚約者なんだぞ! 将来の夫が決まった身でのこのこと他の男に逢いにいったのか」
 今日の拓人さんはおかしい。愛奈は拓人の異常さに怯えた。第一、愛奈は拓人と婚約などした憶えはないし、彼を未来の夫と認めてはいない。言っていることが支離滅裂で、事実と全然一致していない。
「私は拓人さんと婚約なんかしてないし、結婚を承諾したつもりもないのに。何でそんなことを勝手に決めるの?」
 涙が溢れて止まらなかった。
 拓人が一旦部屋から出ていった。ホッとした矢先、すぐに戻ってきた彼の手にはピンクのケータイが握られていた。拓人は愛奈を抱いていたはずだから、あのボディガードが荷物を運び込んでおいたのだろうか。
 やばい、あれを拓人に見られたら、万事休すだ。愛奈は桜色の唇を戦慄かせた。
「拓人さん、そのケータイには今度の実力テストの範囲表が入ってるの。不用意に触って画像が消えたら困るから」
 暗に触らないで欲しいと頼んだのに、彼はわざと見せつけるように愛奈の眼前で二つ折りケータイをゆっくりと開く。それをのぞき込みながら、口角がニヤリと笑みの形を象った。
「なるほど、そういうことか」
 彼は意味ありげなまなざしで愛奈を見た。
「まったく、とんだ売女だな。天使のような愛らしい顔をして男に媚を売る淫乱女か」
 拓人の美しい顔がいっそう艶を帯びて艶麗に輝く。
「この写真を見ただけで、お前が俺を裏切った証になる」
 拓人は忌々しげに呟き、ケータイを力をこめて投げつけた。一度では足りず何度も拾い上げてはたたきつける。
 愛奈は悲鳴を上げた。
「止めて、ケータイが壊れちゃう」
 反町君との想い出がなくなってしまう。
「壊れたって構うものか。また新しいのを買ってやる」
 拓人は興奮の色を秀麗な面にのぼらせ、鼻で嗤った。
「いや、ケータイだけじゃない。いけないことをしたお前にもきついお仕置きが必要だな。二度と私に隠れて悪さなどしないように躾けておかなくては」
 〝仕置き〟という禍々しい響きの言葉に、愛奈はまたも怯えた。
「お願い、乱暴はしないで」
 震えながら哀願する彼女に、拓人はいっとう優しい声色になる。
「もちろんだ、俺の可愛い愛奈に乱暴なんかするものか。うんと可愛がって、この世の極楽を見せてあげよう」
 やはり拓人は尋常ではない。愛奈はじりじりと座ったまま後退した。拓人が追うように間合いを詰めてくる。
「おいで、可愛い俺の小鳥」
 拓人の美しい顔にこれまで見たことがないほど艶やかな微笑が浮かんだ。