何て憎らしい男。愛奈の身体を欲しいままに弄び慰み者にする癖に、ふっとこんな意外な優しさを見せたりする。
「反則よ、こんなの」
 愛奈はエメのすべすべした毛並を撫でながら一人、呟く。子猫は痩せてもいないし、気の艶も良い。どう見ても、誰かがきちんと世話をしていたとしか思えない。そして、それができるのは恐らく、ただ一人。
「こんなことをされると、憎めなくなっちゃうじゃない」
 愛奈はふるふると首を振った。いいえ、騙されるものですか。こんなことくらいで、私の気持ちを無視して好き放題にしたことを許せるはずがない。
 愛奈はともすれば萎えそうになる反抗心を奮い立たせる。だが、思えば、拓人がわざわざ海外に向かう飛行機の中から電話をかけてきたのも、エメのことを知らせたいからだったに違いない。
 残酷で優しい男。昔は彼が大好きだった時期もあった。今は大嫌い。あいつが私の身体をまるで玩具のように扱うから。籠の鳥のようにここに閉じ込めるから。
 拓人を嫌いな理由は幾つでもあった。でも、心のどこかでいまだに憎みきれない、嫌いになりきれない部分があることを、愛奈はよく知っている。
 それが何故なのかは判らなかった。ここまでとことん人格を無視された扱いを受けているのに、何故―?
 早くあの男が帰ってくれば良い。唐突に浮かんだ想いに愛奈は自分でも愕いた。
 ううん、あの男が帰ってくれば良いと思ったのは、ただ今のやり場のない感情を彼にぶつけたいからだけよ。こんなもやもやした気持ちはあの男のせいなんだから、あの人に思いきり叫んでやれば、きっとすっきりするもの。
 それが単なるごまかし、自分の本当の気持ちを知ろうとしない自分への言い訳だとはこの時、まだ愛奈は気づいていなかった。

 拓人が海外出張に出てから七日が過ぎた。その間、愛奈はボディガードの運転する車に送り迎えされて、毎日、学校に通った。マンションにいるときはエメと遊んで過ごし、食事も残さず食べた。
 もちろん、断っておくが、食事をきちんと取っているのは何もあの男に言われたからではない。あの男がいなくなって執拗に夜通し責め立てられることもなくなったから、精神的にも身体も解放されて楽になった。だから、長らく感じていなかった空腹感を感じるようになっただけ。
 学校にいるときはケータイの電源は切るが、校門を出るとすぐにオンにする。
 いつケータイが鳴るかを心待ちにしている自分に気づいた時、愛奈は愕然とした。このケータイにかけてくるのは世界で一人しかいない。何で大嫌いな男からの電話を待ちわびるのか、そんな自分が自分で信じられず呆れた。
 そんなときも愛奈は適当な言い訳を考え出して自分を納得させた。これはきっと人恋しいからだと。今の愛奈の世界はこのマンションの中、彼に飼われている鳥籠の中だけなのだから、彼が愛奈の世界のすべてといっても良い。だから、きっと彼からの電話を待っているのだ。彼の声を聞きたいと思ってしまうのだ。
 だけど、その考え方は少しおかしい。今は拓人も高校へは行かせてくれている。学校に行けば親友の満奈実もいるし、他の大勢のクラスメートもいて、それなりに愉しい時間を過ごせた。だから、少なくとも今は愛奈の世界は鳥籠の中だけではないのに。
 悶々とする愛奈を嗤うように、ケータイは一度も鳴らなかった。そんなある日、拓人がいなくなって八日目のこと、明日はいよいよ拓人が帰ってくるという前日。
 実に久しぶりにケータイが鳴った。その時、愛奈はボディガードの運転する車で高校から帰宅途中だった。
―もしもし。
 嬉しげに弾んだ声で出たことに、愛奈自身は気づいていない。無言で運転するボディガードがチラリとこちらを窺っていた。基本的に彼らと愛奈が言葉を交わすことはない。彼らはあくまでも監視役としていつも少し離れた場所から愛奈を見守っているという感じだ。
 だが、当然、拓人からだと思っていた電話は実は全然違っていた。
―愛奈さまのお電話でよろしいでしょうか?
 丁重に問われ、愛奈は思わず頷いていた。
「はい、安浦愛奈ですが」
―私は拓人さまの第一秘書を務めている瀬道と申します。
 その名前なら聞いたことはある。とにかく頭の切れる男で、常に影のように社長に寄り添い、忠実無比、拓人の懐刀と目されているとか。
 でも、その秘書が何故、愛奈に電話をかけてくる必要があるのか。第一秘書ならば、拓人について現地へ赴いているはずだが。
 刹那、愛奈の胸に警鐘が鳴り響いた。拓人が電話をかけてこられないということは、彼が今、そんな状況にあるから?
 いや、幾ら何でも考えすぎだ。愛奈は自分の想いが杞憂であることを信じ、やり過ごそうとした。
―奥さまにどうしてもお伝えしなければならないことがございます。落ち着いてお聞き下さい。
 愛奈は今し方の不吉な予感が図らずも当たってしまうことを怖れた。不安のあまり、秘書が自分を〝奥さま〟と呼んだことにも頓着せず、叫ぶように言った。
「拓人さんに何かあったんですか?」
 一瞬の不穏な沈黙があり、それがこれから先、聞くであろうすべての事を物語っていた。
―本日昼過ぎ、社長の乗ったバスが大きな事故に遭いました。崖から谷底に転がり落ちて転覆、バスは炎上しました。現在のところ、死者十数名、生存者が数名とのことですが、生存者の中に日本人がいるかどうかの確認は取れていません。今も現地の警察や救助隊が必死の救助活動を続けていますが、何しろ谷底で足場が悪いものですから、難航しているようです。
「拓人さんが事故に? そんな馬鹿な」
 愛奈は呟き、身体中の力が失われてゆくのを感じた。
 何故、アークのような大企業の社長が単身で観光バスに乗っていたか? 愛奈の疑問はすぐに解消された。瀬道はこんなことを言った。
―彼(か)の国はいまだ治安も不安定で、政情も安定していません。私はむしろ拉致とかテロとか別の意味で心配したのですが、社長はどうでもお一人で行くと言われて、止めるすべはありませんでした。
 今回、拓人が赴いたのは中近東の砂漠の国だった。油田をたくさん持ち、日本へもこの国からの輸入に頼っている部分は大きい。国土そのものはけして広くはないが、いまだに王政が敷かれ、国王が絶対君主として君臨しているというやや封建的な面がある。
 現在は王政に対抗する革新勢力が台頭してきており、王政派と国内を二分する勢いである。そのため、しばしばデモが起こり、革新派と王立の軍隊が衝突するといったことが起こった。砂漠の国といっても、国土のすべてが砂漠ではなく、一部に峻厳な山脈を有している。今回、拓人が向かったのはその山頂の小さな村の一つらしい。
―社長はデザートローズを探しに行かれたのです。
―デザートローズ?
 愛奈は鸚鵡返しに訊いた。
―私も宝石にはあまり詳しくはないのですが、何でも砂漠の薔薇と呼ばれる大変稀少な宝石だそうです。ウィザード山脈のとある山上の村にはとりわけ珍しく品質の良いデザートローズを集めている収集家がいるとのことで、その人物を訪ねていかれるとおっしゃっていました。 
 そこで秘書はまた少し躊躇い、続けた。
―余計なことを奥さまのお耳に入れると後で社長からお叱りを受けるかもしれませんが、デザートローズは本来は砂漠で取れるものですから、わざわざ辺鄙な山奥まで行かれずとも、都の観光客相手の店にたくさん出ているのです。ですが、社長はこんなことを言われまして―。
 〝愛奈は俺のたった一つの宝石だ。最高の女には第一級の、世界で一番価値ある宝石を贈りたい〟
 それが秘書が現段階では社長から聞いた最後の科白となった。